徒花ステイルメイト

*このお話は「そこはかとなく、」をお読みいただいてからご覧ください。




「斉藤様」
声を掛けられて振り向くと、南部先生の養女であり深雪の主治医である加也の姿があった。
近藤局長の妾である深雪が襲われてから数日が経った。土方副長は何としても局長が長州から帰還するまでには不審者を捕まえたいと考えているようで毎日交代で副長助勤に別宅に詰めるように命じていた。すると必然的に主治医である彼女に会う機会も増えた。
「ご苦労様でございます。これから警護ですか?」
「ああ…」
俺は適当な返答をしたが、彼女は構わず並んで歩き出す。目的地が同じなのだから仕方ないが、うら若き女性が俺のような男と共に歩くなど好奇な目に晒されてしまうような光景だ。しかし彼女は躊躇する様子はない。
「今日は斉藤様お一人ですか?」
「いや…あとから藤堂が来る」
「ああ、藤堂平助様。とても腰の低くて礼儀正しい方ですね」
「…」
朗らかに語る彼女に内心、苛立っていた。
彼女は沖田の見合い相手である。美貌と才覚に溢れ、会津藩医である南部先生の養女…という申し分ない女性だ。沖田とも気があうようで局長が帰還すればそのまま縁談が成るだろう。いつかは妻として沖田の隣に並ぶ…そんな彼女と話すことが、俺としては気のすすまないのは当然のことだ。
しかし、そんなことは彼女の知る由がない。
「この度のことで、すっかり組長の皆様のお名前を覚えてしまいました。とても頼りになる方ばかりで安心です。それに深雪さんも賑やかなほうが心が落ち着くでしょうから…」
「…それで」
「え?」
「何か話しがあったのではないのか?」
俺は促した。
いくら彼女が気さくだからといっても、反応の鈍い俺に自ら話しかけて来ることは少ない。何か用事があるのだろうと思っていた。
すると加也は少し言葉を選ぶように続けた。
「あの…英のことなのですか」
「…」
「斉藤様は英とその…親しくされているのでしょう?久しく姿を見せていなくて…良順先生や義父が心配しています。どこにいるのかご存知ではありませんか?」
内心、彼女が英のことを尋ねてくるだろうという予感があった。南部先生の右腕として働く彼女が彼のことを気にかけるのは当然だろう。
「…何故俺に聞くんだ」
「それが、山崎さんは斉藤様がご存知だと。英のことなら斉藤様に頼れと」
「…」
俺は思わず舌打ちしそうになった。英の居場所を教えてきたのは山崎の方で、監察の癖が抜けない彼は何もかもを把握しているはずなのだ。
(あくまで俺に任せるということか…)
山崎の悪戯心に深いため息が漏れた。
「…英は熱りが冷めれば戻るといっていた。医学の道を諦めることもないと」
「本当ですか…?」
「わからない。何を考えているのかわからない奴だからな…」
その言葉に嘘がないのかと問われれば、俺には断言することはできない。彼の何もかもを知っているわけではないのだから。
加也は「そうですか」と目を伏せ、続けた。
「…最初はきっと長続きするわけがないと思っていました。医学の道はいままでの英の生き方とは違うものだし、挫折する者は多いですから」
「…」
「けれど、英はあっという間にいろいろなものを吸収して覚えてしまいました。良順先生も期待していろんなことを学ばせて…わたくしには羨ましいと思えるほど」
その表情には様々な葛藤が見えた。女の身で産まれながら医者を志す彼女にはこれまで困難がたくさんあったのだろう。それを飄々と越えて行ってしまった英には羨望と嫉妬があるのかもしれない。けれどそれ以上に彼女
英を高く買っているのはわかった。
「でも英がいなくなって気がついたんです。英は…わたくしたちに一度も助けを求めたことがないって。医学のことだってずっと一人で書物を読んで…聡いのだと思っていましたが、きっとそうではなくて誰かに助けてほしいと言えない環境で育ってきたんですよね」
以前英は自らのことについて、産まれた時の名前すらわからないと笑っていた。薫と名付けられて陰間に売られたのが一番最初の記憶なのだと。それ以来ずっとその世界で生きてきた彼にとって「助けを求める」という選択肢すらなかった。
『助けを求める資格なんて、俺にはあるのかな』
先日、英が口にしたその言葉の意味が途端にとても重くなる。
「斉藤様、どうか英のことをよろしくお願いします」
「…俺がどうにかすることなど、あいつが望んでいない」
「そんなことはありません。きっと英は斉藤様のことを信頼していますから」
「…」
有無を言わせない口調で断言され、俺は何も返答することはできなかった。近藤局長の別宅がいつの間にか眼前にあって、加也は先んじで中に入る。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
彼が助ける資格がないと嘆くのなら、
俺には彼を助ける資格があるのかと。
答えのない問いを繰り返した。



土方副長が刺されて別宅に担ぎ込まれたのはそれから数日後のことだった。その日は別宅に不審者が再び姿を現した。加也が襲われたがその顔をしっかり見たということもあって、何か起こるのではないかという胸騒ぎがあったが、悪い予感は当たってしまったのだ。
「歳三さん…歳三さん…」
沖田は切ない声で呼びかけるが、土方副長
返答はない。意識を失っているようで額から玉のようなもの冷や汗が吹き出ていた。脇腹を痛めているはずの加也がその隣で懸命の処置を続けている。
沖田は震える手で土方副長の手を握っていた。固く結んだその手が俺の目に焼きつく。誰がその間に割って入れるというのだろう。
俺には踏み込めない『何か』がある。そんなことは随分前からわかっていたのに、それを目の当たりにすると、まるですべてのことが無駄なのではないかと思ってしまう。
必死の処置を行う加也は世話役のみねに松本先生を連れてくるように指示を出した。自分の手に負えないことを弁えている、彼女らしい判断だ。だが一方で主人である副長が刺された姿に動揺するみねはまともな受け答えができていない。
「俺が行こう」
そう申し出ると、加也は頷いた。俺の方がよっぽど足は速いのだ。
俺は沖田の肩を引いた。そして
「殺したのか?」
と問いかけた。血まみれの彼らだが、それは副長の怪我だけではないことには気がついていた。
「…はい」
昏く淀んだ返答だった。それは傍にいた加也が気がついてしまうほど、怒りと憎しみが込もった響きを伴っていた。
彼の言葉には副長を刺した相手を心底軽蔑する彼の暗い感情が秘められている。その根底にあるのはもちろん何よりも大切にしている土方副長への思いなのだろう。
「わかった」
俺は玄関を飛び出て走り出した。

それからすぐ駆けつけた南部先生の処置によって土方副長は命を取り止めた。出血はあったが縫合などは問題なくされたようで、数日間安静にしていれば問題ないということだった。
診療所へ戻って行く南部先生たちのなかに、加也の姿があった。脇腹を痛めた彼女はこのまま診療所に戻って療養することになったのだ。
「申し訳なかった」
俺は頭を下げた。
深雪の警護役として別宅に詰めていたにも関わらず、怪我を負わせてしまった。本人は気に留めていないようだが、それでも恐怖を感じたに違いない。
加也は微笑んだ。
「どうか気に病まないでください。深雪さんも土方様もご無事だったのですから。わたくしの怪我など大したことはございませぬ」
「しかし…」
「患者様をお守りすることができたのです。わたくしはそれだけで良いのです」
「…そうか」
彼女の気遣いを俺は素直に受け取った。気丈に振る舞っているだけだとしても、強情な彼女はそれを悟られたくはないだろうと思ったのだ。
加也はふっと息を吐いて笑った。
「それにしても、本当に…助かってよかった。土方様に何かあれば沖田様だって後を追いかねないでしょう」
「…二人のことを知っているのか?」
「いいえ、沖田様にそういう相手がいらっしゃるのは知っていましたが…それが土方様にだということは先ほど気がつきました」
加也は振り返るように視線を向けた。そこにはおそらく眠ったままの土方副長と沖田がいるだろう。
「あんな顔を見れば誰でもわかります。大切で大切で仕方ない…そんな風に見えましたから」
「…わかっていて夫婦になるつもりなのか?」
夫婦になる相手は別に思う人がいる。そんな状況を加也が甘んじで受け入れるように見えなかったが、彼女は曖昧に頷いた。
「…初めからわかっていたことです。わたくしだって沖田様に相応しいとは言えない身ですから…あのかたが望むのなら構いません。ただ…あんな風に思われることが、とても羨ましいとは思います」
「…」
加也はそれ以上は語らずに「失礼します」と軽く頭を下げて別宅の門を出た。外では南部先生が彼女のことを待っていた。
沖田には思う相手がいて、それを受け入れた上で夫婦になる。その決意の裏にどんな事情があるのか俺には分からなかったが、加也が全てを知って受け入れているというのなら、誰も口を挟むことはできないだろう。
二人は夫婦になる。土方を追いかける沖田の傍には加也が寄り添う。
(俺の入り込む余地などない)
どうしようもない事実を突きつけられた気分だ。
俺はそのまま別宅に戻り、二人がいる部屋を覗いた。そこには薬によって深い眠りについた土方と、その傍らに倒れこむように目を閉じた沖田の姿があった。
俺は足音を立てないように部屋に入った。副長はともかく、十二月の寒い夜にそのまま寝ていては風邪を引くだろうと、俺自身が着ていた羽織を肩にかけた。目を閉じる沖田の顔には少しの疲労感があったが、それでも安堵の表情もあった。
伏せられた長い睫毛。その瞳の奥で彼は一体どんな夢を見ているのだろうか。
俺は膝をつき、そのまま身を屈めた。彼の肩を押して顔を少し上に向かせて、その唇を重ねた。
どうしてそんなことをしてしまったのかはわからない。眠っているとはいえ副長の前だ、慎むべきだとわかっていたのに。
(せめてこのくらいは許せ)
どんなに強く、どんなに願っても俺の気持ちが叶うことはなく、彼の心の奥にある川面にこの想いが波打つこともないのだろう。
わかっている。
わかった。
十分すぎるほど、わかっているから。
だから許してほしい。
(俺はもう、捨てられない)
そんなところまで、来てしまったんだ。


















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