キキナシ 徒花シリーズ5






いつも、目を覚ますと言いようもない疲労感に襲われた。
西本願寺ほど高くはない天井が目に入り、(ここは何処だったか)と思いながら体を起こし、(ああそうだ)と自分の身分が『御陵衛士』に変わったのだと思い出す。それを毎日繰り返す程度には、古巣に愛着があったし今の環境は身体に合わないのだろうと思うが、それでも自分のやるべきことはわかっていた。
「おはようございます」
すでに起きていた藤堂が明るく声をかけてきた。朝から無駄に元気なのは沖田と同じだが、彼の場合は西本願寺にいた時はいつも虚な顔をしていたので、環境が変わり張り切っているように見えた。
「…早いな」
「斉藤さんが遅いんですよ。伊東先生たちは出て行ってしまって、俺たち二人で留守番なんです」
「…」
よほど深く眠っていたのか、伊東たちの朝が早かったのか…答えはわからないが彼と二人で過ごさなければならないという事実は明らかだった。
あからさまに嫌な顔をする俺を気にすることなく、
「朝餉をどうぞ。俺は住職の掃除を手伝ってきますから!」
と足取り軽く出て行ってしまった。律儀な藤堂が掃除を手伝うのは毎朝のことなので、一刻ほどは離れていられるだろう。
俺は顔を洗い、目を覚ました。春になってもまだ井戸の水は冷たい。部屋に戻り藤堂が差し出した朝餉を平らげて、俺は日課である刀の手入れを始めることにする。手入れを怠ればどんな名刀でもいざという時に役立たない…低い身分から出世した父は几帳面でそんなことをよく口にしていたが、今になるとあれが『親の教え』というものだったのだろう。すっかり縁の切れた自分は今更そんなことを思う。
そして自然と、鞘に巻かれた組紐が目に入った。
「…」
これを見るたびに彼のことを思い出す。今では遠くからその様子を伺うことしかできないが、安寧な日々を過ごしているのだろうかと柄にもなく気にかけてしまう。
「…馬鹿らしい」
俺は深くため息をついた。
彼に対しては友情のような愛情のような…しかしある意味一線を越えた気持ちがある。友情では足りず、愛情では持て余し…だがこれは確実に彼以外にはないと確信できる特別な感情だ。それは生きる目的であった若様を亡くして、一層その輪郭がはっきりしたように思う。
これはまさに…。
「斉藤さーん」
遠くから藤堂の声が聞こえてハッとした。彼は箒を片手に手を振りながらこちらにやってくる。
「なんだ」
「お客さんですよ」
「客?」
訪ねてくる者に心当たりがなかったので俺はよほど怪訝な顔をしたのだろう、藤堂は「綺麗な人ですよ」と余計な情報を口にする。
「女か?」
「いやぁ、どうだろう。でも斉藤さんのお知り合いじゃないですか?名乗らなくてもわかるって言ってますよ」
「…」
俺は刀を鞘にしまい、身を整えた。
そうだ、名乗らなくてもわかる。いつかここを訪ねてくるだろうと思っていたのだ。


「無口だとは思っていたけれど、薄情だとは思わなかったな」
彼は俺の顔を見た途端、はっきりと文句を言った。
その風貌は藤堂が「綺麗だ」と飾らなく言えるほどに美しくしかし男でも女でもなく、どこか浮世離れしている。
そんな人間は英くらいしかいない。
彼に誘われて賑わう居酒屋にやってきた。騒がしい店内で、英はくどくどと続けた。
「去年、なんだか落ち込んでいると思ってしばらく酒の誘いを控えていたら、年が明けた途端、手紙の返事がなくなって、ついには新撰組を脱退して引っ越しているなんて。もちろん、俺に逐一報告する義務はないけれどせめて脱けたのなら脱けたと言ってもらわないと、何度も新撰組へ文を出した俺が阿呆みたいじゃないか」
「…すまない」
少しの反論はあったのだが、ここは謝ったほうが話が早いと思った。実際、昨年末から年明けにかけては忙しかったのだ。
素直に認めたせいか、英はそれ以上は言わずに酒を注げと言わんばかりに猪口を差し出してきた。
「…それで、『御陵衛士』だっけ?墓守にでもなったの?」
「まあ…そんなところだ」
明確な活動がなかったので俺は頷いて酒を注いでやった。彼はそれを一気に煽って「ふうん」とさほど興味がなさそうだったのだが、
「歳さんには敵対したわけじゃないと聞いたけれど、巷じゃ喧嘩別れだと噂だよ」
とあっさりそんなことを言うので驚いた。
「…待て、『歳さん』?土方副長と会ったのか?」
「薄情者に話す必要はないと思うけど」
「…」
「…だからちゃんと話しておこうと思って文を出したんだよ」
と再び責められることになってしまい、俺は「悪かった」ともう一度謝った。
英は空になった猪口を指先で回しながら話し始めた。
「歳さんより先に、たまたま沖田さんに再会したんだ。和解というわけじゃないけれど今でも時折会っていて、その流れで歳さんとも何度か話をした。ここ最近の火事を知っている?」
「ああ。この間は上七軒で…」
偶然、副長が巻き込まれたのだと山﨑の配下から伝え聞いていた。
「そう、それ…実は俺も一緒にいたんだ」
「一緒に?」
「誤解しないでほしいんだけど、別件で」
英の話は簡潔で、それ以上は聞くなという牽制も感じた。彼は続けた。
「新撰組に肩入れするわけじゃないけど、脱退した斉藤さんに会うのは憚られて…でもまあ、歳さんが良いと言っていたから、今日は足を運んだんだ」
「…そうか」
そこまで話し終えたところで、英は肴の田楽に手を伸ばした。串で刺して口に放り込み、自分で酒を注いだ。
俺はいくら飲んでも酔わず酒には強いが、彼も同じだ。幼い頃から鍛えられたのかいくら飲んでも顔色ひとつ変えずに素面のままだ。そんなところが気があって時折こうして会っている。それは英も同じだと思っていたのだが、
「もしかして迷惑だった?」
と彼らしくない質問をしてきた。
「なにが」
「てっきり立場が変わったから会いにくるなと言われるかと思った」
「いや…別に良い。むしろ時間を持て余している。また来てくれ」
毎日目まぐるしく隊務や稽古の当番をこなしていた俺にとって、御陵衛士としての穏やかな時間は性に合わない。そのせいか、昔の父の口癖や沖田のことなんて考えてしまうのだ。それに妙に懐かれる藤堂の相手よりはよほど英とこうして飲む方が良い。
英は笑った。
「じゃあ、また来るよ」
彼は寄せ付けないほどの美貌を持ちまるで誰ともつるまないような孤高な清廉さがあるが、笑うとまるで花が咲くように明るい。俺はもう見慣れてしまったが、側から見れば目立つ存在だろう。
そんな彼と共に、気遣うことなく過ごす…俺にとって悪くない時間だ。
俺も田楽に手を伸ばしつつ
「沖田さんは元気か?」
と尋ねた。どういう経緯かは知らないが和解したのなら良い友人関係になっているだろう。俺は特に意味もなく尋ねたのだが、
「……ああ、元気だよ」
と英は少し間をおいて答えた。そして通りかかった女将に追加の酒と肴を頼み、
「そういえば、山さんがさ…」
と話題を変えてしまったのだった。


朝から飲み、気がつけば夕刻になっていた。
「ああ、飲みすぎた」
店を出て英は背伸びをした。彼はそう口にするが結局最後まで顔色ひとつ変えずに飲み続けていたのだ。
「帰れるか?」
「もちろん。この辺りはよく診察で来るし…」
そこまで言いかけて英はふと視線を落としてある一点を見つめた。俺はすぐにわかった。腰のあたり…鞘に巻きつく組紐に気がついたのだろう。
他人の機微に敏感な英はフッと微笑んだだけで言及はしなかった。
「じゃあね」
「…ああ」
英は手を振って去って行く。
次の約束もなく、会う理由もないがそれでもまた会うのだろう。
この関係は友情ではあるが、単純なものでもない。だが…ただただ居心地は良い。
俺はそんなことを思いながら彼を見送ったのだった。




迂闊な人間は、いつも迂闊であり完璧ということは一度もない。
自分だけが正しいと烏滸がましくも思い込んでいる者は大抵周りが見えず、注意力も散漫だ。
権力に媚びる者、時流を読めない者…語る言葉は違っても俺にとって二人は似た者同士だ。
「じ、事実をお伝えしたまでだ!お前は何件もの火事騒ぎを起こし、ついには土方副長を巻き込んだのだぞ!新撰組隊士として犯人を進言するのは当然であろう!」
「白々しいな…隊を裏切り、御陵衛士に加わろうとした貴様が今更そのような正義感を振りかざすとは」
「…ふん!何とでも言えば良い!」
いくら空室の多い宿だと言っても、貶しあえば声が響く。誰にも訊かれたくないのならこんな場所を選ぶべきではない。
(…田中はわざわざここを選んだのだろう)
人々の日常が傍らにある…そんな場所は間者が潜むにはうってつけの場所だ。田中は敢えてこの場所を選んで武田を巻き込んだのだが、愚かな彼はそれに気が付いてはいない。
俺は二人の会話を半分くらいは聞き流していた。把握していることも多く、聞くに堪えない内容であったからだ。
田中が脱走したという知らせは朝早く俺の耳に入った。その方法は割愛するが、数日彼を見張っていた俺は何となく田中の居場所を察し、こうして居合わせた。
金を渡し、放火させていたのは田中。理由は自暴自棄になった末の攘夷への傾倒、妄想の成れの果て。空き家ばかりを狙ったのは、彼が誰かを殺めるつもりがなかったからだが、最終的に副長を巻き込んだのは手痛い失敗となった。
一方で、武田が放火の現場に居合わせたのは首謀者を探し手柄を上げようとしたためだ。俺が嗾けたのもあるが、自尊心の塊のような男は降格という憂き目を受け入れられず柄にもなく犯人を突き止めた。それを局長副長へと献上したのは意外であったが、現実的な判断でもあった。御陵衛士に武田の居場所はない。
(本当に…愚かな似た者同士だ)
ただ、田中は最後の最後に開き直った。
「ただの死人の戯言だ。ただ俺を犠牲に生き延びたところで、通る道は同じだと…そう伝えたかったのさ」
そうだ。
きっと同じ道を辿るだろう。ほんの少しだけ武田が生き延びるだけなのだからーー。
宿から出てきた田中は周囲を気にしながら北へと向かった。俺はその背中を追いかけた。


春の終わり。
その日は珍しく伊東が屯所にしている善立寺にいた。溜まった手紙に目を通し、流れるような筆跡で返事をしたためている。
優雅な顔立ちと佇まいは、新撰組を離れてからさらに加速し充実感に満たされているように思う。
俺は伊東に呼び出されていた。
「…件の、田中寅蔵は死んだそうだ。近藤局長から文が届いたよ」
「そうですか」
「何でも、彼は本満寺に潜伏していたそうだ。ここから真っ直ぐ北に一里と少しというところだね」
「…何を仰りたいのでしょうか」
伊東の周りには常に清涼な風が流れている。常人なら感じない程度だが、言葉の端々に何かしらの意図を感じた。
伊東は微笑んだままだった。
「いや、脱走から捕獲までが早かったと思ってね。本満寺は見廻組の管轄区域だ、本来なら新撰組の目の届かない場所だね」
「では見廻組が情報提供したのではないでしょうか。もしくは、田中は攘夷思想に傾倒した男ですから日頃から監察が張っていたのでしょう」
俺は淀みなく答える。伊東は「そうだろうね」と同意して、墨を擦り始めた。
「君は田中を気にしていただろう。気がかりが減って良かったと、伝えたかっただけだよ」
「…ありがとうございます」
「もう一人の武田君にも早々に諦めて欲しいものだが…茨木君にも接触しているのだろう?なかなかしぶとい男だ」
「…ご命令であれば、斬りますが」
俺の申し出を聞いて、伊東は手を止めた。
俺は少し前に同じことを言った。その相手は田中だったが、さほど変わりはない。その時伊東は穏やかに「放っておけ」と制してそれ以上は語らなかった。
しかし、いまは誰もいない。
「…命令、というのは憚られる。しかし、君の判断でそれが必要だと言うのなら、そうしても構わない」
「…」
「ここは新撰組ではない。君は汚れ役ではないし法度に縛られることもない。君の意志を尊重する」
涼しい顔をして淡々と語る。伊東は命令ではないと口にしながら、遠回しに斬れと言っている。
「わかりました」
俺は軽く頭を下げ、部屋を出た。するとちょうど藤堂に居合わせた。
「あ、いたいた。先生とのお話は終わりました?」
「ああ。何か用か?」
「またいらっしゃってますよ、お友達が」
「…」
藤堂はフフフと含み笑いをしている。おそらくやってきたのは英なのだろう。人目を引く彼に付き合うとなにかと疑われるのはわかっていたのだが。
「…何だ」
「何だって、そりゃ勘繰りたくもなりますよ。あんな綺麗な人が無骨な斉藤さんを訪ねてくるなんて、一体どういう関係なのかなぁーって」
「友人だ」
「またまたぁ」
うざったい藤堂を押し退けて俺は背中を向けたのだが、彼はしつこく追ってきて、
「沖田さんのことは良いんですか?」
と軽く尋ねてきた。彼からその名前が出てきたこと、そしてこの話の流れで口にしたこと…俺は一気に苛立った。
「…何のことだ。妙なことを言うな」
「妙なことじゃないですよ。いつも近寄り難い斉藤さんが唯一心を許したのは沖田さんだけでしょ」
「だったら何だ。英とは関係ない…それ以上は話すな、不快だ」
俺がはっきりと拒むと、能天気な藤堂も「つれないなぁ」と文句を言いながらそれ以上は何も言わなかった。


「あぁ、不機嫌だなぁ。何か嫌なことでも?」
「…」
門外で待っていた英は俺の顔を見るなり言葉を選ばず指摘した。
「…今度から手紙を寄越してくれ」
「仲間に揶揄われた?」
「そんなところだ」
俺は適当に返答してさっさと歩き出す。また門前で誰かと出会すのは面倒だったのだ。
彼が悪いわけではないとわかっていながらどうも虫の居所が悪く、馴染みの居酒屋までの道中は無言だった。英は機嫌を取るわけでもなく、隣に並び歩いていた。
賑やかな居酒屋に着くと、彼は慣れた様子で酒を注文した。
「ああ、そういえば付け火の下手人は捕まったそうだね。老人、子ども、女…金をもらって火をつけたと口を揃えて話しているそうだ」
英は世間話をするように軽く話す。彼自身も巻き込まれたはずだが、まるで関係ないかのようだ。
「…金を渡していた者はわからないまま、終わりだ」
首謀者である田中は自供せず、脱走の罪で裁かれることを望んだため切腹となった。新撰組も体裁を気にして下手人だけは役人に引き渡し、田中のことは伏せたようだ。
「まったく、人生で二度も火事に遭うなんて本当にツイてない。お祓いでもしてもらおうかな」
酒を口にしながら英は笑った。出会った頃には考えられない朗らかな笑みだ。
「…平気なのか?」
俺は柄にもなく尋ねた。
一度目の火事で彼はひどく落ち込んだと聞いていた。嫌な思い出を思い出したのではないかと思ったのだが、
「平気だよ。あの時と今は…何もかもが違う、名前さえもね」
言葉通り何の感情もないようで、俺は少し安心する。彼は続けた。
「でも意外だったな。斉藤さんがそんなことを聞くなんて。そういえばあの時歳さんにも言われたんだ、『大丈夫か?』って。俺のことを気にしている場合じゃないのに…」
英はその時、一瞬表情を変えた。ほんの一瞬だったが彼が何かを思い出して言葉を噤んだように見えた。
俺は
「…副長のことをまだ引きずっているのか?」
と問うた。
二人は江戸にいた頃からの知り合いだと言う。英は長い間副長のことを想い、都へ追いかけて来たと沖田から聞いていた。久々の再会でその気持ちが再燃してもおかしくはなく、それが彼が言い淀んだ理由だと思ったのだ。
しかし、彼は眉間に皺を寄せた。
「…本当に、今日はらしくないな。人の気持ちを知ろうとするなんて、全然らしくない」
「…」
「今日は帰る」
英は金を置いて席を立った。
俺は彼を追いかけることなく、そのまま酒を飲んだ。酔いたいのに酔えない、水のようなそれを流し込む。
(英の言った通りだ)
らしくないことを聞いた。
らしくないことを考えた。
藤堂の言葉のせいで余計な感情に囚われた。彼を思う気持ちを彼以外に口にされるのは不快だったからだ。
そしてそれは英も同じだったのだろう。たとえ終わった感情だとしても他人に掘り起こされるのは不本意だっただろう。
俺は鞘に巻きつけた組紐を見る。
『ただ俺はあんたに忠誠を誓う。どんなに遠くにいても、離れていても、守るから』
あの時の誓いはどこか現実離れしていて実感がなかったが、こうして離れてみるとよくわかる。
(守られていたのは俺の方だ)
会いたいのに会えないのは、これ程までに苦しいのだ。



新撰組が幕臣へと昇進する―ーー。
その知らせはいまだに繋がりのある篠原から聞いた。もしかしたら近藤局長や土方副長よりも早く耳にしたかもしれない。
「恩恵が受けられず、残念だったな」
長い付き合いのある篠原はそう薄く笑ったけれど、俺は出世したいわけじゃない。むしろ俺のような者が華々しい立場に立つことが場違いなので気にも留めなかった。
篠原とはいくつかの報告を交わしてすぐに別れた。若様が亡くなった今、彼の命令に従う理由はないのだが俺のような微妙な立ち位置ではどんな情報も得ていて不利益になることはないので、関係を続けている。
季節は梅雨へと移り変わる。毎日、曇天が空を覆うがそれを払うように、幕臣への昇進の知らせが届けば彼らは歓びに包まれるだろう。近藤局長は旗本、皆は御家人…数年前まで貧乏道場で燻っていたことを考えると夢のような出来事だ。
そして、彼もーーー。
俺は自分の左手がまた鞘を握っていることに気がついた。彼のことを思うたび自然と指先が組紐を探していて、これを通して繋がっているような気がするのだ。
(…なんて、馬鹿らしい…)
篠原に言った通り、幕臣になれなかった後悔は微塵もない。ただ彼の喜ぶ顔が間近で見られなかったーーそれだけは悔やまれた。


それから数日後、昇進の知らせは御陵衛士にも届いた。彼らはその知らせを鼻で笑い小馬鹿にするだけだったが、仲間意識の残る藤堂は素直に喜んでいた。二人だけで隠れて酒を飲み、別れた友人を祝ったのだが、その後話は面倒なことになった。
(残してきた茨木たちはどうなるのか…)
伊東がこの頃浮かない顔をしているのはそのせいだろう。諜報役として置いてきた茨木たち十名あまりは、幕臣昇進など到底受け入れられないと訴えているようだが手立てがない。互いに隊士の移動はしないという約定があり、それを早速破るわけにはいかない。
(さて、どうなるか…)
俺は敢えて何も言わずに状況を見守ることにした…頃。
「あのさ、気まずい別れ方をしたのは悪かったけど、あらかじめ手紙を寄越せと言うから何度か出したらずっとうんともすんとも返事がなくて、ようやく五回目にしてこうして飲みに付き合ってくれるっていうのはちょっと冷たすぎるんじゃないの?」
と、英に矢継ぎ早に文句を言われてしまった。
「…悪かった。忙しかった」
「そう?墓守はたいてい暇じゃないか」
英は言いたい放題だったが、その通りなので俺は反論はしなかった。
今日は騒がしい居酒屋ではなく、わざわざ先斗町鴨川沿いの茶屋の一室で飲んでいた。夏になれば床が出るがまだ季節が先だ。
「…今日は趣が違うな」
昼下がり、当然芸妓を呼ぶわけでもない二人きりだ。いつも騒々しい中でポツポツと会話をしながら酒を飲んでいたのでとても静かに感じる。
英は口を尖らせた。
「小綺麗な場所でうまい料理と酒が飲みたいだけ」
「なにかあったのか?」
「…ちょっと叱られただけだ。当然咎は自分にあるし、怒られるのはわかっていたけれど…分かっていたから不甲斐ないんだ」
英は曖昧なことを言うので詳しくはわからないが、むしゃくしゃしているらしい。こういう英は珍しいが、俺は手紙を読み流していた詫びに付き合うことにした。
それからは日頃の憂さを晴らすかのように一方的に英が話すことを聞いていた。主に半人前であるが医者としての苦悩であったり、愚痴であったり…ひとしきり話し終えると俺のことを尋ねてくる。彼の口が固いとはわかっているが、俺は当たり障りない返答をした。
「へぇ…つまり分離して、新撰組とは関わりを持てないのか」
英は酒の肴を突いている。
「当然だ。敢えて敵対する仲ではないが、考え方が違う」
「ふうん…歳さんに詳しく聞いたわけじゃないけど結構複雑なんだな」
彼の口から出る土方副長の名前には未だ慣れない。一体どんなきっかけがあってどうやって和解したのか…しかし前回『地雷』を踏んでしまったのでそれを追及するのは憚られたのだが、
「もう良いんだよ、歳さんのことは」
と英の方から話し始めた。
「昔の思い出みたいな感じだ。もう名前も違うし、別の人の話のような気がする。実際話をしても何の感慨もないんだ」
「…そういうものなのか?」
「そういうものだよ。あっちも別人のようなものだからさ」
理解し難いと思っていたが、英の言葉に納得した。
江戸で彼らが知り合った頃と今では互いに立場が違う。英は名前が二度も変わり陰間から医者の卵となり、土方副長は『新撰組の鬼副長』となった。若い頃に浸るような関係でもなく、彼の言うように遠い過去なのだろう。だからもちろん未練なんてあるわけがない。
時間と距離は互いを変える。良くも悪くも、
(俺は…帰れるのだろうか)
ふとそんなことを思った。
間諜として御陵衛士に潜り込み、情報を流す…今までと何ら変わりないと思い土方副長からの要請を受けたが、古巣に帰れる保証はない。正体が露見すれば命はなく、無事であるとは限らないのにどうして暫しの別れだと思ったのだろう。
このまま遠くから見守るだけで、二度と会話を交わすことができないかもしれないのに。
「…おや?」
英が窓の外に視線を向けた。その先には鴨川があるが何やら騒がしい。
「向こうだ、追え!」
「はっ!」
はっきりと聞こえる声と数人の足音。
その声には聞き覚えがあった。普段は控えめだが、いざという時には図体の大きさに比例した大音声を出す…島田の声だ。
(ここは先斗町だったな…)
英に誘われるがままに足を運んだが、ここは新撰組の管轄内だ。一番隊…今は沖田隊というのだろうが、彼らが見回っていてもおかしくはない。
俺は酒に手を伸ばしながら耳を澄ませた。不逞浪士を追っているのなら彼の声も聞こえてくるはずだ。正面から会うわけにはいかないが声を聞くくらいは許されるだろう。
だが聞き覚えのある組下の声はちらほらと聞こえるが、彼の声は聞こえてこない。代わりに聞こえてきたのは小さな咳だった。耐えきれず漏らしてしまったような咳を繰り返している。
俺はなぜだかそれが沖田のもののような気がして、立ち上がって窓辺に向かった。確かめたい…そう思ったのだが、あと一歩というところで英に阻まれ腕を強引に掴まれた。
「どうしたの?」
「…お前こそ」
「俺は…酔ったんだ。厠に行きたいのに足が覚束ない、肩を貸してよ」
「…」
違和感のある言動だった。まるで俺を窓辺に近づけなくさせるような…。
「少し待ってくれ」
「いや、待てない」
「確認したいことが…」
「そんなの後で良いじゃないか」
英は俺の言葉を封じるように被せ、その両手をいつの間にか後頭部に回していた。
「ま…」
待て、と言う前に彼は俺に口付けていた。彼の細い両手としなやかな体躯が糸のように絡み、その形の良い唇が息つく暇も与えない。
「は、」
「ああ…ごめん、酔ってる」
嘘だ。彼はこの程度の酒で酔い潰れたりはしない。正気を失い、理性を欠くことはない。
そうしている間に新撰組隊士たちの気配はなくなり、咳も聞こえなくなってしまった。
「…厠に行って、酔いを覚ましてくるよ」
英は微笑み、絡んだ糸が解けるようにあっさりと俺から離れて部屋を出て行く。ちっとも酔っていない、しっかりとした足取りで。
俺は元いた席に戻り、一気に酒を煽った。上品すぎてまるで水のようだ。
(英は意味もなくこんなことはしない)
だが直接問いただしたところではぐらかされるに決まっている。
掴みどころのない彼は、いつも勝手な振る舞いをして混乱させるだけさせて肝心なことは何も言わないのだ。
俺は窓辺に近づき外を覗いた。
そこには静かに川が流れるだけで、何もなかった。





善立寺から離れた宿でその胸の内を明かされた時、伊東大蔵という人物の本性を垣間見たような気がした。
伊東によると、新撰組に残してきた茨木たち同志数名は武田に嗾けられて脱走を企てているようだ。御陵衛士への合流を求めているらしいが、新撰組との取り決め上それは叶わず…話の始めは伊東も困惑しているようだった。彼らは会津への仲裁を求めるようだが確かな手立てはなく、頭打ちとなるだろう。
彼らを嗾けた武田について調べてほしいと頼まれたのだが、それはわざわざ二人だけで人払いをして密談するような内容でもない。
「内海さんに隠すほどの話とは思えません」
俺は率直に尋ねた。すると伊東は酒を一口含むと妖しく微笑み
「ここからが本題だよ」
と告げた。雰囲気が一変して張り詰めた緊張感が伝わってくる。俺も自然と体に力が入った。
「…私は彼らの脱走について心底困惑しているし、彼らにどうにか思いとどまって欲しいと思っている。彼らを無謀な行動に焚きつけたのが武田だと言うのなら憎々しく思うし、どうか命だけは助かってほしい。それは表向きの気持ちだ」
「…」
「しかし、実際…私にとって彼らの行動は甚だ迷惑なのだよ」
伊東は懐から扇を取り出して、手のひらに数回打ち付けた。
「御陵衛士と新撰組の力関係ではこちらが圧倒的に不利だ。後ろ盾のない、兵力にも乏しい我々がいま新撰組に総攻撃を仕掛けられたらどうなる?あっという間に壊滅するだろう?」
「…残念ながらその通りです」
「だから今は新撰組を刺激したくはない。それなのに、茨木たちは脱走を図りこちらに接触してきた。追い詰められた彼らに、万が一私が唆したなんて作り話をされては立場がない。彼らが脱走するにしても我々とは無関係であってほしいんだよ」
伊東は扇をまた数回叩く。表情は相変わらず冷笑を浮かべて読みにくいが、その所作には苛立っていることが表れていた。
そしてその整った唇は冷酷に吐き出した。
「だからね、彼らが役目を放棄して脱走するのなら…私には不要なのだ。彼らには死んでもらわなければならない」
俺は伊東大蔵という人物の本性を見た気がした。
新撰組参謀であった頃なら決して口にしなかっただろう。路頭に迷う隊士を慰め、諭し、導く…藤堂はそんな伊東を山南と重ねている節があるが、彼らは全く違う。山南には頼ってきた同志を見捨てるという思考回路すらないお人好しだ。己の命を賭して助命に奔走するだろう。
しかしだからと言って伊東の言動が意外だったというわけではない。むしろ俺に近い思考を持っていたようだ。
(無能な間者に用はない)
自分自身が同じ立場だからこそわかる。ーーー我を出してはおしまいだ。
「…会津には手出ししないように伝えておきます」
俺は先回りして伊東の要望に応えた。すると伊東は非常に満足そうに頷いて酒を差し出してきた。
「私は茨木君たちを引き止めるつもりだが」
「俺は彼らを唆します。あの武田の誘いに乗るくらいなら簡単でしょう」
「…まったく、君のそう言うところは非常に好ましいよ。彼らもそうであればこんなことにからなかったのに」
伊東の酒を受け取り、俺は一気に飲み干した。酔えるはずのない酒が喉を通り過ぎていった。

それから数日後。
あっという間に茨木たちは切腹した。路頭に迷い、心を乱された彼らにはもう他に道を選ぶことはできなかったのだろう。
結果的に伊東の望む結末が訪れたーーー彼への忠誠心がそうさせたのだ。
「ご苦労だったね。引き続き頼むよ」
新撰組よりも早く俺が報告すると、彼は表情一つ変えずに、まるでなんてこともないかのようにそう言っただけだった。彼自身が手を下したわけではないが、それに等しく見捨てたのだがその感慨もないようだ。
それから御陵衛士たちにも淡々とした説明をして伊東はこの件を終わりにした。
皆が暗澹たる思いを抱え、同志の死を嘆くなか俺は善立寺の庭を眺めた。
瑞々しい木々が夏の暑さを孕んだ風に揺れ、蝉の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。
新撰組は屯所を西本願寺から不動堂村へ移すそうだ。今頃茨木たちの葬儀も重なって慌ただしいだろうが、新しい屯所は大名屋敷のように立派で広いらしい。きっと幕臣となった彼らの門出には相応しいだろう。
俺は腕を組んだまま柱にもたれた。
(無性に…会いたくなるものだな)
新撰組にとって節目となる出来事が耳に入ると、その度に沖田の顔が見たくなった。今までどんな仕事を請け負っても、それが例え不本意なものでも、引きずらなかったのは彼の存在に自然と慰められていたのだと今ひしひしと感じていた。
先日は英に阻まれてしまったが、もしそれがなければ彼の顔を見た途端に箍が外れていたのかもしれない。与えられた任務すらどうでも良くなり茨木のように私欲を優先する可能性もあった。そう思うと英の行動は理解できるのだが、さすがの彼でもそこまで考えた末の口付けだったわけではあるまい。
(あれは一体何だったのか…)
彼とは一度そういう夜も過ごしたし、何度か口づけを交わしているのでその行為自体に特別な意味はないのだろう。
一線を超えたが、俺は英を『友人』以外の何者でもないと思っている。酷い男かもしれないが、一方で英自身もそれ以上を望んでいるようには見えないのだ。
それ故に今思うと彼は沖田に会わせないようにしたのではないか。なにか俺の考えの及ばない別の理由があって…。
「斉藤さん…」
深く考え込んでいたところに藤堂がやってきた。茨木たちの死を聞いて新撰組の様子を見に行ってくると言っていたので戻ってきたのだろう。疲れた様子だ。
「どうした?」
「新撰組は新しい屯所に移るみたいです…皆、忙しそうで賑わってました」
「そうか。…何を落胆しているんだ、新築の屯所が羨ましいのか?」
「だから俺はもう戻るつもりはないんです!…そうじゃなくて…なんだか、その…」
藤堂は少し言い淀んで考え込んだが
「…うまく言えません…」
と結局は言葉にすることを諦めた。
だが素直な藤堂が何に落胆しているのかは何となくわかる。慕っていた山南が拒絶した西本願寺への移転を押し倒したのに、あっさりと不動堂村へ移ることへ複雑な気持ちがあるのだろう。
「俺も上手く言えないな」
俺は小さく呟いた。
額に滲む汗が不快だった。



御陵衛士の屯所が高台寺塔頭・月真院に移った。
町中から厳かな坂を登った先にある静謐な建物や庭は伊東の好みそうな上品な佇まいだが、その門前には不似合いな『禁裏御陵衛士屯所』の標札が掲げられていた。
藤堂は鼻息荒く俺に話す。
「雰囲気のある屯所ですよね!先日伊東先生に伺ったところ、ここは和歌四天王の一人、小沢蘆庵の定席だったとか!彼は歌人ですけど尊王の志を持つ武士だったそうです。大きくて綺麗な屯所も良いですけど、そんなゆかりのある場所を御陵衛士の屯所とできるのは素晴らしいご縁だと思いませんか?」
おそらく伊東の受け売りだろうが、藤堂はここが屯所となったのがよほど誇らしいようだ。
「…よほど新撰組の屯所が羨ましいのか?」
「だから!別にそういうわけじゃないですって!」
藤堂は顔を少し赤く染めて怒る…おそらく少しは図星だったのだろう。
「そ、それに…沖田さんは屯所に個室なんてものがあってかえって困るとかなんとか…」
「なんだって?」
「え?だから、個室なんて…」
「違う」
俺が突然詰め寄ったので、藤堂は少し驚いたようだった。
「…ああ、偶然沖田さんに会ったんです。少しだけ立ち話をしました」
「どんな話を?」
「ただの雑談です…昇進のお祝いをお伝えしました」
藤堂は声を顰めた。御陵衛士としては新撰組の昇進を素直に祝える立場ではない…他の仲間に聞かれては面倒なことになるだろう。
だが俺にとってそんなことはどうでも良い。
「…なんて言ってた?」
「特段変わったことは…また会ったら話しましょうと…それくらいです。別に俺は彼らとの橋渡し役ですから構わないでしょう?」
俺がムキになって尋ねたので彼は咎められたような気がしたのか、少し拗ねていた。俺は自分でも(こんな些細なことで…)の自分の中にある焦燥感に驚いていた。
「…ああ、構わない。ただ表立って会話するなよ」
「わかってますけど…斉藤さんだって会いに行けばいいじゃないですか」
「馬鹿を言うな」
橋渡し役の藤堂と違って、表向きは他の御陵衛士と同じように新撰組と決別した立場である俺がどうやって沖田に会うと言うのだ。
「だって斉藤さんは沖田さんのこと…」
「それ以上何も言うな」
「じゃあずっと飲みに出かけている…」
「何故、何もかも色恋に結びつけたがるんだ」
俺は苛立ちを通り越して呆れた。噂話好きな女子のようだ。
しかし藤堂は逆に首を傾げて
「だって斉藤さん、沖田さんの名前が出るだけで全然表情が変わりますもん」
「…なに?」
「藤堂君、伊東先生がお呼びです」
ちょうど内海が通りかかって藤堂を呼んだ。彼まるで飼い慣らされた犬のように「はい!」も尻尾を振って去っていき、俺はゆっくりと深呼吸した。




事態が動いたのはそれから数日後だった。
俺は屯所で所在なさげにしている鈴木に声をかけた。
「伊東先生はどちらへ?」
「わかりません」
「…」
鈴木は相変わらず俺への警戒を解かずに敵視している。根拠や理由はなくただ彼自身の勘が俺を拒んでいるのだろう。…その勘が当たっているからこそ彼の心中を把握しておきたかった。
「では、内海さんはどちらへ?」
「…御寺の住職に用向きがあると、出て行きました」
「そうか…」
鈴木はチラチラと俺の様子を伺いながら、困惑しているようだった。
最初は伊東の実弟として接していた。新撰組に入隊してからずっと兄とは正反対で、いつも不機嫌な様子で人を寄せ付けず何かに苛立っている思春期の青年のような男だった。その視界には兄である伊東しかないようで、行きすぎた兄弟愛かと思いきや、しかし兄の方はまるで他人のように突き放して接している…周囲にはその兄弟関係について尋ねる空気の読めない愚か者などいないため、常に鈴木は孤立していた。
そんな鈴木が離隊直前に沖田に心を許していた。最初は鈴木の方が彼と距離をとり冷たく接しているようだったのに、いつの間にかその関係が変わったようだ。
彼らに一体何があったのか。それを沖田に尋ねる暇はなく、鈴木に問うわけにもいかず。
俺は伊東の弟、そして御陵衛士の一人である…それが以外に何かこの男は重要な存在なのではないか…そう感じ始めていた。
しかし、
「誰か!誰か来てください!」
という藤堂の叫び声がして場の空気は一変した。鈴木と目を合わせる間も無く駆け出して標札が掲げられた玄関に辿り着く。するとそこには目が泳ぎ、虚な表情をした武田が藤堂と対峙していたのだ。
会話すらまともにできない武田は恨み言を叫び、勝手な要望を突きつける。イカれているとしか思えない武田の様子に困惑する藤堂を見かねて出直すように伝えるが、それでも引き下がらないため俺は鞘に手を伸ばした。
だが、そこに伊東が帰営したことで武田の表情は一変した。鬼気迫る形相、口調が変わり、伊東へ歯向かう態度もそれまでの武田とは思えぬほど強気で憎しみがこもっていたのだ。そして何よりも剣が不得手なはずの武田の太刀筋は、まるで別人のもののようだった。
それでも伊東には及ばず、武田は気を失って倒れる。武田はすでに新撰組隊士ではないと口走ったが確証はないため藤堂が確認に向かい、鈴木は武田の身柄を拘束してこの場を離れた。
伊東が俺に話があって二人を遠ざけたのだろうとすぐに理解した。
そして伊東は当然、俺の抱いたものと同じ疑問を持ったようで、
「誰かが憑依したかのようでした」
という俺の的外れにも聞こえるはずの見解にも異議を唱えなかった。伊東は微笑を浮かべた。
「斉藤君、『誰か』なんて濁さなくても良い。私が信じていると言いながら見殺しにしたのは茨木だけだ」
「……俺は、そういうことは一切信じないタチです。神も霊も、何もかも気のせいだと」
自分で言っておきながら確信があったわけではない。亡霊など信じていない俺には、武田が罪の意識を持つあまり茨木のように振る舞った、と解釈する方が自然だったのだ。
しかし伊東は
「私は死者が憑依したとしても驚かないよ。茨木は剣術にも柔術にも優れて頭も良かったが、驚くほどに真面目だった。そんな彼が死した後全てを悟り私を恨んだとしても仕方ないね」
と涼しい顔のままで意図は読み取れない。
俺はこれ以上不毛な話し合いをしても仕方ないと悟り、
「それで、武田はどうしますか?」
と尋ねた。
「聡い君ならもうわかっているのだろう」
「…間違っていたら困ります。指示を」
俺は明確な『言葉』を求めた。それを決めるとき、誰の意思か明確にするのは俺にとって必要なことなのだ。
「私は亡霊に怯えるのは御免だよ。…彼が新撰組隊士ではないというのなら、目障りだから殺してくれ」
「わかりました」
伊東は扇を懐に戻して「なるべく早く頼む」と添えて屯所に入っていった。
いつか武田は死ぬだろうと思っていた。彼は新撰組にいた頃から傲慢に振る舞い、他人を見くびり続けた…その代償を払うときがようやくきたのだろう。同情する気持ちはカケラもなかった。
まさか自分が斬ることになるとは思わなかったが、新撰組にとっても御陵衛士にとってもこの結末は望まれたものになるはずだ。
心に潜む醜悪な怪物にも心の虚しさは刹那訪れる。けれど噛み砕いて、飲み込んで、すぐに去っていってしまうのだ。




刀の鞘に結ばれた組紐はしっとりと濡れていた。それどころか全身がまるで小雨に降られたようだったが、全く気にならなかった。
夜更けの鴨川は今宵、満月のお陰で明るく照らされている。燃え上がるような感情の昂りは己を陥れ、自嘲することでようやく治まり、代わりに酷い無力感に襲われた。
脳裏には沖田が倒れ込み、その白い掌から真っ赤な血がこぼれ落ちた光景が繰り返されていた。彼から吐き出されたものが武田の血と混じっていく様は俺にとって悪夢でしかなく、まるで彼自身を傷つけてしまったのではないかという錯覚と罪悪感すら覚えていた。
労咳であるーーー鈴木から聞かされた事実は疑いようのない現実でしかなく、為す術はない。
そしてそれを知ってしまったことにより、俺はさらに耐え難い苦痛を味わうことになるのだ。
(俺が知ったという事実は、もう隠しようがない…)
一人ならよかったのだが、鈴木が居合わせたことで沖田の病を伏せる理由がなくなってしまった。
鈴木はどういうわけか離隊前から沖田の病を知りながら黙っていたようだが、俺にはそれはできない…隠せば新撰組を庇うのかと鈴木に疑われることになってしまうからだ。
俺は伊東にこのことを告げなければならない…彼の命が危険に晒されるとわかっていながら。
『守る』なんて伝えながら…真逆の行動を取らざるを得ない、それは耐え難い苦痛だ。
けれどそうしなければ役目を全うできないのだ。
『斉藤さんは大切な友人です』
大樹公が亡くなった後、この鴨川を眺めながら沖田と話をした。忠誠を誓った大樹公の突然の死についてある程度心の整理はついていたがそれでも割り切れず、「いっそ冥土の共をしたほうがマシではないか」とさえ考えていたときに、彼に告げられた言葉で随分と慰められた。
彼は飾り気のない言葉で正直な思いを伝えてくれた。土方副長と同じではなくとも、大切な友人として共に生きてほしいと願ってくれた。
それなのに…これではまるで彼を裏切るかのようだ。
「…」
やり切れない思いを抱えながら鴨川の流れに目をやった。
けれどやるべきことは決まっていたーーー今は、役目を全うすることだけに尽くすべきだ。
伊東は勘が鋭く、頭が切れる。油断すれば足元を掬われる…彼の前では少しの綻びも許されないのだから。



それから少し後に英から手紙が届いた。いつもの酒の誘いではなく「話がある」と書かれていてすぐに察した。
すぐに約束を取り付けていつもの賑やかな居酒屋ではなく、静かな料亭でもなく、新撰組の協力者であり口の硬い店主が営む旅籠で会った。
「お前が診ていたのか」
俺の問いかけに英は頷いた。ここのところの彼の言動を見ればすぐにわかることだ。
「…黙っていたのは申し訳なかった。でも患者のことは…」
「他言しないのはわかっている」
「うん…でもやっぱり、悪かった」
英は深々と頭を下げた。彼に謝ってもらうつもりはなかったが、彼自身がそうすることで区切りをつけたかったのだろう。
「病状は…聞いても良いのか?」
「詳しいことは話せない…でも今すぐにどうこうってほどじゃない。ただ半年後、一年後を保障できるかと言われると…」
「…」
英の曖昧な言葉選びで、なんとなく状況は察せられた。俺は無意識に拳を握りしめていた。
「土方副長はなんて言っている?」
「…わからない。歳さんはあまり自分の考えを口にしていないみたいだけれど…当分はこのまま任務を続けると言っていた」
「あんなに血を吐いていたのに?!」
あの時の光景を思い出して俺は声を荒げる。英を責めても仕方ないとわかっていたのに抑えられなかったのだ。彼もそれを受け止めて冷静に返した。
「この半年あまり、沖田さんはずっと悩んでいたんだ。労咳を患って、役立たずだとか迷惑をかけたくないだとか…歳さんにも最近まで隠してた。あの火事の日に目の前で吐血してようやく打ち明けたんだ」
「…火事…」
以前、英が火事に居合わせたと話した時一瞬顔を歪ませたのはそのせいだったのかとようやく気がつき、さらに自分の至らなさを自覚する。
「だから、二人で出した結論だ。俺は医者として精一杯支えるだけだと思っている」
「…」
俺は頭を抱えた。長い時間をかけて彼らは彼らなりに葛藤したのだろうが、英から一部始終を聞いただけでは簡単に納得などできるはずもない。
やり場のない焦燥と徒労感は募るばかりだ。せめて冷静になろうと目を閉じると、一年前無理を言って松本法眼に頼み込み、大樹公…若様と再会した時のことが蘇った。
『イチが一人孤独ではなくて良かった…』
若様はそう言って、未だに怪物である俺を受け入れてくれ、過去へと思いを馳せて『友人だ』と微笑んだ。
そしてそれが最期の別れとなり、悲しいという言葉では表せられないほどの孤独感を味わった。たとえ遠く離れていても主君であり、守るべき尊い存在である若様は俺の真ん中に生きていたのだ。
そしてまた失うのか?
あの悲しみを繰り返すのか?
もう誰もーーー必要としないのに。
「…無理だ」
「斉藤さん?」
「俺には無理だ…受け入れ難い。労咳だと知りながら任務を続けるなんて…俺には…」
倒れかかった俺を支えてくれたのは彼だった。だから彼のために生きようと決めたのに…。
「養生するようにお前から伝えてくれ。俺は…土方副長を説得する」
「…斉藤さん」
「副長も同じ考えのはずだ。あの人が言えば納得するに違いない」
俺の言葉に英は複雑そうに顔を歪めた。
「…無理だよ」
「なぜだ」
「沖田さんは…一旦は別れ話すらした。歳さんがそれを認めなかったけれど…それくらいの覚悟でこのままの生活を選んだんだ。あの人たちは頑固だし、俺が何を言ったところで考えが変わったりしない」
「…」
俺は驚いた。土方副長の存在すら切り捨てても、病を患いながらも、隊士として生きる道を選んだ。英の言う通り途轍もない覚悟だ。
俺が二の句を告げないでいると、英は遠慮がちに口を開いた。
「…俺の言うことじゃないとわかっている。でも…斉藤さんはこんなところにいるべきじゃない。墓守なんて性に合わないことをしていないで、あの人の傍にいるべきだ」
何故だろうか。
端正で花のように美しい英の顔を、今は無性に見たくない。
「ああ…お前の言うべきことじゃない」
「さい…」
苛立った俺は英が呼び止めるのを無視して、刀を手に部屋を出た。
お前の言う通りにできたなら、どれだけ楽になれるだろう。
立場上、傍で仕えることすらできなかった時とは違い、彼はほんの少し先で暮らしていて会おうと思えばすぐに会える距離にいる。けれど途方に暮れるほど遠くもあり、その姿を目で追うことすら躊躇われる場所にいるのだ。
(お前に何がわかる)




夏の鬱陶しい生ぬるい風が月真院にも流れていく。
「はぁ…」
人の顔を見れば勝手に世間話を始める藤堂が、なぜか俺の顔を見ても何も言わずにため息をついた。辛気臭い顔は珍しい。
「なんだ」
「いえ…なんでもありません」
目を泳がせながら言葉少なく黙り込んだ藤堂を見て、俺は察した。
「…沖田さんのことなら、聞いている」
「エッ?!斉藤さんのところにも近藤先生から知らせが?」
藤堂のその短い一言で状況は理解した。人情家の近藤局長が昔馴染みの藤堂には伝えておいたのだろう。俺は何も答えなかったが、藤堂は堰を切ったように
「いや、まさかそんなことになっているなんて。いつも稽古は厳しいし、寝込むこともないし、健康そのものって感じだったじゃないですか。池田屋の時は暑気あたりでしたけど…まだ若いのに労咳だなんて…」
一通り話してまたため息をつき、俺を見た。
「ああ、そうか。だからこのところ斉藤さんも様子が変だったんですね」
「…」
俺は否定も肯定もせず無反応だったが、藤堂は「ううん」といまだに悩む。
「それにしてもこのことを伊東先生に伝えるべきかどうか…」
「先生には伝えている」
「えっそうなんですか?」
「当たり前だ。御陵衛士として知り得たことはすべて先生に伝えるべきだ」
俺は藤堂も鈴木のように罵るのだろうと思った。藤堂は試衛館の食客たちには情がある。分離したとは言えかつての仲間の不幸を簡単に明かすのかと責めるに違いないと…しかし藤堂は「そうかぁ」と言うだけで何も言わなかった。
思わず
「責めないのか?」
と尋ねると、藤堂は苦笑した。
「責めるなんて…俺もそうすべきだとわかっていたけど、迷っちゃってたところです。伊東先生は沖田さんが病だからと言って、そんなことにつけ込むようなお人ではないと分かっているけれど、気が進まなくて。…でも、それが俺の甘さなんですよねぇ」
藤堂は両手を上げて背伸びをする。何の解決にもなっていないはずだが、少し気が晴れたようで
「飲みに行きたいなぁ、付き合ってくれます?」
と言うので俺は頷いた。普段なら理由をつけて断るが、誰が相方でも飲みたい気分だったのだ。


酔潰れる、という経験を人生でしたことがない。
初めて酒を口にした時から自分との相性が良いらしいと察したし量も弁えていた。経験を積むごとに鍛えられる感覚は剣と同じで、若い頃は飲むと顔が紅くなったがいまはそれもない。そのせいか自分がハメを外したときにどうなるのかは知らなかった。
身体を揺さぶられ、朦朧としながらも意識を取り戻した。すると目の前には共に飲みに出かけたはずの藤堂ではなく、英がいた。
「酔っ払いめ」
彼の白い指先が俺の鼻頭に触れる。
「…なぜ、…お前が…」
「覚えてないのか。ここは行きつけの店で、偶然居合わせたんだ」
「…」
英は呆れたように俺を見ていた。
俺は周囲を見渡す。確かにここは英とよくくる店だが、そもそもここに来た覚えがない。一軒目、二軒目…ここは記憶にない三軒目なのだろうか。
「藤堂は…?」
「座敷席で寝てる。…俺を見るなりあの人は絡んできてさ…ようやく寝かしつけたところだ」
「俺…は」
「斉藤さんはいつもと変わらなかったけど、目が虚で突然意識を失ってた」
「…」
醜態を晒すことはなかったようだが、ある一定量を超えると記憶が無くなるようだ。頭がガンガン痛むのもそのせいだろう。
「…悪かった」
英に謝るのは何度目だろう。人生でこんなにも一人に謝ったことなどない。
彼は肘を付き、顎を乗せてため息をつく。どんな体勢でもサマになる英はまじまじと俺を見ていた。
「…何だ?」
「酔ったらそんなふうになるんだ、知らなかったな」
「俺も知らない」
「へえ…あんたの知らないところを引き出すのは、いつも沖田さんだね」
「…」
少し皮肉が混じった英の言い方で、俺は何となく彼の言いたいことがわかった。
「何か言っていたか?」
「…さあ…あの人は泣いていたよ。子どもみたいに」
酒が回った頭でも英が誤魔化したのはわかった。
俺は立ち上がり、店主に勘定と藤堂の介抱を頼んだ。手に負えなければ月真院から誰か呼ぶように伝え、多めに金を渡した。
店を出た。夏の夜は昼の暑さを残していて、不快な湿気が体にまとわりつくようだ。俺は少し歩くことにする。千鳥足と言うほどではないがいつもに比べて覚束ないのを察して、英が俺の腕を取った。
「何処へ行くつもり?」
「…酔いを覚まして帰る。お前には面倒をかけた」
俺は腕を振り払おうとしたが、英は強く握った。
「酔いが覚める前に道端で寝こけると面倒だ。…いいから、少し休めるところへ行こう」
「放っておけ」
「放っておく方が気がかりだよ」
「…」
弁が立つ英に抵抗する気力がなく、彼に腕を引かれて路地裏にあるひっそりとした出会い茶屋に足を踏み入れた。二階へ案内され、既に一組の布団が敷かれた部屋に入る。
俺は
「どういうつもりだ」
と問うたが、英は
「どういうつもりもない。ほら、横になりなよ」
と彼の意図が見えないまま言われるがままに横になると、彼が膝を差し出した。
「…」
「遠慮しなくて良いよ。昔はこれだけで稼いだけど、いまは金なんて取りゃしない」
英が冗談めかして言うのでまともに拒むのが馬鹿らしくなり、膝を借りることにした。当然無機質な枕とは違い、触れた場所から人の温かさが伝わってくるようだった。
(昔、母にされていたような気がする)
記憶が遠いせいか、酔いのせいか…確信はないが幼い頃こうして母の膝枕で眠っていたような気がする。
母は父と同じで寡黙な人だった。表情の動きはほぼなく何を考えているのかわからないような人だった。あちらも同じように思っていただろう、特に可愛がられた記憶はなく物心ついた時から父の背中越しに遠巻きにこちらを見ているような母だった。
けれど、朧げに母の体温を覚えている。そうしている時だけ微笑んでいたような気もする。
「ねぇ、これ…沖田さんの組紐でしょ?」
英がいつのまにか俺の刀を手にしていた。普段ならすぐに取り返すが今はその気にはなれなかった。
「…ああ」
「こんなに鞘に巻き付けて…お守り代わり?」
「…」
守って欲しいと思ったことはない。守りたいと思っていた。けれどそれは俺の独りよがりで、無駄な徒花でしかない。
けれど、それでも。
「がんじがらめになって…そんなに好きなんだ」
「…ああ、好きだ」
傍にいたかった。必要だと引き留めて欲しかった。そうしてくれれば何もかもを投げ打ってその手を取ったのに。
(彼は俺を必要としなかった)
頭ではわかっていても、虚しさが込み上げてくる。
「…この間、沖田さんからの伝言を伝え忘れていたんだ。『心配するしないで欲しい』って言っていたよ」
「…はっ…はは…」
俺は思わず鼻で笑った。お節介でお人好しの彼の言いそうなことだ。
「…酔ってるんだね、もう寝ちまったほうが良いよ」
「…」
「おやすみ」
英はただ寄り添うだけで何も言わなかった。
俺は己の弱さをすべて酔いのせいにして、目を閉じた。久々に熟睡したのは彼の膝枕のおかげかもしれない。






ーーー面倒くさい男だ。
本人はきっと自分の生き方について誰かに迷惑をかけたことはないと自負しているだろうが、そんなことはない。人ってものは生きているだけで誰かの迷惑になる。
「いたた…」
俺の膝枕で男は仏頂面で寝ていた。よほど心地よいのか熟睡している…痺れを切らしてはまた痺れる俺の膝のことなんてお構いなしだ。
(全く…)

行きつけの居酒屋で飲んだくれるこの男と藤堂に出会した時、すぐに(面倒なことになりそうだ)という悪い予感がした。案の定的中し、藤堂は根掘り葉掘り彼との関係を尋ね、助け舟を出すべき男は意識を失っていた。
「ほら、斉藤さんって友達が少ないでしょ?だから英さんみたいな人としょっちゅう飲んでるなんて信じられないなぁー」
素直な藤堂は何が嬉しいのかずっと笑顔だった。もともと人が良いのだろう。
俺は陰間時代の悪い癖で純朴な男ほど揶揄ってしまう性だ。
「俺みたいな人ってどんな人?」
「えー、綺麗な人ですかねぇ。齢は同じくらいですよね?」
「そうかな。でも顔半分がコレだから化け物だって言われることもあるよ」
「気にすることないです。俺だってホラ、おでこに傷」
藤堂は額に刻まれた刀傷を指差して微笑む。名誉の負傷と不慮の事故を一緒にされても…と俺は戸惑うが、彼にとって大差ないことなのだろう。次第に笑えてきた。
「フフ、変な人だ」
「そうかなぁ。それよりそろそろ教えてほしいです、斉藤さんとの関係」
「だから友人だと言っているじゃないか」
「ただの友人ですかー?」
「一度寝たことのある、ただの友人だよ」
藤堂は「ブッ!」と酒を吹き出した。耳まで真っ赤に染める純朴な青年にはまだ早かったか。
「まさかまさか!冗談でしょう?」
「冗談だよ」
「俺を揶揄ってます?」
「揶揄っているに決まっているじゃないか」
「もー」
斉藤さんは藤堂を煙たがっているようだが、俺はなんとなくそれでも二人でこうして飲みに行く理由がわかった。彼には嘘がなく、素直で少し甘えたような物言いが気を許してしまうのだろう。
藤堂は空の徳利から二、三滴猪口に落ちた酒を舐めながらしみじみと語る。
「でもまあ、友人がいるだけで安心です。御陵衛士の皆んなとは全然馴れ合わないし、沖田さんの病は俺には教えてくれないし、こんなに酔っ払うくらい心配してるくせにお首にも出さないし」
「…この人は一体いつから?」
「沖田さんのことですか?いつだろうなぁ…試衛館にいた時は気が合うとは思ってましたけど、壬生で再会して…新撰組になって、芹沢さんが死んだ頃かな」
明るい藤堂が初めて表情に暗い影を落とす。彼らには彼らにしかわからない出来事があり、首を突っ込むべきじゃないことは弁えているつもりだ。
「それからずっと片思いか…損な性分だな」
「ほんと、俺なんかじゃあ耐えきれませんよ。絶対敵わないことがわかっているのに。…あ、もしかして御陵衛士に加盟したのもそのせいとか…」
「そういう人じゃないよ」
詳しい事情は知らないし、知ろうとも思わない。けれどこの男がそう言った個人的な感情で仕事に支障をきたすと思えなかったし、今更逃げ出すような柔な性格でもないことは知っていた。
藤堂も「冗談です」と笑い飛ばす。
「…斉藤さんはたぶん、沖田さんに救われたんじゃないかなぁ。あの人は誰も悪者にしないし、皆を和ませることが自然にできる。きっかけや理由は知らないけど、いつも孤高だったから惹かれたのかなって」
「…」
「だから、余計可哀想なんですよ、病なんて…!」
藤堂の感情に点火してしまったようで、彼はめそめそと泣き始め俺はただただ慰める。そのまま酒が回って藤堂も寝てしまったので、彼は店主に預けて俺は斉藤さんが起きるのを待ったのだった。


朝焼けが茶屋の二階に差し込んでくる。
長い夜が明けてまた一日が始まる。
(南部先生になんて言い訳しよう…)
まさかこんなことになるとも思わず外泊の連絡もせずに出てきてしまった。加也姉さんもおっかないが、普段から仏のような笑みを絶やさない先生からのお叱りが一番恐ろしい。
しかし、「一晩中、膝枕に徹していた」と言ったところでさまざまな誤解を招くだけで余計にややこしい。
(誤解か…)
一体何が誤解なのかーーー自分でもよくわからない。
俺はもう二度と不毛な恋はしない。この男のように報われない思いを抱える辛さはよく知っているし、知り過ぎてしまった。
だから彼とは友人だ。
一度寝たことのある、友人…それ以上でもそれ以下でもない。
でも普段から無口で淡々とした彼から
『好きだ』
という言葉を口にさせたことは単純に
「羨ましいな…」
どうしようもない羨望が胸を焼く。ヒリヒリと焦げ付くような痛みは、どこか火傷のそれに似ていていつまでも疼き続ける。
この感情の名前を知っている。でも知らなくて良い。
(いずれ慣れるさ)





目が覚めた時、不思議とここがどこで一体なぜここにいるのかという疑問はなく、英が横で眠っていても驚きはなかった。
(やらかした…)
酒に呑まれ、醜態を晒したに違いない。断片的な記憶で藤堂と飲みすぎて英に迷惑をかけたことは覚えている。
だが…何故だか気持ちはスッキリしていた。
(こんなにも熟睡したのは久しぶりのような気がする…)
御陵衛士となり気が張っていた、そしてそこに沖田の病を知り、常に頭と体が休まることはなかった。ひょっとしたらいつもと同じ酒なのに酔い潰れてしまったのは、そのせいなのかもしれない。
「…」
「起きた?」
耳に飛び込んできたのは朝の清涼な風のような声だった。いつの間にか英が目を覚ましていた。
「…起こしたか?」
「いや…もともと眠りが浅いんだ」
その言葉通り、英はすぐに上半身を起こすと「うーん」と背伸ばしをした。
「二日酔いは?」
「いや…大丈夫だ。世話をかけてすまない」
「まったくだ、こんな風に酔潰れるなんて知らなかった。自分でもそう言っていたけど」
「他に何か言ったか?」
店から出て覚束ない足取りでこの茶屋に入ったことは覚えている。しかしそこからの記憶が曖昧で余計なことを言ったのではないかと自分を疑ってしまう。なんせ、酔い潰れたことなどないのだ。
しかし英は「ああ…」少し言葉を選びながら、乱れた髪を耳に掛けながら微笑んだ。横顔でもわかる柔らかな微笑みが朝日に照らされて、何故だかとても神秘的な天女のように見える。…『天女』というのは彼の陰間時代のあだ名のようなものらしく、本人にとって褒め言葉ではないようだがそう見えるのだから仕方ない。
そんなことを考えていると英がようやく答えた。
「…何も。酒の肴が美味かっただとか、仕事が性に合わないだとか…そういうくだらない話だよ」
「…そうか」
英が嘘をついた、とわかった。
彼は嘘をつく時ほど寄せ付けないほど美しく微笑み、その麗しさで全てを無かったことにしてしまうのだ。一晩中夜を覆い尽くした闇が陽の光に照らされてあっという間に消えてしまうかのように。
英は「よいしょ」と立ち上がると衣紋掛けの羽織を手にした。昨日脱ぎ捨てた俺の薄い灰色の羽織だ。
「はい。新撰組ほど厳しくはないんだろうけれど、もう帰った方が良いよ」
「…ああ、そうだな」
俺が立ち上がると彼は背中に周り、袖を通すのを手伝う。そんな殊勝な態度を見るのは初めてだったので戸惑いながらもそれに応えた。
すると英は
「もう斉藤さんに会うのはやめておくよ」
と言った。思わぬ言葉に俺は「え?」と驚く。酔い潰れたせいで彼を怒らせるような失言をしてしまったのかと柄にもなく内心焦ったのだが、そうでは無かった。
「…いや、よく考えたら新撰組と御陵衛士は敵対しているわけじゃなくても、仲良くはないんだろう?それなのに部外者の俺が両方に出入りするなんて疑わしいじゃないか。俺はもう間者と疑われるのは御免だし、かと言って沖田さんのことを他の医者には任せられない。だから…斉藤さんにはもう会わない」
背中越しに伝わる英の声は、ほんの少しだけ震えていた。冗長に理由を語るのもその心の揺れを誤魔化しているようにしか聞こえなかったし、彼の本心ではないことはわかっていた。
けれどそれはもっともらしい理由であり、現実的な言い訳だった。
…俺には拒む動機もなく、英の決断を覆すほどの言葉は浮かばなかった。けれど身体の一部が痛むような気はした。
「そうだな…お前の立場を考えれば当然だ。気が付かずに悪かった」
「もともと斉藤さんに会いに行ったのは俺の方だから気にしないで。会えなくなっても、ちゃんと医者として沖田さんの病を治すように努力する。だから…『心配しないでほしい』」
「…」
そうだ、思い出した。
昨晩英はそう言った。沖田からの伝言だと言ったけれど俺は鼻で笑って受け取らなかった。ーーー無理を言うな。心配くらいさせろ…本人にそう言いたかったのだ。
だが、英への返答は違う。
「ああ…頼む」
知らなくても、近くにいなくても、会わなくても英が弛まぬ努力を重ねてくれることはわかっている。いつもどこか人を揶揄うようにしているが、その言葉の奥には強い決意と揺るがぬ意志がある…そんな彼を俺は信頼している。
「言われなくとも」
英がハハッと笑いながら襟を正してくれる。指先が肩を這い、皺が整えられていく。
俺は
「…悪かった」
と詫びた。
「え?」
「この間は…言い過ぎた」
彼の行き過ぎた言動に苛立ち、つい感情的になってしまった。後から思えば詳しく事情を知らない彼が俺と沖田を心配しているだけだったのに、勝手に苛立ってその気持ちを無碍にしてしまった。
英は苦笑した。
「ああ…いや、斉藤さんの言う通りだ。事情も知らないのに首を突っ込んだ俺が悪い。脱退したのに…まだ仲間なのだと勘違いしてた」
「…それは、勘違いじゃない」
「そうか…それは、良かった」
察しの良い英はすぐに俺の言葉を理解したようだったが、それ以上は弁えて何も訊ねなかった。
英の掌が俺の背中に触れた。さらに彼は少しだけ身体の体重をかけるように額を乗せた。しばらくそうした後、彼は
「…身体には気をつけて」
と言った。
そして彼はそれを別れの挨拶にして踵を返しそのまま部屋を出ていった。あっという間の出来事に俺はみじろぎひとつできずにその場に立ち尽くす。
彼はどんな顔をしていたのだろう。悲しかったのか、寂しかったのか…わからない。ただ背中越しに伝わったのは彼の少し体温の高い温もりだけだった。
俺はようやく振り返り、彼が去っていった場所を眺めながら少しぼんやりした。酒のせいか突然の別れがまるで全てが幻のように感じていた。
「…もう少し…見れば良かったな…」
俺が最後に見た顔は、差し込んできた朝日に照らされたあの微笑みだけだった。
それは言葉にできるような輪郭のある『美しさ』ではない。人を惹きつけてしまう清涼感と誰もを虜にする高揚感を与えてしまう…俺に憧憬の情を走らせる数少ない存在。
彼との関係は…曖昧で、友人とも知人とも言えるだろう。だが俺は彼を信頼している。信じて、頼るーーー寄るべ無き俺の最上級の親愛を彼に捧げよう。















キキナシ
聞きなし ( 聞き做し 、ききなし)とは、 動物 、主に 鳥 の鳴き声を人間の 言葉 に当てはめて聞くことである。

拍手、およびこちらでお読みいただきありがとうございました。斉藤さんの登場に喜んでくださる方が多く、ついついお話を書いてしまいます。英の存在はあまりに特別すぎてそろそろよくないな、と思い、こういうラストになりました。また斉藤、もしくは彼らの話を書くと思いますので、気長にお待ちいただければ幸いです。