ふたあい 4




遠くから聞こえる雑音も、脳裏に焼き付いた苦悩も、剣の前では沈黙する。
誰もいない道場で伊庭は竹刀を振り続けていた。使用人さえまだ目を覚まさない早暁の静けさに包まれるなか、自分の吐息とビュンビュンと竹刀が空気を切る音だけがやたら響いていた。
世の中は変わり続ける。そのスピードはだんだんと速くなっていき、追いつき理解する者もいれば、過去を振り返りしがみ付く者もいる。どちらかといえば前者でありたいと願っているが、体に流れる血は後者に近いのだろう。
新しい時代は刀を置き、新しい武器を取れという。異国の武器を手に入れた西国に差をつけられている幕府としては仕方ないのかもしれないが、けれどまだ修行の道半ばだと思っている伊庭にとってはその道を阻まれているようで苦痛だった。
(銃は便利だが…)
何度か扱うととても簡単で、適性もあるのだとわかる。けれど指先にほんの少しだけ力を籠めるだけで放たれる弾という刃は、撃った瞬間に己の誇りを砕くような痛みを伴う。
(これは手段であって生き方ではない)
銃との向き合い方について、伊庭はそう悟った。
「…」
伊庭は竹刀を置いた。邪念を取り払うために素振りをしているのに、これでは意味がない。
額の汗を拭いつつ、水を飲むために道場を出る。秋の朝はそれなりにひんやりとしているが、千回以上続けた素振りで籠った熱を冷ますほどではない。けれど心地よく、いくらか気分を晴らしてくれた。
「おはようございます、お兄様」
伊庭は義妹が起きてきそうな気配には当然気がついていた。
「…おはよう」
「今日は日野へ行かれるのでしたね。お帰りは遅くなりますか?」
「ああ」
淡々とした短い返答には愛想すらない。年頃で家族となって時が経つほどにその関係はギクシャクしていく。
けれど礼子はただ微笑んで
「お気をつけて」
と言っただけだった。


家を出ると本山が待ち構えていた。
「本当に来るのか?」
今日、日野へ行くことは知らせていた。本山は「一緒に行く」と言い出したが、「長くなるから」と一度は断っていたのだ。それでも、と言うので任せていたのだが。
「ああ、近くで待たせてもらうよ。突然面識のない俺が土方さんの姉上の嫁ぎ先に上がり込むわけにはいかないし、部外者が立ち入る話でもないだろう?」
「…たふん、待ちぼうけにさせるけど」
「いいよ」
改めて確認しても本山はそう言うので、伊庭は仕方なく受け入れることにする。しかし内心では彼が同行してくれて道中の話し相手がいることで、気が楽にはなったのだ。それに彼がいれば今更引き返すこともできない。
「隊士募集なんだって?何故日野に?」
「義兄さんが日野で、天然理心流の道場を開いて何かと力になっているそうだ。きっと故郷の同志が募集に応じているんだろう」
「まあこういう時勢だからこそ故郷の同志が信用できるかもしれないな。…それで結局、返事は出したのか?」
本山の質問に、伊庭は曖昧に頷いた。
「送ったけど…都合が合えば顔を出す…と、それだけだ。何も思いつかなかったし、今も悩んでいる。どう励ましたら良いのか…」
秋空は皮肉なほど晴れ渡っているのに、伊庭の心には靄が募る。土方を目の前にして一体どんな言葉が出てくるのだろうか。ちゃんと彼の気持ちに寄り添えるだろうか。
しかし本山は
「そう言ったらどうだ?」
とあっさり口にした。
「は?」
「いや、考え抜いた無駄のない言葉を伝えられるより、その方が良いんじゃないか?少なくともお前がこの数日悩んでいることや、心配している気持ちは伝わるだろう?」
「それは…そうだけど…」
「遠くにいる俺たちには相応しい言葉なんてわからないさ。土方さんだって助言をもらいたいわけじゃないだろう?」
「…」
本山なりに考えた末の結論なのだろう。彼らしい鈍さと不器用さが感じられるが、不思議とその通りだと思えた。用意された言葉を口にしたところで、きっと土方には響かないだろう。
けれど伊庭は本山の意見に素直に同意する気にはなれなかった。
「…そういうことは早く言ってくれ。こっちは堂々巡りばかりで寝不足なのに、お前はそんな俺を見て高みの見物でもしていたのか?」
「ハハ」
「笑って誤魔化すな」
本山は逃げるように早足で歩き出したので、伊庭はそれを追いかけた。




土方との再会は伊庭が想像していたほどの大袈裟なものではなく、互いに幕臣という立場ではあったが、つい先日試衛館で会ったかのように気軽なものだった。
軽い冗談から始まり、世情に対する所感を述べ戦への足音を感じつつ、ようやく本題へ触れた時、土方の表情は少しだけ強張っていたがそれほど悲嘆に暮れているわけでもなく伊庭を気遣う余裕があった。
伊庭は本山の言った通り、どう励ましたら良いのかわからないと素直に述べると、土方は「気にするな」と言わんばかりだった。彼は誰かに吐露したかっただけなのだろう。冷静になって考えると、伊庭だけでなく総司のことを心配する故郷の人々にずっと囲まれていたのだ。兄貴分として総司を養生させるべきだと散々言われたに違いない。
しかし、伊庭にはその気持ちはさほどなかった。
(きっとあの人はそんなことを望まないだろう…)
戦の足音が迫るなか、前線にいる仲間から外れて養生できる気持ちがあるならば、あの浪士組への参加も取りやめることができただろう。江戸に残って道場を継ぐことだってあり得た。
しかしたとえ間違っていても、危険でもそうせずにはいられないーーーー人生はそんなことの連続だ。
だから敢えてあの日の話をした。伊庭と総司にしかないあのやりとりを土方は知らないはずだ。鮮明に思い出せる、雪の日の彼を。
(どうか、いつまでも傍に)
養生して病を克服するというのなら全力で支える。けれどそうではない場所で命を燃やしたいと願うなら、それを叶えてあげて欲しい。
伊庭がそう伝えると、土方は幾分か楽になったようだった。彼なりに総司を引き連れてこの道を歩んできたことへの後悔があったのかもしれない。
秋の冷たい風が吹いてきて、伊庭はようやく湯呑みに手をつけた。土方の姉であるのぶの出してくれた茶はすっかり冷めてしまった。
「…それで、お前はどうなんだ?」
「え?ああ奥詰隊…いや、いまは遊撃隊と言うんですが、交代の時期ですからそろそろ再び大坂へ向かうと思いますけど」
「いや、それのことだ」
てっきり真面目な話かと思いきや、土方が指差したのは右手の入れ黒子のことだった。隠すつもりはなかったが(油断したな)と内心苦笑した。
「…さすが、めざといですね」
「お前は色白だから良く目立つ。さぞ吉原でも噂になっていることだろうな、お相手は誰かって」
「さあ…どうかな、最近は吉原には足を運んでいませんし」
「まさか、相手が幼馴染だとは誰も思わないだろうな」
「…」
曖昧にして濁すつもりがあっさり看破され、伊庭は言葉に迷う。
「俺…歳さんにそんな話しましたっけ?」
「どうだったかな。だが、大坂で総司にそんな話をしていただろう?はっきりとは言わなかったが」
「…いやだな、聞き耳を立てていたんですか?」
「聞こえただけだ」
伊庭にはあまり記憶がなかったが、きっと話し相手が本山とは面識のない総司だったから口が滑ったのだろう。
だが土方は「聞かなくてもわかる」と笑った。
「お前は女の気配がないし、本山さんはもともとわかりやすかった」
「…もしかしてダダ漏れですか?」
「そうだな、ダダ漏れだな」
鎌吉にも指摘されたことと同じ台詞を言われ、伊庭は呆れるしかない。だったらそれに気が付かなかった自分はもっと鈍いということではないか。
伊庭が居心地悪く感じていると、土方は湯呑みを手にしてなんてことないように言った。
「大事にしろよ。失ったら…二度と元通りにはならない」



隊士募集が忙しいと聞き、伊庭は早々に帰ることにした。待たせている本山が気になっていたのもあったが、彼は佐藤家の門前で待っていた。土方は本山を見て苦笑した。
「なんだ、来ていたなら一緒に上がれば良かったのに」
「邪魔しちゃ悪いですから。…あとこれ、知り合いに腕の良い薬師がいまして、漢方を煎じてもらいました。一日一回飲めば滋養になります」
いつの間に準備していたのか、本山は和紙で包んだ小包を土方に渡した。総司の病には触れなかったが、土方にその意図は伝わった。
「かたじけない」
土方はちらりと本山の左手に入れ黒子があるのを見つけたようで、伊庭に揶揄するような視線を送る。伊庭は居た堪れなくなって
「小太、行くぞ」
と戸惑う本山の腕を引いた。
土方に見送られ、早足で帰路を行く。
半日かかるので今日中には戻れないだろうと覚悟していたが、秋の夜はあっという間にやってきて真っ暗になってしまった。
「八郎、どこかで休もう。この先に確か宿が…」
「いや、ここで良い」
伊庭が足を止めて指差したのは人気のない寺だった。手を合わせて本堂に足を踏み入れると、手入れはされているようだが、古くて床板がキシキシと軋む音がした。本山はぐるりと見渡しつつ
「ちょっと不気味じゃないか?こんなところじゃ休めないぞ、まだ疲れているわけじゃないんだろう?もう少し歩いて…」
「ダメだ、待てない」
「わっ!」
伊庭は油断している本山の足を引っ掛けて、尻餅をつかせた。困惑する本山に跨り、見下ろした。
「八郎?」
「なあ…ここで抱けって言ったらお前はどうする?信心深くないと拒むか?」
月明かりだけが辺りを照らしていた。本山は最初は驚いていたが少し考え込んで答えた。
「…拒みはしないが…お前らしくない。何かあったのか?」
「何もない。むしろこの数日悩んでいたことが吹き飛んで気分は良いんだ。だからいっそもっと…気持ちよくなりたい。今夜は安宿で声を我慢したくない」
「ハ…ハハ、ほんと、お前には参ったよ」
本山が笑ったので、伊庭はそれを了解と受け取って早速彼の襟を開いてその首筋を強く吸った。すると横になっている本山の手が伊庭の袴の紐を解いていく。
「お前…こういうときだけ、器用だな」
「こういうとき?」
「…なんでもない」
伊庭が言い淀んだ隙に、本山は上半身を起こしその勢いで伊庭を押し倒した。そして荒々しく衣服を剥ぎ、晒してしまう。
「小太?」
本山はいつになく強気な態度だった。いつも真綿に触れるような優しさで解していく指先が、今は獰猛な獣の爪のようにあちこちを暴いていく。
「ちょっ、…あっ」
「…俺はずっと嫉妬してたんだからな」
「え?は…あ、あぁ…」
「お前の頭の中が俺以外の男のことでいっぱいだなんて…お前と過ごせる時間は限られているのに、独占できないなんて妬けて仕方なかった。…お前は心が狭いって笑うんだろうけどさ…」
「…ほんと、馬鹿だなあ…」
彼の指先が狙い撃ちするように責め続け、伊庭は声を上げた。ここは互いの家でもなく、隣室の声が聞こえる茶屋でもない。誰も足を踏み入れない場所で、月あかりを頼りに互いの肌を求めあう。爪を立てて、甘噛みを繰り返し、これ以上ないほど強く抱き着いた。
わかっている。
目の前にいて、身体のなかにまで感じることができるのに。
(どうして俺は…)
満たされないのだろう。
心が焼き付くような焦燥を覚えて、「まだ足りない」と彼の背中に手を伸ばした。