Iie of Ironical
アイロニカルの嘘


まるで絡まって抜け出せない、蜘蛛の巣のようだ。


アイロニカルの嘘


俺が彼についての噂を聞いても、その逢瀬をやめることはできなかった。その噂を信じることができなかったし、目の前に愛しい者がいるのだからそれでいいじゃないかと自分を誤魔化した。けれど、ふとした時にあの原田組長の言葉を思い出してしまい、俺は無意識に唇を噛んだ。
「…痛い」
「あ…悪い」
山野の訴えに俺は慌てて力を抜く。しかし紅潮し潤んだ彼の表情を見ると自然と俺の方が刺激されてしまう。
俺は彼の太腿を持ち上げた。白くつややかな太腿の裏へ舌を這わせると彼が悦ぶように身体を捩ることを知っていたからだ。
「や…だ…」
局部をすべて晒すような格好に彼は目を逸らして嫌がったものの、その言葉が嘘だと俺は知っている。身体を重ねるのはもう何度目になるだろうか。こんなに知っているのに、隅々まで舐めまわしたのに、けれどまだ知らないことがある。
(全部…見せろよ…)
苛立ちと懇願。けれど俺はそれを彼に伝えることはしない。
もし本当に「遊び」だとしたらどうする?
こんなにも、俺のすべてを夢中にさせたくせに、何もかもがただの狂言だったら俺は立ち直れるのか?
(結局…怖がりか)
己を嘲笑する。
だったら、このままでいい。このまま、この短い間だけでも俺のものになっているのなら、それでいい。
「あ……っ、しま…せ…ぱ…い…」
彼が俺の名を呼ぶ。切れ切れの言葉には余裕のなさが伝わってきて。
お前が俺のことでいっぱいになっているとわかるから。
(それでいい)
俺は彼の小さな唇を塞いだ。息苦しそうにもがく彼に、俺は自分のものを宛がった。すると嬉しそうに涙を滲ませるから。
「…っ、ん、んぅ……」
「山野…」
昼と夜で全く違う顔を見せるお前が。
どちらも愛しい。

「…今日、夜勤でしたよね…」
行為が終わるや否や、山野は俺にそう確認してきた。先ほどまでの妖艶な夜の彼から、昼間の優等生じみた山野の表情に戻っている。
いや、戻りたいのだろうか。
「そうだけど」
まだ陽は沈みそうにない。戻るのは夕焼けになってからでも十分間に合う。そのことを知っている俺は彼を後ろから抱きしめる。逃がさないように、重ねるように。しかし彼は少し抵抗するように身体を離した。
「…島田先輩、あの…こういうのは」
「嫌だっていうんだろう」
俺が言葉を遮ると、彼は少し沈黙して頷いた。
彼は後戯を嫌う。終わった後はまるで割り切るように「もう終わり」と残酷に告げるのだ。
(…やっぱり、後腐れないように…ってことか)
原田組長が言っていたように「遊び」なのだとしたら、後戯なんてものはただの面倒な行為に過ぎないのだろう。まるで愛し合うみたいな行為は彼にとって邪魔でしかない。
「…駄目だ」
「え?」
悔しくて、情けなくて。俺は嫌がる彼を後ろから抱きしめた。耳の後ろに舌を這わして、息を吹きかけて、くすぐったそうに反応する彼を強く抱きしめる。
「しま、…先輩、嫌だ…」
「気持ちいいなら何でも良いっていったのは、お前だ…」
嫌がる彼にそんな意地悪なことを言う。「遊びだから」「気持ちいいなら」と言って関係を持ったのはお前のほうだ。
すると彼は少しだけ動揺した。しかし背後から抱きしめているので彼の表情は良く見えない。
「山野…?」
「な、なんでもないです…」
すると山野は抵抗をやめた。俺が首筋に舌を這わせてももう何も言わない。だったら、もっと欲しい。味わい尽くせる場所まですべて、お前のすべてがいつだって欲しい。
山野が何も言わないのをいいことに調子に乗った俺は、彼の着崩れた着物の襟を持つ。
「それは…嫌です」
相変わらず裸になることを避ける彼が強く拒否した。女じゃないのだから、脱いだところで同じ身体の造りなのだから恥ずかしがることはないはずなのに。
(何でだろうな…)
たった一枚の着物を脱ぎ棄てることができない彼は。
まるでなにかから身を守るようだ。



夕暮れに別々に店を出て屯所に戻る。俺よりも先に店を出た山野だが、まだその姿は見えない。着替えているのだろうか。
「あ、島田さん!おそーい!」
子供っぽく拗ねつつ、門前に立ち準備万端の沖田先生はそう言って俺をからかった。俺が「急ぎます!」と真面目に返すと「まだ大丈夫ですよ」とさらに笑われた。
前川邸の自室に戻り、急いで汗をかいた着物を取り換える。着替えるほどの汗をかいているわけではなかったが、そうしないと山野の匂いや温もりを思い出してしまいそうで…思わず俺は顔を赤らめた。そして慌てて自分の頬を叩いて喝を入れた。そして慌てて厠へ向かう。浅黄色の羽織に腕を通しつつ歩いていると
少し離れた部屋から声が聞こえた。こそこそと、しかし言い争うような声だ。
(おいおい…喧嘩は法度に反するぞ…)
もっともそんな些細な喧嘩で腹を斬れなどとはならないが、喧嘩はない方がいいに決まっている。古株の俺が少し諌めてやるかと思ったところで
「どこへ行ってたんだよ、山野」
と彼の名が聞こえたので俺の思考は停止してしまった。
(…山野?)
「あなたに関係ないでしょう。手を離してください、巡察の時間なんですから」
「関係ないだと?」
俺は停止する思考のままふらふらと声のする方へ歩いた。声は確かに山野のものだ。会話の相手は…誰だかわからない。
「関係ないです。あなたとはもう…」
「お前は吹聴されたいのか?あんな恥ずかしいことを俺の前でしたくせに」
「…っ」
物陰の隙間からちらりと見えた山野は硬直して俯いていた。まるで脅されているように見える。
俺はどうにかしてやらねば、と気力を振り絞り
「山野」
と気丈に彼を呼んだ。二人がはっと俺の方を向く。
山野と会話をしていたのは確か井上先生の組下の隊士だ。山野と同じころに入隊した背の高いどちらかと言えば俺と正反対の軟派な男。名前は思い出せない。けれど彼は俺を見た途端「ちっ」とわざと聞こえるように舌打ちし、強く睨み付けてきた。まるで俺のことを敵視しているかのような様子だ。
「…盗み聞きですが。趣味が悪いですよ」
彼は山野から離れ俺とすれ違う時にポツリとつぶやかれた。名前も知らないような相手に毒づかれる覚えは全くないが、今はそれどころではない。
「…山野、巡察」
「……」
「山野」
俺が二度名前を呼ぶと、彼はようやく頷いた。青ざめて唇を震わせた様子は、いつもの優等生じみた彼からは想像もできない姿だった。
「…島田先輩、いつから…」
彼は怯えたように俺を見る。しかし嘘を付くことができない俺は
「…少し前から」
と素直に答えてしまった。彼はさらに顔を青ざめて俯いた。だが動揺しているのは彼だけではない、俺だって同じだ。
先ほどの会話からは彼らの特別な関係を察することができた。原田組長の言った通り、山野は俺以外にも…関係を持つ男がいたのだろう。
その事実が俺を打ちのめす。
心の準備なんてできていなかった。後戯を許してくれたことに少し上機嫌になっていたともいえる。なのにまるで突き落とされたかのように、疑いが現実になってしまった。
「噂は…本当だったんだな」
「え…?」
俺の呟きに山野は目を見張る。
「お前が…他の隊士とも寝てるって噂だよ。男だらけの集団だから別におかしい話じゃないしな。俺以外に相手が居ても…いや、遊びだって最初からお前は言っていたよな」
「先輩…」
彼が傷ついた顔をした。けれど俺に気持ちの余裕が無くて、言葉の吐露をやめることができない。
「なのに執着してる俺が…馬鹿だったんだよな」
「ちが…」
「もういい」
俺は彼の言葉を遮った。もう何も聞きたくない。
夢はいつか覚める。俺はただ、ぐずぐずとまだ寝ていたいと駄々をこねていただけだ。
「ん…っ」
俺は山野の細い顎を手に取るとそのまま強引に引き寄せた。ここが屯所だと分かっていたのに、周囲の目も気にせずに、俺はその唇を貪る。
「…っ、先輩…!」
山野は慌てて俺の胸板を押して離れる。その恥ずかしがるような、照れるような…けれど、赤く頬を染めた顔が、好きだった。
「悪い…もう、無理」
「え…」
「無理」
その短い言葉で俺は目を覚ます。
お前のことを好きだ。だからお前も俺のことを好きでいてほしいなんて。
そんなことを思うことが、無理だったんだ。