Leprechaun





春の頃に旅立った故郷に戻ると、今までに感じたことのないような懐かしさが込み上げた。
「ああ…江戸の風だ」
被っていた傘を脱いで、伊庭は思わずそう呟いた。盆地の京よりもどこか風通しの良いこの江戸はやはり生まれ育った場所というだけで自然と気分が落ち着いた。
季節は、気が付けば帰京予定の夏を過ぎて、秋になってしまっていた。それもこれも旧友たちの活躍の故なので文句は言えないが、しかし一刻も早く帰りたいと思っていたのは事実だ。
(あいつは待ちくたびれたろうな…)
何度か現状報告の手紙を幼馴染に送っていた。池田屋のあと蛤御門の戦からどうにか都が落ち着き、ようやく江戸に戻れることになったが、思わぬことが起こった。亀山城下で実弟である武司が急病となり、看病の為に逗留することとなったのだ。伊庭の帰りを心待ちにしているであろう幼馴染のことを考えると気が気ではなかったが、彼からの返事の手紙にはそんなことをおくびにも出さずに、「しっかり看病してゆっくりしてこい」とあった。そうして彼の厚意に甘えて、亀山城下でゆっくりと過ごし、伊庭はようやくこの秋になる頃に江戸にもどることができた。
江戸の町の様相は変わりない。春、桜を咲かせていた木々が、秋の風に吹かれてその色を変えて、茶色に染まりつつある。京ほどの煌びやかな光景ではないが、それでも故郷に咲く木々の方が伊庭の目を楽しませた。
早くも冷たい風が吹く道を歩く。江戸の言葉を話す人々とすれ違う。知っている道を行き、いつもの角を曲がる。見慣れた光景を、久々に味わう。
(不思議だ…)
こうして歩いているだけで、いつも通りここにいるだけで、こうしてここにいるだけで、まるでお前の匂いがしてくるかのようだ。


しかし残念ながら真っ直ぐに幼馴染の元へ向かうことはできない。
「お兄様!おかえりなさいませ!」
約半年ぶりに家に戻ると、義理の妹にあたる礼子が嬉しそうに顔を綻ばせて玄関先で出迎えた。
「ただ今戻りました」
「お元気そうで何よりです」
礼子は早速足を洗う桶を持ってきた。適度に温かい湯で汚れを流すと、絶妙なタイミングで手拭いを差し出してくる。
たった半年顔を見ていないだけだったが、礼子が大人びて見えた。それは少し伸びた睫毛や深く抜いた襟のせいかもしれないが、
「お父様が先にお戻りになられたので、お兄様のお話を伺っておりました。試衛館の門下生の皆さまが京でご活躍だったそうで!」
「ああ…池田屋の噂は江戸に届いているのか」
「ええ。まるで歌舞伎の時代物のように!」
興奮気味に礼子は次々に伊庭に訊ねてくる。京の景色はどうだとか、料理はどうだとか、気候はどうだとか。既に戻っている義父から聞けば良いものを、と伊庭は思ったが、久々の邂逅に冷たくしてやるわけにもいかず、適当に答えてやった。そして礼子は部屋までついてきた。
「ああ、片付いている」
半年ぶりに戻った部屋だが、埃一つない。
「いつでもお戻りになられるようにしておりました」
満足げに語る礼子に、伊庭は苦笑した。部屋はむしろ出て行く前よりも整然としていたので、どうやら礼子の言うとおりらしい。伊庭は部屋で荷を解きながら、そんな義理の妹に土産を渡してやった。
「これは?」
「開けてごらん」
礼子は喜びつつ、包み紙を空ける。そして中から出てきた簪を見ると「あっ」と顔を赤く染めた。
「綺麗…!」
「似合うだろうと思って」
「有難うございます…!」
伊庭としてはたくさん買い込んだ土産物の一つであり、「似合うだろう」というのは髪飾りを贈る際に必要な、女性に対する礼儀的なコメントで、特に深い意味はなかったのだが、礼子はまるで涙を流さんばかりに感動して、早速つけていた簪と取り換える。
(失敗したな…)
久々に会ったせいか、距離感を間違えてしまったようだ。伊庭は内心そんなことを思いつつも、目の前の礼子がまるで子供のようにはしゃぐので(まあいいか)と収めた。
礼子は義理の妹であるという自分の立場を知っていながらも、兄である自分のことを想っている。そして自分はそれを知っている。本人がはっきりとそう言ったからだ。しかし、それに答えてやるわけには行かない。義理とはいえ兄妹だ、そして自分には想う人がいるから…その思いには絶対に答えてやれない。それがわかっているからこそ、距離を置こうと思っていたはずだ。
「じゃあ父上のところに顔を出してくるから」
「はい」
伊庭は大人びていた表情を崩したままの礼子を置いて、部屋を出た。
義父には無事に戻った挨拶と、そして実弟である武司の病状も回復した報告をした。義父は満足げに頷くと
「こちらにもお前に良い報告があるぞ」
と口角を上げた。
「良い報告ですか?」
「このたびの働きにより、お前は部屋住みから城に召し出された。奥詰に昇進だ」
「…なるほど、そうですか」
「何だ、反応が薄いな」
「そんなことはありませんが」
伊庭としてはいずれそうなるであろうと分かっていたからこそのリアクションだった。
奥詰は将軍警護を預かる親衛隊で、講武所の教官を務めた武芸名誉の旗本・御家人から選任される。世情が乱れる昨今では将軍家茂公の信頼も厚く、先日の上洛は義父・秀俊も奥詰の一人として同行し伊庭は講武所剣術方としてそれに加わった…ということだったが、このたび無事に義父と同じ立場になるようだ。
「この間の蛤御門の戦から、一気に長州を征討しようという考えが広まっているようだ。また上洛するであろうだろうから、そのつもりでいなさい」
「わかりました」
伊庭が軽く頭を下げると、義父はそこで表情を緩めた。
「堅苦しい話はここまでにしよう。お前が帰ってくるからと、礼子たちが豪華な食事を用意しているらしい」
「…そうですか、そうですね」
先ほどの礼子の嬉しそうな顔が思い出され、伊庭としては何となく気が乗らなかったのだが、家人たちが伊庭の帰りを待ちわびていたことは良く知っていたので、無下にはできない。
(早く…)
早く会いたい。そう思っているのは彼も同じはずだ。
そしてふっと、伊庭は気が付いた。
(たった半年じゃないか…)
以前、自分たちは一年という長い時間と距離を開けた。それまでの想いを捨てるために、それまでの気持ちの輪郭をはっきりさせるために。一年をかけてお互いの気持ちを確かめ合ったというのに。
「半年でこれか…」
笑うしかないじゃないか。
どうやら思っていた以上に、思う思いは、募っていったようだ。

礼子を始めとした家人たちが用意してくれていた祝いの膳に舌鼓を打ちながら、京の土産話で場は盛り上がった。なかでも伊庭が空いた時間に訪れた観光名所の話題は尽きず、礼子が「もっと聞きたい」とせがんだので延々と宴は続くことになってしまった。ようやく義父が「礼子、休ませてやりなさい」と気を遣って言い出したので、場はお開きとなり伊庭はようやく一人になることができた。
長旅の体力的な疲れはもちろんあったが、伊庭は重たい身体を押して、こっそりと家を出た。周囲は既に寝静まっていて物音一つしないが、伊庭は提灯を片手に幼馴染の家を目指した。
(寝ているだろうな…)
起こすのは悪いな…という考えは浮かばなかった。むしろ突然行って驚かせてやろうと悪戯心と、早く会いたいという気持ちが逸っていた。自然と歩幅が広く足早になる。
そうしていつもよりも早く到着した幼馴染の家は、もちろん灯一つ灯っていない。伊庭はこっそりと裏庭から家に入り、庭に面した彼の部屋を覗いた。足元にあった小石を拾い、投げて障子に当てる。カツン、という音が響くと、部屋の中からゴソゴソと人が動くような音がした。そして部屋に蝋燭が灯された。
シルエットだけでその部屋に彼がいると分かり、伊庭の鼓動は高鳴った。すると障子が開く。
「……八郎?」
自分の名を呼ぶその声が、愛おしい。
「ただいま」
寝静まった家人たちを起こすまいと伊庭は小さく答えた。すると彼は辺りを見渡して伊庭の影を見つけると、庭に降りてこちらにやってきた。
「…帰っていたのか」
「ああ。久しぶり」
灯りを手にした本山小太郎が近づく。一本の蝋燭で灯された光で、彼の表情が浮かび上がる。
「おかえり」
穏やかにそう告げた本山はとても嬉しそうな顔をしていた。その顔を見て胸が締め付けられるように痛い。
(あぁ…)
この表情は少し礼子に似ている。まるで喜びを噛みしめるような、そしてそれでいてあどけない表情を残したその顔が…ずっと見たかった。
「…おかえり」
彼はもう一度そう言うと、手にした蝋燭を気にしながらも、ぎこちなく伊庭を抱きしめた。それまで布団に入っていただろうその身体はとても暖かくて。秋の夜を歩いてきた伊庭には、温かすぎるほどで。
伊庭は目を閉じた。






伊庭は本山についていき、彼の部屋に入った。夜も遅いせいか皆が寝静まっていて物音ひとつない。出来るだけ音をたてないようにゆっくりと障子を閉めて、本山は部屋の一本の蝋燭のみに火を灯した。
この部屋は彼の匂いで満たされている。
「何だか…間男みたいな気分だ」
伊庭が小声でそういうと、本山も「そうだな」と微笑んだ。そして待ちきれなかったと言わんばかりに、先程の抱擁とは比べ物にならないほどの強い力で、伊庭を抱きしめた。
「やっと戻ってきたんだな」
夢じゃない、本物なのだと実感するように本山は呟く。手紙では「平気だ」と言わんばかりにゆっくりして来いと何度も書いていたが、勿論本心は違ったのだろう。
今の彼を見れば一目瞭然だ。
彼は背中に回した手を、撫でるように這わせた。
「くすぐったい」
「怪我はないんだよな」
「ないよ。別に戦地に行ってきたわけじゃないんだから」
過剰な心配をする彼の輪郭に手を添えた。そしてまだ冷えたままだった唇を彼の温かいそれに重ねる。柔らかな感触だけに満足できずに、伊庭はそのまま口腔を嘗める。上に下にと縦横無尽にかき回すと、本山がまるで対抗するように伊庭の舌をからめとる。伊庭よりも強引で息つく暇もない性急な口づけに次第に苦しくなる。
「…っ、息、できない」
力に押され、伊庭が背中を叩く。一旦唇を離したが、しかし本山は微笑んで
「この程度で?」
と挑戦的に投げかけた。むっとした伊庭が両手で彼を押し、それまで本山が寝ていたであろう床に倒す。
伊庭が馬乗りの態勢となったのだが、本山は依然として微笑んだままだ。
「何だよ」
「いや、本当に夢じゃないんだなと思って。ちゃんと重い」
「ちゃんとって…こういう夢を何度も見たのかよ」
伊庭がからかうと、本山は即答した。
「見たよ」
「…」
「何度も見た。普段は白皙の美青年なんて言われているお前が、俺の上で淫らに腰を振って乱れるのを…何度も見た」
「ばっ…」
あまりに直接的な言葉に、馬鹿、と叫びそうになって、伊庭は咄嗟に堪えた。大声を出せば家人たちが起きてしまうからだ。しかし本山はまだ悠然と構えている。伊庭は少し呆れた。
「…お前、そんなことばっかり考えていたのかよ」
「ああ…今も、考えている」
「…ぁっ」
本山は馬乗りになった伊庭の双丘に手を伸ばす。突然の感触に、伊庭はバランスを崩し、前に倒れた。
「お前は考えていないのか?」
「な…にを」
「したいって、思わないのか?」
そう言って伊庭の意思を確認をしながらも、本山の指先は伊庭の袴の紐を解く。
「皆が…起きるだろう」
「どうして」
「どうしてって…」
「お前が声を我慢できないから?」
「な…、んぅ…」
敏感なところに触れ、思わず声が出そうになって、伊庭は両手で口を覆った。
本山は変わらず好戦的な眼差しを伊庭に向けている。不安に分かれた半年前とは大違いだ。
「おま…、なんか、性格違う…」
「そんなことない」
「ある。お前…なんか、怒ってるのか?」
伊庭が恐る恐る尋ねると、本山は手を止めた。そして少し目を泳がすようにして、しかしため息をついて観念した。
「正直に言う。早く帰って来いってずっと思ってたんだ。それなのに、池田屋だ、弟の病だって…仕方ないことだってわかっていても、……すげえ、むかついた」
「…それは、」
「仕方ないことだって、分かってるって。でも、さっきも言ったけど、お前の夢を何度も見た。でも…いつも朝起きたら、夢だって思い知った」
「小太…」
「だから、ずっとこんな風にしたかった」
その感覚は、伊庭も知っている。
彼と距離を開けてから約一年間の間、同じように彼に会う夢を見た。でも夢から醒めれば、それはもう夢でしかなく…まるで何の跡形もなく消えてしまった雪のように、儚く感じられてその残った冷たさが胸を刺した。
本山は伊庭の頭に手を回し、ギュッともう一度胸元に引き寄せた。伊庭は全身を彼に預ける。これでは顔が見えない、と思ったが彼は顔を見られたくなかったのだろう。そのかわりに、彼の心臓がどくどくと早いリズムで跳ね上がっているのはよく分かった。
「おかしいよな…あの一年間は待てたくせに、こうなってからは半年も待てない」
同じことを、
同じことを考えていたよと、そう言いかけて伊庭は止めた。そのかわりに
「…じゃあ夢じゃないって、確かめろよ」
そう言って、彼を誘う。
声を上げて、誰かに気が付かれても構わない。
今すぐに、何よりも早く、この瞬きさえもできないくらいに、これが夢じゃないんだと、彼に教えてやりたいから。
貪って、喰らいつくすまで。


荒い息をどうにか静める頃には、空の東側に光が差そうとしていた。秋の朝はすでに冬の形相を見せかけていて、汗ばんだ身体を冷やしてしまう。
二人は裸のまま寄り添い、一枚の布団を共有した。
「…で、土方さんには会ったのか?」
本山は少し声を低くして伊庭に訊ねてくる。
「会ったよ」
その彼に対して、伊庭は出来るだけあっさりと返答した。こんな関係になる前、伊庭が土方に対してどういう気持ちを持っていたのか本山は知っている。彼は決して口にはしないだろうが、それでも土方への嫉妬は全く無いとは言い切れないのだろう。表情にも少し現れていた。
(心配性だな…)
内心、伊庭は苦笑して、続けてやった。
「何か全然別人みたいでさ…こっちで噂されている鬼の副長なんてあだ名もあながち間違いじゃないっていうか…」
「…ふうん」
物言いたげな本山だったが、
「まあそれでも、沖田さんと良い仲になったみたいだから、一安心だけどな」
さらっと伊庭が言ったので、本山は「そうか」と一旦はそのまま納得したが、
「ん?」
と首を傾げた。その反応が思った通りだったので、伊庭は笑った。
「お前は会ったことがないだろうけど、試衛館の塾頭をしていた沖田さんだよ。今は一番隊の組長をしている…昔からそういう雰囲気はあったんだけど、この度めでたく…って感じだ」
名前くらいは知っていたのか、本山は「へえ」と少し驚いていた。土方は吉原界隈では女好きで名を馳せていたし、伊庭と一緒になって良く花街に出入りしていたので、本山の想像の中ではまさか男を選ぶとは思っていなかったのだろう。
伊庭は本山へ視線をあげた。
「その事に気が付いても、思った以上に何ともなかったんだ。だから…お前が心配するようなことは何もないよ」
言葉にしなければわからないこともあるだろう。伊庭は本山にはっきりと告げる。すると本山はそれまでの少し難しそうな顔を解いて
「…ああ」
と抱きしめた。そしてそのまま彼は首筋に舌を這わせる。
「まだするのか?」
伊庭が尋ねると、本山は「する」と即答する。まるで子供が駄々をこねて頑固になってしまったみたいだ。
「仕方ないなあ…」
伊庭が受け入れると、本山はすぐに身体を翻してまた貪り始めた。
そしてその後は、朝日が完全にその姿を見せるまで伊庭の土産話を挟みながらも、何度も身体を重ねた。どれだけお互いがお互いを必要としていて、枯渇していたのか思い知るほどに。
そして家人が起き始めた頃に、伊庭は脱ぎ捨てていた衣服を身に纏った。
「行くのか…?」
引き留めるような真似はしないものの、少し寂しげに本山はそう言ったので、伊庭は微笑んで返した。
「礼子に大騒ぎされるからな。…そんな顔をしなくてもすぐに会えるんだから」
目と鼻の先、とは言えないけれど、京ほど離れているわけではない。そしてそんなことはもちろん本山も知っている。
「そうだけど…」
「あ、そうだ。お前に言っていなかった…奥詰を拝領することになった」
伊庭があっさりと報告すると、本山は
「そういう重大なことは先に言え」
と不満げに言った。伊庭としては特に重大なことだとは思わなかったのだが、「はいはい」と適当に流して返答する。
すると、本山は伊庭の手を引いた。
「…おめでとう」
そう言いながらも、本山の表情は少し強張る。その理由は伊庭にはよくわからなかったけれど、これ以上ここにいては騒ぎになってしまうだろう。
「ああ…またな」
伊庭は本山の手を離し、部屋を出た。庭に置いていた草履を履き、そのまま庭から裏口へと出る。
爽やかな空気が流れる。身体はギシギシと痛んでいたが、しかしそれが気にならないと思えるほど、伊庭の心は満たされていた。







朝、本山の家からこっそりと家に戻る。出来るだけ音をたてないように裏口から入り、庭を抜けて自分の部屋に戻ろうとしたところで、不運なことに礼子に出くわした。
「あ…」
礼子は朝の挨拶をしようと口を開いたのだろうが、伊庭が手に草履を持ち、袴をはき、どう見ても外から帰ってきた風だったので、目敏く察してしまったのだろう。
「…おはようございます」
それでも「おかえりなさい」と言わなかったのは、せめて知らないふりをすることでしか、自分の気持ちに向き合えなかったからなのかもしれない。
そんな礼子の心情を、機敏に察してしまった自分にうんざりしつつも、伊庭は
「まだ寝るから、朝餉は取っておいて」
とあっさりと告げて、そのまま部屋に入った。礼子は部屋の外で、少し沈黙して立ちつくしていたものの、そのまま踵を返し台所の方へ向かっていく。その足音が消えたのを確認して、伊庭は「はあ」と大きくため息をついた。
礼子はまさか本山の家から戻って来たとは思わないだろうから、おそらくは女のところに行っていたのだと誤解しただろう。しかし「小太のところに行っていた」と弁解した所で、深夜遅くから朝まで幼馴染の元にいた理由を話すのは面倒だ。だったら誤解されたままでいいだろう、と伊庭は袴を脱いで、布団を敷いた。
礼子は以前、自分の感情をはっきりと口にした。伊庭に拒まれたところで、その感情は変えられないのだとそう言っていた。それは意地に近いのだとも。
だったら、おそらく彼女の中でまだその感情は生きていて、どんなにつらかろうとも、諦める方が苦しいのだと悟っていて、だからこそ、あんなふうに耐えているのだろう。
(…ちゃんと言ってやるべきなのかもしれない)
もう自分には思う人がいて、おそらくは死ぬまで一緒にいることを誓っているのだと。だから、お前には別の場所で幸せになって欲しいと…心から妹にそう思っているのだと。
でも
(それでも)
きっと変わらないのだろう。誰かに言われたところで、自分でもどうしようもないと、泣きながら、その感情とともに生きているのだろう。


伊庭が目を覚ましたのは、昼もだいぶ過ぎたという時間だった。遅すぎる朝餉は早目の夕餉の代わりにして平らげて、伊庭はすぐに家を出た。方々への帰着の挨拶がてら、伊庭には足を運ばなければならないところがあったのだ。
江戸の吉原は早くも遊びに来ている人々で賑わっていた。京にも遊郭はいくつかあり、付き合いがてらで足を運んだが、どうにも慣れずに心から楽しむことはできなかった。もしかしたらどこかに本山への背徳感があったのかもしれない。だが、この吉原はやはり通い慣れた地であり、馴染みの顔もたくさんいるので花街と言うよりも、自分の通い慣れた場所という感覚で、何となく落ち着いた。
伊庭はまっすぐと目当ての店に入り、女将に挨拶をした。半年ぶりの登楼に女将は喜び、すぐに伊庭の指名する女を呼んだ。
「ご無事で何よりです」
挨拶のあと、開口一番に小稲そういってほほ笑んだ。伊庭が吉原で一番懇意にしている妓だ。
「ああ、小稲も相変わらずだな」
「ええ…少し痩せられましたか?顔色が悪くみえますねえ」
小稲の鋭い指摘に、伊庭は「そうかな」と曖昧に返答して流す。おそらく長旅と昨晩、幼馴染と長く一緒にいたせいだとは見当がついていたからだ。
そして伊庭は、持って来ていたものを手渡した。
「土産。簪を買ってくると約束したから」
「まあ…!」
伊庭が手渡した包みを、小稲は丁寧にあける。繊細な細工で紫の蝶があしらわれた簪を見ると、小稲はその大きな目を更に見開いた。
「素敵…」
喜びと驚きから小稲は呟く。
「似合うと思って」
そう口をついてでたのは、昨日礼子に言ったセリフと全く同じだったので、伊庭は内心(間違えたな)と思ったのだが、さすがに小稲はよく心得ていて
「ありがとうございます」
と受け流した。そして早速、それまでの簪を土産のそれに差し替える。紫の仄かな色合いが小稲には良く似合っていた。
それからは土産話に花が咲いた。昨日、礼子をはじめとした家人に話したばかりの土産話だが、聞き手が小稲になると話しやすく感じた。吉原一の評判を持つ小稲は、その美貌だけではなく話術にも長けている。伊庭としてもそういう話しやすさが気に入って、こうして彼女のもとに通っていたのだ。
話は長くなってしまい、夕日が落ちる頃には店の女将の計らいで夕餉が準備されていた。伊庭も丁度小腹がすいた所ではあったので、有難く頂戴することにした。
「小稲姐さん、その簪、よう似合うてます!」
料理を運んできたあどけない幼さを残した禿が、顔を綻ばせて小稲の簪を褒める。小稲は微笑んで、
「伊庭さまに頂いたのよ」
と伊庭を紹介すると、禿は伊庭を見て顔を綻ばせた。
「伊庭さまは見目麗しくて、とてもお優しい人だと、菊は小稲姐さんから聞いています!お会いできてうれしい!」
禿…菊と言う名の少女は飾りっ気のない言葉を口にした。そんな少女に伊庭は茶化して返した。
「へえ。そんなに褒められちゃ、また何か土産を買って来なければならないな」
「はい!小稲姐さんが喜ぶと思います!」
「今度はお菊ちゃんにも買って帰ろう」
「本当ですか?」
菊はその大きな黒めで伊庭を見る。伊庭が頷くとさらに嬉しそうな顔をして
「伊庭さま、約束ですよ!」
と小指を差し出してきた。伊庭がちらりと横目で小稲を見ると、彼女はくすくすと笑っていた。
「わかったよ、指きりだ」
少女の小さな小指に、自分のそれをからませる。菊は「約束ですよ」と念を押して指を切った。
「ふふっ、小稲姐さん、今度は菊にも勝って来てくださるそうです。伊庭さまは素敵な方です、小稲姐さんともお似合いです」
「ありがとう」
小稲は菊に微笑んで返したが、伊庭は内心複雑だった。小稲は礼子と違い、伊庭との関係を割り切って考えてはいて、伊庭のことに干渉はしない。別の女の元へ通ったとしても文句ひとつ言わないだろう。しかし言葉や表情に出すことはないにせよ、彼女が伊庭のことを誰よりも想っていることを、伊庭もまた知っていた。
しかしこの少女はそんな複雑な心情など知りようもない。伊庭に懐いた少女は
「小稲姐さんは伊庭さまと入れ黒子をなさらないの?」
と問いかけてきた。すると小稲がそれまでの柔和な表情を少し引き締めて
「お菊、お口が過ぎますよ」
と、菊を叱る。菊は分かりやすく落ち込んで「ごめんなさい」と謝ると、伊庭にも一礼して部屋を出て行ってしまった。
「…なんだ、そんなに言わなくても良いのに」
少女の落胆を考えて伊庭は微笑んだが、小稲は首を横に振った。
「禿が入れ黒子だなんてことを簡単に口にしてはなりません。ただ、いま吉原でひどく流行っているものですから、興味があるのでしょう。…後からきつく叱っておきますから、勘弁してやってください」
丁寧に頭を下げた小稲に「叱らなくてもいい」と伊庭は繰り返しておく。
「それよりも、吉原では入れ黒子が流行っているのか?」
これ以上小稲を謝らせないように、伊庭は話を変えた。
入れ黒子は古くから男女の仲で取り交わされる、互いを心中立てをする証だ。見えない場所に黒子を入れる入れ黒子から、二の腕に名前を彫ったりする刺青まで様々ある。
「ええ…世情が乱れて来て、お客さんの入れ替わりが激しいでしょう。ですから、そのように誓いを立てるお客さんが増えているとは聞いています」
「ふうん…」
伊庭は返答しつつ、彼女の親指の付け根を見る。そこに黒子は無い。
「黒子を入れるだけで安心するものかな」
遠く離れている場所でも、嫉妬を抑えきれないときも、それだけで安心するのだろうか。
(小太は…それで喜ぶのだろうか)
些細なことでも気にしてしまうあの心配性な幼馴染は、例えば互いに黒子を入れるというそれだけで、心が穏やかになるだろうか。
伊庭が思案していると、ふと、小稲が伊庭をじっと見つめていることに気が付いた。
「…ちょっと興味があるだけだよ」
伊庭が手を振って、何でもないと頭を振る。小稲はそれでもじっと伊庭を見て、少し困ったように微笑んだ。
「八郎さんは嘘をつくのが下手だから、すぐに分かってしまうわ」
「……そんなつもりはないんだけど…」
小稲は口を尖らせて「そんなことあります」と拗ねた言い方をした。






小稲のもとで夕餉は平らげたものの、早々に引き取った。彼女に土産を渡すのが目的であったし、小稲の元に長居すれば、嫉妬深い幼馴染が拗ねてしまうだろうと思ったからだ。
夜が濃くなり、人々がにぎわい始めた吉原を逆走するように出て、伊庭は自身の家へと向かった。その道中は、小稲から聞いた「入れ黒子」のことで頭が一杯だった。
(親指の付け根…か)
伊庭は提灯で、右手の手のひらをかざす。特に生来の黒子もないので、突然入れ黒子などすれば、すぐにばれてしまいそうだ。
(特に小稲には)
伊庭はそう思って苦笑した。吉原一の美女と持て囃される彼女だが、見目麗しいだけではなく、頭が良く目敏くて…恐らく伊庭が考えていることなどお見通しなのだ。伊庭には心に決めた人がいて、それは自分ではなく、そして…それが本山だということさえも、彼女であれば察してしまっていそうだ。
しかし誰に気付かれても、誰に噂されても…それでもあいつが望むのならば、ここに一生消えないものを埋め込んでしまうのも悪くはない。例えまた離ればなれになってしまったとしても、その黒子を見るたびに彼のことを思いだすなら、その寂しさを埋めることができるだろう。彼も、そして自分も。
「…よし」
伊庭は歩調を速めて、家に向かった。


家に戻ると、また口うるさい礼子の出迎えがあるかと思いきや、そんなことはなかった。かわりに客間の方が騒がしかったので、(客か?)と伊庭はそちらに足を向けた。
義父の高らかな笑い声が響き、どうやら酔っているらしいと思いつつ、伊庭は障子の前で
「戻りました」
と膝を折った。すると上機嫌な義父の「入ってきなさい」という返答があったので、遠慮なく障子をあけた。すると義父と同じ年頃の男とその妻とみられる女性、そして見知らぬ若い男の三人が客としてもてなされているようで、向かいに座るように義父と礼子がいた。
「礼子の兄にあたる八郎です」
義父の紹介に、伊庭はひとまず頭を下げる。すると男が
「お噂はかねがね伺っております」
と満足げに微笑み、その隣にいた妻も微笑んだ。若い男だけが緊張した面持ちでいた。
その後義父から彼らの紹介があり、さる藩の家老の家柄だという。若い男は息子で、跡取りになるようだ。
(ああ…なるほど)
義父に話される前から、伊庭は何となく察した。これは礼子の見合いの席なのだろう。ちらりと礼子の方を見ると、少し泣きそうな顔をして俯いていて、彼女の本意ではないと気が付いた。
「お会いできて光栄です。義理の弟になった際には、是非剣術をご教授願います」
若い男は伊庭にそんな風に言って頭を下げた。見目も整った悪くない男だ。礼儀正しく、凛としていて礼子とも年の頃合いがちょうど良いだろう。
「ええ…是非」
しかし、伊庭は明確な返事は避けた。彼が義理の弟になるかどうかは自分の裁量ではないし、義父が望んだところで、礼子は頑固だ。そう易々とは望まないだろう。
伊庭はひとまずあいさつを済ませて、自分の部屋に下がった。
奥詰の拝領、小稲の話した入れ黒子、礼子の見合い…いろんなことが頭を占めていたが、敷いた布団に身体を横たえるとすぐに眠りに落ちた。


本山の家を訪れたのはそれから数日後だった。今回は裏口から入るような真似はせず、正面から土産を携えて訪れる。本山家の家人たちは、久々の再会に喜んで出迎えてくれて、無事の帰還と奥詰拝領を祝う宴まで開こうかと言いだすほどだったが、十分伊庭の家では宴が行われたし、本山がどうにか制して、二人は騒がしい家を出た。
そしてその道中、伊庭は礼子の話をした。
「ふうん、礼子さんに見合いか…」
伊庭の話を聞いて、本山は少し考え込むような顔をした。彼も礼子とは顔なじみだ。
「まあ本人がどうするつもりかは知らないが、あの様子だと断りそうだな」
礼子のあの俯いた表情が目に焼き付いていた。見合い相手である男の顔も見ようともしない彼女の頑なさは、嫁に行ったところで相手は苦労するだろう。しかし本山は、伊庭が思った以上に深刻な顔をしていて、
「お前のこと、まだ諦めていないんだなあ…」
と、しみじみ語った。礼子は不器用なのかあまり自分の感情を隠そうとはしないので、この鈍い幼馴染にも察することができたのだろう。
「義理とはいえ、兄妹だ。さっさと諦めて嫁に行けばいいんだ」
幼馴染がつまらぬ嫉妬を持たぬよう、伊庭はそう吐き捨てた。それにそれが本心であることは間違いない。
しかし本山は「うーん」と腕を組む。
「諦め切れるものなら、もうとっくの昔に諦めていたんじゃないのか?」
本山の問いかけに、伊庭は「ああ」と気のない返事をした。
伊庭は本山とこうなる前から、小稲以外にも遊び歩いた。女は選ぶまでもなく寄ってくるのだと土方と共に吉原界隈を席巻したのも、知られた話で、礼子の耳にも入っていることだろう。
「俺には礼子さんがずっとお前を思って耐え忍ぶ姿しか想像できないよ」
「…だからって、どうにかしてやるわけにはいかないんだ」
伊庭が素っ気なく返答すると、本山は「そうだが…」と複雑な表情をした。顔なじみとはいえ他人事のはずだ。本山が彼女の縁談に固執し、そんな風に思い悩む必要はないだろう。
(何だっていうんだ…)
そんな幼馴染の不可解な態度に、伊庭は悶々とした。
礼子のことを何でそんなに気にかける?
(まさか俺に礼子とどうにかなればいいとか、そんなことを言い出すんじゃないだろうな…)
だとしたら相当の野暮だろう、と思いつつ本山を見るが、彼の表情は読めない。伊庭は内心ため息をついて、
「…もう礼子のことはいいよ。今日は何か予定があるのか?」
と話を切り上げた。すると本山の表情も戻る。
「いや、特にはない。お前は?」
「ちょっと試衛館に。お前も付き合えよ」
「試衛館?」
本山は少し驚いた顔をした。現在は新撰組と呼ばれる彼らが食客として根城としていた試衛館だが、本山は足を踏み入れたことはないのだ。それに彼らはいない。
「何の用だ?」
「何の用って、お前に…いや、お前の弟に貸す約束をした『南総里見八犬伝』のことだ。続き、まだ読んでいないだろう?」
「そりゃ…そうだとは思うが」
彼らが上洛をしてすぐ、そして伊庭が本山と感情が重ならないままそう言う関係になった頃、彼の弟に乞われて『南総里見八犬伝』を十五巻まで貸していた。しかし続きである十六巻を土方に貸していたため、そのままになっていたのだ。
「京に行ったときに土方さんに所在を聞いたら、試衛館にあるから勝手に持って行けってさ」
「そんなこと良く覚えていたなあ」
まるで忘れていたらしい本山は感心するように笑ったが、むしろ伊庭としては
「覚えていなかったのかよ」
とやや呆れた。あの雨の中、『続きはない』と本山に告げたあの情景を伊庭はくっきりと覚えていたというのに。
文句の一つでも言ってやろうか…というところで、
「あ…」
と伊庭は気が付いた。目の前に手の平を翳すと、そこにポツリ、ポツリと落ちる雨粒があった。二人で空を見上げると、先ほどまでの秋空が厚い雲に覆われている。
「降るな…」
本山がそんなことを言っているうちに、ザァッと雨が激しく降りだした。二人は木陰を伝いつつ走り、店の軒先に身を寄せる。しかし雨は轟々と降り注ぎ、地面をぬかるませ、厚い雲の隙間からは雷も見えた。
「これは長引くな…」
ひとまずは試衛館に行って本を借りるという選択肢はなくなったらしい、と思っていると
「丁度いい、休ませてもらおう」
本山がガラリと店の扉を開ける。伊庭が「おい」と引き留めたが既に遅く、店の主らしき年老いた男が出迎えた。
「お二階にどうぞぉ」
伊庭と本山の二人を見るや、ニタニタと笑う老人はそう言って二人分の枕を本山に手渡した。
「え…?ええぇ?」
本山は戸惑うが、老人は「二階へ」と促すばかりで語ろうとはしない。伊庭は仕方なく戸惑う本山の背中を押して、老人の言うとおり二階に上がった。するとそこにはやはり一組の布団が敷かれている。
「あー…あ、もしかして…」
本山がようやくこの店の趣旨を理解したらしい。ここは出会茶屋。男女が秘密裏の逢瀬に遣う隠れ家だ。
「お前は相変わらず鈍いな。男同士で拒まれなかったから良いものを…」
「八郎は気が付いていたのか?」
「もちろんだ。だから、引き留めただろう」
伊庭があっさり告げるが、本山は「引き留めたのか?」と全く気が付いていなかったらしい。やれやれと肩を落としつつ、伊庭はひとまず腰を下ろした。
「まあいい。雨はやみそうもないし、しばらく休んでいくには十分だろう」
「あ…ああ、そうだな…」
本山も戸惑いつつも座る。場慣れしていない彼は興味深そうにきょろきょろと辺りを見渡している。六畳ほどの狭い部屋に布団が一組、簡単な床の間のような場所に寂しげに咲く一輪の野花、部屋唯一の窓からはまるで嵐のような雨が降り注いでいた。







雨はザアザアと降り続ける。地面を打ちつける轟音は家屋の中にいたとしても耳障りだが、こうして雨が二人を狭い部屋に閉じ込めるのも悪くはないと思える。秋雨は一気に気温を下げたので、店主に言いつけて小さな火鉢を借り、伊庭は本山と向かい合った。
「…何だかこうしてゆっくりお前と過ごすのは、とても久々のような気がする」
火鉢に手を翳していると、本山がポツリとつぶやいた。
「そうだな…」
確かに、この半年は離れていたし、その前の一年はお互いに距離を取っていた。そして距離を取る前はと言えば、理由や根拠に見ないふりをして身体を重ねただけで、こんな風に穏やかに時間が過ぎるのはその前のことになるのだろう。そう考えると、この時間がとても貴重なもののように思える。
本山も同じように考えていたのだろう。
「ずっとここにいてもいいな」
と、やや現実離れしたことを言った。もちろん冗談だとは思ったが、しかし伊庭は本山の瞳の奥の陰りを見逃すことはできなかった。
「これからはいつでもこんな風に過ごせる」
だから何も不安に思うことはない、と伊庭は返答した。
だが、本山は「そうかな」と伊庭の言葉を素直に飲み込んだりはしなかった。
「…奥詰、拝領するって言っただろう」
「ああ…まあ、それはわかっていたことではあったし…」
「今までみたいにはいかないだろう」
(ああ、そうだ…)
伊庭はようやく気が付いた。本山の少し寂しげで不安げなこの瞳は、そう言えば伊庭が彼に「奥詰を拝領する」ということを伝えたときと同じだということを。彼はまた離れ離れになることを危惧しているのだ。
伊庭は少し黙って、正直に話した。
「…京にいる間は、この江戸はまだ落ち着いている方だと実感した」
池田屋を契機に始まった蛤御門の変は結果的に勝利したものの、今後はそう簡単にはいかないだろうと伊庭は思った。幕府側につき、長州を退けた薩摩の強大な力は、翻れば幕府を脅かす。そしてその幕府に仕える幕臣だからこそ、現実的な危機感を持ったのも確かだ。
「奥詰という任務は、おそらく形だけにとどまらない。実際に戦に出ることも何度もあるだろうな…」
これからどういう展開になっていくのかはわからない。しかし何となくそんな予感がした。だが、だからと言って決意は変わらない。
「幕臣に生まれた以上、その末路がどんなものであったとしても全うするつもりだ。そこは揺らぐことはない」
(たとえお前の為であったとしても…)
そこを譲ることはできない。そこを諦めることはできない。
それは、これまで生きてきた自分を否定することに繋がってしまうからだ。
この身体に食べ物が与えられ、衣服が与えられ、住まいが与えられたのも…すべて幕臣という自分の環境があったからだ。そう思うと、恩を仇で返すような真似だけは絶対にできない。
そして本山もまた、そんな伊庭の心情を良く知っている。
「…そうか」
知っていたとしても割り切れない気持ちがあるのだろう。本山は伊庭の話に顔を曇らせる。離れ離れになるどころか、命さえ危うい…そんな想像を膨らませているのだろう。そこで、伊庭はパン!と両手を軽く叩いた。
「だからって今から落ち込んでどうするんだ。むしろ、この平穏で貴重な時間を楽しまなければ、のちのち後悔する」
伊庭は火鉢越しに手を伸ばして、本山の手首を取った。そしてそのまま引きずって一組しか敷かれていない布団まで連れてくる。
そして自ら横になり、本山の下に入る。さらに戸惑う本山に言い放った。
「俺を抱けよ」
「え…?」
「お前のことだから、ごちゃごちゃいらないことを考えているんだろう。いいから、俺を抱いて、俺がここにいるんだって確かめろ」
夢の中にいるんじゃない。
想像の中にいるんじゃない。
ちゃんとここにいるんだ。二人で、同じ場所にいるんだって…それしかいらないはずだろう?
すると困惑していた本山の表情が少し和らぐ。伊庭の意図を察したのだろう。そして吹き出して笑って
「こんな昼間っから…信じられねえ」
と言った。生真面目な本山らしいコメントだ。その言葉に、伊庭も笑った。
「昼間とかそんなことは関係ないだろう。大体、お前がこの茶屋に俺を強引に連れてきたんだからな。少なくともこの店の主人はそう思っている」
「お前もそう思っているのか?」
「それは秘密」
「なんだよ」
誤魔化すなよ、と笑う本山の表情には先ほどまでの気鬱な様子は見られない。
伊庭は本山の首に両手を回した。そして文句を言ってやる。
「お前は本当に鈍い」
「それは自覚している」
「いや、自覚以上だ。お前はこの世の中で三つの指に入るほどの鈍さだ、もっと自覚しろ」
本山は「ひでえな」と苦笑する。伊庭は仕方なく彼に回した腕に力を込めて、引き寄せた。そして耳元で、甘く囁いた。
「早くしろって、言っているんだ」
その言葉で、彼が息をのんだのが、伊庭にはわかった。


轟々と降り続いていた雨がようやくその音を潜め始めた頃。
伊庭は疲労しきった裸体を、隠すことなく布団に横たえた。寒いと言って火鉢を用意させたというのに、今となっては身体の体温が上がって部屋が暑く感じてしまうほどだ。
「大丈夫か?」
疲弊した伊庭とは違い、本山は特に息を荒げる様子はない。まるで何事もなかったかのような澄ました表情に、伊庭は毒づく。
「…お前は鈍いくせに、こういうことになるとまるで隅から隅まで搾り取る貪欲さがある」
「何だよ、誘ったのはお前の方だ」
本山の言葉に間違いはなく、伊庭は「む」と唇を噛む。言い返す言葉が無かったので、
「眠い」
と、我儘に告げた。すると本山が「はいはい」とほほ笑んで、伊庭に掛布団をかけてやる。そして自分は軽く着物だけを羽織ってその隣に横になった。自然な仕草で差し出された彼の右腕を枕にする。瞼が重い。このままここで朝まで過ごしてしまいたい。
温かい身体と、彼の匂いに包まれる。伊庭はふっと彼の腕枕の先に視線を遣った。もちろん、そこには彼の大きな手のひらがある。
「…なあ」
「ん?」
本山が背中越しに伊庭を抱きしめる。彼の重さを感じて、満たされる。
「…入れ黒子」
「え…?」
「いれようか」
彼の指先に、自分のそれを絡ませながら伊庭は口にした。
(…案外、恥ずかしいな)
伊庭の中で小稲に話を聞いたときには感じなかった羞恥心が込み上げてきた。男女の堅い約束であるそれを、自分たちにしようというのだ。一生消えないものを身体に刻む…それは思った以上に、相手を縛るのだろう。
だが、先ほどまでの本山の話を聞いてより一層自分たちにはそれが必要なのではないかと、伊庭は思った。立場の違いから離れ離れになることはある。土方と沖田のように常に一緒にいられるわけではない。だったら、入れ黒子という消えない約束を刻んで、彼を、そして自分を安堵させることができるのなら、それが一番良いのではないだろうか。
「…小太?」
そしてそれを本山ならすぐに了承すると思ったのだ。
しかし、彼からの返答はない。
伊庭は身体を反対側に転がせる。そして本山と向かい合う形で、彼の表情を至近距離で見た。
(困っている…?)
そこにあったのは、困惑した表情を隠しきれない彼の顔だった。
「あ…ああ、入れ黒子っていうのは、いま吉原で流行っているらしい男女の契り…みたいな奴だ。俺たちは男だから刺青で互いの名前を入れるような真似はできないが、親指の付け根に入れるくらいなら誰にも迷惑にはならないだろう?」
彼はもしかしたらこの風習を知らないのかもしれない。伊庭はそう思って説明したのだが、それでも本山の表情に変化はない。
「……何だよ、何とか言えよ」
伊庭は苛立って、黙ったままの本山を促す。
すると彼は少し目を泳がせて、そして言葉を選びつつ返答した。
「それは…止めておいた方が良いんじゃないか?」
「…は?」
思わぬ答えに伊庭は自分の耳を疑った。きっと本山は大手を振って賛成すると思っていたのだ。
「ほら、お前…黒子一つない肌だし、急にそんなの入れたら周りがびっくりするだろう。その時になんて説明するんだよ」
ははは、と笑うように言う本山は、まるで何かを誤魔化すかのようだ。
伊庭には驚きと、戸惑いと…そして彼に拒まれたショックがまるで電流のように身体中を駆け巡っていた。それこそ本山の言い分が聞こえないほどに。
「…もういい」
「八郎?」
伊庭は上体を起こした。身体は軋んでいたけれど、今は構っている余地はない。放り投げていた衣服を身に纏い、さっさと袴を履いた。
「先に帰る」
「え?ちょ…」
引き留めようとする本山の手を振り払い、伊庭は懐から財布を投げつけた。そして本山の顔も見ずに、そのまま障子をぴしゃりと閉めて、階段を下りる。
店の店主が「痴話喧嘩かいな」と呑気な声をかけてきたが、もちろんそんなものは無視して店を出た。雨は小雨程度に降っていたが、構わず家への帰路を辿る。
身体に残る疼きと、彼の熱。しかしそんなものは雨に被ればすべて冷え切っていく。
(ああ…あの時も…)
あの時も、こんな雨が降っていた。
だらだらと続けた関係にピリオドを打ったあの日も、確かに雨が降っていた。








雨に打たれつつ、家路を辿る。そうしているとだんだんと頭が冴えてきた。冷静に本山との会話を振り返ると、彼から入れ黒子を断られたショックからも立ち直り始めた。むしろ
(ばかばかしい)
と一蹴し、自分で自分を情けなく思った。
たかが「入れ黒子」。こんなことで取り乱すなんて、まるで思春期の乙女のようだ。彼も呆れていることだろう。
(でも…)
頭ではそう理解していても、心の動揺が収まらない。
彼は喜んでくれるはずだと思っていた。自分か彼のものであり、彼が自分のものであるという証拠を刻み付けることを、受け入れてくれるものだと思っていた。お互いが最後の恋人だと思っていたから。
(…お前は違ったのか?)
いずれ別れるつもりなら、確かに黒子は重荷となってしまうだろう。いつか自分との関係は「過ち」だと後悔するのだろうか。彼が考える「この先」の未来に自分が居ないということだろうか。
「…嫌だ」
そんなのは嫌だ。想像もできないし、したくもない。
でも、
(お前は…そう思っているのか?)
一人で考えても答えの出ない問いかけを、何週も堂々巡りさせていると、すぐに家にたどり着いてしまった。既に陽が暮れて、おそらくは夕餉でも食べている頃だろう。
伊庭は両手でパチンと顔を叩いた。ずぶ濡れなのは仕方ないが、表情まで暗くなっては、いったい何があったのかと家人たちに心配を掛けてしまうだろう。伊庭は意を決して玄関に入り、「ただいま」と声をかけた。するとパタパタと誰かの足音がした。
「おかえりなさいませ、お兄様」
足音の主は礼子だった。ずぶ濡れの伊庭を見て少し目を見開く。
「拭くものを準備しましょう」
「いや、いい」
礼子の相手をするほどの気力と余裕が無く、伊庭は短く答えてその場を通り過ぎようとしたが、礼子に着物の袖を掴まれてしまった。
「…なに」
「以前も、このようにびしょ濡れで帰ってきたことがありました」
淡々と語る礼子に、伊庭は苛立つ。
「だから、何だ」
袖を持ったまま離さない礼子に、伊庭は軽く睨む。しかし礼子は逆にその大きな眼を伊庭に真っ直ぐに向けた。
「今日は本山様とお出かけと伺っておりました」
「そうだよ」
「前の時もそうでした」
礼子がきっぱりと口にした。
(良く覚えているものだ)
と、伊庭は内心感心しつつも、「離しなさい」と言ってようやく礼子の指先から袖を取る。雨粒が髪の毛から滴って不快だった。髪をかきあげて、
「もういいだろう」
礼子に話を切り上げさせようとしたのだが、礼子は首を横に振った。伊庭に睨まれたからと言って引き下がらない。強情な性格だ。
「ずっとそうじゃないかと思ってたことがあります」
「何」
「…お兄様は、本山様と男色の関係なのですか?」
正直に言えば、それは伊庭が全く予想していなかった言葉だった。礼子の口から放たれたものなのか、耳を疑いたくなるくらいの。伊庭は唖然として礼子を見るが、一方で彼女はその伊庭の反応ですべてを悟ったようで
「やはり」
と、軽く頷いた。自分に対して、頷いたのだろう。
伊庭はひとまず、礼子の腕を引いてそのまま自室へと向かった。玄関でするような話ではなかったからだ。
依然として雨が降り続く庭の廊下を通り過ぎ、自分の部屋に礼子を入れる。礼子は部屋の片隅に膝を折り、伊庭は部屋にあった手拭いで適当に髪を拭いながら、礼子の前に座った。
「…何故、そう思ったんだ?」
答えは既に礼子も分かっているだろうが、伊庭は敢えて否定も肯定もせずに訊ねる。礼子は少し考え込んで、
「まるで別人のようだからです」
「別人…?」
「お兄様の表情は、吉原へ行かれているときや私や家族と話しているときと、本山様に会われるときとは全く違います。お兄様はいつもお優しいけれど…でも、本山様に対してだけは、とても、その…甘えているような、表情をされます」
礼子のいう、表情の違いについて、伊庭には全く自覚が無かった。確かに家の中と外では使い分けている部分もあるが、しかしそれが特別、本山にだけだという気持ちは全くなかったのだ。
すると今度は礼子が疑問を口にした。
「あの、お兄様は…昔は吉原でよく遊んでいらっしゃいました。だから…その、男色がお好きだというわけではないのでしょう?」
礼子の問いかけに、伊庭は即答できずに少し顎に手を当てて考える。
吉原はいわばゲーム感覚だった。それこそ、土方とどちらが先に惚れさせるかなんていう競争をして遊んだこともある。だが、昔の自分ならまず間違いなく自分はそのうち女性と縁組をして幸せに暮らすのだろうという想像があった。ということは、もともとその気質があったというわけではないのだろう。
最初は土方だった。そしてその次は…本山だった。二人以外には、自分のなかにある感情を揺さぶられたことはない。
「…たぶん、そうだ」
伊庭がそう答えると、礼子はほっと少し安堵したような顔になった。だったら自分にもその資格と機会がある。男色なんてまるで目が覚めるかのように忘れるだろうと、そう思ったのかもしれない。だから伊庭は、その礼子の表情を見た途端に、「男色だ」と断言してしまうほうが良かったのだと悟る。
(機会があると、そう思わせるのは…残酷だ)
きっと彼女は待ち続ける。いつまでも胸にある思いを捨て去ることができずに、温め続ける。
伊庭はすっと息を吸った。
「礼子、俺は確かに男色家ではない。…でも、もうあいつ以外を好きになることはできない。一生、死ぬまでだ」
その言葉を聞いた途端、礼子の表情がすっと引いた。これ以上なく青ざめた表情だったが、しかし伊庭は言葉を紡いだ。この数年ズルズルと引き伸ばし続けたこの礼子との曖昧な関係に終止符を打つ決意をしたのだ。
「今まで、お前がその気持ちを持ちつづけたいならそうすればいいと思っていた。でも、俺はその思いが叶わないということを誰よりも知っている。知ってしまったんだ。あいつのことを好きだと…そう思った時に」
「…でも…」
「お前は大切な妹だ。だから、幸せになってほしいと…願っている。これは本当だ。でも俺にはそれはできないから」
礼子の目じりに涙が滲んでいた。今まで曖昧にしてきた拒絶をはっきりと告げられるショックは、伊庭には想像ができない。礼子はまるで耐えるかのように俯いて、両手をぎゅっと握っていた。
そして絞り出すように声を発した。
「…困りま…す」
「どうして」
「そんな風に優しく拒まれたら…何も諦められなくなる。まだ…期待をしてしまう。私は、お兄様が思う以上に、愚かな女なのです。…お兄様、今、私が何を考えているのかお分かりになりますか?」
礼子の眼には今にも溢れそうな涙が震えながら落ちまいと耐えていた。
伊庭は礼子の問いかけに首を横に振った。
「…男色では子がなせません。だったら、私は…妾でも何でも構わない。たとえ一番に愛されなかったとしても、お兄様の子を為して…」
「礼子、それはできない」
礼子の言葉を伊庭は遮る。自分がそうできないとわかっていたし、そして彼女もそんなことを望んでいないと知っていたからだ。
すると、それをきっかけに礼子はある一線を越えたようで、
「…お兄様は…それさえも許してくださらないのですね…」
と、ぽろぽろと涙を落とし身体を震わせて泣いた。両手で顔を覆ってその溢れ出る涙を受け止めていた。
諦めろ、と口でいうのは簡単だ。しかし言われたからと言って諦めることができるなら、もうとっくに礼子は諦めていた。
だったら、彼女の言ってあげられる言葉はあと一つしかない。
ずっと避けて通っていた、その言葉しかない。
伊庭は躊躇いつつも、しかしそれが自分の背負うべき痛みなのだと思いながら、口にした。
「…嫌いだ」
「…」
「俺は、お前のことが…嫌いだ」
完全に拒絶し、もう何も可能性など残っていないのだと、彼女にそう思ってもらうためにはこの言葉しかない。
するとそれまで震えていた礼子の身体が、ぴたりと止まる。涙を流す以上に暗い絶望に打ちひしがれているのだろう。しかしせめてその闇に落ちないように、と拳はさらに強く握りしめられていた。
礼子は何も言わなかった。何も言わないまま立ち上がると、そのまま部屋を出てゆっくりとした足取りで遠ざかっていった。まるで礼子が自分のすべてから離れていくようで、身が削がれるような思いがしたが、それでもこれが彼女の為なのだと、伊庭は言い聞かせた。
(…嫌いなわけ、ないじゃないか)
幼い頃からよく一緒に遊んでいた。今の姿からは想像もできないお転婆娘で、男の子に混じって泥だらけになって遊んだ。まるで太陽のような笑顔は伊庭の脳裏に刻まれている。
「幸せに…なってくれ」
誰が相手でもいい。この間の見合い相手でも構わない。誰かが彼女を一番だと言ってくれる人に、彼女が出会えますように。伊庭にはただそう願うことしかできない。
伊庭は脱力し、その場に大の字で身体を広げた。酷く疲労していた。
そして呟いた。
「…俺は、もう決めたんだからな…」
家族である彼女を傷つけてでも、それでもお前を選ぶと決めた。だから、
(だから…)
伊庭は右手を天井に目掛けて伸ばす。そしてその親指の付け根を見つめた。
だから、ここにお前を刻みたい。
誰の為でもなく、自分の為に、そうしたいんだと改めて伊庭は気づかされるような気持になった。









それからはまるで泥のように眠った。入れ黒子のこと、本山のこと…いろいろなまとまらない思考のまま戻った家で、礼子のことでとどめを刺されて、心身ともに疲れ果てていた。
夢を見ることもなく眠り、気が付けば夜が過ぎて、朝日が差し込んでいた。夕餉も取らずに眠っていたが、不思議と腹は減っていない。だが、頭は冴えていた。
(…あいつ、あれからどうしたかな…)
財布を投げつけて帰ったから金には困らなかっただろうが、ああいう茶屋で一人残されては笑いものになってしまっただろう。あの年老いた店の店主に何を言われたのか…それを考えると、自然と笑みがこぼれた。
(何だか…大丈夫だ)
些細な喧嘩も、それでも気持ちが通じ合っていると分かるから何の不安も感じない。それこそ入れ黒子なんてなくても平気だと思えるくらいだ。
飾りに捉われなくても、大丈夫だ。目に見えないもので自分たちは繋がっている。何故だかそんな確信を得た。
伊庭は両手を伸ばして背筋を伸ばす。すると聞き慣れた声が聞こえた。
「お兄様」
凛と響いた礼子の声。声だけでは判別はつかないが、いつもと変わらなく聞こえた。
「起きていらっしゃいますか?」
「ああ、起きてる」
礼子は障子を開けないまま告げた。
「本山さまがいらっしゃっています」
礼子は淀みなくそう言ったが、伊庭の方が言葉に詰まってしまった。礼子からすれば最悪のタイミングで本山と顔を合わせたのだろう。
「…わかった」
伊庭が答えると礼子はすっとそのまま部屋を通り過ぎていく。その姿は障子越しの影でしか見えないが、それでも背をまっすぐにのばして、迷いなく歩いているように見えた。

「よう」
軽く手を挙げて本山は伊庭に挨拶する。昨日の別れ際からは考えられないほどの気軽さと能天気さで、伊庭は力が抜けてしまった。
「…なんだよ、朝早くに」
しかし伊庭は彼ほど無頓着にはなれない。黒子のことは自分の中で決着がついたとしても、それを断った本山に対してはまだ蟠りがあった。なので、不機嫌そうな顔立ちのまま用件を尋ねると、本山は懐から見覚えのあるものを取り出した。
「財布返しに来た…ってのは口実だな」
伊庭の手に持たせつつ、本山はそのまま手を引いた。重さは対して変わっていないので、使っていないようだ。
「行こう。ここじゃ出来ない話だ」
「…わかった」
伊庭にとってもいつまでも玄関先で本山と話し込んでいるのは、礼子の心情を考えると気が引けた。なので、本山に言われるがまま家を出た。
昨日の雨はすっかり止んで、秋晴れの快晴だった。少し冷たい風が木々を揺らし、その葉を落とす。道には落ち葉が散乱していて、町人たちがそれをかき分けていた。
「礼子さん、何かあったのか?」
世間話の軽い感じで、本山が伊庭に訊ねる。伊庭は「知らない」とそっけなく答えた。本山は「ふうん」とそれ以上を続けずに、
「昨日は悪かった」
と本山が脈絡もなく告げた。しかし伊庭は
「悪かったなんて思っていないくせに謝るな」
ときっぱりと拒んだ。手厳しい切り返しではあるが、幼馴染はそんなものは慣れている。苦笑しながら
「そう言うなよ。あの時は…混乱してたんだ」
「混乱?」
「お前がそんなこと言うなんて、思わなかった」
「なんで?」
「それは…」
伊庭が質問攻めにすると、本山が頭を掻いて、困った顔をした。そして
「…そういうの、お前が嫌いだと思っていたんだ」
と少し言いづらそうに白状した。伊庭はその予想外の答えに驚いた。
「俺、そんなこと言ったか?」
「そういうわけじゃないけど…入れ黒子なんて入れれば、周囲から好機の目で見られるだろうし、その相手がいつも一緒にいる俺だと知れれば、良い噂は立たないだろう。お前は目立つんだから、尚のことだ」
「…」
「そういうのは、お前は面倒だと思って」
確かに以前の伊庭なら…たとえば小稲に同じ提案をされたとしたら断っていただろう。確かに入れ黒子なんて発想自体を、無意味だと馬鹿にしていたかもしれない。
(でも…)
今は違う。
そしてお前は、違う。違うんだ。
伊庭は足を止めた。隣を歩いていた本山も不思議そうに「どうした?」と言いつつ足を止めた。伊庭はその彼の腕を強引に引いた。
「な、何だよ」
突然のことに驚く本山を、そのまま物陰に連れ込む。人一人が通るのが精いっぱいの、細い路地だ。一目に付かないものの、すぐそばには人通りの多い道がある。
しかし伊庭は構わず、本山の襟を両手でつかんだ。そして少し背の高い彼に併せて爪先立ちをし、その唇を重ねた。
「…っ、はち…」
一瞬の軽い口づけではない。お互いの息を奪うような濃厚な口づけに、本山はとても驚いたようだった。そして一瞬避けるように顔を逸らしたが、伊庭はすぐにつかまえてまだ口付けを続けた。
すぐそばには人通りの多い道、そしてこの路地だっていつ誰が通りかかってもおかしくはないのだ。そしてお互いが男同士であるということもすぐに分かる。
しかし伊庭には何のためらいもない。まるで周囲の視線など気に留める風もなく、貪った。
そうして口の端から吐息が漏れ、お互いの息が上がった所で伊庭は離れた。
「……もう、わかった…か?」
「な…にが」
ただただ唖然とするだけの本山に、伊庭はため息をつく。
「…お前の鈍感さは沖田さん並だな」
本山は会ったことのない人物の名前に首を傾げたが、伊庭は続けた。
「…誰に見られても俺は構わない。誰に笑われても、誰に嘲られてもいい」
たとえばこんなふうに、往来で口づけをすることだって厭わない。
するとようやく伊庭の意図を掴んだようで、本山が呆然と
「八郎…」
と名を呼ぶ。伊庭は
「お前は違うのか?」
「俺は…」
「お前は、嫌なのか?」
訊ねつつ、本山の左手を取る。手のひらを伊庭の右手を重ね、そして、その親指の付け根に触れた。
「俺は……ここに、俺を刻みたい」
一生消えない痕を刻み付けたい。
「…」
「お前がどんなに俺から離れたいって言っても、離してやらない。別れたいって言っても、絶対に別れてやらない。…俺を愛すなら、それくらいの覚悟をしろ」
伊庭はまっすぐに目を見つめた。すると本山はその驚き、開ききった瞳孔を次第に柔らかく戻し
「…負けた」
と笑った。そしてははっと笑いつつ、そのままもう片方の手で伊庭を引き寄せて抱きしめた。
「俺だって、お前を離さない。離すつもりもない。…でも、その覚悟はお前には負けたみたいだなあ」
「…小太」
本山は抱き寄せていた腕の力を抜いて、伊庭の顔を見る。とても穏やかな表情だった。
「俺は…お前が黒子の話をした時に、礼子さんのことが思い浮かんだ」
「礼子…?」
「礼子さんは絶対にお前が黒子を入れたら気が付くだろう。たぶん、俺と同じ場所に入れたことも…。だとしたら、彼女を傷つけるんじゃないか…そう思っていたんだ」
だから、入れなくてもいいと言ったんだ、と本山が説明した。幼馴染である彼は礼子のことも良く知っている。幼子からその成長を見てきて、半ば妹のような感覚もある本山としては、彼女の気持ちを蔑ろにすることができなかったのだろう。
(お人よしだな…)
そう呆れる反面、彼自身が黒子を入れたくなかったのではない…そう気が付くことができ、伊庭自身も何だか安堵した。
そして彼の胸元に額を置いた。とくんとくんと本山の鼓動が聞こえた。
「…礼子には、もう言った」
と教えた。
「言ったって…なにを?」
「俺たちのことに決まっているだろう。もっともあいつは既に気が付いていた様なことを言っていたが…」
「そ…そうか…」
伊庭の話に、本山は動揺を隠すことができない。気恥ずかしさもあるだろう。そして「だからか」と呟いた。今朝、顔を合わせた時に礼子の様子がおかしかったことにも合点が行ったようだ。
すると本山はもう一度、伊庭を抱きしめて
「ありがとう」
と言った。染み入るような声で、感謝を述べられた。
もしかしたら彼の中に、礼子と言う存在がいつまでもひっかかっていたのかもしれない。あるいは小稲のことも、気にしているのかもしれない。いつまでも伊庭が保留にしていたせいで、気が付かないところで彼を傷つけてしまっていたのだろう。
(ごめん…)
伊庭は声に出さずに謝った。
そうしなかったのは…そうできなかったのは、彼女のことを可哀相だと思ってしまっていたからだ。家族故に、出来なかった。
でもようやく言えたのは、きっと目の前のこの幼馴染のことを、自分自身が思っているよりも愛しているのだと気が付いたからだ。何を失ってもいいと、そう思えるほどに。
だから
「…黒子、入れよう。今すぐにでも」
本山はそう言った。
伊庭は頷いた。





「痛いか?」
「痛くないよ、これくらい。お前は痛いのか?」
「痛くない。…これを見るたびにお前を思い出すのだろうな。どんなに遠くに行っても…」
「ああ…」
そうだ、きっと、
どこへ行っても、どんな場所に行っても、この黒子をみては思い出すのだろう。
お前の姿を、お前の顔を、お前の声を。
そしてお前がどんなに俺のことを好きか。俺がどんなにお前のことが好きなのか。
痛い程に、思い出す。
そして胸が張り裂けそうなほど、お前に会いたくなって、
きっとお前の元へ、全力で、駆けて行ってしまうのだ。































「Leprechaun」最後までお読みいただきありがとうございました。
レプラコーンは妖精の名前です。地中に隠している宝の居場所を教えてくれる妖精…ただし、たいていは宝を手に入れることはできないそうですが、今回は気まぐれで宝のありかを教えてくれたようです。ちなみにですが、伊庭さんが黒子を入れたのは右手です。

今後も気分ですが、書いていきますのでまたお付き合いください。最後までありがとうございました。