そこはかとなく、

季節はあっという間に通り過ぎ、秋になった。
「器用なもんやなあ」
英が縫合の修練を行う手先をまじまじと見ながら、同じ南部の弟子として医学を学ぶ山崎烝が感嘆の声を上げた。
「器用って…あんただってすいすい縫っているじゃないか」
「俺はもともと針医師の子やからちっさい頃から真似事してたさかい、そこそこできるつもりやったけど…英はん、まだ修行始めて十数日くらいやろ?信じられへんわ」
山崎の心からの賛辞に、英は「そうかな」と恍けた。
新撰組の隊士である山崎は隊の命令で医学を学ぶため、南部の弟子となったらしい。本人も語るように出自が針医師の息子ということもあるが、松本は彼について「素質がある」と語っていた通り、優秀な男だった。
縫合を終えて糸を切る。すると南部がこちらにやってきて、縫合の跡を確認した。
「よろしい。山崎君の言う通り綺麗に縫えている」
「ありがとうございます」
「ただ、もう少し速さが欲しいですね。遅ければ出血多量で死ぬかもしれない」
「はい」
南部は微笑みつつも、目敏く指摘する。柔和な人柄の彼だが、こと医学の指導となると厳しい一面を見せるのだ。彼からは様々なことを学んだ。病人の診察から怪我人の手当て、西洋医学だけではなく漢方についても詳しく、彼がなぜ幕府御典医である松本から認められているのか理解できた。
「英」
一区切りついたところで、加也がやってきた。彼女からは主に薬について学んでいる。才女だと思っていたが、英が思っている以上に知識に長けていて、女の身でありながらよっぽど医者らしい。
「表にあなたの知り合いだって人が来ているわ」
「知り合い…?」
英は首を傾げた。商売柄顔見知りは多いが、この医療所に英がいることを知っている者は少なく、知っている者でも加也が名前を知らないことはない。
(…まさか)
ある予感が過り、南部に「すみません」と断りを入れて外に出る。すると思っていた通り診療所の看板のすぐそばで気怠そうに待つ泥吉の姿があった。
「…泥兄…」
「あの女医者、お前の稽古が終わるまでは待てって煩くてよォ。随分、待たされたぜ」
泥吉は不満そうな顔をしていた。だが相手が誰であろうと物怖じしない加也らしい対応だと英は思った。
「それで、何の用?」
「用ってェほどのことはねェ。ただ別れの挨拶ってやつだなァ」
「別れ?」
「江戸に帰ることにした」
彼の淡々とした返答に、英は驚いた。
「なんで…」
「どうもきな臭ェ奴らと関わっちまったようだ。俺ァ倒幕だ佐幕だァなんて興味がねェって言っても通じなくてよ。それに、このところ嫌な視線も感じる…居心地が悪ィから江戸にでも帰るかってな」
「そう…なんだ」
泥吉の軽い語り口に、英は拍子抜けする。
斉藤は泥吉が倒幕の浪士と関りがあると疑っていたようだが、やはり英が思っていた通り泥吉はそのような男ではない。いつも浮ついていて、日和見で、根無し草な男…それは昔から変わらないのだ。
(斉藤さんが監視していることは、野生の勘で気が付いているのかもしれない…)
そんなことを考えながら英がふっと笑うと、泥吉が「何でィ」と英の顔を覗き込んできた。
かつて恐怖に竦み一生見たくないと思いつつ、記憶に刻まれた顔。つい先日まではそんな彼を数年ぶりに目の前にして身体が強張ってしまっていたのに、今日はそれがなかった。
「今生の別れになるかもしれねェ…一発どうだ?薫」
泥吉の相変わらずな誘い。彼のカサカサに荒れた指先が英の顎に触れそうになる。
「嫌だよ」
そんな彼の手を、英はあっさり叩いた。泥吉は「いて!」と声を上げた。
「泥兄は知らないかもしれないけれど…『薫』は今の俺にとって二つ前の名前だ。そんな古い名前は…もうとっくに忘れた」
『名を変えたことですべて決別できるわけではない。過去はいつまでも付いて回る。だが…やり直すことはできる』
斉藤の言葉が脳裏を過る。
月並みな言葉だと彼は言った。
英もそう思った。
けれど。
(それも悪くないって…思えたんだ)
だから今、泥吉という過去に囚われるわけにはいかない。自分のことを「英」と呼び、見守り、信じてくれている人がいる。――そう思うだけで、随分と強くなれた気がするから。
「『薫』も『宗三郎』も死んだ。いま泥兄の目の前にいる俺は、泥兄の知らない『英』だ」
英は泥吉を前に淀みなく言い切った。ずっと迷ってきたことがこんな簡単なことだったのかと思うほど、清々しい気持ちだった。
何も恐れることはない。
ただ、願われるように生きるべきだと思った。
それを聞いていた泥吉はしばらくポカンと口を開けて呆けていたが、次第に笑い始めた。彼はきっと「綺麗ごとだ」と馬鹿にするのだろう思ったのだが
「お前さん、やっと俺の顔を見たなァ」
と嬉しそうにほほ笑んだ。そんな彼の顔を見るのは、彼に出会ってから初めてのことで今度は英が驚く番だった。
「なに…」
「やめだやめだ。お前はとっくに終いの年だから、すっかり固くなっちまって抱き心地もよくねェだろう。それに俺の知ってる『薫』は今のお前には似ても似つかねェ…なァ。陰間は陰にいなくちゃならねェのに眩しすぎてよ」
「…泥兄」
「お前さんが言いたいのは、そういうことだろう?」
泥吉はそう投げかけると、英に背中を向けて「じゃあな」と言って歩き出す。あまりにもあっさりとした別れ…だがもう二度と彼には会えなくなるだろうと、そう予感した途端、
「待って!」
と英は引き留めていた。
泥吉は少し躊躇いつつ振り返った。
「何でェ、お前さん、俺に会いたくはなかったんだろう?なんで引き留める?」
「一つ…聞いておきたいことがあるから」
「んん?」
「なんで…俺を抱いたの?」
まわしは最後まではしない。
小せんに口酸っぱく言われていたはずなのに、泥吉は薫の最初の相手となった。そしてそのまま泥吉は見世を追われて出て行ってしまい、その理由を聞けないままだった。
すると泥吉は
「何でェ今更そんなことを聞く?『薫』は死んだんだと、お前さんがいま言ったんじゃァねえか」
と笑い飛ばした。確かに彼の言う通り英自ら前言撤回をするような問いかけだ。
でも。
「…これはけじめだから」
いま聞いておかなければずっと心に残り続ける。そしていつか英の歩む道を引っ張る足枷になるのではないかと…英はそう思ったのだ。
すると泥吉は「ふぅん」と言いつつ頭を掻いた。そして言葉を選びつつ、答えた。
「そりゃァお前…可愛かったからに決まっているだろう?」
「…え?」
「見世に売られてきて、事情も分からねェまま健気にしているお前さんがさァ不憫で…可愛くて仕方なかった。それだけさァ」
「泥兄…」
「じゃァな」
泥吉は一瞬バツが悪そうな顔を浮かべつつも笑っていた。そして再び背を向けていつもの間延びした口調のまま去っていく。
飄々とした足取り。少し姿勢の悪い背中。きっと彼は風に吹かれるままにどこかへ飛んで行ってしまう。何処へでも行ってしまう。
だからいつか彼と邂逅するのかもしれない。
でもその時はお互いに何も見なかったふりをするのだろう。
彼の知っている『薫』はもうどこにもいないのだから。
(さようなら…)
さようなら、と告げた相手は泥吉だったのか、過去の自分だったのか…英にはよくわからなかった。
ただただ泥吉の背中が見えなくなるまで見送った。彼の姿が見えなくなると、徐々に心の靄も晴れていくような感覚があった。

「…去ったか…」
すると背後から淡々とした声が聞こえた。それまで気配を消し泥吉を監視していた斉藤だ。
「あんたの仕事は一つ減ったみたいだね」
「ああ。どうやら無駄足だったようだ」
斉藤はため息をつきながらそう言ったが、台詞ほどがっかりしている様子はない。英はにやっと笑って斉藤の顔を見た。
「…で、どうして泥兄を監視していたの?」
「討幕派との関りが疑われる…そう話したはずだが」
「それは聞いた。でも本当は泥兄がそれほど重要な監視対象じゃないって思っていたんでしょう」
「どうしてそう思う?」
「新撰組の三番隊組長自ら監視するほど、泥兄は大物じゃないよ」
「…」
図星をつかれたのか、斉藤は沈黙した。そして彼は腕を組みなおし一息ついて口を開いた。
「本当は、あんたのことを調べていた」
「…へえ?」
「土方副長や沖田さんから事の顛末は聞いたが…正直、俺はあんたが信用できる人間だとは思えなかった。間接的にしか関わっていないからな」
「それで、『直接的に』かかわった感想は?」
英がくすくす笑って問いかけると、斉藤は心底嫌そうな顔をした。先日の晩のことを揶揄していることにはもちろん気が付いているだろう。
「感想など…ない」
「じゃあまだ監視を続けるって?」
「監視対象に気づかれたのだから、終わりに決まっている」
斉藤はその言葉通り、踵を返して去って行こうとする。
「ねえ」
「…何だ」
「また会いに来てよ。監視対象でも何でもいいから」
「なぜ?」
怪訝な顔をする斉藤に、英は微笑んだ。
「借りを返したいだけだ。誰であれ貸しを作るのは性分に合わない…だから、あんたの役に立ちたい」
「何故、俺なんだ?」
「それは…」
英は答えに詰まった。
何故、斉藤なのか。
新撰組には関わりたくないと思いながらも、彼にまた会いたいと願うのは何故なのか――その理由を誰よりもわかっていないのは自分自身だったから。
(ただ…)
「…なんとなく、だよ」
「…」
曖昧なその答えでは彼が納得しないだろうと思った。けれど、その「答えがない」という答えこそ、真実なのだから仕方ない。
(俺はあんたに関わっていたい)
ただ、そう思うだけだ。
「…そうか」
意外なことに、拒むこともなく斉藤は去っていく。その後ろ姿を英は泥吉とは違う気持ちで見送った。
初秋の風が吹く。
落ち葉を攫って行く風が彼の足元にも、そして英の足元にも流れていく。
そこはかとなく。






















そこはかと な・い [6]
( 形 ) [文] ク そこはかとな・し
?所在や理由がはっきりしないが全体的にそう感じられるさま。どこがどうということではない。 「花が−・くにおう」 「 − ・い懐かしさを感ずる」
?どうということはない。とりとめもない。 「 − ・き物語しのびやかにして/堤中納言 このついで」
?際限がない。無限である。 「潮の満ちけるが,−・き藻屑どものゆられよりける中に/平家 2」

そこはかとなく、
最後までお読みいただきましてありがとうございます。英の話…と見せかけて、実は斉藤のお話でも会ったのですが、色々とコメントや拍手をいただきまして嬉しかったです♪お付き合いいただきましてありがとうございます。
今回は英と斉藤の出会い編というか、そういうお話でしたが、まだたぶん続きます。是非とも斉藤の番外編である「徒花〜」と併せて楽しんでいただければ幸いです。

拍手はこちら