徒花ステイルメイト

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*このお話は「そこはかとなく、」をお読みいただいてからご覧ください。


師走の京には連日、はらはらと雪が舞っていた。道行く人々が足早に家路へ急ぐ夕暮れ時、俺は行き慣れた酒屋へ向かって歩いていた。
朝、端紅が届いたのだ。『ご存知より』…それは久しぶりに見た英の手だ。詳細な文面などはなく、ただいつもの居酒屋で待っているというそれだけの内容だった。
目的の店の前に立ち、俺は少し息を吐いて暖簾をくぐった。寒さを和らげようと早めの酒を飲む輩の中に英の姿があり、彼も俺に気がついて手を振ってきた。先日会った時よりも顔色が良い。
「来ないかと思った」
英はそう笑った。俺は横に並んで座った。
「呼び出したのはお前だろう」
「そうだけど。ほら、喧嘩したままだったし?手紙を寄越すなって言ってたから」
「…」
調子よく語る英はいつもの彼だ。店の主人が俺の前に酒を出したので、冷たくなった身体を温めようと一気に煽る。早速「もう一杯」と求めた俺を英はにやにやと見ていた。
「…そういえば、歳さん、怪我をしたんだって?南部先生に聞いたよ」
「ああ…浅手だ」
「らしいね。安静にしていれば問題ないって先生は言っていたけれど、あの人は無茶をしそうだ」
英はクスクスと笑っていた。彼のいう通り土方副長は近藤局長の帰還が決まってから、休息もそこそこに屯所ではまるで何事もなかったかのように振舞っていた。副長の怪我を知っているのは数人だけなので、沖田がその傍で傷口に障りがあるのではないかとはらはらと見守っているのだ。
過去、そんな副長に想いを寄せていた英だが今のあっけらかんとしている様子を見ると、もう鬱屈した想いは晴れたのだろうか。
俺は話を変えた。
「あの件は…あれからどうなったんだ」
「ああ…うん、屋敷に来た役人が下手人を探すとか言い出したんだけど、当主の兄が大事にしなくていいって止めたんだ」
「止めた?なぜだ」
使用人として潜入した際には、もちろん身元がバレるような失態はやらかしていないものの、それでもある程度の捜索は行われるのだと思っていた。
「さあ…もともと兄弟仲は良くなかったみたいだよ。放蕩してばかりの弟には手を焼いていたようだし…倒幕派にも手を貸していたそうだから、商家としての外聞を気にしたのかもしれない。だから、あながち新撰組隊士の斉藤さんが斬ったのも正当っていうか…」
「俺は何もしていない」
俺はあえて強く英の言葉を遮った。その場に俺はいないことになっているし、人の多い居酒屋で誰かに聞き耳を立てられると面倒だ。
英は俺の意図を察して「ごめん」と口を手で覆う仕草をした。そして伺うように声を潜めた。
「一つ確認したいのだけど…あれは命令だった?」
「いや、俺の独断だ」
「そうか…そうなんだ…」
英は「ふふ」と何か言いたげな含み笑いをした。俺が「何だ」と促したが
「何でもない」
と子供のように首を横に振った。俺は何となく居心地が悪くて「それからどうなった」と続けて尋ねた。すると英は「ああ…」と今度は少し困ったように微笑んだ。
「役人に事情を聞かれたんだけど、結局は松本先生が話をつけてくれて解放された。どこから聞きつけたんだか…でもやっぱり御典医様だからね、身元を引き受けるってなると役人たちはすぐに俺を無罪放免にしてくれたよ。松本先生には少し叱られたけど、南部先生は何も言わなかった。仏様みたいな人だから…ただ一言、『おかえり』ってそう言われただけだった」
英は湯飲みに手を伸ばし、少なくなった中身を覗くように見た。手持ち無沙汰なのかくるくると回してどこか言葉に迷っているように見えた。
「…『おかえり』なんて言われたことがなかったなあ…って思ったんだ。加也も怪我してるくせに食べきれないほど飯を作ってくれてて…俺はあの男の元にいる間は誰かが待ってくれているなんて考えなかった…薄情だけど、そんな発想がなかった」
「…」
「だから、戻れてよかったと思ったよ」
彼の横顔は初めての経験に戸惑っているものの、幸福に満ちているように見えた。自分には戻るべき場所があり、待ってくれている人がいる。それに気がつくことができたことは、これから彼の支えとなるだろう。紆余曲折あったようだが、良い機会になったのかもしれない。
英は俺の方に身体を向けた。
「だから今日は斉藤さんにお礼が言いたかったんだ。…ありがとう、また助けられた」
「…別にいい」
「良くない。お礼が言いたい以上に、どうしてなのか知りたいんだ」
英は俺の二の腕を掴んだ。そして俺の顔を覗き込むように近づける。
「何で助けてくれたの?俺は助けを求めたわけじゃないのに」
長い睫毛、高い鼻梁、形の良い唇、白い肌ーーー。
ああ、やはり。
形容する言葉が同じでも、彼とは違う。
「借りを返しただけだ」
「え?借りって…借りが溜まってるのは俺の方でしょ」
泥吉の件、今回の件…英は首を傾げたが、何も助けた回数の問題ではない。
「俺はあの夜…違う名前を呼んだ」
あの夜は、まるでボヤけた夢を見ているようだった。白く華奢で美しい英を目の前に、別の男の名前を呼んだ。遠い場所にいる彼に手が届いたのではないかと錯覚して、その幻に浸った。
目が覚めて、それがどれだけ彼を傷つけたかと自己嫌悪した。
しかし俺の後悔とは裏腹に、英は思いもよらなかったようで、驚いていた。
「…ああ、そんなこと…どうでもいいのに」
「お前にとってどうでもいいことでも、俺にとってはそうではない」
英を傷つけたことだけを後悔しているわけではない。俺にとっては他の名前を呼んだとしても、その名前だけはどうしても呼びたくはなかった。なのにそれを口にしてしまった途端、それまでずっと戒めてきた全てが無に帰したような絶望を味わったのだ。歯ぎしりしたくなるほどの、苛立ちを。
「自分を許せないだけだ」
そんな弱さを晒した自分が、情けないだけだ。
けれど英は、やはり笑った。
「…ほんと、強い人だなぁ…」
「強い…?」
英は肘をついて、顎を乗せた。そして遠い目をして微笑んだ。
「あの二人を見て、間に入り込むことはできない…と俺はすぐに悟ったから気持ちに諦めがついた。でも斉藤さんはずっとそんな二人を見てきたんだろう。何年も、毎日。それって、ずっと自分には実らない、叶わないことなんだって突きつけられているのと同じじゃないか。不毛で苦しみしかない…普通の人ならもう離れたいと思うのに、それでも傍にいる…」
「…」
「斉藤さんにとってそれは普通のことなのかもしれないけど、それは誰にでもできることじゃない。あの夜のことは事故みたいなものだけど…斉藤さんがあの人の名前を呼んだとき、たとえ実らなくても本当に好きなんだなぁと思ったんだ」
「…」
英の言葉は的を得ていたものの「そうだ」と簡単に頷くことはできなかった。たとえそれが本当のことだとしても他人の言葉で自分の気持ちを認めたくはなかったし、それが『強い』ということとは自分では思えなかったのだ。
「この間、斉藤さんが言った、『助けを求めろ』『その資格がある』…それをそのまま返すよ」
「何…?」
「苦しくなったら、俺を抱いていいよ」
俺は呆然と英を見た。冗談を口にしている風ではなく、その大きくてまるで水晶のような瞳がまっすぐに俺を見ていた。
「お前は自分で言っただろう。もう、陰間じゃない…なぜ自分を安く売ろうとする」
「陰間じゃないから別に誰も彼にも売るわけじゃない。相手はちゃんと選ぶよ」
「…」
それが選んだ末の結論だというのか。
…彼と話をしていると何が真意なのかがわからなくなる。そんな風に翻弄されるのは彼だけだ。しかし彼はそんなことを知りもしないで続けた。
「別に沖田さんの名前を呼んだっていい。俺はそんなことで傷ついたりしないし、これでしか斉藤さんに借りを返すことができないからね」
俺は「いや」と小さく首を横に振った。
「…たぶん、俺はもうあの人の名前は呼ばない」
「なんで?」
「お前とは違うからだ」
少し前のあの夜、虚無感に苛まれるように眠っている彼に口付けた。しかし触れた唇の感触は英とは違うものだと気がついた。ようやくそれまで二人を重ねていたことが馬鹿馬鹿しく思うほど、似てなどいないことを理解したのだ。
俺は、俺ではない人を思うあの人が好きだ。
不器用ながらも懸命に、一途に歩み続ける…そんな彼に想いを寄せられればどれだけ幸せなことだろうかと思う。
けれど一方で、その背中をあるときは見守り、あるときは押す…そんな自分にも満足している。
だから、俺は沖田の代わりに彼を抱いたのではない。俺はあの夜、目の前にいるこの男を抱いた…それを認めたくないからこそ、それに目を背けて彼の名を呼んだことにこだわっていたのだろう。
(一番愚かなのは、俺だった)
そんな素直な反省が心を占めていた。
英は「ふうん」と少し口を窄ませて
「何だ、残念だな」
と呟いた。そして掴んでいた腕を離す。
「…何だって?」
「残念だって。あの夜は斉藤さんが言うほど俺にとっては悪い夜じゃなかったから」
「…それは…」
どういう意味だと俺は困惑する。英は少なくなった酒を一気に飲み干す。俺がその言葉に返答できずにいると、彼は笑い出した。
「あはは!そんな顔しなくても、俺は斉藤さんには惚れないよ。だってこれ以上なく不毛だってわかってるから、そんなことしても徒花だしね」
笑い飛ばす彼に俺はため息をついた、相変わらず、何を考えているのかわからない男だ。コロコロと変わる表情にいつも惑わされる。
けれど、悪くない。
「でもじゃあ、斉藤さんとの関係は何だろうね。友達?」
「そんな生易しいものではないだろう」
理由があったとはいえ、一度寝た相手を『友達』だというのはどこか白々しい。
「別に名前なんていらないだろう。ただ…一蓮托生だと言ったはずだ。だからお前には俺に『助けを求める資格』はある」
「…悪くないね」
彼は俺の心を見透かすように、同じ言葉を口にした。
その笑顔は大輪の花が咲くようなものだと思っていた。神々しいほどに花弁を広げてどこか儚げで、人を惹きつける微笑みだと。
けれど、今目の前にいる彼はまるで名前の知らない野の花が咲くような無邪気な笑い方をしている。
彼がそんな風に笑っていれば安心する。
それを見ているのは、悪くない。
そう思った―――。

















































ステイルメイト[stalemate]
さし手がなくて勝負のつかぬこと、手詰まり
(論争などでの)行き詰まり


徒花ステイルメイト、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。
毎度のことながら斉藤さんの複雑な心境のお話を一人称で書いたものなので、〆方がいつも難しいのですが、今回からちょこちょこと英が絡んでくるので、少しは展開があるお話になったかな、と思います。
もしかしたら、斉藤と英ができちゃうのではないかと心配?されていらっしゃる方がいるのかもしれませんが…先行きは不透明です。ただ私自身は、『土方を好きな沖田』を斉藤が好きなように、沖田を好きな斉藤を書いているのが楽しいので、しばらくはこのままかもしれません。
またしばらくは徒花はお休みになるとは思いますが、本編と合わせて楽しんでいただければ幸いです。
最後までありがとうございました。

2017.08.26