徒花ステイルメイト

*このお話は「そこはかとなく、」をお読みいただいてからご覧ください。


翌日。
「沖田はどうした?」
沖田のは顔色が悪いと騒ぎ立てた島田魁と山野八十八が、南部先生の医療所から戻ってきた。おそらく昨晩、夜風に当たりすぎたのが良くなかったのだろう。
「はい、沖田先生は南部先生の医療所で養生されることになりました。南部先生はご不在でしたが、松本先生がいらっしゃったので…」
「そうか」
「明日の稽古番は斉藤先生に代わってもらうようにとのことでした」
「わかった」
島田と山野の報告に対して、俺は短く返答してその場を去る。幕府御典医である松本先生が直々に診てくださるということなら心配はないだろう。
安堵した俺はその足で飲みに出かけることにした。雲の合間から差し込む暖かい光よりも十一月の冷たい風が身に染みる。指先は冷たくなっていたが、しかし俺の身体は昨晩からどこか火照ったままだ。
(…阿保らしい)
俺は自嘲した。
偶然とはいえ倒れ掛かった沖田を支えた時に触れた熱が、いまだに燻っているみたいで…こんなことは初めてだ。
ずっと独りで生きていくのだと思っていた。
昔から誰かとつるむことが面倒だと感じていて、いつも無表情で淡々とした返答しかしない面白みのない俺から常に人は離れていった。だがそれを苦に感じたことはなく、むしろ楽になったと達観していた。
けれど次第に、一人で生きるということは存外つまらないことだと気が付いた。
(気が付いたのは…試衛館に滞在したせいかもしれない…)
同年代の熱い志や、気のおけない距離感を肌で感じて「彼らとなら生きられるかもしれない」と思った。残念ながら芹沢という存在が一時邪魔をしたが、それでもまた同じ場所に戻ってきたのは素直に彼らの友情と熱情が恋しかったからだろう。
(それだけでいいはずだろう…)
俺は自分に問いかける。
自分にとって彼らは代えがたい存在だ。だからこれ以上欲しがってはならない。そう言い聞かせながら歩き続けると、いつの間にか鴨川の袂までたどり着いていた。いつもは混雑する場所も、今日は昨晩から続く冷たい風のせいで人通りはまばらだ。
俺はさらさらとした川の流れを横目に橋を渡った。すると土手の方に目立つ姿があって目に止まった。
(…英…)
英は土手に腰掛けて本を読み耽っていた。彼とは数日会っていないだけだが、なぜだか懐かしく感じられる。しかし川べりの寒い場所で何をしているのだろうか…俺は自然と足を止めてその姿を見ていた。
彼の風に靡く細い髪が輪郭に掛かる。だが彼はそれを気にも留めないで一心不乱に書物に目を落としている。凛とした横顔は遠目にも良く目立ち、誰もが見惚れてしまうような整った顔立ちをしている。男と女…その狭間にいるような曖昧で手の届かない存在。それは誰もが感じることで道行く人が時折、英に気が付いて足を止めていた。
彼はそんな自分自身の容姿のことや、周囲の好奇な目線に気が付いているが涼しい顔で受け流していた。まるで気にする様子はなく、俺が先日言い放った手紙を寄こすな――という冷たい言葉すら、彼には響いていないように見えた。
(くそ…)
俺が少し苛立つと、不意に英が視線を上げた。そして何かに導かれるように俺の方向へ目をやって、視線が重なって正直、どきりとした。まるで俺がみていたことに気が付いたようだったからだ。
英は微笑むと立ち上がって土手を離れ、こちらに歩いてくる。
もちろんこの場を去り彼を避けることはできたけれど、まるで逃げているみたいだと思い、それは癪だと思ってそのままと留まった。
英は土手から橋を渡り俺の目の前に立った。そして
「…なんだ、逃げなかったんだ」
と笑った。まるで心が見抜かれているようで、居心地が悪い。俺は聞こえなかったふりをした。
「こんなところで何をしている」
「見ていたくせに。ご覧の通り、本を読んでいただけだよ」
英は手にしていた本を俺の前に示す。それは見慣れた文字だけでなく異国語も混じった医学書のようなものらしい。
「…だったら、あんなところで読まなくてもいいだろう」
昨晩から続く冬の風は土手では一層冷たく感じるだろう。本を読むだけならどこでもできるのに、わざわざそんなところで読んでいたのは違和感がある。
だが英は「別に」と言って続けた。
「ちょっと面倒なことになったから、のうのうと医療所にいられなくてね。南部先生に迷惑を掛けないようにしているだけだよ」
「面倒?…また何かあったのか?」
俺は先日の彼の古い知り合いだという『泥吉』のことを思い出した。討幕派の連中とつるんでいた泥吉は英にちょっかいを出していて、そもそもその件が英と親しくなったきっかけでもある。
「…まあ、大丈夫だよ」
「はぐらかすな」
「なに、心配してくれるの?」
英はふっと笑って俺に上目遣いで訊ねる。
「…お前が面倒事を起こすと、迷惑だからだ」
適当な返答をして俺は英から視線を躱した。自分でもなぜ英のことを気にしているのかよくわからなかった。
英はふうと深く息を吐いて、俺の隣に立って橋の欄干に背を預ける。先ほど橋の上から見ていた側とは反対の彼の横顔には火傷の傷がある。けれどその傷のおかげで彼が決して孤高で高貴な存在ではなく「人間である」ということを感じられるような気がした。
「昔…といっても、こっちに来て宗三郎になってからだけれど。熱心なお客さんがいてさ…今の居場所も突きとめられたんだ。もう陰間じゃないならもらってやる、不自由な生活はさせないって…拒んだけれどしつこくって。先生や患者さんに迷惑をかけるわけにいかないから、必要のない時は医学所から離れるようにしてる」
「…」
「言いたいことはわかってる。自業自得だって、因果応報だろう?」
英はははっと笑った。だが笑いながらも、その声はどこか虚しく響いた。くるりと背を向けた彼は欄干から川を覗くように身を乗り出した。
「その男に言われたんだ。『何やってるんや?』って。俺は答えられなかった。今はまだ医者の飯事みたいなものだから…って卑下する気持ちもあったけれど、そうじゃなくて…」
そうじゃなくて。
「男にとって俺は陰間じゃないと俺ではないんだ。それを目の当たりにして自分を肯定できていないことに気が付いた。だから何も答えられなかったんだ。…俺はまだ、あの頃に囚われている。馬鹿みたいに…」
欄干から身体を伸ばし、冷たい風に髪を靡かせる。いつもは飄々としているくせに寂しそうに呟く姿は心もとなく見えた。
「新しい人生をやり直すって難しい。過去は過去でいつまでも後ろをついてきて…振り返ればすぐ後ろにいる」
どうしようもない、やるせない表情。
未来は変えることができても、彼が歩んできた過去はもう変わることはない。そのことを俺はよく知っていた。
何も答えることができずにいると、ヒュウッと耳元で風の音がした。俺は英に手を伸ばし、
「…落ちるだろう」
欄干から身を乗り出す彼を引き寄せた。英は少し驚いたような顔をして、しかしふっと鼻で笑った。
「落ちたりしないよ」
「…そうか」
俺は手を放して、続けた。
「医学所を離れていると言っていたが…どうやって暮らしているんだ。宛てがあるのか?」
「どこかに身を寄せて隠れるほどじゃないよ。日中にこうやって暇をつぶして離れているだけで往診があれば同行するし…まあでも今日は、戻れないけれど」
「戻れない?」
「沖田さんが来ているから」
「ああ…」
そうか、と俺は納得した。間の悪いことに、沖田は南部の医療所で養生しているということだったから戻るわけにはいかないのだろう。
「だったらどうするんだ」
「心配しなくても一晩くらいどうにかなる。野宿だってできるし…面倒事を起こして迷惑にもならないようにするよ」
「…」
英は先ほどの俺の言葉を引用する。口が長けている彼にそんな風に言われると、俺も二の句が継げなくなってしまう。そんな俺を見て英は「ふふ」と満足げに笑った。
「じゃあね」
英は俺の傍をすり抜けて背中を向けた。そのまま軽い足取りで俺の元を去っていく。
十一月の寒い冬の夜に野宿など身体を壊すだろうし、あの容姿で野宿など狼の群れに飛び込むようなものだ。彼を引き留めるべきだろう――と、そう思ったけれど追いかけることはできなかった。
きっと彼は俺の差し伸べた手など、払いのけてしまうだろう。
俺が誰にも踏み込むことがないことをわかっている。だからこそ刹那的な庇護などいらないと、拒む。
「くそ…」
苛立った俺は、英とは反対方向に歩き出した。












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