蜜 −ラクリモサ−


一年間、想像し続けた唇の温もりは本物のそれとは違っていた。




「…いいよ」
まだ何も言っていないのに、幼馴染はまるで俺の心を読んだかのように答えた。さっきまで俺を拒み、堪える為に顔を顰めていたのに今はもう穏やかな表情になった。
もうだめかと思った。
彼が小稲と夜を過ごし、ここで偶然出会って逃げられそうになったとき、一年間安易に信じ続けた己を恥じた。一年前のあの過ちを彼自身が負の思い出として消し去ってしまったのかもしれないという可能性だってあったのに、俺は内心、彼が必ず自分の所に戻ってくると高をくくっていた。こんな風に唇を交わすと思っていた。
「ん…っ、ぅ…」
一年前、俺と幼馴染は間違いを犯した。何となく不安で、何となく心細くて、自分たちの気持ちを無視して肌を重ねつづけた。それがお互いを苦しめることだと分かっていたのに続けていた。けれどある一線は守り続けた。それは唇を重ねないということ。
それは彼が言い出したことだから、本当の理由を知らない。ただ、わかるのはもしあの時に口付けをしていたら惰性のようにあのまま関係を続けていただろうということ。まるで恋人のような気分になってお互いを甘やかし続けたのだろうと今ではわかる。
「ふ…、」
幼馴染が苦しそうに俺の胸板を押した。性急すぎたか、と俺は慌てて唇を離したが上気した頬が俺を煽る。だから彼が拒むのを無視してまた唇を求めた。
一年間我慢し続けたその感触は、思っていた以上に俺を煽り立てて誘っていく。やっとこの感触を味わうことを許せてもらえた。
やっと、俺のことを好きになってくれた。
「ん…ぅ…」
「…なあ」
俺は荒く息をする彼に聞いた。
「…その、別に疑ってるわけじゃないんだけど…さ」
「なに…」
特に他意はなかったが低くなった俺の声に彼の顔が少し不安げに歪んだ。俺は彼を強く抱きしめて、耳元で呟いた。
「小稲と…は、どうなってんの?」
「小稲…?」
彼が拍子抜けしたような声を上げた。俺は嫉妬のようなセリフを吐いた顔を見られたくなくて抱きしめたまま答えを待った。すると彼は少し首を傾げたようにして
「どうにも…ないけど」
と答えた。「そうか」と答えてなかったことにするのでも良いのかもしれないが、曖昧なのはもう嫌なので俺は問い詰めた。
「この間、お前の家に行ったときに聞いた。お前が花街にいってるから朝帰ってくるだろうって…どうせ小稲のとこだろ?」
「そうだけど、何にもない。この一年間何にもないって」
「本当に?」
俺が食い下がると、彼はむっとしたのか俺の胸を押した。そして俺の顔をまっすぐに見た。
「何もない。…っていうか、お前だってこの間礼子と…」
「礼子さん?」
意外な名前が挙がり、俺が聞き返すと彼はちょっとだけ苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「…俺だって、お前の家に行った。でも礼子といっしょに出てきたから…そのまま帰った」
本当は口にするつもりがなかったのだろう。何もない、と否定してきたときと違って今度は俺の顔を見なかった。
「礼子さんは…あの時一年ぶりに顔を合わせただけで…お前とちゃんと仲直りしろって説教されただけだよ」
「礼子が?」
幼馴染は顔を顰めた。そういえば口止めされてたっけ、と俺は内心焦ったが今更訂正しても仕方ない。彼女にはあとでこっそり謝っておこう。
「彼女だって心配してたんだよ、一年間。…俺たちと一緒だ」
俺たちは俺たちで苦しんだように、礼子も、もしかしたら小稲も一年間耐えていたのだと思う。あんなに仲の良かった二人が急に距離を置いて戸惑わないわけがないのだから。
「というか、こんなときに女の話やめようぜ」
俺は彼の頬に手を重ねた。彼も彼で頷いて身を任せてくれる。
もう何も聞く必要なんてない。
俺がお前を好きだって、お前だってわかってる。
俺もお前が俺を好きだって、わかってる。
それで十分だから。


廃屋の山小屋は決していい寝心地ではないが、昔人が住んでいたのかそれなりの調度となっている。俺は彼をゆっくりとそこへ横にさせて、その首筋に舌を這わせた。
「…っ」
彼が嫌がるように身を捩った。
「くすぐったい?」
俺が訊ねると頷いた。
「でも一年前はこれだけで顔を赤くしてたぞ」
加えてやると、彼は「うるさい」と顔を隠してしまった。しかし俺にとってはそんな仕草さえ可愛くて、首筋を執拗に吸った。すると次第にくすぐったいのが別の感触に変わり始めたのか小さく声を出すようになった。
俺は彼の襟に手をかけた。まだ冬の厳しさは屋内でもわかるものの、肌を重ねていれば平気のはずだ。
「んぅ…」
胸の飾りへ舌を移動させると、彼が少しだけ大きく声を上げた。一年前の感覚が今でも残っているのか、とわかると俺も何だかうれしくなる。そして同時に高ぶっていく。
「ここ…いい?」
わざと恥ずかしいことを言って
「も…うる…さい…」
そんな風に怒るのが何だか懐かしくて。
(俺…変な趣味に目覚めたのかな)
と思ってしまうほどだ。だからだろうか、
「舐めさせて」
と俺は彼にお願いした。彼が拒否するのはわかっていたのに、わざと聞いた。するとやはり彼は少しきょとんとして、でもすぐに顔を真っ赤に染めた。
「そ…っ、そんなこと、しなくていいっ」
「なんで?」
「なんでって…ばっ…」
馬鹿、と彼の言葉は繋がらなかった。一年前もそうだった。そこを口に含まれることを苦手としていた。抵抗するように俺の肩を押す彼をどうにか口付けで誤魔化して、俺は彼の袴の紐を解いた。そして逃げられる前に舌で舐めまわした。
「んっ…!も、だ…」
「駄目?こんなにしてるのに?」
「は…ぁ、ぁ…」
彼が息を上げるとその息が白く染まる。彼が熱い息を吐いているのだと分かる。彼が興奮しているのだと分かる。
それが夢じゃなくて、本物だと分かる。
「はちろ……、もっと声、出して」
俺に教えて
「や、やだって…ば…」
一年間繰り返し見続けた
「嫌じゃない。…気持ちいいって、言って」
夢じゃないと教えてくれ。
「……っ、気持ち、いい…」
そうだ、やっぱり、これは夢じゃないんだよな。
「…ごめん、」
「え…?」
俺は彼の唇をもう一度吸った。甘くて溶けてしまいそうなほどの、まるで蜜のような。
「ごめん…入れさせて」
「えっ…だ…って、まだ……っ!」
俺は彼の言葉を聞かなかった。彼が酷く顔を顰めて苦痛を堪えていた。
「――っ、馬鹿…っ、痛…い…っ」
彼の目尻に涙が浮かんでいた。けれどそれは俺を煽るだけの材料にしかならない。俺はその目尻に舌を這わせてその耳元でささやいた。
「本当に、痛いだけ?」
「…っ!」
どうしてだろう。こんなに虐めたくなる。
きっとそれは俺がまだ不安だからだろう。これが夢だったら嫌だから。お前の言葉を聞きたいと、お前の気持ちを聞きたいと思うからこんな風に言葉を求めてしまうんだ。
「…もう…っいい」
彼が絞り出すように言葉を吐き出した。
「ん…?何が?」
俺はまた意地悪をして問う。すると彼は少し俺の方を睨みつつ
「もう…動いて、いい…」
と答えた。少し恥ずかしがりながら、顔を真っ赤に染めて、そんなことを口にして
「知らないからな」
これ以上俺を煽ってどうするんだよ。
「…っ、あ…っ、あっ…!」
俺は激しく彼の中を突き上げた。狭いそこを押し上げるようにすると彼が声を上げる。ここが気持ちいいのか、とわかって俺はますます彼に声を挙げさせたくなる。
いつも「子天狗」なんて言われてる彼が、そんな風に善がることも、そんな声を出すことも。
俺しか知らない。俺だけしか知らない。
「好きだ…誰よりも…っ」
だから、お前も俺のことをもっと好きになればいい。俺だけを見ていればいい。俺だけを想っていればいい。俺だけのものであればいい。
「…っ、ぁ…こ…た…ぁっ」
彼は切れ切れの声をあげた。潤んだ眼は俺の姿が見えているのかわからない。けれど
「俺…も、お前が…大好きだ…」
その言葉は俺のものだ。それは紛れもない真実で
これは絶対に夢じゃないんだ。



肌を重ねる時間はあっという間に過ぎて行った。お互いを求めて気持ちを確かめ合って、それでまた少しだけ別れることになる。
「…なあ、絶対行かなきゃならないのか?」
「絶対」
俺が引き留めるものの、彼は構うことなく着物を再び身に着けて髪型を整え始めた。
お互いの感情に任せて肌を重ねたものの、現実に戻ってみると彼は将軍とともに上洛しなければならないのだ。急に寂しさが訪れた。
最も、俺だって引き留められるとは思っちゃいない。
「俺も行きてえな…。清水だろ、それから高台寺。あと金閣銀閣もみてぇし、島原や祇園もいってみてえな。あとは旨い酒も飲みたい」
俺が恨めしく述べると
「じゃあ俺が全部行ってきてやるよ」
と彼は笑った。俺はがっくり肩を落とす。
すると俺の肩を叩いた。
「今度は一年も待たせねえから…ちょっとだけ、」
「そんな可愛いこと言うとまだ引き留めるぞ」
「引き留めて見ろよ」
彼が挑戦的に俺を見て笑った。俺がこれ以上引き留めないのを知っているからだ。
「…わかぁった。待っとく」
「よしよし」
…さっきまで俺に弄ばれていたくせに、熱が冷めればまたいつものようにからかわれる。まるで犬を待たせるようだ。
「土産買ってくるから」
彼は俺の唇に唇を一瞬だけ重ねた。その感触をまだ味わっていたいのに。
「なあ」
俺は彼の手を引いた。
「ん?」
「新しい約束をしよう」
「いいぜ」
俺の提案に彼は頷いた。しかし彼の方が先に口を開いた。
「帰ってきたら、一番に俺に会いに来ること……だろ?」
「…ちぇ、なんでわかんだよ」
「なんとなく」
俺が言いたかったのに、と拗ね見せる。内心は彼も同じことを考えてくれていたのだと嬉しかった。
「…必ず守るよ」
彼はそういって俺の手を離した。そして軽く手を振ると俺に背中を向けた。
一年前。
あの桜の日。
あの日別れたとき、お互い泣いていた。お前もそれを隠していたし、俺もそれを隠した。気づかれてしまえば、もう何もかもが壊れてしまうような気がして、必死に引き留めたいのを堪えた。
けれど今は違う。
お前とどこにいても繋がっているとわかるから。だから引き留める必要なんてない。
いつまでも待っている。いつでも、お前を迎えられるように。