この空の続く場所に


もう、泣くのはやめよう。
今までありがとう。さようなら、もういくよ。

この空の続く場所で、また会える日を願いながら背を向けた。




文久三年、小雨の降るなか彼らは旅立っていった。江戸で結成された浪士組は、将軍上洛に備え市中警護の先鋒という大役を担う。しかし、実際は江戸にいる浪人たちを纏めて追い出し役立てようという裏の魂胆も秘めているのだが、彼らはきっとそんなことに目もくれず、ただただ未来への希望を胸に秘めてその大きな一歩を踏みだしていった。
大名行列と紛うほどの浪士組を見送りながら、伊庭は小さくため息をついた。
友人たち、試衛館の食客たちは皆旅立ってしまった。半年ほどの任務だということだが、伊庭はぽっかり胸の中に穴が開いてしまったようなそんな気分だった。
「八郎!」
浪士組を見送る野次馬に紛れていた伊庭だが、彼の声は良く聞こえた。頭一つほど群衆のなかで上になる男は大げさに手を振っている。そんな子供じみた仕草に伊庭はもう一つため息をつく。
「悪い、遅くなっちまった」
幼馴染の彼、本山小太郎は頭を掻きながら伊庭に謝った。
「遅くなっちまった、じゃねえよ。もうみんな行っちゃっただろ」
「え?そうなのか!?」
もともと一緒に彼らを見送る約束をしていた二人だが、本山が待ち合わせの場所に現れなかった。伊庭は「寝坊に違いない」と理解し、結果一人で見送る羽目になってしまった。
本山はもう後ろ姿しか見えない浪士組を見ながら残念そうに
「あーあ…見送りたかったなあ…」
とぼやいた。
「見送りたかったならもう少し早く起きろよ」
「いやあ、冬の布団はなかなか俺を離してくれないんだよ」
伊庭の予想通り本山は寝坊だったようだ。
「俺は土方さんしか会ったことはないけど…試衛館が使い手の集まりだっていう噂は聞いてるから、是非最後に会っておきたかったんだけどなあ」
「半年もすれば戻ってくるよ」
伊庭はそういいながら、まったくそんな予感はしていなかった。
彼らは…むしろ土方は、ということかもしれないが、きっと本当に『一旗あげて』来なければ江戸には戻らないだろう。彼らはそういう男たちだ。
「八郎」
「なに?」
幼馴染の言葉で振り向くと、頬に違和感を感じた。満面の笑みで微笑む彼に頬を摘ままれたようだ。
「寂しいんだろ?」
得意げに言う本山は何故だか知らないが嬉しそうだ。
見透かしているつもりなのだろうか。
伊庭は彼の手から顔を背けた。
「別に、寂しくなんかない。…帰るぞ、雨が降りそうだ」
二人は彼らが向かった先とは反対に歩き出した。


小雨だった雨は思った通り大降りになり、急に町から人が消えて行った。家路は遠く、傘を持っていなかった二人はたまたま通りかかった店が居酒屋だったので、そこで雨宿りをすることに決めた。
適当に料理を頼み、酒を飲みながら待つ。通された部屋の窓からは雨の音が聞こえ、いまだに降り止む気配はない。
そんな騒音のような音が流れる部屋で、本山は口を開いた。
「なあ、お前はなんで行かなかったんだ?」
彼はさも当然の疑問、という風な物言いだった。伊庭は少し顔を顰めた。
「…なんでって、そりゃだって道場のことがあるし…言っちゃ悪いが有象無象の集まりだろう。そのなかに加わることを許してもらえそうになかったし」
「でもお前は行くと思っていたよ」
「それこそ、なんで」
「お前はいつも、物足りない顔をしているからな」
そう言って、本山は酒を一気に煽った。
本当に、こいつは見透かしたようなことを言う。
「物足りないって…なんだよ」
「物足りないっていうよりも、満たされていないっていう感じなのかもな。今在る自分に全然満足していないんだろ」
いや、むしろ、こいつは見透かしているのかもしれない。
伊庭は目の前の男をじいと見つめた。彼はその視線に構わずどんどん酒を飲んでいる。
幼馴染として小さいころからお互いのことを知っている。今や『伊庭の子天狗』として名を馳せている伊庭が、小さい頃は物静かで剣を握ることなく本ばかり読んでいたことも知っている。道場の跡取り息子なのだからそんなことでは困る、と周囲から懸念されていた伊庭を唯一認めてくれていたのはこの幼馴染だけだ。
『お前は本を読んでいるときが一番楽しそうだな。この世で楽しいことを見つけられているのは良いことだよな!俺にはまだない!』
子供の頃にそう言われたときは、まるで双子の兄を見つけたような気持ちになったものだ。
(でも今は…)
何もかもを見透かした言い方をしてくる彼が、少しだけ憎らしい。
「別に、満足していないわけじゃない」
「じゃあ、あんまり物欲しそうな顔をするなよ」
別にそんな顔はしていない。
そう言いかけたところで部屋の外に気配がした。頼んでいた料理が届いたのだ。

運ばれてきた料理を平らげる頃になっても、雨はまだやみそうもなかった。このままならここで傘を借りて帰ったほうが良いのかもしれない。
「なあ、八郎」
既にわが家のように寛ぎ始めた本山が伊庭を呼んだ。窓際に座っていた伊庭は顔だけを向けて「何だよ」と返事をしてやる。
「お前、道場継ぐの?」
それはあまりにも脈絡のない質問で、彼の意図は全く読めなかった。
「…決めてない」
「ふうん」
「なんだよ」
伊庭は物言いたげに返事をした幼馴染に苛立った。今日の彼は何だか、何かを言いたいのにオブラートに包んでいるような言い草だ。
「別に。その気があるのか、聞いてみたかっただけだよ」
「その気があるのか、無いのかじゃなくて、継がなきゃいけない機会があればその時に考える。幸いにも俺以外に候補はいるだろうし、当ては困らない」
本山は「そんなことはないだろうけど」と言って、寝転がっていた身体を起こした。そして少し沈黙して、呟いた。
「じゃあ道場継いでほしいって俺がいったら、継ぐ?」
「…は?」
それはあまりにも想定していない質問だった。
「道場継いで…それで、お前に何の利益があるんだよ。俺が偉くなって取り立ててほしいとか?」
「そういうんじゃねえよ。ただ…道場があればお前はどこへもいかないだろう」
目の前の幼馴染は、酷く寂しそうな顔をしていた。伊庭はそのことに驚いた。
「どこへもって…何言ってんだよ。何かの冗談なのか?」
「冗談でいうような台詞じゃねえだろ」
だったら、それこそ意味がわからない。
憔悴した様子で、寂しげに、そんなことをいうのは、遊里の女の別れ際みたいだ。
伊庭は窓際から離れ、本山に近づいた。雨のせいで視界が暗く彼の表情がしっかり読み取れなかったからだ。
「小太、どうしたんだよ。身体の具合でも悪いからそんな魔の刺したことを言ってるのか?」
「はは…っ、だとしたら、そっちのほうがましだよな」
本山は高らかに笑い、伊庭の手首を握った。まるで竹刀を握りしめるように強く、離さないように。
「なあ、八郎。俺はお前のことを何でも知ってるし、わからないことなんてないって思ってた。お前の考えてることも、俺ならわかるはずだって自信をもってたんだ」
「…それは…」
それは伊庭も同じだ。阿吽の呼吸ほとではないかもしれないが、彼の考えていることは大体理解できるとおもっている。
けれど、今は違う。
「でも、だからこそ気が付きたくなかったことに気が付いた」
「だから、何に?」
「お前さ……好きな奴がいるんだろ」
彼が告げた一言で、伊庭は頭が真っ白になる、という感覚を初めて味わった。
だからこそだろう。
「だから…なんだよ…」
その事実をあっさり認めてしまったのだ。
本山は「やっぱりな」と小さくため息をついて、しかしより一層強く手首を握った。伊庭が痛みを感じるほどに。
「痛い…」
「今日、見送りの時。本当はお前に声をかける前から、お前のことを見つけていたんだ。…俺と喧嘩をしたときだってあんな表情はしない」
伊庭は断言する本山の顔から目を逸らした。
「だからって…お前には、関係ないだろう…っ!」
自分が誰を想っていても、伊庭はそれを周囲に漏らすつもりは一切なかった。そんな素振りを隠して気持ちを押し殺せばいつか消化されるはずだ、と信じていた。
なのに、まるで、やはり、
彼は見透かしたように。
「お前、寂しいんだよな」
そういって、わざわざ、傷を抉る。
向き合わなかった気持ちに向き合えと命令する。
そんな彼が、本当に、心底、憎らしい。
「寂しいって…言ったら、どうなるんだよ!どうにもならない、どうにもできないだろうお前には…!」
「そうでもない」
雨の音が、聞こえない。
まるで止んでしまったかのように…いや、まるで別の世界に来てしまったかのように、彼の言葉しか聞こえない。
「俺が、その寂しさを、埋めてやるよ」

ぽっかり空いた穴の隙間を埋められるのなら、別にいいかもしれない。
それはきっと、魔が差したということなのだろう。

焦がれる気持ちに蓋をして。
彼の感情に甘えているだけだとはわかっていたのに。
彼との関係がこじれてしまうことは明らかだったのに。

寂しいという感情だけは止められず、彼の体温に身を任せたんだ。

「俺…最低だよな。お前に付け込んでる」
熱量に肌を重ねていたときに、そんな彼の呟きが聞こえた。
違う。
違うんだ。
優しさに付け込んでいるのはきっと、自分のほうなのだ。

でも、その言葉さえも。
伊庭は飲み込んだ。









「…痛い」
不機嫌を丸出しにして伊庭は訴えたが、幼馴染な「そか?」と呑気に返事をした。
浪士組を見送った後から降り出した雨はとうに止んだものの、日は暮れていた。居酒屋に身を寄せて雨宿りのつもりだったのに、すっかり長居をしてしまったようだ。伊庭は重い腰を上げてそろそろ帰ろうかと思ったが、本山は全くそんな様子もなく上半身を晒しているままだ。
「…風邪ひくぞ」
忠告してやるものの
「身体が火照って仕方ないんだ」
と妖艶な返事をしてきた彼は、伊庭と反比例して上機嫌のようだ。
「…火照ろうが凍えようがどっちでもいいから、とりあえず帰るぞ。服を着ろよ」
「もう夜だけど、帰れるのか?」
「外泊するなんて言ってないし、ここは出会い茶屋じゃねえんだから。提灯借りて帰る」
居酒屋らしく、そろそろ客も集まってきたようだ。一階が賑わいを見せていた。いつまでも注文しない客が居座っていても迷惑だろう。
しかし本山はまるでその気はないようだ。
「お前が、帰れるのかって言ってんだよ」
「…どういう意味か全くわからない」
彼が自分の体のことをからかっているのはわかっていたのだが、素直に答えてやるのは癪に障るので敢えてスルーする。
さっきまで、彼と身体をつなげていた。
そんなつもりもなかったし、そんな気持ちもなかったのに、ただ寂しさを埋めるためにそうした。彼に図星をさされて動揺していた、というのはきっと言い訳にしかならないだろう。
ぎりぎりの均衡を保ち続けた一線を越えてしまったのは、きっと己の弱さゆえでしかない。
この男が自分にそういった感情を持っていることはきっと本能で知っていた。知っていて利用した。それはこの男が必ず受け入れてくれることを知っていたから。
想いを寄せる人がいなくなってしまった寂しさを紛らわせるため、幼馴染を『彼』の代わりにした。
そしてこの幼馴染はそれさえもわかっていて、それでいて受け入れているのだ。
「いいから、帰るぞ」
伊庭は無理やり本山の襟を掴み着物をただす。本山は嫌そうにしたが特に抵抗することなく従った。
「なあ八郎」
「なに」
至近距離で名前を呼ばれると、今までとは違った響きに聞こえた。
「また…一緒に寝る?」
それはまるで「一緒に遊びに行くか」という風な気軽な言い方だった。
「…気が向いたらな」
「ははっ…ひっでぇ男だなあ」
全くその通りだ、と伊庭は思った。今まで築き上げてきた友情とか信頼とかそんなものをかなぐり捨ててしまったというのに、まだ続けようとするなんて。もう寝ない、もうこんなことはしない。そう言うことができたなら、一晩の間違いだと言って、またこの関係を友情に戻すことができたのに。
「わかったよ。指名されるのを待ってるよ」
けれど、それでも彼は嬉しそうに笑うから、許されていると錯覚してしまうんだ。
「…ほら、帰るぞ」
話を切り上げて、本山の着物をただしてやるとふいに本山の大きな手が頬に触れた。
彼の唇が近づく。しかし、
「やだ」
「はっ?」
伊庭は本山の唇を寸でのところで両手で塞いだ。彼はかっと目を見開く。
「お前と接吻はしない」
「何だよ、我儘な旦那だな」
「我儘で結構。俺は絶対にお前と接吻はしないからな」
伊庭の言葉に本山は不満そうに顔を歪めたものの、渋々と「わかったよ」と頷いた。
そう、きっと彼は『わかって』いる。
伊庭がなぜそんなことを言うのか、わかっているから、受け入れたのだ。
(…俺には、優しすぎる)
何でそんなお前が、俺の傍にいてくれるのかわからなくなる。


「おかえりなさいませ」
重い腰を引きづって帰路につき、ようやく家に付いたのは夜も遅くになる頃だった。本山は門の前まで心配してついてきたが、別に病気になったわけでもないので「さっさと帰れ」と背中を押して無理やり帰らせた。
出迎えた礼子は少し不機嫌そうに兄を出迎えた。
「ああ…まだ起きていたのか」
「いえ、今夜はよく眠れなくて」
赤く腫れた目はまだ微睡んでいた。伊庭は彼女がさっきまで寝ていたのだということがすぐにわかった。
(…困ったな…)
他の家人は皆眠りについているなか、眠気を我慢して兄を待ち続けたということは、何か言いたいことがあるということなのだろう。身体の重い伊庭にとっては少し苦痛だった。
礼子は養父秀俊の連れ子であり、伊庭とは義兄妹になる。年もあまり離れていないため、幼いころはお互いが兄妹だと分からず友達だと思って過ごしていた時期もあるほどに親しかった。しかし伊庭が剣を始めて、お互いが思春期に差し掛かると話すことも少なくなり、次第に距離が遠のいて行った。それは特に理由はなく自然なことで、お互いがお互いのことを嫌っているわけではなくて。兄妹なのに、友達であり、男女である。そんな些細なことを強く意識してしまったのだと伊庭は思っている。
「湯を浴びられますか?」
「いや、今日は寝るよ。ありがとう」
一刻も早く話を切り上げたかったのだが、礼子は「お兄様」と伊庭を引き留めた。
「あの…ご縁談をお断りになったと父から聞きました」
やはり、と伊庭は内心思った。
伊庭は数日前、さる武家の娘との縁談を断った。特に相手の女性に不満があるわけでもなかったし、父の面目を潰してしまったのは申し訳ないとは思うが、妻帯する気などさらさらなかった伊庭はあっさりと一蹴した。
「…だったら、何」
冷たい言い方になってしまったのは、彼女にこれ以上の追及をさせないためだ。そのことについてはもう義父に謝罪を済ませて終わったことになっているはずだから、というのもあった。礼子も伊庭の意図に気が付いただろう。しかし言葉をつづけた。
「お兄様は…誰か、ほかに妻にされたい方でもいらっしゃるのですか…」
「……」
今日は厄日か、と呪ってしまうそうな言葉だった。
片思いの相手は旅立ち、幼馴染との関係は拗れ、そして義理の妹にまで核心を突かれるなんて。
「…別に、そういうわけじゃないよ」
「でも、お兄様…」
「この話は終わりだ。悪いけど今日は疲れてるんだ。…もうお休み」
苛立った気持ちを妹にぶつけるわけにもいかず、伊庭は無理やり話を切り上げた。引き留めようとする礼子を無視してそのまま背中を向ける。
礼子がいつまでも後ろ姿を見送っていたことはもちろんわかっていた。

部屋に帰ると、すでに床が延べてあり微かに礼子の香りがしたので、彼女が準備したのだとすぐに分かった。
伊庭が身体を横たえると楽になり、酷く眠気が襲ってきた。
「あー…もう…」
寝てしまいたいのに、頭の中はぐじゃぐじゃだった。
優しすぎる幼馴染のこととか、物言いたげな義妹のこととか。そして一番整理できないこの感情とか。
「…ん?」
伊庭は枕元に何かが置いてあるのに気が付いた。
冬の寒さのせいですっかり冷たくなってしまっているが、それは皿だった。伊庭が重い腰を持ち上げて部屋に灯をともし、明るくするとそれが握り飯だとわかった。
「礼子か…」
掃除も洗濯も完璧なくせに、料理だけは下手くそな義妹の作った握り飯に違いない。俵型を作りたかったのだろうが、歪に転がっていた。伊庭は握り飯に手を伸ばし口に含んだ。すると少し塩辛い味付けが口腔に広がった。
いつからだろう。礼子がこんな風に気を使い始めたのは。
昔はもっと遠慮なく言葉を交わして、明るくて、相撲を一緒に取ったりするとこちらが負けてしまうほどお転婆だったのに。いつの間にか仕草が女性らしくなり、声色も囀るような繊細さを見せ始め、そして伊庭を見る眼差しが変わっていった。
「……」
そして何よりも縁談の話が持ち上がった時、彼女は青ざめた顔をしてまるで泣きそうになっていた。押しつぶされそうになるのを耐えながら「おめでとうございます」と伊庭に笑った顔が印象深く残っていて。
伊庭が確信したのはその時だった。
握り飯二つを平らげて、伊庭は再び布団に身体を横たえた。腰の鈍い痛みが明日には無くなっていないと、また家人たちに無駄に心配されてしまう。詮索されるのも面倒なので何とか今晩中には直さなければ。
思考をストップさせて、伊庭は目を閉じる。瞼に焼きついた光景にフィルターをかけて何も見えなくする。
するとだんだん眠気が襲ってきて、何も考えなくていい場所へ行ける。しかし。
「…寝返りも、打てねえだろ、馬鹿…」
ひとまずこの痛みを何とかしないと、と伊庭は切実に思った。







悪夢を見た気がした。目が覚めるとすべて忘れてしまうような夢なのに、今朝はなぜか痛みと疼きを残していた。
伊庭は重い身体をお越し外を見る。まだ朝になったばかりのようで家人が起きた様子はない。伊庭はできるだけ物音を立てないようにして部屋を抜け出し、家を出た。まるで盗人のような真似をしている自分を少しだけおかしく思いながら。

「男前が台無し」
屋敷を抜け出した伊庭はふらりと吉原へ向かった。特に意味はなかったが、そこで客を見送ったばかりの小稲に鉢合わせた。睡眠不足だろうに、伊庭の顔を見ると手招いてくれた。
小稲は伊庭の馴染みの芸妓である。稲本楼の最高ランクである『左近小稲』を襲名するほどの容姿と才能を持ち、もちろん吉原で売れっ子の花魁だ。だが実際に会って話をするとさばさばとした小粋な性格が伊庭には気持ち良いほどで、驚くほど馬が合った。
そんな彼女が挨拶もそこそこに伊庭の顔色を指摘した。
「整った顔立ちの男は、いつでも美しくないと」
「それは随分手厳しいな」
小稲に導かれ、部屋に案内された。華麗な容姿とは裏腹に彼女の部屋はこざっぱりしている。
「それで、何かよくないことでも?」
何にも包み隠すことなく、単刀直入に思ったことを訊ねるの小稲の良いところだが、今日はそれにすんなり即答はできなかった。
「ちょっと。…タガが外れるっていうのは、こういうことなのかな。今まで塞き止めてたものを吐き出したら、どんどん崩れていくというか」
「…ふうん?」
伊庭の抽象的な言葉に小稲は小さく首を傾げた。
『お前の寂しさを埋めてやる』
幼馴染はそういったけれど、肌を重ねながら悲しい顔をしていたのは彼のほうだった。行為が終われば普段のように穏やかな表情をしていたが、何かを必死に隠そうとしていたのはすぐに分かった。
それは痛みとかに違いなくて。
でも彼が気丈に振る舞うものだから、伊庭もそれに答えるしかなかった。途方もない悪循環だとわかっていたのに。
「でも塞き止めてたってことは、どこかでわかってたってことでしょ」
小稲は諭すように伊庭に語りかけた。
小稲を愛しく思う気持ちはあるが、時々彼女を姉のように感じる。指摘するべきところは指摘して、まるで包み込むような無償の優しさをくれる。けれど、そんな小稲でも今の在る伊庭の状態を述べれば幻滅するかもしれない。
「わかってても、わかってないふりをすべきこと、かな」
そう、そうすべきだった。彼の気持ちを受け入れる覚悟も余裕も無かったくせに、一時の感情に流されてしまったのは弱さでしかない。
『お前、別に好きな奴がいるんだろう』
まったく、彼のほうがよくわかっている。
「…ま、八郎さんが話したくないのならあちきは聞かない。話したくなったらいつでも言ってくださいな」
伊庭の心情を察したのか、彼女はそこで話を打ち切った。
「そういえばこの間お話した、旦那さんの話」
「ああ…」
小稲にはさる大店の主人から身請けの話が出ていた。吉原でも最高級ランクの小稲を身請けするとなると、千両はくだらないというのが専らの噂だ。なので小稲に入れ込んだとしても、そうそう身請けを口にする人間はいない。小稲に身請けを申し出てきたのはさる豪商の放浪息子だそうで、相当小稲に入れ込んでいるらしいとの噂は伊庭も耳にはしていた。
「受けることにした?」
伊庭が訊ねると、小稲は嫌そうな顔をした。
「そりゃ、あちきにとっては勿体ないお話でありんすけど…」
小稲はそう言ってちらりと伊庭を見た。彼女が自分を頼りにしてくれている気持ちは痛いほどわかっている。しかし、伊庭はそれに答えてやらない。
「受けたらいい。きっとここにいるよりはいい暮らしができる。放浪息子だそうだけど、一途に惚れているそうじゃないか」
彼女の感情を無視して伊庭は言葉を並べる。彼女が欲しい言葉はわかっているのに、それを口にはしない。
…礼子も待っているのだろうか。伊庭は不意にそんなことを思った。ああして夜遅くまで伊庭を待っているのは何かを期待しているからなのだろうか。
「何で…俺なのかな…」
無意識に小さくつぶやいた言葉が、小稲に聞こえたのかはわからない。
何かを言いかけて、小稲は一瞬言葉を飲み込んだ。けれど、俯いて逸らした目を再び伊庭へ戻した。
「…八郎さんは、いけずやなあ」
上方の言葉を使って、小稲は茶化した。感情を押し殺した彼女は、美しく笑った。
酷いことを言っているのはわかっている。彼女は自分のことを好いていて、好条件の身請けさえも擲ってまで思ってくれているのも知っている。小稲の言うとおり「いけず」なのだろう。
けれど、どうしても、この気持ちはうまく言えない。
うまく、言葉が浮かばない。
大切にしたいのに、大切にできない。
君も。誰も。


「よっ」
吉原を後にしたところで、すぐに本山と出逢った。片手をあげて気軽な様子はいつもと何ら変わりない。
「どうしたんだ?こんなところで」
本山が吉原に来るのは珍しい。悪所通いのお供はいつも別の人なのであまり一緒に来ることはないのだ。本山は小さく笑って
「ちょっと迷子を捜しに。心配してたぞ」
と答えた。おそらく伊庭を探しに来たということなのだろう。伊庭はすこし嫌悪した。もう子供ではないのだから、家にいなかったくらいで大騒ぎしなくても、と思ってしまう。
「…礼子が言ってたのか?」
「ん?まあそんなとこ。朝になったらもぬけの殻だったから吃驚したそうだ」
だから吉原じゃないか、とあたりをつけて探しに来たということらしい。
「小稲にあってきたのか?」
「ああ…特に用事はなかったけど」
「小稲と言えばいまは身請けの話が持ち上がってるらしいな」
あまり吉原に来ることのない本山でさえその噂は知っているらしい。
「らしいな。良い旦那だって聞いてる」
伊庭がそう答えると本山は怪訝な顔をした。
「お前…一応、馴染みの芸妓なんだから、嫉妬くらいしろよ。余裕ぶりやがって」
「それは遠回しに小稲にも言われた」
「だろうよ」
伊庭と本山は並んで歩き始めた。どこへ行くというわけでもない。家に戻って礼子や家人に釈明するのは酷く億劫だ。それを本山もわかっているのか、特に先導して歩くことはない。そして不意に会話が途切れた。何を話していいのかその道順さえもよくわからなくなっていた。
「あのさ…」
本山がつぶやくように切り出した。
「礼子さん、なんか思いつめたような顔をしてたぞ」
「ふうん…」
「ふうん、じゃなくて」
「俺が居なくなったくらいで、大騒動だよな」
「茶化すなよ」
本山は騙されてくれなかった。茶化す伊庭に少し苛立ちさえ感じているようだ。温厚な彼にしては珍しい。
「気が付いてないのか?礼子さんは、お前のことを――」
「小太」
伊庭が制すと、本山は言葉をつぐんだ。
気が付いていない訳がない。お前に言われなくてもわかっている。むしろ、気づかないでいたかったくらいだ。
すべてのことに鈍感でいられたら、どれだけ楽だっただろう。
「…おかしいよな。なんで、俺がいいんだろうな…」
伊庭は歩調を速めた。本山と少し離れていたかった。今は見透かされたくない。今は、なにも気づかれたくない…。
「八郎」
しかし彼はそれを許さなかった。逃れようとした手を取った。
伊庭がその握られた手の強さに引かれるように振り返ると、そこには穏やかな笑みの幼馴染がいた。
(だから、なんで…)
「なあ…八郎。お前は、何を考えてる?」
「……なにも、考えてない」
「考えたくない?」
だから、なんで見透かすんだ。
「もう…何も考えたくない」
小稲のこと、礼子のこと、そしてお前のこと…。どれを考えたって答えなんか出るわけない。
だったらいっそ考えたくない。誰もかれも、放っておいてほしい。
「八郎」
本山はさらに伊庭の手を引いた。肌が触れそうなほど近くに彼の体温を感じた。そして不意に唇が触れそうになる。伊庭は瞬時に顔を逸らして避けた。
一瞬、本山は寂しげな顔をした。伊庭は思わず
「ごめん」
と謝ってしまう。すると「お前が謝ることなんてないだろう」と本山は言った。
伊庭にはその優しさが、痛々しくうつった。そして本山はまるで睦言のように問いかけた。
「…指名、してみる?」
だから、なんでそんなに優しい目をしているんだ。
だから、なんでそんなに見透かすんだよ。
「……指名、してやる」
だから、甘えてしまう。
お前のその優しさに、すべてを委ねてしまう。


傍にいるだけで、傍にいられるだけで、それでいいと思っていた。けれど、失って、消えて、遠くへいって、手が届かなくなって気が付いた。
熱量が一人ぼっちになってしまったかのようにぽつりとそこに残ってしまった。
ああ、そうか。
これが好きだってことだったのか。
そう気が付いたときには手遅れで。やり場のないこの気持ちを、受け止めてほしくて。

お前の手を、取ってしまった。

この気持ちがきっと誰のものかわからないから。
でも。
こんなに曖昧で。
こんなに優柔不断で。
こんなに揺らぐのに。

お前は等身大の気持ちを、返してくれる。

羨むほどの、その強さが、欲しいよ。






しゃぼん玉のように。
ふわふわと、頼りなく浮き沈み、風に流され、空を目指す。
触れようとすれば離れ、そして、いつか弾ける。空にたどり着くことはない。
いつ弾けてしまうのか。
いつ消えてしまうのか。
いっそ消えてしまえばいいとか。
そんなことを考えている。

それから一か月が過ぎた。


寒かった季節が過ぎ、ようやく桜の蕾が膨らみ始めた。窓辺からの景色は随分賑やかになってきている。しかしぴったりと障子を閉め、うす暗い部屋で声を殺した部屋では衣擦れの音と、微かな吐息だけが、まるで世界にそれしかないかのように響いていた。
「…っ、ぁ…」
慣れてしまってはいけないと思っていたのに、いつの間にか快楽を身体中に刻まれていた。駄目だと思うのに、彼を欲しがる身体は彼に触れられれば、もうそこに伊庭の意思はない。
「まだ…嫌だ…」
言葉は拒むものの、それが嘘だと幼馴染は知っている。
「何が…嫌だって…?」
意地悪に訊ねる本山に、伊庭は首を横に振って答える。しかし彼は許してはくれない。両手を掴み、無理やりに顔を引き寄せられる。
「答えないと、口吸うぞ」
「…っ、この…野郎…っ」
それだけはしない、と宣言していたから、そんなことを言うのだろう。こうすれば、嫌でもいうしかないのだから。
伊庭がきゅっと唇を噛みしめた。
「いいから…入れろ、」
「入れてください」
本山は少し笑って、言葉を訂正してきた。こう言え、と言わんばかりの顔だ。
「…っ…この、調子に…のるな…」
「じゃあやめるか?」
熱を持った身体はもう伊庭の意思では冷ますことはできない。だから、結局彼に従うしかない。
「入れて…くださ…」
言葉を言い切らないうちに、その熱量が押し込められる。伊庭は息を詰まらせた。異物を押し込められる感覚はいつまでたっても慣れないが、これが段々と快楽に変わっていくのは嫌というほど知っていた。
誰に知られるのが嫌だ、というわけではないが伊庭は親指を咥える。そうでもしなければ恥ずかしい声が部屋から漏れてしまうからだ。歯形が付いてしまうほど強く噛みしめる。
そんな伊庭をみて本山が小さく笑う。それは少し嬉しそうに見えた。けれど、彼はむしろもっと激しく動き始めた。
「く…っ、ん、んぅ…っ」
本能のままに欲望を求め合う。それはお互い同じで、息を荒げ呼吸ができなくなるほどに激しくぶつかる。
そうだ、酷いほうがいい。
こんな時でしか、お前の感情を受け止めてやることなんか、できないんだから――。

胸を上下させないと呼吸ができないほどに疲弊した身体を横たえて、伊庭はぼんやりと天井を眺めていた。
まるで中毒になってしまったかのようだ。
幼馴染だと思っていた男と寝て、それを自己嫌悪するほど後悔していたはずなのに、過ちを何度も繰り返している。それを彼は咎めないし、事が済めばまるで何事もなかったかのように明るく振る舞っている。そんな彼の優しさに甘えて、もう一か月。
こんな関係になる前だったときが思い出せない。
どんな話をしていた?どうやって話をしていた?どうやって隣に座っていた?どうやって、目を、みていた?
むしろ、いつまで繰り返せば、忘れてしまうことができるのだろう。そのほうが罪悪感を持たないで済むのだろうか。
「八郎」
大分息の整ったらしい本山が手招きする。伊庭は重い身体を引きずって、招かれるままに彼の腕に収まった。
この腕枕がないと寝られない。
一か月という長い時間は、いつの間にか伊庭をそんな風にしてしまっていた。彼の傍で、彼の体温を感じる。とくん、とくんと脈打つ鼓動が聞こえてそれが随分心地の良い子守唄になる。それを片耳を寄せて聞く。それが何よりも落ち着く時間になっていた。幼馴染がそれを知っているのかはわからない。けれど彼はそんな伊庭を包み込むように抱きしめて、目を閉じている。寝ているわけではない。ただ浸るように、うっとりと目を閉じているのだ。
(…案外、睫毛が長い…)
こうして寝るようになるまでは知らなかったこと。
睫毛が長いこと。
腰のあたりにほくろがあること。
行為の時は荒っぽい口調になること。
それはきっと幼馴染のままでは気づかなかったことなのだ。
「……」
伊庭は本山の胸のあたりに顔をうずめた。
冬は過ぎ、春が来てもまだ肌を晒すには寒すぎる。だからそれに託けて抱きしめる。
いつまでこうしていられるのだろう。
ふらふらと足元のおぼつかないまま浮き上がるしゃぼん玉は、いつ弾けて、その姿を失ってしまうのだろう。
いまは、それが怖くて。
繋ぎとめるように、身体をつなぐ自分が酷く恨めしい。
「なあ八郎」
「な…なに」
感傷に浸っていた伊庭は本山の声に少し驚いた。
「飛鳥山にさ、今度行こう」
「飛鳥山?」
「桜。一緒に花見をしよう」
江戸の桜の名所である飛鳥山の桜は、もともとは徳川吉宗が庶民の娯楽に、と城内にあった桜千二百本を植え開いた桜の名所だ。ただ遠いのが難点で、泊りがけの旅行になってしまう。
「…気が早いな。まだつぼみだぞ」
「いいんだよ。ここ最近ずっと一緒に行ってなかっただろう。前に行ったのは…ガキのときじゃねえか」
「そうだっけ」
「そうだよ」と幼馴染は口元を綻ばせる。きっと子供の頃の話だから、「花見」といった大層な出来事ではなく、桜の木の下で遊んだとかそれくらいのことなのだろう。しかし、本山は鮮明に覚えているようだ。
「わかった。桜が咲いたらな」
「約束だからな。ほら、指切り」
本山が伊庭の指先に自身のそれを絡めた。
「子供っぽいなあ…」
伊庭は嫌がったが、本山は強引に小指を繋いだ。
「ゆーびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指切った」
約束。
まだ、一緒にいてもいい。伊庭にはそんな約束に聞こえた。


本山と夜を過ごすようになってから、家に帰るのが億劫になった。単純に身体の軋みもあるが、家族に顔を合わせるのが、一番伊庭を憂鬱にさせる。昔から遊里や居酒屋で朝まで過ごしたり、試衛館に入り浸っていたせいで家に寄りつかない日々が多かった。しかし家族は何も言わなかった。それはきっと血のつながらない跡取り息子への気遣いだったのだろう。本ばかり読んで剣の稽古をしなかった思春期でさえ、家族は文句の一つも零さなかった。跡取りが病弱で剣の稽古も覚束ないようでは困る、と頭を抱えていたその頃に比べたら、多少の夜遊びは見逃してくれるらしい。
しかし義妹だけは違う。
夜遅く、むしろ朝早く帰ってくる伊庭を、いつも出迎えていた。ある日は夜遅くまで夜更かしをして、またある日は日が昇る前に支度をして待ってくれている。もちろん伊庭が頼んだわけではなく自発的にそうしているようだ。
伊庭は義妹のことを健気だ、と思う反面憂鬱に感じてしまう。
「おかえりなさいませ」
言葉は優しく出迎えるが、その瞳は伊庭を責めるかのように射る。どんな女と朝まで過ごしているのか、と嫉妬じみたものを持っているのだろうか。
「…ただいま」
散々出迎えはいらない、と言いつけたが全く聞かない。だんだんと指摘するのも面倒になってきて、伊庭は彼女の出迎えに慣れきってしまった。
「今日は、夕飯は?」
「食べてきたよ」
「そうですか…」
礼子はやや残念そうな顔をした。もしかしたら準備をして待っていたのかもしれない。しかし伊庭はそれに気づかぬふりをする。
「明日は稽古だから、今日は寝るよ」
礼子に背中を向けた伊庭だが「お兄様」という言葉で足を止める。
「お兄様は…わたくしのことをどう思っていらっしゃいますか…?」
やや顔を赤らめていう、思わせぶりな質問。彼女が求める答えはわかっていた。
(…小稲と一緒か)
小稲が伊庭に引き留めてくれと願ったように、礼子も特別だと言われたいのだろうか。
「…お前は、妹だよ」
けれど答えない。
きっぱりと切り捨てて、相手が悲しもうとも知らぬふりをする。
礼子は視線を逸らし、きゅっと唇を噛みしめた。まるで何かを堪えるかのように、少し震えている。
その姿を見て心が痛まない訳はない。小さなころから一緒だった、一番身近な女性であることに違いはなく、親愛の情はいつまでも変わらず心にある。けれど、それ以上の気持ちを持てないのはきっと彼女がそれ以上の存在ではないという顕れなのだ。
(…小太の時も…そうすれば、良かったのに)
彼の気持ちも、受け止められないと分かっていたのに、どうして手を取ってしまったのだろう。
「…わたくしは、お兄様だと…思ったことは、ありませぬ」
礼子は涙を堪えてそう言うと、踵を返して去っていく。伊庭はその後ろ姿を見送った。
(…失ってもいい、とは、思わないけれど…)
義妹としては、大切な家族に違いない。
家族だからこそ、大切にしたいけれど。
「…ごめん」
その気持ちに答えられないことだけは、わかる。聞こえないように小さくつぶやいて、礼子の背中が見えなくなるのを、見送った。








風の温度が少しだけ暖かくなり始め、草の芽が生え始める季節が訪れようとしていた。
「いらっしゃいませ」
礼子が差し出した温かい緑茶と菓子を、本山は笑顔で受け取った。
「すんません。長居はしないんで、お構いなく」
「いえ、大したおもてなしもできずに、こちらこそすみません」
角度の良い姿勢で華麗に頭を下げた礼子に、本山もあわてて居住まいを正す。慌てふためいて深々と頭を下げる幼馴染が面白くて、伊庭は隠れて笑った。礼子も同じように笑って「では」と部屋を去って行った。
本山が伊庭の家を訪れたのは昼を過ぎた頃。何の約束もしていなかったので伊庭は驚いた。てっきり何か急用があるのかと思いきや「『南総里見八犬伝』ってあるか?」という何でもないことだった。
「悪かったな、次郎がどうしても読みたいって聞かなくて。お前のとこならあるだろうから借りてきてくれって」
「俺は貸本屋じゃねぇんだけどな」
大量に積まれた本の中から、伊庭は『南総里見八犬伝』を探す。貸本屋に劣らず伊庭の部屋にはかなりの本があるので探すのも一苦労だ。本当なら本山にも手伝わせるところだが、彼に手伝わせると何がどこにあるのかわからなくなってしまうため、傍で待機させた。
「大体、何冊あると思ってんだよ。早くに言ってくれねえと探すのも大変なんだからな」
伊庭が文句を言うと本山は「そんなのあるのか?」と安易に訊ねてくる。
「百六冊」
「そんなのあんの?!」
本山は絶句した。
「そういうと思った。だから今日はとりあえず二十冊くらいまで持たせるよ。続きが読みたいなら二人で借りに来いよ」
「ああ、そうする。ったく、次郎の奴、わかってて俺に頼みやがったな」
「兄の威厳がないんだよ」
使いっ走りにされた、とブツブツ文句を言う本山を尻目に伊庭は十冊ほど探し当てた。『南総里見八犬伝』を纏めて括っておけば良かったものの、残念ながらバラバラと点在しているようだ。発掘するのには時間がかかる。
本山は最初は呑気に菓子を摘まみながら本を読んで待っていたが、飽きてしまったのか我が家のように寝転がった。そして探し回る伊庭を眺めていた。
「なあ、八郎」
「んー?」
積み重なった本の一番下に第五巻があった。一冊一冊上から退けていくのは面倒そうだ。うまく一冊だけ引き抜けないものか…。
伊庭がそんな風に思案していると
「礼子さん、本当にきれいになったよなあ」
と、呑気なことを言ってきた。
しかし伊庭はその言葉で後ろめたいような気持になった。
「そうか?毎日一緒にいるとわかんねえよ」
誤魔化した言葉はやや早口気味になってしまった。こういうときだけ機敏な本山は、何かを察したのかしばらく黙っている。伊庭は伊庭でそのことに気づかないふりで本を探した。
礼子とはあれ以来あまり口を聞かなくなった。
『…わたくしは、お兄様だと…思ったことは、ありませぬ』
その告白は礼子にとって重要なことだったのだろうが、伊庭は敢えてそれに何も答えなかった。イエスもノーもどちらも不正解のように思ったからだ。一過性の気の迷いなら一番いい。そしてそうだとしたら、きっと時間が解決してくれるはずだ。伊庭はそう思っていた。
礼子のほうもその告白を後悔しているのか、答えを出さない伊庭を追及することも言及することもしない。しかし、毎日、毎晩伊庭を迎え入れるという態度だけは続けていた。伊庭にはそれがまるで意地を張っているように見えた。
「…そういうもんかな。時々顔を合わせるとわかるのかもな。昔は男勝りなところもあったけど、今は全然その面影もないし」
「ふうん」
無関心を装って伊庭は本探しに没頭する。本山が礼子の話題をやめるのを期待したが、
「まるで深窓の令嬢って感じだな。なのに気遣いはできるし…良い嫁さんになるよ」
となおも続ける。本山にその気はないのだろうが、まるで何かを婉曲に伝えるかのようで、伊庭は苛立った。
「じゃあ、お前が嫁にもらってやれよ。いい頃合いだろ」
だからかもしれない。そんなことを言ってしまったのは。
そして言った瞬間に、伊庭は「あっ」と後悔した。そして本山はその言葉に黙り込んでしまう。その視線が急に冷たくこちらを向いていた。
「…お、お前が礼子のことを褒めるばっかりするから。そうしたいのかと思ったんだよ」
言い訳じみていたのはわかっていたが、尚も彼の目は冷たくこちらを向いていた。
完璧に怒っている。
幼馴染はいつも温厚で、怒鳴ったり暴れたりすることはほとんどない。むしろ伊庭は見たことがなかった。そんな彼が「怒」という感情を出すときは決まって無言になるのだ。
伊庭はその視線から逃れようと、手元に目を向けた。
謝っていいのか、わからない。無神経な言葉だったとは思うけれど、謝ればそれは彼に余計な期待を抱かせてしまうんじゃないか。
「……悪い」
しかし、先に謝ったのは本山のほうだった。予想もしてなかった伊庭は驚いて彼を見る。
「な、何が…」
彼が謝ることなんて何もないはずだ。むしろ謝らなければならないのは…。
「いや…別に、俺はお前を責めることはできねぇよなと思って」
「何で…」
「…だって」
そこで本山は言葉を噤んで
「いや、何でもない」
と誤魔化した。笑って見せようとした顔が少しぎこちない。
「……そうか」
伊庭もそれ以上追及しなかった。彼と喧嘩になるのは嫌だったし、これ以上このことで言い争うには不毛だと思った。けれど、彼が何かを我慢したのはわかった。
(先回りされてる…)
これ以上言えば喧嘩になる。これ以上言えばどちらかが傷つく。
本山はそれを見越して謝ってきたのだろう。自分の感情を押し込んでも、お互いの気持ちに溝ができるよりはマシだと考えて。
(…お前は、いつもそうだ)
伊庭のことを見透かして、先回りをして、気を使って、傷つかないように準備して。自分は何でもない顔をして、余裕ぶって、両手を広げて待っている。
それが、酷く心地いいから。
だから、甘えてしまうんだ。
伊庭は本の底に敷かれていた第五巻をようやく抜き取った。しかしそのせいでバランスを失い、何冊も重なった本の塔はゆらゆらと揺れた。
「あぶな…っ」
「え?」
本山の愕きの混じった声が聞こえるまでは、気が付かなかった。何十冊も重なった本たちが伊庭をめがけて倒れこんでいた。気が付いたときには数冊の本が目の前にあり、伊庭は手で塞ぐことしかできない。
バサバサバサバサ、と派手に落ちる音が聞こえた。
しかし思ったほどの痛みはない。
「…ったー…」
「小太?」
恐る恐る目を開ければ、目の前に幼馴染の顔があった。覆いかぶさるように身体が重なっていた。どうやらとっさに庇ってくれたらしい、と伊庭は気が付いた。
「ご、ごめん」
「本で死ぬなんて冗談じゃねえよ」
茶化して笑う幼馴染に「まったくだ」と伊庭も笑った。二人の身体を覆い隠すほどの本がそこらじゅうに散らばっていた。重ねていれば大した冊数に感じないが、散らばると足の踏み場もないほどの本がこの部屋にあるのだと分かる。
「あーあ…片付けるのが嫌になるな…」
ため息交じりに伊庭は幼馴染から離れようとした。しかし、彼はそれを許さなかった。
「小太…?」
「ご褒美」
「は?」
「いいから、もうちょっとこのままでいろよ」
このままで、と言いながら伊庭を押し倒すような形なっている。
「ば…っ、誰かに見られたら」
「礼子さんとか?」
突然出された義妹の名前に、伊庭はかっと苛立った。
「…っ、離せよ、」
「嫌だ」
「嫌だじゃねぇ…っ」
伊庭は彼の胸を押すがびくともしない。
「…ああ…やばい」
「な、ん…」
「頭んなかで、俺お前のことをめちゃくちゃにしてる。…お前のことしか考えられない」
その言葉は、伊庭の鼓動を加速させた。
「何…恥ずかしいこと、言ってんだよ…」
喜んではいけない。
喜ぶ資格なんてない。
けれど、なんで、こんなに。
胸がいっぱいになるんだろう。
(どうしてくれるんだよ……)
俺も
俺だって、お前のことで、頭がいっぱいだ。



それから、散らばった本を片付けて本山に『南総里見八犬伝』を十五巻まで貸した。両手で抱える量に「恨むぞ…」と弟に文句を垂れつつも、本山はそれを抱えて去って行った。伊庭はそれを見送って戻ると、ちょうど礼子と居合わせた。
「お兄様。もう本山様は帰られたのですか」
少し驚いたような顔をしていた。本山が案外早く帰ったのでそれが意外だったのだろう。
「ああ。弟が待ってるらしいから」
「そうですか。宜しければ夕飯でもと思ったのですが」
残念そうにしていたが、礼子は「あ」と何かを思いついたようにして、懐から手紙を取り出した。
「これ、お兄様にお手紙です」
「手紙?」
手紙といえば女からしか受け取ったことがないが、礼子の表情からすると差出人は違うようだ。受け取った手紙は見たことのあるような手だった。
「京からのようです」
「…ああ…そうか…」
その言葉に差出人はすぐに分かった。
「ありがとう」
伊庭は彼女に悟られないように部屋へと戻る。

本山へ貸した『南総里見八犬伝』。
その十六巻は、そういえばこの人に貸したままだったな、と伊庭はようやく思い出した。








「え?男色ですか?」
思い悩む彼からそんな話を聞いたのは、昨年のことだ。二人して吉原へ行く道中だったので、大層驚いたのを覚えている。
「お前はどう思う?」
今から女と遊びに行こうというところでの会話の内容とは思えない。行き先を芳町へと変更しなければならないだろうか、と茶化してやろうかと思ったが、彼は言葉以上に深刻な表情をしていた。
「どう思うって…もう何世代も前から衆道は流行らなくなりましたけど。好き好きじゃないですか?」
男色、つまり陰間はもともと「舞台の陰にいる者」をさし役者志望の若衆がほとんどだ。客は女犯を禁じられた僧侶などが大半である。
「いや…まあ、そうなんだが。女に不自由してるわけじゃねえのに、おかしいだろ」
「さらっと自慢を挟みましたね」
伊庭が指摘すると「だからなんだよ」と少し苛立ったように睨まれた。どうやら本気の相談のようだ。
「もしかして、ご執心の若衆でもいるんですか?」
「そういうわけじゃねぇけど…」
彼の歯切れが悪い。それだけでも珍しい。
「あなたがそんなに悩んでいるなんておかしいですね。女のことでもそんなに悩んだのを見たことがないです」
「…人を能天気みたいに言うな」
少し睨んできた彼だったが、また小さくため息をついた。そして立ち止まると、急に踵を返した。
「え?帰るんですか??」
吉原に背を向けて歩き始めた彼に言葉を投げかける。すると彼は振り向きもしないで手を振った。
「悪いな」
と。
そして元来た道を戻って行ったのだった。
「……」
伊庭はその場に立ち尽くした。吉原へ行くつもりだったのに、すっかりその気持ちが覚めてしまった。
そして、なぜかちくちくとした痛みが残っていた。



雨が降っていた。春らしい陽気になりかけていたところだったので、急に冬に逆戻りしたような寒さだ。雨粒が顔にかかるだけで冷たいと感じてしまう。本山はその中ゆっくりと歩いていた。手に抱えていた荷物が濡れないように慎重に傘の角度を調整する。
「ったく…こんな日に限って」
手にしているのは借りていた本十五冊。弟の次郎が熱中したのであっという間に読んでしまい、続きを借りて来いと急かされたのだ。だったらお前もこいと言ったが言うことを聞かなかった。
「何で俺が…」
と、思いつつも実際は伊庭の家にいく口実ができたのは有難いことだった。
長年連れ添った友人と、違う関係を築いて一か月ほどになる。最初は2,3回でどちらかが「やめたい」と言い出すだろうと踏んでいたが、結局ずるずるとその関係は続き気が付けば季節が変わろうとしていた。それは本山にとっては願ったりかなったりだったのだが、相方がどう思っているかはわからない。もしかしたら「やめたい」と思っていて、でも言い出せなくて続いてしまっているのかもしれない。一か月たてばもう後戻りはできないだろう。
ずるずる続けて、傷つけあいながらこのままでいるのか。
断ち切って、もう二度と恋人にも幼馴染にも戻れないのか。
「…今更やめたいっていわれたら、もう立ち直れねえよなあ…」
冗談めいた自分への投げかけだったが、実際にはもっと深刻だ。親友と恋人を同時に失うなんて、そんな未来のことを思い描くだけで締め付けられるような苦しさが込み上げる。
だったらもっと早くに断ち切って、幼馴染に戻れる範囲で終わっておけば良かったのに、それができなかったのは日に日に彼のことをより愛しく感じてしまうからなのだろう。初めて見せる表情、仕草、そのすべてが自分のものだけだと思うと尚も手放したくなくて。だから、いつの間にかこのままでいいと思い始めてしまった。
このまま、行けるところまで行っていつか、この片恋が実るのを待つつもりだった。どんなに苦しくてもいいから、誰の代わりでもいいから、お前の目がどこを見ててもいいから――。
けれど、それはきっと独りよがりな願いなのだろう。

「ごめんくださーい」
伊庭の家にようやくたどり着いたときに、雨はさらに強く降り始めた。辺りの音が雨が地面をたたく音で聞こえないほどの土砂降りだ。傘をさして歩いていた者があわてて軒先へ避難していた。
「あれ…?ごめんください」
伊庭の家から返事はない。この土砂降りで聞こえないのかもしれない、と思いつつ本山は玄関へと入った。
するとパタパタと急いで走ってくる音が聞こえた。幼馴染のものではなさそうだ。
「お兄……あ、本山、さま…」
出迎えたのは幼馴染ではなく、その妹の礼子だった。少し取り乱して出迎えた彼女は、本山の顔を見て「違う」という表情をした。
「すみません、本を持ってきたんですが…」
「あ…あの…お兄様は…」
彼女は戸惑った様子だった。
「もしかして、八郎が何か?」
本山を出迎えたときも伊庭だと思ったのだろう。礼子は言いかけた言葉を慌てて噤んでいた。本山は何だか嫌な予感がして問うと、礼子は急に表情を顰めた。
「お兄様が…雨の中を出て行かれて…その、本山様のお宅へ行かれたのだと…」
「あれ?そうなのか。気づかなかったな」
傘を持っていたのですれ違っても確かに気が付かないかもしれない。しかし、礼子がそれだけれ動揺するとは思えない。
「あの…何かあったんですか…?」
「……」
本山の問いに彼女は何も答えない。きゅっと唇を噛みしめて、首を横に振った。しかしその瞳には涙が溜まっていて、今にもこぼれそうだ。本山は本の入った風呂敷を玄関に置いた。
「とにかく…引き返します。この本、お願いします」
「は…はい。あの、傘を…」
「いや、俺が持ってるから大丈夫ですよ」
答えにならない言葉を返し、本山は「じゃあ」と言って家を出る。礼子が心配そうに見送っていたが、構わず土砂降りの雨の中を駆けだした。


雨は止む気配を見せることなく、酷くなっていく。礼子の話ぶりだと伊庭は傘も持たず家を飛び出したようなので、おそらくびしょ濡れになっているだろう。横殴りの雨は全身を強く打ちつける。本山は一応傘をさしているものの、まったくその意味をなさない。そして風も吹いてきたのでさらに身体を冷やしてしまう。
「くそ…」
行く手を遮る風に向かって傘をさすのは逆に労力がかかる、と考え、本山は傘を閉じる。顔に雨粒がかかるが、気にせずに走った。
そして息が切れ、肩で呼吸をするほど走り疲れた頃、ようやく家へとたどり着く。いつもの道がかなり遠く感じた。
「…小太?」
雨の中から聞こえた小さな声に、本山は気が付いた。そんな風に呼ぶのは一人しかいない。雨の中で目を凝らすと、本山の予想通りずぶ濡れで、門前に待つ彼の姿があった。本山は慌てて駆け寄って怒鳴った。
「何でお前…こんなところで、待ってるんだよ…っ!なか、入ってればいいだろ…」
「…まあ…そうなんだけど」
差した傘に伊庭を入れてやる。彼の身体は冷え切っていて、表情は酷く冴えなかった。
「どうしても…言いたいことが、あってさ」
「な、なに…」
こんな土砂降りの中でずぶ濡れになってまで言いたいこと。
「本」
「……は?」
一瞬空耳かと思った本山が聞き返すと「本」と伊庭は繰り返した。
「本…って『南総里見八犬伝』のこと…か?」
伊庭が頷いたので、本山は一気に脱力した。
「そんなの…いつでもいいだろ…」
「まあ、そうだけど。…あの本の続き、当分貸せそうにないんだ」
「…ん?」
言葉の能天気さとは裏腹に、その表情は相変わらず硬い。雨の冷たさでそうなっているのかと思ったが、そうではないようだ。
「続き…土方さんに、貸しててさ」
「あ…そう…」
伊庭は、とても痛そうな顔をしていた。傘に入れてやって、もう寒くないはずなのに。
「…小太」
それが、
「ごめん…」
雨のせいなのか。
「もう、やめよう」
涙のせいなのか。
「もういいんだ…」
わからなかった。


土方から届いた手紙には、浪士組として無事に上洛したこと、しかし仲違をして浪士組の大半は江戸にもどり、自分たちは京都に残るようになったこと。そして、もう江戸へ帰るつもりはないということが、書かれていた。その手紙を読み終わった後、どうしようもない脱力感と悲壮感に襲われた。
もう帰ってこない。
その言葉が酷く重かった。まるで一生会えないことを宣言された絶縁状のように。
だから思い知った。彼のことを、どれだけ好きだったのか、と。
伊庭は震える声をどうにか抑えつつ、呟くように話した。雨音でかき消されるような小さな声しか出なかった。
「…土方さんから手紙が来たんだ。あっちで役目を与えられたから、半年のつもりだったけど、京都に残るって」
「そう…なのか…」
同じ傘の中にいるのに、一度も本山の顔をまっすぐ見ていない。彼が緊張しているのはこんなに近くにいればすぐに分かった。そして自分の緊張も同じように伝わっているはずだ。
いつものように話せばいいのに。
上手く呂律が回らなくて。
頭は真っ白で。
「だから、ごめん…当分貸せない」
「そうか…」
本のことなんてどうでもいい。そんなことはどうでもよくて…。
「ごめん…」
上手く話せない。
「そんなことで…謝るなよ」
そうじゃない。
「…ごめん」
謝っているのは、本のことじゃない。今まで散々甘えてきたこと。その優しさに、そのおおらかさに、その気持ちに胡坐を掻きつづけてきたきたこと。
幼馴染という唯一無二の存在を汚してまで、その関係を続けてきたこと。
「八郎」
混乱する伊庭の手を、本山のそれがぎゅっと握った。同じように冷たい手なのに触れると微かなぬくもりを感じた。
「わかったから」
何を。
何がわかったというのだろう。
「お前が俺を頼ったように……俺も、お前の弱さに付け込んでたんだよな」
だから、なんでそうやって
「そうやって…何でも、かんでも見透かすなよ…っ!」
伊庭は本山の胸ぐらを掴んだ。そしてそのままその胸に項垂れた。
「なんでも…見透かして、謝って…俺が、悪いのに…お前が謝るから…俺はいつも、…っ」
「俺は、お前が好きだから」
それはあまりにもあっさりと彼の口から告げられた。
前から気が付いていた彼の気持ちを。
こんなにはっきりと告げられることが。
どうしてこんなに嬉しくて、悲しいのだろう。
「…っ、なんで、こんな時に言うんだよ…!」
「ごめん…そうだよな。ちょっと卑怯かもしれない」
胸元で喚く伊庭をあやすように、本山は伊庭を抱きしめた。雨を遮るための傘が地面に落ちて、冷たい滴が体中に滴る。でも何故か冷たくない。それはとても暖かな体温だった。
「お前が傷ついているのを狙って、告白したみたいだよな…でもさ、俺は一か月前から…いや、それこそずっと前から、お前のことが好きだったよ」
背中に廻った彼の腕が、強く伊庭を抱きしめる。
そんな風にされたら、またその優しさに甘えてしまう。断ち切ろうとした負の連鎖をまた繰り返してしまう。
「…本当に最低だ…こんな時に……」
「まったくだな」
本山が耳元で笑う。でもそれは乾ききった、悲しい声だった。

「小太…終わりにしよう…俺は、お前と、幼馴染に…戻りたいよ…」
「…ああ…そうだよな…」
彼はやはり見透かして、伊庭の望む答えをくれた。絞り出すように、痛そうに。
「俺は…土方さんの代わりでも、いいと…本当に思ってたんだよ」
最後に、ただそういった。

そしてまた雨の音が聞こえ始めた。雨粒は急に冷たくなった。









遠くで名前を呼ぶ声が聞こえる。それは義父や女中たちの声、そして礼子の声だ。皆が三々五々分かれて自分のことを探しているようだが、八郎は見つからないように身を潜めてやり過ごす。
皆があの手この手で八郎に竹刀を持たせようとする。伊庭道場の跡継ぎとして教育したいようだが、八郎には全くその気はない。むしろ道場で遣り合う声を耳にする度に「あんなことは絶対やりたくない」と誓いを新たにするのだ。身体中が痛めつけられ、もしかしたら死んでしまうような剣なんて、泰平のこの世にいらないはずなのに。どうしてこの家に生まれたというだけでやらなければならないのか。八郎は全く見向きもしなかった。
八郎は庭の片隅にある草むらに身体を隠した。しばらくしたら皆が探すのをやめるので、そうしたら壁にこっそり空いている小さな穴から家を抜け出すのだ。まだ少年の八郎は背丈も小さいのでこうした犬猫が通り抜けるような抜け道でも同じようにすることができる。今日も今日とてその穴から抜け出して、伊庭は駆け出した。手に持つのは遊び相手の三国志を数冊だ。
「八郎!」
家が遠くに見える場所くらいに出てくると、幼馴染の本山小太郎が手を振っていた。八郎は「しっ!」と口に指を当てて、小太郎を制した。
「聞こえるだろ!」
「へいへい」
と、あまり反省をしていない様子の幼馴染の手を引いて、八郎は歩き出す。すると小太郎は「なあなあ」と八郎の隣を歩く。
「稽古、今日も逃げてきたんだ?」
「…うるさい」
悪いことをしている自覚はあったのだが、小太郎に指摘されるのは癪だった。小太郎だって手習いをサボっている。
「オレは稽古してぇけどなあ」
剣の稽古を嫌がる八郎と違って、小太郎は剣が好きだった。手習いやそろばんの稽古よりも剣を振っているほうが好きらしい。八郎にはよくわからない神経だ。
「僕は本が読みたいの」
「ふうん。変わってるよなあ。オレとお前が逆だったら良かったのにな!」
「別にかわってもいいよ。剣が嫌いな僕よりも、剣が好きな小太郎のほうが皆喜ぶし」
そんな皮肉めいたことを言ってしまったのは、やはり自分が皆の期待に応えられていないと自覚しているからだ。小さいころは本が好きで本ばかり読んでいても、周りの人間は何も言わず「頭が良い」とほめてくれたが、十を過ぎた頃から周囲が焦り始めた。「立派な跡継ぎに」が伊庭家の標語になってしまって、本を読むと嫌な顔をした。
「まあ、そういうなって。皆心配してるんだよ」
小太郎が八郎の頭を撫でた。同い年なのに、彼のほうが成長が早く背は高い。
「子供扱いするなっ」
八郎は少しだけ幼馴染を睨んだ。

お互いに稽古をサボって出掛けたのは小高い山にある秘密基地だ。山道を外れてしばらく行くともう誰も使っていないあばら屋がある。人が住むには狭い場所だが、二人の遊び場としては恰好の場所だった。二人だけしかこの場所を知らないので、誰に見つかる心配もない。
ここで八郎は持ってきた三国志を読み、小太郎はそこらに生えている木に向かって打ち込みをする。
「えいっ!えいっ!」
小太郎が何やら不恰好な構えで竹刀を振り回す。その姿は稽古場にいる門下生とはかけ離れた我流のものだ。
でも、不思議と道場で見るそれよりも嫌悪感がない。
道場での稽古は見ていてヒヤヒヤさせられて、八郎はそれに畏怖さえ感じることがあるが、小太郎のそれはただ楽しそうに剣を振り回しているだけ。それだけならやってみたいと思わないでもない。
(でも…僕は…)
道場を継ぎたくない。むしろ継ぐ自信がない。そんなのは道場の強い人に任せておけばいい。
「…小太は、いいよなあ…」
「ん?」
無意識に呟いていた言葉はどうやら小太郎に聞こえてしまったらしい。
「何がいいんだ?」
「……能天気なところ」
「馬鹿にされたー」
言葉とは裏腹に小太郎は笑っていた。昔から八郎が何を言ってもこの幼馴染は笑っていて、怒ったところなんて見たことがない。無邪気で、能天気で、何も考えていなさそうで。そしてそんな彼はにこっと笑って八郎に言う。
「オレは八郎が羨ましい!」
「…なんで?」
「だって八郎は頭がいいから」
小太郎は八郎の隣に座った。剣の稽古はやめたようだ。
「オレは馬鹿だし、とーちゃんには本をいっぱい読めって言われるけどオレはそんなに読めないし。読んだとしてもすぐ忘れちまうし。だから八郎のことはスゲーって思う」
「ふ…ふうん…」
どストレートな告白に思わず八郎も照れてしまう。そんな風に褒められたのは久々だ。
「八郎が剣までできちまったら、オレは何にも勝てねえよ!」
「え…?」
「だからお前はそのままでいいよ!」
きっとそれは子供じみた負け惜しみみたいなもので。勉強では勝てないから剣では負けないという負けず嫌いな言葉ではあったけれど。
そのままでいい。
そう言われたのも、久々だった。
嬉しさとか、恥ずかしさとか、そんなもので思わず顔が赤く染まってしまう。それを隠したくて八郎は本で隠した。
(なんだろう、この気持ち…)
八郎は胸がざわめいたのを感じた。こんなのを幼馴染に感じたことなんてないのに。
「あ、そうだ!」
そんな八郎に全く気が付いていない小太郎は急に両手叩いて、懐から何かを取り出した。
「な、なに…?」
「へへへ」
得意げにほほ笑む小太郎が取り出したのは飴だった。丁度二粒ある。
「とーちゃんがくれた。目標を成し遂げたら一つ食っていいってさ。だから、これ、八郎持ってて。あ、食べるなよ」
「え?う、うん」
小太郎が無理やり八郎に握らせた。そして高らかに彼が言う。
「俺はいまから素振り500回やるから!お前に負けないようにやるんだからな!だから、500回終わったら俺にくれよ」
そして彼は我流の振り方で「いーち、にー!」と素振りを始めたのだった。
すっかり置いてけぼりを食らった八郎は飴玉に目を落とす。
(…これ、僕にはくれないってこと?)
彼は500回素振りをしたら一つ食べるらしい。
八郎は懐紙で包んである飴玉を三国志の本の上に置いた。そして適当な木の枝を探し、素振りをする小太郎の隣で同じように素振りを始めた。
「えいっ!えいっ!」
人生で初めての素振りは思ったよりもしんどい。竹刀よりもずっと軽い木の枝なのに、10回もすれば腕が疲れてしまう。でも10回くらいでやめたくない。
「えいっ!えいっ!」
「へへっ!八郎、楽しいか?」
小太郎が得意げに聞いてくる。しかし八郎はそれに素直に頷いたりはしない。
「こんなっ…の、…役に、たたない!」
平気そうに竹刀を振る小太郎に比べて、少し息が切れ気味なのが悔しい。八郎は素振りに熱中した。
もしかしたら。
もしかしたら小太郎は、伊庭の人間に八郎を剣に誘ってくれとかなんとか言い含められていたのかもしれない。八郎はふとそんなことを思ったが、今更素振りをやめる気にはなれない。小太郎がやめないのなら尚更だ。
(…なんか、ちょっと、わかるかも)
道場で荒っぽく稽古をするのはまだわからないけれど。
誰かに負けたくないとか。
誰かに譲りたくないとか。
そういう気持ち。
負けず嫌いになって、熱中する気持ち。

「えい…っ!えい…!」
「ごひゃ…くっ!」
二人同時に500回の素振りを終えた途端、二人は地面に座り込んだ。息も上がり、まともに離せないほど身体は疲弊していた。
「へへ…っ、オレ、お前に…剣だけは負けたく、なかったからさ、お前が、剣やらなくてもいいって…思ってた、けど、さ」
「んぅ…?」
小太郎が息を切らしながらも、笑って言う。
「でも、お前と剣、やるの…楽しいな!」
伊庭の人間が何度も、剣をやるように言った。怒ったり、優しかったり、お願いされたり、いろいろされた。
そのたびに反発して絶対剣なんてやるもんかって、思った。
けど、今。
小太郎の言葉は素直に嬉しいって思った。
剣を、やってみてもいいのかもしれないって、そう思えた。
それから小太郎は飴を一つ分けてくれた。その飴は、まるで小さなころに頭を撫でて貰えた時のように仄かに甘く口の中で蕩けたんだ。



伊庭はゆっくりと目を開けた。最初に目に飛び込んできたのはいつもの天井の木目で、ここが自分の部屋だということが分かった。しかし視界はどこかぼやけていて、まだ夢の中なのかと錯覚したがどうもそれは違うようだ。目の前が朦朧としていてはっきりとしない。
「…お兄様?」
か細い声が聞こえた。それが礼子だとすぐに分かった。
「お兄様!…ああ、よかった、本当に…」
「俺は…」
額には濡れた手拭いが置かれていた。礼子の動揺っぷりも考えるとどうやら病に倒れていたようだ。
「お兄様は雨の中帰っていらっしゃって…そのまま、倒れこまれて…」
「…そうか」
記憶が次第にはっきりしてきた。
本山と別れたあと、伊庭は家に戻った。傘はなくびしょ濡れでたどり着いたときにはすでに意識は朦朧としていた。身体が冷えきって「これは拙いな」と思ったとたんに力が抜けた。そしてそのまま意識を失ったのだ。
「何日寝ていた?」
「二日ほど…お医者さまには目を覚ましたらあと三日は用心するようにと」
「三日か…」
身体はそんなに気怠くはなく、順調に回復しているようだ。二日間寝たままだったのが良かったのだろう。小腹も空いているので、もう大丈夫だと伊庭自身は思った。
「あ、お兄様、お腹が空いていらっしゃるでしょう。粥をお持ちします!」
明るい顔になった礼子がそそくさと部屋を出ていく。すると騒がしさが急に全くなくなった。
「…夜か…」
静かなのはもう辺りが寝静まった時間だからのようだ。礼子が灯していた蝋燭の明かり以外は部屋には何もない。
『俺は…土方さんの代わりでも、いいと…本当に思ってたんだよ』
不意に蘇った記憶。それは本当に悲しそうな本山の顔だった。
「最低だ…」
伊庭は膝を抱えてしまう。
本山を彼の代わりにしたわけではない。だけれども、彼にそう思われていたのなら、よっぽど伊庭は残酷な仕打ちを彼にし続けていたのだ。
そして、最後はそれを強引に断ち切った。
これでは、傷つけたまま、忘れろというようなものだ。
なのに、幼馴染に戻りたいなんて。
「虫が…良すぎる…」
でもきっと彼はそんな自分を許し続けてくれるのだ。だって、こんな風に落ち込んで自己嫌悪している伊庭のことさえ見透かして、待っていてくれるのだから。
(…これで、いいのか…?)
彼の優しさに甘え続けて、守るだけ守られて。これで本当に良かったのだろうか…。
「お兄様?お加減が良くないですか?」
いつの間にか礼子が戻ってきた。伊庭はかぶりを振って「なんでもない」と答える。すると礼子は首を傾げつつも、粥を差し出した。
「少しずつ召し上がってください。熱いから、冷ましながら…」
「ああ…ありがとう」
素直に礼を述べると彼女は頷いた。そういえば礼子とも最近はまともに話をしていなかった。彼女の顔をこんなに近くで見るのも久しぶりな気がする。
「そうだわ。…これを」
礼子は懐紙を取り出して、粥のお椀のお膳に何かを置いた。
「これ、は…?」
「本山様がいらっしゃって。お兄様が病で寝ているとお答えしたらこれを預けて帰られました」
それは小さな飴玉。
礼子が「では、私はこれで」と言いながら部屋を去る。しかし伊庭にはそれが耳に入らなかった。
飴玉。
見たことのある飴玉。
幼い時に、二人で分け合った飴玉。
「…っ」
お前がくれた飴玉。
甘くて、それを口にすると嬉しくて。そんな甘美な思い出が詰まった飴玉。
…そうか。お前は、俺を慰めてくれるのか。傷ついているのはお前なのに、飴玉を分けてくれる。
お前はまだ、幼馴染でいてくれる。
「…っ、馬鹿…」
でもさ、だから、どうしてなんだよ。どうして、そんなに優しくするんだ。
「どうして…見透かす…っ」
この飴玉が、俺を癒すだろうと、お前はわかっていたから。
この飴玉が、幼きあの日を思い出させてくれるとわかっていたから。
お前は、お前の気持ちを封じ込めて、傷口を塞いで、幼馴染に戻ってくれるというのだろうか。

ああ、心が叫びだしそうだ。
お前がどうしようもなく、大切だと。








風邪は五日もすればどこかへ行ってしまったようで、身体はすっかり回復していた。
「良かったですわ、お兄様が雨の中帰られたときは憔悴していらっしゃって心配いたしました」
礼子の目にもその回復は明らかだったようで、安堵の表情を浮かべていた。
でも
どこか、気分は晴れないままで。心に靄がかかってしまったように、すっきりとしなかった。
そんな時だった。
「よっ 元気になったみたいだな」
本山が軽やかな口調で伊庭の元へ訪ねてきた。本山と会うのはあの雨の日以来だった。その『いつもと変わらない幼馴染』としてそこ現れた本山に、伊庭は最初戸惑ったが
「口がきけなくなったのか?」
という彼のからかいに
「馬鹿」
といつものように返すことができた。それは傍から見ればきっと全くの自然体だっただろうけれども、伊庭自身はちょっとぎこちなく感じて。
(…こう、で、…合ってるのかな…)
思わず自分に問いかけた。
幼馴染として
親友として
こうやって接していたっけ…?
「心配してやってるのにな。まあ、いいか、元気なら」
「な、…何しに、来たんだよ」
「見舞い、ついでに花見の誘いに来た」
「花見…?ああ…」
そう言えば、飛鳥山の桜を見に行く約束をしていた。その時はまだ桜も蕾だからまだ先かと思っていたが、そういえば大分暖かくなっている。伊庭は病み上がりなのでしばらく外に出ていなかったが、そろそろ咲き始める季節だ。
「でも病み上がりにはまだ早いか。身体がきついだろ」
「いや、…大丈夫」
本山は気を遣ったが、伊庭は首を横に振った。何だか今日行かなければ、一生行かない気がする。そんな些細な気持ちだった。
出掛けることを告げると、病み上がりの伊庭を気遣って礼子は嫌な顔をした。一応看病してもらったので礼子には許可を取っておくべきだと思ったのだが、礼子は仕方なく了承してくれた。
「少しでもお加減が優れないようでしたらすぐに帰ってきてくださいね」
礼子の小言を有難く頂戴して、二人は家を出た。

春の移ろいは思ったよりも早く、五日間寝込んでいるだけでまるで別世界に来たかのようだった。点々と生える野桜も仄かなピンクとなり華やかに行く道を彩る。「春だなあ」なんて率直な感想を思わず呟いてしまっていた。そんな風に伊庭がぼんやり景色を眺めていると、隣を歩く本山が急に進路を変えた。飛鳥山とは正反対の方向だ。
「小太、そっちじゃないだろ?」
伊庭が正しい方向を指すと
「飛鳥山なんて遠い場所、病み上がりのお前を連れて行けるわけないだろ」
と、微笑んだ。どうやら気遣ってくれたようだが。
「じゃあどこ行くんだよ」
「お前も知ってるところ」
別の近場の花見の名所か?と思いつつ、本山がそれ以上教えてくれなさそうなので伊庭はついていくしかなかった。

本山が伊庭を連れてきたのは、あの秘密基地だった。
見覚えのある山へ向かって歩き、山道から逸れた辺りで「この道は…」と思っていたがまさか本当にここだとは思わなかった。この場所は以前と変わらず人気がなくまるで墓地のように寂れていたが、その光景とは裏腹に取り囲むように桜の木がその身に花を宿していた。
「すげえな、まだあの小屋があるのか!」
伊庭が興奮気味に廃屋へと駆け寄った。そこは幼いころに隠れて遊んでいたときと変わらない。埃っぽくて暗かったけれど、不思議と心が躍った。
「小太、なんでここに桜があるって知ってたんだ?」
「秘密」
「なんでだよ」
「なんでも」
頑なに教えてくれない本山だったが、その表情は嬉しそうだ。
「お前が気に入って良かったよ。てっきりこんな場所で花見なんて嫌がるかと思った」
「なんでだよ。懐かしいなあ…」
伊庭は小屋の中に座る。それはいつも『三国志』を読んでいた定位置。そして本山はいつも素振りをしていた場所に立った。まるであの頃に帰ったかのように…
(そうか…)
だから、ここを選んだのか。
ここは、昔から二人しか知らない秘密基地。幼馴染として、親友として過ごした特別な場所。
「小…」
見上げた幼馴染の横顔は、やや斜め上の桜を見上げていた。背中を向けて、その表情を隠していた。そしてそれは、先ほどまで晴れやかに笑っていたのに、寂しげだった。悲しげだった。それは痛ましい表情だった。
ここにきて、そしてまた幼馴染をやり直す。
彼はそれを決断するために、ここにやってきたんだ――。
「ん?何?」
伊庭の言葉を拾ったのだろう、本山がまた穏やかな笑みを浮かべ直して伊庭を見た。それが伊庭にはどうしようもなく痛ましい。
(…もう、いい)
なんでも見透かして、分かった顔して、先回りして、優しくして、傷つかないように、守って。
もう、そんなこと、しなくていい。
不意に、風が吹いた。それは辺りの桜の花びらを、ゆらゆらと揺らした。
伊庭はその風に導かれるように本山の元へ歩く。そしてそのまま、その男に正面から抱きついた。
「八郎…」
驚いた本山が身体に力を入れるのがわかった。その緊張が、伊庭にも伝わった。だからまるで怖がるように、本山は伊庭を突き放した。そして一、二歩距離をを置いた。
「…ごめん、八郎。さすがに…キツイ」
「……」
無理矢理微笑んでみせる顔が、痛々しい。
「もう…そういうのは、やめるんだろ…」
恋人ごっこは終わり。
身体だけの関係も終わり。
幼馴染に戻りたい。
そう言ったのは、確かに伊庭のほうだった。けれど、聞いた。
「なあ、小太…お前…俺のことが、なんで好きなんだ…?」
本山は一瞬呆けた顔をして、そしてしばらく黙る。そして、小さく笑った。
「は…ははっ……お前は、本当に、残酷なことを聞くよな…」
それはわかっていた。彼の傷を抉るだけの言葉だということは。
しかし彼は答えた。すうっと深呼吸して、まっすぐと、伊庭を見据えて。
「好きじゃないところなんてない」
どこまで、
どこまでこの男は、俺のことを好きなんだろう。
そして俺はどうして、
それに答えたいと思ってしまうんだろう――。
伊庭は、本山に一歩、二歩と歩み寄る。本山は少し顔を強張らせたが逃げることはしなかった。そして彼の手を取って、伊庭は両手で握りしめた。
「…俺は、まだ……気持ちの整理がつかない」
絞り出すように言葉を紡いだ。
「あの人のことを好きだった…でも、それは実らない。それは気が付いた時からわかってたことなんだ」
「…うん…」
あの人の目は俺には向いていない。そして彼のその目がどこに向いているのかは、わかっていたから。
だから気が付いたときにはすでに終わっていた。だから少しずつ、時が過ぎて、いつか消えていくのを、癒えていくのを、塞がっていくのを待つつもりだった。
「でも…お前に、頼ってしまったら……想いが、募っていくばっかりで。忘れるように、痛みから逃げるように…どうしようもないよな…」
彼の手を包む、己の両手が震えた。言葉を口にすればするほどその震えは確かなものになっていく。
すると本山はもう片方の手を伊庭の両手に添えた。暖かく大きな手のひらに包まれて次第に震えは収まっていく。そしてそれと一緒に心も落ち着いていく。
「…小太、俺はお前のことが…大切だよ」
その言葉は自然と溢れた。
「それは…幼馴染として、だろ?そういわないと、俺は調子に乗るぞ…」
照れ隠しなのか、本山が茶化す。いつもなら応戦する伊庭だが、「わからない」と答えた。
「お前のことが好きだなんて…そんな都合のいいことは言えない。でも、お前のことをもう、幼馴染としては見れない気がする」
「…勝手だな…お前が幼馴染に戻りたいって言ったから、俺は……ったく、本当に我儘だよ、お前は」
「好きじゃないところなんてないんだろ?」
伊庭の言葉に本山が「ちぇ」と苦笑した。反論はしないようだ。
「…だから…」
「うん」
伊庭が今度は本山を見据えた。
「一年、待ってほしい」
「…一年?」
「一年間、お前とは会わない」
「…おいおい」
本山は絶句した。まさか伊庭がそんなことを言い出すとは思わなかったのだろう。流石にやや眉間にしわを寄せていた。しかし伊庭は意思を曲げなかった。
「俺はお前のことを好きだなんて言えない。でも…好きになりたいと思う、もちろんそれは幼馴染としてじゃない。…お前のことを、今以上に、もっと愛したいと思うから」
「八郎…」
「だから、一年後まで…会わない。それでも、お前が俺のことを好きなら…待っていてほしい」
一年間会わない。それは伊庭にとっても苦しい時間になるだろう。
でも、この曖昧な思いが、輪郭を得て、形を成して、言葉に出して伝えられるまで、育てたいと思うから。
「それでも…いい?」
待っていてほしい。それが伊庭の出した結論だった。
すると本山は小さくため息をついて、けれども小さく笑った。
「…いいよ」
握ったままの両手を離し、代わりに伊庭を抱きしめた。今までで一番強く、息がとまるほどに。
「いいよ…お前がそう決めたなら、俺は待つよ。でも…もし一年経っても、俺のことを好きだと思えなかったら…その時は、ちゃんと言ってくれ」
「…わかった」
もしそうなれば、本当に幼馴染という関係すら終わりを告げるだろう。そしてお互いが別の人を好きになれば、この約束は何の意味もなくなる。
「なあ…八郎」
耳で囁かれる彼の声が、酷く熱い。
「ここで…したい」
それを拒否するわけが、なかった。お互いの視線が交わり、自然と目を閉じて体温を重ねた。貪るように蠢く彼の舌が、卑猥な音を立てた。痺れるように身体が欲を訴える。場所はこの古びた廃屋で、十分な広さはなかったけれど、そんなことは全く気にならない。
最後かもしれない。
そう思うとこの欲望を止める術を手放して、身体中で彼を受け入れたいと思った。繋がった熱さに、神経がやられる。鼓動が、跳ね上がる。息が弾む。頭が朦朧とする。
けれど
「口を…吸うのは…っ、ぁ…無し、な…」
不意に近づいた彼の唇にそっと手を当てて、囁いた。
「…ああ…一年後まで……とっておく」
口付けをすればもう約束なんてどうでもよくなってしまう。ただ曖昧で、我儘に貪欲に思うままにお前を愛してしまう。それは、嫌だから。
だから、口付けはしない。
そしてそれを本山も分かっていた。
視界が滲んでいた。それは汗か、涙か、わからない。けれど彼の後ろで、ひらひらと桜の花びらが散っていくのが見えた気がした。
一年。
来年。
次の春。
この場所で、桜の花びらが舞う、桃色の、この空の続く場所で……またこんな風に体温を重ねられるのだろうか――。
薄れていく意識の中で、伊庭はそんなことを、考えた。



きっとまたこんな風に、一緒に笑える日が来るはずだ。
もう、泣くのはやめよう。
今までありがとう。さようなら、もういくよ。

この空の続く場所で、また会える日を願いながら背を向けた。















■あとがき■
「この空の続く場所に」最後までお読みいただきありがとうございました!
今回はわらべうたの番外編で初めての土沖以外のお話でした。本山×伊庭、楽しんでいただけたでしょうか。あくまでわらべうたの番外編としてのお話なので、そこらあたりややこしいですが;;ご理解ください。
わらべうたの土沖とは違う組み合わせにしよう!と思ったら、ワンコ×どS女王様(?)みたいな組み合わせになってしまい、まあ、書いている側としてはものすごく楽しかったんですけれども、「こんな伊庭さんじゃなかった…っ!」とお嘆きの方もいらっしゃるとは思いつつ…わらべうたの伊庭さんは割と紳士だったのですが、幼馴染がいると化けの皮が剥がれちゃうんですね(←え)
最後の終わり方でもしかしたらお気づきかもしれませんが、実はまだ続きます。「この空の続く場所に」はわらべうた40話付近のお話でした。そしてその一年後とは、わらべうた140話付近(のはず)…そしていまわらべうたは130話付近…(2012.11現在)、、、、、、つまりそろそろ、その「一年後」が迫っている設定なのです!
なので近日中に(タイトルは変わりますが)また続きを書く予定です。そちらもぜひお付き合いいただければと思います。
ではでは、最後の最後までありがとうございました!また続きも、本編も読んでいただければ幸いです。
2012.11.9