Ironical temptation
アイロニカルの誘惑



彼にとっては何の特別なこともない、出来事だったのだろう。


アイロニカルの誘惑


「島田さん、きょろきょろして、どうしたんです」
巡察の前。俺がそわそわとして落ち着かない様子でいると沖田組長が不思議そうに尋ねてきた。
前川邸の雪解けでようやく日常を取り戻しつつある皆だったが、俺はいまだにあの戸惑いを忘れられないでいる。あの夜。女と過ごすはずだった場所で、俺はなんと同僚である山野に奉仕を受ける…というとんでもない事態に遭った。俺はひどく酔っていたが、彼はそんな風に見えなかった…つまり正気で、あんなことをしたのだ。
でも、俺の脳裏に残る彼は、とても扇情的でやらしくて…もともと美男だという話だが、いつもよりも色めかしく見えて。どうしようもないことに俺はあの時のことを興奮とともに何度も思い出してしまっていた。さっさと部屋を出て行った彼を何故強く引き留めなかったのか、と後悔してしまうほど。
「いや、何でも…ないっす」
心配そうに俺の顔色をうかがう沖田組長。納得はしてくれていない様子だ。
沖田組長に挙動不審にみられるのは、俺が山野の姿を探してしまうからなのだろう。幸運か不運か彼とは同じ隊であるから大体勤務は一緒だ。加えて勤務の時ではなくても彼の姿を見かけるだけで胸騒ぎを覚えてしまう。
しかしそんな俺とは正反対に、彼は何の反応もなかった。むしろ俺を避けるかのようにあれから一言も話はしていない。逃げられている、というのが正しいのかもしれない。
『島田先輩は忘れてください』
彼はその言葉通りに俺がしてくれるのを望んでいるのだろう。だからこんな風に彼の姿を探すのは迷惑でしかないはずなのに。
「誰か探してます?」
普段は天然で穏やかな沖田組長が察しの良いことを言って、俺は酷く狼狽した。
「い、いや!そんな…!」
「まだ揃ってないのは、浅野さんと…山野君かなあ。あ、きたきた」
沖田組長の視線の先に俺も目を向けた。浅野とともに山野が歩いてこちらにやってくる。どんどんと近づく彼。視界に入る彼の整った顔立ち。
…俺は、その端正な顔が酷くやらしいことを知っている。
「…っ俺は、馬鹿か…」
「ん?何か言いました?」
「い、いえ。大丈夫です!」
沖田組長は尚も「ほんとかなあ」と訝しがっていたが、全員そろったので仕事に出かけることとなる。
大丈夫なわけない。
俺はどうやら、彼にはまりかけているのだから。

いつもの道順で巡察に出掛ける。有難いことに伍長として沖田組長の次に隊を纏める役目を与えていただいている俺は沖田組長の隣を歩く。言葉にすればとても重要な役目のようだが、実際は沖田組長が「あそこの甘味屋が美味しそう」だの「お腹がすいた」だの言っているのを聞くだけなので特に緊迫感はない。
沖田組長の話を聞きながら俺はちらりと後ろに並ぶ山野を見た。まだ入隊してまもない彼は先輩である他の隊士と話をしながらついてきている。
(…ああ、可愛いよな…)
すっきりとした目元。整った鼻梁。形の良い唇。他よりも白い肌。清純な雰囲気なのに愛嬌があるのは彼の性格のお蔭なのだろう。隊でも先輩に可愛がられる隊士だ。…それなのに、あの夜の彼は酷く冷たく俺のあしらって去って行った。どちらが本当の彼なのだろうか。
「まーた、きょろきょろしてる」
「えっ!?」
隣の沖田組長が少し拗ねた様子で俺に声をかけた。山野ばかりをちらちらとみていた俺は(気づかれた?!)と動揺したのだが
「好みの女の人でもいたんですかー?」
とからかわれたので安堵した。俺は「まあそんなところです」と一応それを肯定しておいた。
山野も美男だと噂されるが、沖田組長もそうだ。どうやら土方副長とそういう関係になっていたり、なっていなかったりするようだが、最近の懇ろな様子を見る限りでは進展があったのではないか、と愚鈍な俺でも察してしまう。だけど、だからといって沖田組長に山野に向けるような視線を向けるか、というとそんなことはない。だからきっと俺は別に衆道の人間ではないのだと思う。彼だけが俺をこんなに動揺させるんだ。
「そういえばこの間のことですけど」
沖田組長が話を切り出した。
「この間、というと…?」
「ほら、山南さんとみんなとで飲みに行ったじゃないですか」
…普段は昼行灯なところもある沖田組長なのに今日は俺の心を読んでいるんじゃないか、と疑ってしまうほど敏感な話題を振ってくる。まあ、たまたまなのだろうけれど。
「え、ええ。はい」
「あの夜は良い人でも見つけたんですか?山野君もいなくなっちゃって、売れ残った私たちは退散しちゃったんですよ」
「えー…ああ、まあ、そんなとこ、ですかね…」
俺は頭を掻きながら曖昧に答える。
目が覚めて山野とことに及んでしまってからのことはよく覚えているのに、その前にどうして山野と二人であの部屋にいたのか、それは全く覚えていない。俺が先輩風吹かせて強引に誘ったのだろか…。それを知っているのもきっと山野しかいないのだろう。
(話がしたいな…)
改めて謝罪をするなり、経緯を聞くなり…とにかく彼と話がしたい。俺はまたちらりと山野を見て、やはり沖田組長に不思議な目で見られたのであった。


と、まあ俺がそんなことを思っているのを知っているのか知っていないのか。機会は案外早く訪れた。
「島田先輩」
俺たちが巡察から戻り次の勤務までの自由時間となると彼はすぐに声をかけてきたのだ。その予想だにしない出来事に俺は「お、おう」とやはり挙動不審に答えてしまった。
「お話があるんですが」
「あ、ああ…わかった」
他の連中とは違う、少し低めの声。それはあの夜に似た響きだった。
俺たちはすぐ近くの壬生寺に訪れた。夜も近い時間だったので普段遊んでいる子供たちも家に戻り、誰もいない。俺たちは境内のほうまで進んだ。何となく誰かに見えられたくないような気がしていたからだ。
「それで…話って」
先輩である俺が促してやると、山野は少し不機嫌そうに
「この間のことです」
と切り出した。
「別に酔って間違いを犯したというわけではないのですから、島田先輩が気に病むことはないんです。だから、僕は忘れてくださいと言ったはずです」
山野は念を押すように言った。
「いや、別にそういうことで…」
「じゃあ仕事中にこちらをちらちら見るのはやめてください」
…どうやら気づかれていたようだ。俺は羞恥のあまりのた打ち回りそうになり(死にたい…)と本気で思った。
「…その、どうしても…気になることがあってだな…」
「何です」
苛立った様子の山野は俺に詰め寄る。近くで見る彼の顔が、俺にはものすごく、目の毒だった。
「あの夜…何で、ああいうことになったんだ?」
「え…」
「いや、その、俺が強引に誘ったのかなと思ってだな…」
だとしたら、やはり山野には謝らなければならないと俺は思っていた。新入隊士の身分では俺に逆らうことができずに、どうしようもなくあの夜を過ごしてしまったのだとしたら俺は「士道不覚悟」で切腹に値するだろう。土方副長に山野が訴えれば俺は切腹を覚悟しなければならないだろうし、そうするのが当然だとそこまで考えていた。
しかし山野は
「そんなの…どうでもいいじゃないですか」
とそれまでの強気な態度を崩した。
「どうでもいいって…お前な、どうでもはよくないだろう。遠慮しないで言ってくれ、俺が何か…」
「だから、どうでもいいんです」
「しかし…」
「いいんですっ!」
山野は食い下がって、ついには大声を上げた。今まで聞いたこともない声は壬生寺に響き俺は驚いたが、しかし彼はすぐに「すみません」と謝った。
「とにかく…島田先輩は何事もなかったようにしてください。僕もそうしますから」
そう言って去ろうとする。しかし俺は彼の腕を掴んだ。
「ちょっと待ってくれ」
これでは何も解決してはいない。何もなかったかのようになんてできるわけがない。
(俺は…)
たぶん、彼のことが気になってしまう。この先も、ずっと。
「その…俺は…」
きっと、お前のことが――。
「もしかしてまたしたい…ですか」
俺の言葉を遮って聞こえてきたその言葉を、一瞬誰が言ったのか俺にはわからなかった。けれど壬生寺には俺たち以外誰もいないから、きっと山野が言ったのだ。
「え…」
「いいですよ。僕だってあの夜はすごく良かったし…島田先輩もそうなんですよね」
急に色っぽく俺の目を見た彼は、別人のように妖艶だ。あの、夜のように。
「山野…?」
俺の口を塞ぐように彼の唇が重なった。形の良いそれが、年下なのに俺を翻弄してくる。でもそれは決して嫌じゃなくて、むしろ俺が彼を喜ばせてやりたいとそんな風に誘われていく。俺は彼の背中に手を回して引き寄せた。重なった身体をかき回すように彼に触れる。
「…っ、…先輩、やらしい…ですね。、こんなところで……っ、誰かに…」
「っ、それは…お前が、」
「そうです…ね、僕が少し誘っただけで…すぐに、こんなになっちゃうん…ですよね…」
山野はこんな時でさえ余裕ぶって皮肉っぽく俺を笑う。年下のくせに何だか手のひらで踊らされているようだ。
でも今日は、酒なんて飲んでいない。酔ってなんかいない。だからきっと言い訳なんかできない。それは俺だけじゃない。山野も同じだ。
「…畜生、駄目だ…」
「っ?」
でも、それでも、いい。嫌われてもいい、罵られてもいい、謝らなくてはならなくなってもいい。
「…っ、ぁ…」
「山野…」
あの夜で俺は変わってしまったんだ。
お前が好きだという気持ちが、芽生えてしまったんだから――この気持ちを、嘘が付けない俺は認めるしかないんだ。