この厄介な感情に、気づくべきではなかったのだと。
悔やむのは
いつだって後になってからだ。



徒花メランコリア ―1―


その日はずっと雨が降っていた。宴会だと言って隊士一同で出かけた時から降り続けていた雨は、止まることなくこの鼓膜を揺らしている。
俺は酒を飲みながらちらりと辺りを見た。
酔いつぶれた芹沢達は既に部屋を出ていた。そして取り巻き達も一緒に出て行ったので人数は半分ほどになっている。しかし久々の宴会の催しに平隊士たちは、雨の音を消さんばかりにはしゃぎ踊っている。これがいわゆるどんちゃん騒ぎということか、と俺はちびちびと酒を飲み続けていた。
淡白な性格だということは自覚している。こういう場でも一緒になって騒ぎ踊り狂うことはない。それを誰かが「冷たい」と非難して、他の誰かは「つまらない」と蔑んだ。しかし俺は抗うことなくその言葉を受け止めている。特に異論はないからだ。
そんな自分を特に変えたいとは思わない。一時は変えなければならないのか、と思い悩んだがここに来てその必要はないのだと思った。
江戸で出会い、そして都で再会した「仲間」は快く自分を受け入れてくれている。後ろ暗い背景をもった俺を特に問い詰めることもなく、壬生浪士組の一員として迎え入れてくれた。無表情で無口な自分を笑って「いやだなあ」と言って、しかし否定することはなかった。
だったら一番楽な方法で生きていこう。きっとこの場所は自分にとって永遠ではなく、この先にまた自分を変えなければならないと思い悩むまで。
そんな楽観的とも言える気持ちが芽生えたのだ。
「……」
無表情で無口、そして淡白な俺だが状況把握の機敏さが鈍いわけではない。先ほどから気になっていることがいくつかある。
(…いない)
土方、山南、原田、そして沖田が姿を消していた。芹沢が乾杯の音頭を取り、そして酔いつぶれたのを見送ると言って部屋を出て行った。それっきり彼らの姿はなく、そして残っているのは取り繕うべく笑いながらも、青ざめた顔をしている近藤。そして無邪気に平隊士らとはしゃぐ永倉と藤堂だけだ。
「…なるほど」
俺の呟きは周囲の騒がしさにかき消される。そして酒を煽った。
やはり、と思うのと同時にどうやら自分は誘われなかったようだと苦笑した。
副長だった新見錦が命を落としたのは数日前だ。公には切腹ということになっているが法度で追い詰め、腹を斬らせたというのが正しい。そしてその話を聞いたときから「始まった」のだと思った。
邪魔者の粛清。
言葉が悪いが、そう称するのが一番適している。芹沢鴨という人間は存在するだけで道を妨げる。そういう人間だということは俺自身が一番知っている。
ある意味俺が一番奴に恨みを持っているのだから、加えてもらっても良いはずなのだが、そこは土方副長の判断だったのだろう。
しかしそれよりも意外だったのは、同室の彼がそれに加わっていることだ。
芹沢は沖田のことを気に入っていた。当初は見目麗しい彼に目を付けただけのことかと思っていたが、実際はもっと別の理由があるように思う。どちらかと言えば「一緒に生きていきたい」と切望し、彼のことを羨望しているようにも見えた。そしてそんな芹沢に対して、沖田は完全な悪意を持ってはいなかった。憎いと思いつつも、失ってはいけないのだと常に希望を見出そうとしていた。
しかしその活路を完全に断ち切ったのは土方副長だった。
耐えかねたように生み出された「局中法度」は、隊の規律を維持するための法だと説明されたが、それを安直に受け入れる愚かな隊士はいなかったはずだ。
誰もが芹沢を殺すための「言い訳」だと思っただろう。
そしてそれについて沖田は一番反対していた。法度で縛ることも、そして芹沢を殺してしまうことも…彼にとっては受け入れがたい事実だったのだろう。
だが結果的に、芹沢への温情よりも勝ったのは、土方への信愛だったようだ。
「…愛している…か…」
無意識につぶやいた言葉。それは沖田が土方から告げられた台詞だという。俺からすれば当人同士気持ちは通じあっているというのに、愚だ愚だと態度を明らかにしないばかりで「今更なことを」と思ったのだが、見かねて背中を押してやることにした。
そうして、追い出したのだ。
顔を赤らめている彼を見ているのが、嫌だったから。
「斉藤さーんっ!聞きましたよ〜」
ふらふらとおぼつかない足取りで藤堂がこちらへやってきた。歳はあまり違わないのだが、頬を赤く染めて上機嫌に微笑む様子はまるで子供のようだ。
「誰か良い女でも見つけたんですかー??」
震える手で酒を注ぎつつ、彼が訊ねてくる。どうやら先ほどの「愛している」という回想を聞かれてしまったようだ。
「…まあ、そんなところ…」
否定するのも億劫で、適当な返事で交わす。すると彼は大げさに
「えーっ!どの女ですかーーーー」
と騒ぎ立て周囲の注目を集めてしまった。俺は内心ため息をつきつつ、この酔っ払いをどうするべきか頭を回転させる。
しかし雨は降り続けていた。その地面に打ち付ける音だけは、ずっと頭の中で響きつづけていた。


宴を後にしたのはそれからすぐだった。騒ぎ始めた藤堂が、(幸運なことに)まるで糸が切れたかのように眠りだしたためその場はお開きとなった。帰還は朝で良いと局長からお達しがあったので店に残って気に入った女を買う連中もいたが、俺は足早に店を後にした。
店で傘を借りて、まだ朝日の昇らない真っ暗な道を帰る。
着衣を濡らし、冷たく跳ね返る雨粒は憎いが、強く響く雨音は自分を一人にできる良い壁となった。
屯所に戻ればそこは地獄絵図になっているだろう。血の匂いが充満し、そこに息のない死体がいくつあるだろうか。そしてその身体の主が芹沢である。そんな想像ができずに俺はただ歩を進めた。
屯所に近づく頃にようやく雨が弱くなった。俺は芹沢達が使う八木邸を避けて、まずは自室のある前川邸へ向かった。張り付くような衣服が気持ち悪く感じたからだ。
前川邸の屋内は静まっている。もともとの家の主は俺たちを恐れて親戚の家に逃れたのだという。だからここにいるのは隊士以外ない。そしてどうやら宴から帰ってきた者はいないようだ。しんと静まった屋内は雨の音だけが響いていて、沈黙している。
しかし誰もいない訳ではない。
俺は傘を畳み、雨に濡れた衣服を絞り屋敷へ入った。ぎしぎしと軋む床の音がいつもよりも大きく感じられた。何故か忍び足になってしまう。そしてどうにかたどり着いた部屋の障子を遠慮なく開けた。
「…早かったですね」
俺の気配を既に察していただろう。沖田は真っ暗な部屋で正座していて、俺の顔を見ても特に動揺することなく笑顔で迎え入れた。だかその笑顔はいつものそれではない。確実に違う。
「……あんたも、早かったみたいだな」
俺は婉曲に問う。すると彼の表情が一瞬固まって、瞳が揺らいだ。しかし
「ええ。酔っちゃったんです」
と彼は笑って返事をする。それと同時にこれ以上は何も答えない、という確固たる意志を感じ、俺は問うのをやめた。障子を閉めて部屋に入る。雨に濡れた衣服を脱いで新しいものに変える。
彼はきっと殺した。芹沢という存在を自分で断ち切る選択をした。
それに後悔が無いとは言えないだろう。いつまでも自問自答し続ける。「これで良かったのか」と問いかける。答えはないのに。どこにもないのに。気が付けば顔を俯かせて、悩むことだろう。
「…濡れている」
俺は手持ちの手拭いを彼に投げつけた。衣服はずぶ濡れではないようだが、髪からはまだ雨粒が滴っていた。しかし彼は投げつけられた手拭を受け取らない。指先一つ動かそうとしない。俺はため息をつきながら彼に近づいた。投げつけた手拭いを拾って、頭を拭いてやる。兄妹もいないからこんな風に誰かの世話を焼いたことなんてない。
「ありがとう…ございます」
拭いてやったのは背後からだったため、彼の表情は見えない。しかし、先ほどのように笑ってはいなかった。
そうして彼は黙り込んだ。
先ほど止みかけた雨が、また一段と強く降り始める。騒がしい雨の音が部屋の中に流れて、鼓膜を、乱していく。
この感情は、厄介だ。
無口で無表情。淡白で冷徹。
そんな風に蔑まれることを、内心喜んでいた。そう思ってくれているのなら、必要以上に自分に干渉しないはずだからだ。人との間に一枚壁を作ることで、安堵している弱い自分を隠しておきたかったから。
なのに、この感情は何かを呼び起こす。
そんな「悪い」予感があった。
俺は手を止めた。髪を拭く手拭いを指先から離し、そしてその白い首筋に触れた。
まるで壊れそうなものに触れるようにして、俺は後ろから抱きしめる。何故そんなことをしてしまったのかわからない。そして彼もわかっていないはずだ。
彼にとっては慰めに感じるだろう。
だが、俺にとってはそうではない。
厄介だ。
厄介すぎる。
後悔とは裏腹に、塞き止める術を知らない感情が溢れてくる。
今まで知らない感情。
知りたくなかった感情。
それを、雨が流して、煩い雨音でかき消してほしい。
けれど、無口で無表情で、淡白で冷徹で…不器用な俺は、その方法を知らない。







徒花メランコリア −2−


それから数日が過ぎた。
青々とした空が見守るなか、芹沢の盛大すぎる葬式が無事に終わった。長州の賊に襲われた芹沢の無念を晴らすべくこれからも邁進する…土方副長のそんな挨拶は絵空事のように聞こえた。しかしそれに異論を唱える者ような愚かな隊士はいない。芹沢派の生き残りと揶揄された野口でさえも無言を貫いている。
そんな一見可笑しな葬式を終え、俺は喪服を脱いだ。夏の青空の元では暑苦しかったし、俺には芹沢を悼むような気持は全くなかったからだ。一刻も早く逃れたかった。
俺はふらりと隣の壬生寺へ向かった。するとこの場に似つかわしくないような子供たちの声が聞こえた。
元気に走り回る彼らはどうやら鬼ごっこをしているところらしい。だが、そこには本物の鬼が混じっている。
「あ、斉藤さーん!」
目敏く俺を見つけたらしい沖田が手を振った。子供たちの視線も一気に俺に集まってしまう。素通りするつもりだったのだが、好奇なまなざしで見つめられては仕方ない。ため息をつきながらそちらへ向かった。
「丁度ひとが足りないなって思っていたところなんです。斉藤さんも加わってください」
子供は三人。それに沖田が加わって四人。俺が加わったところであまり変わらないようなものだが、沖田は勝手に話を進めてしまう。
「さっき一番に捕まった正坊が鬼ね」
そう言うと正坊と呼ばれた少年は「うん!」と元気な返事をした。そして寺にある大きな木の幹に駆け寄って俺たちに背を向けて「いーち、にー…」と数え始める。そして逃げる俺たちは散り散りに別れた。
「斉藤さん」
「なんだ」
沖田は俺を呼ぶ。そして手招きするようにして壬生寺の裏口の方へ向かった。人気のないそこは木々が影になっていて目立たない。これでは鬼ごっこというよりもかくれんぼのほうだとは思うのだが。
「何か話があったんじゃないですか?」
と沖田が聞く。だが俺にはそんなつもりはなかったので沈黙していると
「いや、話があるのは私のほうですね」
と彼が苦笑した。
沖田とはあの日、あの夜以外話をしていない。彼は何かを口にするのが気怠そうだったし、俺も問いただすつもりは全くなかった。何かを聞いたところで「そうか」の一言だけで何も気の利いたことを返せそうにもなかった。だから
「ありがとうございました」
と沖田が微笑みながら俺にそう言ったのは、全くを持って意外だった。心当たりの全くない俺は
「何が?」
と逆に問うた。すると沖田は少し顔を赤らめつつ
「あの日…慰めてくれたじゃないですか」
そう答えられて折れた狼狽えた。
厄介でどうしようもないその感情を…この数日でどうにか沈めたつもりだった。そんなものを自覚したところで仕方ないし、報われるはずない。ただの足枷にしかならないとわかっていたからだ。
けれどそんな風に礼を言われてしまっては…「何も間違っていない」のだと勘違いしてしまう。忘れかけた感情を呼び起こしてしまう。
これ以上俺を惑わすのはやめてくれ。
俺はそんな願いから
「あんたが殺す決断するなんて意外だった」
そんな台詞で話を変えた。しかし彼の顔色が変わり、俺は話題を間違えたとすぐに思った。
芹沢を暗殺した、という暗黙の了解は隊内に既に広まっている。それを口にすればおそらく処分は免れない。しかし彼は特に気分を害した様子はなく
「斉藤さんはそう言うと思いました」
と苦笑した。
「私はきっといつかこうなることがわかっていて、でも決断できなかった。そんな弱い気持ちを…芹沢先生に見破られて、土方さんに諭されたのだと思います」
「……」
彼の顔は少し曇っていたが、しかし後悔する様子はない。
「でもどちらか一つだけを選ばなければならないと…そう思った時に、やっぱり土方さんを選んだのは間違いだったとは思わないから。…いまは、それだけです」
彼は自分が殺したのだとは口にしない。それはきっと一生墓に入るまで秘めて置くものだと決めたからなのだろう。その悲しい決断について俺はもう追及するつもりはなかった。
芹沢の死体と一緒に、まるで重なるように梅の死体が発見された。無残にも首を刎ねられたそれは鮮やかな切り口できっと沖田がやったのだろうと俺が思っている。
だとすれは、それはあまりにも重く非情な決断だったはずだ。
けれど今、彼はこんな鮮やかな青空の下でまるで童心に戻って子供と遊んでいる。それを周囲の人間は「怖い」「恐ろしい」といって侮蔑するだろう。しかしそれでも子供たちが集まってくるのは彼の爽やかさと明るさの賜物だ。
人を惹きつける、力がある。
(俺さえ…も)
惑わされている。
「みーつけた!」
すっかり鬼ごっこのことを忘れていると、鬼役だった正坊が顔を覗かせて俺たち二人を指さした。
「見つかっちゃったなあ」
先ほどまでの深刻そうな顔を一変させて沖田が答える。その表情はこの雲一つない青空と良く似ていた。


土方副長から呼び出しを受けたのはそれから数日後、ようやく隊内が落ち着きを取り戻し始めた頃だった。
沖田の荒稽古ののち、汗を流していると用件も告げられずただ「部屋に来い」と指示を受けた。そして俺が返事をするまもなく去って行ってしまった。やや強引な呼び出しだがいつものことなのでさほど気にしない。
そしてやや小奇麗になった土方の部屋に呼び出された。いつもは書物が散乱し荒れている部屋が片付いているのは、最近傍に置き始めた「小姓」のお蔭だろうか。そんなどうでもいいことを気にしながら促されるままに座ると
「話と言うのは永倉のことだ」
方が突然切り出した。
「…永倉さんですか」
永倉、というともちろん永倉新八のことだろう。てっきりもっと違う名前が出ると思っていた俺は少し拍子抜けした。それが表情に出たのだろうか、土方が「別に永倉に問題があるわけじゃねぇよ」と付け足した。
「ただ、少し注意して見ていてほしい。永倉のことだから心配はしていないが万が一のこともある」
土方の言い方からして、何か命を狙われるようなことを示唆しているようだ。俺はただは頷いた。しかし腑に落ちないこともあった。
永倉は腕の立つ剣客だ。彼の優等生じみた神道無念流は俺の無外流とは少し趣が異なるが、それでも隊内で一二を争う使い手であるし、それに頭も切れる優秀な人材だ。俺が警護に付く間でもない存在だ。それに
「なぜ、私なのでしょうか。私は確かに試衛館にお世話になりましたが、他の食客のかたほど信頼を置いてもらえるとは思っていません」
率直な感想だった。平隊士に比べたら新撰組の幹部と呼ばれる連中とは付き合いがあるが、それはほんの半年だけだ。しかも途中で自分は姿を晦ましている。剣の腕が立つだけなら、新撰組のほかに沖田もいる。一番信頼が置けるとすれば彼に任せるのが一番だと思った。
しかし土方はにやりと笑う。
「俺は自分は人を見る目だけはあると思っている。お前は信頼が置ける。それだけだ」
「…」
土方の涼やかな目元に目を奪われた。その目はまっすぐ俺を見つめている。
彼が自分に寄せる「信頼」はただの勘だというのだ。
面白い。
「わかりました」
彼が自分を信頼するというのなら、自分も彼を信頼してみよう。お互い勘だけでお互いを認める。それは駆け引きのようだが、掛けるものが大きければ大きいほどその駆け引きは面白くなるだろう。
そして例えこの勘が外れたとしても、おそらく後悔はしない。なぜだか、この上司にはそんな力を感じた。
「あともう一つ頼みがある」
「何でしょうか」
「総司のことだ」
その名前に俺はやや落ち着きを失った。厄介な感情を消し去ることにはもう慣れたが、彼の口から沖田の名が出ると変な違和感を持ってしまうからだ。
「…なんだ?」
目敏い土方が指摘する。俺は「いいえ」と否定して首を振った。土方は怪訝な顔をしつつ
「…しばらく総司の様子を報告してほしい」
「報告…とは」
そもそも同室とはいえ俺と沖田よりも、土方と沖田の方が距離が近い。関係が長い分お互いの感情の起伏もわかるはずだ。それを俺に頼む必要はない。
しかし土方は
「しばらくは総司と距離を置くだろうからな」
と曖昧に答えた。彼らしくない予測に俺は頷くこともできない。
「距離を…」
「何かあれば報告してくれ。お前に任せる」
俺はいったい何を任されたのかよくわからず、しかし土方はこれ以上話すつもりはなさそうだった。








徒花メランコリア 3


それからさらに数日が過ぎる。現金なもので芹沢の暗殺からすでに隊内のうわさは「楠小十郎」へと変わっていた。
「斉藤、総司の様子はどうなんよ?」
「何か言ってましたか?」
「いや、そういうのを斉藤君に聞くのはどうなんだ…?」
試衛館の食客三人(原田、藤堂、永倉)が好奇心丸出しで俺を問い詰めたのは、俺が「楠小十郎と副長の関係」について耳にしてすぐのことだった。
楠小十郎は芹沢暗殺前に入隊したばかりの青年だ。小柄で細身でまるで女のような物腰から、男色を好む多くの隊士に気に入られているという評判の隊士だった。土方副長の小姓となっているので実際に手を出すものはいないかったらしいが、とにかく目立つ存在だったらしい。
「それにしてもお小姓に手を出すなんて、土方さんも古風なことするよな」
「古風とか古風じゃないとかそういう問題じゃないと思うが」
原田さんの楽観的な感想に、永倉さんが顔を顰める。
今、隊内でもちきりの噂といえば、その楠小十郎が土方副長の念友になったらしいというなかなか信じがたい噂だった。楠が朝方、土方副長の部屋から出てきたということから火がついたらしく瞬く間に広がっていた。そうして土方副長が予言していた通り、沖田と土方副長が距離を置いていることがさらに噂を加速させているようだ。だが、試衛館食客からすれば「土方と沖田の仲」は周知の事実であり、まさか土方副長が楠と関係を持つということが信じられない、ということのようだ。
しかし「総司を頼む」と言われた俺から見れば、むしろ土方副長が「何を企んでいるのか」という点の方が気になる。楠との関係の真偽はともかく、それによって何を狙っているというのだろう。
想う相手を傷つけてまで。
「永倉先生!」
そんな話をしながら、食客の面々で盛り上がっているところに、新入りの隊士がやってきた。永倉さんの組下の荒木田と御倉だ。永倉さんと同門の彼らはよく懐いている。
「稽古をお願いします!」
「永倉先生の剣捌き、是非ご教授ください」
「あ、ああ。何だか照れるな…」
頭を掻くながら軽く顔を染めた永倉さんに、原田さんと藤堂さんが「大人気じゃねえかよ」と囃し立てる。それは特に違和感のない光景なのだが、「永倉に注意しろ」と命令されている身としては、その周囲が気になった。いくら同門だからといっても、永倉さんに対してあんな風に気さくな隊士はいなかった。それが悪いことではないが…気になることではある。
しかし、そのまま彼らは道場の方へ歩いていき、俺はそそくさとその場を去ることにしたのだった。


楠小十郎の一件のせいで、周囲から遠巻きにされている沖田だが、実際に特に変化はない。
「おかえりなさい」
俺が部屋に戻るといつもと変わらなく出迎えた。彼は暇そうに菓子をつついていた。
「このお菓子、壬生の子供たちに教えてもらったんですけど、甘くてでもしょっぱくって癖になっちゃうんですよ。斉藤さん一つどうですか」
「甘いならいらない」
「そう言うと思った」
そういうと彼は呑気に笑って菓子を口にした。試衛館食客たちは沖田が「落ち込んでいる」のではないかと噂していたが、まったくそんな様子はなく、むしろ違和感があるほどに彼はいつもと変わらない。
「土方さんもきっと甘いからいらないっていうんだろうなあ」
そしてその名前を出すことを厭う様子もない。楠小十郎の噂は耳に届いているはずだが、特に気にすることはないようだ。
その様子を見ながら結局は、土方副長の「過保護」ということなのだろう、と俺は理解した。何か思惑があって、土方副長は楠と関係を持っている。そしてその思惑を沖田は知っている。しかし、別の男と関係を持つということに動じない沖田でもないだろうから、その様子を逐一報告するように、という土方副長らしい過保護な命令だ。
しかし、それを俺に頼むというのは何とも酷なことだ。
(…まさかわざとか?)
それはさすがに深読みだろう、と思っていたものの俺は自然とため息をついていた。そんな俺に全く気が付く様子のない沖田が、
「斉藤さん、今日は稽古だったんですよね」
と呑気に訊ねてきた。
「あ…?ああ」
「いいなあ。今日は稽古したい気分だったんですけどねえ」
沖田がごろりと横になる。その無防備な姿に俺は目を逸らした。
「稽古したいなら稽古すればいいだろう」
「まあ、そうですけど…どうも噂の的になっちゃってるみたいだから、あることないこと詮索されるような行動はやめようかなっと」
その「らしくない」台詞に、俺は思わず沖田を見る。すると横になっていた沖田と目があった。先ほどまでの能天気な表情は少し隠れている。
「…土方さんから何か聞いてます?」
いつもは昼行灯なくせに、こういう時だけ察しのいい彼は射抜くようにこちらを見ていた。もっとも、寝転がっているので冗談半分なのだろう。
「別に」
土方副長からの命令は、基本的に他言しないことにしている。おそらく副長もその意図があるだろうし、率先して他言する趣味もない。。
すると沖田が「ふふ」と笑った。
「たぶん、土方さんは私のことよりも斉藤さんのことを信じてるんでしょうね」
「は?」
思わぬ言葉に俺は唖然とする。
「重要なことは何も教えてくれないのに、ただ信じろって押し付けるばっかりで。…あの人は、すごく勝手です」
寝転がったままの沖田は少し口を窄めて拗ねたような顔をしていた。てっきり楠のことを聞いて悲しんでいるか落胆しているかと思いきや、どうやら彼は笑顔の裏で怒っていたらしい、と俺はようやく察することができる。
(いや、むしろ不貞腐れている…か)
「副長はたぶん無駄が嫌いなんだ」
「…私に話すのは無駄ってことですか?」
拗ねていた彼の表情が少し翳った。どうやら俺の言い方が誤解を招いたようだ。
「無駄に、心配されたり悲しませたりしたくないということだと思うが」
全てを一人で解決しようとする気質が副長にはある。誰にも心配を掛けず迷惑を掛けず用意周到に…「カッコよく」立ち回る性質が副長の美点であり、しかし周囲の人間にとっては欠点になりうる性質だろう。
確かに沖田の言うように俺は土方副長の信頼を得ているようだ。しかしそれは新撰組にとって必要な任務への信頼であり、何か別の特別な信頼とは違うのだ。本当に重要なことは俺には話さない。そう、例えば芹沢暗殺のようなことを俺には託さなかったように。
そのことは重々沖田にわかっているはずだが、無意識の嫉妬で見えなくなっていたのだろうか。
沖田は少し驚いたような顔をして、しかし顔をまた曇らせた。そして小さな声で呟いた。
「…だからってこういう状況で信じろなんて……無理難題をいいますよね」
紛れもないそれが本音なのだろう。楠のことを頭ではわかっているのに、「どうして」という疑問が晴れずに、ただ「話してくれない」と嘆くことしかできない。そんな自分に嫌気がさしているのだ。
「…あんたは」
やっぱり土方副長のことが好きなのか。
そう問おうとして、しかし俺は口を閉ざした。
それを聞いたところでどうなる。どんな答えが返ってきたとしても、何の意味もないのに。
「斉藤さん…?」
俺は寝転がったままの沖田に近づいた。上から見下ろすようにしてその顔を見る。
全く、強いのか弱いのか良くわからない。顔だけは女のように優しいのに、時々凶暴な牙をむき、他にない殺意を抱くことがあるこの男は、他の誰にも似ていない。
俺は傍にある菓子を手に取る。そしてそれをそのまま沖田の口に突っ込んだ。
「んぅ?!」
想像もしなかっただろう。沖田は驚いて飛び上がるように上体を起こし、咽た。
「けふ…っ、斉藤さん、酷い…!」
「俺は甘いものは嫌いだが、甘い匂いも嫌いなんだ。さっさと食え」
「もうっ」
俺の行動を怒っていた沖田だが、次第に苦笑して「じゃあ子供たちに分けてきます」と菓子を持ち部屋を出て行った。その姿を見送って俺は指先をぺろりと舐めた。甘い菓子の味がした。
「…俺は馬鹿か」
もう何度目かわからないため息をついたものの、この身体に灯った熱が逃げることはなかった。


それから数日後。
事は、長州間者とみられる荒木田・御倉を殺害。逃亡を図った楠は切腹し、数人の者が脱走するという顛末を迎えた。土方副長が楠と関係を持っていたのは、このあぶり出しの為だったのだと、のちにまた新しい噂として広まり、ようやくこの騒動は鎮火した。







徒花メランコリア −4−


文久三年十一月。芹沢暗殺から楠ら長州間者騒動。一気に押し寄せた混乱の中でも彼は冷静に見えたが、ある時期を境に一変した。
壬生浪士の名を騙る「岩崎三郎」見つけ次第捕縛し奉行所に引き渡すように、という命令のもと、俺と沖田は巡察に向かった。
「まだ『壬生浪士』の名を騙ってるってことは、『新撰組』の名前はまだまだ広まってないんですね」
いつもはそこまで乗り気ではないくせに、沖田が何だか楽しそうに獲物を探していた。飄々と笑っている様子はいつもと変わらないのに、俺は何故だかその様子に違和感を覚えていた。
先日、宴会の席でのことだ。沖田は君菊という女を見るなりに顔を真っ青にして部屋を出て行った。そしてそのまま「体調が悪い」と言い訳して雨の中を帰って行ったのだ。てっきり何かあったのだと思い、また落ち込んでいるのかと思っていたのだが、翌日になると当の本人はまるで何もなかったかのように笑っていた。
「山南副長から知らせがあったが、間違って斬るなよ。大問題になる」
「やだなあ、私だってそれくらい覚えてますよ。大丈夫です、斬ったりしませんから」
念のための俺の忠告も、沖田があっけらかんと聞き流す。
「…そうだな、殺してしまったら土方副長に怒られるだろうしな」
「ああ…そうですね」
少しだけ総司の表情が曇った。俺としては引っ掛けの言葉だったのだが、彼はまんまと引っかかる。
(やはり、土方副長のことか…)
察しのいい自分を呪いつつ、俺はに気が付かれないようにため息をついた。おそらく君菊という芸妓と土方副長に関係があるのだろう。恋敵か何かか…とにかく、君菊と土方副長の関係は彼を落ち込ませるようなものだということだ。
まったく、またつまらないことに気が付いてしまったものだ。
「沖田先生!斉藤先生!」
そんなことを思っていると声の低い男が呼んだ。沖田の隊の松原だった。
「どうしました」
「今通り過ぎた米問屋なのですが…微かに、壬生浪士という言葉が聞こえました」
「どこです」
松原は「あそこです」と少し後方を指さした。俺が「本当か」と確認すると松原は頷いた。
「俺、昔から耳だけは良いんです。間違いないと思います」
愛嬌のある坊主頭が特徴の松原が先陣を切ってその店に向かっていく。俺は彼と顔を見合わせる。この飄々として掴めない沖田とともに敵に向かうこと…俺はそのことに少し躊躇いがあった。しかし松原を引き留める理由になるわけもなく、後をついていくことにした。店に到着すると島田を始め数名の隊士を指名し、それ以外の隊士は店を囲ませた。隊の命で斬ることはできないが、逃げられてしまっては絶好の機会を逃すことになる。
店の前にたどり着き、俺たちは耳を澄ました。
「拙者は壬生浪士岩崎三郎であると言っているだろう!」
「斬られたいのか!」
松原の言い分は正しかったようで、店の中からは恐喝するような脅し文句が聞こえた。そして何か物を壊すような激しい音や店子の悲鳴も聞こえる。雰囲気から察するにどうやら敵は一人ではないらしい。
「踏み込む。松原、先頭を行け」
俺がが指示を出すと、いつもは口だをしない彼が「待った」と止めた。
「敵は一人ではありません。私たちはこの隊服を着ているのですぐに斬りかかってくる可能性があります。松原さんの得意は柔術でしたよね」
「は、はい!」
「だったら先頭を切るのは危ない」
彼が一歩前に踏み出し、その刀身を抜いた。俺はもちろん、控えていた平隊士らが驚く。巡察で組長自ら先陣を切る、ということはあまりない。剣の立つ大物の浪人ならまだしも今回の目的は捕縛であり、斬りあいになるのはできるだけ避けたい。
それに、その目は獲物を捕らえてはなさい…そんな凶暴さを秘めていた。
「待て、あんたは俺の話を聞いていなかったのか。斬るとマズいことになる」
「わかってますよ、斉藤さんは心配性だなあ。相手は興奮していて、おそらく斬りかかってくるでしょう。だったら先に峰打ちで仕留めて置いたほうが良いでしょ。斬るなとは言われてますけど、怪我をさせるなとは言われてません」
俺の制止も彼には通じないようだ。
確かに彼の言い分は最もだ。柔術が得意な松原が踏み込むよりも、また峰打ちができない平隊士よりも、手練れの剣客が踏み込んだほうが良いのはその通りなのだ。
けれど、俺は躊躇う。
いま目の前にいる彼が、まるで人を斬らんとするくらいに殺気を帯びていたからだ。
「じゃあ、行きますよ」
俺は彼を止める術を見つけられないまま、躊躇いつつも同意した。

米問屋に踏み込むと、まず目についたのは荒らされた店内、恐れるように逃げ惑う店主、痛めつけられたであろう店子が倒れ、そして二人の浪士がいた。
「なんだ…!」
貴様ら、と続けたかったのだろうが、浅黄色の隊服を見て二人は驚いたふうにして目を丸くした。自分たちが騙っていたまさにその壬生浪士が目の前に現れたのだから驚くに違いない。そしてせっかく奪い取った金を投げ捨て、腰に帯びていた刀を抜く。
「今度からは壬生浪士じゃなくて、新撰組を騙ってもらいたいですね」
そんな呑気なことをいいつつ、彼は躊躇なく二人に斬りかかった。その速さは目にも留まらず、二人の男はきっとその姿をとらえることはできなかったでだろう。
「ぐあぁぁ!」
男のうち一人が、刀を落とし倒れこんだ。脇腹辺りを峰打ちで一閃されたようだ。
俺も続こうとしたが、如何せん店の中は狭く、もし刀を振り回せば誰かに刃先が当たってしまうような場所だった。するともう一人の男が他が斬りかかってこない、と察したようで刀の構えを解き、店の奥へと逃げていく。
「逃げたぞ!」
後方に控えていた島田が大声で叫び、持っていた笛を吹く。そうすれば店の外に控えている隊士たちにも伝わるからだ。緊迫した空気で騒然となる店内で、沖田がぽつりと
「あっちが本命かな?」
と呟いた。それは本当に無邪気で楽しそうで…しかし狂気を孕んだ語調だった。それを聞いた途端、俺は「誤った」と思った。
やはり彼は普通ではない。普通の精神状態でない彼は、きっとその気分のままにこの男たちを殺すだろう。使命の為と言い訳をして、「何となく」人を殺す。
それは、剣を使う者が一番恐れなければならないことだ。
その一線を踏み越えれば、俺たちは人斬りから本当の鬼になってしまう。
「待てっ!」
俺は叫んだ。それは逃げる男へではない。
「落ち着け…っ!」
殺気を孕んだ沖田に向かって俺は大声を上げた。しかし沖田はその足を止めることなく男を追いかける。男は悲鳴を上げながら逃げ惑い店の家具などを壊しながら彼の進路を妨害する。しかし尚も追ってくる彼の殺気に気が付いているのだろう、男はすでに混乱した状態だった。
俺は焦った。もし、殺してしまえば奉行所に引き渡すこともできない……いや、それは建前だ。
彼に、そんな状態で人殺しをさせてはならない。言いようもない後悔の渦に巻き込まれて、自滅してしまう。
しかし、俺の声は届かない。彼を止めることはできない。今の彼に必要なのは俺ではない。
「待て…っ!総司!」
俺は思わず大声を挙げて彼の名を呼んでいた。今まで一度も読んだことの無いその名前は、彼の親しい人が呼ぶ名前だ。俺の声が、あの人の声に聞こえたらならば。そうすれば止めることができるはずだ。
…すると彼はぴたりとその動きを止め
「…斉藤、さん」
と驚いたような顔をした。その表情にもう殺気はなく、むしろ先ほどの様子が夢だったかのように憑き物が落ちたような表情をしていた。
その間に男は裏口を目指し逃げて行ったが、そこには平隊士たちが何人も待ち構えている。彼らにはくれぐれも殺すなと伝えてあるので大丈夫のはずだ。
「本当に…あんたは人の話を聞いていない、加えて自分のことがわかっていない」
俺が語気を強めると、沖田は視線を下げ
「ごめんなさい…」
と謝った。俺は「勘弁してくれ」とため息をついた。
一体、俺の声は誰の声に聞こえたのだろうか。それを考えると、億劫な気持ちになった。


無事に捕縛した男を奉行所に連れて行き、一件落着となった。俺は放心状態の沖田を部屋に返して一人で報告の為、土方副長の部屋を訪れた。
「…というわけで、奉行所へ身柄を引き渡しました」
「ああ、ご苦労だったな」
副長は少し疲れたようにため息をついた。
俺は沖田の件を敢えて触れずに報告をした。彼が暴走し、斬りかけたとなればまた話が大きくなってしまう。それに、今回ばかりは報告する気にもなれなかった。
(結局…俺の存在は彼にとって、副長と同等にはならない)
それを見せつけられた気がしたからだ。
「…総司はどうだ」
しかし俺の心境を察することなく、副長が訊ねてくる。
「いえ…特に」
楠の騒動辺りに命令された「総司のことを頼む」というのは引き続き続行中の命令らしい。俺は内心嘆息しつつ、しかしそれを表情に出すような愚かなことはしなかった。
「そうか…」
副長は気のない返事をして「もういい」と俺を追い払う。俺も俺で何だか疲れていたので「失礼します」とそのまま引き下がった。
「…くそ…」
この想いはどこへやればいいのか。傍に居れば居るだけ、苦しめられるようなものだ。
なんて損な役回りだろうか。





徒花メランコリア −5−


彼から稽古の申し出を受けたとき、ちょうどムシャクシャした気分を発散できるなら、と安易に了承したものの、それは死と隣り合わせの行為だとすぐに気が付いた。
道場に鳴り響く竹刀の激しくぶつかる音。
その音一つ一つが木霊して空気を揺らし、周囲で見守る野次馬達の鼓膜を響かせる。
しかし当の本人はそんなことには気が付かず、一瞬の隙もなく打ち込んでくる。その一手一手は鋭く抉るようなものばかり。彼の手にかかれば竹刀さえも良く斬れる刀に変わるようだ。だが、そんなのんきなことを考えてばかりはいられない。
「やぁっ!」
彼が上段斜め上から竹刀を打ち付ける。それをギリギリのところで躱して、俺は身を一転させた。
先日の捕り物から数日。飄々としている彼が俺を稽古に誘ったのは、一刻ほど前だろう。しかしそれは随分前のことのような気がする。
稽古を始めるや否や、彼が『本気』で打ち込んでいることに俺は最初の一手から気が付いていた。殺気さえ感じるその迫力に蹴落とされれば怪我をする。いや、怪我で済めばまだマシだ。俺は自分の身を守るために、応戦することにした。
彼がそんな風に打ち込んでくるのには訳がある。おそらく、先日の一件の鬱憤が溜まっているのだろう。それを剣でしか表現できない彼は、その感情を俺にぶつけているのだ。子供っぽいと言えば子供っぽいが、これ以外の方法を知らないということだろう。
彼は、一言で言えば「天才」だ。この若さで近藤局長の次の座である、塾頭になったというのは、誰もが納得するだろう。彼はまだ若年でありながら、様々な「手」に対応ができる。まるでわかっていたかのように、相手の剣を受け流し読み切って、自分の思うような展開に持ち込んでしまう。その軽快でしなやかな技の繰り出しが続くのだ。
一方で、俺の剣はそれとも違う。無外流を修めた俺は、昔から師に「無駄がない」と評された。それは褒め言葉でもあり、辛辣な批判でもあった。「面白くない」という。
俺は、一歩前に踏み出して胴を狙う。しかし簡単には狙わせてくれず、むしろその隙をついてくる。……結局はその繰り返しだ。
稽古を始めてから少しずつ集まり始めた野次馬達も、そろそろ扉の向こうまで溢れてきた。上座では近藤局長と土方副長が心配そうにこちらを見ている。そのことに沖田は気が付いていないようだが。
俺は彼が足を踏み出すのと同時に自分のそれを踏み出した。これまでで一番大きな音を立ててぶつかった竹刀が、大きく撓る。そしてその剣先は同時に一瞬、お互いの面を射ていた。しかしその衝撃の強さで竹刀ごとはじけ飛んでしまった。
「ひ…引き分け!」
審判役を務めていた隊士が声を裏返しながら高らかに宣言した。二人の手から同時に竹刀が離れてしまっては、どちらにも勝敗がつけられないだろう。
そしてその宣言でそれまで観客として息をひそめて見守っていた隊士たちが一気に盛り上がった。その中で
「二人とも、素晴らしい剣技だった!」
近藤局長が健闘をたたえる。沖田は全く周囲に気が付いていなかったようで、戸惑いつつも驚いたように近藤に向き礼をした。だが、これだけ真剣に打ち合った後だというのに彼の表情は晴れなかった。そして俺の気持ちも変わらなかった。


群がる野次馬達をどうにか切り抜けて、俺はようやく一息ついた。先ほどの稽古を称賛されても説明ができないし仕方ない。あれは稽古ではなく、命を賭けた、ただの憂さ晴らしだったのだから。
汗だくになった衣服を変えようと俺は自室を目指す。するとそこには先客が居た。
「どういうつもりなんだ」
土方の副長の声を聞いた途端、俺は鬱になる。どうやら相手は沖田で、部屋で話し込んでいるようだ。
「どういうって…何のことです。斉藤さんと試合をしたことがそんなに不思議ですか?以前本気で手合せしたのは試衛館にいた頃だったから、ちょっとお互いの腕を確かめてみたいということになっただけですよ」
「だからってあそこまで本気でやらなくてもいいだろ」
「本気を出さないと、斉藤さんにやられてしまいます。土方さんだって知っているでしょう、斉藤さんは私よりも腕は上なんですよ。もし打ち込まれたりなんかしたら大けがになりかねない、きっと斉藤さんもそう思っていたはずです」
聞き耳を立てるつもりはなかったのだが、饒舌にまくしたてる沖田が珍しく、俺は立ち止まって耳を傾けてしまった。
「お前、君菊とのことを怒っているのか?」
聞き覚えのある名前に俺は反応する。
「君菊さんのことをどうして私が怒るんですか。君菊さんは…良い人だし性格もきっと土方さんに合うと思うのに」
「俺のことはいいんだよ。お前のことを言ってるんだ」
「え?」
「君菊に惚れてたんだろう?」
俺は思わず「は?」と口を滑らせそうになった。君菊という女はちらりとしか見ていないものの、沖田がそのような情を向けているようには見えなかった。それは俺でもわかる、土方副長らしくない「誤算」だ。
「えっ…と、その…」
「そのことで苛ついてたんだろう。言っておくが、君菊と俺は何の関係もないからな、ただ…」
「私には、関係ありません」
それまでの戸惑った語調を一変させ、沖田が答える。まるで怒っているように聞こえた。
「私は別に君菊さんに惚れてるとかじゃないです。ただ以前に知り合いだったというだけで…だから土方さんと君菊さんが良い関係だろうがそうじゃなかろうが私には関係ないです」
言葉だけでわかる。彼が嘘を付いていることあ。
「……じゃあ、お前、なんで俺の目を見ないんだよ」
そしてそれは土方副長にも、わかるはずだ。
「土方さん、…やめてください」
「やめてほしいなら自分で逃げろよ」
「……」
「…ん?」
部屋の外から聞こえたのは弱弱しい声だった。何を言ったのか、斉藤にはわからない。
「汗を、流してきます」
部屋の扉が開いて、沖田が出てくる。廊下に立ち尽くしていた俺と目があって沖田は咄嗟に逸らした。そして俺の横を通り抜けていく。
泣いていた。涙までは見えなかったものの、その瞳の奥には陰りがあった。
「斉藤、居たのか」
続いて部屋から出てきた副長が俺を見た。少し不機嫌そうなのは、俺が聞いていたことに気が付いたのか、望んだような沖田の返答が得られなかったからか。
「申し訳ありません。聞き耳を立てるつもりはなかったのですが」
特に隠す必要もないだろう。俺は聞いたことを否定はしなかった。すると土方副長が「別にいい」と返答する。
「お前はあいつと同室だから、大体のことはわかっているんだろう」
「……」
俺は否定も肯定もしない。
わかっている。
彼の気持ちが、どこへ向いていて、今、何を考えているのか。わかりたくないと願っても、わかってしまう。こんな風に竹刀を合わせればすぐにわかる。そして察しのいい自分を呪ってしまうほどそれは億劫なことだ。
いっそ遮断してしまえたら、楽になるものを。
そうできない。不器用な自分。
「土方副長は…どうなさりたいのですか」
「…ん?」
副長は俺の顔を見て不思議そうな表情をした。俺の質問の意図がわからなかったのか、それともそんなことを聞く俺が物珍しかったのか。…おそらくその両方だ。
「どう…か。別にどうこうしたいわけじゃねえよ」
「では、抱きたいとも思わないと」
率直な俺の質問に、今度は唖然とした顔をした。土方副長はしばらく沈黙して、しかしすぐに「ふっ」と笑った。
「お前がそんな風に言うなんて…天変地異みたいなことだな」
「…俺も人間です」
まるで無表情で無味乾燥なだけの人間だと思われても困る。表情に出すことは少なくとも、俺の感情にも起伏があるのだから。
しかし俺はこんな安易な質問をしたことをすぐに後悔した。
「だったら、お前はどうなんだよ」
いつもなら、頭のいい副長がそんな風に返してくる、なんてことはすぐに予想が付いたことなのに。
「……」
俺は沈黙する。上手い言葉が見当たらない。先ほどの言葉を撤回する術も、この場から逃れる言い訳も、そしてこの感情を表す言葉がどこにもない。
だから口からあふれ出たのは
「…抱きたいかもしれません」
という本音を漏らしつつも、曖昧に濁した言葉だった。全く俺らしくない不確かな発言だ。
しかし土方副長は「そうか」と返す。そして
「お前は本当に信頼が置けるな」
とそんな感想を述べたのだった。






徒花メランコリア −6−


それから時は流れた。燻る感情はそのままに、日々過ぎていく時間のなかでそれに目を向けることは減った。いやむしろ、無意識に向けまいと思っていたのかもしれない。
しかしそれは単純なきっかけで呼び起こされる厄介なものだ。
古参の芹沢の腹心であった野口が切腹し、年が明けて、局長と副長が仲違をする事件が勃発。それをどうにか修復した頃。
「とある筋のものから、あんたと土方副長がついに契りを結んだらしいという話も聞いた」
「…はっ…?!」
何の気なしの会話から俺が言葉を漏らしてしまう。聞いた沖田は動揺したが、それを発した俺も内心、動揺していた。
とある筋の者、と仰々しく述べたものの単なる隊内の噂に過ぎない。普段は聞き流すような噂話をまだ心の中にとどめていたのは、気にしないように努めていても、やはり気に留めていたからなのだろう。
「な、なんで知ってるんですか…っ!」
沖田は同様のあまり肯定した。「やはり」と思ったと同時に落胆したものの、冷静を装い
「それは、とある筋から」 と無関心なふりをする。しかしその必要はなかったようで
「だからとある筋って何なんですかっ って、そうじゃない。そうじゃなくて、べ、別に土方さんと、そ、そんな関係になったわけじゃ…」
と否定したので、内心安堵した。しかしその彼の動揺は全く的を得ない噂話ではない、ということなのだろう。
少しの沈黙の後、沖田が俺の隣を陣取り火鉢に手を翳し、こちらを窺うように見ながら
「…斉藤さんは、変な目で見たりしないんですか?」
と訊ねてきた。
「別に。最近流行らなくなっているけど、お触れが出ているわけでもないし」
「まあ…そう、なんですけど」
僧侶や公家で営まれ、戦国時代には武将が男色を好んでいたという話はいくつかあるが、泰平の世の中になりだんだんとその慣習は薄れて行った。幕末の今では衰退している。だが、決してなくなったわけではなく江戸の芳町しかり京都の宮川町しかり残ってはいる。
「今まで…身近にいて、家族のような友達のようなそんな人が、急にその…そういう、関係になるっていうのは…なんだか不思議で、どうしていいかわからなくて」
「男女の間だって一緒だろう」
俺のあっさりとした答えに沖田は「それはそうなんですけど」と口ごもる。
そう。きっと男が女を愛し、女が男を愛しく思うことに違いはない。けれど、一つ、決定的な違いがある。
(…覚悟が違う)
「斉藤さんは、誰かを好きになったことがありますか?」
唐突な問いに、俺は少し顔を顰めた。いっそ「お前だ」と言ってやれば少しは動揺するのだろうか。しかし沖田の問いは少し意味が違うように思えた。
「……ある…」
「そうなんですかっ?」
その答えに沖田は唖然とした。
「あんた、人をなんだと思って…」
男同士の関係を持ったことないにせよ、女に疎いわけでもない。ただ興味の順位が低いと言うだけで、無関心ではないのだ。しかし沖田はどうやら俺が女に全く触れたことの無いような初な人間だと思っていたようだ。
「いや、だって、斉藤さんって…その、いい意味で孤高っていうか誰も寄せ付けないっていうか…島原とかいってもそんなに楽しくなさそうだし、女の人と話をしているのなんて、そういえば見たこともないなあって」
そこで沖田が言葉をきって、「ん?」と首を傾げつつ。
「…もしかして、斉藤さんって、女の人が嫌いなんですか?」
「……」
俺はその台詞に黙り込んで、無表情にみかんのスジを取り続けた。
「もしかして、男の人のほうがいい……とか?」 沖田のさらなる追い打ちに俺の手が止まった。そしてゆっくりとした仕草で沖田の目を見る。軽く睨み付けつつ次の言葉を考えた。
この感情をぶつけることができるなら、そのほうがまだ簡単だ。玉砕するにしても、いつか昇華されるだろう。
しかしこの言葉を口にすれば、おそらく彼は彷徨うことになるだろう。ただでさえ色々なことに気を回し、答えを探し続けているというのに俺の存在が彼を困らせる。それは嫌だ。歩み続けている道を逸らさせたいわけじゃない。彼が認めつつある感情を否定したいわけじゃない。
だから言葉を飲み込んで、いつか消えてなくなるのを待つしかないと覚悟を決めたのに。
傍に居れば掻き乱される。
この咲いても仕方ない花は、いつになったら枯れてくれるのだろうか。
「…えーっと…?」
何か下手なことを言ってしまったらしい、と思ってのか沖田は困惑した顔をしていた。
「たとえば」
「はい?」
「たとえば、あんたが好きだっていったら、どうする」
このくらいの意地悪は許してもらえるだろう。きっとあの人のことで頭がいっぱいになっているだろうが、そこに少しだけでも俺が入る隙間があってもいいはずだ。
「冗談…ですよね?」
もちろん、冗談に決まっている。
…そんな風に濁してしまえば良いと、頭ではわかっているのにどうしても口にできない。彼がどう答えるのだろうか、と甘い期待を抱いているのも本心だったからだ。そしてきっぱり拒絶してくれれば……と思った。そうすればまた俺の中の何かが救われると思ったからだ。
しかし彼は残酷なことに
「まあ…その、割と、悪くない、かも?」
と、俺の質問に対して肯定してしまった。「悪くない」なんて曖昧な言葉を聞きたかったわけではない。むしろそんな言葉は余計な邪推を誘う。
苛立った俺は
「じゃあ、俺があんたを土方さんと取り合って、裸にひん剥いて抱いても文句はない、と」
と訊ねる。するとようやく彼は少し焦ったようだ。
「はっ?!」
「そういう意味で聞いている」
俺がそう説明すると、彼はようやく真剣な面差しに変わり逡巡した。そして
「それはちょっと…違うような」
と、曖昧ではあったが否定した。俺はどこかで安堵して、どこかで落胆する。
「だったら、簡単に受け入れるな」
冷たく言い放った俺を、沖田は不思議そうに見ている。特に堪えた様子も無いところを見るとどうやら俺の意図は伝わらなかったようだ。
いや…それでいい。
咲いても無駄な花は、誰にも見つかることなく枯れればいい。


それからは沖田と距離を置くように努めた。
とはいっても同室である以上、毎日毎晩顔を合わせるのには違いない。しかし非番の時、もしくは夜番の時、日中はできるだけ外出することを心掛けた。そうすることで逃げたわけではない。ただ、おそらく時間以外が解決することはないだろうと思っていたからだ。
しかし厄介な感情は、どうやら厄介な出来事を引き起こすらしい。
「あ」
ぶらりと飲みに出かけたところで鉢合わせしたのは、小奇麗な身形の若い侍だった。俺の顔を見るなりまじまじと見つめてきたのだ。俺が怪訝な表情で見つめ返すと
「思い出した」
と手を合わせた。笑顔が爽やかな青年だ。確かに記憶の片隅にはある姿ではある。
「斉藤さん、ですよね。新撰組の」
「ああ…」
新撰組と知っていながらその余裕の態度は、ただ者ではない。俺は警戒したが、その人懐っこい笑顔は邪気が無いものだった。
「そうか。試衛館に通い始めたときとすれ違いだったんですよね」
「試衛館…」
「伊庭と言います」
にっこりと笑って彼が名乗った時、ようやく理解した。彼は伊庭八郎。心形刀流の御曹司で、試衛館にゆかりのある人物だ。先日、屯所にも顔を出し沖田と試合をした男でもある。剣術には興味があったものの、よくよく考えれば伊庭という男の顔をよく見ていなかった俺は、まったく気が付かなかった。
「沖田さんから聞いています。斉藤さんも素晴らしい剣の腕を持っているって。沖田さんが褒めることなんて珍しいから良く覚えています」
「そうでしたか…」
伊庭という男は人見知りしないようだ。ほぼ初対面だというのに愛想がいい。しかし、俺は全く逆の性格で人付き合いということを面倒に思ってしまう人間だ。早めに会話をきりあげようとしたのだが
「どちらへ行かれるのですか?」
と訊ねてきて、内心ため息をついた。ただの顔見知り程度なら捨て置いても構わないが、相手は幕臣だ。無視するわけにもいかない。
「飲みに…」
「あ、ちょうどいい。俺も今から飲みたいなあって思っていたんです。斉藤さん、付き合ってくださいよ」
その邪気のない笑顔に、俺はすべてをあきらめる。
何故か、ともに常連の居酒屋へ足を延ばすことになってしまった。




徒花メランコリア −7−


伊庭八郎という男は、もしかしたら偶然を装って俺に声をかけてここまで連れてきたんじゃないか。
俺がそう勘ぐってしまうほど、頭の回転が早く察しのいい男だった。
「あ、酒、おかわりー」
伊庭はつまみを持ってきた女中に笑顔で注文する。若い女中は目を合わせると途端に頬を赤く染めて去っていった。
結局、彼とやってきたのは出会った場所にほど近い居酒屋。俺は普段、人の流行らない店で静かに干渉されることなく飲むのが好きなので、こんな人の多い居酒屋はめったに来なかったし、落ち着かない。
「こういう居酒屋はあんまり好きじゃなかったですか」
…まるで心のなかをのぞかれているようだ。表情に出やすい性格ではないはずだが、彼はそんな風に問いかけてくる。俺は思わず凝視してしまった。
「……それで、何か用でも?」
彼といると居心地が悪い。そしてその居心地に悪さを彼も感じているだろう。早く場を切り上げようとしたのだが、彼は邪気のない笑顔を向けた。
「用はありませんけど、興味があって」
「興味?」
「ええ、興味」
そして今度は伊庭が俺を凝視し、俺は目を逸らした。あからさまだったが、伊庭は気にする風もなく
「あの土方さんが、沖田さんと同室を許す相手に興味がわくのは当然じゃないですか」
と訊ねてきた。
「…当然ではないだろう」
「でも沖田さんと同室ってなかなか勇気があると思いますよ」
「それはどういう意味だ」
「それは言うまでもなく」
…飄々としていながら、話の核心には触れず、しかし食い下がる。無口な俺の会話の相手としては厄介な部類だ。彼の誘いに乗ってしまったことを後悔した。
「別に…俺は誰と同室だろうと一緒だ」
沖田でなくても、誰でもきっと自分の時間の遣い方を貫くだろう。しかし、伊庭は納得してくれず手を振る。
「違いますよ。斉藤さんがどうして沖田さんと同室なのか、じゃなくて、斉藤さんが沖田さんと同室であることを土方さんがどうして許したのかっていうことですよ」
「…」
彼と同室、ということは壬生浪士組の時から決まっていた。そして芹沢が暗殺されたのち八木邸へ移り住んだが、特に部屋割りに変更はなかった。だから伊庭のようにそこに意味があるなんて、勘ぐりもしなかった。
…いや、むしろ伊庭の方が考えすぎだ。しかし俺は何故か彼の話に付き合ってしまう。
「…そんなのは成り行きだ」
「土方さんへの過度な忠誠心があるわけでもないし、かといって簡単に服従する様な性格でもないでしょう。それとも何か別の目的でも?」
俺を勝手に分析するな、と言ってやりたいのは山々だったが、おそらく俺よりも口が立つであろう彼に何を言っても無駄だ。黙っているのが得策だろう。俺は目の前の酒をちびちびと口に含んだ。
「それとも、土方さんに似てるからかな」
「…似てる?」
つい先ほどまでの俺の策は、伊庭のその言葉で露と消えて行った。似ている?あの、土方副長と?
俺の反応に満足したのか、伊庭が「ふふ」と笑う。
「別に顔とか声とかではないですよ。あなたは土方さんよりもよっぽど冷静だし、大人だと思います。けれどある部分だけが土方さんに似ているような気がします」
「勿体ぶるな」
回りくどいのは好きではない。俺が軽く睨み付けるが、彼は飄々と告げる。
「でも斉藤さん、これを言うと怒るんじゃないかと思いますけど」
「…別に」
別に怒ったりはしない。何を言われたとしてもほぼ初対面の相手に怒鳴りつけるようなことにはならないはずだ。
俺が先を促すと伊庭はまた少し沈黙して
「沖田さんへの接し方」
「……」
俺は絶句する。この男は何を知っているというのだろう。俺とは少しすれ違った程度で顔も覚えていないほどだ。この居酒屋に来て一刻も経っていない。それなのに何を見抜いたというのか。
俺が余りにも唖然としていたのを、また彼は察したようだ。
「ああ、詳しくは知らないんですよ。つまり、俺のあなたに対する印象って全て沖田さん経由なわけで」
「印象…」
「つまり、沖田さんからあなたの話を聞いて抱いた印象が土方さんに似ている、ということです。だから沖田さんにとってあなたと土方さんが似てるっていうことじゃないですか」
似ている。最近よく聞くが、その言葉が決して俺にとって嬉しいとは思えないものであることに間違いない。似ているということは既に比べられた存在だということだ。
しかし伊庭は明るく続けた。
「沖田さんは貴方のことを剣の良くできる、年下だけど兄みたいな人だって言っていました。あの人にとって兄弟に例えるっていうのは別格だと思うんですよ。俺は良く知らないですが、幼い頃に家族と離れて試衛館に来て、近藤先生は師匠だったから、兄弟と言える存在は土方さんだけだったと聞いています。だからその同列に居る斉藤さんっていう存在が気になるのは、昔馴染みとして当然だと思うんですよね」
「……」
兄弟、という言葉が沖田にとって褒め言葉なのだとしたら、以前の俺は喜んだだろうか。しかし今の俺にとってはそうではない。
あの男を弟だとは思えない。世話を焼きたいわけでもないし、可愛がりたいわけでもない。そしてその位置が土方副長と一緒というだけで不快になってしまう。これほどまでに誰かと一緒ということを悔やみ、こんなにも厄介な感情を呼び起こすなんて。だったら、この想いに気づかないでいられた方がどれだけ楽か。
嫌われてしまった方がまだ良いとさえ思える。
俺が沈黙したところで、先ほど頼んだ酒を持って女中がやってきた。恭しく伊庭の前に置き、去っていく。俺はその酒を奪った。
「あ」
伊庭が驚くよりも前に、俺はその酒を一気飲みする。喉が一気に焼ける。
「…今度」
「え?」
「今度立ち会えよ」
くらくらと頭が揺れながら、俺は伊庭に勝負を申し込む。
俺がひた隠してきたこの感情に、油を注いだのはきっとこの男だ。だとしたら、やられてばかりはいられない。
「…良いですよ」
すると目の前の男はにやりと笑って、酒を頼むべくまた女中を呼んだのだった。



「わあ。斉藤さん、お酒くさー!」
夜になる頃、八木邸に戻り、自室の障子を開くと同室の沖田が声を上げた。普段酒を飲まない彼がそう言うのだから、よっぽど匂うらしい。
「…煩い、少し黙っててくれ」
俺は冷たく言い放つ。
あれから、伊庭と飲み続けた。俺はほとんど彼の話(京へ上ってきてからの旅行談)を聞くだけだったが、片手間に飲んでいた酒は進んだ。普段は少しずつ飲む酒を一気に煽ったこともあり、久々に『酔う』という感覚を味わった。
「斉藤さんが酔うなんて珍しいですねえ。誰かご一緒だったんですか」
「…」
問われたものの名前を上げる気になれず、俺は取りあえず刀を外す。そして沖田が用意してくれた寝床に横になった。着替えもせずに横になるなど、いつもの俺なら考えらえない行動だが、久々に飲みすぎた酒は身体中の力を奪っていた。
「いっぱい飲んだんですね。非番だから良かったですけど」
ほとんど倒れこんだ、という風体の俺に沖田が掛布団を準備する。そして俺の顔を覗き込みつつ
「でもお酒は飲みすぎないのが斉藤さんの美徳だと思っていました。何か嫌なことでもあったんですか?」
嫌なこと?
ああ、あったさ。年も変わらない男にお節介を焼かれた。
一生隠していくと決めたこの感情を、無駄に呼び起こされた。
「…寝る」
俺は沖田の言葉を無視した。だが、沖田が特に気分を害した様子はない。
「顔色悪いですよ。本当に大丈夫ですか」
まるで子供の世話をするように俺の顔を覗き込み、額に手を当てる。俺はぼんやりと目を開けた。目が合う距離が、今までで一番近い。
俺は少しだけぼやけた視界のなかで、手探りにそのほっそりとした顎に触れた。まるで女のように頼りない。肌の感触もまるで白魚のようだ。
そして沖田が離れてしまう前に引き寄せた。
「…んっ」
重なる体温。
それはたった一瞬だった。しかし俺にとっては長い一瞬だった。
「…斉藤さ…」
名前を呼ばれる前に、俺は逃げるように目を閉じた。
これは酒に酔った俺が間違えてしまっただけだ。寝ぼけていただけだ。沖田にそう思わせるために。

ただ、咲いて散るだけの花ならば。
せめて咲いているときだけでも凛としていよう。
ただ、咲いて枯れるを待つだけならば。
せめて咲いているときだけでも美しくいよう。
そして、無駄に咲いた徒花。
その花弁は、どこへ散るのだろうか。







徒花メランコリア −8−


「斉藤さん」
支度が進む中、沖田が声をかけてきた。
「土方さんのこと、よろしくお願いします」
彼は改まった風にして、丁寧に頭を下げる。顔は穏やかに笑っているもののその目は深刻だった。
町が祇園祭で浮かれる中、新撰組は祇園町会所へ集まっていた。桝屋の捕縛から半日。夕刻から待ち続けた会津藩の援護は得られないと判断し、新撰組はついに単独で探索へ向かうこととなった。浅黄色の羽織に身を包み、待ちわびた戦場へ向かう。俺たちは人数が少ない精鋭が集まる近藤局長とそれ以外の土方副長という二組に分けられた。てっきり沖田は土方副長の組下に入るかと思いきや、近藤局長の組下となった。そして俺が土方副長の組下となる。
沖田は俺が土方副長の組下であることに少しは安堵しているようだが、
「よろしくできるものか」
と、俺は即座に否定した。
ただでさえ、副長の組下は俺と原田くらいしかいない。腕が立っても夏の暑さにやられて寝込んでいる者もいて、とても頼りになる組下ばかりとはいえない。そんな彼らに助力するだけでも精一杯な道筋になりそうなのに、土方副長の手綱を取るような真似は無理に等しい。
「あ…はは、そうですよね」
彼は少し同情したように笑った。しかし少し緊張しているのかその笑い方はぎこちない。最近顔色も優れないようだ。俺は「仕方ない」と言って頷いた。
「できることはする。あんたも、近藤局長を守れ」
「はい、もちろんです」
即答したその返事には今までにない決意を感じた。

あの夜、伊庭と飲んだあとの出来事を沖田は何も語ろうとはしなかった。
それはきっと俺に気を遣って自身で抱え込んでいる…というわけではなく、俺のもくろみ通り「酔い」のせいにしたからだろう。犬にかまれたようなものだ、ともう忘れてしまったのかもしれない。それくらい彼の態度は自然だった。
俺はそのことについて何の不満もなかった。
むしろあの口付けをした時点で、すでにこの恋は終わったように思った。元々報われないと自覚していたものが、まるで成仏したような。そんな安らかな気持ちになったのだ。
すると、不思議なことに彼の一挙一動に戸惑うことはなくなった。気持ちから距離を置くことで、元通りになったのかもしれない。
祇園町会所を出た俺たちは二手に分かれる。精鋭班の背中を見送って、俺たちも出立した。

コンチキチン
コンチキチン
祇園祭の祭囃子が聞こえる。毎年のことなのに、何故か浮世離れして聞こえた。いや、むしろ浮世離れしているのはこちらなのだ。
陽が暮れたとはいえ、日中の蒸し暑さと人混みで滴る汗が止まらない。最初は平静に歩いていた探索も、次第に足早になっていく。それは土方副長が急いているからだ。
祇園町会所を出たときは余裕があるように見えた土方副長だが、その顔色は一軒また一軒と改めていく店を経るごとに青ざめて行った。副長が何を考えているのか手に取るようにわかった。
こっちは外れたのか。
こっちが当たるはずだろう。
根拠のない勘に違いないだろうが、副長はきっとこちらが当たるはずだと思ったのだろう。たとえ剣の腕が足りないとしても人数が居ればある程度持つ。その間に、精鋭班が駆けつければ良い。土方副長なりの考えだったのだ。
しかしその逆だと窮地に追い込まれる。いくら腕が立つとはいえ、少ない人数ではどうなってもおかしくはない。
あの前川邸の蔵で追い詰められていった桝屋…もとい古高は、極限まで追い詰められた。精神的肉体的苦痛に耐えきれずついに口を割ったとき、俺自身もその内容は「これは真実なのだろうか」と疑ったものの、古高の様子からは疑いようもないことを感じ取った。
『丹虎におそらく仲間は集まる』
古高はそう言った。土方副長は他の一切に漏らすことはなく、一緒に拷問の現場に居た俺にも口止めをした。
『斉藤、黙って俺の指示に従え』
いつにもなく命令口調で指示を受けて、俺は頷いた。しかしその瞬間に既に、土方副長が『丹虎』を受け持つのだろうという予感はあった。人数を土方副長に、精鋭を近藤局長にというのは後付けの言い訳に過ぎない。土方副長は最初から、精鋭班…つまり、近藤局長らを守ろうとした。
…そんなことを彼らが知ったら激怒するだろう。けれど、俺はその判断が間違っているとは思わない。
もし副長の組下が全滅したとしても、近藤局長が助かれば新撰組はまだまだ続いていく。屯所に戻れば知識人の山南副長もいる。再起の道はある。
しかし、その逆はないのだ。精鋭班が全滅するようなことがあれば…おそらく新撰組は崩壊する。
(…そう考えれば、俺と原田は捨て駒か)
やや自虐的になりながら俺は表情に出すことなく苦笑する。
原田は平隊士からの人望も厚い、いわゆる兄貴分だ。腕の立たない隊士たちを纏めるべくこちらに入ったのだろう。
だとしたら俺は、おそらく共犯者だ。
「土方副長」
祭囃子の音に急かされるように焦る土方副長に俺は声をかけた。
「…なんだ」
不機嫌そうに返答した彼は、眉間に皺が寄っている。
「一つお尋ねしたいことがあります」
「…こんな時に話す内容か?」
もしそうでないようなら断る。
土方副長はそう言いたげだった。
「この先に死ぬという結末があるとすれば、聞いておきたいことではあります」
「…お前らしくない遠回しな言い方だな」
土方副長が少し口角を上げた。どうやら少し緊張が解かれたようだ。俺は話を切り出した。こんな時に話す内容ではない。
「先日、伊庭…さんに飲みに誘われまして」
「伊庭?」
俺の口から予期しない名前が出て、さすがの副長も驚いたようだ。「あいつめ」と憎々しく舌を打つ。
「…で、お前に迷惑をかけたのか」
「いえ。迷惑というわけではありませんが。何故、俺が沖田さんと同室なのだろうかと問われました」
「あ?」
副長は訝しく俺を見る。
「むしろ何故土方副長が許したのか、という点について話題になり、そのあたりについて回答をいただければと」
「あの野郎…」
土方副長は苦々しくつぶやいた。怒りの矛先はどうやら俺ではなく伊庭のようだ。
「まあ、俺も気になることではあったんですが」
伊庭を庇うつもりはなかったものの、俺はそう付け足す。すると土方副長の表情は少し変わった。
「お前はわかっているもんだと思ってたぜ」
副長の足がさらに速くなる。鍛錬の足りない者は置いて行かれそうだ。しかし俺はどうにか食らいついて副長の隣を歩く。
「お前が、総司のことを好きだからだよ」
「……」
封印して、霧散して、消えて言った感情を呼び覚まされる。ある意味恋敵と言える副長に言われたその台詞が思った以上に重いものだった。
「…嫌がらせですか」
俺は自分の不機嫌を隠さずに副長に問うた。しかし副長は介することなく「そうかもな」と肯定した。
「俺はあいつを全部支配して、自分だけのものにしたいと思うこともあるが、その反面大切であれば大切であるほど、自分から離す性があるようだ」
「はあ…」
それはまるで精鋭班を遠ざけたように?
「それがあいつを傷つけることもあるかもしれねえ。だから、ずっと手に入らねえ、手に入らねえってもがいているほうがいい。だからお前の傍に置いてる」
「……」
それはつまり
「まえにも言っただろう、『お前は本当に信頼がおける』って」
当て馬っていうことじゃないのか。
にやりと笑った土方副長。先ほどまでの焦りは消えて行ってしまったかのように顔が晴れやかだ。俺は意図しないところで、『土方さんをよろしく』という彼の願いを叶えてしまったようだ。
しかし俺の中でふつふつと何かが湧き上がる。
「…冗談じゃない」
土方副長にとっての恋敵という存在が、しかしより一層沖田を求める根拠となる。簡潔に述べれば、俺は恋敵の恋路を応援しているに等しい。
阿保らしい。
馬鹿らしい。
余りにも、愚かだ。
「冗談じゃないですね」
俺はしっかりとした口調で土方副長に告げた。だが副長は特に怒る様子も動揺することもなく
「だよな。だからお前も、本気で来いよ」
その目はどこか少年のそれに似ていた。挑戦的に告げた言葉はどこか嬉しそうだ。
(…そうか)
この人はきっと、いつまでも競っていたいのだ。そして彼への思いを募らせて、もっと求めたいと願っているのだろう。
「…わかりました」
だったら遠慮することはない。この感情がいらないものだと決めつける必要もない。枯れてしまう花だからと言って、咲かなくてもいいということはないのだ。
「言っておきますが、俺は同室ですから何が起こっても仕方ないと思ってください」
「ふん、どうだかな」
コンチキチン コンチキチン コンチキチン コンチキチン
祭囃子の音が何かを急き立てる。俺は枯れて散ってしまった花弁を拾い集めた。
こんな非常時だというのに、何故か心が満たされていく。

やがて、目の前に一人の男の姿が現れた―――。