そこはかとなく、


格子越しに見上げる空は、いままでと何ら変わらないはずなのに何故だか澄んで見えた。
青く、高く。
晴れ渡った空が眩しくて、目を逸らして俯く。
すると、顔に残った火傷が痛んだ。



これまで静かだった部屋にドカドカと遠慮ない足音が響く。
(また来た)
そう思いつつ、床から体を起こし身構えた。襖が開き、坊主頭が顔を出す。
「何だ、まだそんな辛気臭い顔してやがるのか、英(ハナブサ)」
松本良順。幕府御典医や奥医師なんて崇められる立場である医者だが、暇さえあれば町医者である南部精一の家にやってくるのだ。
「別に辛気臭い顔なんて…」
「火傷も随分良くなったじゃねえか。包帯なしでも外を出歩けそうだ」
松本は英の言葉を遮って、顔の右半分を覆っていた包帯を取り去る。傷の状態を見ながら「良くなった良くなった」と繰り返して口にした。
病は気から、言葉は言霊。西洋医学という先進的なものを学んでいるくせに、彼の口癖はまるで坊主のようだ。彼の処置を受けながら、しかし英は
(別に治らなくてもいい…)
と投げやりな思いを抱えていた。
火傷を負ったのは、己の過ちのせいだ。過去の失恋を引きずって京までやってきて、でもその想いが報われないと気が付いたときに、だったら裏切ってやると討幕派に協力した。そのせいで火事が起き、怪我を負い、自分を大切に思ってくれていた店主が亡くなった。
この火傷はその罪の証だ。己が起こした間違いで失ったものに比べれば小さな傷でしかないだろう。いつまでも残って、戒めのように己を虐め続ければいい。
松本が新しい包帯を巻き終える。
「俺が暇つぶしにくれてやった医学書はどうだ?」
「どうだって…難しくて、頭が痛くなる」
「はは!そりゃそうだな!」
静養を進められた英は、松本から「暇なら読んでみろ」と医学書を数冊渡された。彼曰く入門したばかりの弟子がまず読む本なのだそうだが、医学について何の知識も知見もない英には読めば読むほど眉間に皺が寄ってしまう難しい本だった。
「それで読めたのかい?」
「…まあ、読んだけど…」
「へえ、俺はお前はもっと苦心すると思っていたぜ。てっきり字なんて読めないと思っていたからな」
「字は…教えてもらった」
「ほう?」
松本には陰間だった英に読み書きの教養があることに驚いていた。
『字ぃくらい読める方がいい。陰間が流行らなくなっても、読み書きができれば生きていける』
(そうだ…そう言っていたのは…)
今まで思い起こすこともなかった昔の記憶が脳裏を過る。そして同時に身震いがした。
「どうした?」
目ざとく気が付いた松本に「何でもない」と英は頭を振った。詮索されたくはなかったし、これ以上『あの人』のことを思い出すのは億劫だった。
するとそんな英の意志さえ見透かしたように「まあいい」と松本は話を替えた。
「そういやあ、明日から新撰組の隊士が南部に弟子入りするのは聞いているか?名は山崎という」
「南部先生から聞いてる」
「そうか。もともと針医師の息子だそうだが、俺は素質があると思っている…お前さんも具合がいいなら一緒に南部の講義を受けたらどうだ?」
「…」
松本の誘いに、英は口を閉ざした。
『南部。人手を欲しがっていただろう、弟子にしてやれよ』
『これも何かの縁だ。南部のところで医学を学べ。お前さんが自分を要らねえって言うんなら、俺がもらってやる。お前さんは必要な人間だ』
あの火事の日。もう死ぬしかないと絶望した英は松本の言葉に随分励まされた。必要とされている場所がある…それは真っ暗闇に陥った心の中で唯一の光になった。
けれど、今、英はその光に進むため一歩を躊躇っている。長く床の上で過ごせば、様々な考えが頭を過ってしまうのだ。
「…やっぱり、医者には向いてないと思う…」
南部の家にいると毎日が騒がしい。老若男女、時間を問わずに訪れて病や怪我を診てほしいと懇願する。それを南部は一人ひとり丁寧に対応していた。たとえ深夜の訪問であったとしても苛立つことはなく、病人を励まし薬を与えた。元気になった患者が礼に訪れても「元気になって良かった」と微笑みかけ、決して自分の手柄を口にすることはなかった。
心が広い、の一言では片づけられない。
(そんな存在になれるわけがない…)
医者という仕事を目の当たりにして、自分とは一番遠い存在だと日に日に感じるようになっていた。
「英、お前は…」
俯く英に、何か言いかけたところで、駆け足でこちらに近づく音がして
「良順先生!」
と部屋に飛び込んできた。長い黒髪を一つにまとめた女性…南部の養女である加也だ。もともと父親が医者である彼女はこの数年前に南部の養女として江戸から都にやってきたそうだ。その美しい容姿とは裏腹に、医学の知識に長けどの弟子よりも南部の右腕として働いている。
「どうした?」
「いま、ひどい怪我をされた方がいらっしゃって…義父上はほかの患者様に手いっぱいなのです、力をお貸しください」
「わかった、任せろ」
加也の申し出に、松本は二つ返事で立ち上がる。
「悪いな、英」
「いえ…」
松本は加也とともに部屋を去っていく。
遠くでは騒がしい声が聞こえるが、英の部屋は一気に静まり返った。
英は傍らにある医学書に手を伸ばした。何度も目を通し、内容は頭の中に叩き込まれている。だが知識が入れば入るほど、不安を感じた。
(人を救うなんて…こんなに簡単じゃない…)
本の通りにすればいい…そんな簡単なものではないだろう。松本のように才能があり、南部のように優しく、加也のようにひたむきに向き合わなければならない。
その一歩を踏み出すのが、怖い。
火傷が治った今、床でグズグズしているのは、どうしようもなく身体が重たいせいだ。どこにその一歩を踏み出せばいいのかわからなくて。
(情けない…)
そう思いつつ、別の本に手を伸ばしたその時、遠ざかっていたはずの足音がまた聞こえてきた。顔を出したのは加也だ。
「…何?」
英は加也のことが苦手だった。不愛想で何を考えているのかわからず、その黒い瞳の奥で自分のことを侮蔑しているような気がしていたから。もちろん、それは被害妄想でしかないのだろうが。
「英、あなた手と足は不自由じゃないでしょう?」
「…は?」
「患者が詰めかけているの。猫の手も借りたいような状況で…良順先生があなたを連れて来いって」
「でも…」
「いいから、着替えてすぐに来て」
有無を言わせず加也は言い放ち、そのまま忙しなく戻っていく。遠慮のない物言いはどちらかと言えば南部よりも、松本譲りのようで拒む暇を与えない。
「はあ…」
英は溜息をついて、仕方なく床から出た。



加也が言っていた通り、診療所は外まで人が溢れていた。終わりかけの夏の季節に夏風邪が流行していたため子供から老人まで多くの病人が詰めかける。それとは別に加也が呼びに来た怪我人もいて診療所はいつも以上に忙しない。
「おう、来たか、英」
「松本先生、俺は…」
「いいから、とりあえずあっちの怪我人見てやれ。浅手だが止血しなけりゃ命に関わる」
止血のための薄手の綿紗を何枚も押し付け、松本はさっさと別の患者のもとに向かってしまう。英はため息をつきつつ、松本の言っていた患者のもとに向かった。
病人ばかりの診療所なのだが、英は周囲の視線を集めた。右半分の顔の火傷は包帯に巻かれているものの、もう半分の男とも女ともわからぬ相貌が目を引くのだろう。
(嫌だな…)
人の多い場所はもともと苦手だった。特にこんな日の当たる場所は居心地が悪い。
(さっさと終わらせよう)
英はそう思いつつ、患者の前に立った。患者の男はボザボザ頭の髭面で目を閉じぐったりとしているせいで、その表情はよくわからない。隣には付き添いの男がいた。
「…あ」
付き添いの顔には見覚えがあった。そして男もまた英の顔を覚えていたのか表情を変えた。
(新撰組の…斉藤)
以前、河上が英のもとに通っていた頃に彼を捕縛するために沖田とともに彼がやってきたことがあった。鋭利な目つきで英を睨みつけた表情を覚えている。決して邂逅を喜び世間話をするような仲ではない。
「…止血します」
英は怪我をしている男の左腕を強く押した。綿紗に血が滲むがそのうち止まるはずだ。
斉藤は我関せずという雰囲気で涼しい顔をしている。
(この男が斬ったのか…)
英がちらりと斉藤を見ると
「酔っ払いの喧嘩の仲裁をしただけだ」
と彼から返答があった。
「別に…何も聞いていないけど」
「そういう顔をしていた」
「…ふうん」
会話は続かず、そのうち男の血が止まる。あとは薬を塗って包帯でも巻けばいい…そんなことを考えていると、患者の男が目を開けた。
するとその男がポツリとつぶやいた。
「…薫…か?」
「!」
それは昔の名前。江戸に置いてきたかつての自分の源氏名。
英ははっとして男の顔を見た。無作法に伸ばした髪の毛や髭面のせいですぐにはわからなかったが、その顔は記憶に奥底にずっと眠り続けていた。
その男が笑うとその目の下に何重もの皺が寄る。
「泥兄…」
その男は、泥吉とあだ名される『兄』だった。







彼は昔から背の高い飄々とした男だった。
特に仕事もせず、ふらふらと己が思うままに出歩く。英がいた陰間茶屋に身を寄せたのも、奉公人の賃金が良かったというただそれだけのことで、深い意味はない。そして泥吉(どろきち)という名前はおそらくは本名ではない。本人が面白がってそう名乗っているだけなのだが、誰も本名を詮索しようなんてことは考えなかった。
それが、陰間の世界というものだ。
誰が、どこで生まれようとも関係はない。本当の名前なんて必要ない。そんな世界だったから。
そんな泥吉の顔を見て英は頭が真っ白になり、彼の傷口を抑えていた手が震え諤々と足が不安定に揺れた。彼の顔を見ていると過去に囚われそうになるのに、けれども視線を逸らすことができなかった。
「なんでい、その顔は。花の顔(かんばせ)が台無しじゃねえか?」
「…っ」
飄々とした笑みを浮かべて泥吉は英の包帯を捲った。嫌だと思ったけれど抵抗することはできなかった。
彼は英の火傷を見ると眉間に深い皺を寄せた。
「あー…これじゃあ、客も取れねえな。だからお前、こんなところにいるのか」
「…別に、そういうわけじゃない…」
英はそう答えるのが精いっぱいだ。泥吉は「ふうん」と英を頭の先から足のつま先まで舐めまわすように見た。その下品な視線は昔と変わらない。
そして泥吉のガサツな指先が、英の尻を鷲掴んだ。皮膚に食い込むほど強い。
「い、いたい…泥兄…」
「すっかり固くなってやがる。また仕込みなおさなきゃいけねえなあ…」
獣が餌を見つけたような、欲望を剥き出しにした男の顔。
『嫌だ…もう、嫌だよ、泥兄…』
幼いころの自分の声が蘇る。
すっかり忘れたと思っていたのに、まだ記憶に刻み込まれていた。
(ずっと…死ぬまで、囚われ続けるのか)
その事実に愕然としていると、突然泥吉が「いてっ」と声を上げて英から離れた。隣にいた斉藤が蹴り上げたようだ。
「ここはそういう場所ではない。…怪我の具合が良いなら、出ていけ」
斉藤が低く冷たい声を放ち、泥吉を睨みつける。新撰組の三番隊組長に凄まれては、さすがの泥吉も飄々としてはいられない。「ちっ」と舌打ちすると立ち上がった。
「またな、薫」
「…」
泥吉はそういうと、傷を抑えつつも軽い足取りで医療所を出ていく。その後ろ姿が消えた途端に、英はその場に腰を抜かして座り込んでしまった。
「英、どうしたの?」
「…」
その様子に気が付いて、加也がやってくる。弱気な姿を見られたくはなかったが英は答えることすらできない。沈黙していると代わりに斉藤が答えた。
「まだ具合が良くないのだろう。奥で休ませてやれ」
「え…ええ。英、立てる?」
「…」
加也が肩を貸そうとするが、思った以上に体の力が抜けていた。すると見かねた斉藤が「俺が行こう」と英の腕をとり、強引に立たせた。
「斉藤様、申し訳ございません」
「いつもこちらの先生には世話になっている。…奥の部屋でいいのか?」
「はい、ありがとうございます」
加也は別の患者に呼ばれてしまい、英は斉藤に抱えられて奥に向かった。元居た部屋に戻り、床に横になるとようやく体の震えが収まった。
「…どうも」
自分でも不愛想だと思いながら礼を述べる。しかしそれ以上に不愛想な斉藤は何も答えなかった。
英は片目でまじまじと斉藤を見た。何をも寄せ付けない凛とした表情、高い鼻梁に鋭い眼差し、固く結ばれた唇。色男というよりは己に信念を曲げない頑固さを感じさせる面構えだ。花街では色男だけではなくこういう寡黙な男もモテるはずだが、本人にその気がないのか彼の名を聞いたことはない。
そんな斉藤はすぐに出ていくかと思いきや、その場に腰を下ろした。
「…何?」
「さっきの男。泥吉…と言ったな、何者だ?兄なのか?」
「それ…あんたに何か関係ある?」
泥吉のことを話したくなくて、英はわざと冷たく返答する。だが、斉藤は食い下がった。
「奴は怪しい輩とつるんでいた。新撰組として見逃すことはできない」
「泥兄は政治のことには興味はない。ああいう人で、いつも浮ついていて…だから、ただの酔っ払いだ」
「それを調べるのが俺たちの仕事だ」
「…もう新撰組に関わりたくない」
泥吉について思い出したくないという思いと同時に、もう新撰組という存在に自分が足を踏み入れてはならないのだと感じていた。それがたとえ彼らの役に立つ情報だとしても、一度は新撰組を裏切ったという立場なのだから。
暫く二人は沈黙し、部屋には重たい空気が流れた。
そして斉藤は一息つくと
「また来る」
と口にして立ち上がる。
「もう来なくていい」
英は拒むが、斉藤は聞こえないふりをしてそのまま部屋を去っていった。姿が見えなくなると、すぐに彼の気配も消える。斉藤という男がまるで忽然と居なくなったかのように。
(一体、何なんだ…)
英は嘆息しながら目を閉じた。
すると否応なく、あの頃の記憶が蘇ってきた。


自分の中に眠る記憶は、売られてきたみすぼらしい自分をこなれたように「はいはい」と買い取る江戸にいた頃の見世の亭主と、その隣でニヤニヤとこちらをみる泥吉の顔だ。
田舎から江戸の湯島にやってきたのは十も過ぎた頃だ。それまでは明日の暮らしもおぼつかない貧乏な暮らしをしていたので、江戸の賑やかな街並みにひどく面食らった。
本当の名前は忘れた。
ただ亭主が『薫』と名付けたのは、貧しい暮らしで身なりはボロボロだったが幼いながらも気品と妖艶な顔立ちをしていた自分を見て『売れっ子になる』という予感を覚えたのだという。それが本当のことなのか、それとも後付けの自慢話なのかはわからない。
少なくとも薫には、まさかここで陰間になるという予感などなく、ただの丁稚奉公なのだと思っていた。
「泥、お前、この子の『まわし』やってみるかい?」
亭主がそういうと、泥吉は「いいのかい?」と目を輝かせた。薫は『まわし』の意味が分からず呆けるが悪い予感だけはあった。
「ちょうど席が空いてるし、この子は年も十を超えてる。さっさと一人前になってもらわなきゃ使い物にならねえ」
亭主の乱暴な物言いと見下すような視線に薫は怯えた。しかし泥吉は飄々と「任せろ」と喜んで、早速薫の手を引いて亭主に背を向けた。
亭主から離れられて少しは安堵したものの、見世にはいくつもの部屋があり、化粧をした美しい陰間たちが新入りの薫を連れまわす泥吉を覗いていた。興味本位でまじまじと見ている者や品定めをするような下卑た視線もあった。
「上物じゃァないか」
そのうちの一人がニヤニヤと笑いながら声をかけ、泥吉は「おう」と答える。
「小せん姐さん。うちで一番の別嬪だァ」
泥吉が紹介した『小せん』と呼ばれた陰間はしな垂れたうなじが印象的な美人だった。見世で一番というだけあって貫禄があり煙草を吹かす姿にはまるで浮世絵に描かれそうなものだ。
「声変わりはまだかい?」
「…」
「何だ、口がきけないのかい?」
「…きけ、る」
「へえ、可愛らしい声だ」
薫の返答を聞いて小せんは微笑む。蝋燭の灯に紅が光って、浮世離れした小せんに美しさがさらに映えた。
小せんは泥吉に視線を向けた。
「年季明けで席が空いているんだろう?亭主が早く仕込みたいといっていたが、ひょっとしてお前がまわしをするのかい?」
「そのひょっとしてだ」
「へえ…お前、まわしは初めてだろう?お前さんがここに来ての新入りはいなかったはずだ。…上物だ、傷物にするんじゃないよ」
「わかってらあ」
小せんが釘をさすが、泥吉は本当にわかってるのかわかっていないのか能天気な返答だ。小せんはため息をつきながら
「何か困ったことがあったら言いな」
と微笑みかけた。薫は戸惑いと恐ればかりだったこの場所で初めての優しさを感じた。しかしそれに浸る暇はなく、泥吉は「こっちにきな」と強引に手を引いた。
「お前さん、随分臭いな。まずは風呂にでも入れ」
そういって泥吉は見世の奥にある内風呂へと連れてきた。そして薫の着ていたものを取り去り「こんなボロ、捨てちまえ」と投げた。そして裸になった薫の身体をマジマジと見て、怪しく笑った。
「乳臭いガキだと思ったが、随分色が白いし肌もいい。亭主の見立て通りだなァ」
泥吉は下卑た視線を向け、そしてそのまま自身も衣服を脱いだ。飄々としているのに逞しい体だったが、これから風呂に入るというのになぜか褌だけはそのままだった。
「…あの…」
「何だァ」
「まわし…って……何?」
亭主や泥吉、そして小せんが揃って口にした言葉。薫にはその意味が分からず、しかしその言葉に不穏な意味を感じていた。
すると泥吉がにやっと笑った。
「…これから、教えてやらァ」
そういった彼は内風呂に薫を押し込んだのだった。





夏風邪の流行のせいで、南部の医療所はいつも以上に賑やかだった。人手が足りないのもいつものことで、具合が良い時は英も手伝うようになった。しかし英の容姿はたとえ火傷で半分が隠されていたとしても目立つため、もっぱら裏方の薬師である加也の手伝いに徹した。
「和中散が足りないわ」
深いため息をつき、加也が嘆く。ここのところは薬を所望されることが多く、加也も参っていたのだ。
「わちゅうさん…?」
「風邪に効く薬よ。枇杷葉や桂枝、辰砂などが調合されている粉薬…近江の方で作られているの」
「ふうん…」
女性らしからぬ医療の知識を兼ね備えた加也は、忙しい時にも英に医学の知識を植え付けるように詳しく話をしていた。もしかしたら英を医者にしようとしている松本の指示なのかもしれない。
「この薬を飲めば患者は減るわ…英、悪いけど吉岡先生の所から分けてもらってきてくれないかしら」
吉岡、とは近所の町医者だ。南部とは既知の間柄で医療所同士の交流もある。時折、薬を融通しあっているのだ。
「…」
「外に出ることに気が進まないのはわかるけど、いまわたくしが離れるわけにはいかないの。顔を隠したければ尼頭巾をすれば平気よ」
「…わかった」
医療所が忙しいのは重々承知していたし、居候の身で断ることもできない。それに吉岡診療所は目と鼻の先なのだから外出というほどではない。英は言われた通り尼頭巾を被り、裏口から外に出た。
夏の日差しはいつの間にか和らぎ、風が冷たくなっていた。季節が移ろい、過去は時間が経つにつれ、どんどん過去になる。昔を振り返ったところで良いことなんてないし、取り消せるわけでもない。だからすっかり忘れてやり直せばいい…松本はそういう意味で、『英』という名を与え医学の道を歩ませようとしているのだろう。
(でも忘れられるほど、簡単な過去じゃない)
英、という名前で自分に与えられた名前は四つ目になる。
一つ目は親に与えられた名前。それはもう忘れてしまった。
二つ目は陰間になった時に与えられた名前。亭主が売れっ子になるだろうと予感して名付けた名前。
三つ目は都にやってきてからの名前。『宗三郎』という名前はもともとその店にいた陰間の名前だったようでそれを継ぐという意味で名乗った。
そして四つ目。
(英…か)
松本が与えた名前。優れている、秀でている…そんな意味を持つ名前は、自分には少し重たい。そんなたいそうな人間になれるとは思えない。
裏口からこっそりと大通りに出る。人ごみに紛れれば頭巾をかぶった自分を知る人間はいない。…そう思ったのに。
「よう」
「!」
「やっと外に出てきたなァ」
間延びした口調。耳障りな訛り。
「…泥兄…」
「待ちわびたぜェ、薫。…いや、今は英だっけ?」
じりじりと近づいていく泥吉。きっと英が医療所の外に出てくるのを待っていたのだろう。立ち去ってしまえばいいのに、英の身体はいうことを聞かずにそのまま立ちすくんだ。
泥吉のゴツゴツした指先が英の顎に伸び、そのまま無理やり上に向かせるように引き上げた。品定めをするように彼の眼がまじまじと英を見ている。
「英かァ…随分と名前負けしてやがる」
「…ッ」
英の過去を知っている泥吉からすれば、当然の言葉だろう。英は甘んじて受け取った。
「…なに…?」
「ん?」
「泥兄はもう、俺に用なんてないだろう…とっくに縁は切れてる…」
逃れようと顔を背けようとしたが、泥吉は顎をぐっと掴んで離さなかった。
「縁なんて切れようもないさァ。俺とお前は…一生、切れねえ。ガキの時からそう教えただろう…?」
「…!」
泥吉は英の腕を引き、大通りから人目の付かない細い道に入る。日の当たらないジメジメとした陰気な場所には人気がなく、暗い。
「泥兄…!」
「抱かせろよ、あの時みたいに」
「い、嫌だ」
「嫌だって?」
ふん、と泥吉は鼻で笑った。そして頭巾を無理やり取り去って英の後頭部に手を回す。
「小せん姐さん、覚えているだろう?」
「こ…小せん姐さん…」
英が薫として店に出た頃の売れっ子陰間だ。いつも煙草を吹かしていたが、姉御肌で何かと世話を焼いてくれた。
「小せん姐さん、よく言ってたなァ。薫は根っからの陰間だ、男を誑かすために生まれてきたに違いないって」
「…っ!」
「性分っていうのはァ、なかなか消えねえ。お前さんが清楚ぶってお医者の元で働いたって、そのうちその本性がバレる。男を狂わせ、酔わせる…その本性が」
泥吉は後頭部に回した手で、英の髪を引っ張った。
「その証拠に、俺を引き寄せちまった」
泥吉の太い指が、巧みに着物を剥ぎ英の臀部に触れる。直接、肌に触れられ一気に鳥肌が立った。
(この指を…まだ、覚えている…)
見上げた泥吉の顔があの頃の彼と何も変わらなくて、嫌だと思ったのに記憶は過去へと飛んだ。


まわし、とは。
売られてきた子を最初に仕込む役目のことを指す。一日目、二日目、三日目と毎夜毎夜、客を取るための手練手管を身体に教え込む。最初は拒み恐れ続けてきた身体も、次第に慣れて広がり、最後には男で気持ちよくなることを覚える。もっと欲しいと善がり始める――。
「大抵、七日はかかる。でも薫はそうじゃないようだねえ」
小せんはまわしの役目を勤める泥吉に
「思ったよりも腕が良いじゃァないか」
と笑った。泥吉は頭を掻いて「いやァ」とまんざらでもない様子で答えた。
「初日は泣いて喚いて煩かったもんだが、三日も立てば進んで足を開きやがる。棒薬だってほら…この通り、易々飲み込み、美味そうに食うんだ」
「…んあ…ッ」
薫は泥吉に組み敷かれ、大粒の涙を流していた。けれども彼の言う通り身体はその反対に喜び、小せんが見物客のようにニヤニヤと笑いながら見ているというのに恥じらいもなく受け入れ続けていた。
(こんなのは…違う…!)
なけなしの正気で薫はどうにか意識を保つ。自分の身体が自分以外のものに好きにされたとしても、心だけは奪わせまい。
幼いながらにそう誓ったのだ。
けれど何度もその決意は挫けそうになった。
「泥吉、今度は棒薬に山椒を塗り付けるといい」
「…へぇ、山椒かい?」
「ああ。口の中でもピリリと熱くなるが…それを菊座の奥に塗れば、より一層奥が熱くなる。そうしたら薫のちんけな意地も、消え去るだろうよ」
姉御肌として皆に慕われている小せんだが、けれどもそれは陰間としてやってきた薫を憐れむという意味で親切にしてくれるわけではない。新入りが立派な陰間として客を取り、金を落とすように…仕込むのだ。
泥吉は早速、山椒を取りに部屋を出ていった。菊座に棒薬を突っ込まれたままの薫は、荒い息を上げながら今度は一体何が自分の身体に起こるのかと恐怖した。
すると小せんが覗き込むように薫を見た。
「…薫、あんたいまどんな顔をしているのか、わかっているかい?」
「か…お…?」
息をするのが精いっぱいの薫には、小せんの問いかけに返答する言葉は思い浮かばない。すると、小せんは手鏡を薫の前に差し出した。
「…ッ!!」
最初はその顔が、自分のものだとは思えなかった。
蒸気した頬、潤んだ瞳、もの欲しそうに息を吐く唇…幼い薫でさえ自分の姿が、いやらしいと思った。
「幼いくせに、熟れた果実のようだねえ。男だけでなく、女さえ欲情するだろう。きっとあんたはそのうちあたしを超える陰間になる…」
「…い、嫌だ…」
「嫌とかそういう話じゃあないんだ。…諦めな、きっとそういう風に、生まれてきたんだよ」
小せんは微笑み、鏡をしまう。すると階段を駆け上がってくる音が聞こえて、泥吉が飄々とした様子で戻ってきた。
「姐さん、山椒を持ってきたぜ」
「ああ…塗りたくってやんな。そうすれば…諦めが付くだろうよ」
「へいへい」
泥吉は薫の菊座から棒薬を抜くと、楽しそうに山椒を塗り付けた。
(まるで…子供が遊んでいるみたいだ…)
幼い薫でさえそう思うほど、泥吉は興味を剥き出しにした悪戯好きの子供のように見えた。背丈はひょろりと高くて体格も違うけれど、大人には見えない。
そんな泥吉に対して、小せんは釘を刺した。
「いいかい、泥吉。まわしは仕込むが、最後まではしない。それが掟だよ」
それは小せんの口から何度も聴いた言葉だった。
まわしは客を取らせる準備をするだけ。自身の欲望を満たす対象にはしない。それがルールなのだ。それに対して泥吉はやはり飄々と答える。
「わぁかってる」
「んんんぅ!」
何の前触れもなく棒薬が奥に差し込まれ、薫は歯を食いしばって耐えた。小せんが言った通り、山椒が塗り付けられたせいか、燃えるように熱い。
まわしが初めてだという泥吉は興味本位で右左、上下左右…気の向くままに動かす。その自由な動きに翻弄されていく。
(駄目だ、だめだ、ダメだ…)
何にも奪われたくない。
薫は両手で顔を覆った。だが、その指と指の合間から泥吉の顔が見えた。
「ああ…良いなァ」
「…ッ」
愉悦に浸り、自我を忘れた男に見下ろされている。
これから幾度となく、こうして男に、女に、見下されるのだと、薫は悟ったのだった。





英は幼かったあの頃から背丈が伸び、顔つきも大人のそれへと変わった。与えられる形容詞は「可愛らしい」から「美しい」へと言葉を替え、その言葉に何の意味も感じなくなっていた。しかし、目の前にいる泥吉はあの頃と何も変わらない。やんちゃであり奔放であり、己の興味の赴くままに動く、欲望に素直な男だ。
「…なんでェ、すっかり身体が固くなってやがる。今更、生娘を気取ったって仕方ねえだろう」
どうにか逃れようと身体を捩って暴れる英に対し、泥吉は揶揄するように笑った。
「俺は…もう、陰間じゃない…!」
「だから、言ったろう?陰間ってェのはお前の本性だ。今はいらねェっつっても、そのうち物足りなくなって男が欲しくなる。…何だったら俺がまたお前の『まわし』をやってやるぜェ」
「…いっ、やだ…!」
泥吉の身体を弄る手は英をあの頃へとフラッシュバックさせる。英はどうにか泥吉の手を払うが、一回り以上体格の違う泥吉には敵わない。
誰に抱かれようとかまわないと思っていた。小せんの言う通りその素質があったのだろうし、要ると望まれるのならば、それでいいと悟ったように思っていた。
けれど、今は違う。
狂おしい恋を経て、優しく接してくれていた人を亡くし、『生まれ変わればいい』と新しい人生を与え、応援してくれる人がいる。
だからこそ、過去へと引きずり込もうとする泥吉と、関係を持ってはいけない。
「…ったく、しゃあねェなァ」
抵抗ばかりする泥吉はしびれを切らしたのか、やれやれと言わんばかりに声を上げる。
(諦めたか…)
と英は安堵しかけたが、そうではなかった。
「ん…っ?!」
「こっちで知り合った奴がくれたんだ。和蘭の…何とかってェいう薬だそうだ。身体が熱くなって、もの欲しくなる…」
口の中に放り込まれた液体が喉を通過する。吐き出そうと試みるがそれは叶わず、あっという間に泥吉が言うように身体の芯が火照り始めた。
薬を盛られたことは初めてではなく、そういう狂った遊びに興じる客人は居た。けれどそれは双方の合意があったから。
「…へェ、よく効くじゃねェか」
「く…っ、ぅ…!」
英はどうにか抗おうとするが、すでに身体の力は抜け今は泥吉が抱えているから立っていられるだけの状況だ。ただただ体が熱くて仕方ない。
泥吉はそんな英を見て、ぺろりと舌を出し唇を舐めた。
「もう終いの年だっていうのに…やっぱりお前さんは格別だねェ、薫…」
「…い…」
嫌だ。
(もうその名前で呼ばれるのは嫌だ…)
これ以上、近づきたくはない。彼に飲み込まれたくない――。
「何をしている」
「!」
英と泥吉の間をきらりと光る刃先が遮った。泥吉は「ヒィ!」と驚いて英を突き飛ばし、腰を抜かす。その刀は依然として泥吉に向けられたままだ。
(歳…さん?)
朦朧とした意識とかすんだ視界のなか、なぜか英はそう思った。薬のせいか自分を助けてくれるのは彼以外居ないはずだと夢見がちな想像が膨らんだ。
しかし、そこにいたのは土方ではない。
(…斉藤…)
新撰組の斉藤一。先日、泥吉を医療所に連れてきたのも彼だった。
「…な、なんでェ、新撰組の旦那がここに…?」
「理由などない。ただの通りすがりだ」
淡々と答える斉藤に表情の変化はない。ただ彼が放つ雰囲気は常人でも感じ取れるほどの圧があった。泥吉もそれを感じ取ったのか、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「…じゃ、じゃまたなァ、薫」
泥吉はそういうと、地を這うように逃げ出していく。斉藤はその姿を見ると大きなため息をついてその刀身を鞘に収めた。泥吉に突き飛ばされた英はすでに立ち上がる力すらなかったが、斉藤を見上げた。
「な…んで、ここに…?」
「前にも言ったはずだ、不定浪士との繋がりが疑われている。俺はあの男を張っていただけだ」
「…そう、か…」
泥吉は英が外に出るまで待ち伏せしていたようだが、その彼がまた斉藤に監視されていたとは滑稽なことだ。
斉藤は膝を折り、息も絶え絶えな英をまじまじと見た。
「…薬を盛られたのか?」
「見ていた…くせに…」
「ああ。お前に抗うつもりがあるのかないのか、見ていた」
「…存外、意地悪だ…」
助けもしないで見ていたなんて、と英は斉藤を責めるが、彼の悪びれもない様子を見て文句を言う気力が失せてしまった。
「もう…いい。一つ、頼みが…ある」
「…何だ?」
「すぐ先の…角を曲がったところに、吉岡という町医者がいる…そこで薬を貰ってきて、それを…南部先生へ渡して…急いで…」
泥吉に捉まり時間が経ってしまった。いまも患者がその薬を待ち侘びていることだろうし、遣いを出した加也が心配しているだろう。この体では上手く動けないだろうから、せめてもの想いで斉藤に託した。
すると彼は「わかった」と立ち上がり、去っていく。
「…ふ、」
英はようやく力を抜いて目を閉じた。熱に侵されたのと同じで、しばらくじっとしていれば治るはずだ。そう思いながら、英はいつしか意識を手放していた。


目が覚めた時には、すでに夕刻になっていた。
「…ん…」
見たことのない天井、知らない部屋、そして暖かい布団。どれに身に覚えがないもので、一気に眠気が飛んだ。
「ここは…」
「近くの茶屋だ」
「!」
英は独り言のつもりで呟いた言葉に返答があったことに驚いた。声の主はもちろん斉藤だ。彼は胡坐をかき、相変わらずの無表情でこちらを見ていた。
「斉藤…さん」
「薬は医療所に届けた。南部先生にはお前は途中で具合が悪くなったので、休ませていると伝えた」
「ど、うして…」
「あんな状態で医療所に返すわけにはいかないだろう」
泥吉が無理やり飲ませた薬はオランダの媚薬だろう。加也をはじめとした医療所の人間に醜態を晒したくはなかったので、彼の気遣いは有難く思った。
しかし
「だからって…」
隣の部屋からは男女のまぐわう声が聞こえてくる…ここがただの茶屋ではないことはすぐにわかった。
すると斉藤は深くため息をついた。
「仕方ないだろう。すぐ近くにここがあった」
「放っておいてくれて良かったのに…」
「そういうわけにはいかないだろう。お前のことは…沖田さんが、気にしている」
「沖田…さんが?」
意外な名前が彼の口から出てきて、英は驚く。斉藤はやはり淡々と続けた。
「お前のことは…事あるごとに気にしている。松本先生にも時折、様子をうかがっているようだ」
「そう…なんだ」
「ああ」
一度は憎くて仕方ないと思った相手だが、いまはその気持ちが失せていた。あの日、河上と対峙する土方と総司を見てこの二人の間にはどうやっても割り込めないのだと悟った。そうしてようやく失恋を受け入れることができたのだ。
(いまはまだ…会えない…)
河上に協力し新撰組を裏切るような事件を起こしたばかりの身で、易々と会うことはできない。
けれどいつかは会うことになるだろう。そんな予感だけは、あった。
「…では、俺は帰る」
「え?」
斉藤は刀を持ち、立ち上がった。
「もう具合は良いのだろう。このまま休んで、動けるようになったら医療所に戻れ」
「…待って」
英は身体を起こし、斉藤を引き留めた。
何故引き留めてしまったのか…
(自分でもよくわからない…けれど)
いまは彼と一緒に居たいと、そう思ったのだ。
だがそれを口にしたところで彼は去ってしまうのだろう。英はためらったが続けた。
「泥兄のこと…話す」
「…新撰組に関わりたくないのではなかったのか?」
「関わりたくないし、関わる資格はないと思っている…でも、貸しを作るのは嫌だ」
「…」
英の申し出に、斉藤は再び腰を下ろした。
「…泥兄は、昔…江戸で陰間をしていた頃に世話になった」
「江戸の者か?」
「わからない。泥吉…というその名前すら、本名なのかは知らない。いつも飄々として…何を考えているのかわからないような、そういう男だ」
見た目通りの性格。性格通りの見た目。そういう意味では嘘のない男だったのだとも思えるが、己の欲望すら嘘がない男だった。
「…泥兄は、俺の『まわし』だった」
「『まわし』…」
「俺を陰間に仕込んだ男だ。男を受け入れられるように、女を気持ちよくさせるように…教え込む役目。棒薬で菊座を広げて、通和散を中に塗りたくる…客を悦ばせるための手練手管すべてを叩き込んで…」
「もういい」
生々しい話を嫌悪しているのか、斉藤は表情を顰めた。だが、英は話をつづけた。
「『まわし』は最後まではしない。それが掟だった…でも、泥兄はその掟を破った」
「…何?」
「俺を抱いた。俺の一番最初の相手は…泥兄だった」
小せんの忠告を無視して、薫を最初に抱いたのは泥吉だった。
その理由はわからない。ただ、飄々としている泥吉のことだから我慢できなくなったとか、構わないと思ったとか、そういう独りよがりの理由のはずだ。
「そのことが知られて…泥兄は見世を追い出された。それっきり会っていないよ」
「…では、あの医療所で会ったのは、それ以来のことか?」
「そう。だから、泥兄が何をしていたのか、なぜ都にいるのか…そんなことは、わからない」
泥吉のことを話すと案外、それ以外何もわからないのだと気がついた。陰間茶屋にいたただの男衆…少しの間かかわりがあっただけで、新撰組にとって有用な情報ではなかっただろう。だが斉藤は「そうか」とどこか気難しい顔で考え込んだ。
二人の間に沈黙が流れた。
不思議と居心地の悪い沈黙ではない。
しかし隣の部屋からは、男女の喘ぎ声が容赦なく聞こえてくる。それにあてられたのか、それとも泥吉に飲まされた薬が残っていたのか…
(身体が…熱い)
この手の薬を飲んだことのある英は、どうすればこの薬が消えるのかわかっていた。
「…斉藤さん」
「何だ」
英は身を乗り出し、斉藤の両肩を押した。そしてそのまま彼を押し倒しその上に乗る。
「…何のつもりだ」
おそらく抵抗できたはずだ。しかし斉藤はどこか英に成り行きを任せていたようでもあった。
「この薬はたぶん精を吐かないと抜けない。…だから、手伝って」
「断る。自分で処理すればいい」
「薬のせいで体が言うことを聞かない。…それに出会い茶屋に連れ込んだのは、あんただ」
「お前はもう陰間じゃないのだろう。だったらこういう真似をするな」
斉藤は身体を起こし英を引き剥がすように遠ざける。それまで無表情だったその顔が、少しだけゆがむ。
「…誰でもいいなら、俺以外にしろ」
彼は拒んだ。
でも、
彼の言う通りだった。
薬を抜きたいのなら、そのあたりの男を掴まえて茶屋に連れ込めばいい。新撰組を相手にしなくても、あと腐れのない相手を探した方が良いに決まっている。
でも、いまの英には目の前の男しか眼中になかった。
それどころか
(無性に…この男に、抱かれたい)
そんなことを思った。
「…助けたのなら、中途半端に終わらせるな。これは…あんたの責任だ」
「…」
「抱いてくれないなら…すべて泥兄に話す」
そんなつもりはないけれど、そんな挑発をしてまでも、脅しを口にしてまでも、いまこの男に抱かれたいと思った。
(どうしてだろう…)
薬のせいか。
それとも隣の部屋の男女に当てられたのか。
自分のことなのに、よくわからない。
すると斉藤はなぜか「ちっ」と小さく舌打ちをして、英を強く押した。そしてそのまま荒々しく英の衣服を剥いで、肌に触れた。
泥吉のような嫌悪はない。
まるで風が肌を撫でているような心地よさがあった。






それは微睡みのなかでみる、夢のようだと思った。

いままで英は、陰間として「モノ」のようにしか抱かれたことがない。勝手にされるのも、乱暴にされるのもいつものことで、それが当たり前だと思っていた。
けれど、彼は違った。
彼にとっては決して積極的ではない行為だったはずだが、その無表情な面構えの奥にはつねに優しさがあった。
触れる指先が、
彼の吐息が、
その求める強さが、
すべてが、
甘い蜂蜜のように身体を溶かす。
(江戸で…歳さんに抱かれていたら、こんな風だったのかもしれない…)
英がそう錯覚するほど、甘美な時間だった。いつまでもこうして居たい…英はそう思ったけれど、彼にとってそうだったのかはわからない。
「…っ、そう…」
彼は時折、顔を顰めながら苦しそうな声を出した。聞き取れないほど小さな呟きだった。
最初は自分の名を呼ばれているのかと思った。かつて「宗三郎」として彼とは知り合ったのだから、「英」ではなくその名前で呼ぶのも仕方ない。
だが、それは英の思い過ごしだった。
「総司…」
熱い吐息を狭間で、その名前を聞いた途端、
(またか)
と内心、苦笑した。
誰も彼も彼を求める――それが少し前までは憎らしくて仕方なかった。何故なのかわからなかった。…でも今は違う。
(敵わないなあ…)
と、穏やかな気持ちで居られた。それは本当に土方への気持ちが己の中に全くないという証拠であり総司を憎んでいないという現れだ。自分が思っているよりも、吹っ切れているみたいだと確信した。
しかし、目の前の男は違う。
切っても切れないような親密な二人を目の前に、ずっとその気持ちを押し殺してきたのだろう。けれどそれを投げ出すこともなく、胸に秘めてきた。狂おしいほどの愛情をひた隠しに、支え続けた。
いま彼の瞳の中に映るのはきっと彼の姿なのだろう。本当は英とではなく、彼とこうして居たいと願うからこそ、その名前を呼んだ。
(強い男…)
その想いが叶うことはないと知っていながらも、ただ思い続ける。
それがどれほど苦しいものなのか、英は知っていた。
だから、彼の背中に手を回した。そして強く抱きしめた――。


身体の火照りが収まる頃には陽は陰り、すっかり夜になっていた。
「俺は屯所に戻る」
衣服を身に着け襟を整えた斉藤はぶっきら棒に告げた。居心地が悪いのか、英の方は見ようともしない。しかしその無表情な横顔が英には色目かしく映る。
「うん…ありがとう」
「一人で戻れるか?」
「大丈夫」
英の返答を聞くと、斉藤は立ち上がり腰に刀を帯びた。そしてそのまま部屋を出ていこうとしたが、足を止めた。
「あの男のことだが…」
「泥兄のこと?」
「ああ。もう関わらないほうが良い」
「それは…わかっているけど…」
突き放せるものならとっくに突き放している。けれど彼を目の前にすると、なぜか思考が停止してしまう。逃れたいと思うのに、まるで身体が鉛になってしまったかのように重たくなるのだ。
「俺も、今の名前は本当の名前ではない」
「…へえ?」
「事情があって人を斬った時に、名前を変えた」
淡々とした語り口調だが、英は吸い寄せられるように斉藤の顔を見ていた。
「名を変えたことですべて決別できるわけではない。過去はいつまでも付いて回る。だが…やり直すことはできる」
「…」
「…月並みなことを言ったな。失礼する」
斉藤は今度こそ部屋を出ていく。英は茫然とその姿を見送ったが、トントントンと階段を下りていく彼の足音にさえ、耳を澄ませた。
「…はは」
次第に、顔が綻んだ。
(本当に月並みな、言葉だ…)
それは何度も言われた言葉だ。やり直せばいい、また新しい人生を始めればいいと、松本や南部、事情を知らないはずの加也にさえ言われたことがある。その時はそんな簡単なことではないと突っぱねて聞き入れなかったというのに。
(どうして、彼の言葉はこんなにも響くのだろう…)
斉藤の言葉は、感情の起伏がなくて冷たく聞こえる。でもその分、その言葉に嘘がないのだとも思える。
英は身体を倒し、仰向けになった。
身体を重ねた余韻がこの部屋には残っている。彼にとっては薬を抜くために仕方ないことだったのかもしれないが、英にとっては違っていた。
でも。
「好き…じゃない…」
彼に持つこの感情が「好き」だとかそういう恋愛感情ではない。彼を自分のものにしたいという激しい感情はなく、即物的に繋がりたいという欲望もない。
ただ、彼にはまた会いたいと思う。
陰間の薫でも、宗三郎でもなく、英として彼に向き合ってみたい。
そう思った。




季節は移ろい、残暑の厳しい夏から心地よい風が吹く季節になった。
夏風邪の流行も収まり、南部の医療所はようやく静けさを取り戻した。患者が少ないというのは仕事が減るということだが、良いことだ。
「おっ、精が出るな!」
今日もやってきた松本は英をみるなり、その大きな口で満足げに笑った。英は南部から借り受けた医療書を読んでいるところだった。
「どうだ、英。わからないことはないか?」
「わからないことは南部先生に聞いているから問題ない」
「俺は幕府御典医だぞ?」
「こんな昼間からふらふらしている御典医よりもよっぽど南部先生の方が信頼できる」
「ははっ!それはそうだな!」
英の嫌味を、松本はいつも笑い飛ばす。そんなやり取りは二人にとって挨拶みたいなものだ。
松本はまじまじと英の顔を覗き込んだ。
「火傷はどうだ?」
「もう痛まないし、大丈夫だよ」
「ふうん…だが包帯をしておいた方がいいんじゃないのか?」
数日前から火傷を覆っていた包帯を取り、生活をしていた。顔の半分にできた火傷はどうしても目立ってしまう。松本は気遣ったが、英は首を横に振った。
「…いいよ、もう。顔を売る商売じゃない」
陰間であったならば価値がない、と吐き捨てられるのかもしれない。でも今の英の生活には火傷があろうとなかろうと意味はない。それにいつまでも包帯で覆えば、過去にあったことを隠し続けているようだと思ったのだ。
「そうか。そうだな」
松本は深くは尋ねず納得してくれた。そしてさっさと話をかえた。
「ところでもう医療書は読み飽きただろう。学問は書物の中にあるわけではない、実践が必要だ。お前さんもいい加減、南部のもとで正式に働いてみたらどうだ?」
「…」
英は手にしていた書物を閉じた。
それは幾度となく松本から言われていたことだった。もともと火傷を負った英は南部の弟子にするということで引き取られた。いつまでも居候しているばかりでは申し訳ないと思うが、それでもまだその一歩を踏み出す決意はつかなかった。
「…どうして医者?」
「ん?」
「新しい生活をするのに、医者である必要なんてないのに…」
「何だ、そんなことを悩んでいたのか?」
南部のもとに身を寄せてからずっと考えていた悩みを、松本は「そんなこと」と笑い飛ばす。英は少しムッとして
「何だよ」
と睨んだが、松本はやはり笑っていた。
「あの時言っただろう?お前の顔は、人を救うための顔だって。お前さんがどれだけ評判のある陰間だったのかは知らねぇが、好かれる顔立ちだったのは間違いねえだろうよ」
「…顔の話はもういいよ。それ以外の理由は?」
「覚えてねえのか…恩返しだ」
「恩返し…」
松本は腕を組み、一息ついて続けた。
「新撰組に借りがあるっていう方が正しいのかもな。…英、お前が思っている以上に新撰組って場所は生きるのが難しい。法度があってな…少しの心の迷いも油断も許されないようにできている。それを崇高なものだとも思うが…たった一度の間違いも許さない、厳しいものだと思う。だから、あの時お前がもし敵方の間者として関わっていたならば、斬られて当然だっただろう」
松本の言葉に、英は実感があった。かつて同じ見世にいた駒吉は長州と新撰組隊士の橋渡しのような役回りを引き受けていた。祇園の火事に乗じて見世を逃げ出し新撰組に捕まったあと、総司は「病死した」と話したが、もちろんそんなことは嘘だと当時の英も思っていた。
「けど、土方と沖田はお前の命を救った。俺だけではなく、あいつらもお前が生きていることに意味があると思ったからだ」
「意味…」
彼らはどんな意味を見出したのだろう。
そして自分はどんな意味を見出すのだろう。
『やり直すことはできる』
英の脳裏に斉藤の言葉が響いた。
「今更隊士になるなんてできねえだろうが、医者という形ならあいつらに関わることができる。あいつらの助けになる…まあ正直、お前の生きる意味が確実に医者だとは思わねえよ。俺だって全知全能の神ってわけじゃねえんだ。お前の命運まではわからねえさ。…ただ、俺はお前が医者に向いてると思った。幕府御典医の俺がそう思ったんだ、自信を持て」
松本の大きな手が、英の肩を叩く。いつもよりも強く叩かれて
「痛いよ」
と文句を言った。
しかし、どこか晴れ晴れとした気持ちがあった。
この道を進んでもいいのかもしれない。
松本だけではなく、総司や土方がそう背中を押してくれているような気がした。
そして
『やり直すことはできる』
と、彼がそう言ったように、この道でやり直すことがいずれ、彼を救うことになるのなら。
(悪くない…)
そう思えたのだ。
「わかったよ」




6
季節はあっという間に通り過ぎ、秋になった。
「器用なもんやなあ」
英が縫合の修練を行う手先をまじまじと見ながら、同じ南部の弟子として医学を学ぶ山崎烝が感嘆の声を上げた。
「器用って…あんただってすいすい縫っているじゃないか」
「俺はもともと針医師の子やからちっさい頃から真似事してたさかい、そこそこできるつもりやったけど…英はん、まだ修行始めて十数日くらいやろ?信じられへんわ」
山崎の心からの賛辞に、英は「そうかな」と恍けた。
新撰組の隊士である山崎は隊の命令で医学を学ぶため、南部の弟子となったらしい。本人も語るように出自が針医師の息子ということもあるが、松本は彼について「素質がある」と語っていた通り、優秀な男だった。
縫合を終えて糸を切る。すると南部がこちらにやってきて、縫合の跡を確認した。
「よろしい。山崎君の言う通り綺麗に縫えている」
「ありがとうございます」
「ただ、もう少し速さが欲しいですね。遅ければ出血多量で死ぬかもしれない」
「はい」
南部は微笑みつつも、目敏く指摘する。柔和な人柄の彼だが、こと医学の指導となると厳しい一面を見せるのだ。彼からは様々なことを学んだ。病人の診察から怪我人の手当て、西洋医学だけではなく漢方についても詳しく、彼がなぜ幕府御典医である松本から認められているのか理解できた。
「英」
一区切りついたところで、加也がやってきた。彼女からは主に薬について学んでいる。才女だと思っていたが、英が思っている以上に知識に長けていて、女の身でありながらよっぽど医者らしい。
「表にあなたの知り合いだって人が来ているわ」
「知り合い…?」
英は首を傾げた。商売柄顔見知りは多いが、この医療所に英がいることを知っている者は少なく、知っている者でも加也が名前を知らないことはない。
(…まさか)
ある予感が過り、南部に「すみません」と断りを入れて外に出る。すると思っていた通り診療所の看板のすぐそばで気怠そうに待つ泥吉の姿があった。
「…泥兄…」
「あの女医者、お前の稽古が終わるまでは待てって煩くてよォ。随分、待たされたぜ」
泥吉は不満そうな顔をしていた。だが相手が誰であろうと物怖じしない加也らしい対応だと英は思った。
「それで、何の用?」
「用ってェほどのことはねェ。ただ別れの挨拶ってやつだなァ」
「別れ?」
「江戸に帰ることにした」
彼の淡々とした返答に、英は驚いた。
「なんで…」
「どうもきな臭ェ奴らと関わっちまったようだ。俺ァ倒幕だ佐幕だァなんて興味がねェって言っても通じなくてよ。それに、このところ嫌な視線も感じる…居心地が悪ィから江戸にでも帰るかってな」
「そう…なんだ」
泥吉の軽い語り口に、英は拍子抜けする。
斉藤は泥吉が倒幕の浪士と関りがあると疑っていたようだが、やはり英が思っていた通り泥吉はそのような男ではない。いつも浮ついていて、日和見で、根無し草な男…それは昔から変わらないのだ。
(斉藤さんが監視していることは、野生の勘で気が付いているのかもしれない…)
そんなことを考えながら英がふっと笑うと、泥吉が「何でィ」と英の顔を覗き込んできた。
かつて恐怖に竦み一生見たくないと思いつつ、記憶に刻まれた顔。つい先日まではそんな彼を数年ぶりに目の前にして身体が強張ってしまっていたのに、今日はそれがなかった。
「今生の別れになるかもしれねェ…一発どうだ?薫」
泥吉の相変わらずな誘い。彼のカサカサに荒れた指先が英の顎に触れそうになる。
「嫌だよ」
そんな彼の手を、英はあっさり叩いた。泥吉は「いて!」と声を上げた。
「泥兄は知らないかもしれないけれど…『薫』は今の俺にとって二つ前の名前だ。そんな古い名前は…もうとっくに忘れた」
『名を変えたことですべて決別できるわけではない。過去はいつまでも付いて回る。だが…やり直すことはできる』
斉藤の言葉が脳裏を過る。
月並みな言葉だと彼は言った。
英もそう思った。
けれど。
(それも悪くないって…思えたんだ)
だから今、泥吉という過去に囚われるわけにはいかない。自分のことを「英」と呼び、見守り、信じてくれている人がいる。――そう思うだけで、随分と強くなれた気がするから。
「『薫』も『宗三郎』も死んだ。いま泥兄の目の前にいる俺は、泥兄の知らない『英』だ」
英は泥吉を前に淀みなく言い切った。ずっと迷ってきたことがこんな簡単なことだったのかと思うほど、清々しい気持ちだった。
何も恐れることはない。
ただ、願われるように生きるべきだと思った。
それを聞いていた泥吉はしばらくポカンと口を開けて呆けていたが、次第に笑い始めた。彼はきっと「綺麗ごとだ」と馬鹿にするのだろう思ったのだが
「お前さん、やっと俺の顔を見たなァ」
と嬉しそうにほほ笑んだ。そんな彼の顔を見るのは、彼に出会ってから初めてのことで今度は英が驚く番だった。
「なに…」
「やめだやめだ。お前はとっくに終いの年だから、すっかり固くなっちまって抱き心地もよくねェだろう。それに俺の知ってる『薫』は今のお前には似ても似つかねェ…なァ。陰間は陰にいなくちゃならねェのに眩しすぎてよ」
「…泥兄」
「お前さんが言いたいのは、そういうことだろう?」
泥吉はそう投げかけると、英に背中を向けて「じゃあな」と言って歩き出す。あまりにもあっさりとした別れ…だがもう二度と彼には会えなくなるだろうと、そう予感した途端、
「待って!」
と英は引き留めていた。
泥吉は少し躊躇いつつ振り返った。
「何でェ、お前さん、俺に会いたくはなかったんだろう?なんで引き留める?」
「一つ…聞いておきたいことがあるから」
「んん?」
「なんで…俺を抱いたの?」
まわしは最後まではしない。
小せんに口酸っぱく言われていたはずなのに、泥吉は薫の最初の相手となった。そしてそのまま泥吉は見世を追われて出て行ってしまい、その理由を聞けないままだった。
すると泥吉は
「何でェ今更そんなことを聞く?『薫』は死んだんだと、お前さんがいま言ったんじゃァねえか」
と笑い飛ばした。確かに彼の言う通り英自ら前言撤回をするような問いかけだ。
でも。
「…これはけじめだから」
いま聞いておかなければずっと心に残り続ける。そしていつか英の歩む道を引っ張る足枷になるのではないかと…英はそう思ったのだ。
すると泥吉は「ふぅん」と言いつつ頭を掻いた。そして言葉を選びつつ、答えた。
「そりゃァお前…可愛かったからに決まっているだろう?」
「…え?」
「見世に売られてきて、事情も分からねェまま健気にしているお前さんがさァ不憫で…可愛くて仕方なかった。それだけさァ」
「泥兄…」
「じゃァな」
泥吉は一瞬バツが悪そうな顔を浮かべつつも笑っていた。そして再び背を向けていつもの間延びした口調のまま去っていく。
飄々とした足取り。少し姿勢の悪い背中。きっと彼は風に吹かれるままにどこかへ飛んで行ってしまう。何処へでも行ってしまう。
だからいつか彼と邂逅するのかもしれない。
でもその時はお互いに何も見なかったふりをするのだろう。
彼の知っている『薫』はもうどこにもいないのだから。
(さようなら…)
さようなら、と告げた相手は泥吉だったのか、過去の自分だったのか…英にはよくわからなかった。
ただただ泥吉の背中が見えなくなるまで見送った。彼の姿が見えなくなると、徐々に心の靄も晴れていくような感覚があった。

「…去ったか…」
すると背後から淡々とした声が聞こえた。それまで気配を消し泥吉を監視していた斉藤だ。
「あんたの仕事は一つ減ったみたいだね」
「ああ。どうやら無駄足だったようだ」
斉藤はため息をつきながらそう言ったが、台詞ほどがっかりしている様子はない。英はにやっと笑って斉藤の顔を見た。
「…で、どうして泥兄を監視していたの?」
「討幕派との関りが疑われる…そう話したはずだが」
「それは聞いた。でも本当は泥兄がそれほど重要な監視対象じゃないって思っていたんでしょう」
「どうしてそう思う?」
「新撰組の三番隊組長自ら監視するほど、泥兄は大物じゃないよ」
「…」
図星をつかれたのか、斉藤は沈黙した。そして彼は腕を組みなおし一息ついて口を開いた。
「本当は、あんたのことを調べていた」
「…へえ?」
「土方副長や沖田さんから事の顛末は聞いたが…正直、俺はあんたが信用できる人間だとは思えなかった。間接的にしか関わっていないからな」
「それで、『直接的に』かかわった感想は?」
英がくすくす笑って問いかけると、斉藤は心底嫌そうな顔をした。先日の晩のことを揶揄していることにはもちろん気が付いているだろう。
「感想など…ない」
「じゃあまだ監視を続けるって?」
「監視対象に気づかれたのだから、終わりに決まっている」
斉藤はその言葉通り、踵を返して去って行こうとする。
「ねえ」
「…何だ」
「また会いに来てよ。監視対象でも何でもいいから」
「なぜ?」
怪訝な顔をする斉藤に、英は微笑んだ。
「借りを返したいだけだ。誰であれ貸しを作るのは性分に合わない…だから、あんたの役に立ちたい」
「何故、俺なんだ?」
「それは…」
英は答えに詰まった。
何故、斉藤なのか。
新撰組には関わりたくないと思いながらも、彼にまた会いたいと願うのは何故なのか――その理由を誰よりもわかっていないのは自分自身だったから。
(ただ…)
「…なんとなく、だよ」
「…」
曖昧なその答えでは彼が納得しないだろうと思った。けれど、その「答えがない」という答えこそ、真実なのだから仕方ない。
(俺はあんたに関わっていたい)
ただ、そう思うだけだ。
「…そうか」
意外なことに、拒むこともなく斉藤は去っていく。その後ろ姿を英は泥吉とは違う気持ちで見送った。
初秋の風が吹く。
落ち葉を攫って行く風が彼の足元にも、そして英の足元にも流れていく。
そこはかとなく。






















そこはかと な・い [6]
( 形 ) [文] ク そこはかとな・し
?所在や理由がはっきりしないが全体的にそう感じられるさま。どこがどうということではない。 「花が−・くにおう」 「 − ・い懐かしさを感ずる」
?どうということはない。とりとめもない。 「 − ・き物語しのびやかにして/堤中納言 このついで」
?際限がない。無限である。 「潮の満ちけるが,−・き藻屑どものゆられよりける中に/平家 2」

そこはかとなく、
最後までお読みいただきましてありがとうございます。英の話…と見せかけて、実は斉藤のお話でも会ったのですが、色々とコメントや拍手をいただきまして嬉しかったです♪お付き合いいただきましてありがとうございます。
今回は英と斉藤の出会い編というか、そういうお話でしたが、まだたぶん続きます。是非とも斉藤の番外編である「徒花〜」と併せて楽しんでいただければ幸いです。

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