そこはかとなく、

格子越しに見上げる空は、いままでと何ら変わらないはずなのに何故だか澄んで見えた。
青く、高く。
晴れ渡った空が眩しくて、目を逸らして俯く。
すると、顔に残った火傷が痛んだ。



これまで静かだった部屋にドカドカと遠慮ない足音が響く。
(また来た)
そう思いつつ、床から体を起こし身構えた。襖が開き、坊主頭が顔を出す。
「何だ、まだそんな辛気臭い顔してやがるのか、英(ハナブサ)」
松本良順。幕府御典医や奥医師なんて崇められる立場である医者だが、暇さえあれば町医者である南部精一の家にやってくるのだ。
「別に辛気臭い顔なんて…」
「火傷も随分良くなったじゃねえか。包帯なしでも外を出歩けそうだ」
松本は英の言葉を遮って、顔の右半分を覆っていた包帯を取り去る。傷の状態を見ながら「良くなった良くなった」と繰り返して口にした。
病は気から、言葉は言霊。西洋医学という先進的なものを学んでいるくせに、彼の口癖はまるで坊主のようだ。彼の処置を受けながら、しかし英は
(別に治らなくてもいい…)
と投げやりな思いを抱えていた。
火傷を負ったのは、己の過ちのせいだ。過去の失恋を引きずって京までやってきて、でもその想いが報われないと気が付いたときに、だったら裏切ってやると討幕派に協力した。そのせいで火事が起き、怪我を負い、自分を大切に思ってくれていた店主が亡くなった。
この火傷はその罪の証だ。己が起こした間違いで失ったものに比べれば小さな傷でしかないだろう。いつまでも残って、戒めのように己を虐め続ければいい。
松本が新しい包帯を巻き終える。
「俺が暇つぶしにくれてやった医学書はどうだ?」
「どうだって…難しくて、頭が痛くなる」
「はは!そりゃそうだな!」
静養を進められた英は、松本から「暇なら読んでみろ」と医学書を数冊渡された。彼曰く入門したばかりの弟子がまず読む本なのだそうだが、医学について何の知識も知見もない英には読めば読むほど眉間に皺が寄ってしまう難しい本だった。
「それで読めたのかい?」
「…まあ、読んだけど…」
「へえ、俺はお前はもっと苦心すると思っていたぜ。てっきり字なんて読めないと思っていたからな」
「字は…教えてもらった」
「ほう?」
松本には陰間だった英に読み書きの教養があることに驚いていた。
『字ぃくらい読める方がいい。陰間が流行らなくなっても、読み書きができれば生きていける』
(そうだ…そう言っていたのは…)
今まで思い起こすこともなかった昔の記憶が脳裏を過る。そして同時に身震いがした。
「どうした?」
目ざとく気が付いた松本に「何でもない」と英は頭を振った。詮索されたくはなかったし、これ以上『あの人』のことを思い出すのは億劫だった。
するとそんな英の意志さえ見透かしたように「まあいい」と松本は話を替えた。
「そういやあ、明日から新撰組の隊士が南部に弟子入りするのは聞いているか?名は山崎という」
「南部先生から聞いてる」
「そうか。もともと針医師の息子だそうだが、俺は素質があると思っている…お前さんも具合がいいなら一緒に南部の講義を受けたらどうだ?」
「…」
松本の誘いに、英は口を閉ざした。
『南部。人手を欲しがっていただろう、弟子にしてやれよ』
『これも何かの縁だ。南部のところで医学を学べ。お前さんが自分を要らねえって言うんなら、俺がもらってやる。お前さんは必要な人間だ』
あの火事の日。もう死ぬしかないと絶望した英は松本の言葉に随分励まされた。必要とされている場所がある…それは真っ暗闇に陥った心の中で唯一の光になった。
けれど、今、英はその光に進むため一歩を躊躇っている。長く床の上で過ごせば、様々な考えが頭を過ってしまうのだ。
「…やっぱり、医者には向いてないと思う…」
南部の家にいると毎日が騒がしい。老若男女、時間を問わずに訪れて病や怪我を診てほしいと懇願する。それを南部は一人ひとり丁寧に対応していた。たとえ深夜の訪問であったとしても苛立つことはなく、病人を励まし薬を与えた。元気になった患者が礼に訪れても「元気になって良かった」と微笑みかけ、決して自分の手柄を口にすることはなかった。
心が広い、の一言では片づけられない。
(そんな存在になれるわけがない…)
医者という仕事を目の当たりにして、自分とは一番遠い存在だと日に日に感じるようになっていた。
「英、お前は…」
俯く英に、何か言いかけたところで、駆け足でこちらに近づく音がして
「良順先生!」
と部屋に飛び込んできた。長い黒髪を一つにまとめた女性…南部の養女である加也だ。もともと父親が医者である彼女はこの数年前に南部の養女として江戸から都にやってきたそうだ。その美しい容姿とは裏腹に、医学の知識に長けどの弟子よりも南部の右腕として働いている。
「どうした?」
「いま、ひどい怪我をされた方がいらっしゃって…義父上はほかの患者様に手いっぱいなのです、力をお貸しください」
「わかった、任せろ」
加也の申し出に、松本は二つ返事で立ち上がる。
「悪いな、英」
「いえ…」
松本は加也とともに部屋を去っていく。
遠くでは騒がしい声が聞こえるが、英の部屋は一気に静まり返った。
英は傍らにある医学書に手を伸ばした。何度も目を通し、内容は頭の中に叩き込まれている。だが知識が入れば入るほど、不安を感じた。
(人を救うなんて…こんなに簡単じゃない…)
本の通りにすればいい…そんな簡単なものではないだろう。松本のように才能があり、南部のように優しく、加也のようにひたむきに向き合わなければならない。
その一歩を踏み出すのが、怖い。
火傷が治った今、床でグズグズしているのは、どうしようもなく身体が重たいせいだ。どこにその一歩を踏み出せばいいのかわからなくて。
(情けない…)
そう思いつつ、別の本に手を伸ばしたその時、遠ざかっていたはずの足音がまた聞こえてきた。顔を出したのは加也だ。
「…何?」
英は加也のことが苦手だった。不愛想で何を考えているのかわからず、その黒い瞳の奥で自分のことを侮蔑しているような気がしていたから。もちろん、それは被害妄想でしかないのだろうが。
「英、あなた手と足は不自由じゃないでしょう?」
「…は?」
「患者が詰めかけているの。猫の手も借りたいような状況で…良順先生があなたを連れて来いって」
「でも…」
「いいから、着替えてすぐに来て」
有無を言わせず加也は言い放ち、そのまま忙しなく戻っていく。遠慮のない物言いはどちらかと言えば南部よりも、松本譲りのようで拒む暇を与えない。
「はあ…」
英は溜息をついて、仕方なく床から出た。



加也が言っていた通り、診療所は外まで人が溢れていた。終わりかけの夏の季節に夏風邪が流行していたため子供から老人まで多くの病人が詰めかける。それとは別に加也が呼びに来た怪我人もいて診療所はいつも以上に忙しない。
「おう、来たか、英」
「松本先生、俺は…」
「いいから、とりあえずあっちの怪我人見てやれ。浅手だが止血しなけりゃ命に関わる」
止血のための薄手の綿紗を何枚も押し付け、松本はさっさと別の患者のもとに向かってしまう。英はため息をつきつつ、松本の言っていた患者のもとに向かった。
病人ばかりの診療所なのだが、英は周囲の視線を集めた。右半分の顔の火傷は包帯に巻かれているものの、もう半分の男とも女ともわからぬ相貌が目を引くのだろう。
(嫌だな…)
人の多い場所はもともと苦手だった。特にこんな日の当たる場所は居心地が悪い。
(さっさと終わらせよう)
英はそう思いつつ、患者の前に立った。患者の男はボザボザ頭の髭面で目を閉じぐったりとしているせいで、その表情はよくわからない。隣には付き添いの男がいた。
「…あ」
付き添いの顔には見覚えがあった。そして男もまた英の顔を覚えていたのか表情を変えた。
(新撰組の…斉藤)
以前、河上が英のもとに通っていた頃に彼を捕縛するために沖田とともに彼がやってきたことがあった。鋭利な目つきで英を睨みつけた表情を覚えている。決して邂逅を喜び世間話をするような仲ではない。
「…止血します」
英は怪我をしている男の左腕を強く押した。綿紗に血が滲むがそのうち止まるはずだ。
斉藤は我関せずという雰囲気で涼しい顔をしている。
(この男が斬ったのか…)
英がちらりと斉藤を見ると
「酔っ払いの喧嘩の仲裁をしただけだ」
と彼から返答があった。
「別に…何も聞いていないけど」
「そういう顔をしていた」
「…ふうん」
会話は続かず、そのうち男の血が止まる。あとは薬を塗って包帯でも巻けばいい…そんなことを考えていると、患者の男が目を開けた。
するとその男がポツリとつぶやいた。
「…薫…か?」
「!」
それは昔の名前。江戸に置いてきたかつての自分の源氏名。
英ははっとして男の顔を見た。無作法に伸ばした髪の毛や髭面のせいですぐにはわからなかったが、その顔は記憶に奥底にずっと眠り続けていた。
その男が笑うとその目の下に何重もの皺が寄る。
「泥兄…」
その男は、泥吉とあだ名される『兄』だった。

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