ふたあい 1




寄り添うように重なった手のひらの同じ場所に黒子が刻まれている。疎い者なら気が付かず、めざとい者なら内心ほくそ笑むような印を視界に収めつつ、伊庭は寝不足の頭と身体をまだ甘やかすことにする。
(ああ、やらかした…)
手紙を書いている途中から記憶がない。他愛もない会話を交わしていたはずの幼馴染が、肩に触れて口づけをせがみ、もつれ合うように身体が絡み…あとは朝を迎えて正気となった今では思い出すのが気恥ずかしい。
相方は未だに夢のなかのようで腕枕を差し出しつつ無防備に眠っていた。
(官吏のくせに、腕枕が硬い)
剣の腕は比べるまでもなく伊庭の方が数段上なのに、本山の腕は太くて逞しい。固い枕を好む伊庭にとって悪くない枕だが、大して鍛えてないくせに生まれつき筋肉質なのは羨ましい限りだ。
慶応三年、夏の兆しが見え始めた江戸。
目まぐるしい情勢に翻弄される幕臣の一人であるが、
(…こんな呑気にしてて良いものか…)
伊庭は天井を見上げながら苦笑した。
さまざまな出来事を乗り越えて晴れて友人から恋人へと昇格したものの、伊庭は上洛した将軍に付き添い都で過ごす日々の方が長かった。離れ離れとなった本山と頻繁に手紙のやり取りをしていたが、結局若き将軍が突然亡くなるという悲劇とともに江戸へ帰還を果たすことになってしまい、素直に喜ぶことはできなかった。
「…八郎、起きてたのか」
あれこれ考えているとようやく本山が目を覚ました。身体を起こしつつ、着崩れた胸元を隠そうともせず大きなあくびをする。
「さっき起きた」
「まだ朝早い。もう少し寝よう」
「嫌だ。お前のせいで文が途中だ」
伊庭が書きかけの文を指差すと、本山は「すまん」と頭をかいた。
昨晩、本山の部屋を訪れた伊庭は酒に誘われたが「これを書いたら」と文机に向かったものの、先に飲み始めた本山に早々に絡まれるろくに筆を取ることができなかった。
「悪かったよ、急ぎの文なのか?」
「…急ぎってわけじゃない。ただ…少し考えたかっただけだ」
伊庭は少し深刻な表情を浮かべながら曖昧に濁したので、本山は
「土方さんか?」
と尋ねる。こういう時だけ察しの良い本山をわざわざ誤魔化す必要はないので、伊庭は頷いた。
新撰組の近況は当人たちだけではなくさまざまなところから耳に入ってくるが、どれも誇張してあったり尾鰭がついて定かではない。それ故に土方からの文はいつも伊庭の好奇心をくすぐるものであったが、今回は違う。
「…沖田さんが、労咳に罹ったそうだ…」
「労咳…か…」
面識のない本山も流石に言葉に詰まった。
伊庭は本山の元を離れて着崩れた襟を整えて、土方からの手紙に再び目を通した。いつもと同じ近況のついでのように淡々と書かれた彼の労咳の知らせは、冷静な文言だからこそ土方自身の動揺や悲嘆が伝わってくるようで痛ましい。
「数日前に届いたが…どう返せば良いのか、わからない。過剰な励ましも、不必要な心配も…何もかも蛇足のような気がする」
「…そうだな…」
行き詰まった伊庭は昨晩、本山に助言を求めようとしたのだが、ひさしぶりに部屋を訪ねた伊庭を歓待し、まるで犬が尻尾を振るように喜ぶ本山に水を差すことができなかった。
清々しい朝を迎えたはずなのに空気が重くなってしまったのを感じ取ったのか、本山は
「はは、ようやくわかった。お前が最中にどこか気がそぞろになっていたのは、そのせいか」
と笑った。自覚があった伊庭は素直に謝る。
「…それは、悪かったよ」
「いや、許せないな。他の男のことを考えていたなんて。仕切り直しだ」
「まったく…」
本山の指先が伊庭の頬に触れてそのまま後頭部へと回った。引き寄せられて口付けし生々しい感触と体温を共有する。
「…俺も考える。一人で抱え込むな」
「ああ…」
初夏の朝に清々しい風が流れていく。
本山の肩口に顔を埋めながら、できることならこうやって何にも囚われずにこの男に没頭したいものだ、と叶わぬことを考えたのだった。

家茂公の死去から急に幕府の風向きが変わったように思う。それは今や政の中枢となった都だけではなく、江戸でも同じだ。
長州征討での敗戦を経験した幕府では、軍備増強が急がれていた。旗本の幕臣たちは剣を銃に持ち替えながら新しい組織の編成を目指す、そんな転換期にある。
家茂公の元で結成された奥詰隊は公の薨去によって解散となり、伊庭はどこか居場所に困りつつ時を過ごしていた。
「伊庭の旦那、まだ昼間だって言うのにおつかれですなぁ」
伊庭が通う『鳥八十』の板前である鎌吉は、酒の前にしじみ汁を差し出した。
「疲れにはこれが一番!ググッと飲めばたちまち活力が漲りますぜ」
「…ありがとう」
長い付き合いである鎌吉は伊庭の顔を一目見れば欲している料理がわかるようで、温かいしじみ汁が味に染みた。
「今日は本山の旦那は?」
「…寝こけているから置いてきた」
あれから家人の目を忍ぶようにもう一度身体を重ね、全てが終わると本山は再び眠ってしまった。伊庭も疲労が重なり一緒に目を閉じてしまいたかったが、家人に見つかると面倒であるので身体を引きずって裏口から出てきた。
(まったく、良い大人が脇目も振らず…ヤりたい盛りの犬か!)
伊庭は心地良さそうに眠る幼馴染を忌々しく思いまたその苛立ちをぶり返したのだが、そんな伊庭を鎌吉はにやにやとして見ていた。
「…なんだ?」
「旦那、ここにはまっすぐ来られたので?」
「ん?ああ、そうだよ」
「ハハ、正解です。あっちやこっちに行かれては困ったことになります」
「はあ?鎌吉、疲れているんだ、わかるように言ってくれ」
「色気がダダ漏れです」
快活な江戸っ子である鎌吉は、伊庭に躊躇なく答えた。
「その整いすぎたお顔が、何やら気だるげで頬ばかりが紅潮されては、さっきまでヤってましたって触れ回っているようなもんです」
ハハハと笑う鎌吉に含みはなく、思ったことを正直に述べているだけなのだろう。しかし伊庭は唖然として固まってしまった。あまりに赤裸々すぎて恥ずかしささえ感じないくらいだ。
「…いつから?」
「ハハ、そりゃ店に入られた時から」
「いや、そうではなくてお前はいつから…その」
伊庭は鎌吉が本山との関係に気がついているとは思わなかった。必死に隠すつもりはなかったが、触れ回るつもりもなかったのでこの店では以前と同じ態度で本山に接しているつもりだったのだ。
しかしそんな伊庭を鎌吉は笑う。
「いつから知ってたかと?ハハハ、旦那、愚問です。俺ァそこまで鈍感じゃありません。少なくとも本山の旦那よりは察しが良いつもりです」
「それは認める」
「その手の入れ黒子と本山の旦那の顔を見れば一発でわかります」
「…やはり、目立つか?」
入れ黒子については、礼子にもすぐに気づかれた。血の繋がらない兄のことを妹としてではなく女として見つめていた彼女にとって複雑だったようで、アッと驚いた顔をした後に視線を逸らしただけで何も言わなかった。礼子は本山とのことを知っているので尚複雑だっただろう。
しかし伊庭はそんな彼女は例外で、人の手に黒子が増えたとて誰も気がつくはずがないとたかを括っていたのだが。
鎌吉は腕を組んだ。
「いやぁ、正直黒子だけでは。でも本山の旦那の何やら満たされたような顔を見るとこりゃあ大願成就じゃないかと。随分昔から思われていたようですからなぁ」
「…そうなのか?」
鎌吉から見て本山の気持ちはあからさまだったらしいが、伊庭は無自覚だった。鎌吉は
「それこそ、ダダ漏れです」
と笑いながら、包丁を持ち仕込みを始めた。
伊庭は残りのしじみ汁を飲み干した。
(まったく…ダダ漏れか)
今度のため息にはどこか充足感があった。