−prologue−


寝ては起き、起きては寝る。
そんな浅い夢を繰り返していた。
どこかで見た景色。江戸に居た頃の懐かしい風景、聞こえてくる誰かの声。
そのどれもが間違いなく知っているもので、
どうやら昔の夢を見ているのだと、どこかで俯瞰した自分が眺めている。


しかし、浅い夢はバタバタと激しい足音によって覚まされる。
昔から変わらない足音は、それが誰のものか土方の脳裏にしっかりと刻まれている。
「あ、ここにいた!」
散々探し回ったのか、少し怒ったようにして総司がやってきた。縁側で横になっている土方は目を開けて総司を見る。
「…なんだよ、騒々しいな」
「何だよじゃありません。前川邸の方に居ないから、探し回っちゃったじゃないですか。なんでこっちに居るんですか」
「八木邸の庭の方が、紅葉がきれいなんだよ」
縁側に横になって、八木主人が手入れした庭を眺めていると、まるで一国の城主になったかのように雄大な気持ちでいられるのだ。
しかし、総司は「何言ってるんですか」とあっさりと聞き流す。
「新撰組の鬼と呼ばれる土方さんに、そんな景色を愛でるようなことを言われても困ります。ただ逃げていただけでしょう」
「休憩だ、休憩」
言葉を言い換えろ、と土方は嘯いて、横にした身体をようやく起こした。両手を上にあげて、「うーん」と背を伸ばす。
「寝ていたんですか?お疲れですね」
「ああ。刻はそれほど経っていないだろうが、夢を見た気がする」
「夢?」
探し回っていたと言っていた割には、総司は特に急かす様子もなく隣に座った。
もしかしたら特に用事はなく、遊び相手として探していただけなのかもしれない。
「昔の夢だ。お前が…小さい頃の」
「小さい頃?」
総司はどこか怪訝そうにこちらを見る。総司としてはあまり記憶が無い部分なのだろうが、こちらは年上の青年期だったので
良く覚えているのだ。
「お前がどれだけ可愛くないガキだったのかっていうことを、久々に思い出していただけだ」
「あ、酷い」
土方の物言いに、総司は少し口を尖らせた。
「酷くはねぇ。お前は物わかりばっかりよくて、ガキらしい可愛げもなくて全くを持って扱いに困った」
「…可愛げがなくて、悪かったですね」
総司はさらに機嫌を悪くした。
こうしていると忘れてしまうが、そう言えば仮にも恋人と呼ぶ間柄だったのだと土方は思い出した。
(何か、全然そんな気はしねえけど)
「覚えてないのか?試衛館の来たばかりの頃だ」
「……その頃の記憶はありませんね」
総司は少し考え込むようにして俯く。もしかしたら、そもそも思い出したくもないことなのかもしれない。
明るく天真爛漫だと食客や他の隊士には評されてきた総司なのだが、そう言えばそういう「後ろ暗い」ところは
土方と近藤くらいしか知らないのだ。
そう思うと、何やら可笑しくなって、土方は「ふっ」と息を吐くように笑った。
「本当に覚えてねえんだな」
「覚えていません。私の中で一番古い記憶の時には、既に剣術の稽古をしていましたから…」
困惑したように問い返した来た総司に、土方は
「じゃあ話してやるよ」
と、浅い夢で見た、微かな記憶を掘り起こす。
そして幼子に言い聞かせるように、語り始めた――。










冬が解け、桜がちらほらと咲き始める季節となった。土方はぼんやりと縁側にたたずみ、試衛館の庭木の様子を眺めていた。気温は温かくなってきたものの、植物たちの目覚めは遠いようで、堅く頑なにその蕾を閉じている。
「歳、来てたのか」
嬉しそうにはにかんで、幼馴染の島崎勝太が駆け寄ってきた。天然理心流宗家の養子となった勝太はこの試衛館の跡取りへと出世した。まだ農民だなんて頭を掻きつつも、順調に大きく無謀な夢に向かってまい進している青年である。
「行商途中の道草だ」
土方はぶっきらぼうに言い放ったが、「そうか、道草か」と何故か勝太は嬉しそうだ。
ゆくゆくは天然理心流試衛館の道場主となる勝太と違い、土方は薬屋の家業を手伝うため、ほうぼうを歩き回り行商を行っていた。いやいや始めた家業だったが、商いは自分の負けず嫌いな性分に合っていたようで、文字通り口八丁手八丁に薬を売りつけて成果をあげていた。道場に嗾けてみたり、色目を使って女と懇意になったり…手段は選ばず、稼ぐために何でもした。親族たちはかつての悪童と名を馳せた末弟が更生したのだと思っているが、勝太と同じように剣の道を歩みたいという思いは捨てきれていない。燻ったまま胸のどこかで生きている。だからこうして試衛館に立ち寄ってしまう。
(だから何だか中途半端だ)
苛立ちを隠せずに、勝太に聞かれないように舌打ちした。
すると勝太は両手を合わせて「そうだ」と切り出した。
「宗次郎に会って行けよ」
「宗次郎?」
「何だ、もう忘れたのか。お前が連れてきた宗次郎だよ」
勝太は呆れたように言うが、忘れてなどいない。ただ、出会った時から「宗次」と呼んでいたので、ピンと来なかっただけだ。
「ああ…あいつ、食い減らしに来たんだってな」
全て宗次郎の親戚にあたる井上源三郎から聞いたことだが、沖田家は相当困窮しているらしい。もともとは奥州白河の下級藩士だったようだが、宗次郎が幼い頃に父が亡くなり家督が継げず、取り潰しとなったようだ。身分だけは宗次郎の方が上だが、暮らしぶりなどは勝太や土方の方が裕福なのだという。
「まだ九歳なのに、家族と離れて暮らすのは寂しかろうな…」
勝太の目にうっすらと光るものがある。涙ぼろい幼馴染は、幼くして家族と離ればなれになった宗次郎を不憫に思っているようだ。加えて自分も家を出て、養子に入った身だからこそ同情しているのかもしれない。(ただ勝太が養子に入ったのは数年前の十代の話なので、宗次郎とは状況が違うのだが)
「…ふん、食わしてもらえるだけ有難いだろう。しかも剣術の稽古までできるんだから文句はないはずだ」
俺とは違って。
とまでは言わなかったが、幼馴染にはきっと伝わっただろう。しかし勝太は「おや」と首を傾げた。
「お前には言ってなかったかな。宗次郎は剣術の稽古はしていないよ」
「あ?そうなのか?」
土方には意外だった。もともと武家の子である宗次郎だが、実家の困窮によりとても剣術など習っていない。見るからにひ弱で細い体だ。だから、それもあって姉のミツは剣術道場である試衛館に口減らしに遣ったのだと思っていたが。
すると勝太はきょろきょろと辺りを見渡した。誰もいないのを確認すると、小声で土方に囁く。
「お義母さんがな。宗次郎に稽古を見せようとするとひどく怒るんだ」
「ああ…」
勝太が宗次郎に気を使って、声を抑えたのかと思ったが、そうではなく試衛館の道場主である周助の妻ふでに、聞かれてはまずいと思ったようだ。
ふでは吊り目で気の強そうな外見そのまま、男勝りの性格だ。周助もすっかり尻に引かれているような有様で、試衛館を取り仕切っているお局様のようなものだ。勝太も最初は「農民の子が何故養子に」と罵倒されていたため、頭が上がらないでいる。
(宗次となれば尚更か…)
下働きに来た武家の子など、ふでにとって恰好の標的だ。便利の良い小間使いの様に用事を言いつけて扱き使っているに違いない。土方は勝太の短い説明ですべてを察することができた。
「泣いて家に帰りてえって言ってるんじゃねえのか」
ははっと笑いながら軽い調子で訊ねてみると、勝太は眉間に皺を寄せて唸っていた。
「…その方がまだ良いんだがなあ…」
腕を組み思案する様子の勝太は困り顔だ。その後考え込んでしまった幼馴染にこれ以上いうこともなく、土方は空を見上げた。冬で枯れた木々に緑が戻り、確実に時間が流れているのだということを知る。

そうしていると日が暮れて、あっという間に夜になった。勝太が「泊まっていけ」と言ったので土方はその言葉に甘えることにした。
「歳さん、ゆっくりしておいき」
周助には鬼嫁扱い、勝太や宗次郎にはお局扱いをされているふでだが、唯一、土方には愛想がいい。色男と持て囃される土方が、「いつみてもいい女だ」とか「ここの飯が一番旨い」だとか冗談交じりにふでを持ち上げるので、ふでも悪い気がしないのだろう。こういう時は行商で鍛えられた話術がものをいう。
ふでと雇われた女中が飯を運ぶなか、宗次郎の姿が見当たらない。飯の数も土方をいれてぴったりの数。宗次郎の分はないようだ。
「お義母さん、宗次郎は…」
恐る恐るという風に勝太がふでに訊ねる。すると剣幕を鋭くして
「蔵の中で反省でもしているでしょう」
と言い捨てた。ぎょっと驚いたのは勝太だけではない。
「おい、ふで。まだ夜は寒いのに蔵に閉じ込めたら身体を悪くするだろう」
蔵に閉じ込めることは特に珍しいことではないようだが、周助がふでを責めた。するとふではみるみる不機嫌になり
「まだ幼いとはいえ要領が悪い子です。一晩くらい反省すれば少しは良くなるでしょう!」
と怒鳴ってしまう。すると気の優しい周助や養子身分の勝太は何も言えなくなる。そして食事の席に冷たい空気が流れだした。
(おいおい…)
せめて弟分を守ってやれよ、と言わんばかりに土方がちらりと勝太を見たが、勝太の方こそ(頼むから助太刀してくれ)と言わんばかりに土方の目を見て懇願していた。
土方は内心「はぁ」とため息をつきつつ、席を立つ。
「ふでさん。良かったらその糞ガキ、俺が一言文句を言ってやるぜ」
「本当かい?」
「ああ、任せてくださいよ」
いつもの軽い調子で言うと、ふでは嬉しそうに頷いた。土方は部屋を出て蔵のある裏手に向かう。その途中で台所によって、通いの女中にこっそりと宗次郎の分の食事を準備させた。と言っても、今日のメインのおかずであるところの川魚は、もともと宗次郎の分はなかったようだ。
(…そういうものか…)
ふでがする仕打ちは陰湿ないじめのようだが、しかしよくある光景でもある。以前、土方が奉公をしていた呉服屋でも特に女同士だと些細なことから小競り合いが起きていた。男の土方が聞けばどうでもいいことなのだが、女はつまらないことで嫉妬し、人を恨み、羨み、妬む。
(ないものを持っていうからこそ…か)
きっと宗次郎が名もなき農民の子だったら、ここまでの嫌がらせを受けることはなかっただろう。武家の子だからこそ当たりがきついのだ。
ああ見えて、ふでは周助へ嫁いでいるだけあって試衛館のことを気にかけている。いつまでも身分の不安定な夫や義理の息子を思いやれば思いやるほど、宗次郎のような幼子がその上に立つ身分を持っていることに苛立つのだろう。
(まあ、そう思うと同情しないでもない…)
宗次郎にも、ふでにも。
「お願いします」
女中が差し出したお膳にはおにぎり二つと汁物が一杯。漬物が二、三切れと少し寂しい。しかし、ここで文句を言っては女中に迷惑がかかるだろうから、土方は何も言わずに受け取った。
試衛館の蔵といえば、特に金銀財宝が眠っているというわけではなく、いらなくなった防具や古びた兜、はたまた農作業用の鍬や鋤などが仕舞われている。窓も格子付のものが一つあるだけの、薄暗い場所だ。
土方は寂れた扉をこじ開けた。重い扉はギギギギギと鈍い音を出しながら開かれて、月明かりを受け入れる。
「そーじ」
出会った時につけてやったあだ名で呼ぶ。蔵の一部となった宗次郎の姿はよく見えない。
「そーじ、飯だ」
お腹を空かせてる子供なら一目散に駆け寄ってくるだろう、と踏んだのに、物音ひとつない。(まさか)と土方は膳を置いて中に入った。
「おい!宗次!」
日差しが無くなれば気温は一気に下がる。普段からろくに飯も与えられていないようなら、身体が弱っていることも考えられる。土方は最悪の予想に肝を冷やしつつ辺りを見渡した。
「くそ…」
月明かりしか差し込まない蔵では視界が悪い。火でも持ってくるか、と踵を返したところで、蔵の奥からガタッと音がした。そして同時にカランという乾いた音も。
「…宗次か?」
見えない影に声をかける。しかし何も返答はなく気配だけが近寄る。
土方は自然と傍にあった木刀に手を掛けた。稽古で使用されなくなって放置されている木刀だ。天然理心流の木刀は他のそれよりも大分太い。本気で殴れば人が死ぬほどの。
(何だ、これ…)
ぞわぞわと土方の中で悪寒が走る。しかし、その感覚は恐怖でも畏怖でもなく…まるで嵐がやってくる前の静けさの迫力のような。
土方が木刀を構えたままでいると、しぃんと静まったなかで、
「……歳三さん?」
と、ようやく帰ってきた返答は、聞き覚えのある声だ。土方は安堵しつつ「ああ」と答えてやった。そうしているとようやく明かりの照らされた場所まで宗次郎がやって来た。
「歳三さん、どうしたの?」
「……お前」
(気のせいか…?)
さっきまで背筋を這うような震えを感じていたのに、
「どうしたの?」
この子供は、花が咲くような笑みを浮かべている。






薄暗い、埃の被ったような場所では食事も不味かろう、と土方は宗次郎とともに蔵を出た。周助らが食事をしている場所から一番遠い木陰に二人で腰を下ろす。女中から受け取った膳を宗次郎に渡すと、「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げて、さっそく握り飯を頬張った。飯を食べる様子は腹を空かせた子供に違いない。
土方は無関心を装いつつも、横目で宗次郎を見た。久しぶりに会う宗次郎は、痩せ細っていたあの時に比べて幾分か健康的になったが、初めて出会った時のような無邪気さや子供らしさが抜け落ちていて、一気に大人びたように見えた。それは家族と離れたことで生まれた独立心なのかもしれないし、そうしなければならないと自分に言い聞かせた義務感かもしれない。
(どちらにしても、可愛げがない…)
てっきり蔵の中で泣いているのだと思っていた。もう嫌だと泣き叫んで助けを求められるのだと。しかし宗次郎は全くそんなことはなくて、蔵の中でただただ外に出られるのを待っていた。
そんなところがきっとふでの気に障るのだろうと思う。どんくさければどんくさいなりに叱られるのだろうが、何でもかんでも受け入れて「ごめんなさい」と笑顔で謝られるとまるで馬鹿にされているのかと逆上するのだ。女は特にそうだ。だからきっと宗次郎は無意識にそれをしてしまっている。
「ごちそうさまでした」
宗次郎はあっという間に平らげて、手を合わせて挨拶した。その礼儀正しさはおそらく姉に仕込まれたものだろうが、やはり蔵に長い時間閉じ込められた子供のやることではないと思う。もっと愚痴をこぼしてもいいのに。
(こいつなりの処世術かもしれねえが)
「いつもこうなのか?」
「こうって?」
きょとんと、宗次郎が目を丸くした。何気なく聞いたつもりだったが、土方は「あー…」と頭を掻きつつ、言葉を選ぶことになった。
「こんな風に…飯、食わしてもらえねえのか?」
言葉にして初めて気が付くこともある。自分が置かれた状況が言葉にされないと気づかないこともある。だからこれは、宗次郎にとって気づかないでいい、知らないでいい、わからないでいいことなのかもしれない。
しかし、宗次郎はさして気にする様子もなく
「そんなことありません」
と首を横に振った。特に迷う様子もない。
「おふでさんはちゃんとご飯を用意してくれるし、女中の皆さんも優しいです」
それは何の問題もない答えだったが、しかし一方で優等生の模範解答みたいだ。土方は少し苛立ってさらに問い詰める。
「じゃあなんでお前は蔵にいたんだよ」
「…それはきっと僕が気に入らないことをしたから」
「気に入らないってなんだよ」
「わかりません」
宗次郎が曖昧に答えて、固く口を噤んでしまった。土方はそれ以上を聞くことを辞めた。
そして理解する。
『その方がまだ良いんだがなあ』
勝太が言っていた言葉を。
(笑って済ませて、終わり…か)
それは大人のやることだ。子供はただ言葉をそのままストレートに受け取って、傷ついて悲しんでしまえばいいのに。そんな風に答えられてしまえば、助けることもできないし、本人が助けてほしいのさえわからないではないか。勝太が扱いに戸惑うのは当然だ。ある意味、勝太よりも大人のように振る舞っているのだから。
「可愛くねえ…」
「……」
思わず言葉を漏らすと、宗次郎が少し目を見開いて、そしてそのまま俯いた。あからさまに表情が暗くなる。
(やべ…)
もしかしたら、ふでに散々言われた言葉なのかもしれない。だとしたら、宗次郎にとっては罵倒の呪文のようなものだ。
土方が己の失言を後悔してると
「歳三さん」
と案外はっきりとした発音で名前を呼ばれた。「何だよ」と内心、びくびくしながら返答してやると、宗次郎は俯いた顔を土方の方へ向けた。
「もう眠たいです」
「……」
何を言うのかと思えば、そんなことを言われて。まるで子供の我儘のようなことを言われて。突然無邪気な子供に戻ったように微笑まれて。
(何なんだよ、こいつは…)
と、土方は肩を落とすのだった。


翌朝。道場ではパァァンッという竹刀がぶつかる音が響いていた。久々に稽古着に身を包んだ土方は、幼馴染に相手になってもらっていた。
土方は行商途中に、商売がてら寄る道場で腕試しをさせてもらっている。目についた道場には取りあえず顔を出し、格上にも果敢に挑戦した。そうすることでしか、剣の腕を挙げられる機会などなかったのだ。勝率は五分五分。コテンパンにやられることもあれば、筋が良いと褒められて入門を薦められることもある。だが、その誘いに乗ることはなかった。
「やっ、やっ、やぁぁ!」
勝太の力強い気合に、鼓膜と身体が痺れた。久々に聞くと、その迫力の凄まじさを感じることができた。
幼馴染が養子に入る前から、この迫力を目の当たりにしてきた。やれ農民の子がと蔑まれても彼が剣を続けられたのは、確かな実力と有無を言わせぬ存在感があったからだ。それは手当たり次第に挑んできたどこの道場にもない、唯一無二の剣士の姿だ。
(だからだろうな…)
他の道場に入門せず、この試衛館にこだわってしまうのは。きっと心のどこかで入門するのなら試衛館にするのだと決めている。
(それがいつになることやら…)
終りのない行商の日々にウンザリするばかりだ。そんなことを鬱々と考えていると
「なに考えてるんだ!」
「いてっ!」
踏み込みと同時に面を割られ、土方は後ずさった。脳天を打ち割るような衝撃に頭がくらくらと揺れる。
「お前は集中力が無い!」
こと剣のことに関しては容赦ない勝太の言い分は、確かにその通りだったので「悪い」と土方は素直に謝った。一つ年上なだけなのに、こういう時は強靭な壁のように遥か上に立っているかのようだ。
勝太は深く頷いて「休憩にするか」と竹刀を降ろした。土方も面を外して汗を拭く。
「歳、腕を上げたなあ」
大きな口から歯をのぞかせて、勝太は嬉しそうに微笑んだ。褒められることが苦手な土方は「うるせえ」と素直には受け取らなかったが、そんなことは幼馴染はお見通しだ。
「天然理心流というよりは我流みたいな剣だがな。お前はもう少し基本を学べばもっと強くなる」
「今更、基本なんてもう遅せえよ。剣を始めた時から俺は我流なんだ」
早々に天然理心流に入門した勝太と違い、土方はお遊びの延長のチャンバラごっこのように剣を始めた。そのほうが性に合っていたしそれを後悔しているわけではない。
「…何だったら宗次を鍛えてやれよ。あいつは真っ新な状態だから、基本から始めさせればいい」
「昨日も言っただろう。それはできないんだ」
勝太はふう、と息を吐いた。珍しく愚痴を言う様に続けた。
「そりゃあ俺だって、れっきとした武士の子である宗次郎に剣を教えてやりたいと思っているよ。でもお義母さんの目もあるし、宗次郎が望まないのだから仕方ないだろう」
「望まないのか?」
それは意外な理由だ、と聞き返すと勝太は複雑そうに顔を歪めた。
「遠慮しているのかもしれない。自分には向いてないし、やらなければならない仕事があるからできないと断れてしまった」
「…相変わらず、可愛くねえガキだな」
やはり子供の言うような台詞ではないだろう。向いている向いていないは関係なく、男として生まれたのなら興味があるはずだ。武士の子であるなら、なおさら。
「我儘なのは困るが、聞き分けがいいのも返って可哀そうでな。だが、お義母さんは俺の言うことなんて聞いてくれやしないし、お義父さんは時に任せるしかないという」
「時か解決してくれんのかね」
「…さあ」
勝太の頼りない返事に、土方も力が抜ける。道場に大の字で寝転がって、天井を見上げた。
「…なあ、歳」
「言いたいことはわかってる」
幼馴染の言葉を遮って、土方は答えてやった。彼がとても言いづらそうにしていたからだ。
愚直なほどに真面目で優しい幼馴染が考えていることなんて、丸わかりだ。
「もう少し、ここにいてくれっていうんだろう」
「…ああ。お前の行商の邪魔をして申し訳ないんだが、宗次郎の為にも頼む」
大の字になって寝転がる土方の視界には入らないが、勝太はきっと頭を下げて懇願しているだろう。今のところ、宗次郎のことを上手く庇ってやれるのは土方だけだ。不器用な幼馴染ではかえってふでを逆上させることになりかねない。
「…仕方ねえなあ…」
「歳!」
幼馴染は声を上げて喜んだが、土方はと言えば別段、宗次郎のことを可哀そうだと思っているわけではなかった。生い立ちやこれまでの暮らしには同情すべきところがあるが、試衛館で上手くやれないのはきっと宗次郎自身にも問題があるのだろう。
ただ、気にかかることがあった。
(あの…雰囲気だ)
蔵に迎えに行ったとき。
まるで身体中が痺れるかのように、宗次郎の存在感を感じた。それは勝太に感じる、大きな大木のような重厚感ではなく、もっと別の繊細な霧のように、肌に張り付く震えのような。
その正体を知りたいと思っている。





土方がしばらく滞在することを告げると、ふでは機嫌よく受け入れてくれた。挙句の果てには、
「歳さんがいてくれるなら、御馳走を毎日用意しなきゃねえ」
と張り切る始末だ。この心変わりには、夫の周助や義理息子の勝太も苦笑いだが、苛立ちの矛先が宗次郎に向かない分、いくらか気が楽だろう。ふでのもてなしに、土方は素直に甘えた。こんな風に甘えることができたなら、宗次郎も少しはかわいがってもらえるのかもしれないと思いながら。
客間を寝床にして、朝ゆっくり目を覚ました。目覚めの悪い土方としてはこのまま昼まで眠り込んでいたいのが本心だったが、さすがに人の家でそれはできない。重たい身体をどうにか起こして、顔でも洗おうかと井戸へ向かう。
朝の冷たい気温はまだ身体になじまず、障子を開けて一気に目が覚めた。羽織っていた上着を一層強く身体に巻きつけて、やや腰を屈めつつ井戸へ向かう。その道中、視界に入った。
(宗次…?)
門の辺りに屯している宗次郎は、両手に箒を抱えている。こんな朝から働いているのかという驚きと、なにをしているのかという疑問で、土方は立ち止まった。
宗次郎は門の外を見ている。武家屋敷とまでは言えないが、そこそこ立派な門だ。しかしその先には何もないし、誰の人影も見えない。だが、宗次郎は一心不乱に門の外を見つめている。
(何なんだ…)
土方はそこらにあった適当な草履をひっかけて、宗次郎のもとへ向かった。
「何してるんだ」
「!」
宗次郎は全く気が付いていなかったらしい。土方が声をかけると、怯えるように振り向いて「歳三さんか…」と安堵した。
「誰だと思ったんだよ」
「…別に」
宗次郎は言いよどむ。土方も(どうせふでさんだと思ったのだろう)と目星はついていたのだが。すると宗次郎は泳がせていた視線を土方に戻し、背筋を伸ばして土方へ一礼した。
「おはようございます。そこを今から掃除しますので、退けてください」
「……」
その変わり身の早さはまるで自分を守るかのようだ。土方は「ああ」と答えるに留まり、宗次郎の言うように場所を空けてやった。
宗次郎は黙々と箒を動かせた。辺り一面の落ち葉や小石が集まり、小さな山を作って、塵取りに納める。その土方は腕を組んで眺めていたが、すべてが終わった所で宗次郎がしかめっ面をして土方を見た。
「…何ですか?」
「仕事、終わりか?」
「まだです。まだまだあります」
宗次郎は拒絶するように答える。しかし土方は構わず続けた。
「あとは何がある」
「…裏庭の掃き掃除もあるし、廊下の雑巾がけもあります。お食事のお手伝いだってあるし、一日中忙しいです」
貴方に構っていられないという、遠まわしに拒絶するような物言いだが、もちろん物怖じするような土方ではない。「わかった」と頷くと
「じゃあ、俺が半分請け負ってやる」
と提案した。宗次郎は「は?」と瞳孔を見開いて、唖然としていたが土方は冗談で言ったのではない。早速、宗次郎から箒を奪い取ると「裏庭だな」と確認して、さっさとそちらへ歩いていく。
宗次郎は慌てて追いかけてきた。
「や、やめてください。別に一人でできるし、歳三さんに手伝ってもらったりなんかしたら…」
「一人でできるからって一人でしなくてもいいし、ふでさんに怒られるなら俺から言い出したんだって言ってやる。これでいいだろう」
「…っ」
一つ一つ論破していくと、幼い宗次郎では反論も出来ないようだ。口篭もる宗次郎を余所に、土方は箒を持ったまま裏庭に向かった。
速足の土方に少し遅れて、宗次郎も裏庭に到着した。論破されたからと言って納得はしていないようで
「な、何が目的なんですか?」
と明らかな敵意を向けて訊ねてきた。
(目的って…)
初めて出会ったあの時なら、宗次郎はそんなことを言わなかっただろう。悪意も疑心も知らず、家出したという宗次郎は土方についてきた、あの時なら。
土方は軽くため息をついて答えてやった。
「仕事、昼までには終わらせる。んで、その後は縁日だ」
「縁日…って…」
「出店もいっぱい出ているだろうしな。お前もたまには息抜きでもしろよ」
「……でも、そんなの」
「ふでさんには俺から話をつけてやる」
先回りして言い分を封じてやる。ふでさんの目、それが唯一の足枷だろうと思っていたが、しかし依然として宗次郎の表情は固い。縁日と言えば子供の一番好きなイベントかと思っていた土方だったが、当てが外れただろうか。
だが、宗次郎は「わかりました」と言うと、もう一本の箒を持って来て裏庭の掃除を始めた。土方は(何なんだ…)と言いようもない、暗澹たる思いを抱えつつも、掃除を手伝うことにした。

案の定、裏庭を掃除する土方を見るや、ふでは激高した。
「歳さんに手伝わせるなんて!」
いまにも、宗次郎を平手打ちしようという勢いだったが、土方が
「いつまでも客人ってのは、申し訳ねえから、俺が手伝いを申し出たんですよ」
と、何とか取り成すとふでは不承不承ではあるが理解してくれた。そしてついでに「縁日に宗次を連れて行ってもいいか」と尋ねると「歳さんに好きにしてくださいな」という合意を得たので、ひとまずは土方の思い通りになった。
子供の手では一日中かかる仕事だが、土方が熟せば予定通り昼までには終わった。宗次郎に出かける準備を命じて、土方も間借りしている客間に戻る。すると勝太も顔を出した。
「歳!お前っていい奴だなぁ!」
経緯を見守っていてのか、ふでに話を聞いたのか…感激のあまり目を潤ませている幼馴染に「止せよ」と土方は拒んだ。
「別にいい奴なんかじゃねえ。あいつに興味があるんだ」
「興味…?お前、まさかおち…」
「それ以上言ってみろ、俺は即座にこの家を出る」
勝太の奇妙な妄想に、土方は釘をさす。土方が興味があるのは女の方だけで、男には見向きもしない、むしろ反吐が出るほどに嫌っている。それは、勝太も良く知っているはずだ。勝太は「冗談だよ」と苦笑して続けた。
「でも、お前が宗次郎のような子供に興味があるなんて意外だな。子供なんて嫌いだとかなんとか言ってたじゃないか」
「それは変わらないが、あいつは…変だろう」
「変?」
土方の感想に、勝太はさっぱり心当たりがないようで、首を傾げた。その様子を見て、土方はこれ以上、話が通じまいと何も言わなかった。
(俺だけなのか…)
宗次郎をみると、このゾワゾワくる、悪寒にも似た感覚を味わうのは。
(それを確かめたいのかもしれない…)
「…ひとまず、縁日に行ってくる。宗次を連れて行くけど、いいだろう」
「縁日?じゃあ俺も行く」
軽い調子で返してきた勝太に土方は頷く。もともとついて来いと言うつもりだったので手間が省けた。
「あそこで縁日だけ売り出すみたらし団子が旨くてな。一度、行ってみようと思っていたんだ」
のんきな彼の言い分に、少し身体の力が抜けた。

縁日は一番の盛り上がりを見せていたようで、人で溢れかえっていた。人と人の合間を縫うように前に進みながら、勝太の目的らしいみたらし団子の店を探す。
「宗次郎、はぐれるなよ!」
宗次郎の手を引く勝太が声をかけると、「はい」と宗次郎が返事をする。土方はその後ろを歩きながら前に進んだ。宗次郎のように背丈の小さな子供はいつの間にかはぐれてしまいそうだ。しかし懸命に勝太の後を追う姿は、孵化した雛が親鳥についていくかのようで
(こうしていると子供っぽいんだが…)
時折垣間見える「子供らしさ」に土方は困惑する。
人混みの合間を縫うようにして進んでいると、土方は人混みを縦断しようとする女にぶつかった。その衝撃で体のバランスを崩した女を咄嗟に支えてやる。
「す、すみません。ありがとうございます」
顔を赤らませてお礼を言う女は、土方から見ても「いい女」だった。明るめの振袖は縁日に合わせた色柄だろうが、女の顔立ちによく合っていて可憐だ。
(…っと、いけねえ)
いつもなら女を口説いて食事でもどうだ、と誘うところだが今日は目的が違う。「じゃあ」とあっさりと女から離れて、前へ進むことにした。離れがたそうに女の視線がこちらに注がれていたが、土方は断腸の思いで見送る。
(…って、なんであいつの為に俺が…)
ふと我に返るとそれが何やらおかしい気がするが、そんなことを考えても仕方ないだろう。
「くそ…」
意味もなく吐き捨てて、土方は歩く。女とぶつかったせいではぐれてしまったが、勝太の目的の店は知っているので、大丈夫だ。

…と安易に思っていたのだが。
「歳!」
ようやく目的の露店にたどり着いたとき、土方は息も絶え絶えの状態だったのだが、しかしそこにいた勝太の方がもっと顔を真っ赤にして待ち構えていた。その表情と状況を見れば何となく、勝太の言いたいことは分かった。
「宗次は?」
「それが途中で手が離れてしまったんだ!宗次郎はこの露店の場所も知らないだろうし、今頃迷子になっているんじゃないかと…」
慌てる勝太に、土方は「落ち着けよ」と宥めた。
「取り敢えず、俺はこの辺りを探してくる。かっちゃんはここにいてくれ。三人がバラバラになる方がややこしいだろう」
「わ、わかった」
土方は冷静に判断して、早速踵を返した。
(あのバカ…)
と、内心毒づきながら。





人混みの中、土方は視線を四方八方に向けて宗次郎を探した。縁日だけに同じくらいの年齢の子供なら大勢いるが、たいていは友達と一緒か母に手を繋がれている。一人ぼっちで縁日に来ている子などいない。
(そうだよな…)
このくらいの年の子なら、誰かに養われて守られて生きているのが当然なのだ。誰かに寄りかかって生きていても、生きていけるのだから。親も親で、子を離したりはしない。土方自身も、この年なら家族に愛されていた。ひとりで生きるということを考えたことすらなかった。
だから、ふと「そうか」と思い土方は足を止めた。
(もしかして、逃げたのか…?)
試衛館や下働きが嫌になって、家族が恋しくなって、もしかしたら逃げだして家に帰ったのかもしれない。子供のすることだから、それはありえない話ではないだろう。はぐれたのではなく、逃げ出した…なんの不思議もない。そんな考えが過っていると、後ろの方から声が響いた。
「おい、喧嘩だ!」
若い男の声だった。その声によって一旦思考は完全に失われ、土方は振り返り、躊躇うことなく声のする方へ駈け出した。
宗次郎は自ら喧嘩するような性格ではない。それはふでさんの所業に耐え続けていることが何よりも証明している。だから、そんなことを心配したのではなく、宗次郎が巻き込まれていないかということを確認したかったのだ。
土方は人混みの中の、さらに野次馬をかき分けていく。合間を縫うように前へ進むのは困難だったが、どうにか一歩ずつ歩みを進めた。野次馬の中心へ歩いていけば喧嘩の現場になる。大騒ぎになっているだろうとそう思っているのに、何故か野次馬たちは呆然と立ち尽くし、近寄れば近寄るほどに静けさが増していた。
(なんだ…?)
野次馬たちの血の気の引いたような反応、信じられないものを見たような唖然とした表情、そして何よりも自分の中でぞわぞわ沸き立つ感覚。それを知っている。昨日味わったものと同じだ。
(宗次がいるのか…?)
ようやく最前列に躍り出た土方は、自分の感覚が正しかったことを知る。
「あ…」
それは単なる喧嘩の現場などではなかった。ただ、宗次郎の周りに宗次郎よりも体格の大きな子供が四・五人倒れたり泣いたりしているだけの、光景だった。
それはまるで、宗次郎以外の場所に嵐が通り抜けて行ったかのような。
周りもそれを感じ取っているのだろう。誰一人として宗次郎に近寄るような真似はしない。
その静けさを破るように、土方が声を発した。
「…宗次」
「歳三さん…」
「…怪我はないか」
無傷だと分かっていながら訊ねると、宗次郎は頷いた。静寂は破られ、野次馬たちは土方が来たことで、場が収まると判断したのかぞろぞろと去り始めた。土方は安堵した。これ以上騒ぎ立てて事件にされるよりも子供の喧嘩で片付いた方がいいだろう。
「行くぞ」
「…でも」
「いいから」
土方は無理矢理、宗次郎の手を引いて場を離れた。宗次郎は怪我をした子供達を気遣ったようだが、しょせんは子供同士の喧嘩だ。
それにあんな大勢相手に宗次郎が喧嘩を嗾けるわけはないので、おそらくはあちらが宗次郎に喧嘩を売って返り討ちにあったということなのだろう。だったら子供達も自分たちのプライドを傷つけまいと他言はしないだろうし、これ以上の大ごとにはならないはずだ。
まだ屯している野次馬たちを振り切って、土方は宗次郎とともに縁日の会場を少し離れた。心配している勝太のもとへは一刻も早く戻らなければならないが、ほとぼりが冷めるのを待つ方を優先すべきだろう。
ようやく人混みから離れた場所で息を落ち着かせる。山道の休憩所のような場所だが、縁日で盛り上がる人々の目には触れない。
「…ごめんなさい」
丁度良い場所に倒木があり、土方が腰を掛けた途端に、宗次郎が謝った。俯いて、立ち尽くして。
「……何が」
「歳三さんに迷惑をかけてしまって…」
「迷惑…か」
迷惑なんて何一つ感じていない。それよりも感じていたのは、迷惑だとか負担だとか…きっとあの喧嘩を嗾けてきた、同年代であるはずの子供達には出てこない言葉だろうということだ。それを“言える”宗次郎を不憫とは思わない。
(ただそれは嘘だろう)
そう思うだけだ。だから、土方は遠慮なく続けた。
「お前、何したんだ」
子供とはいえ、自分より体格の大きい相手に、傷一つ負わず叩きのめすことができたのだとは俄かには信じられない。しかし状況からすれば、そうだったのだろうと推測せざるを得ない。しかし宗次郎は少し黙り込んで
「…何も」
と、答えた。全てを飲み込むように、事実を黙殺した。しかしまさか土方も鵜呑みにはしない。
「何もってことはないだろう。怒りゃしねえから言ってみろ」
「だから、何もありません」
年下相手に、土方にしては優しく問いかけたつもりだが、宗次郎は頑なに話そうとしない。まるで何かを隠すかのようだ。
「何だ、じゃあお前が何もしないうちにあいつらがバタバタ倒れていって泣き出したって言うのか?」
「……」
苛立ちを隠しきれず土方が問いかけるが、宗次郎はやはり何も答えない。暴力に訴えて口を開かせるという方法もあるが、土方は宗次郎から「絶対に言わない」という確固たる意志を感じ、「はぁ」とため息をついた。
状況から推測して、あれは宗次郎の仕業だろう。たった一人で数人を相手にしてコテンパンに叩きのめした。拳だったのか剣だったのかはわからないが、自力であの状況を打破したということだ。
土方は自身の頭を乱暴に掻く。
(このほそっこい宗次が…?)
出会った時には今よりも子供で、姉に叱られ泣いていた。家出をして帰れなくなるような、甘えたガキだった。そして下働きに来てからは家のことばかりで剣の稽古もろくにしていない。加えて遊びに行くようなことは全くない。
(それがそうだとしたら、才能があるとか喧嘩に強いとかそんな単純なことじゃない…)
常軌を逸した、「なにか」がある。身の毛をよだつような「なにか」が。
「歳三さん」
「…なんだよ」
考え込む土方に、宗次郎は恐る恐る声をかけてきた。
「このこと…若先生には、言わないでください」
小さな体を折りたたむように、宗次郎は頭を下げた。もちろん告げ口などするつもりはなかったが、先程口を噤まれた仕返しをしてもいいだろう。
「何故だ」
と今度は、語気を強めて返した。宗次郎は唇を噛む。
「…若先生に、心配をかけたくないからです」
「心配をかけたくないっていうなら、最初からはぐれるなよ」
土方が意地悪で返す。最初は「逃げたのか」と思っていたからだ。しかし「はぐれたくてはぐれたわけじゃありません」と宗次郎が即答したので、どうやら土方の考えすぎだったようだ。
「かっちゃんは既に心配してる」
今頃、例の露店の前でハラハラしながら待っていることだろう。そう思うとこんなところでのんびりしている場合では無いのだが。
「…それは、そうですけど…」
「それに、お前はもう少し心配をかけた方がいいだろう」
「え?」
宗次郎は顔を上げて、その真ん丸な目を土方に向けた。無垢な瞳は、出会った時は変わらないのに、いつの間にそんなに武装してしまったのだろう。
「嘘ばっかりついて、平気な振りして理解した顔をしてる方が、よっぽど心配かけるってことが、わからねえのか」
「……」
その瞳が曇る。しかし土方は続けた。
「子供は子供らしくしていろ。お前はいい子ぶってんだよ。そういうのが…」
おかしいんだ。気持ち悪いんだ。可愛くないんだ。
流石にそう続けるのは躊躇われた。しかし、いくら子供でもこの先の台詞は理解できただろう。
「…歳三さんには分かりません」
「あ?」
宗次郎の目じりには少しだけ光るものがあった。しかし、すべての耐えてきた宗次郎はそれを流したりなんかしない。
「歳三さんには分かりません」
宗次郎は同じセリフをもう一度、繰り返した。


ようやく周囲の状況が落ち着き、そろそろ戻るか、と二人で例の露店に向かうと待ちぼうけの勝太がいた。
「心配したぞ!」
大分待たせてしまったが、勝太は特に気にする様子もなく、大手を振って出迎えた。往来の人混みで宗次郎を抱きしめて、「無事で良かった」と嬉しそうに笑っていた。
「ご、ごめんなさい。はぐれてしまって…」
「いや、俺が悪かった。もっと強く手を繋いでいれば良かったな!」
勝太は当然のことのように、宗次郎を責めたりはしなかった。宗次郎は頬を少し緩ませてほっと安堵する様な表情を見せた。勝太は「じゃあ行こうか」と早速宗次郎の手を握る。
「どこに行くんだよ」
土方が問いかけると、勝太は
「射的だよ。宗次郎、歳はな剣もできる奴だが、射的も上手いんだ。俺は何かはからきしだから、欲しいものがあったら歳に取ってもらうといい」
「おいおい、射的かよ」
「いいじゃないか。なあ、宗次郎」
「あ、はい…」
やや強引だが、勝太が宗次郎の手を引いて、ずんずん歩いていく。宗次郎はやや足をもつらせつつ、勝太について行っていた。
(仕方ねえなあ…)
頭を掻きつつも、土方は二人のあとについて行った。






前向いて歩いているようで、それはただ後ろを振り返って、歩を進めているようなものだ。それでは道に迷い、どこかでつまずいて、やがて歩けなくなってしまうだろう。


縁日から数日が経ち、土方の滞在も十日を超えた。
幼馴染に頼まれたからといってこんなに長く逗留するつもりはなかったが、好きな時に起きて寝て、稽古をして…という日々はもちろん悪くないし、ふでも機嫌よく迎えてくれるし、何となく試衛館から離れがたい気持ちになっていた。
縁側で身体を横たえて、腕をつく。周助のちょっとした趣味だという試衛館の庭は、手入れがされていて、見た目のボロ道場に似合わない趣があった。特に寒さの和らいだこの頃は、梅がちらほら咲き始めていた。
(桜が咲く頃には…)
何も解決しなかったとしても、それでも、この試衛館を出ていかなければならないと思う。できれば宗次郎のことも解決して、いい加減にこの心地よい場所から離れなければ、自分が駄目になってしまう。それ位の戒めは必要だろう。
「甘やかさないためにも…な」
そう言いつつも、春の陽気が眠気を誘い、土方はあくびをした。すると視界の端に箒を持った宗次郎が現れた。
こちらに気が付いた宗次郎は、少し嫌そうな顔をした。
「…おはようございます」
「ああ」
手を振ってこたえてやると、ぺこりと頭を下げて宗次郎は掃除を開始する。
縁日から帰ってから、宗次郎の日々は変わらない。時間を惜しむように仕事をして、食事をして、さっさと寝る。ふでの癇癪に当たるようなことがあれば「申し訳ございません」と決まりきったお題目のように答えて、周助や勝太に「大丈夫か」と聞かれれば笑顔で「大丈夫だ」と答えていた。
だが、少し変わったことがあるとすれば、先程も見せた土方への苦手意識だろう。縁日のあの騒ぎを隠してもらっているという負い目が、宗次郎の中で土方と言う存在を特別なものにした。
(…ま、いいけど)
嫌いだとかそういう感情がないよりもよっぽどましだ。好きなものがあるように、嫌いなものがある方が子供らしい。
「宗次」
掃き掃除を続ける宗次郎を、土方は手招きして呼んだ。宗次郎はやはり心底嫌そうな顔をしたが、しぶしぶこちらにやって来た。自分のことが嫌いだとアピールする相手に近づくほど、土方はモノ好きではなかったが、宗次郎が「嫌いだ」とアピールするたびに、「だったら構ってやろう」という気持ちになるのだから不思議だ。嫌がらせに近いのかもしれない。
「何ですか?」
「いいから、もっと近くに寄れ」
「…」
箒を握りしめるようにして、宗次郎は土方に近づく。土方は宗次郎の頭上に手を伸ばした。しかしほぼ同時に激しいバァン!という衝撃音がした。
「いって!」
驚くのが先で、痛みは次にやって来た。そしてどうやら宗次郎が、箒を使って土方の手を払いのけたのだと理解した。
「あ…」
宗次郎の顔色が一気に白くなる。きっと野良犬と同じ防衛本能みたいなもので、無意識に牙をむいたのだろう。
「…ってぇ…」
それにしても激しい衝撃だった。まるで竹刀で打ち付けられたかのような痛みがあり、土方の手の甲はみるみるとまさに「箒の形」に赤らんでいった。
「ごめんなさい…あの、大丈夫ですか…?」
おろおろと落ち着かない様子で、宗次郎が訊ねてくる。土方はわざとらしくため息をつきながら、」
「お前なあ…俺は、これをとろうとしただけだ」
土方は再び宗次郎の頭上に手を伸ばした。そしてその頭の上から一枚の花弁をとって見せてやった。
「あ」
宗次郎は顔を赤らめて、もう一度「ごめんなさい」と言った。宗次郎の箒で打ち付けられた手の甲は未だに痛んだが、反省しているようでそれ以上の追及は避けた。
「宗次郎」
そうしていると、勝太がこちらにやって来た。稽古が終わったのか汗を手拭いで拭っている。
「お義母さんが呼んでいたよ」
「は、はい。わかりました」
勝太の言葉でにわかに緊張が走り、宗次郎は箒を置いて慌てて走っていく。二人でその小さな背中を見送っていると、勝太が腰を下ろした。こちらにやって来た割には口を開こうとしないので、土方が促してやる。
「…今の、見ていたんだろう」
「な、何をだ」
「宗次の、今の動きだよ」
勝太が目を見開いた。
「…歳は、知っていたのか」
「まあな。かっちゃんこそ、知っていたんだな」
「……」
勝太が珍しく口篭もった。宗次郎と過ごした時間は勝太の方がもちろん多いのだから、気が付いていても不思議ではない。
「目がいいのかもしれない…とは思っていた」
「目?」
土方からすれば思いがけない言葉だったが、勝太が真剣な面持ちで頷く。
「たとえば、歳は目で見たことをすぐに真似できるか?」
「…唐突すぎて、想像の難しい話だな」
「そんなことはない。たとえば…裁縫仕事やあやとり、竹馬…何でもいいんだ。一度見ただけでどこまで出来るかということだ」
土方は顎をついて考える。自分の得意なことはすぐに実践できるとは思う。しかし、勝太の話に出てきた「あやとり」なんてものだと、目で見ただけではどういう風にそういう形を為しているのかなんて分からないだろう。
「一度では…無理だ」
「俺もそうだ。誰だって頭で理解して練習してやっとできるんだと思う。でも…きっと宗次郎は違うんじゃないかと思っていた。順序とか手順とかそういうものを必要としない。目で見たものを、淀むことなく実行できる。そういう才能があるんじゃないか」
「それは…」
「俺はそれを天才だと思っている」
天才だとかそんな曖昧で簡単な表現を、土方はあまり好まない。それは幽霊がいるのかいないのかということに似ていて、本当のところをはかれないからだ。しかし、勝太の言葉を聞き流すことはできなかった。少なくとも、宗次郎が本当にそういう才能があるのだとしたら、それは人より抜きんでたものに違いないのだから。
「だったら剣術に向いているだろう」
土方が問いかけると、途端に勝太の表情が歪み、頭を抱えた。
「俺もそう思うんだがなあ…。お義母さんのこともあるけれど、宗次郎が望まないのだから、仕方ないだろう」
「かっちゃんがどうにかいえばあいつは従うと思うけどな」
「そうはいかないんだ」
宗次郎もそうであるように、勝太も頑なだった。
「宗次郎が望まない限り、剣をさせるわけにはいかない。今のままじゃ、無理矢理にやらせるようなものだ。そんなことでは強くならない」
「……」
だから、
(だから、かっちゃんは俺にも何も言わない)
行商がてら剣術の稽古をする土方を、近藤は見守って、待っているだけだ。「いつかは入門してくれるだろう」と信じてくれている。それがわかるから
(だから、俺も…宗次も甘えちまうんだ)
いつまでも甘やかされて、この場所にとどまりたくなる。
(末っ子の性なのか…?)
土方は「ふん」と自分の考えを鼻で笑った。
「かっちゃん、俺は、宗次には何かあると思っている」
「何か?」
「あいつは何か隠している。下らない事かもしれないし、しょうもない事かもしれないけれど、あいつにとって何か大きな足枷がたぶん、あるんだ。それさえなければきっと…」
あいつは、初めて出会った時のように、心から笑い、心から泣くことができるだろう。その時に…」
きっとその時こそ、
「きっと、あいつは剣をとる」
前を向いて歩き始めるだろう。
そんな確信が、土方にはあった。

「ごめんくださいませ」
ちょうどその時、玄関の方から女の声がした。凛とした声に土方は聴き覚えがなかった。勝太は首を傾げつつ「誰だろう」と呟いたが、誰も出て来ないのか客人は「ごめんくださいませ」と繰り返すので、勝太がようやく腰を上げて向かっていく。
「はーいっ!」
返事をしながら駆け足で廊下を走る幼馴染に、土方も何となくついて行った。
廊下を軋ませながら二人で駆けていくと、玄関には薄い桃色の着物に身を包み、風呂敷を抱えた女がいた。声に似た凛とした目元、色白の肌…どこかで見覚えがあるな、と勝太と土方が顔を見合わせていると、客人の方から挨拶があった。
「こちらにお世話になっております、沖田宗次郎の姉、ミツでございます」
丁寧に頭を下げて微笑する顔。宗次郎とそっくりなのだから、見覚えもあるはずだ。
「あ…!おミツさん、これはどうも…!」
勝太が慌てて頭を下げると、姉はちらりと土方の方を見た。
「もしや、土方さまでは?」
「え、ええ…そうですが」
土方と姉のミツは初対面だ。ミツの察しの良さに土方は驚いたが、ミツは「やはり」と少し笑った。
「宗次郎から聞いておりました。家出をした時に助けてくださったのだと。大変、弟がご迷惑をおかけいたしました。いつか御礼を申し上げなくてはと思っていたのです」
深々と「ありがとうございました」と頭を下げられて、土方は居心地が悪くなる。
「あ、いや…その、それはたまたまで…」
「いえ、土方さまがそうしてくださらなければ、宗次郎もここへお世話になることもなかったでしょうから」
確かにきっかけはミツの言うとおりだろう。
(…もしかして、あいつをここに引き寄せちまったのは俺だったか…)
思いもよらないことだったが、客観的に見ればそうだったのだろう。何やら喜ばしいやら申し訳ないやらだったが、土方は曖昧に「はあ」と答えるだけにとどまった。
そうしていると
「姉上…」
と、蚊の鳴くような声が聞こえた。
不安そうに顔を顰めて、宗次郎が顔を出していた。
 






ミツは近くに用事があったので、試衛館まで足を延ばしたのだという。
「宗次郎がお世話になっております。これ、つまらないものですが…」
「これはどうも」
ミツの応対をしたのは周助だった。ふではバツが悪いのか、ミツがやってきたと分かると「いないことにして頂戴」と勝太に言いつけて、外出してしまった。ミツには「残念だが偶然外出している」ということで納得してもらった。
ミツは一通りの挨拶を済ませると、微笑を浮かべつつ、ようやく宗次郎に語りかける。
「元気にしていましたか?」
「…はい」
宗次郎は曖昧に頷いて、視線を逸らした。
幼い頃に母を亡くした宗次郎は、姉に育てられたのだという。その辺の境遇は土方も似ているが、ミツに対する宗次郎の硬化した態度には違和感しか持たなかった。
(まるで他人のようだな…)
試衛館に人間だけでなく、宗次郎は家族のミツにさえ、心を解こうとしない。そっけない弟の態度に、ミツは少しため息をつきつつも「そうですか」と無理矢理に笑った。
「何度も言いますが、大先生や若先生、女将さんの言うことをしっかり聞いて役に立つようにするのですよ」
「はい」
念を押すミツに宗次郎は素直に頷く。ミツも頷き返して「それでは、そろそろ」と腰を上げた。
「もう少しごゆっくりされていってはいかがですか」
余りにも早い弟との再会に、思わず勝太がミツを止めたが、ミツは「いいえ」とやんわりと断る。
「他に行くところがありますし、今日中には家に帰るつもりですから、そろそろお暇しなければなりません。宗次郎の顔を見れましたし…」
ミツは遠慮がちに断ったように見えたが、土方からすればまるで「逃げている」ように思った。久々に会う弟の硬化した態度に、もう自分を受け入れないのだと悟ったように。
そこで、土方は
「ではそこまで送りましょう」
と、申し出た。ミツは「いえ、そんな…」とまた断ろうとしたが、土方がさっさと立ち上がり
「行きましょう」
と促したので、断ることはできなかったようだ。
土方はちらりと勝太を見る。勝太からは(頼む)というようなアイコンタクトを感じ、頷いて見せた。
そして宗次郎はと言えば、ずっと俯いたままでその表情を伺うことはできなかった。

二人で試衛館を出るなり、ミツは話を切り出した。
「弟がご迷惑をおかけしております」
心底申し訳ないという声の調子だった。気丈に振舞っているのかもしれないが、土方からすればまるで泣きそうな声に聞こえた。しかし土方は何も気が付いていない振りをしつつ尋ねる。
「迷惑はかかっていませんが…。宗次は普段からああいう感じですか」
「そうじ?」
「あ、いや…宗次郎、ですね」
土方が頭を掻きながら訂正すると、ミツは「ふふ」と小さく笑った。そして語り始める。
「ああいう子ではありません。根っからの末っ子で、甘えん坊で…すぐに怒ったり拗ねたりするような、感情豊かな子なんです。だから今まであんな態度を取った事もないと思います。余程、私を恨んでいるのか嫌っているのか…今日はそれを痛感しました」
「そんなことはないと…思いますが」
土方は曖昧に返答したが、ミツは苦笑しつつ「いいえ」と首を横に振る。
「あの子にとって家族が世界の全てでした。田舎ですので周囲に家はありませんから、友達もいません。宗次郎にとって家族だけが知っている人間で、それ以外は知らない人間なのだと思います。それをいきなり家から放り出して、一人ぼっちで生きていくように言われて…捨てられたんだと、そう思っても仕方ないでしょう」
「……」
「宗次郎が捨てられたと自分に言い聞かせることで、自分を納得させているのなら、私も宗次郎を捨てたのだと思って、悪者に徹する方が良いのだと…わかっているのですが」
どうしても、気になって顔を見たくなって来てしまった。
(足を延ばしたんじゃないってことか…)
ミツはついでに寄ったのだと言っていたが、それはあくまで建前だったのだろう。姉弟だけあって、人に対して意固地である、そういうところはよく似ている。
黙り込んだミツに、土方は更に訊ねた。
「もう一つ聞きたいことがあるのですが」
「何でしょうか」
それが土方にとっては本題だった。
「宗次郎は…剣を取ったことがありますか?」
「ありませんね」
ミツは即答した。
「幼い頃から武士の子であるのだから、剣を少しはするようにと何度も言い聞かせていましたが、怖いだとか痛いだとかそんなことをいうばかりで…。それに父も母も亡くなり、女ばかりの姉弟です。機会を作ってやれず…情けない限りです」
「…そうですか」
ミツの答えは土方にとって予想外ではなかった。むしろ土方の考えを確信へと昇華させた。
(あれは、そういうものじゃない)
縁日の騒ぎや土方の手を振りほどいた動作は、誰かに稽古をつけてもらうようなものや、土方のように我流で鍛えられたものではない。
(天才か…)
これまで周囲に「天才だ」「神童だ」と持て囃されてきた勝太の感想だからこそ、真実味がある。実際、勝太は天才ではなく努力の人だった。だからこそ、宗次郎のそれが自分とは違う天性のものだと思ったのだろう。
しかし実姉であるところのミツは、そのことには気が付いていないようだ。
「試衛館にお世話になることで、今の家にいるよりもよっぽど暮らしには困らないでしょうし、剣術を目にする機会が増えれば、本人の意識も変わってくることを期待していたんです。父は訳あって浪人の身分でしたが、決して劣る人物ではありませんでした。宗次郎は父の顔を知らないでしょうが、その誇りを持って生きてほしいとずっと思っているんです」
「…」
土方自身も父の顔を知らない。姉ののぶは口うるさく説教をするのでミツとは違うが、しかし既視感を持つようなセリフだった。
(誇りか…)
それは武士だけに許されるような言葉のように思える。農民風情が「誇り」だの「見栄」だのそんなものは必要ない。
(じゃあ何のために剣をやるのか…)
その答えは見えていない。
「すみません。私の話ばかり一方的に…」
「ああ…いや」
「土方さま」
ミツが足を止めた。そして手にしていた風呂敷を、土方へ渡した。
「これは…?」
「先ほど渡し損ねてしまったのです。申し訳ありませんが、土方様から宗次郎へ渡していただけませんか」
「構いませんが俺じゃなくて、かっちゃ…勝太の方から渡した方が…」
「いいえ、出来れば土方さまからお願いしたいのです」
ミツから渡された風呂敷はずっしりと重い。柔らかい感触からそれが着物だろうと察する。
「宗次郎のことを宜しくお願い致します」
ミツは深々と頭を下げて、「それでは」と別れを告げた。そしてふり返ることなく歩いていく。
土方はしばらく立ち尽くして、その姿を見送った。ミツがどうして勝太ではなく、土方から渡してほしいと言ったのか、土方にはわからなかった。

ミツを見送り、試衛館に戻ると、そこにはいつもと同じように箒を持つ宗次郎がいた。ミツの来訪で中断していた掃除の続きなのだろう。
「おかえりなさい」
「……おう」
特に感情の籠っていない出迎えは、先程の宗次郎がミツに対して見せた硬化した態度に似ている。土方は早速使命を果たそうと、手にしていた風呂敷を宗次郎へ押し付けた。
「お前のだ」
「え?」
「姉さんから、お前に」
短い言葉だがそれだけで意図は伝わった。最初は恐る恐る受け取った風呂敷を、宗次郎は次第にぎゅっと抱えた。歯を食いしばって何かを堪えるように、宗次郎は俯いた。
泣くのかと思った。
しかし宗次郎は顔を上げて、ふっと土方が戻ってきた道を見た。試衛館の門の外、その先の何かを探すように。
(そういえば、前もこうして外を見ていた…)
ぼんやりと視線の先にある、何かを探していた。それが姉の姿だったのだろう、と土方はようやく理解した。
いつか迎えに来てくれるのを、待っているんだろうか。
「宗次」
「……」
何も答えない宗次郎に、土方は膝を折って視線を同じにして、出来るだけ穏やかに語りかけた。
「帰ってもいいんだぞ」
家の困窮という大きな事情があるのかもしれない。けれど、いまの宗次郎の姿を見て、姉は喜ばないだろう。
「何だったら俺から言ってやる。大丈夫だ、ふでさんを説き伏せる自信は…」
「帰りません」
土方の言葉をさえぎって、宗次郎は首を横に振った。
「…絶対に、帰りません」
強い意志が籠るその否定は、あまりに重い決意を秘めていた。
(頑固な…)
宗次郎は同情を嫌うかのように拒否をする。土方は「はぁ」とわざとらしく大きなため息をついた。扱いづらい子供にこれ以上優しくしてやるほど、土方の心は広くはない。
「そうかよ」
だったらもうこれ以上いうことはない。
土方は大人げないと思いつつも吐き捨てて、宗次郎のそばを通り過ぎて客間に戻る。
(かっちゃんには悪ぃけど…)
明日には試衛館を出ていこう。宗次郎の凍りついた心は誰にも解きほぐせないし、時が解決するしかない。この幼子が秘めた「何か」は気になるが、暴かれたく無いというのなら、もうこれ以上の追及は野暮なのだろう。
「馬鹿野郎…」
土方は無意識に呟いていた。





翌朝、土方は早起きして道場へ向かった。春の季節とはいえまだ朝晩は冷えるので、世話になっている客間を出るとその寒さですぐに目が冴えた。足早に道場たどり着くと、思った通り勝太がいた。
「おお、歳!どうしたんだ」
朝の挨拶も疎かにするほど、勝太は驚いた。今まで土方が自主的に早起きをすることなどなかったからだ。
「…たまにはいいだろう、たまには」
「そのたまたまが今まで一度もなかったから驚いているんじゃないか」
「いちいちうるせぇなあ」
驚きつつも喜ぶ幼馴染に、土方は毒づいてかえす。土方はさっさと道場にある木刀を手にして、幼馴染の隣で構えた。そして一晩考えていたことを告げた。
「かっちゃん。俺は諦めることにする」
「ん?」
「宗次郎のことだよ」
一、二…と心の中で数えつつ、土方は素振りを開始した。試衛館の木刀の重さは他の道場よりも上を行く。数回振り下ろすだけで汗がにじむようだ。
一方で、隣にいた勝太はしばし沈黙して、その後土方と同じリズムで素振りを始めた。
「そうか」
勝太は短い返答をした。しかし土方は気落ちする幼馴染を慰めることなどできなかった。
「俺には無理だ」
負けず嫌いの土方らしくない、早々のギブアップ宣言だったが、勝太はもう一度「そうか」と言うだけでそれ以上、食い下がろうとはしなかった。それどころか、珍しく
「じゃあお前は、ここを出ていくんだな」
と、土方をどきりとさせるようなことを言った。全くその通りだったから、驚いた。
別れは好きではない。これが永遠の別れなんかじゃなく、また会えると分かっていても、見送られて去っていくあの虚しさは何度味わっても慣れるものではない。だから土方は黙って出ていくつもりだった。この幼馴染はたとえ黙って出て行ったとしても、何も言わないのはわかっていたからだ。
(だからまた甘えるつもりだった)
無意識でそうしようとしていたことに気が付き、虫唾が走った。
「かっちゃん…俺は…」
「宗次郎に心を解いてほしいのと同じくらい、お前には剣の道を一緒に歩んでほしいと俺は思っているんだ」
土方はその言葉に目を見開き、思わず剣先を下したが、勝太は素振りを止めようとはしない。まっすぐに前を見据えて、同じ動作を正確に繰り返していた。
「…おいおい、かっちゃん。俺を買いかぶり過ぎだぜ。俺はただ自分勝手に生きているだけだ。剣をしたい時にして、女と遊びたい時に遊んで、寝たい時に寝る。そんな人生だ」
動揺しているのを悟られたくなくて、土方は茶化して返した。しかし、勝太の表情は真剣だった。
「それでも、結局は剣に帰ってくる」
「……」
その短い台詞は、何一つ間違っていない。
「これは俺の我儘だ。歳にも歳の事情があるし、宗次郎もやりたくないと思っているのなら、俺が押し付けてしまってはいけないことなのだとわかっている。けれど…諦めきれない」
「……」
「聞き流してくれ」
勝太はそういって話を締めくくる。その後は荒い息を吐きながら「はっ、はっ」とリズムよく素振りを繰り返していた。
きっとこの男は、ずっと諦めないだろう。土方が入門するのをいつまでも待っているだろうし、宗次郎が自ずから自分の才能を発揮しようとするのを、待っている。
まるでずっとそこに生えている大木のように。何年も何年もその場所に根強く立ち続ける。
土方はゆっくりと構えなおして、もう一度素振りを始めた。隣の勝太にリズムを合わせて、身体中の神経を一つにつなげて、一振り一振りに力を込める。心地よい疲労感が積み重なっていく。
(俺だって…)
ここにいたいという気持ちはある。この数日間の客人のような扱いではなく、門下生として道場のそして勝太の役に立ちたいという気持ちはいつでも。豪農である実家や口うるさい姉は、放蕩息子が試衛館に入門したとなれば、最初は気難しい顔をされてしまうかもしれないが、最終的には許してくれるだろうと思う。そういう意味では信頼している。
だから、これは自分自身の問題だ。心のどこかで、今の生活を変えたくない、踏み切れない気持ちがある。
(…門下生になったからってどうなる?)
生まれ持った身分が変わることがない。農民風情が剣術を身につけて得られるのは自己満足だけだ。宗次郎のようにこの先に期待が持てるわけではない。せいぜい、勝太のように道場主止まりの人生だ。それに我流を極める土方はきっとそこまではいけないだろう。
(だからきっと…いまは諦めかけている)
目の前の幼馴染のようなうらやましい程の愚鈍さは、自分にはないのだと実感する。
『夢』だなんてものは、霞みと同じで、きっと手に触れられないし、食べられもしないし、ぼんやりしているのだと見切りをつけてしまっている。
「同じか…」
そう言う意味では、宗次郎と同じだ。
後ろを向いて、前に背を向けて、歩いている。

素振りが三百回を超え、そろそろ朝餉を知らせる声がかかるのではないか、と言う頃。バタバタと騒がしい音が道場へ近づいてきた。
何かあったのか、と二人が剣先を下したとき、道場の出入り口に顔を出したのは二人が思ってもいない意外な人物だった。
「お義母さん、どうかしましたか?」
息を切らした様子で駆け付けたのはふでだった。きょろきょろと道場を見渡して、何かを探している。
「あぁ…ここじゃあない…」
そういうとふでは呟いて踵を返そうとする。どうやら勝太の声は耳に入っていないようだ。出て行こうとするふでを土方が止めた。
「ふでさん、どうかしたのか」
「あ、ああ…歳さん」
土方の言葉は耳に入ったようで、ふでは足を止めた。しかしおろおろと落ち着かない様子のふでの元へ、二人は駆け寄った。よく見るとふでは顔色を真っ青にして、苛立つというよりは焦ったように眉間に皺を寄せていた。しかし口は重く、「いや…ねえ」と不自然に言い淀む。その様子に
「お義母さん、何かあったんじゃないですか?」
焦る勝太は促す。ふでの様子からは悪い予感しかしなかったからだ。しかし、ふではしばらく考えて曖昧に答えた。
「……それが、よくわからなくてねえ」
「わからない?」
土方と勝太は顔を見合わせる。ふでは「ふぅ」と一息つくと、「来て頂戴」と二人を呼んだ。
意味が分からないまま、しかしついていくことしかできず、二人はふでに従う。道場を出て、土方が寝床にしている客間も通り過ぎて、小さな物置部屋――今は宗次郎が使っているらしい――にやってくる。
宗次郎になにかあった…そう察することができて、土方の胸騒ぎは加速した。
「朝、起きてくるのが遅いから、起こしに来たんだよ。そうしたら…」
ふでが恐る恐る扉を開けた。薄暗い部屋の中には人の気配がないので、宗次郎がいないのだと分かる。しかしそれよりも目に飛び込んできた光景に、二人は言葉を失った。
「…これは…」
それが、なにか、ということを一番早く察知できたのは土方だろう。
部屋には断片的な布状の何かが散らばっていた。無事なのは与えられている煎餅布団だけのようで、足を踏む場所もないほどに、埋め尽くされたそれはどれも形が違い、切り刻まれ、引きちぎられた様に糸が飛び出ているものもある。
(まさか…)
土方はふでと勝太を押しのけて部屋に入った。部屋中に広がる布を、一つ一つ確かめるようにして見る。俄かには信じられない想像が土方の中で湧き上がったが、(そんなはずはない)と何度も疑った。
しかし、恐ろしいほどの想像は的を射ていたようで、布切れのなかの一切れに土方は見覚えがあった。
「あ…」
やっぱり。
(あの風呂敷だ…)
見覚えがある一切れは、ミツから手渡された風呂敷の柄と同じだった。
つまりは昨日、宗次郎へ手渡したあの風呂敷の中身が、このように切り刻まれてしまっているということ。流石にいま目の前で動揺しているふでが行った嫌がらせの類だとは考えづらいので、おそらく宗次郎自身がそうしたのだということ。
「あいつ…」
(わけわかんねえ…!)
土方の胸騒ぎは一気に苛立ちと焦燥感と得体の知れない宗次郎への疑問へと変わった。
(ガキのくせに、へらへら笑って処世術身につけているくせに、頑固で意地っ張りで、どうしようもないあの子供が、なんでこんなことをするんだ…!)
自分を捨てた姉をそんなに憎んでいるのか?
この生活に疲れ切ってしまったのか?
それとも、何か他に理由があるのか?
そのどれの答えも、土方にはわからない。しかし一番わかるのは、
「馬鹿が…!」
(あいつが馬鹿だってことだ…!)
土方は握りしめた拳を、床に打ち付けた。
そしておもむろに立ち上がり、呆然と立ち尽くす二人を押しのけて、部屋を出ていく。
「歳、どこにいくんだ!?」
「あいつを探してくるんだよっ!」
ふでが散々探した後だろうから試衛館にはいないはずだ。土方は玄関に駆けこむようにして向かい、そのまま試衛館の外に出た。






土方は試衛館を飛び出して当てもなく走った。周囲に目をやるが、宗次郎の姿はない。そのうち息も切れてふと足を止めた。
(会って…見つけて、どうするつもりだ)
自分へ語りかけるが、思った以上に答えが出て来なかった。
せっかく姉さんにもらったものを、あんな風にしてはいけない…そんな正論を垂れるつもりなど毛頭ない。それにその行為を責めることが、何の意味もないのだと、宗次郎と過ごすこの数日で学んでいた。
(だったら、俺に何が言えるだろう…)
同情してやるのは簡単だ。可哀そうにと慰めてやることだってできる。けれどそんなのは一時的な解決しかなく、あいつはまた大人ぶって笑って、そして元に戻るだろう。そして同じことを無限に繰り返す。そんなのは足踏みしているのと同じだ。
だったら何を言ってやればいいのだろう。
「いや…違うな」
土方は再び足を踏み出した。荒い息はまだ続いていたが、立ち止まっている時間がもったいないと思った。
(俺は何かを言いたいんじゃない。あいつの話を聞きたいだけだ)
笑って嘘を付いた言葉じゃなくて、武装したかりそめの台詞ではなくて。
あいつの言葉が聞きたい。何を思っているのか、知りたい。
「危ないよー」
「いけないんだ!」
「母ちゃんに言いつけるよ!」
子供たちの声が耳に入り、土方は足を止めた。周囲を見渡せば、東の方向に古びた神社がある。神社と言っても、管理が行き届いていないのか空地のような場所になっていて、雑草が目立つ廃れた雰囲気だ。しかしそこには一本の桜の木があった。春の満開を迎えた桜が一本だけ咲いているので一際よく目立つ。そして、その桜の大木の周りになぜか子供たちの人だかりができていて、皆一様に桜の木の上を見上げていた。
土方は何か予感がしてそちらに向かう。集まった五・六人の子供の視線の先を見ると、やはりその姿があった。
「宗次!」
土方自身の身長を三倍くらいにしたような高い場所に、宗次郎がいた。細い枝に立つ姿は、下から見ているとはらはらするようなものだったが、当の宗次郎は平気な顔をして
「歳三さん?」
と少し驚いたように見下ろした。
すると、木登りの主の知り合いだと気が付いた子供たちが口々に
「あの子、誰?」
「あの子の知り合いなん?」
と、土方に詰め寄った。なかには土方の袖を引いてくるものもいて、「うちも登ってみたい」と言い出す子供もいた。ここで勝太なら抱き上げて木に乗せてやるような優しさを見せるのかもしれないが、しかし、もともと子供を苦手とする土方は上手く躱しきれない。それどころか足止めされるのに苛立って、
「うるせえ!」
と一喝した。すると子供たちはみるみると顔色を変えていく。恐れをなす子、泣きそうにる子、青ざめる子、すでに泣いている子…と様々だが、土方は(この隙に)と、取りあえず一番近い枝を掴み飛び乗った。
木登りは得意だった。子供の頃には木登りができると、奇襲をかけるのにも使えるし、木の上に逃げるのも戦法の一つだと思っていた。まさかこんな時に役立つとは思っていなかったが。軽々と気を登っていくさまは、下で見ている子供たちを驚かせたようで
「すっげー」
「ええなあ」
とどうやら結果的には子供たちの機嫌を取ることに成功したようだ。それにこの木に登るのは子供たちには難しいだろう。だが、彼らと体格がそう変わらない宗次郎にはできた。
『目が良いのかもしれない』
『目で見たものを、淀むことなく実行できる。そういう才能があるんじゃないか』
思い起こしたのは勝太の言葉。宗次郎の様子を見るとそれが、あながち間違いではないのだと思う。
(それも…聞けば分かる)
桜色に包まれた木々を、上へ上へと進む。次第現実味のない幻想的な場所に思えてくるような雰囲気へと変わっていく。ようやく宗次郎と同じ高さまで上り詰めると、宗次郎は思っていたほど暗い表情をしていない。
「歳三さん、どうしたの?」
「…その言葉、前にも聞いたぞ」
「そうですか?」
久々に会った、あの蔵で。助けに来た土方に、宗次郎は全く同じことを言った。
土方はバランスをとりながら、宗次郎と同じ枝に渡り、太い幹に近い枝に腰を下ろした。「こっちにこい」と宗次郎を手招きすると、宗次郎は素直に土方の隣に腰掛けた。
「お前は言葉を選んで、話すよな」
「選んで…?」
「これでいいのか、これで間違っていないのか…そう言う風に話すよな」
「歳三さんは違うんですか?」
宗次郎は特に疑問に思っていなかったようで、首を傾げた。土方は苦笑しつつ「俺は違うな」と答えてやる。
「俺は何も考えない。出たとこ勝負だ」
「ふぅん…」
宗次郎は曖昧な返事をして、それ以上話を続けようとはしなかった。土方は少しの沈黙の後に訊ねた。
「お前、何でこんなところに居るんだ」
「なんでって…登れるかなって思ったら、登れたんです」
「…」
その言い方だと今まで一度も登ったことが無いようだ。それが宗次郎にとって一番自然な感想で、それが才能だとか特別だとか全く思ったことが無いのだろう。しかし、土方が聞きたいのは、宗次郎に才能があるかどうか、そんな話ではない。
「なんでここに登っているのか、っていう話じゃねえんだよ。…いつもの処世術はどうしたんだ?」
「しょせい…?」
「下働きは、今日はしないのか?」
「……」
ストレートに訊ねてやると、宗次郎は急に唇を噛んだ。そして俯きがちに視線を落として「歳三さんには関係ないです」と、いつか聞いた台詞を口にした。いつもならここで引いて「そうかよ」と言って聞き流していたが、それが宗次郎の為にならないのだと、わかった。
「関係なくはないだろう。試衛館は大騒ぎだぞ。ふでさんが血相変えてお前のことを探してて、稽古途中だった俺にはいい迷惑だ」
少し大げさに話してやると、宗次郎の顔色はみるみる暗くなっていった。
「女将さん…怒ってたんですか?」
「違う、心配してんだよ」
あんなに血相を変えて試衛館中を探し回るふでを、土方は初めて見た。それは宗次郎に苛立ちを覚えているのではなく、ふでもこれまで感じていた少しずつの罪悪感を目の当たりにして動揺していたのだろう。
しかし、宗次郎は首を横に振って
「そんなのはうそです」
と信じようとはしなかった。
「嘘じゃねえって。なんならいまから試衛館に戻ってみろよ。ふでさんはお前を怒ったりしねえよ」
「……」
土方は念を押してやったが、宗次郎は頑なだった。口答えはしないものの唇を噛んだまま首を横に振って、まったく信じようとしない。しかし、土方は言葉を止めなかった。
(こいつの本音が聞きたい)
そう決めた決心が鈍ることはなかった。
「お前は、姉さんのことが嫌いか?」
「……っ」
それまで平静を保っていた宗次郎の表情が少し崩れた。
「突然家を追い出されて、姉さんを憎んだか?」
「……そんなの…」
「宗次、ここにはふでさんもいねえし、周助先生もかっちゃんもいねえ。聞いているのは俺だけなんだ」
だから、なにも嘘を付く必要はない。
少し気恥ずかしさで躊躇いつつも、土方は宗次郎の頭を撫でてやった。最初はびくっと驚いた反応を見せた宗次郎だが、次第に土方の手のひらの感触になれていったようで、緊張を解いた。
「…姉上のこと、嫌いになったんじゃありません」
「でも、切り刻んでただろう」
隠すことなく指摘してやると、宗次郎の表情が歪んだ。
「…それは、姉上のことが嫌いだからそうしたんじゃ…ない、です」
「じゃあなんだっていうんだ。嘘はつくなよ」
「……だって、あの着物は…姉上の匂いがしたから」
明らかに、宗次郎の声色が変わっていた。それは初めて出会ったときの、迷子になって泣いている、あの宗次郎と同じものだ。ぎゅっと拳を握りしめて、何かに堪えるように。
「宗次…」
「ずっと捨てられたんだって、そう思った方が良いんだって…でもあの姉上の着物には、懐かしい匂いがした。でも、帰れない。帰っちゃダメなんだって、思ったら、ここがぎゅーって痛くなったんです」
宗次郎は心臓の辺りをぎゅっと押した。きっとその痛みの名前を知らないのだ。
「きっとあの着物を着たりなんかしたら、きっともっと、痛くなってつらくて、泣いちゃうんだって。そうおもった…から」
だから、いらない、きっと弱くなるから。
土方は想像する。
泣きながら、着物を切り刻むしかなかった、宗次郎のことを。すると自然に、宗次郎を抱きしめていた。子供になんかするわけもない、いままで女しか入れたことの無い腕の中に。
「歳三さん…」
「お前、もう家に帰れよ。そんなにつらいなら、帰っちまえよ…」
「…っ」
宗次郎の大きな瞳に、涙が溜まっていく。流さないように、零れないようにと堪える宗次郎が、いままでで一番子供っぽく見えた。宗次郎は完全に身体の力を抜いた。そしてその細く小さな手のひらで、土方にしがみついた。
「ごめんなさい…」
「なんで、謝るんだ」
「歳三さんに、めいわくをかけて…ごめんなさい」
たどたどしい謝罪は、全く必要のないものだ。土方は苦笑した。
「なにが迷惑なんだ。お前が大人ぶって笑って言うことを聞いている方が、よっぽど迷惑なんだよ」
「だって…」
だって、と言ったくせに宗次郎はそれ以上何も言おうとしない。土方は「なんだよ」と先を促すと、しがみついていた手を離して涙にぬれた顔を、土方の方へ見せた。
「若先生が…」
「あ?かっちゃん?」
脈絡のない名前を問い返すと、宗次郎は頷いた。
「若先生が…武士の子は、逃げちゃダメだって…そう言ったから」
「は?」
確かにそれは勝太の口癖に近い。何事にも正々堂々立ち向かう勝太の性格そのものだ。もしかしたら、宗次郎には「怯懦はもっとも男らしくない」とか何とか昏々と言い聞かせていたのかもしれない。
「……お前、まさか、かっちゃんがそう言うから、ふでさんに扱き使われてもだまっていうことを聞いていたのか?」
宗次郎は躊躇いつつも、頷いた。
(かっちゃん…)
苛つくやら、呆れるやら…言いようもない感情が土方の中で湧き上がる。結局は、言葉足らずの若先生の小言を忠実に守ったせいで、宗次郎が変に我慢をしていたということだ。帰ったら早速文句を言ってやろう…と思いつつ、土方は持っていた手拭いを宗次郎に差し出した。
「…いいか。かっちゃんが逃げるなっていうのは、ただ言うことを聞いてろっていうことじゃねぇ。お前のはただの嘘つきだ」
「嘘つき…?」
「悲しいのに、笑うのは自分に嘘を付いているんだろう」
「でも」
宗次郎はぐいっと土方の袖を引いた。
「そのほうが、みんな喜ぶよ。僕が我慢して仕事をしていれば、ふでさんも怒らないし、女中さんも楽だし、姉上も喜ぶから…だから」
僕は嘘を付いたんだよ。
それの何がいけないの?
と、宗次郎の台詞がまるでそんな風に聞こえた。
それは何の武装もしていない、無垢な言葉で、だからこそ土方は答えに詰まった。
もし、遠くに下働きに出した弟が連日泣いて「帰りたい」と口にしているのだ、と知れば姉は飛んで迎えに来るだろう。それをわかっているから、宗次郎はそうしない。容量オーバーになるまで堪えて、我慢して、逃げないように自分を奮い立たせるのだ。
(お前が嘘を付くのは、それが誰も傷つけないからなんだな…)
でも、
(でもな)
土方は両手で宗次郎の顔を挟む。そしてぐいっと自分の方へ寄せた。
「…宗次、それはただ楽をしているだけだ」
「らく…?」
「戦わずに逃げてるだけだろ」
「にげる…」
宗次郎が若先生の「逃げるな」という掟を忠実に守っているというのなら、それを利用することが話が早いだろう。
「何でもかんでもはいはい言ってりゃ楽だよな。そうすれば誰もお前を責めたりなんかしないし、聞き分けが良いって褒めてくれるだろう。けど、それはお前にとって苦しいばっかりだ。だから、嫌なことは嫌だと言え。そういって戦え。それから、もっと頼れ」
「たよる…」
「若先生がお前のことをどれだけ気にかけてると思ってるんだ」
呆然とした宗次郎は、まるでいままで勝太に気にかけられていたことなど気が付いていなかったらしい。周囲を見ているようで、何も見えていないのはやはり子供だからだろう。
「…お前は一人で生きてるんじゃないだろう」
突然、風が吹いた。桜の花を揺らすかせで。花びらが通り抜けていく。気まぐれのように桜色が揺れて、青空を覗かせた。
風でバランスを崩しかけた宗次郎を、土方が抱き寄せた。
「風が吹いてきやがった。そろそろ試衛館に戻ったほうが良いな…」
土方が飛び出したあとの試衛館では、今か今かと宗次郎の帰りを待つ若先生の姿があるだろう。そしてその傍らには無関心を装いつつも落ち着かない様子のふでもいるはずだ。
「降りるぞ」
土方の命令に、宗次郎は素直に頷いた。抱き寄せていた腕を離して、土方はさっさと降りていく。どうやら先ほどまで群がっていた子供たちは解散してしまったようで、下には誰もいない。そこそこの高さから飛び降りて宗次郎を待つ。
一方、宗次郎は恐る恐る、慎重に降りていた。登るときには感じなかった、高さの恐怖を味わっているのだろうか。たどたどしく幹を掴みながら降りてくる宗次郎の顔が引き攣っている。土方は苦笑しつつ叫んだ。
「飛び降りろよ」
「え?」
「受け止めてやるから」
そういって腕を広げた。宗次郎からすれば高い場所から飛び降りるイメージだろうが、土方からすれば大した高さではない。受け止めるのも容易だろう。
宗次郎は少し迷っていたが、自力で降りるよりは、と決心を固めて土方目掛けて飛んだ。丁度、腕の中に飛び込むようになり無事に受け止めることができた。
「…歳三さん」
「なんだよ」
「ありがとう」
何に対する礼なのか、厳密にはわからない。受け止めてやったことなのか、迎えに来てやったことなのか、説教をしてやったことなのか。
しかし、一つわかることがある。いままでの宗次郎なら「受け止めてやる」と言ったところで「いいです」「大丈夫です」と頑なにその救いの手を拒んだだろうということだ。
(少しは信用されたか…)
そう思うと、土方の表情も少し緩んだ。
そして宗次郎は嬉しそうに笑っていた。それが嘘ではないのだと、きっと誰にでもわかるような満面の笑みだった。
 






試衛館に帰り着くころには既に昼を回っていた。試衛館の門では、うろうろと落ち着かない様子で帰りを待ちわびる勝太の姿があり、土方はそれを見るなり苦笑した。
「かっちゃん」
名を呼ぶと、勝太はすぐに気が付いてこちらに駆け寄ってきた。
「歳っ!宗次郎は…」
「しっ」
唇の前に人差し指を突き立てて、静止を促す。宗次郎は土方の背中で安らかな息を立てていた。
「途中までは歩いてたんだが、ふらふらと眠そうにしてるから担いでやったんだ。しばらくは寝かせといてやろう」
「ああ…そうか、でも、何にせよ見つかって良かった…」
心底安堵した様子で、勝太は胸をなでおろした。
ひとまず事情を説明するのは後にして、土方は自分の部屋――試衛館の客間に宗次郎を連れて帰った。布団に寝かせても、起きる様子が無いのですっかり寝入ってしまったらしい。
「こうしてみると、子供っぽいんだよな」
勝太は笑いながらそういうが、土方にはまた別の感想を持った。
(やっと気が抜けたか…)
いつも緊張感を持って過ごしてきた宗次郎が、ようやく本音を吐露することでその呪縛から逃れたのだろう。
「…取りあえず腹が減った。朝餉を食い逃したんだ」
「ああ、そう言うと思ったよ」
勝太はぽんぽん、と軽く土方の肩を叩いた。それはまるで土方を労るようだった。


ふでが持ってきた朝餉の残りをかきこみつつ、土方は宗次郎のことを端的に説明した。宗次郎は宗次郎なりに勝太の教えを守ろうとしたのだと伝えると、涙ぼろい幼馴染はうっすらと目尻に涙を浮かべつつ、「そうか、そうか」と頷いていた。傍に控えていたふでも、怪訝そうな表情を少し崩して俯いた。
「そう言うことだったのなら、俺にも責任の一端はある。宗次郎が大人びて見えたのは、宗次郎にそう在ってほしいというただの驕りだ。宗次郎も年相応の我儘や言い分があることをすっかり忘れてしまっていた。そのことを、謝らなければならないな」
誠実で正しくあろうとする勝太らしい、素直な考え方だ。その素直さは土方にはないものなので、驚きもするが、土方は敢えて制止した。
「いや、かっちゃんが謝るとあいつは立場がなくなる。このことは肝に銘じておくだけでいい」
「そうだが、しかし…」
宗次郎が謝罪を必要としていないのは土方が一番わかっている。むしろ今回のことは、喧嘩両成敗なのだと思っていた。
尚も食い下がろうとする幼馴染を遮って、土方は「おふでさん」と話の矛先を変えた。
「宗次は確かにガキだ。やることなすこと、おふでさんの気に障ることもあるだろう。けれど、それは正しく教えてやればすぐにあいつは学習できると、俺は思う。あいつは馬鹿じゃない」
「…」
「長い目で見てやってほしい。あいつはまだ十にもなっていないんだ」
ふでは俯いていた目を、さらに逸らした。横顔しか見えないものの強情で頑固なふでらしい表情をしていたが、「わかったよ」とぶっきらぼうではあるが理解を示してくれた分、進歩があっただろう。ふではそれだけ言うとそそくさと部屋を出て行った。
その姿を二人で見送ると、ポツリと勝太が呟いた。
「…歳は、魔法使いか何かなのか?」
「あ?」
勝太は唖然とした表情だった。一体何のことだと土方の方が驚いていると、勝太は嬉しそうにその大きな口を開いた。
「たった十日くらいで、いろんなことを解決してしまった!俺やお義父さんがお手上げ状態だったのに、あっさりといい方向に向けてしまったじゃないか」
「たまたまだろう、たまたま…」
「お前にはお前の、そういう才能があるんだなあ」
感嘆するように勝太が言うので、土方は「何なんだよそれは」と皮肉ぶって返した。
(才能…ねえ)
十日ほど前、宗次郎のためにどうにかしてほしい、なんていう幼馴染の無茶な話を聞いたときは到底無理だと思っていた。けれど、確かに結果だけを見れば色々なことが解決してしまったのだろうと思う。勝太の言うとおりそれは、勝太にはできなかったことだろうし、他の誰にもできなかったことだろう。そう言う意味では、土方にはそういう能力…までも、特技があるということだ。
だがまだ、全面解決とはいかない。土方の中で宗次郎について納得できないことが残っている。
「かっちゃん」
「ん?」
「まだやることがある。俺が出ていくまでには何とかするから…今日中には解決しておくつもりだ。まあ、失敗したらそれまでなんだけどな」
その「解決できていないこと」に心当たりのない勝太は首を傾げていたが、土方は答えてやらず、構わず温もった味噌汁を最後の一滴までを飲み干した。箸をおき、両手をそろえて「ごちそうさま」とあいさつをする。
「やっぱり出ていくのか…?」
寂しげに、しかし引き留めるわけでもなく、勝太は微笑みつつ訊ねてきた。今朝のやり取りでは「聞き流してくれ」と話を締めくくった勝太だったが、やはり土方に入門して欲しいと言う気持ちが強いのだろう。
土方は正座を崩して胡坐をかき、「ふっ」と笑った。
「かっちゃんが言っていた通りだよ。俺には俺の事情がある。そもそも入門なんて型に嵌るようなやり方が、俺に合っているのかわからないからな」
「そりゃお前は今まで我流でやってきたのだから、そうなのかもしれないが、基本だけでも型に嵌ることでもっと強くなるんじゃないかと思うんだ」
「期待に添えるかわからねえ」
「お前なら大丈夫だ」
頑なに主張する勝太の目は、鋭く真剣だ。剣の話になると途端にこれだ。「やれやれ」と土方は苦笑した。
(剣術馬鹿だからな…)
だから、良く知っている。土方のことも。
「…だから、かっちゃんの言った通りだって」
「ん?」
「最後には、必ず…剣に帰ってくる」
最初は意味が分からず、目を丸くした勝太だったが、「歳…!」と感激した様子で破顔した。土方は「止せよ」と少し目を逸らして続けた。
「たぶん、そう言う風にできてる。いまはうだうだ言い訳を探してるけど…たぶん、俺はそのうちここに戻ってくるんだ。どこへ行っても、どうしようもなくここに帰ってくる。だから、かっちゃんはそれまで道場を守っていてくれ。そうすればいつかそういう日が来る」
確証はしない。それがいつになるのか約束はできない。もしかしたら来年なのかもしれないし、五年後か、十年後なのかもしれない。
(でも、想像出来ちまうんだよな…)
ここで勝太と一緒に剣を振っている自分が。ここで何かを探して、もがいて、生きていく自分が。
「…信じていいんだな?」
「ああ」
土方が頷くと、勝太も頷いた。
もしかしたら宗次郎に感化されたのかもしれない、と土方は思った。「逃げるな」という教えを頑なに守る宗次郎に説教をたれておきながら、いざ自分の立場になると逃げ腰の自分が居た。それじゃあ駄目なのだと、刺激を受けたのは否めない。
そして、どうしてだろう。
(将来の姿に…あいつもいるんだ)
勝太と一緒に剣を振る、さらにその隣には宗次郎の姿がある。この予感とも確証ともいえない曖昧な想像でしかないのに…どうしてだろう。何故か大人びた宗次郎の背中が見えた気がした。


宗次郎が目を覚ましたのは、夕方になろうかという頃だった。辺りはうっすらと暗くなり、最初は朝かと思ったがそんなはずはないと慌てて体を起こした。
「ど…どうしよう」
こんな時間まで寝入ってしまったのは初めてだ。ふでや他の人が起こしに来なかったのだから、寝ていてもいいと言うことなのだとは思うが、それでも下働きの身分からすれば、一日布団で過ごしてしまっただなんて、褒められたことではないだろう。
しかし、久々に夢も見ないほど深く寝た。まるで日野の家に居た時のようにぐっすりと寝た。そのせいか気持ちがすっきりとしていた。
「…歳三さんの部屋…?」
辺りを見渡すと、いつもの狭い物置部屋ではない。立派な床の間がある客間だったので、ここが土方の寝床なのだと分かった。
そして枕元には一通の手紙が置いてあった。
「宗次郎…殿?」
自分の名前が書いてあることに驚きつつ、宗次郎は恐る恐る手紙を手に取る。くるくると折られた手紙の最初の文言で、宗次郎は手が止まった。
「は…果たし状…?」


 
10


明るかった空は、太陽が隠れるにつれてその姿を変えて、次第に黒く染めていった。それまで明るかった視界がどんどん薄暗くなると、人は不安になる。
けれど、人は知っている。夜は夜で美しい月と、星々が心を和ませてくれることを。そして彼らが朝を知らせてくれることも。
「春の夜は…」
土方は呟く。その後の上手い言葉が出てこないので、また沈黙する。その繰り返した。
人知れず続けてきた趣味である発句は、剣術同様、誰かに習うわけではない。剣術の方はまだ日の目が出そうな腕前だが、残念なことに発句の方はそうはいかず、一向に上達しない。しかし、こうして拙い自分と向き合える時間は、悪くないと土方は思っている。我の強い自分はいつも自由気ままに過ごしているが、こういう「苦手」な面に向き合うことで、周囲に目を向けているような気がするからだ。
試衛館の土方の部屋――客間で、ガサガサと人が動く気配がした。(やっと起きたか)と思っていると、早速部屋で寝ていた宗次郎が出てきた。
「…あ」
「よく寝てたな」
まさかすぐそばにいるとは思わなかったのだろう。庭先で夜空を眺めていた土方をみて、宗次郎は目を丸くした。そして裸足のままで庭に下りて来て、慌てて手に持っていた紙を土方につきつけた。
「これ!なんですか?!」
「いくらお前でも字ぃくらい読めるだろう」
「読めますけど!果たし状って…」
一体何のことですか、と問い詰める宗次郎に、土方は鼻で笑った。
「俺がお前に決闘を申し込んだってことだよ。俺の血判があるだろう」
「そういうことじゃなくて、なんでそんな…僕は剣なんて…」
「出来るとかできないの話じゃねえ。お前は俺の果たし状を受け取ったんだから、あとはやるか、やらねえか、それだけだ」
言い返せないように言いくるめてやると、宗次郎は困惑した。そして口篭もった宗次郎に、
「言っておくけど、拒否するなら逃げたとみなすからな」
とさらに追い打ちをかけると、宗次郎は顔を歪ませた。
「と、歳三さん…意地悪…」
「そうだ、俺は意地悪なんだ。だからとっとと決めろ」
逃げ口をふさいで選択を迫る。いくら大人ぶった処世術を身につけていても、こんな風に追い詰められてしまえば宗次郎はきっとぐうの音も出ないことを、土方は知っていた。
「…わかりました」
宗次郎は納得していないような表情だったが頷いた。すると土方は早速、宗次郎の手を取って「行くぞ」と歩き出した。
引きずられるように宗次郎は前のめりになりつつも
「どこへいくんですか?!」
と尋ねる。土方は笑って返した。
「道場に決まってるだろう」


土方が宗次郎を引きずって道場に来ると、すでに夜の道場には明かりが灯されていて、勝太と周助、さらにふでも揃っていた。あまりの大ごとに宗次郎は驚いていたが、もう引っ込みがつかないと悟ったのか、おとなしく従った。
宗次郎の小さな体格では胴着や面、袴が大きかったが、ギリギリ間に合わせることができた。勝太が宗次郎の準備を請け負い、竹刀を持たせ道場の真ん中に立たせた。
「いいか宗次郎、歳は手加減ってものを知らないからな。痛かったりしたらすぐにやめて、俺に言うんだぞ」
「おいおい、かっちゃん。酷い言いようだな」
「わかったな」
土方の言葉を無視して勝太が言い聞かせると、宗次郎は曖昧に微笑みつつ「はい」と頷いた。勝太は「よし」とぽん、と宗次郎の肩を叩き、上座へ座る。周助と目くばせをして早速、
「始めっ!」
という怒号が道場中に響き渡った。
宗次郎は打ち込んでは来なかった。足を左右前後に動かしつつ土方の様子を探っている。普通の子供なら、先手必勝と言わんばかりに猪突猛進してしまうものだが、宗次郎は冷静に見極めていた。その様は何年も剣をやってきたような風格がある。
「ほう…」
周助が唸り、勝太は息を飲む。ふでも少し驚いたように目を丸くしながら宗次郎の動きを追っていて、ひとまず土方の企みの一つは成功へと向かっているようだ。
(…さて)
相手の様子をうかがう宗次郎と同じように、土方も宗次郎の様子を観察していた。身体を小刻みに動かしているようだが、その眼差しは土方を射抜いたまま、まっすぐに見つめていた。
一番大切なのは目だ。
それは勝太の口癖でもあり、天然理心流のみならず他の流派でも共通する教えの一つだろう。目を逸らせば相手の動きが見えなくなり、そして自分の芯も揺らぐ。宗次郎がなぜそんなことを知っているのかは後で問い詰めるとしても、子供の時分だと竹刀を怖がったり逃げがちになるのが普通だ。そこを矯正していくところから剣は始まるというのに。
(もう身についている…)
突然、土方はダンッと一歩踏み込んだ。音もさることながら、小柄の宗次郎にとっては一気に相手に詰め寄られたような感覚だろう。しかし宗次郎は怯む様子はなく、後ろに引くこともなかった。それどこか土方の持つ竹刀を打ち払いつつ、右方向へ移動して同じように間合いを取り直した。そして素早い足捌きで土方の小手を狙い、竹刀を振り落す。
「お…っと、」
思わず声が出てしまったのは、思った以上に宗次郎の動作が素早かったからだ。払い落としてしまえば、体格の小さい宗次郎は簡単にバランスを崩すが、隙を突かれれば一本取られてしまってもおかしくない。
(ミツさんが言うように、本当に宗次郎が剣をやったことがないのだとしたら、おそらくはかっちゃんのいうことが正しい…)
目で見たものを再現できる。そんな風に言葉にしてしまうのは簡単だが、実際には誰にも真似はできないだろう。
そういうのを、何と言うんだったか。
「やぁっ!」
「!」
突然、宗次郎の甲高い声が道場に響く。土方は急いで後ずさりして躱したが、寸でのところで胴をとられるところだった。
土方にとっては「突然」だったが、それは宗次郎をはじめ三人の観客にとっては「突然」ではない。しかし土方がそれを「突然」だと思ったのは、『他の考え事をしていた』からだ。それは勝太によく注意される土方の悪い癖であり、集中力の欠如が原因だ。
だから、つまりは、それを宗次郎にも見破られたということ。
(末恐ろしい…つぅか、なんつうか…)
今の時点で、そう言う「気配」とか「雰囲気」を読み取ってしまう。それは長年、剣に携わって初めて身につく技能であり、宗次郎のような幼子が持っているべきものではない。
(天才…)
その二文字でしか、表わせない気がした。土方は再び、焦点を宗次郎に合わせる。宗次郎は相変わらず射抜くような瞳で土方を見ていた。
(だが、いくら天才であったとしても)
まだまだ自分が、劣るような腕前ではない。
土方はまた一歩を大きく踏み込んだ。面を狙い振り落した竹刀を宗次郎が受ける。叩きつけるように強い力で押し込んだ竹刀は、簡単に宗次郎の持つ竹刀を弾き、竹刀は手から逃れた。
「あ…」
もちろん宗次郎に竹刀を拾うような暇はない。土方は遠慮なく面を打ち込み、小気味よいほどのパァン!という音と、周助の
「それまで!」
という声で、試合は終わった。
いくら宗次郎が目で見たことを再現でき、天才だと呼ばれる逸材だとしても、そこに身体が付いて行っていない。体力や胆力といった地道に鍛えるべきものは、まったくゼロと言っていいほどに無い。そこにはまだ隙があるのだ。
宗次郎は慌てて落とした竹刀を拾う。そして一礼をして、一・二歩下がったところで面をとった。
「…負けちゃいました」
息を吐きながら宗次郎がにっこりと笑って、土方を見る。先ほどまでの鋭利な表情とは真逆の、子供っぽい笑い方だ。おそらく本当に楽しくて仕方なかったのだろう。
土方が面を外していると、上座から勝太がおりて宗次郎の所へ向かった。
「宗次郎。…剣が好きか?」
いつになく真剣な表情をした勝太が短く、宗次郎に問いかけた。宗次郎は少し迷ったものの頷いた。勝太は「そうか」と嬉しそうに顔を綻ばせて、大きな手で宗次郎の頭を撫でた。
すると今度は勝太が上座に向かって正座をした。
「お義父さん。宗次郎の入門を認めて頂けませんか」
「若先生…!?」
一番驚いていたのは宗次郎だ。頭を下げる勝太の隣でおろおろと落ち着かなくなっている。
こうなることを土方が仕組んだわけではない。ただ、勝太ならそうするだろうという確信はあった。
「俺の一番弟子にしてください。きっと宗次郎は強くなる…試衛館の、天然理心流の看板を背負う才能があると思います」
勝太の言い分に、宗次郎は唖然としていたが、それは言い過ぎではないはずだ。
それに同意したのか、お義父さんと呼ばれた周助は、腕を組んでただ深く頷いた。
「…入門を認める。宗次郎、今日からお前は門下生だ」
重い口調で告げられた入門の言葉。しかし宗次郎は首を横に振った。
「大先生、でも…!」
ちらりとふでの方を見た。下働きとして世話になっている自分が門下生になるということをふでが認めるわけがないと思ったのだろう。しかしふでは、表情を崩すことなく
「わかりました」
と周助の意思に従った。普段は頭の上がらない周助だが、剣術においてふでが口出しするようなことはない。土方は内心(よし)と丸く収まったことに安堵したが、意外にも食い下がったのは宗次郎だった。
「待ってください。あの、ちゃんと働きます。役に立たないまま置いていただくのは嫌です!」
同じ年の土方なら絶対に出てこなかった言葉だが、宗次郎は頑なな意思で主張した。働きもしないで置いてもらえることには罪悪感しかないのだろう。
するとふでがふっと顔を緩ませる。
「…もちろん。貴方が一人前の門下生になるまではちゃんと働いてもらいます。こっちは人手が足りないんですからね」
「おい、ふで…」
それでは稽古と下働きでは今よりきつくなるだけだろう。周助が苦い顔をしたが、ふでは凛とした眼差しを宗次郎へ向けた。
「でも、食事の分くらいで結構よ」
「え?」
その場にいた四人がふでの台詞に顔を見合わせた。何かの聞き間違いではないのかと疑った。
するとふでが「こほん」と軽く咳払いして、おもむろに立ち上がる。そして傍に置いていた風呂敷を抱えて、宗次郎の傍にやって来た。ふでは何も言わず膝をついて、その風呂敷を解く。その中には一着の着物が入っていた。
「お義母さん、これは…?」
何も言おうとしないふでに、勝太が恐る恐る訊ねた。ふではきまり悪げに切り出した。
「…あんまり細かく切るものだから、つなぎ合わせるのに苦労しました。数着あったでしょうけど、大きいものを選んで縫い合わせたのだから、この一着を仕立て直すので精一杯よ」
「女将さん、これ…」
宗次郎と、そして土方もその着物に見覚えがあった。今朝、宗次郎が切り刻んでいた着物の柄が、継ぎ接ぎではあるが縫い合わさり、一着の着物として形を為していた。
(…素直じゃねえな)
そう思いつつ、土方は苦笑した。ふでなりのこれまでの罪滅ぼしなのかもしれない。
しかしそんなそぶりはふでは見せようとせず、いつもの説教を始めた。
「家族を大切にできない人は、剣が強くたって、頭がよくったって私は一人前とは言いません。遠くにやってしまった弟のことを考えて、夜通し縫った姉上様の気持ちを考えましたか?どれだけ悲しまれると思いますか?」
「…ごめんなさい」
着物を抱きしめつつ、宗次郎が俯いた。ふでは一息ついて、宗次郎の方へ向き直る。
「姉上様の為にも早く一人前におなりなさい。そして一人前になったらこの試衛館を盛り立てるために、勝太さんの役に立ちなさい。右腕となって働くのです。わかりましたか?」
「あ…」
「返事は?」
「は…はい!」
宗次郎が急いで正座して、頭を下げる。
「ありがとうございます。大先生、若先生、女将さん、僕は絶対に役に立つようになります!」
宗次郎はそのあとも「ありがとうございます」と何度も繰り返して、勝太が「もういいよ」というまでその感謝を繰り返した。土方はこっそりと道場を出た。あの花が咲くような笑顔で見つめられると、くすぐったくて照れくさくて…おかしくなりそうだったからだ。



「本当にもう行くのか?」
深夜、皆が寝静まり静寂だけが夜を包む時間に、土方は荷物を抱えて試衛館の門をくぐろうとした。見送りは勝太だけだ。
「ああ。大先生とふでさんにはよろしく言っておいてくれ」
「宗次郎には?」
「…ま、言うことはなにもねえかな」
道場での一騒ぎのあと、宗次郎は晩飯をすぐに平らげて、眠ってしまった。これまで張りつめていた緊張の糸が途切れてしまったのか、その姿はこれまでの分を取り戻すようだ。あどけない寝顔を見て、もう別れをいう必要はないな、と土方は思った。
「本当にありがとうな、歳」
「…俺は、何にもしてねえよ」
「嘘を付け。宗次郎の為にいろいろ骨を折ってくれたじゃないか」
照れるなよと言わんばかりに勝太が笑うが、土方としては何かした覚えがない。肩に背負う荷物を担ぎなおして、傘を被った。
「むしろあいつが俺に教えてくれたくらいだ」
「ん?」
「俺の為すべきことを…な。だから、あいつのことに関して礼なんかいらねえんだ」
道に迷う迷い子を助けたつもりが、いつの間にか道を教えられているなんて、今から思うと何やら可笑しい気もする。土方がそういうと、幼馴染は「わかった」とわかってないくせに頷いた。
「お前が入門する頃には、宗次郎はもっと強くなっているだろうな。追い越されたくなかったら、早く戻ってこいよ」
「…戻ったとしても、俺はあいつの兄弟子だからな。そこんとこはちゃんと教育しておけよ」
勝太は「はいはい」と受け流して笑った。
立ち話もこれくらいにしよう、と土方は勝太に背を向ける。
「じゃあな。元気でやれよ」
「ああ。お前もな」
土方は一歩を踏み出して、試衛館を出る。
春の夜はまだ寒い。試衛館を出ると不思議とさらに肌寒くなった気がして、やはりあそこは暖かい場所だったのだと思い知った。
けれど、この道を引き返すわけには行かない。
宗次郎の進むべき道がここにあったように、土方の進むべき道がどこかにあるはずだ。そこへの道筋を迷い、遠回りをして、行き止って、立ち止まることがあったとしても、この道の最後には試衛館がある。勝太がいて、宗次郎がいる。その安心感があるから、回り道こそが、自分にとっての近道になるだろうと思える。
土方は空を見上げた。
冬の寒さが残った夜空はいつもよりも空気が澄んで見える。そして幾千の星がこの先の道を、照らしてくれている。まるで降り注ぐような、舞い散るような星が、目の前に広がっていた。


















−epilogue−


土方の長い話を聞き終わる頃には、隊士たちが各々持ち回りの場所の清掃を始めていた。屯所はできるだけ綺麗に保つようにという山南の指示だ。
総司は腕を組み、「うーん」と眉をひそめて、珍しく難しい顔をしていた。
「何だよ、覚えてねえのか?」
出来るだけ臨場感を持って伝えたつもりだが、総司は躊躇いつつも頷いた。
「何となくは覚えているんですけどね…でも土方さんと再会したのは剣術を始めてからだと思っていたから、それには吃驚です」
「俺には大事だったんだけどな」
いまから考えれば、一度しか会ったことの無い幼い宗次郎の為に齷齪走り回り、説教を垂れて、導いてやったのだから
感謝されてもよさそうなことだ。
しかし、総司は少し口を尖らせた。
「何だか話を聞いていると、私はものすごく素直じゃなくて、気難しい子供みたいじゃないですか」
「そうだったんだから仕方ねえだろう」
「近藤先生からはそんなこと聞いたことありません」
不満げに、土方の主観が入っているんじゃないか、と言わんばかりの疑いの目を向ける総司だが、真実だったのだから仕方ない。
「近藤さんはお前に甘いんだよ。というか、かっちゃんももう忘れてるんじゃねえのか?」
土方にとっては試衛館にふらりと寄って巻き込まれた大事件だったのだが、試衛館で過ごす彼らにとっては日常の一部だったのかもしれない。
もしくは触れられない過去として片づけたということも考えられる。
「ま、天才だ神童だなんだかんだって言われてたお前だって、そういう捻くれたところがある方が、まだ可愛げがあるってものだろう」
「別に天才だなんて思っていなかったと思いますよ」
総司は組んでいた腕を解いた。
「土方さんの話を聞いて、何となく思い出したんですけど。私は目で見たものをすぐに再現できる…なんて、荒唐無稽な技術を持っているわけじゃないですよ」
「たまたま、だとかいうのか?」
だとしたらそれは遠慮が過ぎると言うものだ。土方は眉間に皺を寄せる。謙遜は度が過ぎるとただの嫌味だということは総司が一番知っているだろう。
すると、総司は「いいえ」と首を横に振った。
「たまたま…というか、あの頃の私はこっそり修練していたんですから」
あっけらかんと語り、笑った総司は、土方の「は?」という驚いた顔を見て、さらに嬉しそうに笑った。まるで悪戯が成功した子供のように。
「修練…って、お前はあの時、下働きで忙しくしてたじゃねえかよ。稽古をしようものならふでさんに怒られて…」
「だから、こっそり稽古してたんです。蔵に閉じ込められれば、それはそれでいい時間ができたと思って素振りをしていたし、道場をこっそり覗いて
 剣術のことを目に焼き付けていたんです。誰もいない庭で箒を竹刀に見立てて練習したり…まあ、ふでさんにはバレてたと思いますけど」
苦笑しつつ語る総司は楽しそうだ。
「でもふでさんは私がそうやってこっそり素振りとかしていても、3回のうち2回くらいは見逃してくれていたんですよ。あれでも。
 だから私は特に下働きが嫌だと言うわけではなかったし、剣術もできないならできないで、自分でやろうと思っていたし…」
「…おい、その話をかっちゃんは知っているのか?」
「ご存じないと思いますよ」
あっさりと語る総司に、土方はがっくりと肩を落とした。だったら、土方の行動のうち半分くらいは骨折り損…というか、無駄骨というか。
(しかし…だからといって、あそこまで再現できるものではないだろうが)
我流の難しさは土方が一番知っている。だから、幼い宗次郎が道場を覗き見たり素振りをしていたからと言って、できるような剣捌きではなかったのだ。
しかし、それを言えばまた笑って謙遜するだろうから、土方は口を噤む。
「でもまあ、本気で剣術をやりたいと思ったきっかけを、土方さんが与えてくれたということがわかったので、良かったですけど」
ふふ、と笑う総司は片膝を立てる。
「役に立っています?」
「…あ?」
「私という名の剣は、役に立っているんですかね?」
少し自虐的な問いかけに、土方は笑って返す。
「お前自身も、お前の剣も役に立ってるだろう」
「…ならいいんです。でもまだ一人前とは思えないなあ…」
ほっと安堵したように総司が微笑む。そして立ち上がると、ぱんぱんと袴の皴をとった。
「今度、近藤先生も同じお話を聞かせてみてくださいよ。近藤先生も覚えていないと思います」
「ああ、だろうな」
「じゃあ、土方さん。お掃除の時間ですからちゃっちゃと働いてくださいよ」
「はいはい」
その口調は、あの試衛館の女将に似ている…そんなことを思って土方は内心苦笑した。
彼らが忘れてしまっているとしても、土方の記憶にはずっと生き続けている。
(そう言えば…)
あの満天の星が示した道を、歩けているだろうか。















最後までありがとうございました。
わらべうた1から2話の間のお話ということでしたが、本編とは微妙に辻褄が合わないような部分があるかと思います。
(あくまで本編は総司目線のお話で、今回は総司が『覚えてない』ということで、スルーしていただければ幸いです…笑)

教えているようで、教えられていることってたくさんありますよね。
それはきっと人生のなかでたくさんの出会いがあればあるほど、増えることで。
宗次郎にとって、そして土方にとってすべてのスタートラインに立たせてくれていたのがお互いだった……
「星の舞い散る」はそんなお話です。

ありがとうございました。
またご感想などお寄せいただければ、飛び跳ねて喜びます!
 

星の舞い散る

Stars are Fluttering down