そこはかとなく、

彼は昔から背の高い飄々とした男だった。
特に仕事もせず、ふらふらと己が思うままに出歩く。英がいた陰間茶屋に身を寄せたのも、奉公人の賃金が良かったというただそれだけのことで、深い意味はない。そして泥吉(どろきち)という名前はおそらくは本名ではない。本人が面白がってそう名乗っているだけなのだが、誰も本名を詮索しようなんてことは考えなかった。
それが、陰間の世界というものだ。
誰が、どこで生まれようとも関係はない。本当の名前なんて必要ない。そんな世界だったから。
そんな泥吉の顔を見て英は頭が真っ白になり、彼の傷口を抑えていた手が震え諤々と足が不安定に揺れた。彼の顔を見ていると過去に囚われそうになるのに、けれども視線を逸らすことができなかった。
「なんでい、その顔は。花の顔(かんばせ)が台無しじゃねえか?」
「…っ」
飄々とした笑みを浮かべて泥吉は英の包帯を捲った。嫌だと思ったけれど抵抗することはできなかった。
彼は英の火傷を見ると眉間に深い皺を寄せた。
「あー…これじゃあ、客も取れねえな。だからお前、こんなところにいるのか」
「…別に、そういうわけじゃない…」
英はそう答えるのが精いっぱいだ。泥吉は「ふうん」と英を頭の先から足のつま先まで舐めまわすように見た。その下品な視線は昔と変わらない。
そして泥吉のガサツな指先が、英の尻を鷲掴んだ。皮膚に食い込むほど強い。
「い、いたい…泥兄…」
「すっかり固くなってやがる。また仕込みなおさなきゃいけねえなあ…」
獣が餌を見つけたような、欲望を剥き出しにした男の顔。
『嫌だ…もう、嫌だよ、泥兄…』
幼いころの自分の声が蘇る。
すっかり忘れたと思っていたのに、まだ記憶に刻み込まれていた。
(ずっと…死ぬまで、囚われ続けるのか)
その事実に愕然としていると、突然泥吉が「いてっ」と声を上げて英から離れた。隣にいた斉藤が蹴り上げたようだ。
「ここはそういう場所ではない。…怪我の具合が良いなら、出ていけ」
斉藤が低く冷たい声を放ち、泥吉を睨みつける。新撰組の三番隊組長に凄まれては、さすがの泥吉も飄々としてはいられない。「ちっ」と舌打ちすると立ち上がった。
「またな、薫」
「…」
泥吉はそういうと、傷を抑えつつも軽い足取りで医療所を出ていく。その後ろ姿が消えた途端に、英はその場に腰を抜かして座り込んでしまった。
「英、どうしたの?」
「…」
その様子に気が付いて、加也がやってくる。弱気な姿を見られたくはなかったが英は答えることすらできない。沈黙していると代わりに斉藤が答えた。
「まだ具合が良くないのだろう。奥で休ませてやれ」
「え…ええ。英、立てる?」
「…」
加也が肩を貸そうとするが、思った以上に体の力が抜けていた。すると見かねた斉藤が「俺が行こう」と英の腕をとり、強引に立たせた。
「斉藤様、申し訳ございません」
「いつもこちらの先生には世話になっている。…奥の部屋でいいのか?」
「はい、ありがとうございます」
加也は別の患者に呼ばれてしまい、英は斉藤に抱えられて奥に向かった。元居た部屋に戻り、床に横になるとようやく体の震えが収まった。
「…どうも」
自分でも不愛想だと思いながら礼を述べる。しかしそれ以上に不愛想な斉藤は何も答えなかった。
英は片目でまじまじと斉藤を見た。何をも寄せ付けない凛とした表情、高い鼻梁に鋭い眼差し、固く結ばれた唇。色男というよりは己に信念を曲げない頑固さを感じさせる面構えだ。花街では色男だけではなくこういう寡黙な男もモテるはずだが、本人にその気がないのか彼の名を聞いたことはない。
そんな斉藤はすぐに出ていくかと思いきや、その場に腰を下ろした。
「…何?」
「さっきの男。泥吉…と言ったな、何者だ?兄なのか?」
「それ…あんたに何か関係ある?」
泥吉のことを話したくなくて、英はわざと冷たく返答する。だが、斉藤は食い下がった。
「奴は怪しい輩とつるんでいた。新撰組として見逃すことはできない」
「泥兄は政治のことには興味はない。ああいう人で、いつも浮ついていて…だから、ただの酔っ払いだ」
「それを調べるのが俺たちの仕事だ」
「…もう新撰組に関わりたくない」
泥吉について思い出したくないという思いと同時に、もう新撰組という存在に自分が足を踏み入れてはならないのだと感じていた。それがたとえ彼らの役に立つ情報だとしても、一度は新撰組を裏切ったという立場なのだから。
暫く二人は沈黙し、部屋には重たい空気が流れた。
そして斉藤は一息つくと
「また来る」
と口にして立ち上がる。
「もう来なくていい」
英は拒むが、斉藤は聞こえないふりをしてそのまま部屋を去っていった。姿が見えなくなると、すぐに彼の気配も消える。斉藤という男がまるで忽然と居なくなったかのように。
(一体、何なんだ…)
英は嘆息しながら目を閉じた。
すると否応なく、あの頃の記憶が蘇ってきた。


自分の中に眠る記憶は、売られてきたみすぼらしい自分をこなれたように「はいはい」と買い取る江戸にいた頃の見世の亭主と、その隣でニヤニヤとこちらをみる泥吉の顔だ。
田舎から江戸の湯島にやってきたのは十も過ぎた頃だ。それまでは明日の暮らしもおぼつかない貧乏な暮らしをしていたので、江戸の賑やかな街並みにひどく面食らった。
本当の名前は忘れた。
ただ亭主が『薫』と名付けたのは、貧しい暮らしで身なりはボロボロだったが幼いながらも気品と妖艶な顔立ちをしていた自分を見て『売れっ子になる』という予感を覚えたのだという。それが本当のことなのか、それとも後付けの自慢話なのかはわからない。
少なくとも薫には、まさかここで陰間になるという予感などなく、ただの丁稚奉公なのだと思っていた。
「泥、お前、この子の『まわし』やってみるかい?」
亭主がそういうと、泥吉は「いいのかい?」と目を輝かせた。薫は『まわし』の意味が分からず呆けるが悪い予感だけはあった。
「ちょうど席が空いてるし、この子は年も十を超えてる。さっさと一人前になってもらわなきゃ使い物にならねえ」
亭主の乱暴な物言いと見下すような視線に薫は怯えた。しかし泥吉は飄々と「任せろ」と喜んで、早速薫の手を引いて亭主に背を向けた。
亭主から離れられて少しは安堵したものの、見世にはいくつもの部屋があり、化粧をした美しい陰間たちが新入りの薫を連れまわす泥吉を覗いていた。興味本位でまじまじと見ている者や品定めをするような下卑た視線もあった。
「上物じゃァないか」
そのうちの一人がニヤニヤと笑いながら声をかけ、泥吉は「おう」と答える。
「小せん姐さん。うちで一番の別嬪だァ」
泥吉が紹介した『小せん』と呼ばれた陰間はしな垂れたうなじが印象的な美人だった。見世で一番というだけあって貫禄があり煙草を吹かす姿にはまるで浮世絵に描かれそうなものだ。
「声変わりはまだかい?」
「…」
「何だ、口がきけないのかい?」
「…きけ、る」
「へえ、可愛らしい声だ」
薫の返答を聞いて小せんは微笑む。蝋燭の灯に紅が光って、浮世離れした小せんに美しさがさらに映えた。
小せんは泥吉に視線を向けた。
「年季明けで席が空いているんだろう?亭主が早く仕込みたいといっていたが、ひょっとしてお前がまわしをするのかい?」
「そのひょっとしてだ」
「へえ…お前、まわしは初めてだろう?お前さんがここに来ての新入りはいなかったはずだ。…上物だ、傷物にするんじゃないよ」
「わかってらあ」
小せんが釘をさすが、泥吉は本当にわかってるのかわかっていないのか能天気な返答だ。小せんはため息をつきながら
「何か困ったことがあったら言いな」
と微笑みかけた。薫は戸惑いと恐ればかりだったこの場所で初めての優しさを感じた。しかしそれに浸る暇はなく、泥吉は「こっちにきな」と強引に手を引いた。
「お前さん、随分臭いな。まずは風呂にでも入れ」
そういって泥吉は見世の奥にある内風呂へと連れてきた。そして薫の着ていたものを取り去り「こんなボロ、捨てちまえ」と投げた。そして裸になった薫の身体をマジマジと見て、怪しく笑った。
「乳臭いガキだと思ったが、随分色が白いし肌もいい。亭主の見立て通りだなァ」
泥吉は下卑た視線を向け、そしてそのまま自身も衣服を脱いだ。飄々としているのに逞しい体だったが、これから風呂に入るというのになぜか褌だけはそのままだった。
「…あの…」
「何だァ」
「まわし…って……何?」
亭主や泥吉、そして小せんが揃って口にした言葉。薫にはその意味が分からず、しかしその言葉に不穏な意味を感じていた。
すると泥吉がにやっと笑った。
「…これから、教えてやらァ」
そういった彼は内風呂に薫を押し込んだのだった。



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