ソラカナタ




真っ暗闇のこの場所では、今が昼か夜かなんてことは全くわからない。
風も通り抜けることなく、同じ空気ばかりが漂う密室には、まるで現実味のない喧騒と、そして自分ともう一人の息遣いだけが響いていた。
「……生きてるか?」
まるで蚊が鳴くような細い声で、もう一人が声をかけてきた。いつも大人びていて冷静で、どこか白けたところもある彼がこんなに弱気な声を出すのは初めて聞いた。
「生きてるよ」
そして答えた己の声も、案外弱気に聞こえて、内心苦笑した。人のことを馬鹿にはできない。
この真っ暗闇の世界に放りこまれて何日経つだろう。先に入っていた自分の元へ、彼がやってきてからどれくらいの時が経った?…その答えもおそらくもう一人の彼も知らない。
目を閉じた。目を開けていても真っ暗闇にいるのだから、閉じている方がいくらか気分がマシだ。
光を閉ざしたはずなのに、しかし瞼には懐かしい眩いほどの思い出が込み上げる。
陽の刺す輝かしい場所を、堂々と胸を張って歩いていた。侮蔑を込めた視線を向けられても、それでも有り余る自信には全く関係なかった。それくらい、自分が新撰組の一員であるということが誇らしかった頃。
仲間と常に命を張る緊張感にいながら、しかしそこはただただ青春を楽しむ若人たちの希望の場所であった。身分を問わず受け入れる、そしてゆくゆくは武士へと取り立てられる。そんなこと、少し前の時代では想像もできなかった。けれど、それが実現する。なんて、素晴らしい場所なのだろうと感嘆した。
その後戦争に巻き込まれ、時代が変わったのだと皆が踊り始めた。
やれ官軍だ、賊軍だと罵られたところで、しかし自分の胸に宿っていた灯はまだ消えることはなかった。
大丈夫だ。
こんなはずはない。こんなことがあってはならない。ようやくたどり着いた夢の居場所は、いつまでもいつまでも自分の居場所であり続ける。仲間が一人死に、一人逃げ出し、一人去って行っても、そう信じ続けていた。
「…相馬」
もう一人の彼の名を呼んだ。暗闇の中でその姿は見えないが、膝を抱えて顔を伏せて嘆いているのだけはわかった。
「せめて、切腹で死なせて欲しいもんだよな」
死を意識したのはこの暗闇に放り込まれてからだ。
流山から局長・近藤勇とともに官軍へ投降した。軍事訓練に出掛けていたため、流山には数人の隊士しか残っていなかった。抗戦するべきだ、いや、ここで切腹するべきだと議論を交わしていると、近藤局長が至極穏やかな表情で
『大丈夫だ、俺が行く』
と断言した。何人もの隊士が引き留めた。盟友の土方副長も必死に懇願した。『それだけはならぬ』と。
しかし多勢の官軍に取り囲まれたその状況を打破する手段をもう持っていなかった。
『近藤さんは駄目だ。俺が行く』
副長が何度も何度も説得を繰り返す。だが、頑なにそれを拒否した近藤局長は最後の最後には言い縋る土方副長を怒鳴りつけた。
『駄目だと言っている!』
その険しい表情には既に覚悟があった。そのことはその場に居た隊士皆が感じていた。
土方副長は苦渋の決断を下した。そして何度も『頼むから死に急ぐような真似はするな』と言いつけて、大久保大和として投降する局長を見送った。
(ここまでは…覚えている)
しかしその後の記憶が曖昧だ。
投降する局長に最後まで同行した。途中で帰れと何度も命令されたが、頑なにそれを拒否した。そしていつの間にか罪人のように囚われて、ここに放り込まれたのだ。
「切腹なら上々だろうな…」
その後近藤局長の助命嘆願書を持ってきた相馬肇も、罪人としてやってきた。近藤局長に面会することも叶わず、命を賭して持参した嘆願書も受け取ってもらえないまま彼の手のひらに握られている。それを彼は離そうとしない。
「俺は役立たずだ…」
いつも相馬はそう言って嘆く。自分を責め続ける。近藤局長を助けに行くという使命を果たせないことを悔やみ続ける。その痛みや悔しさが誰よりもわかる。
どうして、こんなことになった?
「…俺たちは、何かを間違えたのか…?」
そう呟く。すると相馬が
「間違いは…局長を投降させてしまったことだ…」
と憎々しく答えた。しかし「そうじゃない」と返答する。
「俺たちは、俺たちの主君の為に戦ってきた。それはもう三百年も前から変わらないはずなのに…どうして、罪人なんてことになるんだ、おかしいじゃねえかよ…」
死を前にして、相馬は悔やみ悲しみ憎しみを抱く。しかし自分は違った。どうしてここで死ななければならないのか…それがただただ単純にわからないのだ。
「俺たちは何にも間違えてねえよ」
背を向けることも、裏切ることも、逃げ出すこともせずにただただまっすぐに歩き、走り続けてきた。息切れてもまだ先があるはずだと希望ばかりを見出してきた。けれど、この暗闇のなかでたどり着いた先は死だった。それはつまり、どこかで道を間違えたということだ。
だが間違えた覚えなんてない。
間違えたはずはない。
「間違えてねえんだから、胸張って、俺は死ぬよ」
そう言ったのは、相馬への言葉なのか、それとも自分に言い聞かせるためのか、わからない。
わかるのは、傍に居る相馬ほど、自分が落ち込んでいないということだ。
ここで死ぬということに対して全く後悔が無いわけではない。もっと戦いたかった、もっと仲間と一緒に居たかった…そう願う気持ちはある。しかし己の誇りを守って死ぬのなら、案外悪くない気がしてしまうのだ。
「…馬鹿だ」
「それはお前が良く知っているだろう」
長年新撰組として、仲間として、戦友として共に過ごしてきた。一番の親友だとお互いに思っている。だからこそ知っているはずだ。こんな時こそふてぶてしく笑うのが、野村利三郎だということを。
「ああ、良く知っている。お前はいつも前向きだ」
「そしてお前は後ろ向き」
「良い組み合わせだ」
相馬が苦笑するのに合わせて、口元が緩んだ。しかし相馬は「だが」と言葉を重くする。
「俺は…死ねない。近藤局長を助けるまで、そして…土方副長のもとへ戻るまで」
正反対の後ろ向きな性格のくせに、土壇場になると意地を張る。そんな彼のことはよく知っていた。
「そんなのは…当たり前だろう」
「何を話している」
決意を新たにしたところで、重々しい扉が開かれ、真っ暗闇の牢に眩しすぎる光が差した。あまりの光の強さに目が眩み、手のひらで遮った。
やがて視界がはっきりしてくると、そこには憎々しい敵の姿があった。似合わない洋風の服なんかに身を包み、偉そうにふんぞり返る。
相馬は酷く強いまなざしで睨み付けていた。傍に居るだけで殺気が伝わってくる。
しかしそんな姿を嘲笑うようにして、男が牢の目の前に立つ。
「歯向かうなら歯向かいたまえ。せっかく助かる命を無駄にしたいならな」
「…助かる?」
男の言葉に、驚いた。今まで馬鹿にした暴言しか吐いていなかったこの看守が、そんなことを言うとは思わなかった。
そしてそれは相馬も同じだったようだ。
「冗談にもほどがあるだろう」
「ふん。情けを有難く受け取ることもできない輩だな」
男は上着から、鍵を取り出した。そして雁字搦めになった牢の鎖を解いていく。そこで、彼が言っていることが本当なのだと悟る。
(まさかこんなことが…)
現実にあるとは思わなかった。生きたいと願っていたけれど、一方で助かる道など既に絶たれたのだと疑わなかった。だから、素直に嬉しいと思った。
しかし、親友はそうではなかった。
唖然と、呆然としているかと思いきや、だんだんとその顔を歪めた。そしてわなわなと身体中が震え始めた。
そしてようやく牢の扉が開いたところで、その唇で看守に問うた。
「…大久保…先生は…」
大久保…近藤局長。
疑いが晴れたのなら、そうだ、助かるなら、局長も一緒のはずだ。
戻れる。皆で新撰組に戻れる。この真っ暗闇の世界から、抜け出して、また光の道を歩むことができる。
ああ、でも何故だ。
何故、心臓の鼓動が、音を立てて、早くなってしまうのだ。
男はその口元をにやりと緩めた。そしてその一言で、また真っ暗闇の悪夢へと引き戻すのだ。
「斬首になった」








いつもの居酒屋、いつもの看板娘、何となく仲良くなった常連客。そして時間になると迎えに来る親友。
「野村っ!」
仁王立ちで、まるで般若の様に険しい顔をした相馬が店の出口に立っていた。野村は「よう」と軽い挨拶をする。
「お前も飲みに来たのか?」
「そんなわけないだろう!もうすぐ門限だ、帰るぞ!」
相馬は暇さえあれば飲みに出かける野村を、こうやっていつも探しにやってくる。入隊した時期が同じで、配属された組下も同じ。いつからか覚えていないくらい、いつの間にか仲良くなっていた。しかし、その性格は真反対だと揶揄された。楽天家で自由気ままな日々を過ごす野村と生真面目で堅物の相馬。何故二人がそんなに仲が良いのか、と不思議がられたこともある。
「あー…もう、そんな時間かあ…」
確かに日も暮れてきた。しかしまだ名残惜しいと席を立つ気配を見せない野村を見かねて、相馬がその腕を引いた。無理矢理立たされバランスを崩すと、相馬が「ほら」と肩を貸してくれる。
「悪いなあ」
「そう思っているなら改めろ!いつか切腹になるぞ!」
相馬は眉間のしわを深くした。そして店主を呼びつけて「勘定!」と言って懐から小銭を取り出し支払いを終えた。
店を出ると、相馬の説教が始まる。「お前はいつもそうやって」という文言から始まる説教を聞くのは何度目になることか。長く終りの見えない説法を、しかし不思議と口うるさいと思うことはなかった。誰かが自分を心配してくれるというのは案外心地よいものだ。
「はいはい、わかぁったよ」
相馬の肩から離れて、野村は千鳥足で歩く。相馬は呆れたように息を吐いた。そして最後の台詞を吐く。
「お前、ちゃんとしろよ」
と。
そしてそう言うと、彼はもう文句は言わないということを野村は知っていた。彼は説教をしても、くどくないのだ。だからこそ、こうして飲み歩きを繰り返してしまうのだが。
「俺はちゃんとしている。相馬、お前がちゃんとし過ぎなんだよ」
「ちゃんとし過ぎってなんだよ」
「酒もやらない、女にも興味ない、興味があるのは剣だけなんて、若人のくせに落ち着きすぎだ」
真面目一辺倒な相馬を、野村がからかうと、少しだけ拗ねたように口をすぼませて「ほっておけ」と言った。ぐうの音も出ないようだ。
言い返さないことに味を占めた野村は、酔ったふりをして相馬に凭れかかった。
「なあ、本当に興味ねえの?女とか出世とか。あ、もしかして組頭以上になると別邸が持てるのを狙ってんのか?」
「そんなわけないだろう」
野村が肩に回した腕を、相馬が振り払う。固く引き結んだ表情から察するに特に嘘を付いている様子はない。真面目というよりも堅物だ、と野村は思った。
「いいから、お前はちゃんとしろ」
相馬がそう言って話を締めくくったので、野村は「はいはい」とそれ以上は聞かなかった。
夕暮れが迫る。橙と黒と赤のコントラスト。果て無く続く空の向こうにはきっと幸運が待っているのだと信じていた。


牢を追い出され行く当てもなく、ただ無気力に二人で歩いた。もう何里歩いただろうか。何も話さず、うつむいたまま、目的もなくただただ足を動かした。眩しかった昼の光が夕闇に変わり、そして再び訪れた夜の闇と月の光に包まれたころ、相馬が突然、その足を止めた。
「…相馬」
野村は乾ききった口をどうにか動かして、彼の名前を呼んだ。かすれた声だった。
彼が立ち止まった事を責めるつもりはない。本当は、ずっと立ち止まっていたかったのは自分も同じなのだ。
「俺は…本当に、役立たずだ」
真っ暗闇の牢の中で繰り返していた文言を、相馬は外の世界に出ても繰り返す。淡い月の光の元でさえも、彼が青ざめていることがわかった。
…結局はまだ自分たちは牢の中にいるのと同じなのだ。野村はそう思った。
「土方副長から近藤局長の助命嘆願を任されていながら…何もできなかった。勝先生の助命嘆願書を届けることさえできないなんて…近藤局長にも土方副長にも…申し訳がない…!」
「相馬…」
「俺は役立たずだ!俺のせいで…俺が、もっと、上手く…くそ、俺のせいだ…!!」
届かなかった嘆願書を握りしめて、相馬が嘆いた。膝を折って地面に座り込み、堰を切ったかのように涙を流して嗚咽した。
近藤局長が斬首されたのだと聞かされた時、まったく現実味のない話にしばらく二人で呆然とした。
看守が面倒そうに語った話によると、土方副長との約束を守り、近藤局長は自分を「大久保大和だ」と言い張り続けた。酷い取り調べを受けても頑なにそう言い張る局長に官軍が手を焼いていると、不運な出来事があった。近藤局長の顔を知っている薩摩藩士が「近藤勇である」と証言したのだ。すると近藤局長は「そうだ」とあっさりと自分が新撰組局長であると認めたのだという。今までの頑なさが嘘だったかのように、憑き物が落ちたような穏やかな表情ですべてを受け入れたらしい。
しかしそうして近藤局長の正体がばれたとなれば、つき従っていた野村も助命嘆願に来た相馬も新撰組だということになった。そのため、二人は近藤と同じ斬首になる予定だった。新撰組への恨みは切腹という手段を選ばせてもらえないほどに激しかったのだ。
ところが、近藤が二人の命の保証を嘆願した。
そうして、近藤局長の斬首が行われたのちに、解放されたのだということを知った。
「…今ここで、死んで詫びるか?」
野村は嘆き悲しむ相馬に問うた。すると相馬は嗚咽を止めた。
「の、野村…」
「お前がそうするっていうんなら…俺もそうする。近藤局長を助けられたなかったのは俺だって同じだからな」
…不思議と、野村は相馬の様に涙は流れなかった。悔しさや悲しさや無力感は同じようにある。泣きだして、悔しいのだと叫んでしまいたいほどにその重さは圧し掛かっていた。けれど相馬の様に過去を嘆いて悲嘆にくれる性格ではなかったのだ。
常に前を向く。これだけが自分の取り柄だとまだ信じていた。
「けれど、俺はまだ生きたい。まだやることがある」
「やること…」
頬に涙を伝わせた相馬が、見上げるように野村の顔を見た。月明かりの頼りなさではお互いの輪郭を確かめ合うのが精いっぱいだが、しかしそれでも彼の決意はひしひしと伝わった。
「これを…届けなきゃならねえ」
野村は懐から一枚の紙を取り出した。牢から出るときに、看守から渡されたものだ。
「それは…」
「近藤局長の辞世だ」
四つ折りになった懐紙を、野村は開いていなかった。内容はわからないが、きっとこれは辞世の句であり、最期の言葉であり…そして副長への手紙である気がしたからだ。
座り込んだ相馬の前で、野村は膝をついた。そしてその落胆した肩に手を置いた。
「…相馬。真面目なお前が、自分を許せないのはわかる。けれど…死ぬのはこれを土方副長に届けてからにしようぜ。処断は、副長次第だ」
自分たちが申し訳ない、と捨て去りたいほどの命は、同時に近藤局長が助けてくれた命でもある。
そう思えばこそ、今は死ぬわけにはいかない、今は前を向いて歩き始めなければならないと強く感じるのだ。
そう、近藤局長に背中を押されているかのように。
野村は座り込んだ相馬に、手を差し出した。
「相馬、ちゃんと、しようぜ」
いつも繰り返して言われてきたことを、今度は相馬へ返す。
唖然と野村とその掌を見つめていた相馬だが、次第に苦笑した。
「…いつもと逆だな」
居酒屋で飲み潰れた野村を、こうして手を差し伸べて助けてくれていたのは相馬だった。いつだって引き上げてくれるのは相馬だったのに。しかし今は、野村の手に相馬の手が重なる。 お互いに手を引いて立ち上がった。
「野村」
「何だよ」
「俺は、たぶん役立たずにおわったことは、一生悔いて、恥じて…傷になって膿みつづけるのだと思う」
相馬の表情は歪んだままだ。しかし、もうその瞳はもう涙に濡れてはいない。
「けれど、俺は俺の義を果たすためにもう少しだけ生きる。土方副長の前で切腹してお詫びするのが道理だ」
「…死ぬことは、決まってんのかよ」
相馬は重々しく頷いた。とんだ堅物だ、と野村は呆れる。しかしその一方で、彼の決意が固いことがうかがえた。
近藤局長に寄り添い牢に入れられた野村と違って、相馬は救出を命じられて果たせなかったのだ。牢の中でずっと握りしめていた嘆願書は彼の無力の証でもある。そんな彼を慰めることは、自分にはできないのだと野村は悟った。
「…わかったよ。取りあえずは、歩こうぜ」
「…ああ」
二人は歩幅をそろえて歩き出す。
月明かりの下を、道なき道をを歩く。その先がどこへつながるのかも知れず。











「野村!」
不動堂村に新しくできた屯所のなかを、相馬は駆けまわっていた。平隊士の部屋から、厠、幹部たちの個室…隅々まで親友の姿を探し回る。息も切れそうなほど広い室内を、一周したところで、先輩にあたる島田魁に出会った。
島田は相馬の姿を見るなり、苦笑した。
「また探しているのか?」
相馬も背丈がある方だが、島田には及ばない。新撰組結成当時から在籍しているという大先輩は、巨漢の見た目から最初は新入隊士から恐れられていたものだが、話してみると気さくで頼りがいのある人物で、隊士からは兄貴分として慕われている。
「あいつ、そろそろ仕事の時間だっていうのに部屋に戻ってこなくて…」
「放っておけばそのうち帰ってくるだろう」
「…それは、そうですけど…」
相馬は口ごもった。どこか放浪癖のある野村は、もちろん今まで仕事をさぼったことなどない。しかし相馬からすればいつも足元がふらついているように見えて、見ていてハラハラしてしまうのだ。だからこうして仕事前は、野村の姿を確認することから始めている。
「損な性分だな」
島田はくすりと笑った。そしてある方向を指さす。
「いまは道場で稽古をしていた」
「え?本当ですか!」
稽古の日でもないのだから、まさか道場にいるはずない、と相馬は高をくくっていたのだが、それが外れたようだ。相馬は胸をなでおろしたのだが、
「ああ、沖田先生と」
という島田の言葉に、少しだけ顔を歪めた。
「…沖田先生ですか…」
新撰組結成に関わり、隊内随一の剣豪として名高い沖田総司は、このほど労咳を病み床に伏していた。隊を脱退させると思いきや、近藤局長ら幹部らが静養を進め屯所の一角で過ごしている。復帰を望んでいる者は多いが、以前に比べて細くなった身体と青白い顔色を見る限り、それは難しそうだ。
野村は元々、沖田の組下として働いていた。自由奔放な野村を、穏やかで少し幼いところもある沖田は可愛がっていた。なので、今でも体調が良いときは時折、野村に稽古をつけていることがあるのだ。
「何だ、変な顔をして」
島田に眉間に皺を寄せていたことを指摘されて、相馬は曖昧に頷く。
「いえ…その、私は沖田組長を見ていると…胸が痛むのです」
野村と親友である相馬も沖田に可愛がられていた。時には三人で稽古をしたり、出かけたこともあるのだ。しかし、沖田が胸を病んでからは相馬は少しだけ沖田と距離をとっていた。それは決して伝染すると言われている労咳を避けてのことではない。ただ、これまで剣に生き、先頭に立って新撰組を盛り立ててきた沖田が、血を吐き病に蝕まれる姿を見ていると、悲しくて仕方ないのだ。
(同情…ともいえる)
そんな立場ではないと分かっているけれど、彼を見ていると可哀そうだという感情が溢れてしまう。しかしそれを機敏な沖田は察するであろう。そう思われたくないと必死に繕っている沖田に気づかれるのは、もっと傷つけそうで怖いのだ。
すると、島田はその大きな手を相馬の肩に置いた。
「真面目だな、相馬は」
それは良く言われる、揶揄にも似た褒め言葉だ。相馬は「いえ…」と小さく否定した。
「…一緒に迎えに行こうか。俺も、そろそろ沖田先生を迎えに行こうと思っていたんだ」
島田は「そろそろお薬の時間だからな」と付け足して、相馬を道場へと誘った。先に歩き出した島田を見て、相馬は少し躊躇いつつも、同じく道場へ向かった。

道場は沖田と野村二人しかいなかった。竹刀が重なる音だけが響く道場へ、島田と相馬がやってきたが、二人は気が付く様子はなく試合形式の打ち込みを続けていた。
素早い足取りに、正確な剣捌き。まるで病人には見えない沖田の動きは流石としか言いようがない。全く衰えが無いのだ。
「……」
しかし、相馬は少しだけ視線を落とす。どうしても身体に鞭を打って稽古をしているようにしか見えないのだ。沖田が剣を振ると、それだけで命を縮めているような気がしてみていられなくなる。そしてそれを相手する野村がどうしてそんなことができるのか、理解ができない。
「相変わらず、集中されると何も見えなくなる」
島田はくすりと笑った。相馬と反比例して、沖田が動き回る姿を見ると嬉しそうだ。
「…何故でしょうか」
「うん?」
「何故、土方副長は…沖田先生を、脱退させないのでしょう」
相馬の質問に、島田は少しだけその顔色を悪くした。しかしすぐに取り繕う様に苦笑して、
「それは沖田先生が新撰組にとって無くてはならない存在だからだろう」
と答える。だが、相馬は「それはもちろんですが」と食い下がった。
「沖田先生は、土方副長にとって…その、唯一無二の存在だということは、皆知っていることです。だったら、せめてこんな屯所みたいな騒がしい場所ではなく、静かに静養できる場所に移してしっかりご自愛頂くのが良いのではないかと思うのです」
新撰組が好きで、剣が好きな沖田にとって、身体が自由に動かず、目の前で仕事に励む隊士たちを見ることは逆に苦痛になるだろう。復帰を焦ることで、身体に害があってもおかしくない。逆に、病に伏せる沖田を見て隊士たちも気落ちするだろう。しかし、土方はそれでも沖田を傍に置く。敢えて命を縮めてしまうような選択をした。
「私なら…大切な人をこんな戦場に置くような真似はしたくないと思うのです」
大切な人だからこそ、守りたいと願う。だから土方副長が選んだその選択は、間違っているような気がしてならないのだ。
相馬がそう続けると、島田は頭を掻いて困った顔をした。
「…俺にはよくわからない。土方副長が何を意図しているのか、そして、お前が言っていることが正しいのか…わからない」
「そう、ですよね…」
「ただ」
島田は迷いなく、まっすぐ相馬の目を見た。
「土方副長にとって、沖田先生は半身みたいなものなんだと俺は思っている」
「半身…?」
「自分の身体の半分だ。だから、切り離せないし、無くては生きていけない。あの人たちはきっとそれを口にしなくても互いに理解しあっているのだろう」
相馬の目を見ていた島田が、今度は沖田と野村の打ち合いに視線を戻す。相馬もそれにつられて沖田の姿を見た。
病を感じさせない軽々とした動きは、本人の性格が滲み出ているのだと、前に永倉新八が言っていた。飄々としていて何にも縛られない天真爛漫な剣は、だからこそ素直に実直に放たれる。柔軟な技の繰り出しは、誰にも真似することはできない。
(…半身か…)
二人は別々ではなく一つなのだ。だからこそ傍に居るのは当たり前なのだ。
相馬は島田の言い分に、納得はできなかったものの、少しだけ理解した。冷徹な鬼だと罵られる土方副長の弱さが、この選択を許したのだと言うことを。
そして、今度は野村へと視線を移した。野村の剣は、少しだけ沖田に似ている。流派に縛られない自由な動きが、飄々としている。生真面目すぎると揶揄される自分とは違う。
「羨ましいのか…」
相馬は無意識に呟いた。誰が羨ましいのかは、良くわからなかった。



「相馬」
野村の声で、相馬ははっと目を覚ました。うとうととしていた自覚はあったが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「…悪い、どうした」
牢から抜け出し、数日後、江戸近くの宿場町までやってきた。既に官軍に占領されつつあり、野村と相馬は身を隠しつつ物乞いに身を窶して忍び、その一方で新撰組がどこへ向かったのか情報を集めていた。
「見覚えのある姿を見たんだ」
今日は朝から橋の袂で身を潜めているのだが、野村はある方向を指さした。相馬は目を凝らしてその先を見る。川沿いには人々が行き交い、野村が誰を指さしているのかわからない。相馬が首を傾げると野村は相馬の耳元で
「斉藤先生だ」
と囁いた。相馬は「え?」と思わず野村を見るが、その顔は確信を持っていた。なのでもう一度指さしていた方向を見る。
すると町人体の男が木に背を置いて腕を組んだ姿で立っていた。着物は普段の見間違いかもしれないが、確かに背格好や顔つきが、新撰組三番隊組長、斉藤一に良く似ていた。
「…確かに、似ている」
「だろう?ちょっと行ってみようと思うんだ」
「待て。人違いかもしれない」
興奮しやすい野村を相馬が引き留めた。背格好や顔が良く似ている人など世の中には何人もいる。そんなに都合よく出会えるはずもない。大体、斉藤は流山から土方とともに逃れているはずだ。こんなところで立往生をしているわけがない。
相馬はもう一度目を凝らした。すると町人体の男と目があった。
(…こちらを見ている)
鋭い眼光は確かに斉藤のそれに間違いない。相馬がそれを感じていると、その男は何故かある方向を指さした。
「…橋の、反対側か」
野村がそう言うと、男は通じたかのように頷いてそしてその場所から歩き出す。指さした方向へと向かった。
「相馬、行ってみよう」
「…ああ」
不確かではあるが、ここでじっとしていても仕方ない。二人は足早にその男の後を追った。

「無事で何よりだな」
橋の反対側、人気がない民家の一部屋で男…斉藤はあっさりとその正体を明かした。すでに廃墟となっているのか民家には人の気配がない。野村と相馬はひとまず安堵した。
「斉藤先生はここでなにを…土方副長とご一緒ではないのですか」
相馬が訊ねると、斉藤は少し間をおいて
「…土方副長は新撰組を率いて会津へ向かっている。おそらく戦になるだろうからな…。俺は密命で京都へ向かっている」
「京都?」
思ってもいない答えに野村は声を上げた。戦線は東から北上している。京都へ向かうのは逆行するようなものだ。しかし、斉藤はそれ以上は答えずに
「お前たちは何をしている」
と逆に問うた。そう、本来であれば近藤局長の警護に付き従っていなければおかしい。相馬は口ごもったが、野村は即答した。
「俺たちは土方副長を追うつもりです。近藤局長を助けられなかったことを、ご報告に向かいます」
都に居た時から土方副長の腹心の部下として信頼を置かれていた斉藤は、勘が鋭く頭が良い。相馬や野村がたった二人で行動しているということですべてを理解したはずだ。だとしたら隠す必要はない。
相馬はその場で膝を折った。
「申し訳ございません…!」
斉藤の足元で頭を下げる。そして隣に居た野村も同様のことをした。しかし、斉藤はすぐに自身の膝をついて「頭を上げろ」と言った。
「知っている」
相馬と野村は驚いて顔を上げた。斉藤は特に顔色を変えることはなかった。
「もうその噂は江戸で広まっている。俺はだからこそ、京に向かう」
「…なぜ…」
「近藤局長の首が、京で晒されると聞いた」
斉藤のもたらした情報に、相馬は身体中の力が抜けるのを感じた。
近藤局長が斬首になったことは知っていた。けれど、それがまさかあの栄光の場所で晒されるなど…屈辱以上の何ものでもない。新撰組として過ごした数年を甚振られて、汚される。それは斬首になってしまった以上に、相馬を青ざめさせた。
指先の感覚が無くなり、手足が震える。吐き気がする。
(死んでも…お詫びできない…!)
生きていることが、恥ずかしいとさえ…
「相馬」
肩に手が触れて、相馬はびくっと反応した。優しいその声色は親友以外の何ものでもなく、そして何故か一番心を落ち着かすことができる音色でもある。
「…斉藤先生は、まさか…」
野村が訊ねると、斉藤は「ああ」と返答した。
「俺は近藤局長の首を取り返しに行く。これ以上、奴らの思う通りにはさせない」
沖田よりも上を行くと言われていた斉藤は、どこか無気力で無関心なところがあった。しかし、今はその瞳に力強い決意を秘めていた。
相馬は斉藤の手を取った。そして自分でもどうかしていると思うくらいに、強く握りしめた。
「斉藤先生…!お願いします、どうか…!どうか、取り戻してください…!」
恰好が悪いと思いつつも、相馬は斉藤に縋った。請うことしか、自分にはできなかったのだ。
斉藤は嫌がる様子はなく、
「相馬、任せておけ。そして自分を責めるな」
と穏やかに、強く答えた。斉藤の慰めに、相馬は安易に頷くことはできない。自分を許せるのは自分自身であり、土方副長のみなのだ。しかし、斉藤の言葉は手足の震えを止めるほどの勇気に繋がったのだった。







ようやく相馬が落ち着きを取り戻した頃には、斉藤が「そろそろ行く」と再び手拭いを頭巾の様にして巻いた。鋭い眼光が隠れて、町人の中に紛れやすくなる。
「土方副長は会津いらっしゃるんですよね…?」
野村が訊ねると斉藤は少し黙り込んだ後に
「お前たちは会津にはいかない方が良い」
と思わぬことを言ったため、野村と相馬は顔を見合わせて驚いた。
「どうしてですか。俺たちは土方副長にご報告しなければ…」
「今の状態から江戸を脱し、単独で会津に行くのは難しい。…上野に立て籠もっている彰義隊という部隊がある。そこに加わり行動を共にした方が良い。確か原田さんも加わっているはずだ」
「原田先生が!」
その名前に野村は歓喜した。鳥羽伏見の戦い以降に袂を分かち、永倉新八とともに新撰組を離れた原田左之助。沖田と同じく、野村は原田にも可愛がられ、その別れの際には「お前も来い」と酷く別れを惜しむほどの仲であった。
「…わかりました。彰義隊に加わり、どうにかして新撰組と合流できる機会を待ちます」
相馬は焦る気持ちを抑えて、斉藤の指示に従うことにした。一か月ほど牢に入れられたままの二人には何の情報も伝手もない。そんな道に迷うなかで、斉藤に出会えた奇跡はおそらく何かを暗示しているはずだ。そう言い聞かせる。
すると斉藤が
「ここまで来たのなら、千駄ヶ谷へ寄っていけ」
とさらに二人を導いた。
「千駄ヶ谷…?」
「植木屋の平五郎という家に、沖田が匿われている」
その名前に相馬は喉を鳴らした。また、原田との再会に沸いた野村も、その顔色は冴えなかった。
沖田は鳥羽伏見の戦いの後、具合を悪くして戦線を離脱した。とても立っていられる状態ではなく、良くここまで来たと医者を驚かせるほどに重症であった。誰が見てももうその命が長くないことがうかがえた。その沖田は離脱際に
「近藤先生は何があってもお守りしてください」
と何度も何度も隊士たちに懇願した。今まで一番近くで近藤局長を守ってきたのに、重要な時に離脱しなければならないという彼の無念さが伝わって、隊士たちは皆、何ともいえない悲痛さを味わった。
(だが…俺が、その約束を破ってしまった)
相馬の胸がドクンと跳ねて、また込み上げる吐き気に気持ち悪さと痛みを感じた。
守れなかった自分が、いったいどの面を下げて、沖田に会えるというのか…。
己を甚振るように問いかけるが、また痛みしか生まれない。
「相馬」
名を呼ばれ、野村の手のひらが、また肩に触れた。何故だろうか、牢を出てからそれだけの仕草で酷く心が落ち着く。まるで悲しみを、悔しさを、痛みを分かち合ってくれるかのように感じる。
「もう沖田は長くはない」
斉藤は一切の感情を見せずに、きっぱりとそう言った。わかっていたことを、しかし他人に口から聞くと一層現実味があった。
「会って行ってやれ」
「……はい」
答えに詰まり、返事ができなかった相馬の代わりに、野村が答える。すると斉藤は頷き返して、二人に背中を向けた。
「また会おう」
振り向きもせずにそう言うと、斉藤は去って行った。


斉藤の導きのままに、二人はどうにか千駄ヶ谷へやってきた。相馬としては気がすすまない気持ちももちろんあったが、あっておけばよかったと後悔するのは嫌だ、と己を奮い立たせた。道程、官軍の目は厳しく、何度も身の危険を感じたがどうにかたどり着くことができた。
「植木屋…か」
物陰に隠れて周りを窺う。土地勘の全くない二人には、どこがどの道に繋がっているのか、さっぱりわからない。ましてや『植木屋平五郎』なんて思い当たる場所もない。
「誰かに訊ねたほうがいいのか?」
「そうだが…」
相馬は迷う。訊ねる相手によってはリスクを伴う。ここでつかまってしまえば、本来の目的さえ果たせないのだ。しかし、せっかちな野村は待ちきれないようで
「こんな場所で屯っているほうがよっぽど怪しいだろ」
と、勝手に判断して道に飛び出した。「おい」と相馬は止めようとしたが、既に遅く、野村は若い娘に声をかけていた。
「娘さん。ちょっとお尋ねしてもいいかい」
できるだけ警戒されないように、と野村は明るく振る舞うが、声を掛けられた娘は警戒して少し後ずさった。まだ二十歳にもならない、少女のようなあどけなさがある娘だ。野村がどれだけ繕っても、官軍と賊軍が入り乱れ、治安の悪くなった江戸城下ではとても警戒心を解くことはできないだろう。
(大声でも出されたら拙い…)
不安げに見守る相馬とは裏腹に、野村は笑顔を崩さずに
「道を聞きたいんだ。植木屋平五郎っていう…」
家は知っているかい?と訊ねようとしたのだろうが、それは最後までつながらなかった。若い娘が「はっ」と何かに気が付いたようにして驚くと、咄嗟に野村の手を取ったのだ。
「え?ちょっ…」
予想もできない展開に驚く野村は、娘に手を引かれるままに歩き出す。
「野村…!」
相馬は周囲を窺いつつも、道に飛び出して、若い娘と野村の後を追った。
強引に野村を連れ出した娘だが、しかしそれは二軒先の家までだった。裏口らしい扉を開けると、野村の背中を押して中に入れた。さらに追ってきた相馬を見るや、きっときつく睨んでくる。
「…早く入って!」
小声だが、娘に強い口調で命令された。相馬は戸惑ったが、野村が家の中に入った以上、己もそうせざるを得ない。それに、騒ぎに気付かれる方が厄介だと判断し、促されるままに中に入った。
娘は相馬をなかにいれると、裏口の扉の錠を閉ざす。そして驚いたことに、懐から短刀を取り出した。
「おい…」
「冗談だろう?」
娘の持つ短刀の刃先は、もちろん相馬と野村に向いていた。娘は愛らしい顔つきからは想像もできないほど強い瞳で睨み、
「…あなたたち、何者なの…!」
と厳しい口調で糾した。
「何者って…」
町娘とはいえ、自分たちは賊軍として扱われる罪人だ。もちろん正体を明かすわけにはいかない。しかし娘の質問の返答を、野村と相馬は顔を見合わせて思案するが、良い言葉が思いつかない。戸惑ったまま、野村が苦し紛れに言ったのは、
「怪しい者じゃない…」
というどう見ても信じてもらえない一言だった。すると案の定、娘は
「嘘!」
と益々訝しくこちらを睨み付け、野村の喉元に刃先を向けた。
「植木屋平五郎に何の用事なの!」
娘は物怖じする様子もなく、野村を問いただす。助けを求めるように、野村の目線がちらりと相馬へ向けられた。しかしここまで警戒する姿を見て、相馬は逆に確信した。
「…娘さん。もしかして、植木屋平五郎に所縁が…?」
「……」
娘は否定も肯定もしない。ただ少し迷い、目を泳がせた。相馬はおそらく間違いない、と踏み
「俺は新撰組の相馬という」
あっさりとその正体を明かした。野村は「おい」と驚いたような顔をしたが、相馬が「この男は野村という隊士だ」と続けざまに紹介したので、もう後には引けなくなった。
娘は目を丸くして、しかし短刀を持った手を降ろした。きつく睨み付けていた瞳も、すこし和らぐ。
「…本当に?」
娘が年相応の物言いになる。相馬は優しく「そうだ」と答えると、
「ごめんなさい」
短刀をそそくさと仕舞いつつ、娘は謝った。
「いや、こちらこそ驚かせてすまない。この馬鹿が勘違いさせてしまって」
「馬鹿って…」
相馬の物言いに、野村は何か言いたげだったが、相馬は無視して続けた。
「もうわかると思うんだが、俺たちは植木屋平五郎さん宅に匿われている沖田先生に会いに来たんだ。良ければ道案内を…」
「ここよ」
「え?」
「ここが植木屋平五郎の家。沖田さんが養生しているのは離れ」
今度驚くのは相馬と野村のほうだった。どうやら幸運なことに、植木屋平五郎所縁のものに出会い、目的地まで案内してもらっていたようだ。余計な手間と危険が省けたのは有難いことでもあった。
「じゃあさっそく会わせてくれよ」
やはりせっかちな野村が頼むが、娘は顔を曇らせた。その表情から色よい返事は期待できない。
「…もしかして、そんなに具合が悪いのだろうか…?」
余計なことを話さない斉藤でさえ「もう長くない」と言っていた。その様子からも悪い予感しかできなかったが、娘の表情を見るとそれが間違いないのだとより一層確信する。娘は逡巡しつつも
「それは…そうですが、それよりも…」
「それよりも?」
野村が促すと、娘は視線を外し、しかしまた強いまなざしで二人を見つめた。
「近藤先生のことは、絶対に伝えないでください」
「え?」
「お亡くなりになったのは…町中の噂です。皆知っています。でも、どうにか隠しているんです」
それまで厳しいまなざしを向けていた娘の瞳が、少しだけ揺れた。
「…毎日、毎日…お聞きになるんです。近藤先生はお元気なのか、ご活躍なのかって…それが唯一、沖田さんの生きる糧になっているんです。それを奪ってしまったらきっと…」
きっと、生きる気力さえ失ってしまう。娘はそう口にするのを恐れて、それ以上は言わなかった。
相馬は唇を噛んだ。今まで感じていた罪の意識が、さらに深く刻まれるようだ。
おそらく噂の的になっているであろう近藤の斬首は、面白おかしく世間に伝わっている。平五郎の家人は沖田にそれを伝えまいと必死になっている。
そして沖田はと言えば、師匠の無事を願い、まだ生きなければと自分を奮い立たせている。
(…俺は罪深い…)
ここから逃げ出してしまいたいという我儘を、どうにか堪える。
しかしそうしているうちに
「騒がしいと思ったら、懐かしい顔ですね」
と穏やかな声が背後から聞こえた。
相馬と野村が振り向くと、そこには口元を綻ばせて二人を出迎える、かつての鬼の姿があったのだった。









あれは大分、昔のことだ。
仲秋の名月の日で、見事な満月が夜空を照らしていた日だったから、良く覚えている。
「よう」
相馬が屯所の縁側でぼんやりと月を見上げていると、野村がやってきた。片手には酒、もう一方には団子を持ち「食うだろう?」と声をかけてきたのだ。野村は返事も待たずに揚々と相馬の隣に腰掛けた。
「見事な月だな」
「ああ」
野村は「ほら」と相馬に猪口を渡した。普段はあまり飲まない相馬だが、これは縁起を担ぐようなものだ。断る理由はないので野村の杯を受け取った。
「お前は皆と飲みに行かないのか?」
明るく人付き合いの良い野村は、先輩隊士たちに連れられて宴に出掛けることが多かった。その浮足だった様子が、相馬にとっては心配の種ではあったが、野村自身の根は真面目なようでそこの辺りも、先輩隊士から可愛がられる要因でもあるようだ。
「ああ、うん。まあ、乗り遅れたっていうか」
「…そうか」
野村の返事は曖昧だったが、相馬は特に追及はしなかった。
不動堂村の屯所が珍しく静まり返っている。普段は喧騒の中で落ち着かない日々を送っているため、こんなに静かなのは逆に不思議だ。その静寂の中で二人きりというのが相馬は何だか落ち着かなかった。
「屯所に残っているのは夜の巡察番と…あとは、土方先生と、沖田先生か」
酒を飲みながらそんなことを何気なく聞くと、野村が
「あの二人、できてるんだってさ」
と、突然切り出した。あまりに脈絡のないことに、口に含んでいた酒を吹き出しそうになる。
「…な、何のことだ?」
「だから、土方副長と沖田先生だよ。新撰組結成前から局長の食客だったっていう話は知っていたけれど、まさか男色の関係だとは思わなかったよなあ」
「の、野村…」
「まああの二人ならさもありなんっていうか、そういえばよく部屋の出入りもしているし…」
「ちょっと待てって」
あんまり大きな声で話すな、と相馬は野村の口を強引に塞ぐ。しかし野村は「皆知ってるって」とその手を解いた。
「別に男色が禁じられているわけでもねえだろ。ちょっと前は隊内でも流行ったらしいと聞いたこともあるし、平隊士の中にはそういう奴らもいるし…」
「そ、それはそうだが…」
明朗快活に話す野村はさほど動揺している様子はない。狼狽えているのは相馬だけだ。
男色…衆道関係は主従、子弟関係の間の最上級だと言って持て囃される。数百年前の戦場における衆道という絆は、美談として語られてきた。実際に、成人の儀式として男と関係を持つことを強要する風習も残っている場所もある。決して身近なものではないが、新撰組でも男だらけの集団ということで噂には聞く話だ。
しかし、相馬にとっては自分のなかに全く見栄えたことの無い感情だった。それに、男色であれ男女の仲であれ、相馬にとっては大差ない。恋情は秘するべきであり、公にすることはみっともない。…きっとこういう堅物のような考え方が、宴に誘われない要因でもあるだろう。
「いいよなー」
考え込む相馬とは違い、野村は呑気にそんなことを言った。
「いいよな…って。もしかしてお前もそういう趣味が…?」
てっきり女好きかと思っていたのだが、意外にも野村は
「…こだわりはないかな」
と濁すような返答をした。相馬は逡巡しつつも「そうか」と返答してそれ以上の追及は避けた。いくら親友とは言え、知られたくないことはいくつもあるだろう。しかし野村は構わず続けた。
「男でも女でもさ、自分のことを一番だって思ってくれるような相手がいるのは、いいことだと思うんだ」
「…お前だって、そういう相手が一人二人くらいいるだろう」
真面目で不器用な相馬と違って、先輩方と飲みに出かければ女を紹介されることくらいあるはずだ。だが、野村は黙り込む。
「…野村?」
秋の月明かりに照らされ、その表情は窺い難い。俯き口を閉ざした野村は、どこか影があった。
(拙いことを聞いてしまったか…)
楽天家でいつも茶化したところのある野村だから、こうして何かを考え込むのは珍しい。相馬は(もしかして好きな女に振られたのだろうか…?)と推察するも、そんな様子とは違う。そうこうしていると
「…やっぱり今の一番は」
「うん?」
野村が暗く落としていた表情を、また普段の明るさに戻す。そしてその答えを述べた。
「新撰組かな」
と。



沖田の療養場所だという離れは、庭が見渡せる静かな場所だった。まるで外の喧騒が嘘のように穏やかで、時間が止まったかのようだ。沖田は若い娘の手を借りながら、床に腰を下ろす。細く弱弱しい身体では自力で歩くのも難しいようだ。
「…お茶を入れてきます」
娘はそう言うと、部屋を出ていく。その一瞬で、相馬を目があった。念を押すかのように彼女は強い瞳を向けていた。
(近藤局長のことだよな…)
彼女のメッセージはあからさまで、相馬は再び唇を噛んだ。しかし、沖田は特に気にかける様子もなく
「またおそのさんに怒られちゃいますね…」
と笑った。娘は「おその」という名らしい。無理をして床を抜け出して様子を見に来た沖田は、後にお叱りが待っているようだ。
ぎこちなくしか笑えない相馬と違って、野村は微笑みかけ
「そうですよ。沖田先生、これ以上怒られないためにも横になってください」
と気遣った。しかし沖田は「気分が良いから」と拒んで、上半身を起こして向かい合った。
正面から見ると、やはり沖田はこの数か月でさらに痩せていた。不動堂村の屯所に居た頃から寝込み、ろくに食事もとれない様子だったが、鳥羽伏見の戦いで離脱してからさらに病状は加速したようだ。白い肌は日差しを避けて床で過ごす時間の長さの現れだろう。
だが、沖田はそんなこともをおくびにも出さず
「それにしても、二人揃って迷子になっちゃうなんて、土方さんが聞いたら切腹モノの話ですね」
と笑った。新撰組から離れ二人でここにやってきた理由を、「隊からはぐれた」と誤魔化したのは野村だった。沖田は疑う様子もなく信じてくれて、相馬は内心ほっとする。しかしそれと同時に苦しかった。
(いや、苦しいといえる立場ではない…)
「でも二人とも元気そうでよかった。野村さん一人なら心配ですけど、相馬さんが一緒なら安心ですね」
「ちょっとそれどういう意味ですか!」
冗談めいた沖田に、野村が食い下がる。このやり取りは相馬の記憶にもある、京に居た頃はよくあった光景だ。しかし相馬は何故か苛立った。
(俺だけなのか…)
野村はまるですべて忘れてしまったかのように明るく振る舞っている。そのどこか能天気な様子は考え込む相馬には羨ましく、そして少しだけ憎らしい。そう振る舞えるなら楽に慣れると分かっているのに、それができないのは、野村のせいではないのに。
「これからどうするんです?」
沖田が相馬の方を見た。
「…ひとまず、上野の彰義隊に加わります。そこから新撰組に合流できるように動くつもりです」
相馬は慎重に、言葉を選んで答えた。沖田は「そうですか」と頷く。
「もう皆会津の方へ行ったようですね。数日前に土方さんが来てからは誰も訊ねて来ないし」
「土方副長が来られたんですか?」
野村は少し驚いたようだったが、相馬はそのことを知っていた。
流山から投降し、近藤局長と離れた後。土方副長は一隊を任せて、局長釈放の為に奔走した。昼夜を問わず有力者のものへ出向き、最終的には幕臣の勝海舟まで話が及んだ。そこで書いてもらった嘆願書を、「俺じゃ顔が知られている」という理由で相馬に預けたのだ。そしてその道程に、沖田の見舞いに行ったのだと言っていた。
「時間がないって言っていたから、少しだけですけれどね」
沖田は寂しげに微笑んだ。きっとそれが最後の別れになったと思っているのだろう。嬉しい思い出であると同時に寂しい思い出でもあるのだ。
(そうだ、最期だ…)
希望的観測を失うわけではない。けれど、避けがたい現実として沖田の命は短いだろう。そしてそれは誰の目から見ても明らかだ。だとすれば、相馬には聞いておかなければならないことがあった。
「沖田先生」
野村と談笑していたが、重々しい言葉に、沖田が相馬を見た。
「前に…島田さんが言っていました。沖田先生にとって…土方先生は「半身」なのだと」
「…」
沖田はもちろん、野村も戸惑いを隠せていない様子で相馬を見ていた。しかし相馬は敢えて構うことなく言葉を紡いだ。
「俺は…いつも人の輪の中心に居る野村と違って、あまり深く人と関われません。原因はいろいろあるとは思いますが、堅物だといわれるせいかもしれません」
「相馬…?」
「だから俺は…羨ましい。そこまで身を任せることができる、信頼し合えることができる関係が…とても」
…だから、何だというのだろう。
本当は何を聞きたいのかわからないままだった。けれど最期の機会だとすれば、「半身」とは何なのかということを聞いてみたかったのだ。沖田にとって土方副長の存在とはどういうものだったのだろうか。それを嫌というほど思い知って、刻み付けて、
(俺は、俺自身を、虐めたいだけか…)
罪を軽くしたいなんて思わない。むしろ、もっともっと傷つけて、そして…許さないのだと恨んでくれたらどれだけマシか。
だからその代わりに思い知る。
堅物の自分は、こういうやり方しかわからない。









あの人がやってきたのは、本当に突然のことだった。
幕府御典医でもあり、新撰組の主治医であった松本良順先生から紹介された植木屋平五郎さん宅で療養を続けて、もう数か月になる。今までの京での喧騒になれすぎていたため、静かで物音一つなく、ただただ何もしなくていい…というのは、たぶん生まれて初めてだ。小さいころから貧乏で働いていたし、試衛館にやってきたのも下働きのためだ。それから後は剣を磨いて近藤先生の役に立つことに必死だった。その忙しさが急になくなって、最初は苦痛であったが、今はもう慣れた。
新撰組は甲陽鎮撫隊と名前を変えて、今は流山の辺りに潜伏しているらしいと聞いた。新撰組はもちろん、地元の様々な人々を集めた大きな隊だそうで、近藤先生や土方さんはその指揮に忙しいようだ。だから僕を訊ねてくる人と言えば、ご主人と世話を焼いてくれるおそのさん、そして
「にゃあん…」
最近庭先に遊びに来る、この黒猫くらいしかいない。黒猫は縁起が悪いとおそのさんは苦い顔をしていたけれど、猫とて好きで黒く生まれたわけでもあるまい。人でさえも恐れる僕に寄ってきてくれるくらいの猫だから、きっと心の広い猫に違いない、と可愛がっている。
身体の方は少しだけ楽になった。新撰組として京から下るときは、辺りの騒がしさに身体が疲れていてどっと重かったが、ここにきてそれがなくなり少しだけ軽くなった。しかしだからと言って回復に向かっているかと言えば、そんなことはないだろう。
(おそらく…長くはない)
そう悟ったのは随分昔だ。それこそ、血を吐いたあの時からずっと死を意識している。だから今は死ぬまでに何ができるかを考えている。重く、動かせば血を吐くこの身体で、何ができるのかと。
庭先の縁側に腰掛けて、黒猫の相手をしていると、急にガサガサと木が揺れた。そこに誰かが居るのを感じ、僕は咄嗟に刀を手に取った。貧弱になってしまったものの、盗人くらいなら追い返せる自信はあった。
しかし、それは杞憂で、木陰から現れたのは土方さんだった。
「…なんだ、土方さんか。ちゃんと玄関から入ってきてくださいよ」
僕はそう言って刀を置いた。すると土方さんは苦笑しながら近づいて「元気そうだな」と心にもないことをいった。
「ええ、元気ですよ。土方さんの方はお疲れみたいですね」
僕は彼の嘘をさらりと流して、問う。髪を切り洋装に身を包んだ土方さんは、相変わらずの色男ではあったけれど、その表情は冴えなかった。
土方さんは何も答えずに僕の隣に座った。
「…どうしたんですか。この辺りに用事でもあるんですか?」
「用事はもう済ませてきた」
思った以上に、土方さんは重く答える。何か重要な案件でもあったのだろうか…と僕は思ったものの、何も追及はしなかった。それを聞いたところでわからないし、そして僕にはおそらく関係がない。関係を持つことができない。
すると僕の膝で昼寝をしていた黒猫が「にゃあん」と寂しげに鳴いて起き上がると、そのまま去って行った。
「黒猫か…」
やっぱり土方さんも良い顔はしなかったけれど
「友達です」
と茶化して答えると「そうか」と少し笑った。
すると土方さんは僕の右手に、左手を添えた。ぎゅっと掴んで離さないように。
「…土方さん?」
土方さんの手のひらは少し汗ばんでいた。
「総司…」
そして反対の手が、僕の頬に触れる。引き寄せるようにして、彼と唇を重ねた。
「……うつります」
僕は土方さんの胸板を押して、離れた。重なった唇は熱くて離れがたいものであったけれど…僕は、僕の病を誰かに移したくはない。
すると土方さんは、ぽつりと
「会津へ行く」
と呟いた。
「会津…?」
「だからしばらくは会えない」
新撰組が会津へ行くというのは、考えられない話ではなかった。僕たちの主君である会津に尽くすのは当然のことだ。
けれど、いざ行くのだと聞かせると、異常に身体の力が抜けた。
(しばらくじゃない…)
しばらくじゃない、もう会えないのだと。そう直感した。決して口には出さないだろうけれど、土方さんもきっとわかっていて、だからこそ会いに来たのだ。最期の別れをするためにやってきたのだ。
「土方さん…」
僕は土方さんの服を掴んで、その胸に顔を寄せた。
僕は今まで、誰にもこの病を移したくない。僕だけがこの病を抱え込んで死んでいくのだと固く決めていた。けれど、これが最後なのだと聞くと心が揺れる。邪悪な考えが支配してしまう。
(…何もかも捨てて、駆け落ちして…殺してしまいたい…)
この病で僕が死ぬ。その時にも、道連れにしてしまいたい。こんな静かすぎる場所で僕はたった一人で死にたくない。だから、寂しくないように、彼を道連れに…
(いけない…)
そんなことはできない。
僕は離れがたい気持ちを抑えて、土方さんから離れた。土方さんも名残惜しそうに手を伸ばしたけれど、その手を引いた。でも、どうしても我慢できずに
「土方さん…私も連れて行ってください」
と願った。
けれど、その答えは、わかっていて
「ダメだ」
と苦しそうに、痛そうに、彼が拒否するのを知っていたのに。
「…そう、ですよね」
聞いてしまった自分が悪いのだ。彼を困らせるだけだと知っているのに。
けれど、土方さんはもう一度僕を引き寄せた。背中に腕を回して、痛いほどに強く抱きしめる。まるで覚えておくように、刻み付けるように、強く、強く抱きしめるその姿は、あまりにも悲しい。
「総司…」
ああ、そうか。
もうそうやって、優しく僕を呼んでくれる人はいない。いなくなってしまう。
「愛してる」
土方さんが囁くその短い言葉で、僕は全てを抑え込む。
愛しさも、寂しさも、切なさも、恋しさも、悲しさも。僕が一人で抱えて、死ぬまで、持ち続ける。それで十分だと、僕は笑う。



突然の相馬の質問に、沖田は少し黙り込んで、しかし微笑んで返した。
「「半身」…か。島田さんは面白いことを言いますね」
「す、すみません!突然、わけもわからないことを…!」
急に我に返ったらしい相馬が慌てて頭を下げた。しかし特に気分を害した様子もなく、沖田は続けた。
「その通りでしょうね」
「え?」
「あの日土方さんが…去ってから、いつも何かが足りない気がするんです」
「足りない…?」
沖田は自分の手のひらを見つめた。
「在るべきものがないような気がするんです。聞こえてくるすべての音に、旋律が欠けている。息をするのに空気が足りない。何を食べても、美味しく感じられない。そんな物足りなさを…常に感じます」
そこで、沖田が「げほっ」と咳き込んだ。野村は慌てて背中を摩ったが、軽い咳だったようですぐに収まった。
「島田さんの言葉を借りるなら、私は「半身」を失ったから…そんな風に感じてしまうんだと思います。私にとって土方さんは…そういう、存在でした」
「…何言っているんですか。すぐに会えますよ!」
野村が大げさすぎるほど笑って、沖田を励ました。沖田も「そうですね」と笑ったが、相馬にはその顔が寂しそうにしか見えなかった。
しかしその寂しそうな顔で、沖田は相馬に微笑みかける。
「相馬さん。あなたは何故か…とても辛そうに見えます」
「え…?」
どくん、と心臓がなった。まるで近藤を救えなかったことを見透かされてしまうのではないかと思うほど、まっすぐにこちらを見ていた。
「あなたはいつもまっすぐで、正義感と責任感に溢れていて、前を向いていました。けれどここに来てからずっと、俯いてばかりです」
「そ、それは…」
気づかれていた、と動揺するのと、どう答えればいいのかわからない混乱で、相馬はいっぱいいっぱいになる。俯いてばかりだと指摘されたのに、また俯いて顔を隠してしまう。
「相馬」
そうしていると、野村の手のひらがまた肩に触れた。野村は何も言わない。けれど、こうして何度も励ましてくれている。その様子を見守っていた沖田が「ふふ」と笑った。
「沖田先生?」
「いえ、あなたにとっての「半身」は…」
と言いかけたところで、言葉を止めた。穏やかな表情が一変険しくなる。
「先生?」
「静かに」
鋭い言葉で制され、二人は黙った。
すると今まで静かだった庭の向こうから騒がしい様子が伝わってくる。ドタバタと激しく地面を打つ足音がどんどん近づいてくる。
「ヤバい…俺たちのせいで…」
野村がつぶやいて、相馬も察する。もしかしたら、おそのに連れられて怪しい男が家に入ったらしいと通報があったのかもしれない。沖田のような病人には手出ししないだろうが、いかにも素性が怪しい二人は捕えられてしまう。
すると沖田が床を出た。野村は止めたが、それを振り切って、刀を手に取る。
「裏口は人通りがありません。早く行きなさい」
それまでの昼行灯な雰囲気を一変させて、沖田が言い放つ。刀を手にして、殺気を帯びた姿は新撰組の鬼と恐れられたあの時と同じだ。だが、だからと言って身体は思う様に動かないはずだ。
「それはできません…!」
相馬は叫んだ。沖田を見捨てるような羽目になるのなら、そんなことはできない。
(近藤先生を失った失敗を繰り返すようなことは…!)
できない。ここで自分の命が尽きたとしても、そんなことはできない。
すると沖田がまた穏やかに笑った。
「あなたは私を信じていないのですか?」
「そ、それとこれとは…!」
「大丈夫ですよ。こんなところで、死んだりはしません」
外の喧騒が近づいてくる。足音が急きたてるように近づいてくる。そして促すようにこちらを見る沖田の瞳が、決断を迫る。
「ほら」
行きなさい。生きなさい。
「相馬!」
突っ立ったままの相馬の手を、野村が強引に引いた。相馬は抗おうとしたが、野村の表情を見てやめた。彼も絵とても悔しそうに唇を噛んでいたのだ。
そして丁度部屋にやってきたおそのが「こちらです」と案内して先導する。部屋から逃れていく二人を見守って、沖田が言った。
「土方さんによろしく伝えてください。それから…」
それから
その続きはよく聞こえなかった。けれど、相馬はわかった。「ありがとう」と言ったのが、わかった。
そして、気が付けば泣きながら、裏口から逃れて、走っていた。










鼓膜を揺らす爆発音。生暖かい風。遠くで聞こえる悲鳴に、騒がしい足音。
草むらの頼りない壁に、息を潜めて敵を待ち、油断できない緊迫感のなかで、瞬きもできずにいる。
「…もう、刀を振り回しているようじゃ、いけねえな」
そんな静まり返ったなかで、ポツリとつぶやいたのは、予想外なことに土方副長だった。いち早く着物を脱ぎ棄て洋装に着替えた彼は、不似合いともいえる刀を握りしめている。
「な…何をおっしゃいますか…」
すぐそばで待機を命じられていた相馬は、声を潜めつつも、唖然と問い返した。今まで誰よりも武士道にこだわり続け、誰よりも敵を憎み、ここまで戦ってきた彼が、そんな弱音を言うなんて、相馬には信じられなかった。
しかし、土方副長はこんな状況であっても爽やかに言う。
「次の戦までに銃の遣い方を覚えておかねえといけねえ」
冗談めかして言う姿は、むしろ憑き物が落ちたかのようだ。
確かに思い知った。伏見奉行所で大敗し、多くの仲間を失った。その後も負け続け、こんな場所まで逃れてきた。けれど、だからといって、刀は銃に負けるなんて事実をあっさりと受け入れてしまった彼の姿に、相馬はぎゅっと唇を噛みしめた。耐えようとしたものの、怒りと憤りと悔しさと悲しみが込み上げて、堪えきれずに
「…そんなこと、聞きたくありませんでした…!」
と意見した。土方副長に意見するなんて初めてのことだ。
「俺たちは武士です、刀を捨てるなんて選択はありません!」
「おい、相馬!」
近くに居た島田が、大声を上げて反抗する相馬を諌める。敵に囲まれたこの状況で、居場所を知られるのは自殺に近い。相馬は我に返り「すみません」と謝ったが、憤った己の気持ちは収まらない。そしてこんな時に限って、心情を分かり合える野村はいない。
(俺たちは本物の武士だ…!)
この戦が始まる前、確かに幕府に取り立てられて本物の武士になった。肩を抱き合って仲間と喜び祝い、誰よりも涙を流して喜んでいたのは近藤ら創設期のメンバーだ。農民の子に生まれた彼らが、刀の腕だけでここまで上り詰めたなんて、今まででは全く前例のないことだった。
あの喜びを、捨て去ることはできない。
「相馬、この戦…勝てると思うか?」
激昂する相馬に、土方は穏やかに訊ねた。しかしその答えを述べるのは容易ではない。皆、わかっていて、わかっていないふりをしているのだ。
「……」
相馬は黙り込んだ。だが「言え」と土方に促されて渋々、
「…負ける、と思います…」
と答えた。
薩長連合の武器装備や技術は、まるでこちらと次元が違う。為す術もなく打たれて死んでいく味方を見て、とても「勝てる」とは思えなかった。すると土方は副長は「そうだよな」と同意した。
「たぶんそうだ。この戦では勝てない。生き延びることができれば、まだマシなくらいだ」
「……」
相馬は頭を抱えた。近藤局長が離脱したため、新撰組の長は土方副長だ。その彼がそんなことを言えば、士気は下がり益々負け戦となる。控えている島田も顔色を悪くした。
だが、土方副長は構わず続けた。
「だが、次は勝つ」
「え…」
その力強い言葉が、相馬には幻聴に聞こえた。抱えていた頭を上げて土方副長の表情を見ると、彼は全く絶望していなかった。むしろその目は目の前の惨状ではなく、明日の戦を見据えていた。
「今日は負けたとしても、勝ち続ける明日の為に、生き延びてやる」
野心に満ちた瞳は、「新撰組の鬼副長」のそれに違いない。
そうだ、目の前のつまらないことに囚われている限り、ここで足踏みしているだけだ。今日負けたとしても、明日勝ち続ける。刀を捨てて、銃をとったとしても、この心に在りつづける魂は消えるわけではない。
きっと、この人は、己の侍としての誇りを証明するために戦い続けるのだ。
その凛々しい横顔に、一筋の希望を感じた。明日への道筋を、改めて確認することができた。

しかし、風が吹いた。生暖かい風が、草むらを揺らし、目の前の現実を突きつける。
着物を脱ぎ棄てて、とっくの昔に洋装に身を包んだ敵が、足並みをそろえてこちらに迫る。その手に、錦の御旗を掲げて。後に鳥羽・伏見の戦いと称されるこの戦は、ただただ己の弱さを実感する、負け戦となった。


上野での戦は、まるで、あの日を繰り返したかのようだった。
野村と相馬は千駄ヶ谷を抜け出し、無事に上野に集結する彰義隊に合流した。新政府軍に抵抗する彰義隊に加わり、ゆくゆくは新撰組との合流を目指すはずだった。だが、その思惑は外れてしまった。彰義隊は江戸城無血開城に納得しない強硬派による抵抗の現れであったが、戦が始まるやいなや、期待に反して敗戦を続けた。開戦してすぐに虚しくも四方を囲まれ、新式のスナイドル銃・アームストロング砲や四斤山砲による砲撃に為すすべもなく、たった一日で彰義隊は壊滅となってしまった。ほとんどの者が殺され、明治の時代になっても厳しい罰を受けることとなる。
ただ、一部の生き残りは根岸方面より脱走し、いまだ抵抗を続ける東国諸藩…奥羽越列藩同盟に合流すべく北上した。彰義隊頭池田長裕が率いるなかに、野村と相馬が居た。

「…春日さんとは気が合わねえ」
常盤各地を転戦する頃には、季節はすっかり変わり夏になっていた。江戸から逃れ戦を繰り返してきたが、状況は悪化するばかりで勝利の文字は見えない。行き詰ったなかで、ずっと野村は何も言わず戦い続けていた。なので、そんな風に愚痴を言うのは、相馬でさえ初めて聞いた。
「春日隊長か?」
相馬が訊ねると、野村は頷いた。
「整った顔して賢そうだと思ってたけど…やっぱり旗本の出のお坊ちゃんだ。何もかもを順序だてて考えすぎだ」
「…お前は本能で走り出す性格だからな」
相馬がからかうと、「うるせえな」と拗ねた顔をして、握り飯を頬張った。
新撰組だということで、相馬と野村は小部隊を任された。真面目で人の信頼を得やすい相馬と違って、人当たりは良いが勘と感覚で突っ走る野村は、なかなか苦戦しているようだ。上司に当たる春日からも野村にはちくちく文句を言っているようで、反りが合わないのは傍から見ても明らかだった。
「ふん。どんな綺麗なやり方でも構わねえけど、それで負けたら話にならねえよ。今までぬくぬくとお勉強に勤しんでいた奴と違って、俺たちはちゃんと死線を潜り抜けてここまでやってきたんだ。戦は学問じゃねえ、勘と判断だ」
「…土方副長みたいなことをいう」
相馬は笑った。
土方副長は、普段から手習いを欠かさない近藤局長と違って、物事を自分の感覚に沿って判断していた。野生の勘というわけではないが、自分の頭の中で正しい道筋を判断できる、天才だったのかもしれない。
「なあ、相馬」
野村は握り飯を食う手を止めた。先ほどまでの表情を一変させて、深刻な表情で相馬に問うた。
「ずっと聞きたかったんだ。お前…決心は変わらないのか?」
「…」
野村は敢えて曖昧に聞いてきたが、相馬にはわかった。相馬をここまで生き延びさせて、戦う選択をさせる原動力。それは、土方副長と再会を果たすため。そして、近藤局長を救えなかったことを目の前で詫びるため。切腹という形で、購うため。
「当たり前だ。俺はいま、そのためだけに生きている。それに…沖田先生のこともある」
「沖田先生…?」
「俺は沖田先生を見捨ててしまった」
野村は顔を歪めた。そして「お前だけのせいじゃねえだろ」と答えた。
千駄ヶ谷から逃げ出してから、沖田はどうなったのか知ることはできなかった。もしかしたら上手く切り抜けたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。しかしそれを知るすべはなく、相馬にとっては、ただ逃げ出したことを後悔し、罪の積み重ねをするだけだった。
「俺はお前の様に強くないから…自分を責めることしか、できないんだ」
「相馬…」
「俺にとって死んでお詫びできるなら…それが一番後悔しない道だと思う」
上野から転戦し、ここまでやってきたなかで、その事実を相馬はある程度受け入れた。悟ったと言ってもいい。むしろそれくらいで贖えることができるなら、有難いくらいに。
しかし野村はその歪んだ顔をさらに険しくした。その選択を野村はいままで一度も納得してくれない。
「…相馬、俺はさ…」
躊躇い気味に言いかけたところで
「大変だっ!」
と、兵士の一人が駆け込んできた。つかの間の休憩をとっていた周囲に、その声は大きく響いた。
「何事だ!」
誰かが問う。すると駆け込んできた兵士が青ざめた顔で告げた。
「いま…知らせがあり、会津藩が降伏したそうです…!」
ぽとり、と。
野村が持っていた握り飯を落とした。辺りがしんと静まり返り、口をぽかんと開けたまま、呆然とした。歩んでいる道が、より一層荊の道になるのだと、実感した。








雨の中、不動堂村の屯所に戻ると、まるで般若のような顔をした相馬が仁王立ちで待っていた。
「おかえり」
歓迎の言葉とは裏腹に彼の表情は怒りに満ちている。理由はわかっている。こうしていつもいつも飲み歩いてばかりの自分の姿が、彼には不真面目で危なっかしく映るのだろう。
「…ただいま」
少し躊躇いつつも、答えてみる。すると相馬は「はぁ…」とわざとらしくため息をついて、手にしていた手拭いを投げつけた。雨の中を傘もなく帰ってきたため、髪は良く濡れていた。
「ありがとう」
「いいから早く拭け」
礼を言ったものの、そっぽを向いて相馬は部屋に戻っていく。不動堂村に移転してから平隊士にも部屋を与えられ、当然のように相馬と二人部屋になった。先輩の原田曰く「お前の世話役は相馬しかいない」との理由だった。
歩き出した相馬の後ろをあるく。夜半を過ぎて、既に屯所は寝静まっている。
「今日は原田先生に誘われたんだから、仕方ねえよな?」
「煩いな。皆寝ているんだから、黙って歩けよ」
言い訳じみたことに腹立てたのか、相馬はさらにぶっきら棒になってしまった。野村は手拭いて髪を拭きつつ、相馬に言われたように黙って歩いた。
部屋にたどり着くと、既に床が二つ並べられていた。相馬が敷いてくれたのだろう。相馬は自分のとこに胡坐を掻くと
「お前な…」
と説教を始めた。しかしこれもまたいつものパターンで、決まりきっている。
「ちゃんとしろ、だろう?」
「……わかっているなら、言わせるな」
怒りから呆れへと相馬の表情が変わる。毎度毎度懲りることなく怒るくせに、その感情はあまり持続しない。彼はすぐに野村を許してしまうのだ。
「取りあえず、俺はもう寝るからな」
相馬は布団をかぶると「お休み」と言い、野村に背中を向けてしまった。部屋には蝋燭が一本、灯っているだけだ。
「…ちゃんとするって、何だろうなあ…」
野村はポツリとつぶやいた。すると相馬が背中を向けたまま答えた。
「……ちゃんと稽古に出て、飲み歩かないで、役目を熟すことだ」
「俺はちゃんと役目を熟してる」
確かに先輩に誘われるがままに飲み歩くけれど、稽古も二日酔いながらも参加するし、仕事をさぼったこともない。局中法度に背くような真似は全くしていないのだ。しかし、相馬には気に入らないようで、
「姿勢の問題だろう。酒や女にうつつを抜かして、いつ足元を掬われるかわからない」
と、真っ当なお叱りを受けてしまえば、ぐうの音も出ない。黙り込んだ様子を察して相馬は「もういいか」と言うと、すぐに寝息を立ててしまった。
(…そんなに眠いなら、別に待っていなくてもいいのに…)
どんなに怒り叱っても、相馬はこうして待ち続ける。足元がふらふらしている野村の手綱をしっかり握っている。あまりに心配を掛けると「お前なんかもう知らない」と拗ねるくせに次の日になればいつも通りだ。
「……」
仄かな灯りが灯る部屋で、野村はしばらく相馬の姿を見ていた。
何故彼の言う様に、彼が望むように「真面目に」できないのか。それは天性の性分もあるけれど、たぶんきっとわざとなのだ。こうして心配してくれている、こうして怒ってくれている、こうして、待っていてくれている―――。
それが、無性に嬉しい。
「俺…お前のこと、好きなのかも」
寝返りを打った相馬の目は、閉じたままだ。吐息も相変わらずで、おそらくは聞こえてはいない。
野村はそのことに安堵する。彼に伝えるつもりなどない。生真面目すぎる彼は、きっとそんなことを知れば親友をやめてしまうだろう。「はい」か「いいえ」か。どちらかの答えを無理矢理にでも出そうとする。
(けど、そういうのはいらねえんだよな…)
女でも、男でも、自分だけが独占できる「たった一人」を探す「恋」もあるだろう。今まで野村もそういう激情を持てる相手を探し続けていた。しかし、相馬と出会って、意気投合してこの中に生まれた感情はそうではない。
こうして待っていてくれる、こうしてともに生きていける、こうして隣で眠っていられる。それだけが、いや、それだけでいいと思う。そしていつか離れてしまって、彼が別の人生を歩んだとしても、それを祝福できる気がする。
自分の幸せより大切なものだってある。
相馬は戦友であり、親友であり…そして、かけがえのない大切な人なのだ。



会津降伏の知らせから、数日。日に日に情報が野村と相馬の元に届いた。会津に尽くすべしと新撰組も共に命を落としたのではないかと絶望したが、どうやら土方副長ら大部分の隊士は既に会津を脱出し、仙台を目指しているようだ。それを聞き、二人は安堵した。
しかし状況は日を増すごとに悪化していた。
それまで奥羽越列藩同盟として新政府軍に恭順せず抗戦を貫いてきた東北三十一藩だったが、秋田藩の寝返り、長岡藩そして会津藩の降伏により、多くの藩が新政府軍に帰順した。奥羽越列藩同盟は事実上瓦解し、幕府軍はさらに追い詰められることとなる。
道先を失った幕府軍であったが、一筋の希望が差す。抗戦派の旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊(うち二艦を座礁し失う)を率いて江戸を脱出した榎本武揚が、仙台にて主導し蝦夷を目指すとしたのだ。新政府軍により領地を失った旧幕府家臣たちの移住、表向きを北方守備の目的とした。
「そこに行けば、土方副長に会える…!」
上野戦争から転戦を重ね、闇雲に新撰組を、土方副長を探し続けていたが、ようやく目的地がはっきりとした。野村は歓喜したが、相馬はただ冷静に「そうだな」と同意しただけだった。それはその事実に冷めているのではなく、ついに覚悟を決める時が来たのだと受け入れるような姿だった。
相馬は、生真面目て、頑固だ。人の意見で自分の意思を変えたりしないし、聞く耳さえ持たない。だからあの時、「お詫びして死ぬ」という選択を変えることはないだろう。
自分だけで責任をとるつもりなのだ。近藤局長を失ったことを一人で背負い込む。
そしてもし相馬が切腹したら、自分も同じようにする。彼が止めたところで、一緒に死ぬ。
(けど…それでいいのか?)
何か、大切なことを忘れている気がする。目の前の変えようもない悲しい事実に目を曇らせて、大切な約束をおろそかにしている。仙台へ向かう一歩一歩が、かつての仲間との再会に期待するものであり、しかしその一方で相馬の決意が固くなる一歩でもあった。
(どうにかして…生きられないのか?)
その方法を、ずっと探している。しかしその思考は
パァーーーン!
という銃撃音によって絶たれた。野村がとっさに身を隠し構えると、前方から足音がする。しかし、その数は少ないようだ。
「くそ…」
奥羽越列藩同盟を失った今、この東北の地でさえ旧幕府軍には敵地に等しい。新政府軍にあらがった罪を払拭しようと、旧幕府軍を攻め手柄を上げようとする輩がいつでも命を狙っているのだ。
しかし幸いなことに、前方からの足音は消えた。こちらが撃退したのか、逃れて行ったのか…それはわからない。野村は安堵したが、相馬は蹲ったままだった。
「相馬…?」
もう敵の気配はない。ともに仙台を目指す仲間が歩みを再開する中、相馬は立ち上がろうとしなかった。
「どうした」
少し青ざめた表情をした相馬が、少し躊躇い気味に「悪い」と謝った。
「足を挫いたみたいだ。…先に行っていてくれ」
相馬は左足に手を添えていた。そちらが痛むようだ。
「置いていくわけねえだろう。こんなところではぐれちゃ、仙台にはたどり着かねえ」
「だが…」
「歩けるか?」
野村が手を差し出すと、相馬が手のひらを重ねた。しかし引っ張って立ち上がらせても、右足だけで支えていてとても歩ける様子ではない。段々と隊から遅れを取るなか、野村は腰を落とすと「乗れよ」と相馬を誘う。しかし彼は頑なに拒否した。
「いや…お前に迷惑をかけるわけにはいかない」
「迷惑じゃねえよ。いいから、早く乗れ」
「良くなったら追い付くから、先に行ってくれ」
「こんなところに置いていけるわけねえだろうが!」
頑固な相馬の返答に、野村は苛立つ。ここまで一緒に生き延びてきたのに、今更遠慮されても仕方ない。野村は動けないのといい事に、相馬の腕を引っ張って無理矢理、彼を背負った。嫌がる素振りをした相馬だが、歩き出してからは抵抗せず
「悪い」
とまた謝った。野村は「いいから」と相馬を黙らせる。すると相馬はようやく野村に体重を預けてきた。
「なあ、相馬」
「…なんだよ」
「この間の話の続きだけど…」
あの時は邪魔が入ってそれ以上の会話はできなかった。しかし不幸中の幸い、いまこうして彼をおぶっている状態なら逃げられず話ができる。
「もうやめようぜ」
「……何をだよ」
相馬はわかっているのに、わかっていないふりをした。それは彼の息遣いでわかった。
「土方副長は…お前に、俺たちに死んで詫びてほしいなんて、思っちゃいねえよ」
「…」
「…それにさ」
野村は一歩止まって「よいしょ」ともう一度相馬を担ぎなおした。そして、また歩き出す。
「お前は…逃げたいだけなんだよ」
「…なんだと?」
相馬が、感情を露わにする。
「お前は近藤先生の死からも、この戦からも…逃げたいだけなんだろう」
「…っ、お前に何がわかるんだよ!」
耳元で相馬の怒号が響いた。そしてそれまで野村の首元に回していた手を取って、無理やりに背中を押した。「降ろせ」と何度も背中を叩かれたが、野村はその足を離さなかった。
「お前のことくらい何でも分かるんだよ!」
いつも相馬に怒鳴られるのは野村の方だった。へらへらと「悪い」と謝って済ますのがいつもの二人だった。けれど、今は違う。
「…野村…?」
相馬が背中で、呆然と野村の名前を呼んだ。
(何でも分かる…)
お前が頑固なのは照れ屋の裏返し、生真面目なのは自分を律するため、そして本当は、
「お前だって勝ちたいだろう!」
負けず嫌いだ。
「鳥羽伏見からこっち、ずっと負けっぱなしだ。近藤先生まで殺されて、会津まで滅んで…俺たちはつくづく負けてばっかりだ。まるで勝利の女神に嫌われてるかのように不利な状態が続いていて、この戦だって勝つ見込みなんてねえよ!」
悔しい。
悔しくて、涙が出るほど、悔しいだろう。
「けれど、勝ちたいっていう気持ちを無くすことはできない。それは、俺の本当の想いだからだ。本当の想いから逃げるなんてことは、全部捨てるのと一緒だ」
「野村…」
「だから俺は生き続けたい。新選組から…皆から後ろ指を指されて「近藤局長をお前が殺したんだ」って罵られたとしても、俺はこの戦に勝ちたい。勝って、いままで死んでいった仲間たちの為に…」
「だったらお前ひとりで生きろよ!」
相馬が野村の背中を強く押した。相馬を支えていた野村の腕が解かれて、相馬は地面にその足を着ける。
「お前は…近藤先生と一緒に牢に入っただけだ。何にも悪いことはない、けど、けどな、俺は違うんだよ…!俺は助けろって土方副長に命令されたんだ!それを果たせなかったんだ!逃げるんじゃない、俺はその役目を果たせなかった責任をとるんだ!」
左足を痛めているはずなのに、相馬は野村の胸ぐらを掴んだ。今までともに暮らしてきて、一番鋭く殺気に満ちた瞳を野村に向けていた。しかしその一方で目尻には涙をためている。
「だから、お前は、俺の分まで生きろよ…!俺と一緒に死ななくていいんだから…!」
「それはできない」
「なんでだよ…!」
そんなことできるわけないじゃないか。
「俺が、お前を好きだからだよ」










「俺がお前を好きだからだよ」
と、そう言った時の彼の顔が余りにも深刻だったのに、真摯なまなざしを受け止めることができなかった。


一隊から遅れを取り、その背中が小さくなる中で取り残された二人は、しばらく黙ったままお互いの顔を見ていた。そのあとに続く言葉を失った野村と、何を答えたらいいのかわからない相馬。重たい沈黙の時間の流れは、酷く遅い。
すると野村のほうから、ようやく口を動かした。
「…いや、ごめん、無し。いまの、無し」
目の前で合掌し、頭を下げて謝る野村。先ほどまでの深刻な表情から一変、飄々としたいつもの調子に戻る。
「いやいや、何言ってんのかね、俺…ほんと、忘れてくれ、頼むから忘れて」
口早に冗談のつもりだったのだ、と茶化すくせに野村は目を合わせようともしない。相馬は思わず
「何の…つもりなんだ」
と追及していた。しかし野村は強情に「なんでもないって」と手を振った。そうして振り切るように、もう一度座り込み背中を向けた。
「ほら、乗れよ。もうだいぶ遅れちまった」
「…」
ここで話をやめて、有耶無耶にしていいのか相馬は迷った。けれど、野村が言う様に隊からは大分離れてしまった。ここで立ち話はできないし、挫いた足の痛みもまだ残っている。野村の背中に負ぶさる以外の選択肢はなかった。
「…ああ」
野村に導かれるままにもう一度背中に身を任せた。野村はゆっくりと歩き始めたが、固く口を閉じたまま、もう何も言おうともしない。
ずっと親友でいた。いまだって、一番の心を許せる相手だと思っている。
だからこそわかる。
彼が、嘘を付いた。誤魔化して、なかったことにして言葉を捨てた。
(俺を…好きだって…?)
好意を持つという意味では同じだ。面と向かっていったことはないが、野村のことを好きだから、気に入っているからこうして二人で歩んできたのだ。だけれど、彼が言うニュアンスとはきっと違う。
(女を好きになるように…?)
そこでふと思い出す。彼は女や男にこだわりが無く好きになれるのだと。そうしてその時、相馬が「誰かいないのか?」と訊ねたときに、妙に黙り込んだことを。
(まさかあの時から…)
あの時から自分のことをそんな風に見ていたのだろうか。
「相馬」
ひたすら口を閉じていた相馬が、ふと声を発した。もう喋らないものと思っていた相馬の方が驚いた。
「な、なに…」
「…さっきのは無し、だけど…やっぱり俺はお前に死んでほしくない」
そうだ、喧嘩のきっかけはそれだった。相馬は自分の体が強張るのがわかった。
「そんなのは…お前の決めることじゃない」
この命をどう使うかは自分で決める。たとえ野村でも、止めることはできない。頑固だと馬鹿にされても、この罪を抱えながら生きるほど自分は強くはない。
助けられなかった近藤局長。
見捨ててしまった沖田先生。
「それにこれは…俺の、本望なんだ」
決して逃げるわけじゃない。罪から逃れたいわけじゃない。ただ、自分が死んでお詫びできるとしたら、それは自分の願いでもあるのだ。
お詫びになればまだいいくらいなのだ。
「ごめん」
謝ってほしいわけじゃないのはわかっている。けれどただでさえ不器用な自分は、現実から目を背けるほど器用じゃない。
すると相馬の固い決意を感じたのか、野村はもう何も言わなかった。相馬を背負い、歩む足を早めた。
やがて離れていた本隊の姿が見えた。丁度休憩をとっていたようで追い付きそうだ。
そんな時にぽつりと野村が言った。
「お前は…俺の、半身なんだよ」
何故か。
何故かその言葉が、一番、相馬の決心を揺るがせた。



仙台で新撰組に合流したのは、それから数日後のことだった。
「野村、相馬!」
会津藩の降伏、奥羽越列藩同盟の瓦解を経て主君と戦場を無くした兵士たちが、続々と仙台の榎本武揚の元へ集まっていた。新選組も合流しているのだと噂で聞き、野村と相馬が探し回ると、皆より頭一つ出た姿を見つけることができた。島田だ。
長身で大きな手を振りながらかけてきた島田は、嬉しそうに顔をほころばせていた。
「無事か!」
野村と相馬の肩を叩きながら破顔する。
「島田さんもご無事で何よりです…!」
流山で別れて以来の再会だが、島田は特に変わっていない。見たところ怪我も無さそうで、新撰組は無事なのだとすぐに分かった。
「良く合流できたな。斉藤先生から彰義隊に合流するように勧めたとのことは聞いていたのだが…」
「そうです。偶然お会いして…そうだ、斉藤先生にお礼を申し上げなければ」
彰義隊に合流できなければ、あのまま路頭に迷い、ここまでたどり着くことはできなかった。斉藤を探して相馬が辺りを見渡す。
しかし斉藤の姿はなく、島田も顔色を曇らせた。まさか、と最悪の事態を想像したが
「斉藤先生は会津に残られた」
と島田が切り出した。
「もともと会津に所縁のある御方だ。戦況が悪くなり、次なる転戦を求めて離脱するべしと会津候からご命令をいただいたが…斉藤先生らはそのまま残られた。おそらく籠城されただろう」
「そうですか…」
会津が降伏したことは知っているだろう。だから安否はわからないが
「斉藤先生なら大丈夫だろ」
と野村が気楽なことを言ったので、何だかそんな気分になった。島田はそんな野村を「相変わらずだな」と微笑ましく受け止める。
(やはり…)
野村には新撰組が必要で、また底抜けの明るさと前向きさは新撰組に必要だ。決して卑屈になっているのではなく、ただ単純にそう思う。
「まあ、とにかく皆に顔を見せてやろう」
島田が「こっちだ」と二人を先導する。野村はそのあとに続いたが、相馬は
「…土方副長は、どちらへ」
と訊ねた。野村は眉間に皺を寄せた。事情を知らない島田はあっさりと土方の居所を明かした。
「土方副長はただ今、軍議中だ。そろそろ戻ってこられる」
「そうですか…」
「そんな顔をしなくても、すぐに会えるさ」
いったいどんな顔をしていたのだろうか。
死ぬことを意識して、強張っていないだろうか…?
島田が相馬の肩を叩いて、「ほら」と二人を急かす。野村は苦虫を噛み潰したような顔をして、でも何も言わずに島田のあとに続いた。







10


流山から別れた隊士たちのとの再会は懐かしさが込み上げるとともに、近藤局長を助けられなかったことを攻めようともしない彼らの優しさが、相馬にとっては苦しくもあった。
鳥羽伏見の戦いから戦い続け、負け続け、逃げ続けた新選組は満身創痍の疲れ果てた姿かと思いきや、誰一人そんなことはなく、あの京に居た頃の輝きを忘れてはいなかった。相馬と野村との再会に、諸手を上げて喜び互いに生きていたことの幸福を分かち合う。
「お前、良く生きてたな!」
ある先輩隊士が野村の頭を鷲掴み、乱暴に撫でる。相馬も親しかった隊士たちに囲まれた。北上するまでの経過を訊ねられて、彰義隊に加わったことなどを話した。
「会津は残念ながら降伏してしまったが、蝦夷に渡れば同じことは繰り返さない!」
「なんせ俺たちには最新戦艦があるんだからな!」
隊士たちが口々に今後の希望を述べ、「ともに頑張ろう」と励ました。相馬は戸惑いつつも、ここで水を差すわけにもいくまいと作り笑顔で頷いた。
誰一人、近藤局長のことを聞いては来ない。すでに亡くなられたことは知っているだろうに。自分が助けられなかったことを知っているだろうに。
(皆、優しいな…)
その優しさが、愛おしくて離れがたい温かさを与えてくれる。京に居た時から、新撰組以外に己の場所はないのだろうとわかっていたのに、今はより一層その思いが強くなる。
(だが…)
「土方副長!」
ひとりの隊士がそう叫び、それを筆頭に次々と隊士がある一つの方向を見つめた。相馬は背中にぞくりとしたものを感じ、唾を飲み込んだ。これは恐怖ではない、罪悪感だ。
「…元気そうだな、野村、相馬」
思った以上に穏やかな声。相馬は意を決して声のする方へ振り返る。
「あ…」
洋装の土方副長が声通りの穏やかさで相馬を見ていた。流山から投降した近藤局長を助けるべく、奔走していたあの時の表情とは全く違う。濁った水が、澄みきった川辺のせせらぎになったかのように、曇りがない。
「お久しぶりです…!」
駆け寄るや膝をついて挨拶をしたのは野村が先だった。歓喜に沸くかと思いきや、彼もまた苦しそうな顔で、地面に顔を付けるように頭を下げていた。
「ご苦労だったな」
土方副長は野村の肩に触れ、「もういい」と言わんばかりに顔を上げさせた。一切、苦悶の表情を浮かべずただただその整った顔立ちで微笑んでいた。そして土方副長はその表情のまま、相馬へと目線を移した。
「相馬も、重い役目を背負わせたな」
がくん、と。
がくんと、力が抜けて、相馬はみっともなく地面に腰を落とした。周りに居た隊士たちが「どうした?!」と駆け寄る。
鬼と呼ばれた男が、何故自分を罵倒しないのだろう。
何故助けられなかった。何故、お前は生きている。何故、ここに居るのだと…何故、罵ってくれないのだろう。
「相馬…?」
「ひ…じ…」
土方副長、と名前を呼ぶこともできない。全身の力が抜けて、しかし涙腺だけは緩んで、自分の頬に止めどなく涙を伝わせた。
「相馬…!」
土方副長の前で膝を落としていた野村が、相馬の元へ駆け寄った。そしてまた、彼は肩に触れて、「大丈夫だ」と言ってくれているかのように、優しく支えてくれる。
すると、まるで力を貰ったようにどうにか、身体を起こして、地面に深く深く頭を下げた。
「土方…副長……申し訳、ありません…!」
涙にかすれた声で、叫ぶ。みっともなく、格好悪い姿を皆に晒す。しかし、構うことなく慟哭した。
「私の…私のせいで…!」
あの日。
近藤局長が死に、自分たちが助かってしまったあの日から。
ずっとずっと、どう詫びればいいのか考えていた。許してもらおうという考えは一切ない。ただ、どう詫びれば少しでも土方副長の気が晴れるのだろうかと、考え込んだ。その結果、きっと泣ければ土方副長は困るだろう。責めあぐねてしまうだろう。だから、絶対に泣くまいと思っていたのに。
(そんなことさえも…できないのか…!)
「相馬」
土方副長が、その洋装が土に汚れてしまうのにもかかわらず、片膝をついた。「顔を上げろ」と言われて、相馬は躊躇いつつも泣き腫らした顔を上げた。
「お前が詫びることがどこにある…」
そんなの、たくさんある。
「私は…近藤局長を、助けることができま、せんでした…!それ、どころ…か、襲撃された沖田、せんせ…も、見捨てる結果になり…」
口にすればするほど、詫びることはたくさんあるというのに。どうして土方副長はそんなに穏やかな表情でこちらを見ているのだろう。
そんな優しさを与えてくれるくらいなら、死ねと言われた方がいいのに。
「どうか…切腹をさせてください…!」
相馬の言葉に、状況を見守っていた隊士たちがどよめいた。先ほどまでの感動の再会が吹き飛んでしまった。
「相馬…」
そして肩を抱く野村の、痛々しい声が耳を霞めた。能天気で楽天家の野村の、こんな風に感情を押し殺した声を初めて聴いた。
(ごめん…)
真面目で堅物で負けず嫌いだとお前は言ってくれていたけれど、けれどそれ以上に、自分は弱虫だ、意気地なしだ。お前の隣で生きていく価値は、きっとない。
「お願いします…!」
地に手を付き、土方副長に懇願する。しかし土方副長は全くい意に返さない様子だった。
「ひとつ、訂正しておく。…総司は、病で亡くなった」
「え…?」
その答えには、相馬とそして野村も驚いた。土方副長はくすりと笑う。
「襲撃されたのだとすれば、総司の奴はどうにか切り抜けたんだろうな。全く、大した奴だな…」
ふん、と嬉しそうに笑いつつも、土方副長はどこか寂しそうに思いを馳せていた。そしてまた、相馬自身も亡くなったということを初めて実感し、さらに体が重くなった。
(亡くなられたのか…)
思い出す。穏やかなあの微笑みを。稀代の天才と呼ばれていたあの人の、無垢な爛漫さを。
『あなたにとっての、半身は…』
そういえば、その答えを聞けていなかった。沖田はいったい何を言おうとしていたのだろうか。
土方はさらに続けた。
「…斉藤に聞いている。お前たちは千駄ヶ谷の総司の所へ行って、彰義隊に加わっただろうと。総司は…何か言っていたか?」
「ただ、土方副長へよろしくと…」
答えたのは野村だった。沖田は襲撃の際、逃げろと二人に言い放ち、穏やかに『土方さんによろしく伝えてください』と言った。
すると、土方は何かに気が付いた顔をした。そして「そうか」と頷くと、もう一度、「そうか」と言った。
そして相馬と野村を見た。その射抜くような強い瞳で
「だったら、切腹をさせるわけにはいかねえな」
と告げた。先ほどまで別人のように穏やかだったその表情が、少しだけ『鬼の副長』へ戻る。
しかし、相馬は食い下がった。
「な、何故ですか!どうか、お詫びをさせてください!俺は…!」
「相馬…!」
縋りつく相馬を、野村が止めた。しかし尚も、相馬は懇願した。
「俺は役目を果たすことができなかった…!局中法度で、裁いてください…!」
士道に背く間敷事。新選組の鉄則で死ぬことができるなら、最期まで新撰組隊士として死ぬことができるなら、それが本望だ!
「必要ないと言っている」
しかし土方副長は全く受け入れようとしない。死にたい奴は死ねばいい、と豪語していた鬼副長が、何故か自分を生かそうとしている。
嫌だ、いやだ。
相馬はもがいた。だったら勝手に死ぬまでだ、と刀に手を伸ばしたが、野村や他の隊士、そして島田に押さえつけられてしまう。
「死なせてください…!」
「いい加減に…!」
いい加減にしろ、と野村が叫ぶ。
だが土方副長が相馬を見て、何故が場違いに微笑んだ。
「総司が許したのに、俺が許さない訳にはいかない」
きっぱりと告げた理由。しかし相馬と野村、そしてその場に居た誰もがその意図を理解できなかった。
「副長…?」
「総司は、俺によろしくと言ったのだろう。だが…何故、近藤先生によろしくと言わなかったんだ?」
「あ…」
ぞくりと、一気に体が冷えた。野村も同じだったようで、相馬の腕を捕えていた力が抜けていた。
「総司は近藤先生が亡くなったことを知らなかったはずだ。最後まで、死ぬ時まで……だが、そうではなかったようだな」
全く騙されたな、と土方副長がため息をついた。
「あいつはきっとお前たちを笑顔で受け入れただろう。見舞いに来て嬉しいと…だから、もうお前たちは許されてる」
誰よりも、土方副長よりも、近藤局長を慕っているのは沖田なのだと古参隊士から聞いていた。幼い頃から師と仰ぎ、生活を共にした師匠には心酔と言ってもいいほどに焦がれているのだと。
その近藤を助けられなかったことを、あの勘のいい天才は気が付いていただろう。でも許してくれていた。受け入れて、そして助けてくれた。
「お前たちはその命を…総司が助けた命を、捨てるつもりか?」
「…っ」
止まっていた涙が、もう一度流れる。
「もういいだろう…相馬」
そして背後から聞こえた、優しい親友の声で、さらに止めどなく頬を伝っていく。
「野村…でも、俺は…」
震える声で、唇を噛んだ。
だって、でも、だったら、もう許してしまっていいのか。これでいいのだろうか。
これで、ちゃんとしているのだろうか?
「もういいよ…」
野村が背中から相馬を抱きしめた。重なった身体が震えている。彼も泣いているのだと、相馬はようやく知った。
土方副長は「やれやれ」と言わんばかりに、身体を起こして立ち上がった。
「お前が死んだら…野村も死ぬ。それは、嫌だろう」
「…土方副長…」
「だから、お前は生きろ。死ぬことは許さない。生きて、俺の役に立って…この戦に勝つために、死ぬ気で働け」
いつも余裕があって、見惚れるほど男前のその顔立ちで、土方は許した。
彼にとっては許すというほどのことでもないのかもしれない。彼はいつも前を向いて、過去を振り返ることを、嫌うのだろう。
「…っ、は、…い…!」
相馬は嗚咽を堪えて頷いた。すると土方副長は満足そうにうなずいて、そして背中を向けて行ってしまった。



「…泣くなよ」
そう励ましたのは相馬の方だった。
一騒ぎの後、平隊士たちは皆、相馬と野村を励ましてくれた。特に相馬には「死ぬなんて許さないからな!」と何人もの隊士から釘を刺された。堅物で生真面目でとっつき難いと思っていたのだが、思っていた以上に隊士たちに想われていたのだと、今更ながら思い知った。「死ぬ」なんて、今後は軽々しく言えないようだ。
「…うるせぇ…」
どうにか立ち直った相馬とは裏腹に、野村はまだ嗚咽を漏らしている。隊士や島田からもからかわれていたが、あまりに泣き止まないので相馬に押し付けられてしまった。
「っ、第一…おまえが、ずっと…死ぬ死ぬ…いってっから、俺は、もう何にもできねえんだって…だから、つまり俺なんか…」
「悪かったって…」
確かに、重々しく「土方副長の前で詫びて死ぬ」と隣で覚悟を決めていた親友がいれば、野村も気が気ではないだろう。今になって思えば、野村にはあの牢を出てから、心配を掛け続けている。
「ごめん」
改めて相馬は頭を下げて、野村に謝った。もう死にたいとは言わない。生き続けることをお詫びだと土方副長へ誓ったのだから。
「でも…現金なものだよな」
「あ…?」
泣き腫らした目を擦りながら「どういう意味だ」と野村は問い返してきた。相馬は曖昧に微笑んで、続けた。
「生きようと思ったら…この戦に、負けたくないって思い始めてるんだ。お前の言った通り、負けず嫌いなのかもな…」
「……っはは…!」
それまで泣きつづけた野村が、声を上げて笑った。相馬は何だか照れくさくて、「忘れろ」と言ったけれど、野村は嬉しそうに笑っている。
「そうだよ!」
肩を痛いほどに叩いて、野村は相馬を見た。
「お前は…俺以上に、新撰組のことが好きなんだよ!」
「…そうかもな」
ははは、と相馬も同じように笑いが込み上げてくる。そうして二人で声が枯れるまで笑い転げた。
本当は、聞きたいことが他にもある。
野村が「忘れてくれ」と言ったあの告白。「忘れてくれ」と言うことは、嘘ではないと言うことなのだろう。
(俺は…まだわからない)
野村の告白を、本当に忘れていいのか、受け止めていいのか…今は、まだわからない。
けれど、彼が言った「お前は俺の半身だ」という台詞だけは、その通りだと思う。
口にはしない。
だけど、同じだ。
俺にとっても、お前は、半身だ。
失うことは、できない。



-終り-






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