ふたあい 2




「遊撃隊」
幕臣の子弟を集めた講武所から、将軍に近侍する奥詰へと抜擢され、長州征討に従軍した奥詰隊は家茂公の死去とともに解散となったが、一橋慶喜公のもとで正式に『遊撃隊』へと名前を変えることとなった。
義父から話を聞いた伊庭は
(そう珍しい名前でもない)
と特別な意識を持たなかった。
敵を定めず適宜必要な戦場へ向かう『遊撃』部隊は会津や長州にも在り、また第二次長州征討では若年寄の指揮のもと諸隊と併せて『遊撃隊』とも呼ばれ同じ働きをしたので、今回改まった形にはなるが特別な組織でもない。
けれど
「ついに大きな戦になるのかもしれない…」
と小さく漏らした義父の一言が、鼓膜でいつまでも響いていた。


家茂公死去に伴い、その遺体とともに一旦江戸へ戻った伊庭だが将軍の親衛隊である遊撃隊の半分は大坂に残っている。
「もうすぐ交替の知らせが来るだろうな」
伊庭は自室で本山を酒に誘い、少し酔ったところで敢えて素気なく口にした。一時の帰郷だと察していたものの本山は「そうか」と声を落としたが、しかし互いにすっかり大人になったので
「お役目だから仕方ないな」
と許容することができた。幕臣としてのうのうと暮らせるほど世間は甘くなく、特にこのところの世情の不安はすぐ耳に入ってきていた。伊庭は幕府の屋台骨が揺らいでいるいま、将軍を支えることが使命だと感じていたので、迷いはなかった。
「…そうだ八郎、『ええじゃないか』って知ってるか?」
しんみりしたくなかったのか本山は話を変えたので、伊庭もそれに乗った。
「ああ…噂だけ。西国の騒ぎだろう?男は女装して、女は肩を出し半裸で踊り歌い歩く…歯止めの効かぬ狂騒の宴だと聞いた」
「それがついに都や尾張、ついには駿府あたりまで広がっているって話だ。この江戸にもやってくるんじゃないかと役人たちは戦々恐々としているみたいだ」
「…楽しそうだな?」
騒動は三日三晩続くこともあると言い、歌い狂うだけならまだしも無銭飲食や盗みが横行する手のつけられない一揆のようなものだ。取り締まる側の伊庭としては厄介に感じているが、本山はそうでもない。
「『よいじゃないかー、えーじゃないか』って言いたくなる気持ちはわかる。自分達の信頼していた幕府は落ちぶれ、西国が力を持ち、異国に取り囲まれ四面楚歌…加えて不作で米は高い!民衆がいっそ『世直し』してくれと思うのは俺たちも同じだろう?」
本山は愚痴っぽく溢しながら、「えーじゃないか」「よいじゃないかー」と決して上手いとは言えない節回しを口にしつつ酒を飲む。楽観的な本山を見ていると深刻に考えている自分が馬鹿みたいだ。
「まったく…これだから江戸の役人は呑気なものだと見下されるんだ。ほら、酒を寄越せ」
「八郎、ちょっとあちらで有名になったからって都人気取りか?お前の噂はこっちにも散々聞こえてきたぞ、家茂公の前で色々格好を付けたらしいな」
「絡むなよ、やるべきことをやっただけだ」
伊庭は盃の酒を一気に煽り、口の端から溢れたものを拭った。そして若くして亡くなった主君への思いを馳せた。
第十四代将軍家茂公は将軍継嗣問題の際に『若い』『経験がない』と散々言われていたが、本人は穏やかで臣下をとても大切にした。上洛した際に伊庭も何度か剣術を披露する機会があり、お褒めの言葉と恩賜の品を受け取ったが、近くで接すると主君として相応しい貫禄と気品を感じたものだった。
しかし結局、わずかな希望だけをもたらして亡くなってしまった。
「お若いが…素晴らしい将軍だった」
「じゃあ一橋公…今の公方様はどうだ?」
本山は同じ幕臣という立場のくせに伊庭へ意見を求めるので、空になった徳利を押しつけた。
「お前、自分が幕臣だという自覚はないのか?先公がどうだとか、いまの公方様がどうだとか…俺たちが議論すべき話でもなければ、酒の肴に摘むような話じゃない。君たらずとも臣たれ、だぞ」
たとえ主君が相応しくない人物であったとしても、臣下は従うべき。幕府に恩義を感じながらも事情があり隠居した実父である秀業がよく家族や門弟に言い聞かせていた言葉だった。
伊庭の剣幕が鋭くなったので本山は「わかった、俺が悪かった」と降参のポーズを取った。
「ちょっと聞いてみたかっただけだ」
そういいつつ、「酔った」と脇息に身体を預けた。そしてまじまじと伊庭を見つめた。
「…なんだよ」
「返事は書いたのか?」
「いや…」
伊庭は自然と文机に目をやった。あれから数日経っても筆を取ることさえできずに、何をしていてもずっと心のどこかで引っ掛かり続けている。
「…いつも返事は早く出すんだ。土方さんのことだからきっと今頃、俺が書きあぐねていることに気がついているだろうな」
「もうすぐ大坂に戻るなら、直接話をしたらどうだ?同じ幕臣となったのだから機会を設けることくらい容易いだろう」
「…そうだな…」
伊庭は空返事を口にした。
本山の言う通り、目を見て話をすれば土方がどんな心境なのか察することができるだろうが、目の前にするからこそどう励ましたら良いかわからない気がした。それにあの格好つけの土方が伊庭を相手に弱音を吐くはずもないだろう。
悩む伊庭を見て、本山は頭をかきつつ
「帰るかな」
と急に立ち上がった。大抵朝まで飲み明かすのでそのつもりだった伊庭は驚いた。
「どうした?」
「この間、文が書けなかったと怒っていただろう?これ以上怒らせるわけにはいかない、今日は退散するからちゃんと…」
「嫌だ、帰るな」
伊庭は本山の手首を掴み、引き止めた。自分でもなぜそうしたのかはっきりと分からなかった。
「八郎?」
「…ま、まだ書けそうにないし今日は書く気分じゃない。それに…」
「それに?」
「今夜は…一人で寝るつもりじゃなかった」
カタン、と空の徳利が倒れた。
部屋を照らす蝋燭の光が揺れて、二つの影が重なる。
まるで箍が外れたように本山は唇を貪り啄み、伊庭は息を切らしながらそんな彼の後ろ頭に腕を回した。互いの身体が絡み合い、もつれて倒れる。触れ合う場所がまるで火傷をしたかのように熱くなる。
「八郎、…頼みがある」
「なに…」
本山が熱っぽく耳元で囁くので、伊庭は頷いた。
「大坂に戻るなら…せめて二人でいる時は他のことを考えるな」
小さな嫉妬を覗かせて、また口を塞いだ。
(ずるいやつだ)
頼みだと言いながら、返事を聞くつもりがない。それは伊庭がなんて答えるかわかっているからだ。
長い口づけで頭がぼんやりしたが、伊庭はなけなしの理性を働かせて本山の胸板を押した。
「…っ、小太…」
「なに…?」
「まだ、皆、起きてる…」
まだ夜更けというには早く、家人が寝静まっていない。
本山はほんの少しだけ迷ったが、
「あー…そうだな、まあ、『ええじゃないか』」
と言って微笑んだ。
独占欲を剥き出しにしたと思ったら、気が抜けるようなことを口にする。
(ここにいると、俺はお前に振り回されてばかりだ)
「わかったよ、じゃあ…塞いでてくれ」














遊撃隊が組織されたのは慶応2年10月ごろのようです。少し時間軸がずれています汗