そこはかとなく、

夏風邪の流行のせいで、南部の医療所はいつも以上に賑やかだった。人手が足りないのもいつものことで、具合が良い時は英も手伝うようになった。しかし英の容姿はたとえ火傷で半分が隠されていたとしても目立つため、もっぱら裏方の薬師である加也の手伝いに徹した。
「和中散が足りないわ」
深いため息をつき、加也が嘆く。ここのところは薬を所望されることが多く、加也も参っていたのだ。
「わちゅうさん…?」
「風邪に効く薬よ。枇杷葉や桂枝、辰砂などが調合されている粉薬…近江の方で作られているの」
「ふうん…」
女性らしからぬ医療の知識を兼ね備えた加也は、忙しい時にも英に医学の知識を植え付けるように詳しく話をしていた。もしかしたら英を医者にしようとしている松本の指示なのかもしれない。
「この薬を飲めば患者は減るわ…英、悪いけど吉岡先生の所から分けてもらってきてくれないかしら」
吉岡、とは近所の町医者だ。南部とは既知の間柄で医療所同士の交流もある。時折、薬を融通しあっているのだ。
「…」
「外に出ることに気が進まないのはわかるけど、いまわたくしが離れるわけにはいかないの。顔を隠したければ尼頭巾をすれば平気よ」
「…わかった」
医療所が忙しいのは重々承知していたし、居候の身で断ることもできない。それに吉岡診療所は目と鼻の先なのだから外出というほどではない。英は言われた通り尼頭巾を被り、裏口から外に出た。
夏の日差しはいつの間にか和らぎ、風が冷たくなっていた。季節が移ろい、過去は時間が経つにつれ、どんどん過去になる。昔を振り返ったところで良いことなんてないし、取り消せるわけでもない。だからすっかり忘れてやり直せばいい…松本はそういう意味で、『英』という名を与え医学の道を歩ませようとしているのだろう。
(でも忘れられるほど、簡単な過去じゃない)
英、という名前で自分に与えられた名前は四つ目になる。
一つ目は親に与えられた名前。それはもう忘れてしまった。
二つ目は陰間になった時に与えられた名前。亭主が売れっ子になるだろうと予感して名付けた名前。
三つ目は都にやってきてからの名前。『宗三郎』という名前はもともとその店にいた陰間の名前だったようでそれを継ぐという意味で名乗った。
そして四つ目。
(英…か)
松本が与えた名前。優れている、秀でている…そんな意味を持つ名前は、自分には少し重たい。そんなたいそうな人間になれるとは思えない。
裏口からこっそりと大通りに出る。人ごみに紛れれば頭巾をかぶった自分を知る人間はいない。…そう思ったのに。
「よう」
「!」
「やっと外に出てきたなァ」
間延びした口調。耳障りな訛り。
「…泥兄…」
「待ちわびたぜェ、薫。…いや、今は英だっけ?」
じりじりと近づいていく泥吉。きっと英が医療所の外に出てくるのを待っていたのだろう。立ち去ってしまえばいいのに、英の身体はいうことを聞かずにそのまま立ちすくんだ。
泥吉のゴツゴツした指先が英の顎に伸び、そのまま無理やり上に向かせるように引き上げた。品定めをするように彼の眼がまじまじと英を見ている。
「英かァ…随分と名前負けしてやがる」
「…ッ」
英の過去を知っている泥吉からすれば、当然の言葉だろう。英は甘んじて受け取った。
「…なに…?」
「ん?」
「泥兄はもう、俺に用なんてないだろう…とっくに縁は切れてる…」
逃れようと顔を背けようとしたが、泥吉は顎をぐっと掴んで離さなかった。
「縁なんて切れようもないさァ。俺とお前は…一生、切れねえ。ガキの時からそう教えただろう…?」
「…!」
泥吉は英の腕を引き、大通りから人目の付かない細い道に入る。日の当たらないジメジメとした陰気な場所には人気がなく、暗い。
「泥兄…!」
「抱かせろよ、あの時みたいに」
「い、嫌だ」
「嫌だって?」
ふん、と泥吉は鼻で笑った。そして頭巾を無理やり取り去って英の後頭部に手を回す。
「小せん姐さん、覚えているだろう?」
「こ…小せん姐さん…」
英が薫として店に出た頃の売れっ子陰間だ。いつも煙草を吹かしていたが、姉御肌で何かと世話を焼いてくれた。
「小せん姐さん、よく言ってたなァ。薫は根っからの陰間だ、男を誑かすために生まれてきたに違いないって」
「…っ!」
「性分っていうのはァ、なかなか消えねえ。お前さんが清楚ぶってお医者の元で働いたって、そのうちその本性がバレる。男を狂わせ、酔わせる…その本性が」
泥吉は後頭部に回した手で、英の髪を引っ張った。
「その証拠に、俺を引き寄せちまった」
泥吉の太い指が、巧みに着物を剥ぎ英の臀部に触れる。直接、肌に触れられ一気に鳥肌が立った。
(この指を…まだ、覚えている…)
見上げた泥吉の顔があの頃の彼と何も変わらなくて、嫌だと思ったのに記憶は過去へと飛んだ。


まわし、とは。
売られてきた子を最初に仕込む役目のことを指す。一日目、二日目、三日目と毎夜毎夜、客を取るための手練手管を身体に教え込む。最初は拒み恐れ続けてきた身体も、次第に慣れて広がり、最後には男で気持ちよくなることを覚える。もっと欲しいと善がり始める――。
「大抵、七日はかかる。でも薫はそうじゃないようだねえ」
小せんはまわしの役目を勤める泥吉に
「思ったよりも腕が良いじゃァないか」
と笑った。泥吉は頭を掻いて「いやァ」とまんざらでもない様子で答えた。
「初日は泣いて喚いて煩かったもんだが、三日も立てば進んで足を開きやがる。棒薬だってほら…この通り、易々飲み込み、美味そうに食うんだ」
「…んあ…ッ」
薫は泥吉に組み敷かれ、大粒の涙を流していた。けれども彼の言う通り身体はその反対に喜び、小せんが見物客のようにニヤニヤと笑いながら見ているというのに恥じらいもなく受け入れ続けていた。
(こんなのは…違う…!)
なけなしの正気で薫はどうにか意識を保つ。自分の身体が自分以外のものに好きにされたとしても、心だけは奪わせまい。
幼いながらにそう誓ったのだ。
けれど何度もその決意は挫けそうになった。
「泥吉、今度は棒薬に山椒を塗り付けるといい」
「…へぇ、山椒かい?」
「ああ。口の中でもピリリと熱くなるが…それを菊座の奥に塗れば、より一層奥が熱くなる。そうしたら薫のちんけな意地も、消え去るだろうよ」
姉御肌として皆に慕われている小せんだが、けれどもそれは陰間としてやってきた薫を憐れむという意味で親切にしてくれるわけではない。新入りが立派な陰間として客を取り、金を落とすように…仕込むのだ。
泥吉は早速、山椒を取りに部屋を出ていった。菊座に棒薬を突っ込まれたままの薫は、荒い息を上げながら今度は一体何が自分の身体に起こるのかと恐怖した。
すると小せんが覗き込むように薫を見た。
「…薫、あんたいまどんな顔をしているのか、わかっているかい?」
「か…お…?」
息をするのが精いっぱいの薫には、小せんの問いかけに返答する言葉は思い浮かばない。すると、小せんは手鏡を薫の前に差し出した。
「…ッ!!」
最初はその顔が、自分のものだとは思えなかった。
蒸気した頬、潤んだ瞳、もの欲しそうに息を吐く唇…幼い薫でさえ自分の姿が、いやらしいと思った。
「幼いくせに、熟れた果実のようだねえ。男だけでなく、女さえ欲情するだろう。きっとあんたはそのうちあたしを超える陰間になる…」
「…い、嫌だ…」
「嫌とかそういう話じゃあないんだ。…諦めな、きっとそういう風に、生まれてきたんだよ」
小せんは微笑み、鏡をしまう。すると階段を駆け上がってくる音が聞こえて、泥吉が飄々とした様子で戻ってきた。
「姐さん、山椒を持ってきたぜ」
「ああ…塗りたくってやんな。そうすれば…諦めが付くだろうよ」
「へいへい」
泥吉は薫の菊座から棒薬を抜くと、楽しそうに山椒を塗り付けた。
(まるで…子供が遊んでいるみたいだ…)
幼い薫でさえそう思うほど、泥吉は興味を剥き出しにした悪戯好きの子供のように見えた。背丈はひょろりと高くて体格も違うけれど、大人には見えない。
そんな泥吉に対して、小せんは釘を刺した。
「いいかい、泥吉。まわしは仕込むが、最後まではしない。それが掟だよ」
それは小せんの口から何度も聴いた言葉だった。
まわしは客を取らせる準備をするだけ。自身の欲望を満たす対象にはしない。それがルールなのだ。それに対して泥吉はやはり飄々と答える。
「わぁかってる」
「んんんぅ!」
何の前触れもなく棒薬が奥に差し込まれ、薫は歯を食いしばって耐えた。小せんが言った通り、山椒が塗り付けられたせいか、燃えるように熱い。
まわしが初めてだという泥吉は興味本位で右左、上下左右…気の向くままに動かす。その自由な動きに翻弄されていく。
(駄目だ、だめだ、ダメだ…)
何にも奪われたくない。
薫は両手で顔を覆った。だが、その指と指の合間から泥吉の顔が見えた。
「ああ…良いなァ」
「…ッ」
愉悦に浸り、自我を忘れた男に見下ろされている。
これから幾度となく、こうして男に、女に、見下されるのだと、薫は悟ったのだった。




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