徒花ステイルメイト

*このお話は「そこはかとなく、」をお読みいただいてからご覧ください。


冬の風が吹く冷たい夜。
隣である一番隊の部屋から物音がして、俺は目を覚ました。なぜだかそれが沖田だろうという気がして体を起こした。
巡察の途中、うっかり口を滑らせてしまった局長の長州行き。沖田には寝耳に水だったようで表情を変えてすぐに屯所に向かって駆け出して行ってしまった。巡察はほとんど終わっていたものの、組長が駆け出してしまったため隊士たちも驚いているようだったが、俺は「急用ができたようだ」と適当な言い訳をしてそのまま一番隊と三番隊の隊士たちを従えて屯所に戻った。
(言うべきではなかったな…)
沖田はもちろん近藤局長の長州行きを反対するだろうし、酷く動揺するはずだ。副長もそれをわかっていたからこそ、彼へ伝えていなかったのだろう。あっさり伝えてしまった己の浅はかさを考えると、沖田のことを放ってはおけなかった。
俺は綿入れを掴み、物音を立てないように部屋を出た。しんと静まった西本願寺の屯所を見渡すと、ぽつんと一つ明かりがともっている場所があった。
俺は少し近づいて遠巻きに彼を眺める。蝋燭を一本灯し、綿入れを着込み身体を丸めて、けれど視線は西本願寺の正門へと向いていた。そこには門番の隊士二人が控えているだけで何の動きもない。
確か今日は局長は会津に呼ばれて会合に顔を出しているはずだ。真夜中にまで及ぶ宴はいつ終わるのかわからないが、彼は局長の帰りを待っているのだろう。
長州行きは何も今日明日の出発ではない。なのに逸る気持ちが抑えられなかったのは近藤を思う彼らしい行動だ。
俺は彼へ近づいた。ギシィと床板が軋む音がして気付かれた。
「…まだ待っているのか?」
「厠ですか?」
「ああ…まあ、そんなところだ」
俺は彼の質問に曖昧に返答して、隣に腰を下ろした。
「随分、帰りが遅いんだな」
「そうみたいですね。近藤先生が会津や諸藩との会合にたびたび足を運ばれているのは知っていましたけど、こんなに夜遅くまでなんて…。私はよっぽど、稽古をしているほうがマシです」
「それはそうだな」
それには同意した。局長のように上役の機嫌を伺ったり、副長のようにあれこれと策を巡らせるよりも、道場で竹刀を振って己を高める方が随分マシだ。
沖田の視線は未だに門の外へと向いている。俺は一息ついて口にした。
「悪かった。…余計なことを口にした」
「…いいえ。むしろ、斉藤さんには感謝しているくらいです。きっと近藤先生や土方さんは間近まで何も教えてくれなかっただろし…」
沖田の返答に俺は少し安堵した。けれど彼はそのうち眉を顰めて俯いた。
「でも近藤先生に何かあったら…そう考えるだけで、胸が締め付けられます」
幕府側の一人の兵として敵地である長州に足を踏み入れる。沖田からすれば敵ばかりの場所に突入していくようの感じられるだろう。長州行きに反対するのは当然の反応だ。
だが沖田からすれば部外者である俺は、冷静に捉えていた。
「…俺は悪い話ではないと思う」
「え?」
「煮え切らない長州に対して揺さぶりをかけるのは必要なことだ。そしてその大役に大名でも幕臣でもない…武士でもない近藤局長が随行する…局長にとってこれほど名誉なことはない」
「それは…そうかもしれませんが」
「古来より武士は戦場で武功を上げることによって褒賞を得てきた。新撰組も池田屋という戦場を経たからこそ、こうして幕府に認められている。だから今回のことも、名誉なことだと喜んで戦場に送り出してほしい…近藤局長はそう望んでいるに違いない」
「…」
彼は二の句が継げないようだった。彼にはそこまで考えが及ばなかったのだろう。
局長という立場を鑑みれば、確かに『新撰組の局長』とは敵の標的になりやすい目立つ存在だろう。未だに池田屋の一件を恨んでいる浪士は多い。しかし一方で、近藤勇という男は忠国の心を持った熱い男でもある。今回の永井様からのお話は局長としてではなく、一人の男としてとても光栄に思ったはずだ。
「…斉藤さんと話をしていると、迷ってきました」
きっと沖田は理解してたはずだ。しかしそれに感情が追い付いていないのだ。頭を抱える彼を見て、俺は苦笑した。
「てっきり副長からそのような話があったのだろうと思っていたが…」
「いえ…そう言われると、確かに土方さんもどこか慌てているような感じでしたから…」
冷静に考えれば、土方副長も俺と同じ考えに行きつくはずだ。近藤局長の立場を押し上げる良い機会になるだろうと。しかしそんな彼も冷静で居られないほど、長州行きには複雑な思いがあるのだろう。判断を迷う、副長の『人間らしい』姿だ。
それから沖田は口を噤み、俯いた。彼の長い睫毛が伏せられその横顔を俺はなぜか見ていた。
すっきりとした輪郭、暗闇の中でもわかる白い肌。誰もが目を奪われる整った鼻梁は、俺にとってはどれだけ近くとも高嶺の花のような存在だ。
(このままでいい…)
触れれば折れるような彼の隣にいることを許されるだけで、心は満たされている。触れることも、抱きしめることもできないけれど、この距離感が心地いい。
「あっ」
沖田は声を弾ませた。俺が彼の横顔を眺めていることに気が付いたわけではない。門の方に動きがあり提灯を手にした二、三人ほどが屯所に戻ってきたのだ。彼らは近藤局長とともに警護役として今夜の会合に向かった隊士たちだ。
だがその中に近藤局長の姿はない。
「お帰りなさい…近藤先生は?」
「今夜は別宅でお休みになるとのことでした」
「そう…ですか」
隊士たちの非情な報告。もちろん彼らに非はないのだが、沖田はあからさまに落ち込んだ様子だったので、
「ご苦労だった」
代わりに彼らへ声をかける。隊士は戸惑ったもののそのまま部屋に戻っていった。
俺は立ち上がり、息を吐く。別宅に戻ったということなら、帰りは朝になるだろう。これから別宅に押し寄せるわけにはいかないのだから、休むしかない。
「…局長が戻られないのなら、仕方ないだろう。部屋に戻って休むんだ」
「そう…ですね」
沖田は落胆していた。約束をしていたというわけではないのだろうが、もどかしくやり切れない気持ちが募ったのだろう。
俺は何も言わずに、片手を差し出した。そうしなければいつまでも彼はここに留まり、局長の帰りを待っていそうだった。彼は迷ったようだが手を取り立ち上がる。すると、足が痺れていたのか
「わ…っと、すみません!」
「!」
とバランスを崩して俺の方に倒れ掛かった。俺はとっさに彼の両肩に手を回して支える。
触れた手から伝わる彼の熱が、一気に俺の中に溶け込んでくるようだった。そしてその熱が俺の気持ちさえもその輪郭から、根幹から揺るがせていく。
俺は言い聞かせた。
(この距離感でいいはずだろう…)
友人の一人として隣にいる。
充足感を得ていたのに――まだ足りないともがく。
手を伸ばせば触れてしまう――どうせ自分のものになるわけでもないのに。
(くそ…)
『それは仕方のないことだよ。自分の思うように人は変えられないのだから』
(ああ、その通りだ)
英の言葉が蘇る。
何度も諦めてきた。それは彼の気持ちは彼自身のもので、俺の思うようにはならないのだと何度も実感したからだ。
そして自分の気持ちさえも、ままならない。
でもこうして抱きしめることができる場所にいる。俺は無意識に彼の背中に手を回した。
「さ、斉藤さん…?」
彼が腕の中で動揺しているのが分かったけれどなぜか拒まなかった。暫くそのままでいた。彼の鼓動が聞こえる。きっと彼にも俺の鼓動が聞こえている。
『ねえ…いっそ自分のものにしたいとか、思わないの?』
俺の脳裏に英のあの時の言葉と、その顔が浮かんだ。それはまるで悪魔のささやきのようだったが、同時に悲しみを帯びていたように聞こえた。
このまま乞われるくらいに抱きしめて、押し倒してみれば――。
『言葉にするよりも、意外に沢山のことがわかるものだよ』
ああ、わかるのかもしれない。
きっとわかるのは、
彼が別の人を好きだということだ――。
「――やはり冷えている」
俺は沖田の身体を離した。そしてまるで何事もなかったような顔で「部屋に戻ろう」と背中を向けて去った。
そしてそのまま部屋に戻る。床はすっかり冷えていたが、おかげで火照った頭が冴えていくようだった。













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