もどらない、あの愛し方を思い出してみる



 もどらない、あの愛しかたを思い出す。するとどれだけ自分が贅沢な時間を過ごしていたのかが、見えてきて。
 たとえばその時間に戻ることができたなら、なにをしているのだろうとか。どうしようもない想像をしたりする。 目が覚めれば、それが夢だと知れば、泣き出さずにはいられないのに。

 わかっていながら、夢を見る。





 もどらない、あの愛しかたを思い出してみる −キミガリ番外編 本山×伊庭−





「血脈桜?」

 聞き覚えのない言葉に、伊庭は首をかしげた。すると「やっぱり知らねぇか」と幼馴染が残念そうな顔をした。

 蝦夷、松前。初めての冬を迎えた幕府軍は慣れない寒さに苦戦を強いられていた。北陸出身のものでさえも身を震わせるのだから、蝦夷は特別寒いのだということがわかる。
 伊庭は何枚か重ね着をして、囲炉裏にあたっていた。

「だから、なんだよそれ」
「松前城下にある光善寺っていう寺にある桜の異名だよ。聞いたことない?」

 伊庭は首を振った。
 十六の歳まで「本の虫」と呼ばれた伊庭だが、実際読んでいた本は伝記や歴史物ばかりで、雑学的なことは幼馴染――本山小太郎のほうがよっぽど詳しいのだ。 本山は伊庭の隣に座り、囲炉裏に手をかざすと自慢げに言った。

「俺もこっちにきてから初めて知ったんだけどさ。初めは白い花弁で咲く桜が、日が経つごとに紅色に染まっていくんだって」
「へえ…なんで?」
「どうしてかはわかんねぇけど…そういう昔話があるんだっていうこと」

 伊庭は適当な相槌を打ちながら本山の話に耳を傾けた。ようするにその「血脈桜」には桜の精が取り付いていて、散り際になると花弁を赤く染めるのだそうだ。

「しかも、その「血脈桜」、松前で一番最初に咲くんだってよ。不思議だろ?」
「不思議といえばまあ…。…ちょっと、待て。まさかお前…」
「見に行くだろ?」

 本山は愛嬌のある笑顔で伊庭に微笑んだ。伊庭は青ざめる。

「ばっかだろ!こんな寒いのに外なんて出たら、凍死する!」
「何枚も着ていきゃいいだろ?そんなに遠くでもねえし」
「大体まだ咲いてるわけがないって」
「いいんだよ、咲いてなくても。お前と一緒に見られればそれで」

 本山が一度決めたことには強情で、断りきれないということはわかっていたものの、寒さのあまり身体が動けそうもない。 口説き文句にも似た本山の言葉はもうさすがに聞きなれていて、伊庭は断固として断った。

「もうちょっと暖かくなってからでいいだろ?風邪引いたらどうするんだ」
「そのときは俺が看病してやるって」
「そういう問題じゃなくて…!」
「じゃあどういう問題?」
「だから、つまりだな…」

(…あれ…)

 伊庭は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 本山はこんなにも強情だっただろうか?江戸にいた頃はよく互いの主張が異なって、口論になったこともあるけれど、蝦夷に来て――互いの気持ちを交わしてからは、 どんな時でも本山は伊庭に甘かったはずだ。

(…なんか、変な感じだな…)

 伊庭が押し黙っていると、本山は手を差し出した。

「ほら」

 一緒に行こう。
 その甘い言葉を無碍にすることなど、伊庭にはできなかった。



 年を越して春を待つ蝦夷地は、すでに3月になっていたものの、吹き荒ぶ風は相変らず凍ったように冷たいままで、時々身震いがした。 雪は降っていないのだが、手を繋いだまま目の前を歩く本山は、寒くないのか…肌が厚いのか、平気な顔で向かい風に向かっていく。

「お前、寒くないの?」
「ああ、別に」

 あっさりと答えた本山に「そうかよ」と吐き捨てる。だが伊庭は鼻を啜りながら、強引に引っ張っていく本山に歩調を合わせざるを得ない。 繋がれた手のひらがあまりにも強かったから。

「ほら、見えてきた」

 本山が繋いでない右手で指差した方向に、大きめで立派な寺があった。不安定な階段を上り、豪華な装飾が施された仁王門がある。 奥に鐘楼門が続き、本堂が見える。本堂へ続く一筋の石畳を取り囲むように並んでいるのは…桜の木のようだった。
 まだどれも花をつけているものはいないが、蕾になっているものもあり、蝦夷では相当早い開花が予想された。

「南殿桜…だな」
「そうなんだ」

 物知りな本山が「里桜に似てる桜なんだ」と伊庭に教えた。本堂への道を取り囲むように植えられた桜は、春になればさぞ綺麗に寺を彩るのだろう。 伊庭はまだ固く口を閉ざした蕾に触れた。小さいそれに酷く生命力を感じた。

「ああ、あれだよ!「血脈桜」」
「え…?…あっ」

 本山が強く伊庭の左手を引いた。それは間接が抜けるほどの馬鹿力で「痛い!」と声を上げてしまうほどだった。
 けれど、本山は振り返らなかった。手を握ったまま、ぐいぐいと進んでいく。

(小太…?)

 本山はこんなにも強引で無茶な奴だったのだろうか。彼が自分に対しては優しいと思っていたのは…独りよがりな考えだったのだろうか。

(寒くないっていったくせに…)

 なんで、こんなに手が冷たいんだよ。




 血脈桜は周りの南殿桜と比べるとやはりずば抜けていた。
 根元部分から幹が二つに別れ、その太さは力強ささえ感じる逞しいものだ。大きく天に広がった無数の枝は見上げると圧巻。視界を覆いつくすほどの桜が 目に見えるようだった。

「すごい…」

 伊庭が感嘆すると、本山が「だろ?」と自慢げに微笑んだ。ここに来るまでは繋いだ手はそのままで、誰かに見られはしないかと躊躇したが そんな羞恥心が吹き飛んでしまうほど伊庭は見入った。

 本山がここには「桜の精」がいると言っていたが、それが本当だと思った。すべてを魅了して止まない力がある。伊庭でさえ視線を逸らせないでいた。 目の前にはまだ蕾しかつけていないのに、まるで夢のようにその樹に桜が咲いているのが容易に想像できるのだ。

「八郎」
「ん…?…んぅ」

 手だけは繋がれたまま、顎を寄せられた。唇が寄せられ伊庭はその意図に気がつく。けれど何の抵抗もしなかった。まるで分かっていたかのように受け入れる。

「…怒んないの?」

 本山が苦笑気味に尋ねる。伊庭は口を尖らせた。

「怒って欲しいなら怒る」
「ああ、ごめん。嘘だって」

 その口を塞ぐように本山が角度を変えて伊庭を貪った。自然なのかわざとなのかは分からないが、繋がった場所からは卑猥な音が漏れた。

「ん…っ、ふ、う…」

 堪えきれない声に呼応して、繋がれたままの手を握る。それでも本山の手はまだ冷たいままだ。

「こ……た、も…」
「もう、我慢できなくなった?」
「ば…か、こんなところでやることじゃ……」

 本山が伊庭の後ろ頭に手を回し、自身の胸の中に抱きいれた。体全部が包み込まれたような錯覚を覚える。

「…露出趣味でもあるのかよ…」
「露出じゃなくて、自慢したいんだよ。お前が俺のものだって」

 ストレートな言葉。伊庭には恥ずかしすぎて、彼の襟をぎゅっと掴みその羞恥心を堪えるしかなかった。

「――…はやく、この桜が咲けば良いな」

 本山が伊庭の繋いだ手を持ち上げて、その甲に唇を落とした。異国人のような仕草をどこで覚えてきたのだろうか――伊庭は苦笑しながらされるがままになる。
「らしくないこと、するなよ」
「できるうちにしておくのが、いいと思わないか?」

 囁くほどのその言葉が、鼓膜を揺らす。

「どういう…意味?」

 伊庭が尋ねると、本山は黙ったまま、今まで繋いでいた手をあっさり離した。彼との間に風が流れる。
 なぜか、白い花弁が見えた。

「…小太?」
「帰ろうか」

 聞き慣れたはずの、優しい声色。けれど、それよりも伊庭の胸の鼓動のほうがよっぽど大きかった。

(…どうして、こんなに…)

 胸騒ぎがするのだろう。目の前にいる本山が消えそうな感覚を覚える。手を離された瞬間に――一生、触れ合えないような気がした。

「約束…っ、しろよ」
「ん?」
「なんで言わないんだよ…!この桜が咲いたら、一緒にまた来ようって、なんで言わないんだよ…っ。約束しろよ…」

 伊庭が左手を伸ばす。小指だけを立てて、まるで子供のように。
 本山は苦笑して、伊庭と同じように左手を差し出し、小指を立てた。

 けれど、届かない。指が、つながれない。

「小太…?」
「もうお前との約束を一つ破ったんだ。一緒に、酒を飲もうって言ったのにな」
「な、んだよ…まだ、そんな…」

 気づきたくない。気づかされたくない。

 まだ、夢の中にいたい。

「ごめん。…でも俺は満足してる」
「俺は満足してない!だから、はやく約束しろよっ また、ここに来ようって…!」

 伊庭が駄々をこねた子供のように叫ぶと、本山は困ったような顔をして、苦笑する。

「もう、お前との約束を破りたくないんだ」
「小太…っ!」

 本山は差し出していた手を下ろした。それは約束はできないのだと、言った。

「頼むから、約束しろよ…っ 破ったっていい、守れなくても良いから……俺のために約束しろ」

 横暴で不遜な言い草だが、…その手は震えていた。届かないものに手を伸ばしている、震えに似ていた。
 すると本山が「仕方ないな」とため息をついた。

「…最後だからな」

 本山が手を伸ばし、小指を絡ませる。触れ合うほどに、互いの体温を分かり合うために。すると今まで冷たかったはずの本山の手が、急に暖かく感じた。

「あれ……お前、指輪は…?」
「お前に渡しただろ?」







「――…先生、伊庭先生」

 誰かが手を握った。その暖かさは…恋人のものではない。

 伊庭はゆっくりと目を開けた。天井が明るく照らされていて、もう朝なのか、と最初に思ったことはそれだった。このベッドに横になり続けて10日ほど経つ。 殺風景な景色には慣れたが、寝てばかりいては時間の感覚がよくわからない。

「お加減はいかがですか?」
「うん……悪く、ないよ」

 声を掛けてきたのは田村だった。新撰組の隊士でまだ若く、小姓として土方の傍にいる。今は時折伊庭の看病に来ているのだが、それも土方の指示だろう。

「夢を見ていらっしゃったんですか?随分うなされていらっしゃいましたけど」
「そう…?」

 夢を見ていた。
 夢の中では本当はわかっていたのだ、これが現実ではない虚構の世界だということを。それでも目を開けなかったのは、その夢があまりにも幸せすぎたからだ。 目が覚めたあと、どんなに苦しい思いをするか、わかっていたのに、それでも一緒にいたいという願望が夢になる。
 できれば起こさないで欲しかった。
 そう思わずにはいられないが、彼を怒ることはできない。

「高松先生がそろそろ診療に来られるようです」
「そう。ありがとう…」

 彼には無理矢理微笑んだが、診療結果など目に見えている。
 胸部に受けた傷は化膿を始めている。その痛みには慣れたが、自分が腐っていく感覚は否めない。死ぬまであとどれだけ息ができるだろう。 死ぬまであと、何回…夢を見ることができるのだろう。

「じゃあ、僕は花瓶を洗ってきますね」

 伊庭は視線だけで頷いて彼を見送った。

 田村自身は気がついていないようだが、少し彼の身長が伸びたように思う。成長期なのだから当然なのだろうが、それが最近とてもほほえましい。 ……そんな何気ないことに気がつくほど、心に余裕はあるはずだ。
 けれど、本山の夢を見てしまったあとには、いつも彼が心を占める。先に旅立っていった場所へたどり着けるのだろうか。 そんな不毛な考えで頭がいっぱいになってしまうのだ。

「…指輪……」

 伊庭はゆっくりと、サイドテーブルに置かれた指輪を手に取った。伊庭のものと、そして……本山のもの。

 彼は死ぬ間際に血だらけになった指輪を「綺麗に磨いてから渡して欲しい」と言ったそうだ。それが遺言でもあり、願いであったという。
 けれど、伊庭は最初はその遺言を怨んだ。
 残してくれるのなら、お前の血を残していて欲しい。指輪を受け取ったときにはそう思わずにはいられなかった。

 しかし、今になって彼がそういった意味がわかる。

 指輪が輝き続ける限りは、生きてみようと思えるのだ。きっとこの揃いの指輪の片方にでも、最後の瞬間という意味での血が刻まれていたとすれば、 きっと生きていく気力さえなくなっていたはずだ。

 伊庭が指輪を自分の指に飾った。朝日に映えるシルバーリングは何よりも輝いて見えた。

「先生、良いものをいただきましたよ」

 そうしていると、田村が飾っていた花瓶をもって帰ってきた。嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。

「ん…?」
「桜です」

 田村は花瓶に一枝の桜を挿した。その花弁は赤く色づいていた。

「どう…して…」

 まるで必然のような偶然に感じた。まるで分かっていたかのように田村が桜を持ってきたため、思わず彼を凝視してしまう。
 だが田村も驚いたようだった。

「えーっと、その。高松先生からお伺いした話なんですけど、松前城の近くの光善寺…というお寺の住職が持ってきてくださったようです。 夢枕にそういうお告げがあったんだそうですよ。しかも、「血脈桜」の枝ですって。…不思議なことですね」

 田村が伊庭の枕元に花瓶を置いた。伊庭は見上げるようにしてその「血脈桜」の一枝を眺める。早朝に摘み取られたその枝葉まだまだ生命力を保っており、 力強ささえ感じた。夢で見たあの桜と同じ――。

『もう、お前との約束は破りたくないんだ』

 夢のなかで寂しげにそういった本山のことを思い出した。無理矢理した小指の約束。――…彼が、守ってくれたというのだろうか。 あれは虚構ではなくて、夢ではなくて……。
 桜の精が起こしてくれた、奇跡なのだろうか。

「先生…?先生、泣いていらっしゃるんですか?!」
「え…?」
「どこか具合でも…?!高松先生を…!」

 必死の形相になる彼に苦笑し、伊庭は首をかすかに横に振った。涙を流していたことに気づかなかった自分にも苦笑する。

「違うよ。……知ってる?「血脈桜」にはさ……」

 桜の精が住むんだって。






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