徒花プライマリ|


雪の降る、早朝。
「行ってきます!」
努めて明るく振る舞い、馬上の上から見送りの者たちに手を振った沖田の姿は、思ったよりもあっさりと見えなくなった。指令を下した近藤局長は唇を噛みしめ何かに耐えるような表情を浮かべ、また一番初めに事の事態に気が付いた山野は青ざめた顔でその場に立ち竦む。そして、土方副長はいなくなってしまった沖田の姿を探すように、いつまでも遠い眼差しを向けていた。
山南総長が脱走した…そのことに動揺しない者はいなかった。だが、誰もがどこかで予感していたことで、まったくの天変地異と言えないところが、それぞれに罪悪感を産んだ。俺もまた、その一人だ。
しかし、その中で自分が一番冷酷な判断を持っていた。もし俺が追手に命じられていたとしたら、山南総長の言い訳も言い分も聞かずに斬り捨ていた。それは沖田に指摘されたとおりに真実で、俺は山南総長を、すぐに脱走者だと切り替えることができた。その程度の思い入れしかなかったのだ。
しかし彼らは違う。心優しい山野はともなく、近藤局長も、土方副長も、そして沖田もまた昔からの友人で同じ釜の飯を食べてここまでやってきた仲間だ。そんな存在を殺めることを、誰が進んで行うと言うのか。
だから俺しかできないと思った。
(…なのに)
沖田は自ら名乗り出た。自分が行く、山南が呼んでいる…彼はそう言った。もちろん山南のことを考えればそれが最上の思いやりだということはわかっていた。山南と沖田はまるで親子か齢の離れた兄弟のように特に親しげにしていたのだ。
だが、それは山南のことを思いやればの話だ。俺にしてみれば、山南を逃がしたとしても、連れ戻したとしても、そしてどんな結果が訪れたとしても、沖田が傷つくのはわかっていた。分かっていたからこそ、どうにかして止めたかった。
だが、彼は行ってしまった。何かの間違いだという希望を信じて。
俺はちらりと土方副長に視線を遣る。
彼にしては珍しい『迷い』が感じられた。いつも的確かつ瞬時に判断を下す彼でも、さすがに今後の展開に迷いを抱かざるを得ないだろう。
そしてその迷いを幼馴染もまた感じ取ったようだ。
「…歳、行こう。いまは総司に任せるしかない」
近藤局長が軽く土方副長の肩を叩く。土方副長は「ああ」と短く返答して、ようやくその焦点を現実へと向けたようだった。


それから一夜明け、沖田は山南をつれて屯所へと帰営した。想像以上に明るく戻ってきた山南総長の晴れ晴れとした表情に比べ、沖田はやはり笑みを浮かべつつもその表情には影が差していた。
事情は簡単に近藤局長から聞いた。大津の宿で山南総長に出会い、彼が既に切腹を覚悟していることを受け入れて、共に戻った。介錯は沖田が務める、と。俺はその話を聞いたとき思わず「無理だ」と口走りそうになった。新撰組の中で、誰もが拒むであろう役目を何故また沖田に背負わせるのかと。しかしそれを近藤局長に詰め寄ったところで答えなどない。
いつもならもっと冷静になれたのかもしれないが、切腹を執り行うまでの時間は無い。俺はすぐに土方副長の元へ向かった。部屋を訪ね、返答もそこそこにその部屋に踏み入れた。
「…お前が来るような気がした」
ふっと苦笑するように笑った副長だったが、どこか疲れた表情をしていた。
「でしたら、用件をお話しするまでもないかと思います」
「お前が介錯を替りたい、と?」
「その通りです」
きっぱりと答え、俺は頷いた。
「表情を見ればわかります。あの人は疲れている。あの状態で介錯が務まるとは思えません」
「…総司が聞いたら怒るだろうな。あいつは口にはしないが、剣の腕には絶対の自信を持っているからな」
「そういうお話をしているのではありません。あなたもわかっているでしょう」
俺の主張を聞き流そうとする副長に、俺はさらに詰め寄った。
「山南総長を連れ戻すという決断を下し、さらに介錯を務める…荷を負わせすぎです。今は良くとも、すべてのことが済んだ後に、あの人は絶対に後悔をする」
今は色々な出来事に冷静な判断が下せずにいるはずだ。そんな曖昧な感情のなか、引き受けても良いほど介錯という役目は軽くはない。
例え自分が殺したのではないのだとしても、その目に、手に、心に、最期の瞬間が焼きつくのだ。
すると土方副長は視線を落とし、唇を噛んだ。
「わかっている。だが…山南さんの望んだことだ。死に逝く者の最後の願いを聞き届けずにいられると思うのか」
俺の指摘したことくらい、土方副長も考えたはずだ。けれど、山南総長の意思を汲み取らずにはいられない。
そう。
きっとその判断が、古くからの友人である試衛館食客たち、そして新撰組の隊士たちの総意なのだろう。そうして何の悔いもなく別れを告げてほしいと言う願いなのだろう。
だが、俺は違う。
「俺は…あの人以外は大切ではない」
生き残るのは見送る側の方だ。残された側は去っていった人を悼む。そんななかで、おそらく沖田は自分を責めるしかないのだ。誰にも相談できず、誰にも痛みを分かち合うことができず、一生死ぬまでそのままで。
それを考えるだけで胸が痛む。
(そんな姿は見たくない)
そう思う。
俺の訴えに、土方副長は少し驚いた表情を浮かべた。しかしそれでも首を縦には振らなかった。
「これは総司から言い出したことだそうだ」
「……そうなんですか」
問い返しておきながら、俺は「やはり」と思わずに居られない。
偶然か必然か…重なった痛みの束を自分だけが引き受ける。それは沖田が考えそうなことだ。
「お前に言われなくとも…俺が替りたいくらいだ。だが、総司が言い出して、山南総長も望んだことなら…誰が文句を言えるというんだ…!」
土方副長は苛立ったように吐き捨てた。
そうだ、彼もまた沖田に特別な感情を抱いている。俺以上に、俺よりも早く、俺よりも募らせて。
『土方さんとよく似ていますね』
沖田が事あるごとに俺に言っていた。恋敵と同じなど言われても嬉しくも何ともないと思っていたが、ああ確かに似ているのだと、この時ばかりは実感する。
俺がそれ以上の言葉を発せられなくなったところで、屯所の外から女の絶叫が聞こえてきた。
それはおそらく、山南総長の馴染みの明里のものだろう。
「…失礼します」
俺は土方副長の部屋を出る。副長は何も言わずに、引き留めずに俺を見送った。
すると部屋を出て前川邸から出るところで、沖田に出会った。
「あ…」
沖田はとても複雑な表情を浮かべていた。おそらく今の絶叫が明里のものであるということには気が付いただろう。女の悲痛な声がますます沖田を追い詰めたはずだ。
俺は顔を見て、単刀直入に申し出た。
「介錯は俺に譲れ」
自分らしくない、強引な物言いだということはわかっていた。けれど土方副長が『できない』というならば、本人を説得するしかない。
「一日かけて大津まで行き、山南総長を説得して戻ったあんたは、ろくに寝ていないはずだ。そんな状態で、総長の介錯を務めて万が一のことがあったらどうする。介錯に失敗は許されない、山南総長のことを想うなら、手を引け」
俺の言葉に、沖田は最初驚いた顔をしていた。何を言っているのかわからない、と唖然としていた。しかし次第に言葉の意味を理解したのか少し目を逸らして、しかしすぐに笑った。
「…斉藤さん、今日は珍しく饒舌ですね」
「話を逸らすな」
「それに、珍しく怒っていますね」
微笑んでみせる沖田は、いつもの彼に違いはない。しかし敢えていつも通りにしようと努めてるのだと俺にはすぐにわかる。そして沖田は少し頭を下げた。
「ありがとうございます。それから、こんな時にまで心配を掛けてしまって…ごめんなさい」
「…違う」
そんなことを聞きたいんじゃない。そんなことを言ってほしいんじゃない。
「あんたはただ黙って『はい』と言えばいいんだ」
任せると言ってくれれば、俺は何だってする。全てを背負ってやる。
しかしいつも、この想いは届かない。
「できません。もう…決めたことですから」
「…」
こんな風に頑なに拒む沖田の意思を、俺は前にも聞いた。
芹沢局長を殺した時。
池田屋に向かう時。
そのすべてで、彼は彼の意思を貫き、たとえ傷ついても悲しくても誰のせいにすることもなく受け入れてきた。
だから今回も同じだと言わんばかりに、沖田の目に迷いはなかった。
こうなれば、俺でも、また土方副長でも彼を説得することはできない。
「…わかった」
俺は仕方なく自分を納得させることにする。だが、心のどこかでこの結末がわかっていたのか、諦めは簡単についた。すると沖田は安堵したように頷いて「ありがとうございます」ともう一度、礼を言ってきた。
「それより、斉藤さんにはお願いしたいことがあるんです」
「……何だ」
子供のような無邪気さを装い、沖田は笑う。
「髪を結ってほしいんです」


八木邸の自室に戻った俺は、早速沖田の要望に応える。普段は屯所に髪結いがやってきて、隊士たちの髪を結いあげるが、沖田は自分のことは自分でという主義らしく、その髪結いに世話になっている様子は見たことが無い。
「最期はきちんとした姿でお見送りをしないとと思うんですけど、何だか今日は自分じゃ上手く縛り上げることができなくて。こんな時に近藤先生や土方さんにお願いするわけにもいかないですから」
そう言って沖田は髪を解いて、俺に背中を向けて託す。
肩ほどの彼の髪が、小さく吹く風に靡く。前川邸のあわただしさに比べ、八木邸は不気味なくらいの静寂を保っていた。
俺は少し緊張しながら、沖田の髪に触れた。細くて柔らかい髪質は益々女のようで俺は戸惑ってしまう。どうしても邪なことを考えずにはいられないが、しかしそんな内心を悟られまいと、俺は手早く束ねはじめる。
「…斉藤さん」
すると背中を向けたままの沖田が声をかけてきた。
「何だ」
「本当のことを、言ってもいいですか?」
沖田が声を落として切り出した。八木邸には誰もいない。聞き耳を立てるような者もいない。俺は「ああ」と話を促した。すると沖田は呟くように続けた。
「…どうしてこうなっちゃったんだろうと、思っています」
「……」
「皆が仲良くなんてそんな甘いことを思っていたわけじゃありません。でも、それでも…ずっと一緒にいられると思っていたんです」
俺は相槌を打たなかった。
その気持ちがわかるとは言えなかったからだ。
俺は山南総長が脱走したことに、驚きはしたものの、心からの動揺はなかった。大げさに言えば単なる一隊士の脱走だとすぐに割り切ることができた。そんな非情な感想をいただいた俺が、どんな相槌を返せるというのだろか。
しかし沖田は俺の返答を求めてはいなかった。
「だから、本当は…私だって、山南さんの介錯を務めたいわけじゃありません。でも、それでも他の人に任せるくらいなら自分が務めたいと思う。斉藤さんに押し付けたくはない。山南さんの切腹を他人事みたいに眺めているのは嫌だ。そして…これは山南さんの願ったことでもあり…私が、そうしたいと少しでも思うから、そうするんです。それは本音で……本当に、それは本音です。でも…」
沖田は俯いた。背中からなので彼の表情は見えない。
「どうしようもないことだと分かっています。でも本当は…こんなことをしたいわけじゃない。誰も背負わないで済むなら、それが一番良かったのに…!」
語尾が霞み、彼は言葉を失った。
どうしようもないことだと、沖田が言うとおりだ。過去に起こったことはもう戻れないし、今更取り繕うこともできない。頭では誰だってわかっていることを、どうしようもなく願ってしまう。
その、最期の瞬間が訪れるまで。
俺は要望通り、きつめに髪を引いた。そしていつもよりも高い位置で結ぶ。
「…泣くなら、泣いてしまえ」
俺は小さい声で告げた。彼はおそらくまだ泣いていない。この現状を受け入れるのが、介錯の重荷を背負うのに精一杯で、己の感情をどこにも吐露していない。
だが、彼は首を横に振った。
「泣きません…泣いたって、斉藤さんが困るだけでしょう」
「…あんたは…」
こんな時まで気を遣うのか、と俺はため息をつく。
そして振り返った沖田は微笑んだ。
「ありがとう…ございます」
「…ああ」
それが髪を結ったことの礼なのか、それとも愚痴を聞いてやったことへの礼なのかはわからない。しかしどちらにしても俺のやったことなど些細なことだ。
おそらく、彼は自分で立ち向かい、自分で飲みこむのだろう。
俺は軽く沖田の背中を叩いた。
頑張れなんて、軽々しいことは口にできない。けれど、何を伝えたらいいのかわからなかったからだ。


山南総長の切腹は、思っていた以上に粛々と執り行われた。
俺が懸念していたようなことは起こらず、沖田はその集中力を切らすことなく礼法通り、すべてを終えた。緊迫感のある場所で凛と佇む姿は、何故だかとても美しく映った。
そしてその夜。
俺は滑車の音を聞いた。
カラカラと何度も繰り返される音が、何故だか俺は沖田によるものだと直感した。何をしているのかまではわからない。そしてしばらくすると声が聞こえて、そのままその存在はどこかへと消えて行った。おそらくは土方副長と共にどこかへ行ってしまったのだろう。俺はそんなことを何となく思いながら、それ以上を考えるのをやめた。
どうしようもない、気だるげな気持ちに向き合いたくはなかった。







山南総長の葬式がしめやかに行われ、新撰組の屯所は新たな住処となる西本願寺への移転の準備に追われることになった。悲しみや弔いの感情を飲み込むように、隊士全員は作業に打ち込んだ。むしろこのように引っ越しで忙しくしている方が、気が紛れて良いのだろう。
そして壬生の屯所で過ごす、最後の日がやってきた。あらかた荷物の運搬が終わり、明日には西本願寺に本格的に陣を構えることになる。これまで好意的に接してきてくれた壬生から離れ、敵地である西本願寺に乗り込む…しばらくは気の抜けない日々になるだろう。
そんな予感を覚えながら、俺は道場で剣を振っていた。壬生に建てられたこの道場も、明日には解体されて新たに西本願寺に移設されることになっているので、別れというわけではないのだが、それでもこの場所で剣を振るうのは最後になるだろう。
俺が無心に振り続けていると、不意に背中に気配を感じた。
「斉藤さん」
声をかけられて、俺はぴたりとその手を止めた。そして振り返るとそこにはやはり沖田がいた。隊服を着ているので巡察帰りなのだろう。
「どうしたんですか、一人で…」
そう訊ねてきた沖田に、俺は素っ気なく答えた。
「たまには一人で竹刀を振りたい時もある」
「ふうん…じゃあ、お邪魔ですね。退散します」
「居たいのなら、いてもいい」
俺は軽く引き留めて、また竹刀を振り下ろす。
しばらくは沖田の視線を感じていた。沖田は天然理心流を極めた剣士ではあるが、かといって自分の流派だけにこだわりがあるのではなく、剣術という剣術に見入り、常に何かを得ようとする為の眼差しを向ける。こと剣術に関してはひた向きで貪欲だ。
俺は竹刀を止めた。
「暇なら相手をしてくれ」
「それは構いませんけど、もう武具は持って行ってしまっているでしょう」
「竹刀ならある」
俺は竹刀のみを沖田に渡した。互いに本気で打ち合うわけではない。沖田は浅黄色の羽織を脱ぎ、俺の前に立った。
「斉藤さんと打ち合うのは久々ですね」
「…打ち合うたびに、お互い命がけになるからな」
「それはそうですね。でも、ここでの打ち収めにはお互い相応しい相手じゃないですか?」
ははっと笑い、沖田は俺の目を見て一歩を大きく踏み出した。互いに合図は無い。目が合えば、それが始まりの合図になる。
俺はすぐに剣を避けて、間髪入れずに反撃を繰り出した。沖田はそれを距離を開けることで対処する。
互いにギリギリの攻防が続いた。最初はお遊びのつもりで始めた打ち合いも、次第に力が入り、実戦並みの緊張感がある。凡人にはわからない細かな技の応酬…集中をしなければ、どちらかがその均衡を崩すことになるだろう。
そういう打ち合いは沖田とならいつものことだ。しかし、今日はどこか違った。
「…っ」
沖田に集中力が無かった。いや、むしろ何か気がかりがあるかのように身体を庇いながら剣を向けていた。
最初は怪我でもしているのか、と思った俺だが、すぐにその理由を察する。試しに大きく打ち込むと、沖田は自分の体を支えるのが精いっぱいだったようで、守りに徹するようになった。
これでは意味がない。
俺は竹刀を降ろして「やめよう」と言った。沖田も何故俺が竹刀を降ろしたのか、すぐに気が付いたようで
「…すみません」
と謝ってきた。しかし俺は「別にいい」としかいいようがない。
沖田が自分の体を庇う理由…それは先日から噂になっている件だろう。ついにあの二人が初夜を迎えたらしい…と、下世話かつ余計な話を広めていたのは原田だった。彼の性格なら当然かもしれないが、しかし俺にとっては甚だ迷惑なことだった。
(…面倒だ…)
しかもそれが事実である、と今はっきりとわかってしまった。動揺するわけがない、と思っていたのに、思っていた以上に俺の心を掻き乱していた。
俺はどうにか腰を降ろして、静かな道場で息を整える。しんと静まった道場は何故か別世界のように静まり返っているが、俺の心は五月蠅く騒ぎ立てていた。
(もう…消えたほうがマシだな)
こんなややこしくて、面倒で、どうしようもなくて報われない。この気持ちを持ちつづけることで、俺の歩む道が乱れてしまうと言うのなら、無くなってしまうほうがマシだ。
だが、それなのに。
(この男は…いつまでも俺の傍にいる)
何も知らない、何も気が付いていない鈍感な彼が…少しだけ憎らしい。
「…西本願寺では、組ごとに部屋が分かれるそうですね」
沖田はは何となく切り出した。俺は感情を飲み込みつつ、「ああ」と答える。
「斉藤さんとの同室も今日で最後ってことですね。残念だなあ」
心底残念そうな表情を見せる彼に、俺のなかで何かが弾ける。
人を期待されるようなことを、何の考えもなく口にする。それを聞いて、俺がどう思うのか彼は知らない。
いつもなら聞き流せる些細なことを、聞き流せなかった。
だからだろう。自分で消せないのなら、
「…俺はほっとした」
沖田に消してもらおう。…そんな甘い考えが働いた。
「え?」
「毎日、気が気じゃなかった」
「…」
「自分で箍が外れるんじゃないかと疑って過ごす身にもなってみろ」
「…箍…?斉藤さん、いったい何の話ですか?」
もし沖田が何かに気が付いて、この場から離れて行ってくれたなら。
俺はもう何も言うまいと思った。
けれど、沖田は何にも思い当たることが無いと言わんばかりに、不思議そうな表情をしている。油断しきっている。
俺は立ち上がり、沖田の前にやって来て、目の前に腰を下ろした。そしてまっすぐに沖田を見つめる。
「あんたはこういうことに鈍感で困る」
「こういうこと…?」
俺が伸ばした手が、髪に触れて、輪郭に伸びる。沖田はぼんやりと俺の顔を見ていた。
(副長と似ている…とでも思っているのだろうか)
だが違う。
俺は違う。
「…っ?」
これまでの感情をぶつけるように、俺は彼の口内を貪る。生暖かい感触は初めてではなかったが、それでももうこれが最後だと思ったこの選択は、今までとは何もかもが違う。
「…っ、斉藤さん!」
沖田は両手で彼の胸板を押す。そこでようやく離れたが、俺はこれを冗談で済ますつもりはなかった。
「最後だからと思って言う。忘れてもらって構わないし、返事は要らない」
潔く。
「あんたが好きだ」
「…っ…え?」
そう言って、もう何もかもを捨て去れば
(きっと終わるだろう)
俺は不意に弓削のことを思いだした。あの時の俺はこの面倒で複雑な感情から逃げた。弓削の前から姿を消すことで、自分の気持ちからも姿を消した。その選択をした俺は、たぶん自分が思っている以上の子供だったのだろう。
しかし今は違う。散々に向き合い、散々に葛藤した。しかし、最後には投げ出すことになってしまった。
(そういう意味で結果は同じかもな…)
俺は苦笑した。
「…困らせるだけだと、わかっていた。だから忘れてくれていい」
「困るとか…そういうのは…」
「答えられないなら同じだろう。これはただのけじめだ」
けじめ。
そう言えば恰好は良いが、だが、これはもう我慢ができなかっただけだ。この煩わしい感情に付き合っていくほど、俺は強くはない。器用でもない。優しくもない。
それを、沖田に伝えたかったのかもしれない。



それから、西本願寺に移ると部屋割りは組ごとに分かれることになった為、沖田との距離は急に開いた。しかしどうしても全く関わらないというわけにもいかず、顔を合わせれば気まずい空気が流れてしまう。俺の方はともかく、彼の隊務に影響を与えては困る、と俺が思っている時に、江戸へ隊士募集の為に下るという絶好の機会がやってきた。
柄にもなく手を挙げて、俺も江戸へ行くことになった。土方副長はどこか訝しんでいたが、問い詰めることはなかった。
そしてその見送りの場。多くの隊士が集まる中で沖田が俺のところにやってきた。
「…斉藤さん」
何か物言いたげにした沖田に、俺は敢えて素っ気なく告げた。
「三番隊のことは任せた。義理堅い隊士ばかりだ、苦労を掛けることはないかとは思う」
「それはもちろん、心配はしていませんが…斉藤さんも、道中お気をつけてください。…それから」
沖田は俺の方へ歩み寄る。
「…土方副長のこと、よろしくお願いします」
「……」
俺は少し驚いた。彼が『土方副長』と口にすることはほとんどない。その形式ばった場でしか使わない言葉を、敢えて俺の前で使ったのは、これがあくまで一番隊組長である彼からの『依頼』であるからだ、ということだろう。
沖田のその不器用な気遣いに、俺は少し苦笑した。
「…気を遣わせて済まない」
「斉藤さん…」
「行ってくる」
俺ははそっと彼の肩に触れて、そして背を向けた。そのまま土方と伊東の元へ向かい、振り帰ることはなかった。








江戸の風は、思った以上に心地よいものだった。それは一時的ではあるものの、屯所から離れた開放感故の心地よさだったのかもしれないが、それでもここ最近の煩わしい感情から抜け出せたのは俺にとって良い気分転換になった。
それを鋭く見抜いていたのは伊東参謀だった。
「斉藤君は晴れ晴れした表情をしているようだ。江戸に所縁でも?」
そう訊ねてきた伊東参謀は優雅に俺の隣を歩く。当初、土方副長、伊東参謀との三人旅ということで懸念事項は多く、気を張った日々になるかと思いきや、伊東参謀は常に場を和ませる役に徹し、俺からすれば少しだけだが土方副長とのやり取りにも「慣れ」を感じさせるものがあった。
「いえ…半年ほど、試衛館にお世話になっただけです」
「おや、君も試衛館に?」
「…ええ、まあ。と言っても訳あってすぐに離れましたが」
伊東参謀は「それは初耳だなあ」と笑っていた。
土方副長がそうであるように、俺も伊東参謀は少し苦手だ。外見の煌びやかさのせいか、どこか気を許してしまいいつになくお喋りになってしまうのだ。
「伊東参謀は江戸は長いのですか?」
俺は自分の話題から目を逸らそうと、逆に問いかける。伊東道場の婿養子に請われて長く江戸に住んでいたのは既に知っていたのだが。
すると伊東は微笑して軽く首を横に振った。
「婿養子として江戸に住まいを構えたが、私も田舎の出だ。江戸に来たときは、こんなにも賑わう町があるのかと思い、しばらくは慣れなかった。いつまでも自分が田舎者だという劣等感が心のどこかにあるような気がするね」
伊東参謀はそう寂しげに告げた。長い睫毛が伏せられてどこか芝居がかった調子なのだが、それが彼の本音なのかどうかは、俺にはまだ見極めることはできない。
しかし
「…鈴木組長は江戸には?」
俺がわざと実弟である鈴木の話を振ると、その眉間を少し顰めた。
「ああ…あれは、田舎の方で養子に出されていたからね…私も愚弟がどのように生活をしてきたのかはよく知らないのだよ」
「そうですか…」
弟の話を振られ、伊東参謀の表情が翳る。この二人の兄弟は一方は婿養子に、もう一方は養子に出されたことで名字が違うらしいが、それ以上に何か深い溝がある気がした。俺から見れば、鈴木組長の方がどこか伊東参謀に執着をしているような節があるが…その先の真実はやはりまだわからない。
(鈴木組長か…)
俺は不意に、鈴木組長が沖田を嫌っているらしいということを思いだした。沖田はその理由について土方副長に語らず、俺には
『男色が嫌いらしい』
と淡々と告げていたが、その後どうなっているのかはあまり話は聞かない。
(…いや、もう聞くことはないのか)
俺は内心嘲笑した。
あのように彼を遠ざけておいて、あからさまに距離を取った自分が、彼の相談に乗ることはもうないだろう。
それは自分の選択で、彼は何も悪くはない。
(あの時…)
あの壬生での最後のやりとりで、俺は何も言わなければ良かったのだろうか。
まだ耐えることはできたはずなのに、どうしてあの時に弾けてしまったのだろう。自分の堪え性のなさを呪いつつ、しかしその一方でこれで間違ってはいないのだとも思う。
いつか来る時が、あの時にやってきただけだ。
俺はもうすぐ到着する江戸の空を遠目に見た。清々しいほどに青く澄みきった空が、眩しすぎた。


江戸での隊士募集は、順調に進んだ。新撰組の名声が江戸で広まっており声をかければすぐに集まるような盛況ぶりで、前もって隊士を集めていた藤堂の働きもあり、物事は滞りなく進んだ。それからは入隊に適う者を精査すべく、希望者の剣の腕を試したり、一人一人を面接したり…思っていた以上に目まぐるしく日々は流れて行った。江戸でのんびりする間もなく俺は仕事に没頭する。それはあれこれと深く考える暇もなく、俺には有難かった。
そんななか、俺は試衛館を訪問してきた客の顔を見て酷く驚いた。
「あ…」
と思わず声に出してしまったのは、その客人の顔が余りに沖田に似ていたからだ。俺が驚いていると、土方副長が紹介をしてくれた。
「斉藤、総司の姉のおみつさんだ。おみつさん、こちらは先ほどお話をした三番隊組長の斉藤一です」
「みつでございます。弟がお世話になっております」
やはり、と俺は思った。そう言って微笑んで見せたみつは、あまりに沖田と似ていて、俺はまるで沖田と相対する様な気分になったからだ。その一方で、土方副長が発した『先ほどお話をした』と文言が気にかかる。
(副長は一体何を…?)
「こちらこそ、お世話になっております」
俺が軽く頭を下げると、土方副長は「駕籠を呼んでくる」と告げて玄関を出て行く。どうやら用件が終わった後のようだ。おみつと二人で残され、俺が内心困っていると、おみつは穏やかな表情で「斉藤様」と話しかけてきた。
「総司と仲良くしてくださっているようで、有難うございます。総司からの手紙にも斉藤様のことが書いてありました。齢が近くて剣の腕もご立派で…とても尊敬できる友人だと。土方様からも同じようにお伺いいたしました」
「…そう、でしたか」
俺は沖田がそのように自分のことを文字にしたためていた、というのは単純に驚いた。彼は誰とでも仲良くなる性格であったため、自分だけがその中で特別だとは一度も思ったことが無かったのだ。
そして彼女は続けた。
「総司はあまり友人が多くはないのです。育ってきた環境もあるでしょうが…ふふ、そういうのが不得意みたいで。どこか遠慮がちに付き合ってしまうようですが、でも斉藤さまは違うようですね」
「…そうでしょうか」
「ええ。あの子が斉藤様には本気で剣を向けていることが、何よりも証拠かと思います」
「それは…?」
どういう意味だろうか、と尋ねかけたところで土方副長が戻ってくる。駕籠を捕まえたようだ。そしておみつは俺の方へ軽く一礼して
「総司のこと、よろしくお願いいたします」
と俺に告げた。
俺は答えに詰まった。
こんなのはただの社交辞令だ、本気で受け答えをする必要はないのだ…わかっていたのに、何も言わずに見送ったのだった。


そしてあっという間に京に帰る日取りとなった。
俺は土方副長に供をして、日野の佐藤彦五郎宅を訪ねた。両手にありあまる土産を持たされたが、小者を雇うことで何とか解決した。
「悪かったな」
帰路は夜になってしまい、土方副長はそう謝ってきた。俺は「いえ」と短く答えた。
しんと静まった夜に、虫の声と足音だけが響く。明日には江戸を出て屯所に戻る…隊士や監察の目が行き届かない場所で、土方副長と話ができるのはこの時しかないと思い、俺は迷いつつも切り出した。
「…お耳に入れたいことがあります」
「何だ?」
「七番隊組長の鈴木組長のことです」
「ああ…伊東の弟か」
もっと深刻な話だと思ったのか、土方副長は軽く返答をする。
「はい。実は少し前、沖田さんと揉めている旨を聞きました」
「総司と?ああ…何だか気が合わないらしいということは総司からは聞いている。それ以来、同じ巡察は避けているはずだが」
「ええ…それは俺も、そういうことだろうというのは理解していました。副長は何故、二人が揉めているのかはご存じですか?」
土方副長は「いや」と答えた。やはり詳細を避けていたらしい、と俺はため息交じりに「そうですか」と返答する。
すると聡明な土方副長は
「何だよ」
と先を促した。
「実は鈴木組長は、男色を毛嫌いしているそうです」
俺は淡々と答えた。しかし土方副長には全くの寝耳に水だったのか、単純に驚いていた。
「男色…?俺と関係を持っていることを知って、鈴木が総司のことを嫌ってると言うことか?」
「はい、俺も詳しく聞いたわけではありませんが、鈴木組長が沖田さんに直接そのように言ったようです。…それに鈴木組長が沖田さんを嫌っているのは俺の目から見ても明らかでした」
「ふうん…」
何故、沖田がその事実を隠したのか。それは俺が言うまでもなく土方副長は察したはずだ。
そして考え込んだ後に
「…総司には口止めされていたんじゃないのか?」
と訊ねてきた。相変わらずに鋭さだ。
俺は躊躇いつつも答えた。
「口止め…というほどではありませんが、彼が副長に言いたくないのだろう、ということはわかっていました」
「だったら何で俺に教えたんだ」
「……」
俺は黙り込んだ。土方副長にその点を指摘されるのは既に分かっていたことだ。
もちろん誤魔化すのは簡単だろう。報告しなければならないと思った…そう言えば終わりだ。余計なことを口にする必要はない。
しかしつい口にしてしまったのは
「俺は…もうあの人の力になれないだろうと思いました」
それが本音だったからだろう。
江戸に足を運んで、俺はある程度気持ちの整理をつけたつもりだ。この面倒な感情を解決してくれるのは時間だけだということは、弓削との一件でわかっていた。しかし、弓削がそうであったように、沖田はあの言葉を忘れないだろう。
少なくとも、俺を頼るような真似はしない…そう思った時に、一つだけ気がかりだったのは鈴木の件だったのだ。
だが、そんな事情を知る由もない副長は訝しげな声を上げた。
「…何故だ。少なくとも総司はお前を一番親しい友人だと思っているはずだ。お前のことを頼りにしている」
「その友人という関係を…俺が断ち切ったからでしょう」
俺はもう彼に何もすることはできない。例え悩んでいても、悲しんでいても、立ち止まっていても、その背中を押すことはできない。
すると副長は俺の方をじっと見た。…いや、見たかどうかはわからない。暗闇の中だ。
しかし、ひしひしと副長の視線を感じた気がしたのだ。
「お前…言ったんだな」
土方副長は怒るでもなく、責めるでもなく、ただ受け止め、穏やかに返した。
俺は何も答えずに、夜の闇の中で頷いたのだった。








京にもどってからも、沖田とのぎくしゃくとした関係は続いた。
沖田は出発前と同じ反応を見せるが、問題は俺の方だ。諦めるつもりで江戸へ行き距離を置いたのに、土方副長に何やら焚き付けられてしまい、心がまた乱れてしまった。
『こういうことは…らしくないものなんじゃないのか?』
江戸からの帰り、俺が沖田に打ち明けたことを聞いた土方副長は、そう言った。
本来であれば、俺の存在は自分と沖田との関係に水を差すはずなのに、副長はまるで俺を応援するかのような一言を放った。それがどういう意図だったのか…本当のところはわからないが、しかし彼には余裕が感じられた。
奪い取れるものなら、奪い取って見ろ、と。
そう言われてるような気がして、また俺の中に鬱陶しい感情が湧き上がってくる。
(いや…忘れろ)
くだらない挑発に乗って、仕事を疎かにするわけにはいかない。もしそうなってしまえば、俺は俺を殺してしまいたくなるくらいに嫌悪する。
俺の望みは何だ?
俺が自分に問いかけたときに、すぐに帰ってくる答えは。
新撰組は俺の居場所であるということ。最初で最後に…そう思える場所だ。それをくだらない色恋沙汰で失いたくはない。
それなのに。
躊躇い、立ち止まり、振り返り、嘆く。こんな負の感情に振り回される…自分がこんなにも不器用だなんて知らなかったんだ。

「斉藤、元気がねえなあ」
色々な意味で、いま一番相手にしたくない相手…原田が声をかけてきたのは、新入隊士がようやく生活に慣れ始めた頃だった。ようやく意中の相手と結ばれ、妻を娶った原田は、俺とは正反対にここの所終始上機嫌だ。彼の傍に居ると幸せな空気に当てられるようで気が重い。
俺はそんな負の感情を隠しつつできるだけ淡々と答える。
「…別に、普通だと思う…」
「何言ってんだよ、眉間に皺、寄ってんぞ。まるで土方さんみてぇじゃねえかよ」
遠慮ない原田の指摘に、俺は表情に出さないまでも苛立った。土方副長のようだ…そう言われることに、こんなに不快感を感じるとは思わなかった。
しかし、原田は俺の苛立ちなど諸共せずに話をやめない。
「今日は試衛館の面子が揃って、俺の結婚の宴なんだ。お前も試衛館にちょっとだけでも居たし、良かったら顔出せよな!」
「…いや、俺は…」
「何言ってんだよ!おまさちゃんの手料理なんて滅多に食えないんだからな!」
幸せの絶頂に居る原田はまるで俺の話など聞こうともしない。
しかし、試衛館の食客といえばもちろん土方副長や沖田も顔を出すことだろう。そんな場に居合わせるなど考えられない光景だ。
「…悪いが、今日は用事がある。遠慮させていただく」
「ったくよお、最近、お前付き合い悪いよなあ、総司となんかあったのかよ?」
「……」
鈍感で能天気で楽天的であるようで、原田の嗅覚は鋭い。しかしそれが色恋沙汰か下世話な話にしか役に立たないのは残念ではあるが。
しかし、これ以上の追及は面倒だ。
「暇があれば…顔を出す」
俺は渋々ながらそう答える。足を運ぶつもりはないが、せっかく招かれためでたい席をきっぱりと断るのも失礼だろう。すると原田もようやく納得したようで「絶対だからな!」と念を押した。
「新居は屯所の近くに構えたんだ。おまさちゃんと暮らしたいのは山々だが、仕事を疎かにするわけにはいかねえからな」
「…何故、娶ろうと思ったんだ?」
「あ?」
原田は俺の突然の質問に首を傾げた。
女は沢山いる。原田は気の良い美男子で女にもモテる。それにいくら惚れていても、新撰組組長の妻に据えれば身に危険が及ぶことはわかっている。せめて妾くらいに留めておくのが普通の考え方だとは思うが、原田は迷いなくおまさを妻として迎えた。周囲の反対を押し切った結婚だと聞いている。
もし俺が原田の立場なら、おまさの存在は重荷と感じるだろう。いつ死ぬかわからない身で、待つ妻がいる…それは煩わしいだけではないか。
しかし原田はあっさりと
「そりゃ、好きだからに決まってんだろ」
と言い切った。何故そんなことを聞くのかといわんばかりの表情だった。
「惚れちまったもんは仕方ねえ。どう誤魔化そうったって、自分の心はそうはいかねえからな」
「……」
迷いなく、淀みなく言い切る原田を、俺は素直に羨ましいと思った。
(仕方ない…)
誰かに惚れて、その相手が欲しくて、諦められなくて。面倒で煩わしいと分かっているのに、手を伸ばすのをやめられない。
原田はそれをとうの昔に認めたのだろう。そして犠牲を払ったとしても、妻を娶ることを選んだ。その決心に一点の曇りもない。それは心のおもむくままに選んだ選択なのだから。
(俺は…)
明日もし、沖田が死んだとして、俺が死んだとして、この選択を後悔しないだろうか。
「どうしたんだ?斉藤」
黙り込んだ俺を不審がって原田が首を傾げて覗き込んでくる。俺は
「いや…」
と答えて、続けた。
「あとで鯛を届けさせる」



数日後、巡察を終えた俺が副長の部屋に報告に向かうと偶然、沖田に出会った。
「…斉藤さん」
沖田はいまだに不自然な反応を見せる。が、それと同時に彼らしくない弱気な態度が目についた。
「ああ……副長は?」
「…土方さんは留守みたいですけど」
「そうか…」
俺はちらりと沖田の様子を窺う。俺に対する態度は相変わらずではあるが、やはり様子がおかしい。それに俺が『副長』と口にした時に、僅かだが動揺があった。
(また…何かあったのか…)
痴話喧嘩なら何も見ないふりをするが、沖田の様子ではそんな雰囲気ではない。もっと深刻な悩みのように見える。
俺は少し迷ったものの
「…話がある」
と強引に沖田の腕を取った。沖田は驚いた様子だった。
「え?え…?斉藤さん?」
「いいから」
俺は沖田に有無を言わさず彼を引っ張っていく。すれ違う隊士たちが不思議そうに見ていたが、関係ない。
そうして俺は誰にも会話を聞かれないであろう西本願寺の裏手にやってきた。そこでようやく腕を離してやる。
戸惑った表情を隠せない沖田が
「あ…あの、話って?」
と早速訊ねてきた。居心地悪そうにしている。
俺はやや苛立った言い方をした。
「いちいち構えられても困る」
「か、構える…?」
「あれは、けじめだと言ったはずだ。忘れろ」
「…それは…」
言っておきながら、それが難しいことだというのはこの数日間で身に沁みていた。距離を置いてみたところで、何も解決はしない。時間さえも、この感情を殺してくれるのかはわからないのだ。
だが、俺は敢えて続けた。
「…言い直そう。取り消す」
「え?」
「忘れてくれというのができないなら、あれは嘘だったと言うしかないだろう」
そう言えば、彼の心は晴れるのだろうか。
しかしその答えを知る前に、彼は
「それは駄目です!」
と叫んでいた。俺は思わずは「は?」と目を剥いて驚いた。
すると沖田は言葉を選びつつも、取り繕う。
「いや…駄目っていうか…別に、取り消してほしいわけじゃないんです。それに、例え嘘だったなんて言われても…あの日の斉藤さんがどれだけ真剣だったのかくらい、わかりますから…」
「…」
俺はようやく思い知った。
答えをぶつけた俺だけが、苦しんでいたわけではない。
長く一緒にいて、友人だった相手から告げられた突然の告白に…彼は誰よりも深く悩んでいた。俺以上に。
「私はただ…申し訳ないと思うんです。そんなに…想ってもらえているのに、何も返せない…から」
「…返してほしいなんて言っていない」
「それは…そうですけど…斉藤さんは、平気なんですか?忘れてほしいとか、取り消すとか…本当にそう思っているんですか?」
そして彼はあの想いを…受け止めてくれていた。聞き流すわけでも、忘れるわけでもなく、受け止めようとしてくれていた。俺に、向き合おうとしてくれている。
俺は忘れることばかりを考えていた。この想いが消えれば楽になれる…自分は楽になりたいと思っていた。生きていくうえで余計なものはいらない…原田のように重荷を背負うことを避けていた。
しかし、俺は人間だ。喜怒哀楽を顔に表すことが少なかったとしても、感じていない訳ではない。誰かを好きになることだってある。それを吐露してしまうこともある。そんなことを認めてしまうのが、嫌だった。煩わしかった。
けれどそれを認めること…『らしくない』ことをすることは、俺を変えるだろう。
(まるで…遠回りをしていたかのようだ)
俺は「ふっ」と吹き出して笑った。
「らしくないのは、嫌いなんだ」
「らしくない?」
「自分を冷静に見ることができなくなるのが、一番、面倒なんだ。ましてや色恋沙汰で頭を悩ますなんて馬鹿げているとしか思えない」
「…」
「…今思うのは…あの時、何も言わなければ良かったということだ。おそらくあんたは一生、俺の気持ちなど気が付かなかっただろう」
「…斉藤さん」
そうだ、ずっとそう思っていた。けれど、俺がこの感情を彼に伝えたこと。それはもう二度と覆ることもなければ、彼が忘れることもない。
でもそれでもいいじゃないか。
「けれど、仕方ないな」
「…どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ」
彼は首を傾げていた。しかし俺はそれ以上を話すつもりはなかった。おそらく彼に話せば彼は笑うだろう。まるで遠い道を辿っていたのに、元の場所に戻ってきたようだ、と。
「元通りとは言わない。あんたが器用じゃないのは重々知っている。だから…今まで通りにしよう」
「今まで通り?」
「一番隊組長と三番隊組長、そして試衛館からの旧知の仲、壬生では同室の仲…そういうことだ」
「…それで、いいんですか?」
沖田が食い下がるので、俺は「今は良い」と答えた。
「あんたに頼られない方が苦痛だと、今わかったんだ。だから何かあったなら、相談してくれ」
今は良い。
いつか変わるかもしれない。いや、いつか変えて見せよう。
(もともと…売られた喧嘩は、買う主義だ)
土方副長は前に言っていた。俺が彼を好きでいることで、自分がもっと彼を好きになろうとできる、と。それに対して俺は『冗談じゃない』と思った。二人の当て馬にされるなど…屈辱だと。
だが、もう当て馬は終わりだ。
俺はこの気持ちを認め、この気持ちに向き合う人生を選んだ。一点の曇りもない選択をした。
「…相談…って?」
「何かあったんだろう」
土方副長とは違う、俺は俺だけの在り処を、彼の傍で見つけよう。
無駄に咲く花など、ないのだから。