ふたあい 5



大政奉還。
その響きは遠い江戸からすればまさに晴れ間に突然雷が落ちるように、あまりにも唐突なものだった。もちろん『噂話』程度のことは耳にしていたが、いくら力を持つ土佐や武力をちらつかせる西国に政権を返上するように迫られていても、二百六十年政権を保持する徳川がそれに応じるわけがないと、本音ではたかをくくっていたのだ。おそらく江戸にいた幕臣は皆同じ気持ちだっただろう。
「まさか…公方様がそのようなことをご決断されるとは…」
義父は落胆した様子で、伊庭に経緯を話したがあまり頭に入って来なかった。
(幕府が終わった…?)
その実感はない。けれど最近感じていた、危うさや曖昧さの答えはこれだったのかと妙に納得する部分はあった。
日野で再会した土方は、西国は幕府に敢えて大政奉還を突き付け、却下させることが目的ではないかと話していた。そうさせることで戦に持ち込むことができる…第二次長州征討で勝ちきれず幕兵の体たらくを晒し、家茂公の喪中を理由に休戦へと持ち込んだことで西国は戦に持ち込む自信を得たのだろう。
けれど敵を拍子抜けさせるように、大樹公は大政奉還を受け入れた…眼前の戦はこれで避けられることになったが、それが本当の狙いなのだろうか。
「…戦になりますね」
伊庭は呟いた。結局、政権を保持していようがそうでなかろうが、互いの憤りや不満は無かったことにはできない。おそらくこの江戸でもその機運が高まるだろうし、今すぐに将軍の居る最前線へ上洛して備えるべきだろう。
伊庭は席を立ち、「友人のところへ知らせに行きます」と部屋を出た。


鳥八十は夜になると常連客で席は埋まるが、昼間は閑古鳥が鳴いている。居酒屋なのだから夕方から営業しても構わないはずだが、店主の鎌吉は
「俺ァ伊庭の旦那のために開けてるんだ」
というので、開店前でも遠慮なくのれんをくぐる。すると夜の仕込みをする鎌吉とほろ酔いの本山がいた。
「おかえり」
すでに酒を飲んでいる本山は盃を掲げながら挨拶する。伊庭は(この一大事に文官は…)と少し呆れながらその隣に座った。
「土方さんには会えたか?」
「ああ。もう試衛館を出た後で焦ったけど、追いついた」
伊庭は義父から話を聞いた後、大政奉還を知らせるため馬に乗り土方を追いかけた。徳川が政権を返上したと広まれば、邪なことを考える輩に道中出くわすかもしれない。急いで知らせた方が良いと思い街道を駆け抜けて三つ目の宿でようやく追いついた。まだ土方の耳には入っていなかったようで、いつも余裕ぶっている彼のらしくない唖然とした表情を拝むことができたが、それを揶揄する余裕は伊庭にもなかった。
難しい顔をした土方は、
『助かった。…公方様の真意はわからないが、早く戻って会津に状況を確認する』
と足早に去り、二度目の別れを告げることとなった。
鎌吉に冷たい水をもらって喉に流しこむと、本山は
「なあ、西国のはったりってことはないのか?それかただの噂話だとか…」
と訊ねてきた。官吏の本山でさえ俄かには信じられないのだ、江戸の民にその実感があるわけがなく、町は平穏なままだ。
「…義父上から聞いた話だ、詳細はわからないが返上したというのは間違いないだろう」
「返上ねえ…じゃあいま手を付けている仕事はもうやらなくて良いってことか?」
本山は現実逃避なのか、茶化して酒を飲む。
「たとえ幕府がなくなっても俺たちが徳川の家臣だっていうのは変わらないだろう。今の仕事は止めろと言われるまで続けろよ」
「冗談だ、勿論そうする。…でもお前は前にこのままだと戦になると言っていただろう?じゃあ公方様が政権を返上したなら、戦う意味はないってことだよな?」
「……どうかな」
むしろ早々に戦の火蓋が切られたように思う。徳川は将軍から大名になった…しかし四百領という広大な領地を持つ大大名だ。西国が政権を保持することになったとしても無視できる存在ではなく、領地を没収されない限り今後も権威を持ち続けることになるだろう。
(だから戦が必要になる…)
しかしそれを話したところで、本山の不安を煽るだけなので伊庭は黙り込む。二人の深刻な様子を察した鎌吉が伊庭の好物の肴を出した。
「俺ァ政のことはよくわからねぇが、田舎者の西国の連中が威張って、どんな舵取りができるもんかと思いますがね」
「おい小太、鎌吉の方がよくわかっているみたいだぞ」
「へへ」
鎌吉は得意げに鼻を弄って、また台所へ戻っていく。本山は苦笑しながら徳利を手にした。
「…小難しい話は酒がまずくなる。お前とゆっくり飲む暇はなくなるだろうから、せめて今だけはうまい酒を飲みたいものだ」
「ああ…そうだな」
伊庭が敢えて言及しなくとも、本山はこの穏やかな時間があと残り少ないのだと理解していた。近々命令が下り、また都へ向かうことになるだろう。それはおそらく戦のために。
伊庭はなみなみと注がれた猪口を飲み干した。本山が言う通りあれこれ小難しいことを考えるのはもう疲れた…そう思うのに、胸の閊えのような不安はいくら酒を飲んでも拭えなかった。

「酔った!」
高らかに声を上げる本山は千鳥足で夜道を歩く。伊庭は川辺の畦道でいつバランスを崩してしまわないかとはらはらしながら、肩を抱いて身体を支えてやった。
「おい、いい加減にしろよ」
「八郎だってしこたま飲んだだろう?」
「俺は正気だ」
伊庭が反論するがいつも以上に飲みすぎた自覚はあった。鎌吉が気を利かせて「良い酒を仕入れた」とどこかの地酒を披露し、気落ちした気分を紛らわせようとそれをまるまる空にしてしまったのだ。強い酒はあっという間に身体中に回り、伊庭も本山も酔いつぶれた。どうにか正気を保った伊庭は「駕籠を呼べばよかった」と重たい身体を支えて愚痴る。本山が「夜風に当たりたい」と言ったせいで徒歩になりちっとも家に辿り着きやしない。
すると本山はと急に上半身を反らせて夜空を指差した。
「今日は星が明るいな。ほら、見てみろよ!」
「あっ馬鹿…!」
急に体勢が変わったせいで伊庭は足を踏み外しそのまま土手へ滑る。咄嗟に本山は伊庭を助けようと手を伸ばして捕まえたが、互いに酔った身体ではどうにもならずにそのまま転がり落ちた。
川と言っても浅瀬なのはわかっていたが、夜の川に飛び込むなんて正気の沙汰ではない。
「拙い…!」
冷たい水を浴びる覚悟を決めながら二、三回転したところで急に止まった。本山の背中が土手の窪みのようなところに引っ掛かったのだ。おかげで伊庭の身体もスピードが落ちてどうにか川に落ちずに済む。
「いってぇ…」
「…自業自得だ」
本山は身体を起こし背中をさすりながら痛がっていたが、深刻な様子はない。互いに枯葉と土だらけになって汚れたが、いっそ酔いが覚めてすっきりした気分だった。
「よし、ここで朝まで待つか!」
本山は大の字になって寝転ぶ。枯葉を布団にして夜空を仰いだ本山は「綺麗だぞ」と伊庭を誘った。いつもなら急かして家路を急ぐ伊庭だが、今宵はそういう気分でもなく、本山と同じように仰向けに身体を投げた。
雲ひとつない夜空には星が瞬いている。淡く光る月は穏やかで静かなまま、辺りをほのかに照らしている。
「八郎」
「なんだ?」
「また都に行くのか?」
「…ああ、たぶんな」
「嫌だな…」
酒が入っているせいだろう。鳥八十にいた時より甘えるような声で素直な本音を呟く。しかし伊庭は敢えてそれには応えずに現実をありのままに話した。
「…公方様が政権を返上してもきっと戦は起きる。俺は遊撃隊の一員として義父上とともに最前線に向かうことになるだろうな」
「…勝てるのか?」
「わからない。なんせ長州一国に勝てなかったんだから」
勝てるはずだと鷹を括っていた戦に負けたのだから、伊庭は苦笑いを浮かべるしかない。家茂公の喪中を理由に休戦に持ち込んだが、あのまま戦っていたとしても負けていたに違いない。そう考えるととっくの昔に政権を返上させられていてもおかしくはなかった…ともいえるだろう。
本山は眉間に皺を寄せた。
「それでも行くのか?」
「…当たり前だろう」
「なあ、もう幕府がないならさ…戦う意味なんてどこにあるんだよ。徳川といっても一橋家だ、お前が命を賭けるべき相手なのか…」
「それ以上は言うな、怒る」
伊庭ははっきりと本山の言葉を止めた。それがたとえ与太話であっても何も聞きたくない。伊庭は身体を起こし、まだ何か言いたそうにしている幼馴染を見据えた。
「公方様がどんな御方で、どんな御考えをお持ちでも、俺は幕臣の子として生まれ食うに困らず、恵まれた暮らしをしてきた。己の才能があっても立ち行かぬ者が多いなかで俺は恩恵を授かって生きてきた…だったら、公方様と徳川家に尽くすのは当たり前のことだ」
「…世の中が変わったんだぞ。これから帝が西国に政権を委ねて、徳川など時代錯誤だと言われるかもしれない」
「誰に何を言われようと関係ない。無責任な他人の言葉で、俺の生き方が左右されるわけがない」
「…」
いつもの本山なら少し呆れながら『お前はそう言うだろうと思った』と苦笑して話を終えていただろう。伊庭も『馬鹿だな』と軽い冗談と受け止めて聞き流していたかもしれない。けれどそうできなかったのは、互いの根底にあるものが揺らいでいるからだ。遠く都の出来事だと俯瞰して、心のどこかで無関係だと思っていた変革に本音では面食らっていた。
伊庭はその自覚があった。だからこそ、発破をかけなけば、己を甘やかしずるずると逃げてしまうとわかっていた。
「お前が俺を止めるなら、お前と別れる」
「…八郎…」
「自分自身の保身だけのために逃げられるわけがない。…お前だって、俺の気性はわかっているだろう?」
「…」
本山はようやく体を起こし、深刻な表情で俯いた。
「…やはり、俺は先に帰る」
もう何も言うことはない。本山の返答を待たずに、伊庭は土手を上って帰路についた。