Ironical capricious
アイロニカルの気まぐれ



猫がふらりと遊びにやってくる。ごろごろと愛想を振りまき餌をねだり満足し、やがて姿を消す。お前のことを大切にしたいと言っても聞かず、背中を向ける。きっと彼も同じなのだと思う。


アイロニカルの気まぐれ


ぺろぺろと小さなその舌で懸命に舐める。その彼の姿は扇情的で、俺のなかにあった「何か」を燻った。その「何か」はつい先日まで俺の中になかったものだ。彼が芽生えさせて、俺が育てた感情。
「もう…いい」
俺は山野の頭に手を置いた。すると山野は咥えていたものから口を離し、軽く手で拭う。
今日は高瀬川の向かい、木屋町にある茶屋へ来ていた。茶屋と言っても、普通の料理屋ではなく『出会茶屋』。男女が…その、ナニをするための茶屋だ。俺自身は入ったこともなく、もちろん男同士で入れるとも知らなかったのだが、山野曰く、ここは男同士が利用することもできる茶屋なのだと言っていた。まさか屯所でことをいたすわけにもいかずだからといって外で関係を持つわけにもいかず…俺たちは専らこういった茶屋で行為に及んでいた。
しかし彼がこういう場所を知っている、ということに俺は些か引っかかっていたりする。彼は他の誰かとここに来たことがあるのだろうか…。そんなどうしようもないことを考えてしまうからだ。
「後ろ…向いて」
俺の言葉に山野は抵抗することなく頷いた。そして着崩れ仕掛けていた着物を直し、俺に背を向けた。
山野はその衣服を絶対に脱ごうとはしない。どんなに激しく荒々しい行為に及んだとしても彼は衣服を脱ぐことを嫌うのだ。その理由は俺にはいまいちわからないが、問いただそうとは思わない。原田組長ではないが、隠しておきたい傷でもあるのかもしれない。
俺は自分の指先を舐めた。そして唾液をまとわせた指を彼の後孔へ滑らせる。すると彼は「んっ」と小さく声を上げて少しだけ身を震わせた。
「…痛いか?」
俺の問いに山野は首を横に振って答えた。しかしたとえ痛くとも彼がそう言う風に答えることを俺は知っていた。だから痛いだけでは嫌だろう、と俺は彼の屹立したものを握って自分にするように擦りあげる。
「あ…っ、い、や……だ…」
そしていつも彼はそれを嫌がる。気持ちいいと身体は訴えているのに、感情はそれを伴わない。いつも俺だけ良ければいいと、言う。
(だから…わからない)
「しま…せんぱい…」
彼が涙を溜めた目で俺を見る。
「はや…く…」
早く、入れてほしいとせがむ。その姿が、愛らしくて、健気で、それでいて妖艶で。
「…山野…っ」
俺は簡単に絆されて、惑わされてしまう。
こんな俺のことを、彼はいったいどう思っているのだろうか。単純で、馬鹿で、そして滑稽だと思っているのではないだろうか。
こんなに繋がって、こんなに身体を共有して、こんなに触れ合っているのに。
彼のことが何もわからない。彼が自分のことをどう思っているのかさえ、わからない。

茶屋から覗く空が少し暗くなってきた頃、ようやく行為が終わり俺たちは息を弾ませて横になっていた。
「…もう、帰らないと」
山野がそう言ったものの、俺は返事をしなかった。
彼は行為が終わるといつもその姿を変える。さっきまで俺の身体の中で可愛くねだってきていたのかが嘘のように、冷たい言葉に戻るのだ。それはまるで先輩と後輩さながら。
「…なあ」
「はい?」
俺は彼の手首を取った。細く白い手首だ。
「俺と…寝て、気持ちいいか?」
「……ええ、気持ちいいですよ。島田先輩は違うんですか?」
少し間をおいて答えた彼は、どうしてそんなことを聞くのか、という顔をしていた。
「俺は……気持ちいいけど」
「だったらそれでいいじゃないですか」
山野は突き放すように返事すると、俺の掴んでいた手首を解いた。まるで増えあうことを拒むかのようだ。
「だったらそれでいい…か」
何がいいのだろう。
気持ちよくなっても、気持ちが曖昧なままで、すれ違ったままなのに。彼は一体、何を指して「いい」と言っているのだろう。
「先輩、時間ですよ」
いくら今日が非番とはいえ、夜には戻らないとならない。許可のない泊まりは認められておらず、最悪脱走者として認識されてしまう可能性だってある。生真面目な俺はこの時間になると屯所に戻っていた。何かあって遅れてはならないという気持ちが強かったのだ。
しかし今日は何故かそういう気持ちになれない。気怠い身体が思考までも停滞させているのかもしれない。
「…」
俺は離された手首をもう一度握った。そしてその身体ごと引き寄せる。山野は驚いたように俺の顔を見て、しかしそのまま俺に組み敷かれた。
「先輩…」
こんな風に強引に彼を手中に収めると、途端に彼は甘く蕩けるような顔をする。冷たく接する山野はすっと消え去るのだ。
俺は唇を彼のそれに重ねた。すると彼は抵抗することもなく、抗うことなく、拒絶することなく俺の唇を受け入れる。
(わからない…)
どっちが本物の彼で
俺は一体どっちの彼と寝ているのだろう。


うららかな春の陽気。しかし俺は縁側でため息をついていた。
今日は仲良く接して貰っている原田組長のお供だ。原田組長が思いを寄せる女性、おまさのところへ行くことになっている。
『いいか、明日は俺とお前の二人だけで行くんだからな!』
原田組長は何故かそう念押しして俺に約束をさせた。そんなことをしなくても勝手に誰かを誘ったりはしないのだが、原田組長曰く『これ以上おまさちゃんに惚れられちゃ困る!』のだそうだ。俺は生真面目だからそういったことには疎いのだろう、ということで同伴を許されたらしい。おまささんとは何度か会ったことがあるが、原田組長の好みにしては意外で、家庭的で気の強そうな女性だ。しかし原田組長は彼女一筋のようだ。
「悪い、待たせたな」
俺が八木邸の門で待っていると、原田組長が小走りにやってきた。
「いえ、それほどは」
「そうか。それより、どうだ、今日の俺ちょっと違うだろ!」
原田組長は俺の目の前で腰に両手をあてて、胸を張った。俺は原田組長を頭の先から爪の先まで見た。
「…確かに、ちょっと小奇麗にされていますね」
…実際、いつもと変わらないような気がしたのだが。
「だろ??おまさちゃん、綺麗好きでさ、だらしないのが大っ嫌いって言ってたからよ」
「ははは…なるほど」
俺は苦笑いした。当てずっぽうで言ったことがあっていたようだ。おまささんも気が付くかどうかわからないな…と思いつつ、そして二人で仏光寺通りへ向けて歩き始めた。
「ところで、お前と同じ組の山野だけどよ」
「えぇっ?!」
俺はまさか原田組長からその名前が挙がるとは思わず、思わず悲鳴にも似た声を上げていた。すると原田組長は
「どうしたんだよ」
と顔を顰めて俺を見た。俺は慌てて「なんでもないっす」と全力で頭を手を振った。挙動不審すぎる、と頭では分かっていたが動揺が止まらなかった。
「まあ、いいけどよ…山野って顔が女みたいだよな」
「は…はあ、まあ…」
原田組長は世間話のように軽く言うが、そのセリフは実は彼自身一番気に入っていないようなのだが…
「まあ、だからって女じゃねえと思うんだけどな。稽古も熱心だし、打ち込んでくる一手も勇猛果敢だって総司の奴も言ってたし」
「え、ええ。沖田先生がそうおっしゃるなら、間違いないのだとは思いますけど…」
俺は曖昧な相槌を打った。原田組長は「そうなんだよなあ」と少し悩んだ様子で顎に手を当てた。何か言いたいことがありそうだが、俺は原田組長の意図が掴めず
「そ、それがどうか…?」
と促すように恐る恐る言葉を返した。すると原田組長が
「実はさ…俺の組下の奴で、山野が出会茶屋から出てきた所を見たって奴がいてさ…」
「え、…っ、げほっごほっ!」
俺は思わず咳き込んでしまった。原田組長が「大丈夫かよ」と俺の背中を摩るが、それどころではない。
山野が、出会茶屋から出てきた?
それは俺と一緒に…?
「あ、あの…それは、つまり…」
どう言い繕ったらいいのか。どういえば誤解されずに済むだろうか。……むしろ誤解ってなんだ?山野と俺がそういう関係になっているというのは別に嘘ではない。そして隊で男色が禁じられているわけでもないのだから、隠す必要もないのに。
「出会茶屋っていっても男色の茶屋らしくてさ、山野はそっちの人間なのかって噂になってるみたいなんだな」
「は、はあ…えっと、だからつまり…その…?」
「だからお前、何か知ってるかなーって。今日一緒に連れ出したのもなんかいいネタ持ってねえかなって」
「え…と」
…どうやら、俺の姿は目撃されていないようだ。用心深く時間をずらして茶屋に入っていたお蔭だろう。俺は少しだけ安堵したものの、しかし山野だけが噂のネタになってしまうのは何だか申し訳ないというか、居たたまれない。
「えーっと…その、別に山野がそう言う風な関係になっているという感じでは…ないような」
俺は嘘を付けるわけでもないので曖昧に濁すしかない。このまま話がうやむやになってしまえばいいと思っていたのだが。
「でも、実際何人かいるみたいなんだよな、山野と関係を持った奴って」
「え…」
その言葉に俺の思考は停止してしまった。完全に行き止った。
「それは…」
「ほら、男だらけの集団だから金のない平隊士はどうしてもそっちに走っちまうみたいだしな。ない話じゃないことは確かなんだよなぁ」
原田組長は「ま、土方さんと総司の関係だってそんなもんだしなあ」と快活に笑う。
しかし俺はうまく笑えなかった。むしろ青ざめてしまっただろう。
彼が俺の気持ちを受け入れる?
彼の気持ちが俺にはわからない?
それは、当然なのだ。だってこの関係は嘘で繋がった偽りの関係でしかない。彼にとって俺はそういう関係を持つ男のなかの一人なのだ。
これはただの気まぐれで、終わりの見えた、もともと行き止った関係。
俺はそんなことに気が付いていなかった愚かな男なんだ。