徒花ステイルメイト

*このお話は「そこはかとなく、」をお読みいただいてからご覧ください。



「総司…」
そう呼んでしまった瞬間に、はっと我に返った。
それまで無我夢中で…いや正直に言えば、かつて江戸でそして都でも評判をとっていたという陰間に翻弄されていた。本人は「もう陰間じゃない」と繰り返したが手慣れた手練手管は健在で、まるで長年連れ添った念者のようだった。
けれど、そんな彼を目の前に俺は違う人間を夢想していた。女のように柔らかい肌の感触も、あたたかい唇も。
俺の手に入らない、
俺の手に届かない、
近いようで、とても遠い彼のことを――考えていた、重ねていた。
彼の名を口にしてしまったことで、それは目の前の彼…英(はなぶさ)はもちろん気が付いてしまったはずだ。自分は彼の代わりにされているのだと。
(怒るだろう…)
俺はそう思った。二人は決して親しいとは言えない因縁の仲だ。寄りにもよって彼の代わりにされるなどと、英は憤慨するに違いない。
けれど目の前の英は一瞬目を丸くして驚いたが、そのあとはうっすらと微笑んだだけだった。それは苦笑いともいえる表情で、諦めとどうしようもなさと…少し悲しみが混じったような、そんな複雑な顔をしていた。
英は俺の手を引き寄せた。そして耳元でささやく。
「もっと…ちょうだい」
甘く蕩けるような声。彼はまるで何も聞いていないという素振りで、俺の首に腕を回して抱き寄せた。どうしようもない泥沼に嵌っていくように――。




季節が秋めいた、昼下がりの甘味処。
「噂になってるよ。新撰組の組長さんのこと」
俺の目の前に座る英は肩肘をついて頬を乗せ、もう片方の手で善哉をつつく。行儀が悪いと謗られそうだが、儚げで美しい青年がそうしていると絵になってしまう。
「…どういう噂だ?」
「色々。人妻を誑かしたとか、旦那を殺してものにしたとか、心中するつもりだったとか…まあ、新撰組をネタにした噂なんてたくさんあるけどね」
英はそう言って笑ったが、俺は深いため息をついた。
新撰組四番隊組長の松原忠司が副長から恋人のなつとの関係を責められ、切腹をはかったのは数日前のことだ。幸いにも命は取り止め、彼には平隊士への降格という処分は下されたけれど、彼が処分されたからと言って人々の噂は止められない。
(いっそ切腹を命じられた方が楽だっただろう…)
すっかり生気のなくなった松原を見ているとそんな気になってしまう。
それに先日、沖田とともになつともとに訪れた。なつは松原が自分の旦那を殺した新撰組隊士だと知っていて恋人同士になったのだと悪びれもなくあっさり口にした。手切れ金を渡し松原との関係を断つように伝えたがそのつもりはないと宣言した…それが彼女の復讐なのだと。
「切腹の傷口は深くないって、先生も言っていたから問題はないと思うけれど」
「大体、どのくらいで塞がる?」
「話を聞く限り、半月くらいかな」
英は相変わらず善哉を頬張りながら答えた。
医者の卵として南部のもとで学ぶ英は、どうやらもともとその才があったようで医学所の中でも優秀な弟子のひとりとなったと山崎から伝え聞いている。松原の容態についてあっさり診断がつくというのも、彼の秀でた才能故だろう。
(これからどうなるか…)
傷口が治っても、元の通りとはいかないだろう。
俺は思案を巡らせたが、これから起こることなどわかるはずもない。特に色恋は人の常識を覆す…そう思うと考えるだけ無駄なことのような気もした。そんな俺の逡巡など知る由もなく、目の前の英は暢気に善哉を口に入れた。
夏の終わり、俺は英と一夜を共にした。それにはどうしようもない理由があったのだが、なぜかその後もこうして時折会っている。場所は様々で彼が学ぶ南部先生宅の近くや居酒屋のような騒がしい場所の時もあるが、今日は「甘いものが食べたい」という彼の誘いで仕方なく甘味処に足を延ばしたのだ。
英は善哉を食べ終わると手を合わせた。
「御馳走様」
「…満足したのか?」
「うん。次は斉藤さんの好きな居酒屋でも行こうか?」
俺は隊内では「蟒蛇」と揶揄されるほど酒に強いが、英もまた酒に強くいくら飲んでも酔わないのだと言っていた。それは幼いころから陰間として酒を口にしてきたせいもあるだろう。今のところ俺に付き合って酒が飲めるのは英だけだ。なので辛いもの好きかと思いきや、彼は甘味も好んで食べるらしい。甘いものを前にした満足げな表情は子供のようで、少し沖田に似ていた。
(…いや、似ていない…)
それは妄想でしかない…俺は自分に言いきかせた。
「斉藤さん?」
「…いや、今日は夜番だ」
「そうなんだ。残念だな」
英は目を伏せて心底残念そうな顔をした。
彼の顔半分に残る火傷の痕は今でも痛々しく残っていたが、俺にとってはそれもまた彼の一部であると自然と受け入れることができた。本人もまたこれまでその整いすぎた見目のせいで翻弄されてきたらしく、「せいせいした」と清々しく語っていた。それに火傷の痕があってもその目立つ見目は変わらない。
「出よう」
俺は席を立った。もともと甘いものが苦手な俺にしてみれば甘味処に居るというだけで苦痛なのだ。そんな俺のことを知っている英はくすくす笑いながらも同じように席を立った。
秋の空の合間から差し込む陽の光は未だに夏の名残を残している。その強い光が地面から反射して、うっすらと陽炎ができていた。
「暑いね」
英は髪を掻き上げるように持ち上げた。少し汗ばんだ横顔は俺にあの夜のことを思い出させる。
あれ以来、英と寝ていない。それどころかあの夜を示唆するようなこともなかったし、彼から誘われることもなかった。まるで何事もなかったかのような、友人関係だ。
今の俺は一晩限りの夢を見ただけだと思っている。英を抱きしめながら、想いの届かない彼を夢想する…あの夜はそんな弱い自分を英の前に曝け出した、振り返ると醜態としか言えない時間だった。だから英の素っ気ない態度は有難いものだったが、同時に言いようもない罪悪感を覚えていた。だからこうして彼の呼び出しに応じて友人のように会っているのかもしれない。
(何故だ…)
その答えが出ない。いや、答えを出すことすら億劫なのだ。
「じゃあ…」
俺が別れを告げようとするが、英は「そうだ」と言い出した。
「縁談」
「…は?」
「縁談話は聞いた?」
英は時折、脈絡もない話し方をする。俺が言いかけた別れの言葉を塞いだのはわざとなのか、それはわからない。
「…何の話だ?」
「そうか、聞いてないんだ」
「誰の縁談だ?」
「沖田さん」
「な…」
まさかその名前が出てくるとは思わず俺は素直に驚いた。そんな俺を見て、英はからかうように笑った。
「…っ、冗談か?」
「冗談じゃないよ。近藤局長に頼まれたとかで今、南部先生が相手を探してる。会津藩医だからそれなりの伝手もあるだろうし、何だったら松本先生の縁もある。今頃良家の娘さんでも見繕っているんじゃないかな」
「……」
嘘だ、と思った英の話に近藤局長や松本先生等の名前が出てきて信憑性が増し、それが本当なのだと思い知らされた。
英の背中で陽炎がゆらゆらと揺れる。柄にもなく俺の首筋に汗が伝う。
(きっと…俺のものにはならないのだろうと思っていた…)
彼は親愛なる兄弟子とともにこの先を歩んでいくのだろう、と。俺は彼の後ろでその背中を見ながら追いかけて、たまに倒れそうになるその背中を支えていくだけ。傍に居られるのならそれも悪くないと思っていた。
だが、縁談が為ればその彼の横に見も知らぬ女子が寄り添う。それを想像するだけで…言いようもない感情が込み上げてくる。
俺の一番大嫌いな、感情が。
「…なぜ、俺に言う?」
俺は強く英を睨みつけていた。いずれ公になるかもしれないことだが、決して知りたい話ではなかった。それを英はよく知っていたはずだ。
けれど彼は微笑んだまま続けた。
「斉藤さんだから言ったんだよ」
「…」
「理由は、言わなくてもわかるでしょ」
飄々と語る英の瞳の奥に、何かが宿る。
『総司…』
あの夜、英のことをそう呼んだ時に同じ顔をしていた。瞳の奥が昏く陰る――しかしそれをすぐに隠して彼は笑った。
「じゃあ、また」
そんな気軽な挨拶で、片手をあげて背中を向ける。
その姿が陽炎に消えていった。









それから数日後。
残暑の厳しい季節に、紋付き羽織を着ている沖田を見かけた。こめかみにうっすらと汗をかいていて、顔色が優れない。近藤局長と立ち話をした後、部屋に戻るようだったので
「暑苦しい格好をしているな」
と声をかけた。
「ええ…ずっと私も脱ぎたいと思っていたんです」
沖田は苦笑した。
「局長のお供か?」
「お供というか…まあ、そんなところです」
彼は曖昧に言葉を濁した。
その格好の意味は英から伝え聞いていたのでもちろん分かっていた。おそらく彼は親代わりともいえる近藤とともに見合いをしてきたのだろう。まさか俺を相手に「見合いをしてきた」とは流石に鈍感な彼でも言えなかったのだろう。
羽織を脱ぎながら「それよりも」と話を切り上げた。
「松原さんは屯所には戻っていませんか?」
「ああ…見ていない」
「そうですか…」
「どうした」
俺が尋ねると、彼は少し迷って声を潜めた。
「その…町中で松原さんに会って…おなつさんと一緒でした」
その事実に対して驚きはあったものの、(やはり)という感情の方が勝った。松原は切腹をはかってからずっと塞ぎこんでいたので、何かのきっかけがあればなつのもとに戻るのではないかという危惧があった。
「…そうか」
「引き留めて問い詰めましたが…何を言っても松原さんには届きませんでした。おなつさんとともにいるのだと決めきっていて…」
「女を選んだのか…」
「たぶん…もしかしたら、もう…」
「嫌な予感が当たったか」
予感していたこととはいえ、実際にその通りになったというのは不快だった。松原の再起を信じていた近藤局長をはじめとした隊士たちは失望するに違いない。そして土方副長も黙ってはいないはずだ。
(副長は…気が付いていないのか?)
沖田が町中で会ったということなら、堂々と連れ立って出歩いているということだ。だとすれば監察が気が気が付いているはずであり、その報告は土方副長に上がっているだろう。しかし今のところ副長に目立って動きはない。
「…あの女とで歩いていたからといって、決めつけるわけにはいかない。土方副長に報告をして様子を見たほうがいい」
俺はこの先に起こることを考えるのをやめた。松原が選んだ道はすでに途絶えている…それを考えるのは億劫だ。
「そうですね…」
沖田は力なく返答した。
松原がなつとともに姿を見せた…ただそれだけで落ち込んでいるようには見えない。もちろん松原に情はあるだろうが、彼はある程度の線引きをしている。隊規を破った者に情けを掛けたりはしないだろう。
すると彼は思わぬことを口にした。
「斉藤さん…私のことを『何をも得ている』…と思いますか?」
「は…?」
「松原さんにも山南さんにも…そういえば宗三郎さんにも言われたんです。私は自分の思うように、思われている。それを普通だと思っている私は『何もかもを得ている』…満たされている私には、何もわからない。苦しみ、もがく人の気持ちがわかるはずがないのだと…。斉藤さんもそう思いますか?」
彼から感じていた何とも言えない倦怠感。その原因を聞いて俺は唖然とした。
しかしその言葉で責めていた人々は彼のことを何も知らないのだろうと思った。
何ものをも得ている、けれどもそのかわりに失ってきたものもある。その苦しみを知らないからこそ、そうやって表面的な部分を見て羨んでいるだけのことだ。
「…そんなことはない」
俺は自然と軽く笑っていた。沖田はそんな俺を見て驚いた顔をしていた。
「斉藤さん…」
「何を言い出すかと思えば、そんなことか。…あんたは目立つから、傍から見ればそう見えるかもしれない。卑屈な人間からすれば、華やかに映るのかもしれない。しかし…だからといって、あんたが何も苦労していないわけではないだろう。何かを怠ったわけでもなく、力を抜いたわけではない」
「…そうでしょうか?」
彼は自信のない表情で首をかしげる。彼にとって当たり前すぎて自覚がないのだろう。
「少なくとも俺は、そう思う。だからそんな言葉に惑わされる必要はない」
俺は背中を押す意味でもきっぱり言い切る。だが「励ます」など自分らしくない行動だと思い、彼の肩を軽く叩いて通り過ぎた。


松原がなつとともにこの世を去ったのは、それから数日後のことだった。組長の衝撃の結末に隊内の雰囲気が沈む中、俺のもとに手紙が届いた。
「斉藤せんせ、意中の妓からでっせ」
いつもの年老いた小者がにやにやと意味深にほほ笑みながら俺に手紙を渡した。小さく折りたたまれたそれは『ご存じより』とある。傍目に見れば恋文に見えるだろうが、これは英の手だ。
妙に言いふらされるのは面倒なので、口止め料として銭を渡した。小者もそれを弁えていて「へいへい」と受け取ると足早に屯所を去っていく。
手紙を開くといつもの居酒屋で待っているとあった。英は俺の非番を知って手紙を送りつけてくる。もちろん約束なんてしていないのだから反故にしても良いのだが、なぜだかいつも俺の足は自然とその居酒屋に向いていた。
(これは罪悪感なのか…?)
彼の呼び出しに応じてしまうのは、あの夜のことがあるからだろうか。たった一夜のことだと割り切って忘れてしまえばいいものの、それからずるずると英に会いに行ってしまう。彼に引き寄せられるようだ。
いつもの居酒屋に辿り着くと、すでに英がいた。昼間から飲みにやってくるような連中が集まる中、英が座っている場所はまるで清涼な空気が流れているように見えた。
彼の隣に座って何気ない雑談を交わす。雑談と言っても一方的に英が話すだけで、俺は相槌を打つ程度だ。
「心中、らしいね」
町中を行き交う噂というのは飛脚よりも早く伝わっていく。それはすでに英の耳にも入っていたようで、居酒屋でそんな話になった。
「新撰組隊士と人妻の許されない恋…『壬生心中』なんて煽って伝わっているよ。面白おかしく…悲劇的にね」
「…そうか」
俺は酒を口にした。
松原の死は恋人のなつに撃たれて死ぬ…という武士としても新撰組隊士としても不名誉なものであったため、あえて「心中」として公表された。事実は幹部以上しか知らず隊士たちもそのように信じているが、思惑通り広まっているようだ。
「本当のことなんて本人同士しかわからないのだろうけれど…きっとそんなに美しいものじゃないだろう」
「まあ…そうだな」
英は酒を口にしてそんなことを口にした。
俺に合わせて酒を飲み続ける彼は、一向にその顔色を変えないまま涼しい顔をしている。かつて彼は「天女」と呼ばれ陰間の中でも有名な存在だった。その顔立ち片鱗は終いの年を迎えた今でも残っているが、火傷を負ったことで少し陰りを見せた。しかしそれが浮世離れした彼の「人間らしさ」を顕しているように俺には思えた。
「この世に純愛なんてないんだ。時を経れば気持ちも変わる…良い方向にも悪い方向にも。それが二人ともいつも同じだとは限らない」
「…」
「だからってそれは仕方のないことだよ。自分の思うように人は変えられないのだから」
英は愁いを帯びた表情で呟いた。
彼はこれまでの人生を陰間としてしか生きてきていない。それは常に人々の欲望の対象にされてきたということであるから、そんな彼が今更、愛や恋だとかを素直に受け入れることは難しいのだろう。
けれどそのように吐き捨てる様はまるで
(自分自身のことのようだ)
そんなことさえ思えた。
すると
「ところで、見合いは反故になったらしいよ」
「…は?」
それまでのしんみりとして雰囲気を一変させて、英は笑う。彼は相変わらず突然話題を変える。
「沖田さんの見合いだよ。南部先生が知り合いの医者の娘を紹介したらしいのだけれど…気に入らなかったのかな、今回の話はなかったことにしてほしいって、局長さんが」
「そうか…」
「安心した?」
ニヤニヤと意味深にほほ笑む英を無視して、俺は酒を注いだ。
(安心…?)
そんなことは思えない。きっと局長は別の相手を見繕うだろうし、その局長の頼みなら沖田もいつか嫁を迎えるかもしれない。
それだけで歯ぎしりしたくなるような感情が込み上げてくる。けれどもそれを誰よりも英に悟られたくはなかった。彼はそんな俺を見て笑うに決まっている。
「ねえ…いっそ自分のものにしたいとか、思わないの?」
英は俺の空いた盃に酒を注ぎながら、訊ねてきた。
そんなことは言われなくとも何度も考えてきた。何度も迷い、立ち止まる彼を見て、この手を伸ばしかけたことか。
(だが…)
その彼が選ぶのは、俺ではない。棘があるとわかっているのに、いつも彼は手を伸ばす。
俺はそれをただ見ているだけだ――。
「…斉藤さん」
「何だ?」
英が俺の顔を覗き込むようにしてみた。その細い髪がさらりと流れる。
「また俺と寝てみる?」
「…なぜだ?」
「さあ…何でだろう。言葉にするよりも、意外に沢山のことがわかるものだよ」
俺は英の言葉にカッと己のなかに炎が灯るのを感じた。
苛立った――俺はわかってほしいなんて言っていない。誰かに理解してほしいと思っていない。ましてや英に言われたくはない。
「俺はまた、お前とは違う名前を呼ぶ」
懐から小銭を出して机に置いた。ガンッという激しい音が鳴ったが、周囲も騒がしいため英にしか聞こえていないだろう。俺のいら立ちは十分伝わったはずだ。
しかし、英は涼しい顔をしたまま微笑み、
「――…それでもいいよ」
と頷いた。
それがどういう意味で意図があるのか、俺にはわからない。けれど無性にこの場所を離れたい。
「…しばらく俺に手紙を寄こすな」
そう言い捨てて俺は背中を向けて去った。英がどんな顔をしていたのかはわからない。





暑さを残した秋から、冬に近づく風が吹き始めた。
時が過ぎた今、英からの手紙は途絶えていた。最初は彼が「手紙を寄こすな」という俺の言葉に素直に従うとは思っていなかったが、あれから何の音沙汰もない日々が続いている。
(これでいい)
英が新撰組に害を与える存在ではないとわかった以上、彼に関わる必要はない。ようやく安寧の日々が戻ってきたのだと俺は割り切っているつもりだったが、なぜだかあの時感じた苛立ちだけは残っていた。
『また俺と寝てみる?』
彼は陰間である自分と決別したはずなのに、なぜそんなことを言ったのか。俺はそればかり考えていた。
「おはようございます。斉藤さん」
朝餉を終えたあとの稽古の当番は、俺と沖田だ。稽古着に着替えた彼が声をかけてきた。
「ああ…寒いな」
「そうですね。でも朝から汗を流して体を温めると頭がすっきりします」
「そういうものか?」
「そういうものです」
沖田はそう笑った。
俺たちは並んで壬生から移築した稽古用の道場に向かった。
「…そういえば、伊東参謀の話は聞いたか?」
「ええ、馴染みの方を身請けされて別宅を構えるとか。相手の方は相当可愛らしい方だそうですね」
「知らないのか?花香太夫という。伊東参謀のあの顔だから、島原では前々から評判の二人だった」
「へえ…斉藤さん、詳しいですね」
「有名な話だ」
女関係に疎い沖田は伊東参謀の馴染みなど知っているわけもない。彼は小さくため息をついた。
「土方さんは敵の拠点が増えるだけだとか、相変わらず伊東参謀を敵対視しているようですけど。でも、反論する理由も言葉も見つからなかったみたいで、まあ不承不承という感じでした」
「それはそうだろうな。近藤局長や原田さんの例があるのだから、拒むことはできない」
「悔しそうでしたけどね」
沖田は苦笑しつつ、続けた。
「…ああ、原田さんといえば夏頃に生まれるそうですよ」
「ふうん」
「楽しみですよねえ。原田さんの子供、なんてどんなやんちゃな子が生まれてくるんでしょう」
沖田は嬉しそうに笑っていたが、原田さんの子どもとは言えども俺の興味のそそる話題ではない。しかし、
「やんちゃとは限らないと思うが…近藤局長はあんたにもそうなってほしいと思っているんじゃないのか?」
と問いかけてしまった。沖田がどんな反応をするか見て見たかったのだ。
すると沖田はしばらく首をかしげて、
「…ああ、もしかして見合いの話ですか?」
と言って困ったように続けた。俺が知っているということに驚いたようだ。
「まったく…どうしてそんなに早く話が広まるんですかね」
「紋付き袴を着て、局長と二人で芝居に行ったと聞けば大抵、察しがつくものだろう」
英から聞いたとも言えず、俺は当たり障りのない返答をした。
「…じゃあ、寸前まで察しがつかなかった私が馬鹿みたいじゃないですか」
「そうかもな」
「見合いは受けましたけど、私にはそのつもりはありません。皆にもそう言っておいてください」
沖田のきっぱりとした返答に、俺は「ああ」と短く答えたが、内心自分の苛立ちが収まっていくのを感じた。女との色恋沙汰に興味がない彼の姿をみると安堵してしまう…彼は縁談など受けずに土方副長とともに生きていくことを選ぶのだろう。それはそれで忸怩たる思いはあるが、どこの誰とも知らぬ女を迎えられるよりはましだ。
『安心した?』
英のあの日の問いかけが耳を掠める。
(うるさい)
と俺は心の中で言い返す。
そうしていると道場に辿り着いた。まだ稽古前のはずだが勢いのある声が響いていた。
「…あれ?もう稽古が始まっているのかな」
沖田とともに道場に顔を出す。すると数名の隊士たちが食い入るように、撃ち合う二人を見つめていた。一人は沖田の組下である島田、そしてもう一人は
「土方さんっ?」
沖田は思わず声を出して驚いた。俺もまさか土方副長とは思わず目を見開いていた。
二人は真剣勝負で撃ち合っている。土方副長よりも体格の大きな島田だが、土方の勢いに押されて守りに徹していた。激しい竹刀の音と特徴的な副長の声が道場に木霊していた。
「沖田先生、斉藤先生、おはようございます」
「山野君、どうしたんです今日は…?」
「わかりません。土方副長が突然いらっしゃって…稽古が始まるまで付き合えと、島田先輩に」
「へえ、珍しいなあ…朝が弱いからいつもこの時間は寝ているのに…」
沖田が組下の山野と話している横で、俺は試合を見ていた。
天然理心流とは少し違う型を身に着けている副長の剣筋は荒々しい。俺からすると危うい場面もあるがそれを即時の判断で交わしていく…そんな彼の器用さが滲み出ている剣術だ。それは試衛館に居た時から変わらない。
俺が試衛館に居たのは半年にも満たない期間だけだ。芹沢との確執から試衛館を去ったが、その短くも充実した日々は俺の人生の中でも数少ない輝かしい時間だ。
環境は変わったが、仲間と言える人々の場所に今もいられる。
(…案外、それだけで恵まれているのかもしれない)
そんなことを考えていると、副長と島田の試合が終わった。最後は副長に押し切られるように島田が尻餅をついてしまったようだ。
俺と沖田が来ていたことに気が付いていなかったのか、副長はバツの悪そうな顔をした。
「もう来ていたのか」
「はい。珍しいですね、朝稽古は昔から嫌いじゃないですか」
「ふん…そういう気分だっただけだ。…汗を流してくる」
副長はそう言って道場から出ていく。自身がここにいることで道場に緊張が走っていることにはもちろん気が付いていたので、早々に姿を消したのだろう。そのおかげでようやく稽古を始める空気になったが、沖田は
「斉藤さん、ちょっと稽古を任せていいですか?」
と申し出てきた。土方副長を追いかけるのだろうと思った。
「…ああ」
「すぐに戻りますから」
沖田が去っていく姿を見ながら、俺は(これでいい)と思った。
焦燥感はある。どうして自分のものにならないのだろうという気持ちは確かにこの胸に。けれど、沖田と土方副長が並んで生きていく姿は何にも代えがたい稀有なものに見えるのだ。それは二人が歩んできた道を知っていて、この先の険しい未来さえ予感しているからかもしれない。
(俺は報われたいわけじゃない)
綺麗ごとなのかもしれない。
『言葉にするよりも、意外に沢山のことがわかるものだよ』
「…うるさいな」
俺は脳裏に過った声を振り払うように竹刀を持った。



そのまま立ち消えになるかと思った見合い話は、それからも続いた。隊内でも彼の縁談を囃し立てるように噂が流れていた。
十一月のある夜。夜番を務める一番隊と三番隊は巡察を終え、屯所へと歩いていた。
「それで、見合いはどうなったんだ?」
先頭をお互いの伍長に任せ、俺が尋ねると沖田は「は?」と目を見開いた。
「いつまで経っても話が進まないから、近藤局長が痺れを切らしているという話だったが」
「…斉藤さんまでそんなことを聞かないでくださいよ」
「明確な答えを出さないのが悪い」
と俺は言い捨てた。彼は返す言葉がなかったようで「おっしゃる通りです」と返答するしかない。だが実際にその噂に過敏に反応しているのは俺の方だ。
近藤局長は未だに沖田の見合い相手を見繕っているとのことで、松本先生や南部先生に紹介してもらっているようだ。俺はこのまま沖田が断り続ければいいと自分勝手に思っているのだが、彼は少し疲れているようだった。
「先生を納得させられるような上手い理由が思い浮かばないんです。近藤先生はその…土方さんとのことと、見合いは関係ない、良い人と夫婦になり沖田家の血筋を絶やさないことが大切だと繰り返すばかりで…」
「それは仕方ないだろう」
と俺があっさり肯定したので、彼は驚いたようだった。
「…意外です。斉藤さんはきっと、血筋とが家柄とかそういうのは気にしないと思っていたのに」
「確かに俺自身はそういうことに興味はない。家から勘当されているような身だ。それに家族なんていずれ荷物だと感じるだろうし、もともと子供が好きではない」
「だったらどうして…」
「俺が仕方ないと言ったのは、近藤局長があんたに身を固めてほしいと望むことについてだ。局長からすれば弟も同然なのだから、それを世話したいと思うのだろう」
「…」
近藤局長が沖田のことを家族同然に思いやっているのは知っている。だからこそ、良い家柄の嫁を貰って安泰な暮らしをしてほしい…そう願うのは当然と言えば当然だ。その事実を否定するつもりはない。そんな近藤局長の気持ちを沖田も無碍にはできないのだろう。彼は小さくため息をついた。
「こう…自分の気持ちが上手く言葉にできないんです。それに姉が近藤先生に頼んだようで、そのことが余計に近藤先生に拍車をかけているんでしょう」
「それだけではないだろう。おそらく己の身に万が一何かあればと考えているはずだ」
「己の身…?」
「聞いてないのか?」
沖田があまりに茫然としているので、俺は口を滑らせてしまった。
「聞いてって…何をですか?」
「近藤局長が長州に行くという話だ。副長は何も言っていないのか?」
「…近藤先生が、長州に…?」








冬の風が吹く冷たい夜。
隣である一番隊の部屋から物音がして、俺は目を覚ました。なぜだかそれが沖田だろうという気がして体を起こした。
巡察の途中、うっかり口を滑らせてしまった局長の長州行き。沖田には寝耳に水だったようで表情を変えてすぐに屯所に向かって駆け出して行ってしまった。巡察はほとんど終わっていたものの、組長が駆け出してしまったため隊士たちも驚いているようだったが、俺は「急用ができたようだ」と適当な言い訳をしてそのまま一番隊と三番隊の隊士たちを従えて屯所に戻った。
(言うべきではなかったな…)
沖田はもちろん近藤局長の長州行きを反対するだろうし、酷く動揺するはずだ。副長もそれをわかっていたからこそ、彼へ伝えていなかったのだろう。あっさり伝えてしまった己の浅はかさを考えると、沖田のことを放ってはおけなかった。
俺は綿入れを掴み、物音を立てないように部屋を出た。しんと静まった西本願寺の屯所を見渡すと、ぽつんと一つ明かりがともっている場所があった。
俺は少し近づいて遠巻きに彼を眺める。蝋燭を一本灯し、綿入れを着込み身体を丸めて、けれど視線は西本願寺の正門へと向いていた。そこには門番の隊士二人が控えているだけで何の動きもない。
確か今日は局長は会津に呼ばれて会合に顔を出しているはずだ。真夜中にまで及ぶ宴はいつ終わるのかわからないが、彼は局長の帰りを待っているのだろう。
長州行きは何も今日明日の出発ではない。なのに逸る気持ちが抑えられなかったのは近藤を思う彼らしい行動だ。
俺は彼へ近づいた。ギシィと床板が軋む音がして気付かれた。
「…まだ待っているのか?」
「厠ですか?」
「ああ…まあ、そんなところだ」
俺は彼の質問に曖昧に返答して、隣に腰を下ろした。
「随分、帰りが遅いんだな」
「そうみたいですね。近藤先生が会津や諸藩との会合にたびたび足を運ばれているのは知っていましたけど、こんなに夜遅くまでなんて…。私はよっぽど、稽古をしているほうがマシです」
「それはそうだな」
それには同意した。局長のように上役の機嫌を伺ったり、副長のようにあれこれと策を巡らせるよりも、道場で竹刀を振って己を高める方が随分マシだ。
沖田の視線は未だに門の外へと向いている。俺は一息ついて口にした。
「悪かった。…余計なことを口にした」
「…いいえ。むしろ、斉藤さんには感謝しているくらいです。きっと近藤先生や土方さんは間近まで何も教えてくれなかっただろし…」
沖田の返答に俺は少し安堵した。けれど彼はそのうち眉を顰めて俯いた。
「でも近藤先生に何かあったら…そう考えるだけで、胸が締め付けられます」
幕府側の一人の兵として敵地である長州に足を踏み入れる。沖田からすれば敵ばかりの場所に突入していくようの感じられるだろう。長州行きに反対するのは当然の反応だ。
だが沖田からすれば部外者である俺は、冷静に捉えていた。
「…俺は悪い話ではないと思う」
「え?」
「煮え切らない長州に対して揺さぶりをかけるのは必要なことだ。そしてその大役に大名でも幕臣でもない…武士でもない近藤局長が随行する…局長にとってこれほど名誉なことはない」
「それは…そうかもしれませんが」
「古来より武士は戦場で武功を上げることによって褒賞を得てきた。新撰組も池田屋という戦場を経たからこそ、こうして幕府に認められている。だから今回のことも、名誉なことだと喜んで戦場に送り出してほしい…近藤局長はそう望んでいるに違いない」
「…」
彼は二の句が継げないようだった。彼にはそこまで考えが及ばなかったのだろう。
局長という立場を鑑みれば、確かに『新撰組の局長』とは敵の標的になりやすい目立つ存在だろう。未だに池田屋の一件を恨んでいる浪士は多い。しかし一方で、近藤勇という男は忠国の心を持った熱い男でもある。今回の永井様からのお話は局長としてではなく、一人の男としてとても光栄に思ったはずだ。
「…斉藤さんと話をしていると、迷ってきました」
きっと沖田は理解してたはずだ。しかしそれに感情が追い付いていないのだ。頭を抱える彼を見て、俺は苦笑した。
「てっきり副長からそのような話があったのだろうと思っていたが…」
「いえ…そう言われると、確かに土方さんもどこか慌てているような感じでしたから…」
冷静に考えれば、土方副長も俺と同じ考えに行きつくはずだ。近藤局長の立場を押し上げる良い機会になるだろうと。しかしそんな彼も冷静で居られないほど、長州行きには複雑な思いがあるのだろう。判断を迷う、副長の『人間らしい』姿だ。
それから沖田は口を噤み、俯いた。彼の長い睫毛が伏せられその横顔を俺はなぜか見ていた。
すっきりとした輪郭、暗闇の中でもわかる白い肌。誰もが目を奪われる整った鼻梁は、俺にとってはどれだけ近くとも高嶺の花のような存在だ。
(このままでいい…)
触れれば折れるような彼の隣にいることを許されるだけで、心は満たされている。触れることも、抱きしめることもできないけれど、この距離感が心地いい。
「あっ」
沖田は声を弾ませた。俺が彼の横顔を眺めていることに気が付いたわけではない。門の方に動きがあり提灯を手にした二、三人ほどが屯所に戻ってきたのだ。彼らは近藤局長とともに警護役として今夜の会合に向かった隊士たちだ。
だがその中に近藤局長の姿はない。
「お帰りなさい…近藤先生は?」
「今夜は別宅でお休みになるとのことでした」
「そう…ですか」
隊士たちの非情な報告。もちろん彼らに非はないのだが、沖田はあからさまに落ち込んだ様子だったので、
「ご苦労だった」
代わりに彼らへ声をかける。隊士は戸惑ったもののそのまま部屋に戻っていった。
俺は立ち上がり、息を吐く。別宅に戻ったということなら、帰りは朝になるだろう。これから別宅に押し寄せるわけにはいかないのだから、休むしかない。
「…局長が戻られないのなら、仕方ないだろう。部屋に戻って休むんだ」
「そう…ですね」
沖田は落胆していた。約束をしていたというわけではないのだろうが、もどかしくやり切れない気持ちが募ったのだろう。
俺は何も言わずに、片手を差し出した。そうしなければいつまでも彼はここに留まり、局長の帰りを待っていそうだった。彼は迷ったようだが手を取り立ち上がる。すると、足が痺れていたのか
「わ…っと、すみません!」
「!」
とバランスを崩して俺の方に倒れ掛かった。俺はとっさに彼の両肩に手を回して支える。
触れた手から伝わる彼の熱が、一気に俺の中に溶け込んでくるようだった。そしてその熱が俺の気持ちさえもその輪郭から、根幹から揺るがせていく。
俺は言い聞かせた。
(この距離感でいいはずだろう…)
友人の一人として隣にいる。
充足感を得ていたのに――まだ足りないともがく。
手を伸ばせば触れてしまう――どうせ自分のものになるわけでもないのに。
(くそ…)
『それは仕方のないことだよ。自分の思うように人は変えられないのだから』
(ああ、その通りだ)
英の言葉が蘇る。
何度も諦めてきた。それは彼の気持ちは彼自身のもので、俺の思うようにはならないのだと何度も実感したからだ。
そして自分の気持ちさえも、ままならない。
でもこうして抱きしめることができる場所にいる。俺は無意識に彼の背中に手を回した。
「さ、斉藤さん…?」
彼が腕の中で動揺しているのが分かったけれどなぜか拒まなかった。暫くそのままでいた。彼の鼓動が聞こえる。きっと彼にも俺の鼓動が聞こえている。
『ねえ…いっそ自分のものにしたいとか、思わないの?』
俺の脳裏に英のあの時の言葉と、その顔が浮かんだ。それはまるで悪魔のささやきのようだったが、同時に悲しみを帯びていたように聞こえた。
このまま乞われるくらいに抱きしめて、押し倒してみれば――。
『言葉にするよりも、意外に沢山のことがわかるものだよ』
ああ、わかるのかもしれない。
きっとわかるのは、
彼が別の人を好きだということだ――。
「――やはり冷えている」
俺は沖田の身体を離した。そしてまるで何事もなかったような顔で「部屋に戻ろう」と背中を向けて去った。
そしてそのまま部屋に戻る。床はすっかり冷えていたが、おかげで火照った頭が冴えていくようだった。





翌日。
「沖田はどうした?」
沖田のは顔色が悪いと騒ぎ立てた島田魁と山野八十八が、南部先生の医療所から戻ってきた。おそらく昨晩、夜風に当たりすぎたのが良くなかったのだろう。
「はい、沖田先生は南部先生の医療所で養生されることになりました。南部先生はご不在でしたが、松本先生がいらっしゃったので…」
「そうか」
「明日の稽古番は斉藤先生に代わってもらうようにとのことでした」
「わかった」
島田と山野の報告に対して、俺は短く返答してその場を去る。幕府御典医である松本先生が直々に診てくださるということなら心配はないだろう。
安堵した俺はその足で飲みに出かけることにした。雲の合間から差し込む暖かい光よりも十一月の冷たい風が身に染みる。指先は冷たくなっていたが、しかし俺の身体は昨晩からどこか火照ったままだ。
(…阿保らしい)
俺は自嘲した。
偶然とはいえ倒れ掛かった沖田を支えた時に触れた熱が、いまだに燻っているみたいで…こんなことは初めてだ。
ずっと独りで生きていくのだと思っていた。
昔から誰かとつるむことが面倒だと感じていて、いつも無表情で淡々とした返答しかしない面白みのない俺から常に人は離れていった。だがそれを苦に感じたことはなく、むしろ楽になったと達観していた。
けれど次第に、一人で生きるということは存外つまらないことだと気が付いた。
(気が付いたのは…試衛館に滞在したせいかもしれない…)
同年代の熱い志や、気のおけない距離感を肌で感じて「彼らとなら生きられるかもしれない」と思った。残念ながら芹沢という存在が一時邪魔をしたが、それでもまた同じ場所に戻ってきたのは素直に彼らの友情と熱情が恋しかったからだろう。
(それだけでいいはずだろう…)
俺は自分に問いかける。
自分にとって彼らは代えがたい存在だ。だからこれ以上欲しがってはならない。そう言い聞かせながら歩き続けると、いつの間にか鴨川の袂までたどり着いていた。いつもは混雑する場所も、今日は昨晩から続く冷たい風のせいで人通りはまばらだ。
俺はさらさらとした川の流れを横目に橋を渡った。すると土手の方に目立つ姿があって目に止まった。
(…英…)
英は土手に腰掛けて本を読み耽っていた。彼とは数日会っていないだけだが、なぜだか懐かしく感じられる。しかし川べりの寒い場所で何をしているのだろうか…俺は自然と足を止めてその姿を見ていた。
彼の風に靡く細い髪が輪郭に掛かる。だが彼はそれを気にも留めないで一心不乱に書物に目を落としている。凛とした横顔は遠目にも良く目立ち、誰もが見惚れてしまうような整った顔立ちをしている。男と女…その狭間にいるような曖昧で手の届かない存在。それは誰もが感じることで道行く人が時折、英に気が付いて足を止めていた。
彼はそんな自分自身の容姿のことや、周囲の好奇な目線に気が付いているが涼しい顔で受け流していた。まるで気にする様子はなく、俺が先日言い放った手紙を寄こすな――という冷たい言葉すら、彼には響いていないように見えた。
(くそ…)
俺が少し苛立つと、不意に英が視線を上げた。そして何かに導かれるように俺の方向へ目をやって、視線が重なって正直、どきりとした。まるで俺がみていたことに気が付いたようだったからだ。
英は微笑むと立ち上がって土手を離れ、こちらに歩いてくる。
もちろんこの場を去り彼を避けることはできたけれど、まるで逃げているみたいだと思い、それは癪だと思ってそのままと留まった。
英は土手から橋を渡り俺の目の前に立った。そして
「…なんだ、逃げなかったんだ」
と笑った。まるで心が見抜かれているようで、居心地が悪い。俺は聞こえなかったふりをした。
「こんなところで何をしている」
「見ていたくせに。ご覧の通り、本を読んでいただけだよ」
英は手にしていた本を俺の前に示す。それは見慣れた文字だけでなく異国語も混じった医学書のようなものらしい。
「…だったら、あんなところで読まなくてもいいだろう」
昨晩から続く冬の風は土手では一層冷たく感じるだろう。本を読むだけならどこでもできるのに、わざわざそんなところで読んでいたのは違和感がある。
だが英は「別に」と言って続けた。
「ちょっと面倒なことになったから、のうのうと医療所にいられなくてね。南部先生に迷惑を掛けないようにしているだけだよ」
「面倒?…また何かあったのか?」
俺は先日の彼の古い知り合いだという『泥吉』のことを思い出した。討幕派の連中とつるんでいた泥吉は英にちょっかいを出していて、そもそもその件が英と親しくなったきっかけでもある。
「…まあ、大丈夫だよ」
「はぐらかすな」
「なに、心配してくれるの?」
英はふっと笑って俺に上目遣いで訊ねる。
「…お前が面倒事を起こすと、迷惑だからだ」
適当な返答をして俺は英から視線を躱した。自分でもなぜ英のことを気にしているのかよくわからなかった。
英はふうと深く息を吐いて、俺の隣に立って橋の欄干に背を預ける。先ほど橋の上から見ていた側とは反対の彼の横顔には火傷の傷がある。けれどその傷のおかげで彼が決して孤高で高貴な存在ではなく「人間である」ということを感じられるような気がした。
「昔…といっても、こっちに来て宗三郎になってからだけれど。熱心なお客さんがいてさ…今の居場所も突きとめられたんだ。もう陰間じゃないならもらってやる、不自由な生活はさせないって…拒んだけれどしつこくって。先生や患者さんに迷惑をかけるわけにいかないから、必要のない時は医学所から離れるようにしてる」
「…」
「言いたいことはわかってる。自業自得だって、因果応報だろう?」
英はははっと笑った。だが笑いながらも、その声はどこか虚しく響いた。くるりと背を向けた彼は欄干から川を覗くように身を乗り出した。
「その男に言われたんだ。『何やってるんや?』って。俺は答えられなかった。今はまだ医者の飯事みたいなものだから…って卑下する気持ちもあったけれど、そうじゃなくて…」
そうじゃなくて。
「男にとって俺は陰間じゃないと俺ではないんだ。それを目の当たりにして自分を肯定できていないことに気が付いた。だから何も答えられなかったんだ。…俺はまだ、あの頃に囚われている。馬鹿みたいに…」
欄干から身体を伸ばし、冷たい風に髪を靡かせる。いつもは飄々としているくせに寂しそうに呟く姿は心もとなく見えた。
「新しい人生をやり直すって難しい。過去は過去でいつまでも後ろをついてきて…振り返ればすぐ後ろにいる」
どうしようもない、やるせない表情。
未来は変えることができても、彼が歩んできた過去はもう変わることはない。そのことを俺はよく知っていた。
何も答えることができずにいると、ヒュウッと耳元で風の音がした。俺は英に手を伸ばし、
「…落ちるだろう」
欄干から身を乗り出す彼を引き寄せた。英は少し驚いたような顔をして、しかしふっと鼻で笑った。
「落ちたりしないよ」
「…そうか」
俺は手を放して、続けた。
「医学所を離れていると言っていたが…どうやって暮らしているんだ。宛てがあるのか?」
「どこかに身を寄せて隠れるほどじゃないよ。日中にこうやって暇をつぶして離れているだけで往診があれば同行するし…まあでも今日は、戻れないけれど」
「戻れない?」
「沖田さんが来ているから」
「ああ…」
そうか、と俺は納得した。間の悪いことに、沖田は南部の医療所で養生しているということだったから戻るわけにはいかないのだろう。
「だったらどうするんだ」
「心配しなくても一晩くらいどうにかなる。野宿だってできるし…面倒事を起こして迷惑にもならないようにするよ」
「…」
英は先ほどの俺の言葉を引用する。口が長けている彼にそんな風に言われると、俺も二の句が継げなくなってしまう。そんな俺を見て英は「ふふ」と満足げに笑った。
「じゃあね」
英は俺の傍をすり抜けて背中を向けた。そのまま軽い足取りで俺の元を去っていく。
十一月の寒い冬の夜に野宿など身体を壊すだろうし、あの容姿で野宿など狼の群れに飛び込むようなものだ。彼を引き留めるべきだろう――と、そう思ったけれど追いかけることはできなかった。
きっと彼は俺の差し伸べた手など、払いのけてしまうだろう。
俺が誰にも踏み込むことがないことをわかっている。だからこそ刹那的な庇護などいらないと、拒む。
「くそ…」
苛立った俺は、英とは反対方向に歩き出した。







ようやく近藤局長らが出立する日取りが決まった。
当初は局長の出張に反発していた沖田もようやくそれを受け入れてたようだ。局長を信じるからこそ、笑顔で見送らなければならない…そういう覚悟を決めたのだろう。
しかし、一方でその顔色は未だに冴えなかった。
(原因とも言えるのはおそらく縁談のことだろう…)
そう察しはつくが、俺は彼には何もいうことはできなかった。どうしても出立前に近藤局長は彼の見合いを進めようと考えていることは気にかかるが、彼自身が答えを導き出さない限り、俺にはどうすることもできない問題だと思っていた。
それに加えて俺には気になることがあった。
「…いない、か」
俺は鴨川にかかる橋の欄干から、なんとなく土手の方へ目を向けていた。そこは先日、英と顔を合わせた場所だ。あれから今日のような非番の日や巡察の合間に足を伸ばしたが、あの日以来彼に会うことはなかった。
「…」
自分でもなぜ、英のことを考えているのかわからなかった。
彼はかつて陰間だった頃の客にしつこく言い寄られ南部先生の医療所を離れていると言っていた。彼はそれを『自業自得』だと言いつつも迷惑そうにしていたが、その男を拒むことができず、かつての陰間である自分と決別しきれない自分を嘲笑っていた。
もう自分を安く売ったりはしない…けれど。
(だったら…なぜ、俺と寝たんだ…)
江戸の知り合いの男に絡まれ、ふとした事情があって彼と寝た。そこには愛情など微塵もなく、かわいそうだという同情と即物的な欲望しかなかったけれど彼はそれっきりにはせず、その後も俺と何度か会った。
(何を…考えているんだ…)
彼が見えない。
「斉藤せんせ?」
橋の上で立ち止まっているとふと声をかけられた。俺の名前を知っていて声を掛ける者は非常に少ないので、声を聞いてすぐにわかった。
「…山崎さん」
山崎丞。元々は新撰組の監察をまとめ、土方副長の信頼を得ていたが、今が医学方として南部先生のもとで学んでいる。彼は監察という立場だったので、俺は密に連絡を取り合うことが多く、古巣である試衛館食客たちの次に会話を交わす機会がある人物でもある。
「こないなところで会うやなんて」
「…確かに」
俺は川べりに視線をやっていたが、傍から見れば橋のど真ん中に突っ立っていただけだ。山崎が声をかけてくるのも当然の状況だっただろう。
「往診の途中か?」
彼は白衣に身を包んでいたが、首を横に振った。
「いや、往診は終わって…ちょいと人探しや」
「人探し…」
「斉藤せんせもご存知のやろ。英はんや」
山崎の口から英の名前が出た途端、少し驚いた。彼は神妙な面持ちで続けた。
「ここ数日、医療所に戻ってへん。南部せんせが心配されて…探し回ってるところや」
「往診があれば戻ると言っていたが…」
俺がつい漏らした言葉に
「なんや、やっぱり親しいんやな」
と山崎は笑った。英と時折会っていることは隠しているわけではなかったが、説明が面倒で誰にも話していなかった。うっかり漏らしてしまったのは迂闊だったと、俺は深いため息をついた。
「…やっぱりとはなんだ」
「俺は元監察や。聞きとうなくても人の噂は勝手に耳に入ってくる。新撰組の斉藤一が見目麗しい青年と酒を飲んでいた…なんて話は何度も耳にしたわ」
ははっと彼は軽快に笑う。土方副長の前では賢ぶっている彼だが、その本質は明るく朗らかな大坂人なのだ。俺がどれだけ仏頂面でいようとも彼は構うことはない。
「ゆうても英はんは何にも言わへん。どんな関係かなんて野暮なことは」
「関係などない。あんたもこれ以上は探るな」
「ははー。そう言われると探りたくなるのが人間の性ゆうもんやけど…まあ今回は堪えましょ」
山崎は恩着せがましく軽口を叩く。そしてひとしきり笑った後、その剽軽な顔を潜めて息を吐いた。
「元々は陰間やけどあの人は賢い。俺もそれなりやけど、この短期間に真っ新な状態から知識と技術を身につけてはる。南部先生も期待して御典医の松本先生直々に指導してもろうて…。せやのに、こんなことでその貴重な時間を無駄にするのは勿体ないことやと思うわ」
「…昔の客、ということだったが」
「金貸の次男や。ゆうてももう四十も近いが嫁も貰わず男女問わずに奔放に遊んでるて評判や。…かつては宗三郎の上客やったらしい。今でも相当執着してるようやな」
山崎はおそらくかつての監察の人脈を生かして調べ上げたのだろう。懐から折りたたまれた小さな紙を取り出して、俺へと押し付けた。
「何だ…」
「細かいことはそれに書いてる。あとは頼むわ」
「は?」
山崎は俺に背を向けた。
「これ以上、あんたと英はんのことは探らへん。そのかわりに今回のことは任せる」
「な…」
「それに俺もそろそろ長州へ出立や。英はんのことは気になるんやけどそうはいってられへんし…ほな、頼むわ」
勝手なことを言って山崎はひらひらと手を振って歩き出した。彼は英を探していると言っていたが、実際は俺のことも探していたのだろう。
俺は手元に残った折りたたまれた紙を恨めしげに睨む。
「くそ…」
苛立った俺はこのまま川に流してしまおうか…とも思ったが、それを開かないまま懐にしまうことにする。
山崎はこれ以上探らないと嘯いていたが、きっと何もかもお見通しのはずだ。新撰組の監察の頂点にいた男なのだから。



それからすぐに近藤局長と伊東参謀、それに山崎らを加えた一行は長州へ向かって出立した。
英のことを頼まれたものの、山崎の思惑に簡単に乗るのは癪で、俺は受け取った小さな紙を開くことすらなかった。
いつものように飲みに行こうと古巣の壬生を通って南に向かうと、聞きなれた声が聞こえてきた。
「為三郎は見つけるのが上手だね」
「沖田はんが隠れるのがへやくそなだけや」
「あはは、ごもっとも」
壬生寺では、子供たちとはしゃぐ沖田の姿があった。壬生にいた頃はよく見ていた光景だが、西本願寺の屯所へ移って以来、彼がそんな風に子供と遊んでいる姿を見ていなかったのでとても懐かしい。
俺はしばらく立ち止まってその姿を見ていた。
子供に混じって遊ぶ様子は無邪気にも見えるが、時折その横顔に影が指す。心に靄を抱えているのは明らかであり、しかしそれでも子供たちに悟られまいと振る舞う姿は痛々しくも映る。
(縁談などさっさと断ればいいものを…)
近藤局長の勧めだろうが、何だろうが、自分の意思を貫けばいい。彼が土方副長とともにその道を歩むなら、俺はその傍で彼を支えると誓える。きっと俺と彼は『そういう関係』が一番良い。
そんなことを考えていると、「あっ」と彼がこちらに気がついたようだ。
「斉藤さん!」
「…なぜここにいる?」
「ご覧の通り壬生の子達と遊んでいるんですよ。斉藤さんこそどうしてこちらに」
「通りかかっただけだ」
俺の淡々とした返答を「そうですか」と笑顔で受け取る。しかしその背後では鬼ごっこの鬼役の子供が「ろーく、ごー」と数を数えていた。慌てた沖田は俺の手を引いて「こっちにきてください」と境内にある背の高い草むらに隠れることになってしまった。
(子供の遊びにムキにならなくてもいいだろう…)
俺は内心呆れつつ
「なぜ俺が付き合わなければならない」
と尋ねると沖田は尚も「すみません、思わず」と笑っていた。呑気な彼に気が抜けてしまい、
「見つかったら帰る」
と一度だけ付き合うことにする。
背の高い雑草が覆い茂るこの場所はどこか陰気な雰囲気で、子供たちも近寄らないだろう。だが大の男二人が身を隠すには少々狭い。彼の吐息が耳をかすめるほど。
「…いつもこうして遊んでいるのか?」
俺は気を紛らわそうと話しかけた。
「いえ、久々に八木さんに顔を出そうと思ったら為三郎に掴まったんです。…でも今日は遊んで『もらっている』っていう方が正しいかな…」
語尾になるにつれて寂しさを感じる口調。
縁談の件があるとはいえ、彼がかつてないほどに揺れているような気がした。
「見合いの件か?」
「まあ…そうですね」
「以前も言ったが、はっきり断ればいいだろう」
お節介は性に合わないのだが、彼の背中を押すためにもあえて言葉にした。そんなことは俺に言われなくとももちろん彼もわかっているはずだ。
しかし思っていたのは、予想だにしない返答だった。
「いえ…受けることになりました」
「…なに?」
俺の眼は思わず鋭く沖田を睨みつけていた。彼も気がついているだろうが、構わず続けた。
「断るつもりだったんですけど…そういうことになりました」
「…それは嫁をもらうということだろう。それを副長が良いと言ったのか?」
言うわけがないと思って問いかけた言葉が
「土方さんが、そう言ったんです」
まるで跳ね返ってくるようだった。
(信じられない…)
俺は驚きを隠せなかった。
「自分一人だけのものじゃないほうが…良いって、そう言われました。近藤先生のために家の為に縁談を受けろと」
目を伏せて落胆する様子に、彼が必要以上に縁談に思い悩む理由がようやくわかった気がした。彼は信じていたはずの副長の考えが理解できず路頭に迷っているのだろう。
けれど副長のことはわからなかった。
(前にその言葉は聞いたことがある…)
あれは池田屋の時だ。沖田への気持ちを悟られた時、副長は言った。
『ずっと手に入らねえ、手に入らねえってもがいている方がいい』
それはわからない感情ではなかったが、俺からすればそれは贅沢な望みだと思った。
副長はきっと沖田が自分を想っていると確信しているからそんなことが言えたのだろうし、俺が彼のことを想っていてもそれでも『いい』と肯定したのは余裕があったからだ。そんな二人の関係を、俺はある意味では受け入れていた。
けれど、女は違う。
家庭を守り、子を為す女に愛情を持たない男はいない。男色のそれとは全く違うものであり、いつかは土方副長との関係よりも重きを置くこともあり得る。
副長もきっとそれはわかっている。だからこそ
(いくら自信があっても副長がそれを認めるなど…)
理解できない。
「土方副長に従う必要はないだろう。自分のことなのだから、自分の思う通りにすればいい」
苛立ちから俺は食い下がったが、沖田は首を横に振った。
「それはできません」
「何故だ」
「…私にとって近藤先生と土方さんの考えは私の意思よりも上なんです。近藤先生だけならまだしも二人がそうすればいいというのなら、そうしたいと思う…きっとそれは正しいから」
沖田が発した言葉を、俺は幾度となく聞いてきた。自分の考えよりも、近藤局長や土方副長の意思を尊重する。彼のそういう生き方を否定するつもりはないが、美しいと称賛することはできない。
「馬鹿馬鹿しい」
俺は吐き捨てて、強く腕を掴んだ。
「それではただの人形だ。良いように扱われているだけだと思わないのか」
「そんなことは思いません。二人とも私のことを思ってくださっているんです」
「だったらなぜ悲しげにしている。今にも泣きそうな顔をしているんだ」
「…」
ああ、そうだ。きっと二人とも何か理由があって、彼のことを考えてそうしたのだろう。俺の想像のつかない深いわけがあるのかもしれない。
でも俺は気に食わない。
(沖田が自分以外の意思を尊重するように考える…それをあの人にはわかっていたはずだ)
俺からすれば、感情を強いているだけであり、とても副長が彼のことを想っているようには思えなかった。
しかし尚も沖田は彼を庇う。
「もうちょっと時間が経てば、受け入れられると思うんです。今は辛抱するしかない…だから、斉藤さんも気にしないでください」
「気にするな、だと?」
「斉藤さん…」
殺気立った俺の気持ちを逆なでする。
(俺はこんな人間じゃなかった)
誰に対しても何に対しても無関心で無表情に接してきた。それはこれからも変わらないと思っていたのに
「そんな話を聞いて、俺が気にしないでいられるとでも思うのか?」
「…すみません」
(いつもあんただけが…俺をかき乱す)
「謝ってほしいわけじゃない。ただ…」
ただ、
ただ、
「俺の気持ちは、変わっていない」
それを、覚えていてほしいだけだ。
「気持ちって…」
唖然とする沖田を無視して、俺は掴んでいた腕ともう片方の手もとって逃さないように引き寄せた。聞かないフリなどさせない。
「副長があんたのことをそういう風に扱うのなら、俺もただ黙って引き下がるわけにはいかない」
自分の思うままにすることが大切にするということだというのなら、俺はそれを否定する。
俺は彼にそんな風に生きてほしいわけじゃない。俺はそんなことのために、自分の感情を押し殺して彼を支えているわけじゃない。
言葉にするのがもどかしくて、俺は沖田を見つめた。さすがにこの雰囲気の意味を自覚したのか顔を赤く染め、逸らす。
「何を考えているのですか…?」
『言葉にするよりも、意外に沢山のことがわかるものだよ』
英の声が脳裏に響く。
俺にはきっと彼が副長を思っていることしかわからないだろう。現実をまざまざと思い知らされるだけなのだろう。
でも、鈍感な彼はようやく気がつくのかもしれない。
「ここで口付ければ、鈍感なあんたでもその意味がわかるだろうか?それとも寝たらわかるのか?」
「…っ、斉藤さん!」
(俺が…どれだけあんたのことを思っているのか…)
届くのだろうか。
「みぃーつけたー!」
俺の思考を遮るように無邪気な子供の声が聞こえた。すっかり失念していたが、鬼ごっこの途中だったのだ。俺は咄嗟に沖田の手を離し、距離をとった。
「沖田はん、この人は?」
子供の問いはひどく純粋なものだ。沖田はそれに対して
「あ…その、友達かな」
と曖昧に返答した。その後いくつかのやりとりがあって、鬼役の子どもはこの場を離れていく。その間にすっかり頭の冴えた俺は、小さく息を吐いて立ち上がった。
「斉藤さん…」
不安そうに俺を見上げる沖田に対して、俺は謝らなかった。
「訂正するつもりも、誤魔化すつもりもない。忘れてくれとも言わない…それだけだ」
俺はそう告げて去っていく。
彼の関係との足枷になるのなら、と以前は否定した。忘れて、一度は気の合う友人に戻ろうとした。
だが、俺は近づき過ぎてしまったのかもしれない。
触れれば消えるような、儚い存在に。







俺はようやく山崎から託された英の所在の手がかりとなる小さな紙を開くことにした。彼にしつこく迫っているという男の名前と商家の住所が書き込まれていた。俺は一瞥をくれたものの、その場所にいく気にはなれなかった。
(何のために行かねばならないのか…)
という自分への疑問が晴れなかった。そもそもそこに英がいるという確証はなく、迎えに来て欲しいなど英は決して口にはしないだろう。自分自身の意思で男の元に身を寄せているのなら、これを邪魔することはない。
俺が懐にその髪を戻すと
「聞いたか?沖田先生の縁談の相手。南部先生の娘らしいぞ?」
「へえ、南部先生に娘がいたのか」
「何でも養女らしくてな…」
三番隊の隊士たちが沖田の縁談を噂している声が聞こえて来た。壬生にいた頃とは違い、西本願寺の屯所は組長であっても隊士たちと相部屋になる。聞きたくなくとも聞こえる…いまの俺には煩わしい限りだ。
俺の説得も虚しく、沖田の縁談は進んでいるらしい。何でも相手は南部先生の養女である加也だということなので驚いた。彼女のことは医療所に出入りしている時から顔見知りではあった。彼女は才色兼備という言葉が相応しい凛とした女子であり、男を相手にしても怯むことなく、己に課せられた医学の道を歩む…意思の強いところがある。誰にでも穏やかに接する沖田には相応しい相手かもしれない…と少しだけ思ってしまった自分を恨む。
(一体どうするつもりなんだ…)
俺の怒りの矛先は副長へも及んだ。
『俺から見れば沖田さんはあんたたちの傀儡だ。自分たちの都合の良いようにしているだけだ』
巡察の報告がてら俺は土方副長にそう投げかけた。近藤局長や土方副長の意思を尊重するあまりに自分の心に従うことができない沖田が不憫に思えたのだ。
しかし副長はさも『その通りだ』という顔を浮かべて何も返さなかった。むしろ何も返せなかった、という方が正しいのかもしれない。苦痛に顔を歪める副長には俺の言いたいことなんて全て分かっていたはずだろう。
(何か…心に引っかかるものがあるのだろう)
縁談にはおそらくどうしようもない理由があるのだと推察した。おそらくは二人が意見を言えない、この場にいない近藤局長の意向なのだろう。
『遠慮はしないということです』
俺は高らかに言い放ったが、その言葉はどちらかと言えばハッパをかけるものだった。
俺の手に及ぶ問題ではないーーそれはわかっていたから。
「斉藤先生、そろそろ巡察のお時間です」
三番隊の平隊士が声をかけて来た。俺は「わかっている」と淡々と返事をして腰に刀を帯びる。
現在は、近藤の妾である深雪が襲撃されるという事件があり縁談どころではないようだが、それでももどかしい気持ちを抱えながら、俺は部屋を出た。

季節はすっかり冬の様相を見せていて、風は冷たくなった。木々は枯れて足元には落ち葉が流れるもの淋しい風景ではあるが、俺は嫌いではない。凍りつくような風が頭を冷やすのが心地良い。
「不審な者はいませんでした」
「異常ありません」
組下たちの報告を受けて俺は頷いた。
「屯所に戻る」
「はっ!」
俺の命令に彼らは従い、屯所に足を向けて歩き出した。西本願寺に移ってからの対編成は、かつての総長である山南敬助が組み分けをしたものが土台となっているらしいが、三番隊には寡黙で無駄を嫌う隊士が集まっているように思う。山南総長は一人一人の性格などをよく汲み取っていたのだろう、と思う。
俺が殿となって隊列が歩いていると、ふと通りかかった二人組が目に入った。一人は姿勢の悪い歩き方をしているせいで足を擦っていた。膨よかな体型で腹が出て目立つ。そしてもう一人は頭からすっぽりと手ぬぐいをかぶり目立たないように影を歩いていた。俺にはそれが誰だかすぐにわかった。
「英」
思わず俺は名前を呼んだ。彼よりも俺たちの方が目立っているのだから、おそらく気がついているはずだ。しかし俺の呼びかけに答えたのは腹の出た男の方だった。
「なんや?」
人を見下す下卑たる眼差し。すぐにこの男が山崎が知らせてきた商家の次男だということがわかった。
「斉藤先生、どうされましたか?」
一方で隊士たちが足を止めていた。俺は「先に戻ってくれ」と命令を出した。すると男は俺のことに気がついたらしい。
「壬生狼が何の用や」
新撰組だと知った上で威勢の良いことだが、俺が睨み付けると少し怯んだ。
「隣の男に話がある」
「こいつは女や」
「いや、男だ。俺は知っている」
男が英のことを『女』と言ったのは、性別という意味ではなく彼のことをそういう風に見下げているからなのだろう。金にモノを言わせて遊びまわっている男らしい物言いに、無性に苛立ちを感じたが、それ以上に何も答えない英のことが気にかかった。
「話をさせろ」
「…ちっ」
俺が食い下がったので男は舌打ちをして
「話があるゆうてるで」
と英の腕をひいて俺の前に立たせる。そして「この先の茶屋で待ってるからな」と言い残して去って行った。
男が去って行くと英は手ぬぐいをとった。
「…余計なことをしないでよ、斉藤さん」
ため息混じりに英は息を吐く。数日前に見た時よりも痩せていた。
「…あれが例の男か?」
「そう。ああやって外面は大きく振る舞うけど、あんなのはただの虚栄だよ」
「南部先生や山崎さんが心配をしている。どういうつもりだ」
「…」
英は少し言葉を選ぶように沈黙した。
「…別に医学を学ぶことは変わっていない。逃げ回っていたんだけどついに捕まったって感じかな。あの男があんまりにしつこいから、満足するまで付き合っているだけだよ。俺を連れまわすだけであの男の自尊心が満たされるらしいし。飽きたらおしまいだ」
「飽きなかったらどうするんだ」
「飽きるよ。あの男は綺麗な人間が好きなんだ。女でも男でも…不細工な自分の、飾りみたいに扱う。今までだって飽きたら簡単に捨ててきたって噂を聞くし、俺には火傷傷があるから飽きるのは早いだろう。逃げ回るよりも早く終わると思ったんだ」
「…」
俺はその男のことを何も知らないので、英に何も言うことはなかったが、あの下卑た視線を浴びただけで不快になった。生理的に好かないとはこういうことを言うのだろう。英も好んで男と一緒にいるわけではないようだ。
「あの男は、お前を陰間として扱っているのだろう。そういうのはやめたと言っていたはずだが」
「あの男とは寝てないよ。…可笑しいんだけど、不意打ちに組み敷かれてさ、いざ事に及ぼうとしてもあいつは俺の火傷を見て萎えるんだ。美しい顔にしか勃たないなんて病気だよ」
そう吐き捨てる英にはありありとした嫌悪があった。火傷を気にしていないと言い張る彼でも目の前でそのような態度を取られれば怒り、悲しむに違いない。それでも笑ってみせるのはその感情を押し殺した結果なのだろう。
(感情を、押し殺す…)
なぜ誰も彼も、思うままに生きないのか。
「南部先生や山崎さんには心配無用だって伝えておいて。ほとぼりが冷めた頃に戻るし…」
「なぜ逃げ出さないんだ」
「え?」
俺は無意識に英の腕を掴んでいた。
「嫌なことは嫌やだと、助けを求めればいいだろう」
何もかも受け入れて飲み込む。それは時が過ぎれば解決して行くのかもしれない。けれど、それは楽をしているだけだ。
(お前も、沖田も…副長も)
傍からみているだけの俺には、もどかしい。
しばらくは唖然とした表情を浮かべていた英だが、次第に困ったように微笑んだ。
「助けを求める資格なんて、俺にあるのかな」
「…なんだと」
「俺は過去の尻拭いをしているだけなんだから、誰かに助けてもらおうと思ったことすらないよ」
「…」
「ただ、南部先生たちに迷惑をかけないようにしたい。…それだけだよ」
英は俺が掴んでいた手から逃れ、その身を翻す。
「じゃあね」
彼はいつもと同じように、軽く手を振って去って行く。
助けてほしいと言われたら、俺はどうするつもりだったのだろう。
「…馬鹿らしい」
俺はそう呟いた。





「斉藤様」
声を掛けられて振り向くと、南部先生の養女であり深雪の主治医である加也の姿があった。
近藤局長の妾である深雪が襲われてから数日が経った。土方副長は何としても局長が長州から帰還するまでには不審者を捕まえたいと考えているようで毎日交代で副長助勤に別宅に詰めるように命じていた。すると必然的に主治医である彼女に会う機会も増えた。
「ご苦労様でございます。これから警護ですか?」
「ああ…」
俺は適当な返答をしたが、彼女は構わず並んで歩き出す。目的地が同じなのだから仕方ないが、うら若き女性が俺のような男と共に歩くなど好奇な目に晒されてしまうような光景だ。しかし彼女は躊躇する様子はない。
「今日は斉藤様お一人ですか?」
「いや…あとから藤堂が来る」
「ああ、藤堂平助様。とても腰の低くて礼儀正しい方ですね」
「…」
朗らかに語る彼女に内心、苛立っていた。
彼女は沖田の見合い相手である。美貌と才覚に溢れ、会津藩医である南部先生の養女…という申し分ない女性だ。沖田とも気があうようで局長が帰還すればそのまま縁談が成るだろう。いつかは妻として沖田の隣に並ぶ…そんな彼女と話すことが、俺としては気のすすまないのは当然のことだ。
しかし、そんなことは彼女の知る由がない。
「この度のことで、すっかり組長の皆様のお名前を覚えてしまいました。とても頼りになる方ばかりで安心です。それに深雪さんも賑やかなほうが心が落ち着くでしょうから…」
「…それで」
「え?」
「何か話しがあったのではないのか?」
俺は促した。
いくら彼女が気さくだからといっても、反応の鈍い俺に自ら話しかけて来ることは少ない。何か用事があるのだろうと思っていた。
すると加也は少し言葉を選ぶように続けた。
「あの…英のことなのですか」
「…」
「斉藤様は英とその…親しくされているのでしょう?久しく姿を見せていなくて…良順先生や義父が心配しています。どこにいるのかご存知ではありませんか?」
内心、彼女が英のことを尋ねてくるだろうという予感があった。南部先生の右腕として働く彼女が彼のことを気にかけるのは当然だろう。
「…何故俺に聞くんだ」
「それが、山崎さんは斉藤様がご存知だと。英のことなら斉藤様に頼れと」
「…」
俺は思わず舌打ちしそうになった。英の居場所を教えてきたのは山崎の方で、監察の癖が抜けない彼は何もかもを把握しているはずなのだ。
(あくまで俺に任せるということか…)
山崎の悪戯心に深いため息が漏れた。
「…英は熱りが冷めれば戻るといっていた。医学の道を諦めることもないと」
「本当ですか…?」
「わからない。何を考えているのかわからない奴だからな…」
その言葉に嘘がないのかと問われれば、俺には断言することはできない。彼の何もかもを知っているわけではないのだから。
加也は「そうですか」と目を伏せ、続けた。
「…最初はきっと長続きするわけがないと思っていました。医学の道はいままでの英の生き方とは違うものだし、挫折する者は多いですから」
「…」
「けれど、英はあっという間にいろいろなものを吸収して覚えてしまいました。良順先生も期待していろんなことを学ばせて…わたくしには羨ましいと思えるほど」
その表情には様々な葛藤が見えた。女の身で産まれながら医者を志す彼女にはこれまで困難がたくさんあったのだろう。それを飄々と越えて行ってしまった英には羨望と嫉妬があるのかもしれない。けれどそれ以上に彼女
英を高く買っているのはわかった。
「でも英がいなくなって気がついたんです。英は…わたくしたちに一度も助けを求めたことがないって。医学のことだってずっと一人で書物を読んで…聡いのだと思っていましたが、きっとそうではなくて誰かに助けてほしいと言えない環境で育ってきたんですよね」
以前英は自らのことについて、産まれた時の名前すらわからないと笑っていた。薫と名付けられて陰間に売られたのが一番最初の記憶なのだと。それ以来ずっとその世界で生きてきた彼にとって「助けを求める」という選択肢すらなかった。
『助けを求める資格なんて、俺にはあるのかな』
先日、英が口にしたその言葉の意味が途端にとても重くなる。
「斉藤様、どうか英のことをよろしくお願いします」
「…俺がどうにかすることなど、あいつが望んでいない」
「そんなことはありません。きっと英は斉藤様のことを信頼していますから」
「…」
有無を言わせない口調で断言され、俺は何も返答することはできなかった。近藤局長の別宅がいつの間にか眼前にあって、加也は先んじで中に入る。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
彼が助ける資格がないと嘆くのなら、
俺には彼を助ける資格があるのかと。
答えのない問いを繰り返した。



土方副長が刺されて別宅に担ぎ込まれたのはそれから数日後のことだった。その日は別宅に不審者が再び姿を現した。加也が襲われたがその顔をしっかり見たということもあって、何か起こるのではないかという胸騒ぎがあったが、悪い予感は当たってしまったのだ。
「歳三さん…歳三さん…」
沖田は切ない声で呼びかけるが、土方副長
返答はない。意識を失っているようで額から玉のようなもの冷や汗が吹き出ていた。脇腹を痛めているはずの加也がその隣で懸命の処置を続けている。
沖田は震える手で土方副長の手を握っていた。固く結んだその手が俺の目に焼きつく。誰がその間に割って入れるというのだろう。
俺には踏み込めない『何か』がある。そんなことは随分前からわかっていたのに、それを目の当たりにすると、まるですべてのことが無駄なのではないかと思ってしまう。
必死の処置を行う加也は世話役のみねに松本先生を連れてくるように指示を出した。自分の手に負えないことを弁えている、彼女らしい判断だ。だが一方で主人である副長が刺された姿に動揺するみねはまともな受け答えができていない。
「俺が行こう」
そう申し出ると、加也は頷いた。俺の方がよっぽど足は速いのだ。
俺は沖田の肩を引いた。そして
「殺したのか?」
と問いかけた。血まみれの彼らだが、それは副長の怪我だけではないことには気がついていた。
「…はい」
昏く淀んだ返答だった。それは傍にいた加也が気がついてしまうほど、怒りと憎しみが込もった響きを伴っていた。
彼の言葉には副長を刺した相手を心底軽蔑する彼の暗い感情が秘められている。その根底にあるのはもちろん何よりも大切にしている土方副長への思いなのだろう。
「わかった」
俺は玄関を飛び出て走り出した。

それからすぐ駆けつけた南部先生の処置によって土方副長は命を取り止めた。出血はあったが縫合などは問題なくされたようで、数日間安静にしていれば問題ないということだった。
診療所へ戻って行く南部先生たちのなかに、加也の姿があった。脇腹を痛めた彼女はこのまま診療所に戻って療養することになったのだ。
「申し訳なかった」
俺は頭を下げた。
深雪の警護役として別宅に詰めていたにも関わらず、怪我を負わせてしまった。本人は気に留めていないようだが、それでも恐怖を感じたに違いない。
加也は微笑んだ。
「どうか気に病まないでください。深雪さんも土方様もご無事だったのですから。わたくしの怪我など大したことはございませぬ」
「しかし…」
「患者様をお守りすることができたのです。わたくしはそれだけで良いのです」
「…そうか」
彼女の気遣いを俺は素直に受け取った。気丈に振る舞っているだけだとしても、強情な彼女はそれを悟られたくはないだろうと思ったのだ。
加也はふっと息を吐いて笑った。
「それにしても、本当に…助かってよかった。土方様に何かあれば沖田様だって後を追いかねないでしょう」
「…二人のことを知っているのか?」
「いいえ、沖田様にそういう相手がいらっしゃるのは知っていましたが…それが土方様にだということは先ほど気がつきました」
加也は振り返るように視線を向けた。そこにはおそらく眠ったままの土方副長と沖田がいるだろう。
「あんな顔を見れば誰でもわかります。大切で大切で仕方ない…そんな風に見えましたから」
「…わかっていて夫婦になるつもりなのか?」
夫婦になる相手は別に思う人がいる。そんな状況を加也が甘んじで受け入れるように見えなかったが、彼女は曖昧に頷いた。
「…初めからわかっていたことです。わたくしだって沖田様に相応しいとは言えない身ですから…あのかたが望むのなら構いません。ただ…あんな風に思われることが、とても羨ましいとは思います」
「…」
加也はそれ以上は語らずに「失礼します」と軽く頭を下げて別宅の門を出た。外では南部先生が彼女のことを待っていた。
沖田には思う相手がいて、それを受け入れた上で夫婦になる。その決意の裏にどんな事情があるのか俺には分からなかったが、加也が全てを知って受け入れているというのなら、誰も口を挟むことはできないだろう。
二人は夫婦になる。土方を追いかける沖田の傍には加也が寄り添う。
(俺の入り込む余地などない)
どうしようもない事実を突きつけられた気分だ。
俺はそのまま別宅に戻り、二人がいる部屋を覗いた。そこには薬によって深い眠りについた土方と、その傍らに倒れこむように目を閉じた沖田の姿があった。
俺は足音を立てないように部屋に入った。副長はともかく、十二月の寒い夜にそのまま寝ていては風邪を引くだろうと、俺自身が着ていた羽織を肩にかけた。目を閉じる沖田の顔には少しの疲労感があったが、それでも安堵の表情もあった。
伏せられた長い睫毛。その瞳の奥で彼は一体どんな夢を見ているのだろうか。
俺は膝をつき、そのまま身を屈めた。彼の肩を押して顔を少し上に向かせて、その唇を重ねた。
どうしてそんなことをしてしまったのかはわからない。眠っているとはいえ副長の前だ、慎むべきだとわかっていたのに。
(せめてこのくらいは許せ)
どんなに強く、どんなに願っても俺の気持ちが叶うことはなく、彼の心の奥にある川面にこの想いが波打つこともないのだろう。
わかっている。
わかった。
十分すぎるほど、わかっているから。
だから許してほしい。
(俺はもう、捨てられない)
そんなところまで、来てしまったんだ。





家人たちは次男坊の横暴な振る舞いを快く思っていないようだった。商売で稼いだ金が、豪勢すぎる食事や身の丈に合わない衣服、連日の夜遊びに費やされれば当然の反応だろう。数年前まで彼を諌めていた父親は流行病で亡くなり、いまは身体の弱い母親と商売に夢中になるあまりに家のことまで手の回らない長男がいるだけだ。次男坊のお坊ちゃんは三十も過ぎたというのに嫁も貰わずに我儘放題で過ごしている。
家人や使用人たちは影ではそのように嘆息するが意見できる者などいない。閉塞感に満ちたこの家に、最近はついに男を連れ込んだと周囲は辟易としていた。
「これを着てみろ」
「…」
男から渡された紅色の小袖に、英はため息を漏らした。
「似合わないよ…こんな女物」
「俺が見繕ったんだ。似合わないわけがない」
男が断言するので英は諦めて、仕方ないと袖を通す。女郎遊びだけではなく陰間でも豪遊している男だが、決まって男には女装をさせるのだ。
帯を巻いていると、男は満足げに頷いて「踊れ」と指示を出した。英は面倒そうな顔を浮かべたが、それでも扇を手にして優雅に踊ってみせた。幼い頃に仕込まれた踊りは芸妓にも引けを取らない。
部屋には異様な光景が広がっている。衣紋書けに掛かる何着もの絢爛な衣装は呉服屋が持ち込んだものだ。華やかな宴が催されるのではないかと思ってしまうような眩さだが、全ては英のために揃えられたのだという。まるで人形を着せ替えて遊んでいるようだ。
男は酒に手を伸ばしたが、丁度空になったようで
「おい」
と襖の向こうに声をかけた。すると使用人が顔を出す。
「酒もってこい」
「…へえ」
使用人は淡々とした返答して空いた徳利を下げていく。
「ふん、新入りのくせに無愛想な男だ」
男はそう吐き捨てつつ、「英」と呼んだ。英は扇を閉じて手招きされるままに男のそばに膝を折った。
男の隣に座る時は、彼の左側だと指示されている。それは彼が美しいものを好むゆえに、火傷の見たくないからだということだった。
男は英の『美しい』横顔だけをみてにやにやと笑った。
「どれが気に入った。何着でも買うてやる」
部屋中を見渡して問いかける男に、英は戸惑ったように首を横に振った。
「女物の着物なのに、気に入ったものなんてない。こんなことよりもその金を別のことに使ったら?」
「別のこと?」
「こんなにいい着物が買えるなら、祇園なら高い女を呼んで遊ぶことだってできるだろう」
英は憎まれ口を叩く。男の機嫌を損ねてしまいそうな言葉だが、彼はもう慣れたようだ。
「祇園…いや、都中を探したってお前より『美しい』女はいない。何度もそうゆうてるやろ」
「…俺は女じゃないって、何度も言ってる」
「言葉のあやや」
男は気に止める様子もなく笑い飛ばした。そしてちょうど使用人が戻って来て酒を差し出したので、英に酌をさせる。
「そろそろ諦めたらどうや」
「諦める?」
「医者だの、なんだの…俺がいない間はそういう書物を読み漁ってるらしいやないか」
英は男から解放される時間の全てを医学の勉強に費やしていて、文字通り寝る間を惜しんで読み耽るため、男は呆れているらしい。
けれど英は
「あんたの相手をしなくていい時は好きにさせてもらう…そういう約束だったよ」
と頑として譲らない。男は「ふん」と鼻で笑った。
「医者になってどうするんや?」
「…そんなの、あんたに関係ない」
「病人や怪我人助けて…そんなお人好しなことして満足か?今更そんな『おキレイ』な人生歩むんだところで、何が変わるっていうんや?」
「…何も変わらないよ」
「ふうん?」
男は先を促しながら、酒を煽る。英は呟くように漏らした。
「これはただの贖いなんだ。何もかも失って、無くした俺の生きる意味だから…」
「アホらしな」
男は尋ねたくせに最後まで聞かずに、英の肩を抱いて引き寄せた。英は顔を寄せる男から逃れるように背けたけれど、男の太く乾燥した指が英の頬を捕らえた。
「清純ぶったって、過去のことは忘れられへんやろ?ここで、散々俺や他の男を誑かしたんや」
「い、やだって…!」
英は臀部に食い込む男の指を払いのけようとするが、頬を掴まれたままではうまく身動きが取れない。
男は逃げようとする英の髪を掴んだ。
「痛…っ」
「俺にはなんでも手に入る。放蕩息子や蔑む父上は死んだんや。せやからお前、いつかは飽きるなんて考えてるかもしれへんけどなぁ…手に入らないなら、どこまでも追いかける。その方が面白いんや」
「…っ、離せ…っ!」
「暴れても無駄やで」
男は英の袖を強く引いた。そして手早く袖を結ぶように括ってしまう。後ろ手が繋がれてしまったようになり、抵抗することができなくなってしまった。男は英の両肩を押して畳に押し付けた。
「ちょ…」
「抵抗せんほうがええ」
「嫌だ…っ!」
そう叫んだ刹那、男は徳利を振り上げてそのなかに残っていた酒を英の顔面にめがけてまき散らした。熱燗ではなかったもののヒリリとした熱さが火傷の傷跡に沁み、英は顔を歪めたが、男はそんなこと知る由もない。
「陰間は黙って、足開いとけ」
男はカッとなりやすい性格だった。まるで人格が切り替わるかのように昏い瞳で見下ろすその横顔は、英をただの性欲処理の道具にしかみていないことをありありと示していた。
乱れた帯を解かれ、足首から辿るようにゴツゴツとした手のひらが触れた。けれど縛られた袖の所為でその感触から逃れることができない。
英はぎゅっと目を閉じて、顔を背けた。やり過ごせば終わる…そんな覚悟があったのだが、しかし男の手が止まった。
「…?」
「萎えた。終いや、終い」
男は心底軽蔑するような眼差しのままだったが、すっかりその欲は失せたようだった。
男は『美しい』ものにしか欲情しない。英が顔を背けその火傷の痛々しい傷が視界に入った所為で、冷めてしまったのだ。
英は自分に興味をなくしていく男を目の当たりにして、しばらくは放心していた。しかし、次第に笑い始めた。
「は…はは、あははははははは…!」
乾いた笑い声だった。しかしそれは確実に男に向けられていた。
「な、なんや!?」
「あんたこそ診察してもらった方がいい!こんなことで萎える…その役立たずをさ!」
「なんやと!」
カッと頭に血の上った男は顔を真っ赤にしていた。しかし英の笑い声は止まない。
「あんた自身が醜いから、美しいものを求めるんだ。自分にないものを欲しがる…子供みたいに!」
「英!」
「人を羨む気持ちはわからないわけじゃないけどさ…いい加減、周りが指差して笑っていることに気がつきなよ!」
「う…五月蠅いッ!!」
英の挑発に、男は当然激昂した。部屋にある床の間に駆けていきその場にあった刀を手にした。高価な装飾が施された業物だろうが、男にその価値はきっとわからないだろう。
その刀身を抜いて、男は英の前に突き出した。
「それ以上、喋るなや。殺すで」
「…やれるものなら、やってみなよ。そんなことあんたにはできない」
切っ先を目の前に出されても英は動揺することはなく、まっすぐに男を見据えていた。その態度がさらに男を苛立たせていく。
「謝れば許してやる!」
「許してほしいなんて言っていない。口にしなかっただけで、ずっと思っていたことだよ」
「クソアマが…っ!」
男が怒りに震え、その切っ先が英の首筋に当たる。一筋の血が流れたが英は顔色ひとつ変えなかった。
「殺すなら、殺しなよ。それともその刀の使い方を知らない?」
「おおお…オオオオオオオオオオ…!」
恵まれた暮らしをしてきた次男坊はおそらくここまで罵倒されたことはなかったのだろう。怒りに震え、苛立ちに理性を失い、その刀を大きく振りかぶった。
正反対に英はその長い睫毛を伏せた。そして穏やかな表情でそれを受け入れようとした。
すべてが自分に対する、報いなのだと。
『助けて』との一言も言わずに。
勝手に死を選んで。
「馬鹿だな」
お前にその権利があるのか。
生きてほしいと願われたお前に、そんな自由があるのか。
俺はそんな意味を込めて言った。そして次の瞬間には、襖を蹴破って中に乗り込んでいた。
「!」
「なんや!お前は…!!」
刀を手に硬直する男、その真正面に座りこむ英…その二人の視線を集めた。
なぜここにお前がいるのだという顔だった。新入りの使用人が突然襖を蹴破ればその反応は当然だろう。
俺は構わずに手にしていた刀を振り上げて、男のそれを弾く。業物は真っ直ぐ飛んで天井に突き刺さった。そしてそのままの勢いで、俺は男の胸に突き刺した―――。
「ぐああぁァァァッ!!!!」
男の悲鳴が響く。男…とも言える骸はそのまま力なくその場に倒れこんだ。
血まみれになっていく畳には、未だに英が座り込んだままだった。大きな瞳がより一層開いている。男が死んだ衝撃よりも俺が目の前に現れた驚きの方が大きいように見えた。
「…さ…い…」
「これで…お前とは、一蓮托生だ」
「え…?」
これは俺が犯した罪だ。彼のために、私怨で人を殺した。
自ら、選んだ。
「だから…こんなことで命を粗末にするな。俺には助けを求めろ、お前にはその資格がある」
「あ…」
二の句を継げない英は唖然と俺を見上げていた。彼には何故俺が使用人の姿で現れたのかすら、理解できていないだろう。
次第に騒ぎを聞きつけた家人たちの声が聞こえ始めた。
「新しい使用人が斬って逃げたと言え」
俺はそう言い残して部屋を出ていく。
庭から裏口を利用して外に出る。月明かりを頼りにしばらくは歩いたところで、懐から取り出した懐紙で血を拭った。
私怨で人を殺めたのはいつぶりだっただろう。試衛館に来る前…少なくとも新撰組隊士としては一度もなかったはずだ。
懐紙を川に捨てて、深く、ゆっくりと息を吐いた。
俺はまた罪を重ねた。
だが、後悔はない。
(構うものか…)
もうこの手は、すっかり泥濘に嵌って汚れているのだから。
彼のために一つ罪を重ねてもその業は変わらないだろう。
これが俺の、贖罪だ―――。



10

師走の京には連日、はらはらと雪が舞っていた。道行く人々が足早に家路へ急ぐ夕暮れ時、俺は行き慣れた酒屋へ向かって歩いていた。
朝、端紅が届いたのだ。『ご存知より』…それは久しぶりに見た英の手だ。詳細な文面などはなく、ただいつもの居酒屋で待っているというそれだけの内容だった。
目的の店の前に立ち、俺は少し息を吐いて暖簾をくぐった。寒さを和らげようと早めの酒を飲む輩の中に英の姿があり、彼も俺に気がついて手を振ってきた。先日会った時よりも顔色が良い。
「来ないかと思った」
英はそう笑った。俺は横に並んで座った。
「呼び出したのはお前だろう」
「そうだけど。ほら、喧嘩したままだったし?手紙を寄越すなって言ってたから」
「…」
調子よく語る英はいつもの彼だ。店の主人が俺の前に酒を出したので、冷たくなった身体を温めようと一気に煽る。早速「もう一杯」と求めた俺を英はにやにやと見ていた。
「…そういえば、歳さん、怪我をしたんだって?南部先生に聞いたよ」
「ああ…浅手だ」
「らしいね。安静にしていれば問題ないって先生は言っていたけれど、あの人は無茶をしそうだ」
英はクスクスと笑っていた。彼のいう通り土方副長は近藤局長の帰還が決まってから、休息もそこそこに屯所ではまるで何事もなかったかのように振舞っていた。副長の怪我を知っているのは数人だけなので、沖田がその傍で傷口に障りがあるのではないかとはらはらと見守っているのだ。
過去、そんな副長に想いを寄せていた英だが今のあっけらかんとしている様子を見ると、もう鬱屈した想いは晴れたのだろうか。
俺は話を変えた。
「あの件は…あれからどうなったんだ」
「ああ…うん、屋敷に来た役人が下手人を探すとか言い出したんだけど、当主の兄が大事にしなくていいって止めたんだ」
「止めた?なぜだ」
使用人として潜入した際には、もちろん身元がバレるような失態はやらかしていないものの、それでもある程度の捜索は行われるのだと思っていた。
「さあ…もともと兄弟仲は良くなかったみたいだよ。放蕩してばかりの弟には手を焼いていたようだし…倒幕派にも手を貸していたそうだから、商家としての外聞を気にしたのかもしれない。だから、あながち新撰組隊士の斉藤さんが斬ったのも正当っていうか…」
「俺は何もしていない」
俺はあえて強く英の言葉を遮った。その場に俺はいないことになっているし、人の多い居酒屋で誰かに聞き耳を立てられると面倒だ。
英は俺の意図を察して「ごめん」と口を手で覆う仕草をした。そして伺うように声を潜めた。
「一つ確認したいのだけど…あれは命令だった?」
「いや、俺の独断だ」
「そうか…そうなんだ…」
英は「ふふ」と何か言いたげな含み笑いをした。俺が「何だ」と促したが
「何でもない」
と子供のように首を横に振った。俺は何となく居心地が悪くて「それからどうなった」と続けて尋ねた。すると英は「ああ…」と今度は少し困ったように微笑んだ。
「役人に事情を聞かれたんだけど、結局は松本先生が話をつけてくれて解放された。どこから聞きつけたんだか…でもやっぱり御典医様だからね、身元を引き受けるってなると役人たちはすぐに俺を無罪放免にしてくれたよ。松本先生には少し叱られたけど、南部先生は何も言わなかった。仏様みたいな人だから…ただ一言、『おかえり』ってそう言われただけだった」
英は湯飲みに手を伸ばし、少なくなった中身を覗くように見た。手持ち無沙汰なのかくるくると回してどこか言葉に迷っているように見えた。
「…『おかえり』なんて言われたことがなかったなあ…って思ったんだ。加也も怪我してるくせに食べきれないほど飯を作ってくれてて…俺はあの男の元にいる間は誰かが待ってくれているなんて考えなかった…薄情だけど、そんな発想がなかった」
「…」
「だから、戻れてよかったと思ったよ」
彼の横顔は初めての経験に戸惑っているものの、幸福に満ちているように見えた。自分には戻るべき場所があり、待ってくれている人がいる。それに気がつくことができたことは、これから彼の支えとなるだろう。紆余曲折あったようだが、良い機会になったのかもしれない。
英は俺の方に身体を向けた。
「だから今日は斉藤さんにお礼が言いたかったんだ。…ありがとう、また助けられた」
「…別にいい」
「良くない。お礼が言いたい以上に、どうしてなのか知りたいんだ」
英は俺の二の腕を掴んだ。そして俺の顔を覗き込むように近づける。
「何で助けてくれたの?俺は助けを求めたわけじゃないのに」
長い睫毛、高い鼻梁、形の良い唇、白い肌ーーー。
ああ、やはり。
形容する言葉が同じでも、彼とは違う。
「借りを返しただけだ」
「え?借りって…借りが溜まってるのは俺の方でしょ」
泥吉の件、今回の件…英は首を傾げたが、何も助けた回数の問題ではない。
「俺はあの夜…違う名前を呼んだ」
あの夜は、まるでボヤけた夢を見ているようだった。白く華奢で美しい英を目の前に、別の男の名前を呼んだ。遠い場所にいる彼に手が届いたのではないかと錯覚して、その幻に浸った。
目が覚めて、それがどれだけ彼を傷つけたかと自己嫌悪した。
しかし俺の後悔とは裏腹に、英は思いもよらなかったようで、驚いていた。
「…ああ、そんなこと…どうでもいいのに」
「お前にとってどうでもいいことでも、俺にとってはそうではない」
英を傷つけたことだけを後悔しているわけではない。俺にとっては他の名前を呼んだとしても、その名前だけはどうしても呼びたくはなかった。なのにそれを口にしてしまった途端、それまでずっと戒めてきた全てが無に帰したような絶望を味わったのだ。歯ぎしりしたくなるほどの、苛立ちを。
「自分を許せないだけだ」
そんな弱さを晒した自分が、情けないだけだ。
けれど英は、やはり笑った。
「…ほんと、強い人だなぁ…」
「強い…?」
英は肘をついて、顎を乗せた。そして遠い目をして微笑んだ。
「あの二人を見て、間に入り込むことはできない…と俺はすぐに悟ったから気持ちに諦めがついた。でも斉藤さんはずっとそんな二人を見てきたんだろう。何年も、毎日。それって、ずっと自分には実らない、叶わないことなんだって突きつけられているのと同じじゃないか。不毛で苦しみしかない…普通の人ならもう離れたいと思うのに、それでも傍にいる…」
「…」
「斉藤さんにとってそれは普通のことなのかもしれないけど、それは誰にでもできることじゃない。あの夜のことは事故みたいなものだけど…斉藤さんがあの人の名前を呼んだとき、たとえ実らなくても本当に好きなんだなぁと思ったんだ」
「…」
英の言葉は的を得ていたものの「そうだ」と簡単に頷くことはできなかった。たとえそれが本当のことだとしても他人の言葉で自分の気持ちを認めたくはなかったし、それが『強い』ということとは自分では思えなかったのだ。
「この間、斉藤さんが言った、『助けを求めろ』『その資格がある』…それをそのまま返すよ」
「何…?」
「苦しくなったら、俺を抱いていいよ」
俺は呆然と英を見た。冗談を口にしている風ではなく、その大きくてまるで水晶のような瞳がまっすぐに俺を見ていた。
「お前は自分で言っただろう。もう、陰間じゃない…なぜ自分を安く売ろうとする」
「陰間じゃないから別に誰も彼にも売るわけじゃない。相手はちゃんと選ぶよ」
「…」
それが選んだ末の結論だというのか。
…彼と話をしていると何が真意なのかがわからなくなる。そんな風に翻弄されるのは彼だけだ。しかし彼はそんなことを知りもしないで続けた。
「別に沖田さんの名前を呼んだっていい。俺はそんなことで傷ついたりしないし、これでしか斉藤さんに借りを返すことができないからね」
俺は「いや」と小さく首を横に振った。
「…たぶん、俺はもうあの人の名前は呼ばない」
「なんで?」
「お前とは違うからだ」
少し前のあの夜、虚無感に苛まれるように眠っている彼に口付けた。しかし触れた唇の感触は英とは違うものだと気がついた。ようやくそれまで二人を重ねていたことが馬鹿馬鹿しく思うほど、似てなどいないことを理解したのだ。
俺は、俺ではない人を思うあの人が好きだ。
不器用ながらも懸命に、一途に歩み続ける…そんな彼に想いを寄せられればどれだけ幸せなことだろうかと思う。
けれど一方で、その背中をあるときは見守り、あるときは押す…そんな自分にも満足している。
だから、俺は沖田の代わりに彼を抱いたのではない。俺はあの夜、目の前にいるこの男を抱いた…それを認めたくないからこそ、それに目を背けて彼の名を呼んだことにこだわっていたのだろう。
(一番愚かなのは、俺だった)
そんな素直な反省が心を占めていた。
英は「ふうん」と少し口を窄ませて
「何だ、残念だな」
と呟いた。そして掴んでいた腕を離す。
「…何だって?」
「残念だって。あの夜は斉藤さんが言うほど俺にとっては悪い夜じゃなかったから」
「…それは…」
どういう意味だと俺は困惑する。英は少なくなった酒を一気に飲み干す。俺がその言葉に返答できずにいると、彼は笑い出した。
「あはは!そんな顔しなくても、俺は斉藤さんには惚れないよ。だってこれ以上なく不毛だってわかってるから、そんなことしても徒花だしね」
笑い飛ばす彼に俺はため息をついた、相変わらず、何を考えているのかわからない男だ。コロコロと変わる表情にいつも惑わされる。
けれど、悪くない。
「でもじゃあ、斉藤さんとの関係は何だろうね。友達?」
「そんな生易しいものではないだろう」
理由があったとはいえ、一度寝た相手を『友達』だというのはどこか白々しい。
「別に名前なんていらないだろう。ただ…一蓮托生だと言ったはずだ。だからお前には俺に『助けを求める資格』はある」
「…悪くないね」
彼は俺の心を見透かすように、同じ言葉を口にした。
その笑顔は大輪の花が咲くようなものだと思っていた。神々しいほどに花弁を広げてどこか儚げで、人を惹きつける微笑みだと。
けれど、今目の前にいる彼はまるで名前の知らない野の花が咲くような無邪気な笑い方をしている。
彼がそんな風に笑っていれば安心する。
それを見ているのは、悪くない。
そう思った―――。
















ステイルメイト[stalemate]
さし手がなくて勝負のつかぬこと、手詰まり
(論争などでの)行き詰まり


徒花ステイルメイト、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。
毎度のことながら斉藤さんの複雑な心境のお話を一人称で書いたものなので、〆方がいつも難しいのですが、今回からちょこちょこと英が絡んでくるので、少しは展開があるお話になったかな、と思います。
もしかしたら、斉藤と英ができちゃうのではないかと心配?されていらっしゃる方がいるのかもしれませんが…先行きは不透明です。ただ私自身は、『土方を好きな沖田』を斉藤が好きなように、沖田を好きな斉藤を書いているのが楽しいので、しばらくはこのままかもしれません。
またしばらくは徒花はお休みになるとは思いますが、本編と合わせて楽しんでいただければ幸いです。
最後までありがとうございました。

2017.08.26