徒花ステイルメイト

*このお話は「そこはかとなく、」をお読みいただいてからご覧ください。



それから数日後。
残暑の厳しい季節に、紋付き羽織を着ている沖田を見かけた。こめかみにうっすらと汗をかいていて、顔色が優れない。近藤局長と立ち話をした後、部屋に戻るようだったので
「暑苦しい格好をしているな」
と声をかけた。
「ええ…ずっと私も脱ぎたいと思っていたんです」
沖田は苦笑した。
「局長のお供か?」
「お供というか…まあ、そんなところです」
彼は曖昧に言葉を濁した。
その格好の意味は英から伝え聞いていたのでもちろん分かっていた。おそらく彼は親代わりともいえる近藤とともに見合いをしてきたのだろう。まさか俺を相手に「見合いをしてきた」とは流石に鈍感な彼でも言えなかったのだろう。
羽織を脱ぎながら「それよりも」と話を切り上げた。
「松原さんは屯所には戻っていませんか?」
「ああ…見ていない」
「そうですか…」
「どうした」
俺が尋ねると、彼は少し迷って声を潜めた。
「その…町中で松原さんに会って…おなつさんと一緒でした」
その事実に対して驚きはあったものの、(やはり)という感情の方が勝った。松原は切腹をはかってからずっと塞ぎこんでいたので、何かのきっかけがあればなつのもとに戻るのではないかという危惧があった。
「…そうか」
「引き留めて問い詰めましたが…何を言っても松原さんには届きませんでした。おなつさんとともにいるのだと決めきっていて…」
「女を選んだのか…」
「たぶん…もしかしたら、もう…」
「嫌な予感が当たったか」
予感していたこととはいえ、実際にその通りになったというのは不快だった。松原の再起を信じていた近藤局長をはじめとした隊士たちは失望するに違いない。そして土方副長も黙ってはいないはずだ。
(副長は…気が付いていないのか?)
沖田が町中で会ったということなら、堂々と連れ立って出歩いているということだ。だとすれば監察が気が気が付いているはずであり、その報告は土方副長に上がっているだろう。しかし今のところ副長に目立って動きはない。
「…あの女とで歩いていたからといって、決めつけるわけにはいかない。土方副長に報告をして様子を見たほうがいい」
俺はこの先に起こることを考えるのをやめた。松原が選んだ道はすでに途絶えている…それを考えるのは億劫だ。
「そうですね…」
沖田は力なく返答した。
松原がなつとともに姿を見せた…ただそれだけで落ち込んでいるようには見えない。もちろん松原に情はあるだろうが、彼はある程度の線引きをしている。隊規を破った者に情けを掛けたりはしないだろう。
すると彼は思わぬことを口にした。
「斉藤さん…私のことを『何をも得ている』…と思いますか?」
「は…?」
「松原さんにも山南さんにも…そういえば宗三郎さんにも言われたんです。私は自分の思うように、思われている。それを普通だと思っている私は『何もかもを得ている』…満たされている私には、何もわからない。苦しみ、もがく人の気持ちがわかるはずがないのだと…。斉藤さんもそう思いますか?」
彼から感じていた何とも言えない倦怠感。その原因を聞いて俺は唖然とした。
しかしその言葉で責めていた人々は彼のことを何も知らないのだろうと思った。
何ものをも得ている、けれどもそのかわりに失ってきたものもある。その苦しみを知らないからこそ、そうやって表面的な部分を見て羨んでいるだけのことだ。
「…そんなことはない」
俺は自然と軽く笑っていた。沖田はそんな俺を見て驚いた顔をしていた。
「斉藤さん…」
「何を言い出すかと思えば、そんなことか。…あんたは目立つから、傍から見ればそう見えるかもしれない。卑屈な人間からすれば、華やかに映るのかもしれない。しかし…だからといって、あんたが何も苦労していないわけではないだろう。何かを怠ったわけでもなく、力を抜いたわけではない」
「…そうでしょうか?」
彼は自信のない表情で首をかしげる。彼にとって当たり前すぎて自覚がないのだろう。
「少なくとも俺は、そう思う。だからそんな言葉に惑わされる必要はない」
俺は背中を押す意味でもきっぱり言い切る。だが「励ます」など自分らしくない行動だと思い、彼の肩を軽く叩いて通り過ぎた。


松原がなつとともにこの世を去ったのは、それから数日後のことだった。組長の衝撃の結末に隊内の雰囲気が沈む中、俺のもとに手紙が届いた。
「斉藤せんせ、意中の妓からでっせ」
いつもの年老いた小者がにやにやと意味深にほほ笑みながら俺に手紙を渡した。小さく折りたたまれたそれは『ご存じより』とある。傍目に見れば恋文に見えるだろうが、これは英の手だ。
妙に言いふらされるのは面倒なので、口止め料として銭を渡した。小者もそれを弁えていて「へいへい」と受け取ると足早に屯所を去っていく。
手紙を開くといつもの居酒屋で待っているとあった。英は俺の非番を知って手紙を送りつけてくる。もちろん約束なんてしていないのだから反故にしても良いのだが、なぜだかいつも俺の足は自然とその居酒屋に向いていた。
(これは罪悪感なのか…?)
彼の呼び出しに応じてしまうのは、あの夜のことがあるからだろうか。たった一夜のことだと割り切って忘れてしまえばいいものの、それからずるずると英に会いに行ってしまう。彼に引き寄せられるようだ。
いつもの居酒屋に辿り着くと、すでに英がいた。昼間から飲みにやってくるような連中が集まる中、英が座っている場所はまるで清涼な空気が流れているように見えた。
彼の隣に座って何気ない雑談を交わす。雑談と言っても一方的に英が話すだけで、俺は相槌を打つ程度だ。
「心中、らしいね」
町中を行き交う噂というのは飛脚よりも早く伝わっていく。それはすでに英の耳にも入っていたようで、居酒屋でそんな話になった。
「新撰組隊士と人妻の許されない恋…『壬生心中』なんて煽って伝わっているよ。面白おかしく…悲劇的にね」
「…そうか」
俺は酒を口にした。
松原の死は恋人のなつに撃たれて死ぬ…という武士としても新撰組隊士としても不名誉なものであったため、あえて「心中」として公表された。事実は幹部以上しか知らず隊士たちもそのように信じているが、思惑通り広まっているようだ。
「本当のことなんて本人同士しかわからないのだろうけれど…きっとそんなに美しいものじゃないだろう」
「まあ…そうだな」
英は酒を口にしてそんなことを口にした。
俺に合わせて酒を飲み続ける彼は、一向にその顔色を変えないまま涼しい顔をしている。かつて彼は「天女」と呼ばれ陰間の中でも有名な存在だった。その顔立ち片鱗は終いの年を迎えた今でも残っているが、火傷を負ったことで少し陰りを見せた。しかしそれが浮世離れした彼の「人間らしさ」を顕しているように俺には思えた。
「この世に純愛なんてないんだ。時を経れば気持ちも変わる…良い方向にも悪い方向にも。それが二人ともいつも同じだとは限らない」
「…」
「だからってそれは仕方のないことだよ。自分の思うように人は変えられないのだから」
英は愁いを帯びた表情で呟いた。
彼はこれまでの人生を陰間としてしか生きてきていない。それは常に人々の欲望の対象にされてきたということであるから、そんな彼が今更、愛や恋だとかを素直に受け入れることは難しいのだろう。
けれどそのように吐き捨てる様はまるで
(自分自身のことのようだ)
そんなことさえ思えた。
すると
「ところで、見合いは反故になったらしいよ」
「…は?」
それまでのしんみりとして雰囲気を一変させて、英は笑う。彼は相変わらず突然話題を変える。
「沖田さんの見合いだよ。南部先生が知り合いの医者の娘を紹介したらしいのだけれど…気に入らなかったのかな、今回の話はなかったことにしてほしいって、局長さんが」
「そうか…」
「安心した?」
ニヤニヤと意味深にほほ笑む英を無視して、俺は酒を注いだ。
(安心…?)
そんなことは思えない。きっと局長は別の相手を見繕うだろうし、その局長の頼みなら沖田もいつか嫁を迎えるかもしれない。
それだけで歯ぎしりしたくなるような感情が込み上げてくる。けれどもそれを誰よりも英に悟られたくはなかった。彼はそんな俺を見て笑うに決まっている。
「ねえ…いっそ自分のものにしたいとか、思わないの?」
英は俺の空いた盃に酒を注ぎながら、訊ねてきた。
そんなことは言われなくとも何度も考えてきた。何度も迷い、立ち止まる彼を見て、この手を伸ばしかけたことか。
(だが…)
その彼が選ぶのは、俺ではない。棘があるとわかっているのに、いつも彼は手を伸ばす。
俺はそれをただ見ているだけだ――。
「…斉藤さん」
「何だ?」
英が俺の顔を覗き込むようにしてみた。その細い髪がさらりと流れる。
「また俺と寝てみる?」
「…なぜだ?」
「さあ…何でだろう。言葉にするよりも、意外に沢山のことがわかるものだよ」
俺は英の言葉にカッと己のなかに炎が灯るのを感じた。
苛立った――俺はわかってほしいなんて言っていない。誰かに理解してほしいと思っていない。ましてや英に言われたくはない。
「俺はまた、お前とは違う名前を呼ぶ」
懐から小銭を出して机に置いた。ガンッという激しい音が鳴ったが、周囲も騒がしいため英にしか聞こえていないだろう。俺のいら立ちは十分伝わったはずだ。
しかし、英は涼しい顔をしたまま微笑み、
「――…それでもいいよ」
と頷いた。
それがどういう意味で意図があるのか、俺にはわからない。けれど無性にこの場所を離れたい。
「…しばらく俺に手紙を寄こすな」
そう言い捨てて俺は背中を向けて去った。英がどんな顔をしていたのかはわからない。

















*「手」とは筆跡のことです。





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