ふたあい 3




あれこれと悩んでいる間に夏の盛りがやってきた。
「…暑い」
蒸し暑い夜は都に比べればカラッとして過ごしやすいが、それでも寝苦しいのは間違いない。
伊庭は口煩い義妹の目を掻い潜って、着流しのまま裏口から外に出た。夏の夜の散歩は屋内よりも風通しが良く心地良いので、気分転換に相応しい。
部屋でひとり煮詰まって考えているのは、土方への返答だけではない。遠い江戸へも伝わってくる政の混乱についてだ。
本山と半分冗談のように話していた『ええじゃないか』は瞬く間に国内に広がり、将軍のお膝元である江戸でも流行った。どうやら西国の倒幕を目論む者が敢えて流行らせたらしい、と幕臣の間では囁かれているが、それが真実でも偽りでも、国内の雰囲気が幕府が不要であるという方向へ動いているのは間違いない。加えて京へと長州や薩摩、土佐の兵が集まりつつあると聞く。
(そろそろ本気で戦になるかもしれない)
幕臣として、奥詰として、遊撃隊の一員として逸る気持ちは日に日に募るが、その頭である将軍の舵取りは不明だ。それが皆の苛立ちと不安をさらに煽る。
伊庭は夜空を見上げた。雲ひとつない空に満天の星が輝き、清々しいほど美しい。
「全部…嘘みたいな話だ」
幼少の頃に夢中になった天文学。その頃見上げていた夜空となにひとつ変わりないのに、幕府は倒れ戦が起ころうとしているなんて、江戸では実感がない。
涼しい風が耳元を通り過ぎていく。ふと傍に気配を感じ身を引いた途端、強く腕を引き寄せられた。掴み払い退けることもできたがあまりにも細い腕は振り払っただけで折れてしまいそうで気が引けたのだ。
月明かりで見える女は痩せこけている。
「オニィさん、百文でどうだい?」
「…こんなところで夜鷹に会ったのは初めてだな」
夜鷹は最下層の女郎で、道端で男を誘う。茣蓙一枚で商売をし、その金額はかけ蕎麦に等しい。
伊庭も何度か誘われたことはあるが、この辺りは静かで夜鷹に出会ったことはなかったので、驚いた。
すると女は「ふん」と鼻で笑った。
「流行りの祭りで縄張りが荒らされたんだ。『ええじゃないかええじゃないか』と半狂乱…終わってみればただの馬鹿騒ぎさ」
「ハハ、その通りだ」
「三日三晩、踊り狂うような連中の相手なんかこちらから願い下げだね」
伊庭はさっさと話を切り上げて振り切ろうと思っていたのだが、この女が案外賢いのではないかと思い彼女の話に耳を傾けてみたいと思った。
「お前はいくつだ?」
「…十八。ねぇ、遊んでいくのかい?」
「十八か。その器量なら吉原でもやっていけるだろう?何故夜鷹なんてやってる?」
「質問が多いねぇ…とっととやることをやれば?」
女は少し嫌そうにしたので、伊庭はかけ蕎麦分の小銭を渡した。すると背に腹はかえられなかったのか渋々口を開く。
「…田舎から出て、茶屋で働いてたけど流行りの祭りのせいでね…働き口を無くして貧乏な田舎に帰ることもできずに、こんなに落ちぶれたのさ」
伊庭は女が憎々しく『ええじゃないか』を語る意味を悟った。秩序を失い、騒ぎに便乗して無銭飲食が横行したという話を聞いたことがあったのだ。
女は「もういいでしょ」と話を切り上げて、一層強く伊庭の腕を掴み、身体を密着させた。しかし久しぶりの女体に心騒ぐことはなく、むしろまだ若い女がこうして夜鷹に身を落とし縋り付くように身体を寄せることが哀れであった。
伊庭は彼女の腕を解き、
「…悪いが、心に決めた者がいるんでね」
と拒んだ。女は 唇を引き結び分かりやすく怒った。
「…嫌な男。思わせぶりに引き止めて」
「それは悪かったね」
伊庭はちょうど持ち合わせていた手拭いを渡し、
「吉原に稲本楼という店がある。そこの小稲という花魁へこの手拭いを渡して『伊庭に紹介された』と伝えたら良い。吉原は厳しい環境だろうが、夜鷹よりマシだ」
手拭いは懇意にしている小稲から贈られたものである。彼女がこれを見れば話を信じて女を悪いようにはしないはずだし、器量の良さに気がつくだろう。
女は疑いながらも手を伸ばして手拭いを受け取った。
「…変な人」
「じゃあな」
伊庭は女と別れてまた歩き出す。彼女がこれから吉原へ行くのか、夜鷹を続けるのかわからないが、もう会うことはないだろう。
それまで目的もなくフラフラ歩いていた伊庭だったが、急に背中を押されたように目的地へと進み出す。夜はすっかり更けて静寂に包まれていて、それは本山の住まいも同じだった。
裏口の扉は少し弄れば開くことを知っていた。音を立てないように忍び込み、履き物を持って縁側から上がってそろそろと目的の部屋に入る。そこでは当然本山が寝ている。
伊庭は傍らに立ちしばらくその寝顔を見ていた。
(…俺は、お前よりも長生きしたくないな)
残される寂しさなんて知りたくもない。文官の彼が自分よりも先に戦場の最前線に出ることはないだろうと思っていたけれど、そうも言っていられないのが戦というものだ。あの夜鷹の女のように自分の身が明日も無事だなんて保証はどこにもないのだから。
(歳さんもそう思っているのだろうな…)
伊庭は無性な寂しさに駆られ、本山の唇に軽く口付けた。本山は少し身じろぎしたものの起きる様子はないので、思い切って就寝中の彼に跨り貪るように塞いだ。息もできないほど激しくすると、ようやくじたばたと手足を動かした。
「な、っ…八郎…?」
「…さすがに起きたか。お前、警戒心が無さすぎる。これじゃあ夜盗にも気づかずに朝まで寝ていそうだな」
「いや、盗みに入られるような家じゃ…というか、まだ夜更けだよな?なにかあったのか?」
これは夢か現実かと戸惑う本山を伊庭は笑った。
「なにかあるのは今からだ」
「は?」
「夜這いに来たんだ」
伊庭は上半身を晒し、本山の襟を開いた。くっきり浮き出た鎖骨を舐めて愛撫しながら、下半身を密着させると、本山は「うっ」と身じろぎした。
「…なんだ、もう準備できてるじゃないか」
伊庭は既に硬くなりつつある本山のものに触れて扱いた。半ば夢見心地だった本山の表情が変わり、俄かに興奮し始める。目の前には着崩れて肌を晒し跨ったまま誘う恋人がいるのだから当然だろう。それまでされるがままだった本山の手が動きはじめたが、
「ちょっと、じっとしてろ」
と、彼の手を掴んだ。
「生殺しにする気か」
「そういう気分なんだよ」
伊庭が答えると、本山は何か言いたげにしたけれど勝手にするのはいつものことなので「わかったよ」と諦めて身を任せた。
声を潜めた逢瀬は互いの身体の熱を昂らせ続ける。夜更けから朝焼けまで続け、もう指一本動かないほど消耗したが、心は満たされた。
「帰る」
「…好き勝手に来て、好き勝手に帰るんだな」
「悪いか」
「悪くない」
本山の返答に満足した伊庭は、脱ぎ散らした服に袖を通し草履を手にした。横になったまま肘に頭を乗せる本山は
「八郎、なにかあったのか?」
と尋ねた。
「何もないよ。なにかないとお前に夜這いをしちゃいけないのか?」
「そういうわけじゃないが…」
「じゃあな」
本山はまだ何か尋ねたいようだったが、伊庭は敢えて振り切って部屋を出た。彼に何を尋ねられたところでここに来た理由をいまは答えられそうになかったのだ。


伊庭が家に戻ると、部屋の机に文が置いてあった。
(礼子か…)
彼女に不在を知られるのはなんとなく気が引けてしまうが、文を手にするとそんな憂いは一瞬で消えてしまった。
「歳さん…」
あれから返事をしていないのに、先んじてもう一通届いてしまった。よほどの用件なのではないかと急いで開くと、総司の病については一切触れずに近々、隊士募集のため江戸に戻ると書いてあった。