カルニング






月真院に居を構えた頃、『禁裏御陵衛士』の看板を誇らしく眺めながら藤堂が言っていたことがある。
「俺はここに骨を埋めます」
それは何気ない呟きだったが、言葉ほど重々しい口調でもなく、しかし冗談というほど軽くもない。だが魁先生の目は爛々と輝きこれから先の希望だけを見据えているように見えた。
隣にいた俺は聞こえないふりをした。当然、間者という立場で嘘でも同意はできなかったし、彼の望む未来を潰すのは自分だという自覚があったからだ。
ーーーだから、ただただ居心地が悪かった。


肌寒い季節になった。
「少し出てきます」
俺が外出しようとすると、「待ってください」と藤堂が追いかけてきた。
「俺もお使いがあるんです。一緒に出ましょう」
「ああ」
元々人懐っこい藤堂とは、新撰組にいた頃は一時仲違いしていたが今やそれを忘れたように親しく話をしている。喉元過ぎれば熱さを忘れるというほど簡単ではないが、彼なりに折り合いをつけているのだろう。一方で俺の方は態度を変えたつもりはなく、あの頃と考えは変わっていなかった。
共に正門を出て坂を下る。都の中でも雅で趣のある通りであるが住処となるとすぐに見慣れてしまった。
「どこに行くんですか?」
「羽織を買いに行く」
「ああ、寒くなりましたもんねぇ。持っていなかったんですか?」
「…新調するんだ」
荷物の少ない俺には冬を越すための羽織は一枚あれば十分だったのだが、それはあの雨の日に沖田に渡してしまったのだ。しかし流石に藤堂もそこまで察するわけはなく、
「俺もそうしようかなぁ」
と笑うだけだった。
賑わいのある祇園を歩きながら一方的に話し続けていた藤堂だが、ほとんどが雑談で身のある内容ではない。むしろ政局に関する話題は避けているように感じて、
「最近、先生が思い詰めていらっしゃるようだな」
と俺が半ばカマをかけるように尋ねると一気に表情を固くした。
「…そうですかね?季節の変わり目ですからお疲れなのかも」
「ついに目標だった大政奉還を果たしてこれからだと言うのに、お元気がない。土佐との友誼や薩摩との繋がりは得られているようだが、我々は活躍の場が与えられるのだろうか」
「…先生にお任せしていればきっと大丈夫です」
藤堂は曖昧な言葉で茶を濁した。
伊東は最近、藤堂を連れて土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎の元を訪れていたがそれを契機として塞ぎ込むような、苛立つような表情を見せるようになった。言動には少し焦りも見える。
(そろそろ動くのかも知れない…)
藤堂が口を閉ざすのをみて、俺はなんとなくそんなことを感じた。表向きは分離したように見えて、最初から対立していたのだからついにその時が来たというだけだ。
「あ、この角を曲がると品揃えの良い質屋がありますよ。ご主人とは親しくさせてもらってるんで、まけてもらえるかも」
「…そこに行こう」
藤堂の案内で角を曲がった先にある店に入った。愛想の良い主人は藤堂の顔を見ると親しげに挨拶し、いくつか羽織を見定めて出してくれた。
俺の買い物のはずが、藤堂の方があれこれと目移りして楽しそうにしている。
「これなんてどうやろ?」
「あ…」
主人が広げたのは紺色の渋い羽織だった。物は良さそうだが、若く明るい色を好む藤堂の好みではないだろう、と思ったのだが、
「これにします」
と彼は袖も通さずに頷いた。
結局は藤堂だけが羽織を買って帰ることになったのだが、彼はなぜかそれを至極大切そうに抱えていた。
「そんなに気に入ったのか?」
「え?…ああ、そういう訳じゃなくて…この紋が」
「紋?」
藤堂が見せたのは羽織に刻まれた『蔦藤』の紋だった。そう珍しいものではなく、大名や旗本だけでなく町人も細部を変えながら利用するものだが、あの藤堂家が家紋としていることで有名だ。
しかし藤堂は穏やかな表情を浮かべていた。
「うちの家紋とよく似てて、思わず」
「…試衛館にいた頃、ご落胤だと言っていたな」
「半分本気、半分冗談です」
藤堂と並び歩きながら彼の話に耳を傾ける。
「物心ついた頃には母と二人で質素な納屋に暮らしていました。病弱な人で…でも生活に不自由はなくて俺を寺子屋や道場に通わせてくれたんです。幼い頃は何もわからなかったけれど、寝込んでばかりの母に働き口があったわけがない。きっとどこからか送られてくる金で生活していたんです」
「…それがあの藤堂家だと?」
「結局、母を問い詰める前に亡くなってしまったのでわかりません。ただ母からはこの身に流れる血は武将の血だと小さい頃から何度も聞いていました。それが冗談だったのか、妄想だったのか…何度か藤堂家の家中の者に出自を尋ねられましたが本当の答えは誰もわかりません。試衛館に辿り着く前は自分の出自に燻ってました」
藤堂はハハ、と軽く笑う。
「でも試衛館の食客として暮らすうちに、そんなことはどうでも良くなってました。それまで足を運んでいた道場とは違って、自分が誰でどこからやってきたなんて関心のない人たちばっかりで、考え込むのが馬鹿らしくなってました。原田さんに話したら『面白い』って作り話だと大笑いされて…それ以来はただの冗談です」
藤堂の話にはなんの確証もないが、彼の風貌や佇まいは生まれ持った品があるし病弱な母と二人で悠々と不自由なく暮らせたのならあながち間違いではないのかも知れない。
けれど彼の中でもう消化された過去になっているのなら、今の藤堂にとっては無関係なのだろう。
「でもさっきこの紋を見て、急に母のことを思い出しました。随分と墓参りに行ってないなぁって。それで思わずこれも縁かなって」
「…そうか」
藤堂がこの羽織を見たときに、目を細めてどこか懐かしそうにしていたことに合点がいく。そして
(藤堂は気がついているのだろうか…)
藤堂が長々と話した昔話のなかで試衛館のことを語る時が一番生き生きとしていることに。懐かしい思い出に浸るように穏やかに笑っていることを自覚しているのだろうか。
すると藤堂が
「俺、思い出したんです」
と唐突に話し始めた。
「何を?」
「斉藤さんの鞘の組紐。それ、沖田さんがいつも髪を束ねていたものですよね?あの人は物持ちが良いから試衛館にいた頃からずっとそれを使ってました」
「…」
不意打ちの質問に決まりが悪い俺は黙り込むしかない。けれど藤堂は揶揄うわけでもなく視線を空へ向けながら穏やかに
「斉藤さんは戻った方が良いかもしれないですね」
と言った。
「何故?」
「あなたには、新撰組の方が似合っていたから」
「…」
核心をつくような言葉に俺は眼光を鋭くして彼の思惑を探ろうとその表情に目を凝らす。しかし藤堂はただただ世間話か雑談のように話すだけで、俺を間者として疑う素振りはなかった。
「…新撰組に戻りたいか?」
俺が尋ねると、彼は即答した。
「新撰組には戻りたくありませんが、試衛館には戻りたいですね」
微笑む表情の奥にほんの少しの哀しみが見えた気がした。
どうやっても、あの楽しかった過去には戻れない。
(それを俺はよく知っている…)
つまらないことを聞いてしまった、と自省すると同時に彼の本心を聞いたような気がした。







その日は訪れた。
内海が御陵衛士のなかでは手練である篠原加納とともに目の前に現れた時、俺のなかで悪い予感がよぎった。さらに内海が俺への疑いを隠さず口にし、はっきりと責めたことがその予感を確信へと変えた。
ついに伊東は新撰組との決別を決心したようだ。内海の口ぶりから察するに、これから近藤局長を襲撃するのだろう。確かに局長さえいなくなれば新撰組の結束は揺らぎ、倒幕派への良い手土産となるだろう。
それでも、俺は伊東たちの計画を上手く躱せるつもり自信があった。こんなこともあろうかと外出時には必ず俺を付けさせている小者がいて、信号を出せばそれはすぐに新撰組に伝わる…そのことは副長とも示し合わせているので、間違いがない限りは危険を回避できるだろう。ある程度の心のゆとりを持っていた俺は内海たちの計画を探りながら、頭のなかで思考を巡らせるが、その一方で藤堂のことが気になっていた。この作戦が成功して伊東が藤堂をどうやって誤魔化すつもりか分からないが、古巣を狙って闇討ちを仕掛けたと知っても彼は伊東を信仰し続けるのだろうか?
しかし考え事は長くは続かない。内海は醒ヶ井から道を離れ、西本願寺の方へ向かい始める…俺が不審に思い問い詰めると、別宅で伏せる沖田を襲撃すると告げたのだ。あまりに卑怯で卑劣なやり方に俺は憤り、さらに彼らが俺の予想を裏切った焦りも加わって頭が沸騰するかのようだった。
それまで安穏と考えていた事態が急変したーーー俺は感情的になると同時に、冷静にならなければと自分に言い聞かせた。
どうやったら切り抜けられるのか…身体中が騒ついて急き立てられ、心臓が痛む。この気持ちには覚えがあった。
(若様の時も…そうだった)
若くて無力だった俺は急な襲撃者に襲われ混乱したが、すぐにこの命を賭しても必ず若様を守るのだと決めた。そのことが結果的に若様との決定的な別れとなったが、あれが最良の方法だったと今でも思っている。
俺は同じ誓いを、沖田にも立てたのだ。
『どんなに遠くにいても、離れていても、守るから』
抽象的で実感のない約束がこんなにも早く意味を成すとは思わなかったが、俺がやらなければならないことははっきりとしている。そう思い至ると、土方副長の別宅を目前にしたところで荒波のように心を攫っていた不安が、まるで波がすっと引いていくように消えていく…そんな不思議な感覚に陥った。
(死んでもいい、という境地はこんなに静かなのか…)


そして。
副長の別宅はすぐに戦場となり、足元は汚れ、部屋のあちこちに刀傷が刻まれていた。
沖田は勘よく俺たちの侵入に気がつき、また顔を隠すために頭巾を被っていたものの俺の正体もすぐに見抜いたようだった。見知らぬ少年二人がいるのは予想外だったが、応戦したところで足手まといになる自覚があったのか、床の間に隠れて怯えていたので邪魔にはならなかった。
彼の天性の才能は病の身でも失われていなかった。まるで次の一手が見えているかのように払われ、三段突きは早すぎて目で追えないほどだ。俺はその技量に感嘆すると共に彼と本気で斬り合っていることを実感した。
しかし一方で身体の衰えは確かにあって、素早さや力では劣り、体力も無くなったのだろう苦しそうな息切れを繰り返していた。彼自身もそう思ったのか次第に常に守りに徹し、俺の一手一手を避けるので精一杯の様子だった。少年たちが応戦しようとしたが当然、敵わずに沖田に逃げるように促される…しかし彼らの存在こそが必死に争う理由になっていたのだろう、彼は死に物狂いだった。しかしそれも難しくなって、とうとう喀血しその場に倒れ込んでしまう。
「……っ」
俺は小さく舌打ちした。内海たちの手前、手加減をするわけにはいかない。ーーーこの状況が不本意で苦しい。この刃が彼を貫くことがなくとも、間接的に痛めつけているのだ。
少年たちが悲鳴のように叫ぶなか、俺は(そろそろだ)と息を吸い込み覚悟を決めた。この場を切り抜けるにはギリギリまで追い詰めて、俺が彼に殺されるしかない…彼らがその後にどうこの危機を乗り越えられるかわからないが、それは幸運を願うのみだ。
(ここで殺されるなら本望だ)
「終わりだ」
俺はそう呟いて沖田に視線を送った。きっと彼は気づく…それが別れの言葉で、少年たちを助けるために俺を殺すべきなのだと。
終わりなのは俺の方だ。今生の別れとなるが、何の未練もない。どうか健やかに、長く、幸福に生きてほしいと願うだけだ。
ーーーだが、俺の予想はまた外れた。彼は枕元に忍ばせた短銃を構えると撃ち込んだのだ。
驚きと同時にすべてを理解した俺は安堵する。
(それは最良の手段だ!)
脇腹に痛みを感じながら大袈裟に仰向けになって倒れ込む。そして彼は俺の前で仁王立ちになりもう一発、肩口辺りの畳に撃ち込んでとどめを刺したと偽装した後、その銃口を外で様子を窺っていた内海たちへ向けたのだ。
流石に銃を向けられると思っていなかった内海たちは慌てて逃げていったようで、もう銃声は聞こえなかった。
俺は痛みを堪えながら彼を見上げた。口元から血を流し、気怠げに銃を構える姿はなぜだか武神のようにとても美しく見えた。
沖田は敵がいなくなったのを確信すると俺の傍に寄り、傷口を押さえた。俺はようやく現実的な痛みを感じ始め、脂汗のように身体中に冷や汗を掻く。沖田は少年たちを応援に行かせ俺の頭巾を取り払い、ようやく
「斉藤さん、本気で殺しに来たでしょ?」
と微笑んだ。彼の口の端からは血が流れているが、会話ができるようだった。
しかし俺は痛みで半分意識が朦朧としていたせいか、こうして二人で言葉を交わしていることに現実味がなかった。
けれどはっきりしていたのは先ほどまで彼のために死ぬと覚悟を決めていたのに、今は彼の傍で再び生きられることに安堵していたことだ。それが俺の本音だった。
「守ると…言っただろう…?」
(…俺はこんな思いは二度とごめんだ)
俺は傷口を押さえる沖田の手を自分のそれと重ねた。沖田はあまり気に留めていないようだったが、彼の少し冷たいけれど確実に生きているぬくもりを感じながら、もう遠くへは行けないと思った。
若様の時はあまりに無力な俺はどうしても傍で仕えることが叶わなかった。けれど今の俺はもうあの時の貧弱な子供ではない。
どんな存在であっても、彼の傍で生きていく―――それが最上の願いだ。
「随分、乱暴な約束の守り方でしたけど」
沖田は苦笑しながら、自分も約束を守ったと柔らかく微笑んだ。








銃傷というものの痛みは、刀で斬られた時の痛みとは違うのだろうか?
俺はそんなことを考えながら目を閉じていた。
沖田が俺の手当てを終える頃、さきほど屯所に戻ったはずの少年が若い隊士を引き連れて戻ってきた。少年はいまだ混乱していたが、隊士の方は冷静で、
「泰助はここに置いていくんで先生は少し休んでください。きっとすぐに相馬が上手く立ち回って屯所から隊士を引き連れてくると思います。俺は残党がやってくる可能性もありますから周囲の警戒にあたります」
と颯爽と出て行った。知らない顔だから入隊してまだ日は浅いはずだが、随分と機転が効く。
「…あれは?」
「野村君ですか?彼は最近入隊した一番隊の隊士です。それからこの子は昔、試衛館に出入りしていた童で井上のおじさんの甥っ子です」
「はっ、初めまして…?」
「ああ…」
言われてみると井上組長と似た雰囲気はある。しかし少年は先ほどまで敵だと思っていた相手がまさかの新撰組隊士で、結局介抱することになったという現実について理解できていないようだった。
見かねた沖田は苦笑する。
「泰助、火鉢の炭が無くなったので補充してください。裏口にありますから」
「は、はい!」
少年は早速言われた通りに駆けていき、部屋は再び二人きりになったが、彼らがきただけで少しは緊張を解くことができた。
「血は止まったみたいですけど…」
「…俺はもう良いから、休んでくれ」 
「応援が来たらそうします」
彼は意地になっているように見えた。俺の前で弱々しい姿を晒したくないのか、それとも…。
「…銃は、何故?」
沖田は表情を変えた。
やはり彼は土壇場で刀を捨てて銃を取ったことを恥じているのだろうか。俺の視線をかわすように目を伏せた。
「近藤先生と土方さんに…持っているようにと渡されました。自分の身を守れるようにすることが新撰組に残る条件だと」
「…そうか」
「自分でも吃驚してます。あんなに嫌がっていたのに、こんな時には頼ってしまう。私はもしかしたらもう…」
沖田はそれ以上は言わなかった。
その言葉の続きを発するのも、聞くのも、どちらにしても苦しいことだった。
彼がどれほど真剣に、熱心に、文字通り命を賭けて剣の道に進んでいたのかよく知っている。だからこそ今夜の襲撃で自分の腕がどれほど落ちているのか、実感したはずだ。
彼の立場になると言葉にならない。老いて剣を置くのなら長い時間が自分を納得させることができるが、彼は病のせいで心の整理がつかないまま朽ちていく自分を見つめなければならないのだ。
しかし今の俺には頭が回らず最良の励ましを口にすることはできなかったので、
「一つ言えるのは…刀で斬られても、銃で撃たれても…痛みにさほど違いはないということだ」
とありのままの現実を伝えるしかない。俺は冗談言ったわけではなかったのだが、沖田は最初は呆けていたものの次第に腹を抱えて笑い出した。
「ハッ、ハハハ!そうなんですね、それは知らなかったです!いまの斉藤さんがそういうなら間違いない!」
沖田は何が面白かったのか目に涙を滲ませて笑った。戻ってきた泰助が一体何事かという表情をしていたが、俺は何も説明しなかった。
(笑えるのならそれでいい)
そうしていると、
「何事や?」
と小気味良い口調で山崎が顔を出した。緊迫した現場に沖田の笑い声が響いていたせいで怪訝な表情をしていたが、俺の顔を見て山崎も笑い出す。
「ははぁ、まさかこんなところで再会やなんて」
彼の言うことは尤もで俺の同じ気持ちだった。機会を窺って慎重に新撰組に戻るつもりだったので、こんな派手な帰還は予想外だ。
その後、山崎による適切な処置のおかげで随分身体は楽になった。そして改めて沖田に横になるように強く言い聞かせて、医者を呼ぶために彼は去っていき、入れ替わるように一番たちの隊士たちが駆け込んできた。島田や山野らは自分たちの上司の無事を確かめて安堵するが、同時に俺へ驚愕と好奇の目を向けた…それはまるで見せ物小屋の珍品になったような気分だった。
そうしていると土方副長がやってきた。土足のまま縁側から部屋に上がると、乱雑に荒れた部屋には見向きもせず、俺や隊士たちの存在さえ視界に入らない様子で真っ直ぐに沖田の元へやってきて、人目も憚らずに抱きしめた。
沖田は「皆んなが見てますよ」と恥ずかしそうにしていたが、副長は
「悪かった」
と謝る。謝ることはないと沖田は答えたが、俺にはその気持ちは理解できた。俺と副長は共に万全の対策を取っていたのに、伊東に裏をかかれ襲撃に手を貸す羽目になってしまった…最善の結果にはなったが一歩間違えば危うい命だったのだ。
その場にいた皆が目を逸らし、気配を消すように部屋の外へ出ていくなか、俺は二人を眺めていた。
副長の姿が見えた途端、沖田は無自覚だろうが穏やかに表情を緩めた。恥ずかしがっていても心底安心したように身体の力を抜き、身を委ねるように抱きしめられていた。
彼のなかにある葛藤は俺には想像がつかない。けれど副長には心を許し、その弱さを晒しているのだろうと思うと俺は安心できた。
(自分がそうであったら、とは思わない)
もう、同じ天秤の上でその特別な立場を争いたいとは思わない。
けれど彼の傍で、手を貸して支えながら生きていきたい。
きっとこの先はーーー過酷なことばかりなのだろうから。



それから、俺は新撰組の屯所に戻った。正確には不動堂村へ移転してからは初めてなので足を踏み入れたことがない場所なのだが、古巣に戻ったという確かな感覚を覚えたのだ…それは原田と永倉からの歓待のおかげかもしれないが。
「いやぁ、伊東の奴と出て行くなんて馬鹿なことをしやがったと思ってたけど、俺は信じてたぜ??絶対なんか策があるってさ!」
調子の良い原田と
「御陵衛士が抜けてから人手不足で大政奉還のせいで脱走者も多い。傷が治ったらすぐに働いてくれ」
現実的な永倉は俺の寝床のそばで酒盛りを始める。傷に障るため酒を禁じられている俺はそれを眺めるしかなく、苦痛でしかないが彼らが心から帰還を喜んでいること自体は有り難く思っていたので付き合うことにしたのだ。
不在の間の与太話に耳傾けていると、不意に原田が
「あのさ…平助は元気か?」
と尋ねた。永倉も酒を飲む手を止め、俺は答えに困った。
「…いや、まあ上手くやってんのかなってさ。深い意味はねぇよ」
「上手く…か、どうかはわからないが、馴染んでいる」
「そうか。あいつ、人当たりは良いもんな」
ハハ、と乾いた笑い声が掠れる。彼らのなかには寂しさと虚しさがいまだに渦巻いてやりきれないままなのだろう。
しかし藤堂本人は帰りたい場所は新撰組ではなく、試衛館だと語っていた。
(別れを言えなかったな…)
間者の身分であれば当然でありいつもならそんな瑣末なことに罪悪感さえ感じないが、今の俺は何故か無性に虚しく感じていた。 











酒盛りを終えて永倉と原田が去っていき、静寂が訪れた。
ひとまず空き部屋を自室としてあてがわれることとなったが、大広間から離れているせいかとても静かだ。この広すぎる屯所の全容は怪我人の俺にはまだ掴めていないが、永倉によると近くには局長や副長など幹部の部屋があるそうで普段は小姓が出入りする以外は人気がないらしい。そして隣室には沖田の部屋がある。
(…静かになったな)
少し前から副長と彼が話し込む声とすすり泣くような嗚咽が聞こえたが、再び眠ったのか静かになった。きっとこの数日の出来事で彼の心境に変化があったのだろう…俺には剣ばかりに打ち込んできた彼がひたすらに病に向かい合う姿はまだ見慣れないが、それが彼らの現実なのだ。
「…」
俺は局長との会話を思い出す。
師匠である局長は愛弟子のことをよくわかっていて、そろそろ引導を渡すべきだろうと寂しく笑っていた。刀を合わせた俺にもその心情はわかる。どんなに天性の才能を持っていても…いや、持っているからこそ思い通りに体がままならないことで生じる認識の落差というものは、おそらく凡人よりも命取りになるだろう。
俺は体を起こした。南部先生や女医からは安静にするように言いつけられていたが、どの程度身体に痛みを感じるのか、どうしても何度も確認したくなってしまうのだ。
(何が起こるかわからない)
俺は彼を守らなければならないのだから。
俺が少し痛みを感じて傷口を抑えた時、バタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。一人ではなく、二、三人だ。その騒々しい足音は俺の部屋の前で止まり、
「お待ちください!」
という制止を振り切ってやや乱暴に襖が開いた。そこにいたのは英と例の少年小姓たちだった。
「す、すみません!英先生がどうしてもお会いしたいと」
「止めたんすけど、無理やり…」
小姓たちは慌てて言い訳をするが、その必要はない。
「…友人だ。構わず去れ」
俺がそういうと彼らは安堵して「そういうことなら」と下がっていった。
…有体に言うと、英は怒っていた。際立って整った顔立ちの彼が怒ると妙な迫力があるもので、小姓たちも圧倒されていた。そんな彼は俺のそばで膝を折るとやや強引に押し倒して
「絶対安静って姐さんに言われたよね?」
と睨みつけた。その通りなのでぐうの音もでない。
彼の文句は続いた。
「体に気を付けてってこの間言ったよね?南部先生と姐さんに撃たれたらしいって聞いて本当に驚いた。まさかこんな形で突然新撰組に戻るなんて」
「それは…」
「結局、墓守なんて嘘だったってことだよね。まあそれは薄々わかっていたし、どうでも良いけどさ。でもこっちは気を遣って身を引いたのにあっさりこんなことになって、振り回されて、挙句沖田さんに撃たれて怪我なんて」
俺はやや馬乗りになった英にどう返答して良いかわからない。いつも冷静で少し離れた場所からせせら笑っているような彼が感情的になって支離滅裂なのだ。それは彼も自覚していたようで
「…なんでこんなに怒っているのか、俺もわけわかんないよ」
と言ってようやく体を起こして座った。
「…悪かった」
「悪かったなんて思ってないくせに。…いいよ、別に謝って欲しいわけじゃない。斉藤さんは何も悪いことはしていないし、怪我を負った立派な患者だ。…でも一言言いたかったんだよ、馬鹿だって」
「…そうか」
彼のうまく言えない憤りの意味は掴めなくともそれが心配の裏返しだとわかっていた。しかし謝るのも礼を言うのも英には心外だろうと思い、それ以上は何も言わなかった。
ついでに傷の具合を見ると言うので従うと傷口から少し出血したようで、傷口を消毒されながら再び滾々と叱られる羽目になったのだが不思議と強張っていた心が穏やかになった。英は俺にとって気負わずに会話ができる数少ない相手であり、彼の見慣れた顔を見て気が抜けたのだろうか。
「…まあ、なんにせよ無事でよかった」
英は少しぶっきらぼうに言った。怒鳴った手前、今更言いづらかったのだろう。俺もそんな英を見るのは初めてで「ああ」とだけ返したところで、手当てを終えた。
するとまた足音が聞こえてきた。顔をのぞかせたのは副長だ。
「英、来ていたのか」
「ああ、うん。でも手当ても済んだし、もうお暇するよ。…沖田さんは?」
「眠っている」
「そう。今の沖田さんにとっては寝るのが一番良い療治だ」
そういうと英は手荷物をさっと片付けて風呂敷を結ぶ。実際、俺が二人が会話を交わしている姿を見るのは初めてだったが、今までのすべての因縁が消え去り、むしろ少し他人行儀なくらい淡々としていた。英は立ち上がり別れを告げるが、
「じゃあ。…あ、頼むから二人とも安静にさせてよ」
と釘をさすのを忘れなかった。英が去ると、副長はゆっくりと腰を下ろした。
「邪魔したか?悪かったな」
「いえ…彼とはただ親しいだけで…」
ただの友人だと言えばよかったのに、何故か言葉選びに迷い曖昧な返答になってしまった。副長は「そうか」と深くは聞かなかった。
「改めて、別宅の件では苦労を掛けた。総司が御陵衛士に襲われたのも、お前が怪我を負ったのも、すべてお前の危急の知らせの意味を深く読み取れなかった俺の失態だ」
副長の突然の謝罪に俺は内心驚いていた。間違いを認めても口に出すような人ではないはずなので、それくらい後悔しているのだろう。
「…そうではありません。この事態は俺にも予知できず、内海の行く先が醒ヶ井でないことを知ってようやく思い至りました。伊東もまさかそこまで大胆な手は使わないだろうとたかを括っていた。もっと早く魂胆に気が付けば…別の方法をとれたはずです。ですが、沖田さんが銃で撃ったおかげで何もかも上手くいきました」
「ああ、あいつもそこまで予期していたわけじゃないそうだが、まさかこんなところで役立つとは思いもよらなかった」
副長にも予想外の展開だったが、沖田の機転のおかげで最善の方法をとることができた。しかし彼がそれを納得しているとは思えなかった。
「…銃は、身を守るために局長と副長から渡されたと言っていました」
「近藤先生の発案で俺が山崎に用意させた。あいつを説得するのは骨が折れたが、それが隊に残る条件だと言うとようやく受け入れて、訓練を始めたところだったが…」
副長はそこで言葉を止めた。そして彼の眠る隣室に無意識に視線を向けながら、
「…あいつのためだと思ったが、結局は俺たちが安心したかっただけかもしれねぇな。銃を持たせることであいつの誇りを汚してしまったような気がする」
「…」
副長も沖田の心情を理解していたのだろう。最後の最後に刀を手放し、銃に頼った…その事実が彼にとってどれほど悔しくて情けないことか。自分の身に置き換えるとよくわかる。
俺は悔やむ沖田に何も言えなかった。しかし考える時間は十分にあって、今では最良の言葉を口にすることができる。
「…生きていれば、十分だと思います。刀であろうと、銃であろうと…生きているだけで隊に貢献できている。局長も副長もそう思ったから銃を渡したのでしょう」
生きていてほしいと思ったから、どんな手段でも尽くそうと思った。きっと近藤局長は愛弟子の悔しさはわかっていてもそれでも守りたいと思ったはずだ。だから銃を渡した。
(その気持ちは俺にもわかる)
副長は腕を組みながら穏やかな息を吐くと、まじまじと俺の顔を見た。
「お前は人が変わったな」
「…自覚はありませんが」
「それを総司に伝えてやってくれ」
「…機会があれば。…ひとつ、お願いがあるのですが」
「なんだ?」
俺はゆっくりと体を起こした。英がここにいたら「もう忠告を忘れたのか」と呆れるだろうが、とても横になったままするような頼みではない。
俺は両手をついて頭を下げた。
「俺はこのまま、新撰組隊士としてここに留まりたいと思います」
「…それはどういう意味だ?」
「そのままの意味です。もう間者として生きるのは十分です…役立つ人脈はそのままにしますが、どうか今回のような潜入の命令はこれきりにさせてください」
これまで土方副長の右腕、もしくは左腕として働くことに何の躊躇いもなかったが、もうどこへも行きたくはない。役に立たないと蔑まれても構わなかった。
すると聡い副長は「総司のためか?」と訊ねた。俺は少し考えて
「自分のためです」
と答えた。
彼のためにできることなど何もない。副長のように寄り添うことも、英のように看病することもできない無力な俺は、彼のためだなんて烏滸がましいことを口にはできない。
だからこれは自分の我儘なのだ。
この先、どんなことが起こっても彼の傍で同じものを見ていたい。彼の選択を後押ししたい。それは彼の近くで、彼の一番の友人として力になりたいという独りよがりな願いでしかない。
副長は「頭をあげろ」と言ったので俺はゆっくりと彼と向かい合った。副長は私情を口にする俺に呆れるだろうと思ったが、穏やかな表情だった。
「…今まで面倒をかけてきた。汚い仕事をいくつも請け負ってきただろう。…お前の思う通りにしてくれ」
「ありがとうございます」
「これからも宜しく頼む」
土方副長は頭を下げた。俺はようやく新撰組隊士に復帰できたような気がした。









これからも宜しく頼む―――という言葉をただの世辞だと思ったわけではなかったが、翌朝には土方副長から御陵衛士壊滅のための作戦を立案するようにと指示を受けた。長く間者として潜入し衛士たちの事情に詳しいのだから当然と言えば当然なのだろうが、気が進まない。
(伊東を斬れば簡単だが…)
負傷した身で三大流派のうちの二つを修めている伊東と対峙するのは危険だろう。それに副長の言う通り、伊東の配下は確かに腕が立ち忠誠心が強く、頭領が死んだとなれば命を懸けて新撰組を襲撃するはずだ。隊士が減り一兵も失いたくない新撰組としては効率よくこちらの被害を少なくし、再起させないように御陵衛士を壊滅させたい。
しかしいくつか問題があった。
(まずは藤堂だ)
半年間一番近くで過ごし、きっと藤堂の意思は揺らがないだろうということはわかる。伊東に救いを求め、その場所で生きると決めた彼は誰よりも熱意があって、今更気持ちを変えることはない。だったらどうにか作戦に支障がないように遠ざけるべきだろうが、この状況ではどうにもならないだろう。
だが、どうにも居心地が悪いのは彼を騙したまま新撰組に戻ってしまったせいだろうか。そういう意味では俺も藤堂に情を感じている。
(それから局長と試衛館の食客たち…)
人懐っこく末っ子として可愛がられ藤堂のことを悪く言う者はいない。御陵衛士として脱退したいまでも仲間だと信じている。彼らの心情を慮ると御陵衛士を叩くことすらできない…しかしこれは俺の領分ではなく、副長に任せるべきだろう。
そして…。

隣室から物音が聞こえて俺は部屋を出た。傷は痛むものの長く床に臥せるのは性に合わずどうも手持無沙汰に感じて出歩いてしまう。英が知ったらカンカンに怒るだろう。
俺は刀を手に部屋に出ることにする。立派な屯所に必要ないのはわかっているが、手ぶらで出歩くのは居心地が悪いのだ。
客間から出た目の前の廊下は庭に面しているが、すぐに稽古の光景が目に入ってきた。あの少年小姓二人が太い木刀を振っていてそれを座って見ているのは沖田だった。彼も俺に気がつく。
「顔色が良いな」
「少し寝たら良くなりました。今は彼らに頼まれて稽古をつけているんです…泰助、腰。銀之助は視線」
「ハ、ハイ!」
「わかりました!!」
今朝話をした時よりも清々しい表情に見えた。彼は厳しい視線を少年たちに向けつつも、口元は綻んでいたのだ。
井上組長の甥である泰助は天然理心流を学ぶ門下生だけあって木刀は持ち慣れているようだが、よたよたと重心がずれている。銀之助は重たい木刀を振るのが精いっぱいという様子で息を切らせて苦しそうだ。彼らが小姓と聞いた時は驚いたが、局長はいまや立派な武士であるのだから小姓をつけて身の回りの世話をさせても分不相応ということはないのだ。そう思うと離れていた半年の間に新撰組の状況は様変わりした。
俺は沖田の隣に腰を下ろした。
「傷に障りますよ」
「あんたには言われたくないな」
「まあ確かに、説得力はないかも。…英さんには内緒ですよ」
「勿論だ」
俺は即答した。床に臥せって天井の木目を眺めているよりは、少年たちのたどたどしい素振りを見ている方が随分ましだ。それはきっと沖田も同じだろう。
木刀が風を切る音を耳にしながらしばらくは口を閉ざす。少年たちは一体何回竹刀を振るように指示されているのかはわからないが、今は稽古を頼んだのを後悔しているはずだ。苦しそうに歯を食いしばっている。
すると沖田が次第に笑い始めた。
「…なんだ?」
「いや、やっぱり邪魔じゃないですか?それ」
沖田が指さしたのは俺の鞘に巻き付いた彼の組み紐だった。分離の際に餞別にと半ば強引にもらったものだ。
「もう慣れた。今更、外すのはまた面倒だ」
「そういうものですかねぇ…でも藤堂君辺りには気づかれたんじゃないですか?彼は目ざといから」
「…ああ、そういえばそうだった」
「やっぱり」
沖田は苦笑した。
「迷惑なら外すが」
「いえ、斉藤さんにあげたものですから好きにしてください。…まあ、ちょっとは照れ臭いですけどね」
ハハ、と沖田は笑いながら視線を少年たちへ戻した。
俺は何でもないある日の外出で、藤堂が組み紐について言及したことがあったことを思い出す。
俺は深く尋ねられるのが面倒で肯定も否定もしなかったが、それを見て藤堂は俺が『新撰組の方が似合っていた』と呟いていた。俺は新撰組から離れたつもりはなかったので彼の言う通りだったのだが。
(藤堂はまさか俺が間者だとは疑ってはいないだろうが…)
御陵衛士に未練はない。最初から敵地だと思って乗り込んだ場所だ…けれど純粋無垢な藤堂を戦場に置いてきてしまったような罪悪感はまだ覚えている。
「千ッ回…!!」
泰助の悲鳴にも似た叫び声とともに二人はその場に倒れ込む。彼らの白い息が次々に舞い上がっていき、しばらくは大の字になって荒い呼吸を繰り返していた。疲れ果てていたが、沖田は容赦ない。
「斉藤さん。見たところ、三分の一くらいはちゃんとした姿勢で振れていなかったですよね?」
「…ああ、そうかもな」
「じゃああと、三百回かな」
「なっ…!」
「お…っ!」
銀之助は青ざめ、泰助はおそらく『鬼!』と言いたかったのだろう。俺は彼らを不憫に思ったが、沖田はとても楽しそうだ。
「端数は切ったのになぁ…さあ、早く立ち上がらないと五百に増やしますよ」
「う、うぅ…」
二人は木刀を杖代わりにしながらどうにか立ち上がる。足元がふらつき俯く彼らに沖田は穏やかに告げた。
「辛くて苦しいから逃げ出したいでしょう?でも諦めと闘うことができるのは、君たちの信念だけです。信念さえ持ち続けることができたなら、君たちは強くなれます」
明瞭な声とともに、その言葉がスッと胸の中に入り込む。少年たちも同じだったのか、二人は顔を見合わせると頷きあい、また一から素振りが始まった。
その言葉はかつて少年だったころ、自分に言い聞かせていたのだろうか?
どんな天賦の才を持っていても努力が伴わなければ一流にはなれない。口減らしとして試衛館にやってきて孤独を感じながら剣の才能に目覚めた彼は、そうやって闘い続けてきたのだろうか。
俺は沖田の横顔をしばらく眺めていた。
彼の眼差しは重い病を患った今でさえ、少年のように輝いていた。









月明かりの眩しい夜だった。
俺は縁側で刀の手入れをしていた。どんなに忙しくとも身体が痛んでも手入れを怠らないのは、日ごろの習慣という理由もあるが、こうして刀紋を眺めていると余計なことを考えずに頭がすっきりするからだ。散漫にならず考えるべきことだけに集中できる。刀と共に己が研ぎ澄まされていく感覚は心地よい。
けれど、ふいに手が止まった。
(我ながら…惨い策を考えたものだ)
半日で…いや、策を練るように命令を受けてすぐに思いついたものを土方副長に報告した。
伊東を殺してその亡骸を路上に放置し、誘き寄せられた御陵衛士を一網打尽にする…かつての仲間に対してまるでそこらの害虫を駆除するかのような仕打ちは鬼畜の所業と言えるだろうか。あの鬼副長でさえ顔色を悪くしたのだからよほどだったのだろう。
しかし無情であればあるほど、新撰組と御陵衛士の決別は鮮明となる。新撰組にとって幕府という後ろ盾が無くなった今だからこそ、揺らがない強さを示さなければならない―――そうしなければまた繰り返されるのだろうし、そこまでしなければ新撰組の汚名は雪がれない。
土方副長にこの作戦を遂行する覚悟を問うと彼は難しい顔をしたが、了承した。近藤局長の説得は難しいだろうが…。
「斉藤君、横になっていなくて良いのか?」
「…局長」
考え事をしているときに、その人物が現れると余計に驚く。目の前には少し浮かぬ顔をした局長がいた。
「薬を飲んで良くなりました」
「しかし痛みを感じないわけではなかろう。無理をすると拗らせるぞ」
「…もう少ししたら横になります」
「ああ。じゃあそのもう少しを、俺に付き合ってくれないか?」
局長はドカッと俺の横に腰を下ろした。疲れているのか深い息を吐いてしばらくはぼんやりと月を見上げていた。
そして呟くように口を開いた。
「明日か…明後日には、満月かな」
「…おそらく。あまりそういうことは存じません」
「そうなのか?俺はこの季節は好きだ。空気が澄んで月が良く見える。…ところで、君が考えた策を歳から聞いた」
前置きを聞きながらやはりその話だろう、と思った。俺は手入れ途中の刀を鞘に戻し、姿勢を正して身構えた。
(どんな叱責を受けるのか…)
人でなしだとか、武士として卑怯で非道だとか…そんな風に言われる覚悟は決めていた。けれど局長は構える俺を見て少し笑った。
「そう硬くならなくて良い。…歳から聞いた時、確かにあまりに人の道を外れていると思った。暗殺の後に八方を取り囲んで襲撃など、御陵衛士にとっても屈辱的だろうし、我々としても胸が痛む。大きな禍根を残すだろう」
「それが当然だと思います」
「でも受け入れることにしたよ。いろいろなことを天秤にかけて考えたが…やはりいま、新撰組は窮地に置かれている。伊東さんが出した建白書を鵜呑みにされ、新撰組が徳川からの信頼を失う前に手を打ちたい。歳はこの案を飲むなら平助を助けると一応は約束してくれたしな…」
近藤局長が納得していることは意外だったが、副長は藤堂の助命を条件に飲み込ませたのだろう。藤堂にその気があるかはわからないが。
局長は視線を俺へ向けた。そして穏やかに訊ねる。
「長く考えるうちにふと気が付いたんだ…斉藤君は今回の悪役を引き受けてくれたんじゃないのか?」
「…」
「必要以上に残忍な策を立てて、自分でその責任を負うつもりなのだろう?何かが起こった時に作戦を立てたのは自分だと名乗り出て、憎悪の矛先を自分に向けようとしているのではないのか?」
…まさか気づかないだろうと思っていた局長に不意打ちのように指摘され、答えに窮した。
―――俺は策を立てるように土方副長に指示を受けた後に、昔のことを思い出していた。
確かあれは…勘定方の河合が金が紛失する失策を犯した時だ。何故か藤堂は必死に河合を庇い副長と対立し、その時に藤堂が山南総長の切腹について持ち出して副長に詰め寄ったことがあった。その時に副長を庇うように間に立ったのは凛とした沖田だった。
『山南さんを殺したのは私だと』
『脱走した山南さんを大津まで迎えに行き、連れ戻し…介錯をしたのは紛れもなく私です』
その場にいた俺は沖田の冷たい眼差しと声をはっきりと覚えている。熱くなった藤堂がすっかり言い返せなくなるほど怯んでしまうくらい、揺るがない強い言葉だった。
沖田は山南総長の切腹について土方副長が目の前で責められるのが我慢ならなかったのかもしれないし、もしくは本心から自分が殺したのだと思っていたのだろうと思う。仲間の死の責任を背負う…それは並大抵のことではないが、それほどの覚悟を持って介錯を引き受けたのだと実感した。
今回、自分でも卑劣で悲惨で寸分の情もない策を立てた。そしてそれが為れば御陵衛士の壊滅は俺の策によるもので、俺の責任になるだろう。その逆もそうだ、新撰組に何らかの被害が被ってもそれは俺の作戦の甘さだ。
何がどう転んでも…きっと誰もが痛みを負うことになる。だったら間者として関わった自分が引き受けるのが筋だと思ったのだ。
(誰にも…背負わせるものか)
例え現場でこの刀を振るうことがなくとも、すべての責任を負うつもりでこの策を託したのだ。非情であればあるほど、「あいつは酷い」と指されるだろうが、あとで誰もが、怒りや悲しみのやり場を己に向けないようにできれば、それが一番良い。
そしてなによりも…何もできなかったと、沖田が悔やむ表情をみたくはない。それくらいなら「なんてことをしたのだ」と責められる方がましだ。
…そんな自己本位な考えは秘するつもりだったが、近藤局長に言い当てられてしまった。俺が黙り込んでいると、近藤局長は俺の肩を二、三回軽く叩いて
「もう横になりなさい」
と立ち上がり、そのまま去っていった。
俺はしばらく呆然としたが、再び鞘を手にして刀を抜いた。その刃に少し欠けた月が映り…それがゆらゆらと揺れている。
そうしているとまた足音が聞こえてきた。
「…私の言えた台詞じゃありませんけど、横になっていないと治るものも治りませんよ」
湯浴みを終えて戻ってきた沖田が少し呆れたように声をかけてきた。けれどずっと床に臥す退屈さは互いに同じで、床を抜け出すのも仕方ないと理解しあえるのでお互い様だ。
彼は機嫌がよさそうだった。何でも新しく入隊した若い少年たちの指導を正式に任されたらしい。今朝指導していた少年小姓たちのほかにも数名入隊したそうで、いったいいつから新撰組は子守をするようになったのかと思ったが、彼が楽しそうなのでそれも悪くないと思えた。それにきっと彼らの懸命さは沖田自身の励みになるのだろう。
俺は近藤局長の場所に座った沖田をしばらく見ていたが、やはり細くなった気がして彼に触れた。利き腕の右腕は一回り以上細くなり筋張った感じがなくおなごの様に頼りない。それは本人も自覚しているようだった。
「剣ダコもすっかり無くなって…もう試衛館のあの太い木刀を振れないかもしれませんね…」
彼は明るく冗談めかして答えたが、虚しさは隠しきれていなかった。剣の道だけに生きてきた彼にとって、見えない敵に一方的に蝕まれるのは不本意でしかなく、この先の不安は常に付き纏うだろう。しかしそれを簡単には吐露できない立場にいる。沖田は気弱に溢した。
「死ぬって、このまま消えて無くなっていくってことなんですかね…自分が死ぬときはきっと近藤先生の盾になるときだと思っていたから、きっと一瞬のことだと覚悟していたんです。でも現実は違っていて、こうやって少しずつ衰えていく。…いまこうして盾の役割さえ果たせず伏せってばかりなのが…情けないんです」
俺は黙って彼の言葉に耳を傾ける。彼が嘘偽りない不安を吐き出してくれることを信頼だとも思えたが、やはりそれよりも胸が苦しくなる。
俺も今までの人生で何度か死を覚悟したことがある。一番大きな体験はやはり若様の時で、その時は自分が死ぬよりも若様を死なせてしまう恐怖でいっぱいいっぱいだった。辛くも生き延び、新撰組にたどり着いた後もなかなか心からの安寧は訪れなかったが、若様の他に命を捧げても良いと思える存在に出会うことができた。
(これは行き過ぎた友情だが…俺にとっては唯一無二の存在だ)
俺は俯いて目を伏せた沖田の手を強く握った。
「…それでも、生きているだろう?」
彼はその言葉にふっと顔を上げた。
「生きているだけで良いと…そう思っている者は沢山いる。彼らを悲しませていないなら、それで十分だ」
この半年に彼と彼の周囲にどんな葛藤があったのかはわからない。だが、彼はこうして周囲の支えで生き延びている。これからは俺もその一助となりたい。もう時間がないのだとしても、彼の願いならなんでも叶えたい。
俺はゆっくりと手を離した。惜しい気持ちはあったが、いつまでもそうしているような関係ではないし、その立場はもう譲ることにする。
だから俺は彼の一番の友人として訊ねた。
それに対して「藤堂君をどうか助けてあげてください」と言った。
彼のためになることを、と思って訊ねたのでそんな返答があるとは思っていなかったが、いま彼の心を占めるのは旧友である藤堂のことなのだ。
「私も彼が生きてくれれば良いと思うんです」
どんな裏切りがあっても、衝突があっても―――生きてくれれば良いと思う。
(俺も同じだ…)
そう思いながら、沖田の横顔を眺めていた。







我ながら単純だと思うが、沖田が藤堂の身の安全を願っているとわかった途端、藤堂に会いに行くことを決めていた。今回の作戦は沖田には伏せて遂行される―――その罪滅ぼしのつもりだった。それに藤堂が生きてくれた方が良いと思うのは沖田だけでなく、近藤局長や食客たち、そして副長の秘めた願いに違いない。副長には叱責されるに違いないとわかっていたが、俺は月真院の近くで身を潜め、藤堂が現れるのを待った。すると予想通り、藤堂は決まった時間に門周りの掃き掃除を始めたのであっさりと二人きりで話をすることができた。
俺が死んだと思っている藤堂にとって、俺の登場は青天の霹靂だったようだが俺の話に耳を傾けて信じたようだった。腑に落ちないことが辻褄の合った部分も多かっただろう。
けれど、
「何言ってるんですか。一人だけ逃げるなんて、そんなことするわけないでしょう?」
藤堂は笑いながら、御陵衛士を離れるべきだという助言を拒んだ。俺が「死ぬことになる」と詰め寄っても、彼は柔和に微笑んだまま語る。
「構いません。…斉藤さん、俺はね、ご落胤だとか言われて武芸を身につけましたが、実のところは武士ではない、士農工商の最下層、つまり何でもない下僕と同じ存在なんです。それを試衛館の皆んなが俺を引き上げて形にして武士にしてくれた…幕臣ではないけど、そういう存在になれたのは間違いなく近藤先生のおかげだと今でも感謝しているんです。…だからこそ、伊東先生を裏切れません。俺は恥じない生き方をして死にます。…今日、斉藤さんに聞いたことは決して誰にも漏らしません。みんなにはありがとうと伝えてください」
御落胤だと揶揄され、自分の生まれに疑問を持ちながらたどり着いた試衛館で『藤堂平助』というひとりの武士が生まれた。そのことに感謝するからこそ、自分が信じて進んだ道を今更引き返したりはしない。それが彼が学んだ生き方であり、譲れない一線なのだ。
(何を言っても、変わるまい)
もともと、俺程度の言葉で藤堂の決意は揺るがないのはわかっていた。だがわかっていても、真実を知り、皆が彼の命が繋がることを望んでいるんだという事実を伝えることは、決して無駄ではないだろう。そして俺自身もまた純粋な藤堂を騙して去ったことへの勝手な区切りがつけることができた。
「…本当のことを教えてくれてありがとうございました」
今生の別れを感じながら、俺は藤堂を握手をした。
そして目ざとい藤堂は俺が沖田の言葉に押されてここにやってきたのだと言うことを察していて、俺は居心地が悪い。普段は直情的なところもあるが、彼は心の機微に敏感で人一倍思いやりのある人間だ。だからこそ追い詰められ新撰組で居場所を無くし御陵衛士となったのだと思うと皮肉ではあるが、しかしそれも彼の生き方なのだから誰も否定はできない。
「俺は戻ります。…沖田さんにはどうかお元気でとお伝え下さい」
「…ああ」
藤堂は満足げに頷き背中を向けて去っていく。
俺はここから一歩、前に踏み出して彼の腕を取り引き止めたい衝動に駆られていた。けれどそうしたところで藤堂はその手を振り払って、また別れを告げるに違いない。だとしたらこのまま去っていく魁先生の背中を黙って見送るべきだ。
俺の脳裏にはふいにあの時の言葉が浮かんでいた。
『俺はここに骨を埋めます』
藤堂は目を細めて真新しい看板を見上げていた。新撰組から分離し、これからの将来へ明るい希望を持ち、胸を高鳴らせて―――そんな藤堂が呟いた言葉に、俺は何とも言えない複雑な感情を抱いた。いつか御陵衛士と新撰組は徹底的に対立することになると予期していたのもあるが、俺は彼のような生き方をしていなかったからだ。主君を変え、様々な顔を持ち、己の信条に反していても任務を遂行する…藤堂には侮蔑されるような真逆の生き方だ。骨を埋めるなんて、考えたことすらない。
今更自分にできるとも思わないが…かつて幼かった自分は藤堂のような生き方を望んでいたはずだ。だからこそ藤堂のことが眩しくて、少し煩わしくて、目が離せなかった。
(俺も…新撰組に骨を埋める)
改めてその決心をして、俺は不動堂村の屯所に戻ることにした。



そして、十一月十八日がやってきた。

朝、凍てつくような寒さで目を覚ました。副長から今夜の作戦決行を伝えられ、沖田には絶対に知らせない様にと念を押された。沖田にすべてを隠して作戦を遂行することには同意したが、しかし一日中部屋に拘束するわけにもいかないだろう…と、どうすべきか考えあぐねていたが、沖田は寒さのせいか体調を崩し自然と床に臥すことになった。しかしそれだけでは心もとないので診察にやってきた英に協力を仰ぐと、彼は渋々付き合ってくれることとなった。
「南部先生の許可はもらってきたよ」
一旦診療所に引き返した英だったが、早々に屯所に戻ってきた。事情は深く話さない方が彼のためになるだろうと思ったが、賢い英も訊ねようとはしなかった。
英は沖田の部屋で彼の熱を測り、脈を取り、薬を飲ませて世話をする。沖田は少し息苦しそうにしているが英曰くこのまま眠ることが何よりの治療になるということだったので、彼に任せることにする。
英は引き返してきた際に、時間を潰すために数冊の医学書を持ち込んでいた。当然のように異国の言葉で書かれたもので俺には一体何が書かれているのかわからないが、英はするすると読み進めていく。俺は眠った沖田と、文机で書物を読み耽る英を眺めながら、歌膝の格好で刀を抱えていた。
英は時折、俺を見て『横になれ』と言わんばかりの視線を投げかけてきたが、俺にはその気はない。伊東を誘い出したことで御陵衛士が先んじて手を打つ可能性もある…いつ敵襲があるかもわからない状況でのうのうと横になることなどできなかったのだ。幸いにも傷の痛みには慣れてきたので問題はなかった。
時が経つにつれて緊張感は高まっていく。それは屯所のあちこちに漂っていて落ち着かない。そろそろ薬が切れて沖田もが目を覚ますかもしれないと英が言うので、外に出て縁側で待機することにする。雪がちらつく厳しい寒い一日だが、その寒さは少しも気にならなかった。むしろ張り詰めた冷たい空気のおかげで頭が冴えて余計なことを考えないで済んでいた。
すると、ふいに沖田の声が聞こえた気がした。しかしすぐに聞こえなくなって、部屋から英が出てくる。
「話し声が聞こえたが」
「一度目が覚めたけど、白湯を…漢方を含ませたものを飲ませたら、また眠ったよ」
「そうか」
英が処方した漢方で沖田はまた眠りについたようで俺は安堵した。英は俺の隣に座りながら「痛みは?」と訊ねてきたので、「ない」と答えると彼は怪訝な顔をした。俺が強がっているように見えたのだろうか。
「…なんだ?」
英は少し目を泳がせながら「帰って来られて良かったね」と口にした。
「…どういう意味だ?」
「深い意味はないよ。墓守をしていた時より表情がすっきりしているし、やはりこっちが居心地が良いんだろう?」
「それは…」
「それに沖田さんの傍にいられるじゃないか」
英がどういう意図をもってそう言ったのかわからなかったが、友人としてではなく医者としての言葉だと解釈すると言いようのない不安が込み上げてくる。
「…間に合った、という意味か?」
今度は英が唖然としたようだった。賢い彼はすぐに俺が重く話を捉えていると理解すると、少し笑った。
「…考えすぎだよ、風邪だって言ったじゃないか。血を吐いて昏倒したわけじゃないし、眠っているだけだよ」
そう言われても、医学に対して門外漢の俺には今の彼の病状がどれほど深刻で、風邪だとしても労咳に障りがあるのではないかと考えてしまう。すると英は敢えて明るく続けた。
「先のことを考える過ぎるのは良くないよ。具合が悪くなる。…ほら、よく言うだろう?『足るを知る者は富む』って。…今、沖田さんは生きていて、斉藤さんはまた会うことができた。とりあえずは明日も、明後日もそれを繰り返すことができる…それをただ喜ぶ、そういう心持ちでいないと」
「…老子か」
英が医学書の他にも書物を読み漁っていることは知っていたので、彼が言いたいことは良く分かった。そして彼の話を引き金となって、同時に幼いころの記憶が蘇ってくる。
生まれた時から死ぬ定めにある…そんな人生に何の意味があるのか、父に訊ねた時のことだ。寡黙な父は表情は変えずに少し考え込み、老子の考えを教えた。死とは失うことではなく、還ることだと。だからこそ死を恐れ躊躇するのではなく、短い生を貴び謳歌すべきだと父は語った。
幼い息子に対して、もっと御伽噺のように誤魔化すこともできたのかもしれないが、父は飾らない言葉で淡々と語った…幼い俺には理解しがたい部分があったが、それが父の誠実さだということは感じていた。
英は、俺の昔話を聞いて
「お父上は、幼い息子が怖がっていることをわかっていたんだな」
と言った。
そういう反応が返ってくるとは思わなかったので意外だったが、そうだったのかもしれないと思った。不器用な父は難しい言葉を口にしながら、俺に手を差し出していたのだろう。
おかげで今の俺の生き方があるのかもしれない。
(家族とは縁遠い、根無し草だと思っていたが…)
案外そうではないのかもしれない。父との鮮明な記憶は確かに俺のなかに生き続けているのだから。
「ああ…それ以来自分が死ぬことに未練はないが…」
それが自分以外となると悠長に構えてはいられない。息苦しそうに眠り続ける沖田を見ていると、この身体が身代わりになれば良いのにと思う。それができないとわかると自分の無力さを見せつけられているような気がして、見ているのが苦しい。
英はその長い睫を伏せて言った。
「…気持ちはわかる。…でも見届けるべきなんだよ。見届けすらされない死は、きっとこの世で一番虚しいんだ」
見届けられないまま終えていく死を何度も見てきたのだろう。それは医者になったいまだけではなく、陰間だった過去にも。
(俺は見届けるべきじゃないのか…?)
御陵衛士壊滅の作戦を立てた張本人として、のうのうと屯所で待つのが正しいのか?藤堂の選択した先を見届けるべきじゃないのか…?

誰にも背負わせたくないと思うなら、俺がトドメを刺すべきだ―――。









英から沖田が深く眠ったと聞き、俺は広間の方へ向かった。古参隊士から顔なじみのない新入隊士まで集まり、事情を知らない隊士たちは一体何事かと落ち着かない雰囲気だ。ただ、古参の隊士はこの緊迫感に覚えがあり様子を窺っているようだった。
「斉藤」
その声の主が最初は誰だか分らなかったが、振り返ると原田がいた。いつも隣にいるはずの永倉の姿はない。
「…なんだ」
「お前が作戦を立てたって聞いたから、一応言っておくべきかと思ってな」
「…」
いつも笑いが絶えず明るい原田だが、見たことがないほど厳しい顔をしてまるで別人のようだ。まさに臨戦態勢という言葉が相応しいだろう。そんな原田は俺を強い眼差しで見据えて宣言した。
「俺は伊東を殺すことに異論はねぇが、平助だけは助ける。…あいつが望んでいようとそうでなかろうと、関係ねぇ。俺は平助を殺したくないからな」
やはり藤堂は永倉と原田の招きに応じなかったらしい。落胆して帰営した二人だったが、それでも藤堂を見限ることはなく仲間を思う気持ちを貫くことを決めたようだ。その気持ち自体を否定するつもりはない。
「…好きにすればいい。作戦を立てたが、藤堂を助けようと助けまいと支障はないはずだ」
俺の淡々とした言葉に原田は途端に顔色を変えた。
「支障って…お前は本当に冷てぇな。仲間なら普通は助かる方が良いって思うもんだろ。…まあ、平助が新撰組にいた時も何かとぶつかってたもんな」
原田がまるで敵を見るかのようにその剣幕を鋭くしたが、俺は相手にしなかった。
「そうかもしれない。藤堂は俺が気に入らなかったようだ」
「お前も気に入らないんだろう?」
「…煩わしいと思ったことはある。だが、嫌っていたわけではない」
「はっ。どうだか…」
原田は問い詰めておきながら俺の言葉を受け止めるつもりはないようだったので、何を返しても同じだろう。けれど原田に理解してほしいという気持ちはなくても、偽りを述べるつもりはなかった。
「藤堂に死んでほしいと思ったことはない。だから助け出すなら好きにすれば良いし、邪魔はしない」
「やっぱり他人事だな。手を貸すつもりはないのか?」
「…」
「それくらいにしておけよ」
俺が返答を迷っていると、永倉がやってきた。相棒の気が立っているとたいてい冷静な永倉が諫めにやってくるが、彼もいつもと様子が違い表情が硬い。
「ぱっつぁん…」
「無関係の者を巻き込むな。俺たちだけでやり遂げればいい」
「…」
永倉は「行こう」と原田の背中を押して強引に場のお開きを告げる。『無関係』という言葉に棘を感じたが、俺は黙って見送った。


そうしてしばらくして、副長に呼び出され再び原田と永倉に顔を合わせることになった。
醒ヶ井に向かい伊東を暗殺する。終わり次第隊士を引き連れて待ち伏せし、骸を引き取りに来た御陵衛士を一網打尽にする―――その流れを再度確認し、いよいよ御陵衛士殲滅に向けて動くことになった。
原田が芹沢暗殺の話を持ち出し、場の雰囲気は一瞬冷やりとしたが、近藤局長の助言もあって希望通り原田自身が伊東暗殺に加わることになった。原田は伊東から坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられているので個人的な怨恨の気持ちがあるのだろう。
話がまとまったところで、副長が重々しく告げた。
「伊東を殺し、その遺体を引き取りにきた御陵衛士を殲滅する。…見知った顔はあるだろうが、手加減は無用だ。奴らは局長を暗殺し、新撰組を陥れようとする敵に違いない。御陵衛士はこのままにしておけば必ず新撰組の障となる」
これは絶対にやるべきことであり、もう後戻りはできない。
副長が釘を刺したのは必ずやり遂げなければならないという決意の表れだろう。誰もが大きな覚悟を決めている。
俺は原田の宣言や永倉の様子を見てますます屯所で悠々と待ち構えるのでは気が済まなくなってしまった。
「副長、宜しいですか?」
俺と副長は人気のない客間に移動した。
「今回の件、やはり俺も加えていただけませんか?」
「何故だ?」
「待っているのは性に合いません。沖田さんのことは英に任せられます」
「ダメだ。今回は万全の体制で臨むと言っただろう」
「しかし」
「お前が責任をとらなくて良い。どんな結果になっても全ては俺と近藤局長の決めたことだ」
俺は食い下がったが、副長に的確に遮られてしまった。それに、
「何が起こるのかわからないのだから部外者の英に任せるな」
という言葉はもっともで返す言葉がない。俺は自分の勝手な判断で英を巻き込もうとしていたのだ。
だがそれでも簡単に引き下がる気持ちにはなれず黙り込んでいると、聡い副長に「何かあったのか?」と尋ねられてしまった。
俺はいつも命令にはいつも服従していたが…気が付けばすべてを白状するつもりで居住まいを正して頭を下げていた。
「申し訳ありません。…昨日、藤堂に会いました」
「…平助に?」
死んだことになっている俺が出歩くどころか、藤堂に会いに行くなど問題外だろう。処罰を受けるつもりで告白したのだが、副長は驚いただけで責めようとはしなかった。この土壇場でそんな余裕がなかったのかもしれないし、副長も態度には出さなくとも藤堂のことが気になっていたのだろう。
俺は沖田に頼まれて藤堂の説得に向かったこと、そしてこれまでの経緯を伝え、伊東を見限るように促してもあっさりと断られたことを話した。
すると副長は苦笑して
「…余程、嫌われたらしい」
と呟く。
藤堂と副長の溝は誰よりも深い。藤堂はどうしても山南総長を追い詰めたことを許せなかったのだろうし、後々まで引きずった。それに対して副長は慰めるでもなく、弁明することもなく受け流し、結局は伊東に流れてしまった。
副長はいま、藤堂に刃を向ける事態に陥ったことで自分を責めているはずだ。もっと言葉を尽くせばよかったと後悔している…けれど半年間、新撰組隊士ではない素の藤堂に接した俺は、藤堂が単純に副長を嫌っているとは思えなかった。
「そういう風には見えませんでした。月真院にいた時、確かに蟠りはあるようでしたがずっと仲間のことを気にしていました。新撰組を揶揄する衛士達の中にも決して加わらなかった。昨日も…局長に感謝し、皆には宜しくと言って笑って別れました。…藤堂は作り笑いができるような男ではありません。あれは本心です」
「…」
副長は何も答えなかったが、強張った表情が少し和らいだように見えた。乗り越えられない亀裂も、どうしようもない行き違いも…すべては過去の出来事だ。
だから今何を選び取るべきか―――それを皆、考えているはずだ。
きっとこの夜の出来事は、のちに山南総長の切腹と並ぶほど新撰組に大きな変化をもたらすことになるだろう。だとしたら、間者として潜入しすべてをお膳立てした俺が無関係のまま結果だけを受け取るべきではないのではないか。
「…俺はこの作戦が失敗なく遂行されると思っています。新撰組の一員として御陵衛士が壊滅されることに責任は感じません。…ただ半年、共に過ごした者として、そして間接的にとは言え手を下す者として、彼らの死を見届けたいと思ったたけです」
藤堂が生きる残るのか、死ぬのか…それはわからない。
けれどそれを見届けることが俺にとって何かを変えるのではないか…そう思ったのだ。







そろそろ醒ヶ井へ向かう時刻だ。
伊東を暗殺するために選ばれたのは、原田以外に試衛館や近藤局長と縁がある、いわゆる身内と言える隊士たちだった。表向きには伊東暗殺を伏せることになるため剣の腕よりも他言無用を守り通せる信のおける者を選んだのだろう。
副長には参戦したい旨を伝えたが答えは保留となった。出立までもう少し…落ち着かない俺は広間の様子を窺おうと部屋を出て少し歩くと、土間で粥を作る英と鉢合わせた。英は俺の顔を見るなり『また出歩いている』と嫌味を言いたそうにしたが、屯所の張り詰めた雰囲気を察しているのか仕方なく飲み込んだようだ。
英は手慣れた様子で煮込んだ粥を椀に流し入れる。
「沖田さんが腹が減ってると思ってさ。斉藤さんも食べる?」
「…いや」
「なんだか珍しい顔をしているね」
英に指摘されたが、自覚がない。
「何が?」
「なんていうか…変な顔だよ」
「…」
抽象的な表現に戸惑うが、彼の言いたいことはなんとなくわかる。
人の命令に従うのは簡単で、楽だ。その通りにすれば認められるし何も考えなくて済む…けれど、命令を拒み自分の意見を通すのは今までのやり方とは異なり自分の中で違和感がある。けれど策を講じておきながら、自らが手を下せないのはやはり無責任だと思ってしまうのだ。
「他人に左右されて手が届かないのが、歯がゆいだけだ」
「…贅沢な悩みだな。たいていの凡人は理想には手が届かないものでしょ。何でもかんでも自分の思い通りになると思ったら大きな間違いだよ」
俺の考えることなどお見通しだといわんばかりに…まるで幼子を躾けるように諭される。英と話しているとどうも手のひらで転がされているような気分になってしまい、思わず俺は言い返す。
「自分で始めたことは、自分でケリをつけたいものだろう」
「まあ、そうできれば良いけど。誰かに任せた方がうまく行くことだってあるよ。…『任せる』って歯がゆいものだけど、たぶん『信じる』と同義だよね」
「…」
「はい、これ持って」
英に促され、俺は盆を持たされて湯気の立つ粥を置かれた。漢方の匂いが混じり食欲はそそらないが、滋養はあるのだろう。
「…信じるのは難しい」
「そうだよね。でも難しいからこそ『任せて』『信じる』のも責任の果たし方だと思うけどね」
俺の曖昧な話に付き合う英は、事情に通じているわけでもないはずだが的確な返答を口にする。彼の言葉に翻弄されているような気がして、俺は少しため息をついた。
「…さっきは『見届けるべきだ』と言ったが?」
「その場で目で見るっていう事実だけが見届けるってことじゃないでしょう。相手を思いやって、理解して受け止めてあげることだけでも十分だし、大切だと思う。要は気持ちでしょ?」
「お前の言っていることはいつも…なんというか、面倒だな」
俺の考えとはどこか異なり、別の場所を見ているような物言いだ。だからこそ互いに飽かずに付き合っているのかもしれないが。
英は気分を害した様子はなく「そうかも」と笑いながら温かい茶と匙を準備してさらに盆に乗せる。
「一匹狼で自由に生きていられたら楽だけど…そうはいかない。斉藤さんには守りたいものがあって、いなきゃいけない場所がある。どうしても他人は介在するんだから、多少の面倒は受け入れないとね」
「…任せて、信じて、待つべきだと?」
「さあ…俺にはよくわからない話だけどね」
…結局は曖昧に濁され、結論を口にしない。関わり合いになりたくないのかもしれないし、自分で考えろと言われているような気もして、改めていつも俺はなぜ英に答えを求めていたのだろうかと自分でもよくわからなくなってしまう。
英は「そろそろ終わったかな」と呟いて遠くに視線を向けた。そして俺が抱えていた盆をそのまま受け取って
「俺は斉藤さんのことを信じてるよ」
と言った。
「…それはどういう意味だ?」
「はは、自分のことになると途端に鈍感になる。本当、不思議な人だな」
「…」
つかみどころのない英はそのまま沖田の部屋へ向かった。するとちょうど土方副長が部屋から出てきて英と入れ替わるようになった。副長はどこかすっきりした表情を浮かべ
「斉藤、俺が見届けるから安心しろ」
と言った。
俺に与えられたのは御陵衛士を崩壊させる策を立てることと、それを終えるまで沖田に知られない様にすることだ。
藤堂の覚悟は理解している。永倉や原田の気持ちもわかる。あとの結末は…天のみぞ知る。
(見届けなくとも…俺はどんな結果でも受け入れることができる)
だから英の言う通り、任せても構わないはずだ。そして副長は「信じろ」と言っているのだから。
俺は「わかりました」と答えて副長の背中を見送った。


二刻ほど経って、屯所は俄かに騒がしくなった。英に沖田が深く寝入っていることを確認し、俺は部屋を離れて再び広間へ向かう。
すると醒ヶ井から戻ってきた原田は血塗れで、槍を持ったままの姿で隊士たちの前に立っていた。鬼気迫る表情と獰猛さを隠さない姿を見て、隊士たちは息を吞み、怯み青ざめる者もいた。さすがに池田屋を経験している古参たちは「やはり」と理解し、只事ではないのだと受け入れていたが、場の空気は凍り付いている。
原田の隣にいた永倉が高らかに声をあげた。
「御陵衛士、伊東大蔵を殺した。その骸は油小路七条の辻に放置し、これを餌にやってくるであろう御陵衛士を殲滅する。…ここにいる皆は上役の指示に従い、それぞれ近くに身を潜めその機会を待て…必ず、俺と原田、井上組長の指示に従え。良いな!」
「ハッ!」
永倉の発破に隊士たちが応じる。戸惑う隊士もいたが「応」と答える以外の選択肢などあるわけがない。戸惑いと不安を抱えながらそれぞれが組長の元へ集まるのを眺めながら
(伊東が死んだか…)
と案外何の感慨も湧かず、作戦の半分が無事に遂行されたことにまず安堵した。あの賢く麗しい伊東がどんな最期を遂げたのか…きっと騙し討ちのような真似をしたことに憤ったことだろう。俺はもし彼の最期に立ち会えたとすれば
(貴方は新撰組に入隊するべきではなかった)
と伝えるはずだ。毛並みが違う荒くれ者を従えるのに必要なのは、品の良い思想ではなかった。秀ですぎた伊東は居場所を間違えたのだろう。
そうしているうちに隊士たちがそれぞれ身支度を整えて組長とともに屯所を出ていく。状況を理解できている者が果たして何人いるのか…そう思いながら腕を組んで見送っていると身綺麗にした原田と永倉が通り過ぎていく。
「俺には藤堂は説得できなかった」
俺は彼らに言葉を投げかける。彼らの耳に入らなければ独り言でいいと思ったのだが、二人は足を止めた。
「…訂正する。藤堂のことは任せる」
本当は『任せる』という無責任な行為はあまり好きではない。だが英の言ったとおり『任せる』ということが『信じる』という意味であるなら、彼らなら藤堂を助けられると信じていることに間違いはない。
二人は少し顔を見合わせたのちに、口元をほころばせた。
「ああ、任せろ!」
原田は白い歯を見せて片手を振り上げて去っていく。永倉は何も言わなかったが、まんざらでもない顔をして背中を向けた。
伊東とともに殉じたい藤堂と、仲間として守りたいと願う食客たち。彼らが過ごしてきた時間と、行き違ってしまった気持ちがどうにか交錯して伝われば良い。
(俺は…全部終わった後に、それを受け止める)
どんな結果になったとしても、彼らが選び取ったものを尊重する。
俺が見届けるべきは、それだけだ。






10


沖田が目を覚ましたのは、偶然ではなくて必然だったのだろう―――そんなことを思いながら背中越しに喀血した彼がゆっくりと息を吐いて呼吸を整え、落ち着くのを待った。

すでに屯所はがらんとしていて数名の隊士のみを残し油小路へ向かっていた。きっと今頃は伊東の遺体を引き取りにやってくる御陵衛士を今か今かと待ち構えている頃だろう。
俺は沖田が深く寝入ったのを確認し、少し部屋を離れ、英も休息のため仮眠を取っていた…そんなときに、何の虫の知らせか、沖田は目を覚まし部屋を抜け出して小姓から断片的な事情を聞き出してしまっていたのだ。副長はすべてことを終えるまで彼の耳には入れたくないと言っていたが…実際、それが無茶だったのだ。いつかはこうして何もかもを知ってしまうことになるのだから。
しかし、彼を油小路へ行かせるわけにはいかない。混乱した沖田は意固地になって屯所に留まることを拒んだが、『行ったところで間に合わない』『吐血して足手まといになる』…俺がはっきりと断言するとみるみる顔色を変えて、表情は引きつっていた。力づくで出ていこうとする彼を何とか捕まえて、留まらせるために俺は言葉を紡いだ。
『何も背負わなくていい』
『絶対に、あんたのせいじゃない』
『行かなくていい』
本心からの言葉だった。
沖田は仲間が死ぬことに責任を感じるだろう。けれど陥れるための策を練ったわけでもなく、手を下すわけでもない彼が一体何を背負うべきだというのか。
(もう十分背負ってきただろう)
今でさえ重たすぎる荷物を抱えて、病と闘っている。だったらこれ以上はもう何も背負わなくていい…そう思うのは俺だけではなく、局長や副長、食客や隊士たちも同じはずだ。
最初沖田は刀を携えて何が何でも屯所を出ていくような勢いだったが、次第に力が抜けてその場に力なく膝をついた。油小路の方角へ頭を下げながら静かに涙を流し、俺に体重を預けてしばらくぼんやりと泣いていた。
俺は彼が「もういい」というまで待ち続けた。遠くで心配そうにしていた英や小姓たちは状況を察して去っていく。
もう沖田に何も言うことはない。
俺の役目はここまでで、あとのことは副長に任せるしかないのだから。



朝方になって隊士たちが屯所に戻ってきた。
顔面蒼白の原田や言葉少なく語る永倉から状況を察し、藤堂が死んだことを知った。藤堂は一度はその場を離れ生き延びることに同意したが、藤堂の顔を知らない三浦という隊士が逃げようとする背中を斬り付けた…という後味の悪い結末に俺は何も言えなかった。
(これが藤堂が望んだ終わりだったのか…)
続いてやってきた山崎は永倉よりもより客観的に状況を把握していた。予想以上の抵抗に遭い、多くを取り逃がしてしまい、挙句衛士は新撰組が手出しできない薩摩藩邸に逃げ込み、保護されているとのことだ。その場にいなかった腹心の内海や手練れの阿部も生き残っているとのことで、まだ楽観視はできない。
山崎と一通りの情報共有した後、彼は医学方として隊士たちの怪我の手当てに向かった。広間には十数名の怪我人がいて、特に最後まで抵抗した服部には多くの隊士が手を焼いたようだ。山崎とともにてきぱきと手当てをしている英は、少し機嫌が悪そうだった。
(一日中沖田に付き添わせたうえ、怪我人の手当てまで任せてしまったな…)
そもそも俺が彼を引き止めてしまったことが原因なので、あとで彼が満足するまで埋め合わせをすべきだろう。そんなことを思いながら、俺は人目を避けつつ屯所を出た。
ここ数日の冷え込みは収まり、今日は晴天に恵まれるようだ。しかしまだ足元の薄氷を解かすほどではなく、しゃりしゃりと歩くたびに音が鳴りすでに溶けだした冷たい氷水が足裏から伝わってくる。
俺は目深に傘を被り、早足で屯所を出た。隊士に見られても構わなかったがこれ以上の面倒は御免だ。人目の少ない道を選びながら目的の場所に向かうと、だんだんと人出が増えてきた。顔色を悪くした女たちがひそひそと耳打ちし、無粋な輩が好機の目をして怖いもの見たさに興奮する…そんな野次馬たちが遠巻きに見ているのは、油小路に横たわる四人の遺体だ。俺は野次馬たちの肩越しにその光景を目に焼き付けた。
伊東は端正な顔を崩すことなく目を閉じていた。切り傷は多少あるが、その横に横たわる四肢すらはっきりとしない服部に比べれば随分マシだ。そして毛内は険しい表情のまま息を引き取り、苦悶の最期が見受けられる。そして藤堂は…
(笑っているのか…?)
角度や見え方の問題なのかもしれないが、まるで穏やかに眠るように藤堂はそこにいた。悲惨さも哀れさもなくただそこで静かに眠るように息を引き取っている。
「なんや物騒やなぁ…」
「壬生狼か?」
「こりゃ人でなしの所業やなぁ」
無責任な野次馬たちの勝手な推測が耳に入るなか、俺は藤堂が見覚えのある羽織を着ていることに気が付いた。それは藤堂家の家紋が刻まれたあの時の羽織だ。生まれた場所に興味はないといいながら母親を思い出し、懐かしそうに目を細める彼の横顔が妙に焼き付いている。
(これで満足したか?)
俺は心のなかで、空になった藤堂の骸に話しかける。
藤堂は新撰組の襲撃があるとわかってここに来た。彼が説得を受け入れ逃げ出そうとしたとき、心のなかで何を思っていたのだろう。単純に命が惜しくて逃げ出そうとしたのではなく、魁先生らしく、その先を見据えて真っすぐに走り出したはずだ。不運な行き違いで命を落とさなければ彼は生きて、この無残な光景を見たのだろう。
きっと憎しみが募るはずだ…だとすれば、藤堂がここで命果てたことは彼自身にとって悪い事ではないのかもしれない。純粋な彼にとってかつての仲間を憎み続けなければならないのは、心苦しいはずだ。
かつて藤堂は新撰組ではなく、試衛館に戻りたいと言った。ずっと仲間の絆を求めていた彼にとって永倉と原田に看取られたことは望んでいた終わり方だったのかもしれない。
(都合の良いように考えすぎだな…)
藤堂のあの安らかな死に顔だけが、すべての答えだ。
俺は目を閉じて手を合わせる。すると役人がやってきて「散れ!」と野次馬たちを脅し始めたので、俺も屯所に戻ることにした。






11



油小路の顛末について沖田は受け入れたようだ。
土方副長が醒ヶ井から屯所に戻り、彼の部屋にやってくる。待ち構えていた俺は己の任務を全うできなかったことを詫びたが、どちらにせよ覚悟を決めていた副長は俺を責めることはなかった。俺はその後、外から様子を窺ったが沖田は冷静で淡々と話し、感情を昂らせることもなく除け者にされたことを問い詰めるわけでもないようだった。
やがて話し合いは終わり、沖田は一人で部屋から出てきた。
「副長は…?」
「眠ってます。よほどお疲れだったんでしょうね」
微笑む顔はまるで憑き物が落ちたかのようにすっきりとしていた。真実を知った後に考える時間は山ほどあった…沖田は自分の感情を整理し、伝えるべきことを副長に伝えたのだろう。
彼は背伸びをして
「ああ、なんだか腹が減っちゃったな。泰助に不器用なお握りでも握ってもらおうかな…」
と背を向けたので「待ってくれ」と引き止めた。
「何か?」
「…騙すような真似をして悪かった」
「騙す?」
「英を屯所に留まらせたのは、付きっ切りで看病させるためだった」
沖田は「ああ…」と合点がいったような表情を浮かべたが
「なんだか英さんに悪かったですね」
と笑って続けた。
「きっと土方さんに命令されたんでしょう?怪我人に見張りをさせるなんて人使いが荒いですよね」
「いや、俺も納得したことだ。あの現場は…沖田さんが関わるべきものではない」
「…行ってきたんですか?」
目ざとい沖田が俺の言葉尻を捉える。俺が頷くと、一瞬痛ましいような寂し気な表情を浮かべたが、それでも持ち直すようにまた笑って
「やっぱり…何か食べてきます」
と去っていった。
俺はその後姿を見つめた。
昨晩の彼にあった絶望感はまるでない。御陵衛士殲滅に関われなかったという虚しい現実や作戦すら伝えられなかったという悲壮感が消え去り、彼が何もかもを受け入れて穏やかに受け答えする様が、いつも通りではあるが、まるで自分のなかのこだわりを手放したように見えて…俺には何故だか別人のように感じた。



その数日後。
沖田が局長とともに道場へ向かう姿を見かけた時、局長は穏やかだったが沖田の顔は神妙に引き締まっていて、漠然と後を追った。すると、島田が慌ててやってきて
「沖田先生が人払いをと…」
と引き止めた。俺の予感は確信へと変わり「邪魔はしない」と約束して、気配を消して近づき道場の入り口で身を潜めた。二人は誰もいない道場で稽古着で向かい合い、しばらく江戸にいた頃の話題で花を咲かせた。沖田が局長へ向ける信頼と尊敬の気持ちをひしひしと感じた。以前、土方副長が沖田にとって一番は局長であり、副長と俺との間には大きな差はないと語っていたが、沖田にとって局長は師匠であり、兄であり、親なのだろう。
そうしていると何の用事があったのか副長も道場にやってきたが、俺の様子を察して無粋に道場に顔を出すことはなく、隣で腕を組んで聞き耳を立てることにしたようだ。
二人は稽古を始める。荒い息遣いと竹刀のぶつかり合う音、地を鳴らすような足音でしか様子を窺うことはできないが、圧倒的に局長が圧しているのだろうということはわかった。労咳を発症する前の沖田なら、もたついた足さばきや、こんなに軽い竹刀の音を響かせることは決してなかっただろう。これが彼の限界であり全力だというのなら、俺と撃ち合ったあの夜よりも腕は落ちていると言わざるをえない。副長も同じことを思ったのだろう、だんだんと表情が厳しくなっていき、苦悩しているようだった。
やがて沖田は呼吸もままならなくなっていくが、懸命に局長へ向かい続ける。
(なぜ、こんなことをしているのか…そんなことは考えればわかる)
俺は敢えて目を閉じて、道場のなかの様子を想像する。耳を研ぎ澄まし彼の―――最後の剣を感じとる。
…沖田は局長に引導を渡してもらいたいのだ。発症し、己の身体と向き合い、油小路を経て現実を知った。もう使い物にならない…彼に言わせれば明確に『役立たず』であることを自覚した。あの夜の俺の言葉も責任の一端であるかもしれない。
けれど、彼は自分が選ぶ取るべき道がわかっていても、一人では選べなかった。
それは幼少の頃から口減らしとして働き、『求められる』ことで自分を認めていたせいか、『必要でなくなる』ことへの恐怖が大きかったのだ。それは心の穴として深く刻まれ埋められることはない…だから局長の『言葉』が必要だったのだ。
「ここまでにしよう」
彼らにとってとても短い時間だったのかもしれないが、傍から様子を窺っていた俺たちにとっては長く感じた。おそらく局長はほとんど息も上がらず、いなすだけだったのだろう。
沖田は何かを言いかけたが、局長がそれを止めた。そして
「お前はもう、ここまでだ」
と告げた。言葉自体は師匠と弟子の関係からすれば重たいものだったが、局長は穏やかで、母が子に諭すような口調だった。
しかしその言葉を聞いた途端、隣にいる土方副長の表情はさらに強張った。俺は試衛館で過ごした時間は短く、壬生浪士組に加入してからの付き合いだ。そんな俺とは比べ物にならないほど、三人は長い時間を家族のように過ごし、ともに生きてきた…天賦の才を持ち、誰からも称賛された自慢の末っ子に無情な宣告をしなければならない幼馴染の苦しさと、それを受け入れなければならない沖田の気持ちに挟まれているかのようだ。
局長は嗚咽を堪えながら自分のせいにして剣を置けと言い、沖田は自分でもわかっていたことだと話し、感謝を伝える。
「先生が泣いてくださった。自分を惜しいと思って泣いてくれる人がいる…それが誰よりも尊敬する先生であることが、私にとってとても、誇らしくて、幸せです」
沖田はそう言って、療養に専念すると告げた。
療養すべきだと思っていた俺は肩の荷がおりるような気持と同時に、もうあの清々しい太刀筋を見ることができないのかと素直に残念に思った。どんなに彼の目鼻立ちが整っていようとも、曇りのない目で相手を見据え、邪心のない構えで剣を振るう時ほど美しい姿はなかったのだ。
(あの剣になら殺されてもいいと思った…)
副長は深く深呼吸して呼吸を整えた後に、道場へと入っていった。
「もう泣くな」
彼自身の複雑な胸中はあったはずだが、その言葉は局長の幼馴染として、また沖田の恋人としての優しさで満たされているように聞こえた。
俺はこれ以上、聞き耳を立てる気にはなれずに足音に気を配りながら道場を去る。しかし部屋に戻る気持ちもなく、そのまま屯所を出た。朝方凍った地面が陽の光で溶かされて、土と混じって下駄を汚す。
町の雑踏に紛れながら自分の万全ではない身体や御陵衛士の報復は思考になく、俺の脳裏には沖田の言葉がずっと繰り返されていた。
『自分を惜しいと思って泣いてくれる人がいる…』
『私にとってとても、誇らしくて、幸せです』
心底、それが幸福だと語る沖田に
「…鈍感すぎる」
俺は呟く。
彼はきっと知ることがないだろう。
副長が目頭を押さえていたことに。
道場から漏れ伝う雰囲気で島田や山野といった配下たちがすべてを察して泣き暮れていることに。
彼を惜しいを思って泣く人は局長だけではない。
彼はきっと知らない。
「斉藤さん?」
俺の目の前にはいつの間にか英がいた。往診の途中なのか、手には風呂敷を抱えていて不思議そうに俺の顔を覗きながら
「どうして泣いているの?」
と聞いたのだ。







12


いつ、どんな季節でも、鴨川の流れは変わらずに続いている。
大坂の淀川へと繋がるこの川へを投げたいと思ったのは、若様が薨去されたことを耳にした時だった。何者でもない俺に生きる意味を与え、烏滸がましくもその存在が道しるべとなった…その神々しい光を失った時に胸に去来する絶望は、身構えていても耐えきれぬ痛みだった。結局は沖田が手を差し伸べ俺はこの川へ身を投げることを止めたが、もうひとりその痛みを知る者がいる。

「…で、どうかした?」
「どうもしない」
「泣いてたのに?」
「泣いていない」
俺は英の質問に即答する。欄干に身を任せながら視線はただただ流れゆく川に向けられていた。今宵は月明かりで水面が光って見え、それは絶え間なく続く。
英は「ふうん」と意味ありげに口を窄ませたが、それ以上は追及せず「じゃあなんでこんなところにいるの?」と話を変えた。『たまたま』とか『何となく』とはぐらかすとますます面倒になる気がして
「…気が楽になるからだ」
と答えた。それは本音だったが、理解できなかったのか英は首を傾げる。
「何ら日常の光景でしょう?」
「変わらないからいい。自分に何が起ころうと、水はただ上から下へ静かに流れ続けている…それを見るだけで楽になる」
英は俺と同じように欄干に身体を預けながら何も見えない真っ暗な川をのぞき込む。そして少し考え込んだ後に
「そういうものかもね」
と理解を示して微笑んだ。
英は人の機微に敏感で、ある一定の境目までは踏み込むけれどそれ以上は聞き出すような無理強いしない。心地よいところで会話を切り上げて、相手の言い分を理解して受け止める…それが俺を不快にさせないのだろう。
俺は川面から英へ視線を戻した。
「…また往診か?」
「うん、そう。突然産気づいたおなごがいるっててんやわんや…さっき無事に生まれて、産婆に任せて帰るところだった」
「赤子も取り上げるのか?」
俺は病や怪我を診ている英しか知らなかったので意外だったが、彼にとっても珍しい出来事だったようで表情が綻んだ。
「普段は南部先生や姐さんの助手だよ。でも今日は手が足りなくて…難産ってわけじゃないけど、良家の娘の初産だったから呼ばれてさ、産婆が間に合わなくて取り上げさせてもらったんだ。…でも、悪い経験じゃなかった。生まれたての赤子があんなに小さくて、弱弱しくて、頼りないなんて思わなかった。なんだか手が震えたよ…でもそんな赤子が耳をつんざくような大音声で泣くんだ、母を求めてね。そして母親に抱かれた途端、安心して…本能だよね、あれは」
…俺には経験のないことでなかなか想像できないが、英は嬉しそうに冗長に語る。散々、病や死と向き合ってきたからこそ、喜びの塊のような瞬間に立ち会えたことは彼にとって特別なことだったのだろう。
俺が黙って聞いていると、英は「話過ぎた」と少し照れ臭そうに微笑んだ。今までみた彼の微笑みのなかで一番自然なもののような気がした。
「だから…誰だって赤子の時は泣く。泣いたことのない人なんていないよ」
「…」
遠回しな言い方をした英に俺は何も言わなかった。そのかわりに
「沖田さんが剣を置くそうだ」
と伝えると「えっ」と英は表情を変えた。
「自分の限界はとっくにわかっていたはずだ。…療養に専念すると言っていた、そのうち本人から話があるだろう」
「そう…そうか。うん、じゃあ…姐さんが喜ぶよ」
「お前も喜ぶだろう?」
「…そう思っていたけど、そうでもないみたいだ」
英は苦笑して、また川面に視線を落として続けた。
「奇跡…みたいなのが、見てみたかったのかもしれない。このまま何も捨てることなく根治したらいい、なんてちょっと気楽に思ってた。医者としては失格かもしれないけど」
「いや…俺も同じことを考えていた」
病を知った時、療養すべきだと思ったのに、剣を置くと聞いた今となっては惜しいと思う。自分勝手で独りよがりだが、彼が本当に病人となってしまうのが受け入れ難いと思うのだ。
「…でも生き続ける限りは希望はある。たとえば西洋から良い薬が入るかもしれないし、突然良くなるかもしれない。そうしたらまた剣を持てる。いま何もかも諦めなくても良いはずだ」
「ああ…そうだな」
英の慰めは本来なら沖田に伝えるべきものだろうと思うが、俺にも沁みた。
何も悲嘆に暮れることはない。彼は病を良くするために療養するのだから、周りが嘆いても仕方ないだろう。
それに本人も語っていた。
『その信念だけが諦めと闘う武器なんです』
剣を持たなくとも、技を磨かなくとも彼には信念がある。彼自身と彼の周りのひとびとを悲しませないために、必ず生き続ける。
俺は友人のひとりとしてその選択を後押ししたい。そしてもし彼の時間が残り少ないのなら同じ光景を見て、その気持ちに触れていたい…そう願っている気持に変わりはないのだ。だから遠くばかりを見つめて悲しまなくとも良い。目の前の幸福に向き合って、ひとつづつ積み上げていくことが何より後悔しないはずだ。
「…帰る」
俺は気持ちの整理がついた気がした。きっと沖田の顔を見てもいつも通りに接せられる…彼の一番親しい友人として、彼の選択を受け入れられる。
すると英が言った。
「もう慰めなくていいの?」
「…なにが?」
「前はここで慰めてあげたでしょう?」
冗談めかして、かつての雨の夜を揶揄する。あの時は無遠慮に無関係な英にわけも話さずに乱暴をした。陰間故かその後特に咎められることはなかったが、どうやら彼にとってあれは『慰め』だったらしい。
(俺は借りっぱなしだな)
最初は警戒すべき人物だと思い近づいたのに、いつの間にかともに酒を汲みかわし、やがて一大事に力を借りるまでの関係に到った。少々、手強い一面があるが彼のしなやかな強さは時に俺の拠り所でもある。
「必要ない」
「…そう…残念だな」
夜風が彼の髪を靡かせ、一瞬火傷の痕が月明かりに照らされる。もうすっかり彼の一部になって違和感はないが、本人が本音ではどう思っているのかはわからない。そして「残念」と語る彼の本心もまた月の光が雲に隠れるようにわかりづらい。
(俺は少し、それを知りたいと思う)
そんなことを考えたせいだろう、つい
「…お前は、俺をどう思っているんだ?」
と訊ねてしまった。
英が珍しく面食らって「え?」と聞き返す。俺はもう一度言うのは億劫に感じて
「…いや、なんでもない。いつか、溜まっている借りを返す」
と言い残して背中を向けた。
(一体、何故あんなことを聞いてしまったのか…)
合意しているわけではないが、互いに不可侵な話題だったはずだ。
俺は己を責めながら逃げるように早足で歩き、不動堂村の方向へと橋を渡り切り、少しだけ振り返る。
すると英は欄干に背中を預けて、ぼんやりと月を見上げていた。
彼はかつて天女と呼ばれていた陰間であったが、なるほど確かにと思った。この世の者とは思えぬ性の垣根を超えた麗しさと、触れてしまえば消えるような儚さが混在していて、まるでこのまま天へ戻ってしまいそうに見えたのだ。



俺は本来の姓である『山口』を名乗り、沖田の配下である一番隊を率いることとなった。
最初、局長と副長からその話を聞いた時には、自分にはその資格がないと思った。一番隊は新撰組の花形で象徴なのだ…今まで表舞台で誠実に生きてきたことのない俺には不似合いだ。しかしそれが沖田自身の願いだと知り、本人から
『私の大切な財産である彼らを預けられるのは、私の大切な友人の斉藤さんしかいないって思うんです』
と聞かされては、断ると彼の気持ちを蔑ろにしてしまうと思いなおし、納得した。荷が重いのは間違いないが、その重さもまた彼の思いを背負った上のものだと思えば、励むしかない。
沖田と酒を酌み交わした翌日、俺は副長の元へ引き受ける旨を伝えた。副長は俺が最終的には引き受けるとわかっていたのだろう、「局長に伝えておく」と頷いた。
「お前は裏の仕事からは身を退くと言っていたが、いまは政局が混乱している。任務外でお前の手を借りることもあるだろうが…」
「構いません。徳川や会津との繋がりは残していますし、命令を受ければその通りに動きます…ただ、これ以上新撰組から離れる気がないだけです」
「…やはり、お前は変わったな」
副長は俺の顔をまじまじと見る。
それは俺にも自覚があった。今までは風の吹くまま、根無し草のまま生きてそれを自由だと思っていた。敵か味方かわからない…伊東が俺を御陵衛士に引き入れたのも、俺の根底にある曖昧な生き方を感じ取っていたのだろう。俺も一生を新撰組に捧げるつもりなどなかった。
けれど、今の俺にはそれはない。俺は忠誠と親愛を向ける者のために生き、彼が託してくれた一番隊の誇りを汚さない生き方を貫くと決めたのだ。新撰組に命を賭けて、ここを最後の場所とする…その気持ちは決して揺らがない。
俺を変えたのは、沖田と、そして…
「…人が変わったとすればそれは藤堂から影響を受けたのだと思います」
あの無邪気で感情豊かな青年の、愚かなほどに真っすぐな生き方を目の当たりにして、少しの煩わしさと少しの憧れを感じた…そしてもう少し人として、素直に生きても良いのだと思えた。それが俺を変えたのだろうと思う。
副長は「そうか」と穏やかに微笑んだ。


















あとがき
徒花シリーズ『カルニング』、最後までお読みいただきありがとうございました。
カルニングとは、『クルニング』とも言うそうで、北欧で家畜を呼んだり害獣を追い払ったりするときに歌う、美しい歌だそうです。
今回、斉藤は御陵衛士から新撰組に戻り、この先そこで生きていくことを覚悟する…というお話でした。単純に総司に呼び寄せられるように戻ってきたというあらすじではあるのですが、実は藤堂や英によって自分の還るべき場所というか、いるべき場所を示されたという意味合いも含めてこのタイトルになりました。
本編の補足が多かったのですが、実は彼なりにいろいろ葛藤があって、でも英の助言や藤堂の生き方死に方に刺激を受けていました。でも斉藤の気持ちは揺らがず総司なんですよね~(笑)
英と斉藤の関係についてはまた今後も書いていきたいと思いますので、楽しみにしていただけるように、本編も頑張りたいと思います!
最後までありがとうございました。