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若く 志半ばで 無念の思いを抱いて
いなくなった仲間のために、生き続けるべきだと思っていた。

でも、同時に

どう死ぬべきか考えていた――。



ソラカナタ -最終章-  前編 硯の海




明治八年、雪の舞う二月。
パカパカと小気味よい馬の蹄が鳴る。馬車に揺られながら、相馬主計は妻のマツと向かい合って座っていた。
「旦那様、懐かしい景色でございますね」
雪が降る東京に戻ってきたマツは周囲の光景を眺めながら、にっこりと相馬に微笑みかける。そんな無邪気なマツに
「ああ…そうだな」
と、相馬は曖昧に頷いた。
東京。
日本という国は長らくその都として京都を据えてきたが、数年前それをこの東京という場所に移した。今は産業も、文化も、人も、すべての中心がこの東京にある。相馬からすれば、かつて江戸と呼ばれていたその場所を東京と呼ぶことにすらいまだに慣れないが、そんなことに戸惑っている自分はきっと『時代遅れ』なのだろう。
(だが、実際、時代遅れなのだから、仕方ない)
心の中で苦笑したが、表情には出なかった。感情の起伏が表に出なくなったのはいつからだろう。
そんな無表情な相馬にマツは話しかけ続ける。
「豊岡での暮らしも穏やかでございましたが、東京はいつも賑やかで楽しそう…そうは思いませんか?」
「…煩くて、騒がしいとは思うが…」
「旦那様、それはひねくれていらっしゃいます。何事も前向きに捉えなくてはなりません」
遠慮ない口調のマツに相馬は「そうだな」と穏やかに返した。
マツは流罪になった伊豆新島で相馬の身柄を預かった大工棟梁・植松甚兵衛の娘だ。植松は寺子屋で子供に字を教える相馬を気に入って、マツと結婚させた。マツは島でも指折りの美人だがそれを鼻にかけることもなく、柔和な人柄で優しい。しかし言いたいことは口にする時に手厳しい性格でもあり、それが小気味よかった。そんなマツとともに過ごす時間に癒されて、相馬も結婚を承諾した。
「蔵前はもう少しでしょうか」
流罪になって二年で免罪され、東京に移り住んだが旧友の伝手で京都の北部にある豊岡県へ出仕することになり離れた。二年ほど豊岡で過ごしたが、今日からはまた東京の蔵前で暮らすことになったのだ。
「そういえば旦那様は、この後はご友人にお会いになるのでしたよね?」
「…ああ。今は京都にお住まいだが、用事があって東京に出てくるのだとあった」
「京…ですか。でしたら、豊岡で暮らしている時にお会いできたのでは?お近くだったでしょう」
「…なかなかそうもいかなかったんだ」
豊岡は都の北部にある。距離は離れておらず会いに行こうと思えばいつでも会い行けた。お互い、どこに住んでいたのかも知っていた。でもそれでも会いに行かなかったのはなぜだろう。
(俺もあの人も…あの頃の記憶に囚われたくなかったんだ…)
あの負け戦の記憶に、向き合いたくなかった。
しかしそれをマツに語るつもりはなかった。彼女は伊豆の離島で生まれたため新撰組のことは何も知らない。だから何も聞いて来ない…それが有難い。
「着きましたわ」
馬車が止まり、マツがうれしそうに笑う。相馬は「ああ」とそれに優しく返したのだった。


荷解きはマツに任せて、相馬は待ち合わせの場所に向かった。
文明開化と呼ばれるほど街並みや生活は変わり、相馬には目に映るものがすべて新鮮に思えた。行き交う人の服装も、建物も…数年前まで想像もできない変貌を遂げていた。髷を落とし、洋装に着替えた人々。以前は頭であった副長の服装が珍しく思えたが、今やそれが普通のことになっている。
(副長…土方、副長…)
あの人が生きていたら、この光景を見て何を思っているのだろう。
『ほら見ろ』
と得意げに笑っただろうか。
そんなことを考えたら胸が痛む。そして相馬は軽くなった左腰に手を伸ばした。刀を帯びることができない今、せめてもの思いで腰に扇子を差しているのだ。
浅草にほど近い下町を歩いた。文明開化の波が訪れても変わらない街並みにほっと安堵しつつ、目的の居酒屋に入った。
「いらっしゃいっ!」
江戸訛りの出迎えを受け、相馬は店内を見渡す。まだ昼間だというのに居酒屋は混んでいるが、一番奥の座敷から相馬に手を振る男がいた。
「島田先輩!」
「はは…っ懐かしいな、その呼び方」
その大きな口で笑ったのは、島田魁。新撰組の古参隊士として五稜郭までともに戦った戦友だ。大きな体躯は相変わらず良く目立つ。
「まあ座れよ」
「はい。すみません、お待たせしましたか?」
「そうでもないさ。そういう律儀なところは相変わらずだな」
島田は女中に酒を頼む。相馬は羽織を脱ぎつつ、向かい合う席に座った。そして改めて頭を下げた。
「お久しぶりです。何年ぶりでしょうか…お元気でしたか?」
「ああ。五年ぶりだな…俺はあの後、ほかの隊士と一緒に名古屋藩に預けられたんだ。完全に赦免になったのは二年前かな」
「そうでしたか」
「お前は…大変だったな」
新撰組の隊士の中で一番大きな罰を受けたのは相馬だったが、戸惑いつつ首を横に振った。
「いえ…流罪になって良かったと思います。降伏して、すべてが終わって…心の整理をつけたくて、遠い場所に行きたいと思っていましたから」
「…そうか…」
「はい…」
「…」
「お待たせしましたぁ」
二人がなんとなく言葉に詰まったところで、女中が酒を持って来た。お互いに注ぎあい「乾杯」と再会の祝杯を挙げる。島田が豪快にグイッと飲み干す姿を見ると懐かしさが込み上げた。昔からそうやって一気に酒を煽って、酔っぱらう人だった。
(想像もしていなかったな…)
こうしてまた一緒に飲むことができるなんて、あの五稜郭での別れの時には考えてもいなかった。すると島田も同じことを考えていたようだ。
「またこうして会えると思っていなかったな。お前を含めて幹部は皆、投獄されただろう?…それに、お前が流罪になったと聞いたときは驚いたよ。しかも何年も前の、伊東参謀の暗殺の容疑だって?」
「ええ。でも最初は坂本龍馬暗殺の容疑をかけられました」
相馬の言葉に島田は「何でもありだな」と苦笑した。
戊辰戦争と呼ばれた戦の終焉を迎え、幹部とされた榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介たちとともに相馬は東京へ送られ投獄された。相馬は牢屋を転々として坂本龍馬殺害、そしてかつての新撰組の同志であった伊東甲子太郎殺害の容疑をかけられたのだ。
「大石さんが捕縛されたことで、新撰組最後の隊長である俺にも疑いの目を向けられたようです」
大石鍬次郎はかつて新撰組でもトップクラスの剣の使い手だったが、新撰組が甲陽鎮撫隊と名を改めた頃に脱走をした。その後不運なことに新政府側に属した元隊士によって捕縛され、厳しい詮議を受けた。そして伊東甲子太郎殺害の容疑を認めたのだ。
「大石鍬次郎か…あいつは…」
「斬首です」
「…そうだったな」
伊東甲子太郎暗殺に直接的にかかわった大石は処刑された。そして同じく罪を認めた相馬も流罪になったのだ。
「坂本龍馬暗殺については以前近藤局長から『見廻組の仕業だ』と伺っていましたから、新撰組は関わっていないのだと断固として主張しました。やってもいない濡れ衣を着せられるのは不名誉ですから。でも伊東参謀の件は…」
「お前は関与していないだろう?」
「いえ…それでも、新撰組が関わったことは間違いないです。ですから、相馬主計個人としてではなく、新撰組の隊長として裁かれなければならないのだと理解しました」
新撰組としての過去は偽ることはできない。敗者は敗者なりの誠実さと誇りを持つべきだと思い、相馬は素直に詮議に応じたのだ。
すると島田は複雑な表情を浮かべた。
「申し訳ない。隊のことを裁かれるのなら、古参隊士である俺や尾関が裁かれ責任を取るべきなのに…」
尾関は島田と同じころに入隊した隊士だ。ともに五稜郭まで戦い続け、敗戦の後は土佐藩に預けられた。
「いいえ…土方副長から、こうなるだろうということを聞かされていました。負け戦の大将なんて良いものではないと…だから、覚悟はできていました」
『この戦に負けたら…なおのこと、責められる立場になるだろう。お前ひとりが責任を負うことになるかもしれねえ…貧乏籤だ』
あの箱館の海で、新撰組の頭となるべきか迷う相馬に対して、土方は予めそう口にしていた。この結末は彼が予感していたことが的中しただけのことであり、相馬にはその覚悟があったのだから想い処罰を受けたことには何の恨みも後悔もなかった。
「ですから、島田先輩や…皆さんには気に病まないで欲しいのです。俺が果たすべき責任だったのですから」
「…お前がそう言ってくれるなら、気が楽になるよ」
島田は頷いて、安堵の表情を浮かべた。そして通りかかった女中を掴まえてツマミを適当に頼む。相変わらず居酒屋は客で賑わっていて、島田と相馬の会話は喧騒の中に消えていた。
「それで…お前、嫁を貰ったんだって?」
「…ええ」
その件は、既に今日の再会を果たす手紙で知らせていた。島田は興味津々という様子だ。
「どういう女なんだ?」
「流罪になった伊豆で出会った方です。マツと言って…俺よりも少し年は下ですが、しっかりした女性ですよ。また紹介します」
「へえ、おマツさんか。…じゃあ、赦免されて東京に移住したのか」
「はい。まあ、移住と言ってもすぐに豊岡に出仕して…東京には今日戻ってきたばかりです」
「そうだ、それも気になっていたんだ。豊岡では出世したんだろう?どうして仕事を辞めたんだ?」
「…」
相馬が口ごもったところに、丁度女中がツマミを持ってくる。浅漬け、揚げ出し豆腐、筑前煮…小鉢が並び殺風景だった机が埋まった。
相馬は一息ついて、返答した。
「辞めたわけではありません。新政府に出仕するのは不本意でしたが、旧友の紹介でしたし司法の仕事はやりがいのあるものでした」
「だったら…」
「わかりません。突然、免官を言い渡されました」
「なぜだ?」
「…豊岡は都に近いですから。俺がもともと新撰組の隊士だという話が広まったのでしょう」
初めは十五等出仕として勤務し、翌年十四等出仕に昇進した。しかしそのことが相馬を目立たたせ、新撰組の隊長だったということが広まってしまった。心無い陰口や因縁をつけられることも多く、このままでは何も知らないマツも傷つけられるのではないかと危惧したものだ。
相馬の返答に島田は苦い顔をして、
「…悔しいな」
と腹立たしげに、しかし静かに呟いた。新撰組という過去に縛られて悔しい思いをしているのは相馬だけではない。敗者である島田もまた同じような場面に出会ったのだろう。
相馬は笑った。すべては過去のことだ。
「俺の話はもう良いでしょう。島田先輩こそ、今はどのような暮らしを?」
「…ああ、まあ、褒められたものじゃないさ」
島田は頭をかいて、何かを誤魔化すようにツマミに手を伸ばした。
「赦免されてから…何をしたらいいのかわからなくてな。伝手を頼って京都に戻った。しかし、道場を開いてみたがそんな時代ではないし、商売に手を出したところでうまくいくわけでもない。まあ…細々とした生活だよ」
曖昧に濁した返答に、相馬は「そうですか」と深く尋ねることはできなかった。彼の口から『細々』という言葉を聞くと、これまでの道のりの過酷さを感じさせた。
島田は「そうだ!」と手を叩き、話を切り上げた。
「相馬、市村のことは聞いたか?」
「市村…?もしや、市村鉄之助君ですか?」
相馬は遠い記憶を呼び起こす。
新政府軍が蝦夷に上陸を果たしついに開戦を迎えた際、土方は二股口に出陣した。その際に小姓とした若かった市村を連れ、そのまま戦場を離れた。土方は彼を生かすために日野に向かわせたのだと語っていたが、その後は話を聞いていない。
「数年前まで土方副長の姉上の嫁ぎ先である、佐藤家に匿われていたそうだ」
「え?ということは…」
「ああ。あいつは副長のご命令通り、あの戦火を潜り抜けて遺品を届けた。先生の写真や遺髪、愛刀だった和泉守兼定が日野にあるんだ!」
「…」
熱く語る島田は心底嬉しそうだ。あの戦で居なくなった土方の姿が、まだ在るのだと。まるで土方がそこにいるのだと、そう信じているような。
そして相馬もまた胸が熱くなった。
「…市村君はやり遂げたということですね」
あの幼かった少年兵は立派にやり遂げた。誰よりも新撰組の役に立ちたいのだと息巻いていた彼が、別の形とはいえその志を遂げたことが相馬には嬉しかった。
「それで市村君は今どこに?」
「ああ、詳しくはわからなくてな。大垣に帰ったとは聞いている」
「そうですか…でも彼なら今頃は精悍な大人になっていることでしょう。ぜひ会いたいですね」
最後に彼を見たのは十五くらいだったので、今頃は二十歳を超えている。あの初々しく血気盛んな姿からは想像できないが、立派に成長していることだろう。
その後は、五稜郭から生還した隊士たちの話で盛り上がった。島田は新撰組にいた頃と変わらず、隊士たちから頼られる『兄貴分』のようで、今でも親交があるらしい。その彼から隊士たちの名前や彼らの後の現状を聞き、懐かしい気持ちでいっぱいになる。降伏してから離れ離れになってしまった仲間たちが生き続けている…ただそれだけで安堵した。
それから話は尽きずに、ついには夕暮れ時になってしまった。マツには夜には戻ると告げていたのだ。新居で相馬の帰りを待ち侘びていることだろう。
「島田先輩、そろそろ…」
「あ、ああ…そうだ、懐かしくてつい話しすぎてしまった。あまり遅くなるとお内儀が心配するな」
島田は少し茶化したものの、まだ何か言いたげな表情を浮かべていた。相馬は持ち上げていた腰をもう一度おろす。
「…島田先輩。お伺いし忘れたことがあります」
「ん?」
「今日は…どうして江戸に?名古屋で赦免されてからはずっと在京していらっしゃったのに…何かこちらに用事でもあったのですか?」
「……」
核心をつかれたのだろう。島田は少し呆けた顔をしていたが、すぐにふっと笑った。
「そういう鋭いところも相変わらずだな、相馬」
そして彼の表情が真摯なものに変わったので、相馬もまた居住まいを糺した。
「大橋山三郎と上田安達之介のことは覚えているか?」
「…苗字は違うものの、確か兄弟でしたよね。もともとは旗本の家臣で…新撰組には箱館で入隊し、そのまま降伏した…」
「そうだ。降伏後は俺とともに名古屋藩預かりになって、同じ時期に赦免された」
「彼らがどうしたのです?」
相馬からすれば、箱館で入隊した隊士とは関りが薄い。むしろ古株の島田とともに禁固処分を受けていたことの方が意外だった。
島田は少し声を潜めた。
「あいつらがどうも息巻いている。榎本総裁…いや、今は海軍中将か。その榎本さんが新政府の軍門に下ったことが許せないってな」
「…」
榎本武揚は降伏後、相馬とともに牢獄に収監された。敗軍の将である榎本はそのまま処刑される覚悟だったようだが、榎本の留学経験や才能を評価していた新政府軍の黒田清隆ら一部の人間によって除名が主張され、明治五年に特赦、謹慎後に放免となった。その後はその黒田とともに北海道開拓使を務めて昇進、またロシア帝国との交渉役も引き受け駐露特命全権公使に任命され、ついに念願の海軍中将にまであっという間に上り詰めた。
「榎本さんは政府の要人、もう手の届かない雲の上の人だ。許すも許さないも、俺たちが何かできるわけじゃないと説得したんだが…」
新政府軍での活躍。それは榎本自身の素養と幕臣時代の留学経験による知識の賜物と言えたが、ともに戦った旧幕府軍としては面白くはないだろう。
相馬は眉間に皺寄せた。
「まさか、危害を加えるようなことを考えている…ということですか?」
「…わからない。ただ、弁天台場での降伏の時、最後の最後まで抵抗していたのがあの兄弟だった。死ぬまで戦うべきだと最後まで主張していた。その時のわだかまりが彼らの中に燻っているのかもしれない」
それまで陽気に懐かしい話をしていた時とは打って変わって、島田は深刻な表情だ。今日、相馬を呼び出したのは、この件が本題だったのだろう。
しかし相馬はそのことについて打開案を口にすることは憚られた。
「…そういうことなら、俺は何も言えません。降伏を決めたのは俺ですから」
(俺が、俺の考えだけですべてを終わらせてしまった)
その想いは、常に相馬の中にあった。
土方の遺言がであったとはいえ、弁天台場での降伏を強行したのは相馬だ。島田も隊士を説得して回ったものの、納得できないまま負けを認めた隊士もいただろう。そのことをずっと気にかけていて、実際にそういう思いを抱えたままの者がいたのだ。
「しかし、相馬…」
「それに辞めたとはいえ、俺もついこの間まで新政府に出仕していた身です。そんな俺が彼らに何を言ったところで…届かないでしょう」
流罪を解かれ、職もないなかマツとともに生活をするための出仕だった。とはいえ、榎本と同じように恨まれてもおかしくはない立場であることは間違いない。
しかし島田は食い下がった。
「俺は散々、あいつらを説得したが、それでもダメなんだ。きっともうあいつらは東京に来ている。俺は気が気じゃなくてここまで追ってきたんだ。力を貸してくれ、相馬!」
「…しかし…」
「お前が言ったんだろう。俺たちは、降伏して離れ離れになっても新撰組で在り続ける。だから新撰組の法度を破るわけにはいかない!」
法度。
局中法度――。
「…私の闘争を許さず、ですか?」
「ああ、そうだ…!」
かつてきつく戒め続けた法度。口にすると言いようもない懐かしさと胸を締め付けるほどの温かさを思い出す。
そしてほとんど反射的に相馬は頷いていた。
「…わかりました。俺に何ができるのかはわかりませんが…」
(俺はまだ…新撰組に、囚われている…)
その事実は、なぜか気持ちを高揚させた。


蔵前の家に戻る頃は、すでに夜も更けていた。
「おかえりなさいませ」
マツはランプに火を灯し、相馬の帰りを待っていた。すでに荷解きを終えて狭い貸家はすっかり片付いている。
「すまない、遅くなってしまった」
「もう!あんまり遅いので片付けが終わってしまいました」
「す、すまない…」
相馬が再度謝ると、マツは「ふふ」と満足そうに笑った。
「…冗談です。旦那様がご友人と時を忘れておしゃべりされているのだと思うと、嬉しくて」
「嬉しい?」
「今だって、とてもお顔が楽しそうですもの」
マツは手にしていたランプを相馬に翳す。ランプの光に照らされた相馬の表情は、彼女には明るく見えるのだろう。
「…そうかな」
「ええ、そうです」
また嬉しそうに微笑んだので、何だか恥ずかしくなって「もう寝る」と言って床に就くことにした。
(マツは見たことがなかったのかもしれない)
マツは罪人としての相馬しか知らない。新撰組の余韻を残した夫の姿など見たことがないのだろう。それを「嬉しそう」だと彼女が言うのなら、島田との邂逅は良い機会だったのだ。
ランプを消して、横になる。
「おやすみなさいませ」
「ああ…お休み」
言葉を交わすと、マツはすぐに寝息を立て始めた。豊岡から東京に移り、荷解きを任せてしまったので疲れていたのだろう。先に寝ていればいいものの、律儀な妻だ。
しかし、一方で相馬はなかなか寝付けなかった。真っ暗闇の中、思考を巡らせる。
(大橋と上田…)
顔はぼんやりとしか覚えていない。口をきいた回数も数えるほどしかない。でもあの降伏の際、説き伏せる島田に対し
『降伏なんて認めない』
『ありえない』
と誰よりも強く抵抗していた光景だけは印象に残っている。
(この時代になっても、彼らは諦めていないのか…)
明治維新と呼ばれる革命は、政治だけではなく人の暮らしを、文化を、その景色さえも変えてしまった。これまで信じていた慣例や行為のすべてが次々否定されたが、次第に人はそれを受け入れ、染まっていった。
相馬もその波に飲まれた。昔の生き方に固執することを諦め、新政府に対する蟠りを捨てて出仕したのがその証拠だ。きっと多くの隊士たちも同じように諦めただろう。生きる目には己の信念を曲げざるを得なかった…そのなかで彼らだけはまだ拘り続けている。
(…素直に、羨ましいと思うな)
その熱情が、今の相馬にはない。そんな自分に彼らを止めるために何ができるというのだろう。
何か方法がないか…それを考えているうちに、ウトウトと眠気が襲ってきた。身体中の力が抜け、安らかな温かさに包まれたとき、夢に落ちた。
『相馬』
強く、凛々しい声に呼ばれ、相馬は答える。
『――土方副長』
土方はあの真黒な洋装に身を包んでいる。巷で洋服を着る者は増えたが、この人ほど似合う人を相馬は知らない。相馬はとっさに頭を下げた。でも
(…ああ、夢だ)
その事実を苦しいほど、わかっていた。しかし、わかっていても相馬は尋ねずにはいられなかた。
『副長、俺に何ができますか…?』
負け戦を受け入れられず、この世で生きづらいのだと叫ぶ者の為に。
(俺に何ができますか?)
すると土方は端的に答えた。
『戦え』
と。
まるで戦の最中のように強い口調で、凛々しく強い。その声を聴くだけで自然と背筋が伸びるようだ。
だが、相馬は戸惑った。
『副長…戦は終わりました。俺はもう刀すら持っていないのです』
武士であることを捨てなければこの世では生きることができなかった。戦い続けることができなかったからこそ、降伏という道を選んだ。もう武士ではない。
すると土方は首を横に振った。そして少し笑った。
『戦うのは戦場だけではない。お前の志を貫け』
『志…ですか?』
『ああ…新しい新撰組の、新しい志だ――』
その声は、木霊した。



翌日は雪が止み、晴れ間が差し込んでいた。今日も出かけるとマツに伝えると、彼女は目を見開いて驚いた。
「今日も、ですか?」
「ああ。職探しをしなければならないのは承知しているが…少しやらなければならないことができた。それが解決するまでは待ってほしい」
「あの…昨日の、ご友人とご関係が?」
「まあ、そんなところだ」
詳細を語るわけにはいかず、相馬はマツに曖昧に話す。すると彼女は顔を綻ばせて大きくうなずいた。
「…構いません。旦那様のお気のすむようになさってくださいませ」
「ありがとう。今夜は戻れないかもしれないから、先に寝ていなさい」
「はい」
マツは相馬に友人ができたことを快く思っているようだ。家を出ていく相馬を手を振って見送った。
彼女の元来の性格かもしれないがどこか人の心を読むことに長けているようで、踏み込むべきところは踏み込み、そうではないところからは一線を引く。昔から罪人の相馬に対しても見下げることもなく接し、心地よい距離を保ってくれる。
(あの日…俺はそんな彼女に救われた)
伊豆の離れ島で暮らす日々は、相馬にとって余生のようなもので、死にゆくまでの時間を過ごすだけだと半ばあきらめていた。しかしそんな風に生きていると、人というものは生きているのか死んでいるのか自分ではわからなくなってしまう。生と死と、過去と現在…その狭間でずっとゆらゆらと揺れているように。そしてその道を一歩踏み外せば、そのまま絶望へと落ちてしまいそうな場所だった。
ある日、尋ねた。
『私は…生きていますか?』
大切な人を失い、降伏の騒がしさから離れ、ようやく流れ着いた場所。ふわふわと浮いているような浮遊感に頭がおかしくなりそうで、涙が零れた。
その問いかけに当時から相馬の世話を焼いてくれていたマツは答えた。
『貴方は…生きていますよ。私の、傍で』
赤子をあやすように抱きしめて、彼女はそう答えてくれた。穏やかで優しい波が海岸に打ち付け、心の痛みを攫って行くかのように。
彼女に許されている…誰かに受け入れられている。この存在を認めてもらっている。そう感じることで、疲れ果てた心が癒されたのだ。
(そういう意味では『あいつ』とは違うな…)
ふっと脳裏に浮かんだ顔――…しかしそれ以上考えるのはやめた。思い出すことを止めることが、あの悲しみを思い出さないことなのだと何度も言い聞かせたからだ。
相馬は馬車を呼び止め、東京の西の郊外までやってきた。田舎道は馬車ではいけないので、そこから先は歩くことになる。延々と広がる田園風景。風に乗って流れる草木の匂い。レンガ造りの家など一軒もなく、木造の家屋が並ぶ。東京から目と鼻の先のはずだが、まだ江戸と呼ばれていた頃の風景が残っていて、相馬は自分の田舎でもないのになぜだかひどく安堵した。
そして往来する人々に道を尋ねながら、目的の場所に辿り着いた。
「ここか…」
多摩の石田村…土方の故郷だ。彼の実家は地元では「お大尽」と呼ばれているようで、豪農らしく家もなかなか立派だ。
相馬がここにやってきたのは、島田から市村によって土方の遺品が届けられたと聞いた…というのもあるが、昨晩、彼が夢枕に立ったからだ。まるで土方から会いに来いと言われているような気がして、いてもたってもいられなかったのだ。
しかし、彼の生家は人の気配すらなく、出入りしている様子もない。
(誰もいないのか…)
これほどの豪農ならば沢山の使用人を抱えていそうなものだが、まるでもぬけの殻のようにひっそりと静まり返っていた。「すみません」と何度か声をかけるが返答がない。躊躇いつつも相馬が一歩足を踏み入れると玄関先に何本かの竹が植えられているのが目についた。細い竹だが、まっすぐに天へ伸びている。整然とした姿で。
(まるでこの竹だけが…ここで生きているようだ)
そんなことを考えながら相馬がぼんやりとその先を見上げていると、ガサッと音がした。
「それは歳三が植えた竹だよ」
「!」
急に声をかけられ相馬は驚いて振り向くと、腕を組み、穏やかな表情で佇む男がいた。年は四十を過ぎた頃合いで貫禄のある佇まいだが、相馬はその顔に見覚えがあった。
「もしや…春日隊長ですか?」
「ははは!その名前で呼ばれたのは随分久しぶりだ!」
快活に笑う彼は春日盛…土方の義兄にあたる佐藤彦五郎だ。新撰組が甲陽鎮撫隊として甲州勝沼の戦いに挑んだ際に、彼はこの多摩の地で春日隊(農兵隊)を結成し参戦した。当時、相馬は近藤たちが開いた故郷の人々との宴会の席で佐藤と面識があったのだ。
「今は佐藤俊正と名乗っている。君は…相馬肇くん、そうだね?」
「はい…私も、今は相馬主計と…」
あの頃は一介の隊士でしかなかった自分を、佐藤が覚えていることに驚いた。そして彼は相馬の改名を聞き「そうか」と少し表情を落とした。
「新聞でその名前を見たが、やはり君だったのか。…大変だっただろう」
「…いえ」
新聞…ということは五稜郭で降伏した幹部八人のなかに自分の名前があったはずだ。それを佐藤は知っているのだろう。
相馬は「それよりも」と話を切り上げた。
「これは土方先生が植えられたものなのですか…?」
「ああ。幼いころにね。武士になったらこの竹で矢を作ると言って植えたらしい。あれは昔から武士になりたくて仕方なかった…そういう子供だったんだよ」
「…先生らしいですね」
鬼と恐れられたあの冷徹な土方にもこんな時代があったのかと朗らかな気持ちになる。
佐藤は「中に入ろう」と相馬を家に招き入れてくれた。外から見ていた通り、中に人はいない。長い廊下を歩きながら佐藤はその疑問に答えた。
「どの時代でも戦に負ければ大罪人だ。昔はお大尽だとか言われていたが、住みづらくなってね…今では使用人も雇うこともなく、別に家を借りてひっそりと暮らしている。たまに私のように世話の為に帰ってくるだけだ」
「…そうでしたか」
敗戦後の生きづらさは本人だけではなく、血の繋がった人々も同じだ。そのことを相馬は今まで考えたことがなかった。
相馬は客間に通される。佐藤は「茶を入れてくるから待っていてくれ」と言って去っていった。
人の気配のない広い家は、中に入っても静かなままだ。だがこの場所で土方が生まれ、育ったのだと考えると感慨深い。彼はきっと、恵まれた環境で育ったはずだ。末っ子だということだからどこか良い家に婿養子にでも行って、穏やかに暮らしていけたはずなのに、彼はそれを選ばずに厳しい道を歩んだ。
武士になりたいと竹を植え、剣術を身に着けて都に上った。そして新撰組の副長として名を馳せ、五稜郭まで戦い続けた…そのすべての始まりがここにある。
相馬は客間から見渡せる庭を眺めた。春を待つ草木はまだその芽を生み出してはいない。ここで少年の頃、木刀でも振るったのだろうか…そんなことを考えていると、佐藤が戻ってきた。相馬に茶を差し出し、腰を下ろす。
「君がここに来たということは…市村君のことを聞いたのか?」
「…はい。もともと市村君を二股口の戦いで離脱させたことは、土方先生からお伺いしていました。無事に日野に着いたと聞かされたのは昨日ですが…」
「そうなのか。市村君は誰にも話すなと言われてここを訪ねてきたようだが…君は信頼されていたんだな」
佐藤は素直に驚いたようだが、相馬は曖昧に頷いた。
信頼はされていたように思う。けれど、その信頼にこたえることができたのかということはわからなかったからだ。
佐藤は腕を組みなおした。
「市村君が歳三に命令されて遺品を届けさせたと知った時、あいつが大人になったと思った。バラガキで手に負えなかったあいつが、最後の最後には残された私たちの心を慰めるために彼を寄こしてくれたんだと…」
以前、近藤が語ったことがある。二人は昔からの幼馴染で喧嘩っ早く周囲から『バラガキ』だと笑われていたと。佐藤は感慨深く語り、相馬も頷いた。
「『生きていてほしい』と…土方先生は言っていました」
「歳三が…?」
「若い市村君はここで死ぬべきではない…それよりも長く生きて、証明してほしいと」
「証明…?」
「…俺たちが何故戦い続けたのか…自分たちの正しさを、生きて証明する…」
――そう、それは。
(あいつの、言葉だったはずだ…)
宮古湾に向かう前に、満面の笑みで言った。
だから死なない。死ぬわけにはいかない。お前と生きる、お前とずっと一緒にいる――。
そう、誓ったじゃないか。
「そうか…負けず嫌いだからな。負けたとしても自分がおこなったことは、正しいと皆にはわかってほしかったんだろう。……相馬君?顔色が悪い」
不意にあの時の記憶に落ちそうになったが、佐藤の言葉で引き戻される。
「い…いえ、何でもありません」
相馬は頭を振って、差し出された茶に手を付けた。それ以上詮索されると何かが崩れてしまいそうだったが、佐藤は何も聞かなかった。
「あの、できれば土方先生の遺された品を…拝見させていただきたいのですが」
「もちろんだ。君はそのために来たのだろう」
佐藤はすぐそばにあった小さな行李を引き寄せた。そしてその中にあるものを相馬の前に出す。一番最初に目についたのは、土方の刀だ。
「和泉守…兼定…」
「ああ、立派な刀だ」
相馬のなかで何かがぐっと込み上げた。土方がこの刀を帯び、戦っていた姿を思い出す。浅黄色の羽織でも、洋装の衣服でもこの刀はいつも輝いて見えた。
「それから…これは写真だ」
「写真…ですか?」
「ああ。いつ撮ったのかはわからないが、おそらく箱館に渡ってからだろう」
佐藤から手渡されたのは白黒の写真。そこには在りし日の土方の姿が残っていた。精悍で凛とした表情、堂々とした姿…あの頃の記憶がさらに鮮明に蘇るようだ。
(先生は…どんな気持ちでこれを撮ったのだろう…)
自分の最期の姿になるとわかっていて撮ったのかもしれない。
佐藤はさらに文箱から一枚の紙を手渡した。
「これは…」
「手紙だ。市村君のことをしっかり世話してほしいと書いてある。それから…辞世の句だ」
「辞世…?」
土方からも、そして島田やほかの隊士からも辞世の句があるという話は聞いたことがなかった。誰にも伝えられていなかったのだろうし、やはり土方はあの戦いで死を覚悟していたのだと知る。
相馬は土方の字で書かれた辞世に目を通した。

『たとえ身は蝦夷の島根に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらん』

「東の…君…」
「それが何を指すのかは色々な意味があるだろう。将軍様や天子様かもしれないし、私たち家族のことかもしれない。しかし歳三がいまでも私たちを見守ってくれているのだと…いまでも感じるんだ」
彼が亡くなってもう何年も過ぎた。あの時は死んだのだと永井から聞かされただけで、誰に言われてもすぐには信じることができなかった。しかし時を経て、本当にいなくなってしまったのだと実感した。
でも、その辞世の中にいま彼は生きている。魂が眠っている。
「副長…」
そう呼べば、何かを返してくれそうで。



一方。
島田は浅草で道に迷っていた。
「困ったなあ…」
人ごみのなかで途方に暮れて立ち尽くしてしまい、大きな体躯が思わず猫背なる。江戸は昔、剣術の修行で滞在したくらいでほとんど土地勘はない。加えて京の十字路に慣れているせいか、曲がりくねった道は歩けば歩くほど島田の頭を混乱させた。
「確か蔵前だと聞いたが…」
昨日、東京にしばらく滞在することを話すと相馬はいつでも訪ねてきてほしいと言い、住所を教えてくれた。早速、その紙切れを頼りにさまよっているのだが、どうにもそれらしい住まいはない。彼らもまだ越してきて間もないとのことで、夫妻を知っている者もいなかった。
「むむ…」
「もし」
島田が頭を悩ませていると、女性に声をかけられた。小柄で細身の女性は文明が花開いた東京の中で、地味な着物に羽織を着て、大きくまっすぐな瞳が印象的だった。大きな体躯の島田に対し、何の恐怖心もなく話しかけてくる。
「お困りですか?」
「は…はあ、まあ…知人の家を探してまして…」
「まあ。わたくしもまだこちらに来たばかりでお役に立てるかはわかりませんが…どちらへ?」
「蔵前の…相馬主計君の家です」
「旦那様?」
女性がはっと目を見開いてまじまじと島田を見た。
「もしかして…旦那様のご友人ですか?」
「でしたらあなたは…おマツさん?」
「そうです!相馬主計の妻マツです!」
マツは心底嬉しそうに目を見開いて、島田に飛びつかんばかりに喜んだ。
「こんなところでお会いできるなんて!旦那様が昨晩はとてもうれしそうだったから、どんな方なのかお会いしたかったのです!」
「は、はあ…私も、まさかこんなところでお会いできるとは…島田魁です、どうも」
マツは子供のようにはしゃいでいたが、島田は戸惑った。相馬から聞いていたマツのイメージはしっかりして落ち着いた女性だということだったのだが、随分子供っぽく感じたからだ。
「ああ、でも旦那様は今日はお出かけなのです。戻りも遅いと伺いました」
「そうですか…でしたら、出直しましょう」
「島田様、よろしければお茶でも飲んでいかれませんか?我が家はすぐそこです」
「し…しかし、相馬君がいないのなら…」
「構いません!」
マツは島田の腕を引いて歩き出す。振り解けないわけではなかったが、マツの喜びに水を差すわけにもいかず
「では一杯だけ」
と、従うことにした。
島田は案外すぐそばまでたどり着いていたらしい。歩いてすぐにあった二人で暮らしているという家は思った以上に質素なもので、部屋に小さな机とマツのらしい衣装箪笥があるくらいだ。
「その…すっきりしたお住まいで」
「旦那様が物に固執されないのです。豊岡からこちらに越す際に要らないものはすべて捨てました。私ももともと島から嫁いだ身で嫁入り道具もさほどありませんから」
「…そうですか…」
島田は玄関先で「ここで結構」と腰を下ろした。相馬がいない中で易々と家に上がるわけにはいかない。
「相馬君は、今日はどちらへ…?」
「わかりません。ただ『やらなければならないことができた』とそれだけ…」
「…」
やらなければならないこと。それはもちろん大橋と上田の件だろう。詳細をマツに話していないのは心配をかけないようにという相馬の気遣いだ。
マツは膝を折り、島田をまじまじと見た。
「島田様は、その…『シンセングミ』のお仲間ですか?」
「はい。入隊は俺の方が先ですが…最終的には、俺は相馬君の部下です」
「部下…ですか?」
マツは目を見開いた。相馬よりも年も上でガタイの良い島田が部下というのが意外だったのだろう。
「もしや、相馬君が新撰組の隊長だったというのも…」
「…隊長?旦那様が、隊長ですか?」
島田の言葉に、マツは口に両手を当てて驚きを隠せずにいた。
「初耳ですか?」
「え、ええ…旦那様は昔のことはお話にならないのです。ただ、私は流罪になった島で噂で…『シンセングミ』という軍の一人だったとしか」
「…そうでしたか」
島田は理解した。マツの口から発せられる「新撰組」という言葉のたどたどしさは、彼女が政治的な関りのない島で育ったゆえのものなのだ。
(むしろ相馬にとってはそんな彼女だからこそ嫁に迎えたのかもしれないな…)
知らないことは、詮索もされない。相馬が話さない限り、彼女は何も知らない。そんな居心地の良さを彼女に感じているのかもしれない。
「その、『シンセングミ』というのは…?」
「いや…まあ、ただの傭兵です。幕府軍として戦って…ただ、それだけです」
島田は余計なことを口にしないように話を切り上げた。マツはもっと興味深そうにしていたが、しかし無理に聞き出すことはなかった。
「それよりも、相馬君との暮らしはどうですか?」
「穏やかですわ。生活では生きづらいと感じることはありますが、私にはそれが苦にはなりませぬ」
「…真面目で良い男です。あなたのことも末永く大切にするでしょう」
「そうでしょうか…」
それまで明るかったマツの表情に影が差す。何てことないやり取りだと思っていた島田は戸惑った。
「おマツさん…?」
「旦那様はいつも優しくて…怒ったことなど一度もございません。でもそれは穏やかで優しいからではなくて…旦那様はそういうお気持ちを、どこかに忘れてきてしまったかのように感じます」
「……」
マツの感じている不安は、島田にも理解できた。
昨日、久々の再会を果たし思い出話に花が咲いた。しかし、一方的に話す島田の話を受け止めているだけで、相馬は自分のことを語ろうともせず過去のことも口にはしなかった。あの頃に比べると、あまりに無気力で微笑んだ表情にも力がなくて。
(全部…捨てたようだったな…)
そして不自然なことに、『あの名前』を口にすることもなかった。目を背けるように、彼のことを何も言わなかった。
「おマツさん、野村という名前を聞いたことはありませんか?」
「……」
島田の問いかけに、マツは少し戸惑う表情を見せた。そして自身が淹れた茶に手を伸ばして口に含み、ゆっくりと語り始めた。
「…私たちが出会った伊豆の島には昔から多くの罪人がやってきます。その人が本当に罪を犯したのかどうかはわかりません。でもただただ、絶望し生きる気力を失った者がやってくるのです。…でも旦那様は違いました」
「違う?」
「旦那様は…歯を食いしばるように、生きていました。本当はもう終わりにしてしまいたいと思っていたのかもしれません、何もかも捨ててしまいたいとそんな衝動に襲われることもあったでしょう…。でもそんななかどうにか自分を納得させていました。寺子屋を開いて子供たちに読み書きを教えて…でも、そんな旦那様が唯一悲しい顔をされるのは、夜の海を見ている時です」
「海…」
そうだ、彼は海に落ちた。
その光景を、相馬は見ている。一番近くで――。だから彼を失ってから、相馬はしばらく箱館の海の波ばかり追いかけていた。
「わたくし、一度こっそりと覗いたことがあるのです。相馬様はこんな暗い海を前に、何をしているのかしらと…軽い気持ちでした。そうしたら…『野村、どこにいるんだ』…とそう何度もつぶやいていました。旦那様は島の海を硯の海だと言っていました」
「…硯…」
墨汁を蓄える硯の海。
真っ暗で何も見えない海のどこかに姿を探すように、相馬は毎晩毎晩、そうしていたのだという。マツはその姿を見てはいけなかったのだと己を叱ったのだと。
その話を聞いて、島田は恥じた。
(何も終わってなどいない…)
流罪を解かれ、新政府に出仕した相馬はきっと新しい一歩を踏み出したのだろうと思っていた。嫁を貰い、野村のことを忘れて彼女とともに新しい生活を始めているのだと。
(忘れているわけがない)
野村を失った悲しみを、傷を、どうにか誤魔化して戦い、降伏した。そのあとに遠い島に流されて、改めて野村の死に向き合ったのだろう。
そして本当に、野村がいないことを実感した。その深く暗い海のどこかに探しても、探しても、もう二度と会えないのだと悟った。
彼がその痛みを繰り返して、もう何年になるのだろう。
「島田様…わたくしは、このままでいいのかと不安になるのです。旦那様はずっと何かを抱えて、何かに苦しんでいる。でもそれをわたくしには話してくださらない…このままで、本当に良いのでしょうか?」
相馬と同じように、マツも苦しんできただろう。悲しみに暮れる姿を見せてくれる方が、どんなに安堵できたか。
(確かな答えなど俺にはわからないが…)
島田は答えた。
「…おマツさん、どうかあなたはそのままでいてください」
「このまま…」
「相馬は中途半端な気持ちであなたと夫婦になったわけではない。…そういう男ですから」
彼と再会して感じたこと。
そのことに間違いはないと確信している。
マツは島田のまっすぐな言葉に、涙を堪えるように唇をきゅっと噛んだ。
そしてゆっくりと頷いた。







『死んだら、あの星で待ち合わせだ』
彼が指さした星がどの星だったのか、既にわからなくなってしまっている。
でも、彼がまだそこにいて、
こちらを見て笑っているような気がしている――。





ソラカナタ -最終章-  中編 半身




細雪が降る東京に戻ってきたのは、翌日の朝のことだった。佐藤の厚意に甘え一晩を彼の家で過ごさせてもらったが、マツを待たせていると思うとゆっくりもしていられず、早々に家に戻ってきたのだ。
「おかえりなさいませ」
「ああ…一人にさせてすまない、何事もなかったか?」
「旦那様がご心配するようなことは何もございません」
にっこりと笑うマツを見て、相馬は安堵した。こちらに知り合いもなく心細かっただろうに、そんなことを感じさせない微笑みだ。
「旦那様、朝餉はお召し上がりになられたのですか?」
「いや…」
「すぐにご準備します」
マツはそういうと、台所の方へ向かい火を起こし始めた。
相馬はようやく一息ついて重ね着をしていた上着を脱ぐ。その気持ちは昨日ここにいた時よりも、晴れやかなものになっていた。
『たとえ身は蝦夷の島根に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらん』
佐藤から聞かされて土方の辞世。死を覚悟しながらも、力強い意志を感じる…そんな辞世だった。
彼が死しても守りたかったもの。
その本当の相手は、きっと彼しか知らない。今となっては誰にも分らない。
けれど相馬は彼が『大切だ』と語ったものを託されている。
(新撰組だ…)
『俺が新撰組を終わらせて、お前が新撰組を始めるんだ。新しい時代を生きる…新撰組をな』
誰もが、あの降伏と同時に新撰組が終わったのだと思っただろう。あの浅黄色のだんだらに袖を通すこそもなく、ある者は死に、ある者は流罪になった。武士の時代は終わり、刀は取り上げられた。
――それでも、
(志まで…失ったわけではない)
相馬は腰を下ろし、膝を折って正座した。ピンと背中を伸ばし、目を閉じた。
「俺は…新撰組隊長、相馬主計だ…」
呟いた。
そう名乗ることはもう二度とないだろうと、流罪になった島で悟っていたのに。でもそれを口にするだけで胸を焦がすような熱さが込み上げる。
(ああ…)
忘れてなどいない。痛いほどに胸に刻まれていて、だから、向き合うのが悲しくて苦しくて仕方なかったんだ――。
「旦那様…?」
「…マツ」
台所から顔を覗かせたマツが、どこか心配そうな表情で相馬を見ていた。いつも俯いてばかりだった主人の、見たこともない顔に驚いたのだろう。
「…朝餉ができたのか?」
「は…はい。すぐにお持ちします」
マツは慌てて、盆に朝餉を乗せてやってくる。温かい飯とみそ汁、漬物という素朴な朝餉だが、モクモクと上がる温かい湯気と匂いは食卓に安堵をもたらす。
相馬が箸に手を伸ばすと、マツは相馬の向かいに座った。
「旦那様、昨日…島田様がいらっしゃいました」
「島田先輩が?」
「はい。旦那様が家を空けているとお伝えすると出直されるとのことでした。今日いらっしゃるかもしれません」
「…そうか」
島田には住所を伝えていたので、不思議なことではない。彼は大橋と上田の件が解決するまではこちらに留まると話していたので、何か進展でもあったのかもしれない。
相馬は手にしていた箸を置いた。
「島田先輩は何か言っていたか?」
「…いいえ…ただ、その…」
マツは正直な女で、まっすぐに見つめた相馬の視線から逃れるように俯いた。
「何だ?怒らないから言いなさい」
「…旦那様が『シンセングミ』の隊長だったということを伺いました。でも、島田様はそれ以上はお話になりませんでした。わたくしが不躾にお訊ねしても、お言葉を濁されて…」
「そうか…」
あの頃の話を口にすることに対して躊躇いを持つのは、相馬だけではない。島田やほかの隊士たちもまたあの記憶に向き合う時には、誇らしい気持ちとともに痛みが伴うのだ。
だが、なかったことにはでいない。
なかったうえでこの人生はないのだから。
「…新撰組のことを、君に話すことはないだろうと思っていた」
「どうして…」
「君が何も知らないでいてくれるから、私も向き合わないで居られたからだ」
彼女の穏やかさに触れて、その心地よい場所に逃げていた。何も尋ねられない、何もかもを忘れることができる…そうすることでしか、生きることができなかった。
しかしマツは首を横に振った。
「正直に申し上げれば…わたくしはこのまま、何も知らないでいいと思っているわけではありません。今だって旦那様のことを知りたいと思っています。何も知らないまま夫婦になって…これが旦那様の幸せなのかどうか、わからないから…」
マツは何かを堪えるかのようにぎゅっと手のひらを握っていた。溢れだす彼女の感情に触れ、相馬は彼女もまた何も話さない夫に苦しんでいたのだということを思い知った。
「…君が聞きたいというのなら話そう」
しかしマツは激しく首を横に振って拒んだ。
「お聞きするわけにはまいりません!」
「…なぜだ?」
「島田様に…どうかこのままでいてほしいと言われたからです」
「島田先輩が…何故…?」
「…何も知らないわたくしだからこそ、旦那様は…」
彼女を選び、夫婦になったのではないか。
いつの間にか彼女の目尻には涙が浮かんでいた。島田に言われるまでもなく、彼女自身がそう思っていたのだろう。
(…それは間違いではない…)
何も知らないからこそ彼女と夫婦になることを選んだ。彼女に熱い感情を持ったことはない。相馬はいまさら、彼女に対して不誠実なまま夫婦になったのだと思い知った。
(このままではいけない)
彼女のやさしさに甘えるだけではなく、その献身に報いるべきだ。
そうでなければ。
(不誠実なまま生きることになる)
相馬はマツに手を伸ばした。彼女の滑らかな髪の毛に触れて優しく撫でた。
「今更遅いのかもしれないが…話させてくれ」
「でも…旦那様にとってお辛いことなら…!」
「君に聞いてほしいんだ」
その言葉に無理や嘘はない。
あの人生がなかったら、今こうして彼女と向き合っていることはない。そう思うとこの縁について彼女に語らないことこそが、過去の自分を否定し拒んでいたということの現れなのだと思った。
そして、己に向き合わなければならないと思ったのは、土方の辞世を知ってからだ。
(このまま何もかもに背を向けて生きることを…少なくとも副長が望んでいたわけではない)
『新撰組を頼む』
その約束を果たすために。
新撰組の隊長として生きるために。
この人生を、受け入れなければならない。

それから、相馬はマツにこれまでのことを語った。
自分の生い立ちや新撰組に入るまでのこと、隊士時代の輝かしい日々…そして敗戦ばかりが続くもがき続けた頃のこと。
もちろんそれは長い話となり、マツが用意した朝餉はすっかりと冷え切ってしまった。しかし彼女は一度も相馬から目を離すことなく微動だにせずに聞き続けた。
「――私は新撰組の隊長として降伏し、かつての職務について処罰されて流罪された。あとは…君の知っている通りだ」
口にするのは苦しいことだと思っていたのに、話してみると相馬自身はとても冷静でいられた。自分の気持ちの整理がついていくようで、案外心地よかったのだ。
(少しは…大人になったということかもしれない)
しかし、マツは話を聞き終わり堰を切ったように涙を流し始めた。いつも穏やかで微笑んでいる彼女がそんな風に泣いているのを見るのは初めてだ。
大粒の涙を彼女は子供っぽく拭う。
「悲しいのか?」
相馬が問いかけると「わかりません」とマツは答えた。
「…でも…とてもお辛かったのだろうと…そう思うと、なぜだか涙が流れてきました」
「そうか…」
彼女は自分の分も泣いているのだろう。相馬は懐から手巾を取り出し、マツに渡した。
「私も流罪になったころは悲しかったのだと思う。穏やかな時間がない方が良かったのに憎らしいほどの時間があった。…しかし、悲しさに向き合うのが苦しくて…目を背けたまま生きていた」
「…いいえ…旦那様は向き合っていました」
涙を拭ったマツはその黒くて大きな瞳で相馬を見つめた。
「旦那様は島の海を…硯の海だと言っていました。その海を見つめながら…ずっと、向き合っていらっしゃったのでしょう」
「…知っていたのか?」
「ごめんなさい。でも…毎晩、毎晩、海を眺めていらっしゃるから…そのまま心中してしまうのではないかと、心配で…」
「…そうだな…」
――硯の海。
あの島の海は真黒な墨汁が溜まっているように見えた。
どうして島なんかに流罪になってしまったのかと最初は嘆いていた。嫌でも、あいつを失った海と毎日向き合わなければならない――それが苦しくて。
「硯の海に向かって…旦那様は野村と呼んでいました」
「……」
「先ほど伺ったお話に、そのお名前はありませんでした。どうしてですか…?」
それは偶然ではない。
(俺が本当に避けていたのは…)
「の…野村…は…」
指先が、身体が震えていた。
いつだって、あいつが傍にいた。新撰組の記憶とは、野村との日々の記憶だ。だから新撰組のことを思い出すと必然的に彼の顔が浮かんだ。
「…旦那様?」
「野村は…たぶん、俺と同じ記憶を持ってる…」
「同じ…?」
「俺の…」
――俺の、なんだったのだろう。
どこか兄弟のような間柄でもあり、世話の焼ける男だった。でも友人であり、親友だった。かけがえのない存在だった。
大切だと思っていたけれど、恋人ではなかった。その一歩を踏み込む前に彼は海へと消えた。消化されないままの気持ちを抱えて、いなくなってしまった。
「…俺の…」
ああ、
そうだ。
「半身だ…」
土方の傍に沖田がいたように。
伊庭の傍に本山がいたように。
彼は俺の半身だった――。
それまで冷静でいられたはずなのに、すっと頬に涙が流れた。目の前のマツが困惑しているが、相馬は止められなかった。自分の意志に反して感情が溢れだす。相馬は両手で顔を覆った。
こうなってしまうとわかっていた。彼のことを思い出すだけで何もかもを囚われてしまう。だから思い出したくはなかった。野村の存在とイコールの記憶を持つ、新撰組という時代を。
「…大切な方だったのですね」
マツは相馬から渡された手巾を返した。
「ああ…そうだ」
夫婦になったマツの前でそれを肯定してしまうことに躊躇いはあったが、彼女にまた嘘をつくことはできなかった。新撰組という日々が今の相馬を作っていないように、野村がいなければここにはいなかったのだから。
それからしばらくは涙が止まらず、相馬はまるで子供のように泣いた。けれど、あの硯の海を目の前にしたときのような孤独感はなかった。それはすぐそばでマツが励ましてくれていたからかもしれない。
そしてようやくその涙が止まる頃、マツは寂し気に微笑んだ。
「少し…口惜しゅうございます。旦那様を涙させるほど…野村様との絆は深かったのでしょう」
「…マツ、誓って言うが、俺は君と野村を比べたことなんて一度もない」
寂しさを紛らわせたくて、マツと夫婦になったことは否めない。けれど
「俺は君と夫婦になったことを今でも誇りに思っている」
その気持ちに嘘はない。マツと夫婦になったこの数年は毎日穏やかで、愛おしいものであることに間違いはないのだ。
「…はい」
マツは頷いた。相馬は目尻の涙を拭って、そんな彼女に向き合った。
「俺は…土方副長や…野村から、新撰組を託されている。いまあの頃の隊士たちが不穏なことを考えている…だから、島田先輩とともにそれを止めなければならない」
「…わかりました。旦那様の思うようになさってくださいませ」
相馬の前で彼女は深々と頭を下げた。島育ちで世の中の暮らしとは無縁だったのに、その姿はどこか武士の妻のように凛々しく見えた。
そして微笑んだ。
「…朝餉がすっかり冷めてしまいました、温めなおします」


島田がやってきたのは、その日の夜のことだった。夕餉を済ませるとマツは気を利かせて別室に下がる。
「いやあ、気を使わせてしまってすまない。それにしても奥方の料理はうまいな」
「ありがとうございます。島田先輩にそう言ってもらえると、マツも喜ぶと思います。…それで、今日はどうしたのですか?」
マツがいたせいか、島田は本題に触れていなかった。相馬が促すと島田は「ああ」と声を落とした。
「大橋と上田のことだ。尾関に調べてもらって、居場所が分かった」
「尾関さん…ですか」
「ああ。土佐藩に預けられたあと、東京で暮らしているそうだ」
尾関は島田と同じ古参隊士だ。箱館の戦では島田とともに隊士たちのまとめ役になっていた。
「お元気でしたか?」
「ああ、相変わらずピンピンしている。お前も機会があれば会えばいい」
「そうします」
懐かしい邂逅となるだろう。相馬は軽い気持ちで返答したのだが島田は「ん?」と首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「どうかしたのはお前の方だろう。一昨日は俺の話を聞いてもどこか他人事のように聞き流していたくせに…」
「…聞き流していたわけではありませんが…」
島田から隊士たちの話を聞くと懐かしさが込み上げると同時に、新撰組の片鱗を思い出してしまいそうで息苦しかった。
けれどマツにすべてを打ち明け、向き合うと決めた今では苦しくはない。
「心境の変化です。それより、大橋の上田の居場所は…」
「ああ。今は横濱に住んでいるそうだ。あばら屋を二人で借りているのだが、その大家がたまたま尾関と知り合いだったんだ。もともと二人が何か企んでいるらしいというのもその大家が尾関に話して、俺に伝わったということだ」
「なるほど…」
それが偶然なのか必然なのか。
(副長のお導きなのかもしれない…)
二人を止めるように、と。
そんなことを考えながら、相馬は腕を組んだ。
「でしたら、横濱に行きましょう。どうにか邪な考えを持たないように二人を説得して…」
「無理だ。すでに尾関が説得を試みて失敗してる」
「では俺も含めて三人で話せば…」
「それでも難しいだろう」
島田は頑なに首を横に振った。
「相馬は覚えていないかもしれないが…あいつらは降伏の時に相当意地を張って人の言うことに耳を貸さなかった。兄弟揃いも揃って頑固なんだよ」
「…」
島田のいうように、あの降伏から数年たった今でも榎本のことを裏切りものだと考えているのだとしたら、その執念はただ説得したくらいでは解消されないだろう。しかし説得する以外の方法は相馬には思い浮かば愛。
「でしたら…島田先輩はどうするつもりなのですか?」
「…あいつらの『本気』を見極める」
「『本気』…ですか?」
島田はより一層声を潜めた。
「明後日、横須賀で軍艦『清輝』の進水式がある」
「『清輝』…初の国産軍艦でしたね?」
「ああ。そこに榎本さんが来る」
榎本はもともと幕府の命でオランダに渡り海軍について学んだのちに幕府海軍の指揮官となった。今でもその知識を生かして海軍中将として主に外交面で活躍している。そんな彼が『清輝』の為に横須賀にやってくるのは当然と言えば当然と言えた。
そして彼らも、それを予期できるだろう。
「…大橋と上田は、そこで何かを起こすのではないでしょうか?」
「ああ。俺もそう思う。だからそれを寸前で止めて…警官に引き渡す」
「警官にですか!」
相馬は驚いた。
二人は戊辰戦争で旧幕府軍に付き、降伏してお預かりになっている。いわゆる前歴のある状態で警官に引き渡せばどんなことになってしまうのか。最悪そのまま処刑という結末もあるだろう。
島田がもちろんそんなことに気が付かないわけがない。
「だから、それほどの覚悟があるのかと問う。その覚悟があるのなら…俺も覚悟を決めて、刺し違えてでも俺はあいつらを止める!」
「…」
相馬は島田の覚悟を目の当たりにした。それは新撰組にいた頃のそれと変わらなく、熱い。
「…いまだに、島田先輩は新撰組隊士なんですね」
「もちろんだ。俺は…自分が新撰組の一員であったことを、誇りに思っている」
その誇らしい表情を見て相馬も「そうですね」と頷いた。
降伏を決めた時、彼は「駄目だ」と叫んだ。誰よりも土方を敬愛して付き従ってきた島田が泣き喚いて「降伏したくない」と何度も叫んでいた。大橋と上田以上に、降伏することを受け入れられなかったのは、実は島田なのかもしれない。
それでも降伏を受け入れたのは、やはり土方の存在があったからだろう。
島田は懐から一枚の紙を取り出して、相馬に見せた。
「これは…?」
「歳進院誠山義豊大居士…土方副長の戒名だ。これをずっと懐に入れている」
島田か語った通り、その髪は皺くちゃになっていて月日を感じるものだった。
『誠の山は義(ただしく)豊かに歳とともに進む』
土方らしい勢いを感じさせる勇敢な戒名だ。それを懐に抱き、生きているという島田の気持ちは理解できた。
「相馬、お前は俺とともにあいつらを説得してほしいと思っている。だが同時に、それがお前の使命だとも感じる。お前は…新撰組の隊長なのだからな」
その重い言葉に、相馬もまた覚悟を決めた。
「…わかりました。一緒に横須賀に参りましょう」
局中法度――士道に背く間敷事。
その法度は、今も生きている――。


『気負うことはないんですよ?』
夢の中でそう語りかけてきたのは、懐かしい人だった。
「沖田先生…」
『土方さんの言っていた通り、新撰組の隊長なんて、ただの貧乏くじなんですからね』
そんな風に軽やかに言ってしまうのは、沖田くらいのものだ。相馬は笑った。
「貧乏くじかもしれませんが…引き受けたのが俺の意志であることに間違いはないんです。だから、それは全うします」
『相変わらず真面目ですねえ』
ふふっと笑う沖田は、とても健康そうだ。
(あちらの世界はきっと楽しいのだろう)
どんな最期を遂げたとしても、その世界に行けるのならば悪くない。
「沖田先生は…何か心残りがありますか?」
『心残り?』
「だから、俺の夢に出てこられたのではないのですか?」
ふわふわとした浮遊感。ここがどこで今がいつなのかということすらわからない時のなかで、相馬は彼が顔を出したことに何かの意味があるということを感じていた。
しかし沖田は「うーん」と首を傾げた。
『不思議と…心残りはないんですよねえ』
「…そうなのですか?」
『武士として誇らしい最期ではなかったとは思いますが…後悔や心残りはありません。願わくば…』
沖田は相馬へと手を伸ばした。触れるか、触れないか、そのギリギリの距離。
『あなたにも、そうあって欲しいと思います』
触れる前に、彼の姿は消えた。










今更だと、お前は笑うかもしれない。
でも、それでも
伝えたい想いがある――。





ソラカナタ -最終章-  後編 空、彼方




島田とともに早朝に蔵前を出て、乗合馬車で横浜まで移動した。その後は歩きでの移動になり横須賀に到着したのは夕方のことだった。
「今日中に着くとは思わなかったな」
「はい。馬車とは便利なものですね」
「少し前までは一日はかかっていたのに。こうなると草鞋を履いて地道に歩いていたのが馬鹿らしくなるよ」
島田はそう言って笑った。
てっきり到着は明日になると考えていたが、予定よりも大幅に早く着いたのはもちろん馬車のおかげだ。
(どんどん変わっていく…)
明治という世になってから、刻一刻と変化している。
たとえ自分がそこに留まりたいと願ったとしても、環境や周りが変わってしまう。そして、誰もがそれに順応していく。
悔しさはあった。戦の勝者が作った世の中で生きていかなければならない…しかし、それを屈辱だと捻くれているだけでは生きてはいけない。生きていくためには、どんな屈辱で在ろうとも飲み込む。笑って受け入れる。
――生きることで勝つ。死ぬことはいつでもできる。
それを教えてくれたのは、土方だ。
「相馬、日没だ!」
突然、島田が駆け出したので相馬もそれに従った。脇道に逸れると潮風の匂いがした。海岸が開けて、空は青と橙色と黒が交じり合い、その色が海に反射している。綺麗な夕焼けだ…夜を迎える前だというのに、眩しくて仕方ない。
「綺麗だなあ…」
島田はなぜか手を合わせて拝むように目を閉じたが、相馬はぼんやりとその海を見ていた。海は様々な色を持っている。こんなに目を奪われるほど美しい時もあれば、まるで体が飲み込まれてしまうほど闇に包まれている時もある。
「…悪い」
太陽に向かって拝んでいた島田が、いつの間にか相馬の方を見ていた。
「え?」
「いや…海は、あまり良い思い出がないだろう。綺麗な夕暮れに子供のようにはしゃいでしまった」
申し訳なさそうに頭を掻く島田に、相馬は「いえ」と首を横に振った。
「もう整理が付きました。あれから何年も経っていますし、流罪になった島では嫌でも海を見て生活してしていましたから」
思い起こすと記憶の中にはずっと海がある。特に北への転戦は常に海とともにあった。
すると島田がつぶやいた。
「硯の海か」
相馬は驚いた。
「…どうしてそれを」
「おマツさんが教えてくれた。お前は流罪になった島の海眺めて『硯の海』と言っていたのだろう」
「…」
流罪になったあの頃。
透明なはずの海水が、触れれば黒く染まる墨汁のように思えた。指先から、爪の間から、その真黒な『何か』が身体の中に入り込んできそうで。
――浸食される。
そんな、ありもしない恐怖に身震いした。
しかし今は違う。
「…先日、土方先生のご実家に足を運びました」
「ああ…そうなのか」
「市村君が託されたという遺品を見せていただいて…初めて、先生の辞世の句を拝見しました」
「辞世?」
島田自身は未だに日野に足を運んでいないので、そんなものがあるのか、と驚いた表情だった。
「『たとえ身は蝦夷の島根に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらん』…先生らしい辞世です」
相馬が口にした辞世を耳にして、島田は感極まったように表情が歪んだ。
「…っ、ああ…そうだな…」
その意味が、その心が、考えるまでもなく飛び込んでくる…そんな辞世だ。土方が遺したかった言葉や意志が全部込められているような。
島田は「そうだな、そうだな」と何度も繰り返して頷いた。相馬は続けた。
「義兄上の佐藤先生は、いまだに土方先生がどこかで自分たちを見守ってくれているようだとおっしゃっていました。俺もその通りだと思います…先生はきっと魂になったいまでも、俺たち新撰組隊士を守ってくれている。そしてそれは土方先生だけではなく、沖田先生や近藤局長も同じです。…そのことにようやく気が付いたのです」
波の音聞こえる。太陽はその水平線上に姿を隠していく。闇が空を覆い、また海は黒く染まっていく。
でもそこは、もう硯の海ではない。
「いくら目を背けたところで、新しい人生を始めようとしたところで、俺は自分が新撰組の隊士であることをやめられません。ほかの誰に言われるまでもなく、自分がそのことを良く知っている。だから、俺は新撰組隊士…そして最後の隊長として恥じない生き方をしなければならない」
あの辞世はそれを教えてくれた。土方の魂を受け継がなければならないと実感した。そして、それを受け入れた。
「そんな簡単なことを日野に行ってようやく悟り、マツにもすべてを話しました。新撰組のことや野村のことも…すべてを。そうすると不思議と力が沸いてきました」
かつての敵だった新政府が作ったこの世界で生きるのは、難しいのかもしれない。新撰組の隊士だからと言ってそれは足かせにしかならず、不器用な生き方しかできないのかもしれない。
だが、それでもいい。
(切り離せないのだから)
相馬が微笑むと、島田もまた笑った。
「…じゃあ俺の余計なお世話だったな。おマツさんに『何も知らないままでいい』と助言をしたのは…」
「いえ、そんなことはありません。マツはきっと誰かに話したかったのだと思います。本土では身寄りがなく誰にも相談できなかったはずですから、彼女もずっと抱えていたでしょう」
「そうか…だったら良いんだ」
島田は一息ついて「よし」と両頬を軽く叩いた。
「俺たちは新撰組隊士として上田と大橋は何としても止めなくてはならない。何か起これば土方先生に顔向けできない。…今晩は宿で尾関と待ち合わせをしているんだ」
「そうなのですか?」
「お前が横須賀に行くと伝えたら会いたいと言っていた。こんな機会も滅多にないから宿で待ち合わせをしたんだ。…陽が沈む前に行こう、待ちわびていることだろう」
「はい」
夕陽はあと少しで沈もうとしている。眩いほどの光が明日までその姿を隠した。


待ち合わせ場所である宿にはすでに尾関雅次郎の姿があった。相馬との再会に尾関は「老けたな」と言って笑った。降伏以来となる尾関との邂逅もそこそこに、話は早速大橋と上田の件に及んだ。
「それで榎本総裁…じゃねえや、榎本中将だが、やっぱり明日の『清輝』の進水式には顔を出すそうだ」
尾関によると横須賀の造船所で完成した『清輝』は、国内最初の国産軍艦とあって政府高官が揃い、華々しく進水式を執り行うとのことだった。
「しかも、御上もご臨席される。俺たちのような一般市民じゃ到底中に入り込むことなんてできないだろう」
「じゃあ大橋と上田もなかなか榎本さんに接触するのは難しいってことだな?」
天皇が出席するような行事ともなれば物々しい警備が敷かれる。それを考えると、何の役職でもない一般市民の大橋と上田が榎本に接触を図るのは難しいだろう。何も起こらないのではないか…そんな期待感に島田は少し安堵した表情を浮かべたが、相馬は首を横に振った。
「何が起こるかわかりません。おそらく二人は事を起こすなら命を賭ける覚悟でしょう…警戒を怠るわけにはいきません」
「…確かに。俺だって、本音では加勢したいくらいだ」
尾関はふっと笑ったが、島田に「おい」と諫められる。尾関は新撰組の旗持ちとしてその『誠』の旗を託されていたため、大橋と上田に共感する部分があるのだ。「駄目だ」とわかっても晴れない気持ちがあるはずだ。
尾関は「冗談だ」と笑った。
「俺たちが降伏したのは、俺たちが負けたからだ。その事実はどうやったって覆せない…いまさらその怒りを榎本中将にぶつけたって仕方ないことさ。…それよりも、もう一つ情報がある」
意外にもあっさりとそう言って尾関は相馬へと視線を向けた。
「榎本中将だが…今夜、この近くの宿に泊まっている」
「この近くに?」
「ああ。俺がここを待ち合わせにしたのはそのためだ。…相馬、お前ならきっと榎本中将に会えるだろう。こんな機会は滅多にない、会って話をしてみたらどうだ」
「…」
榎本に最後に会ったのは、降伏し新政府軍に拘束される時だ。ろくに言葉を交わすことはできなかったが、彼がどこか安堵の表情を浮かべていたのは覚えている。敗軍の将となったとしても、命を賭ける緊迫した戦を終えたという開放感があったのかもしれない。
「…しかし、無理でしょう。榎本さんは俺のことを…」
「覚えているに決まっている。土方副長がお前のことを榎本総裁に話している」
「副長が?」
島田は断言し、深くうなずいた。
「副長は前々からお前に隊長を任せるつもりだった。アボルダージュ作戦の頃に既にお前のことを榎本総裁に伝えていると伺ったことがある」
「そうだったんですか…」
「ああ。だから、お前の名前を榎本さんは知っているはずだ」
「お前なら会って話ができる」
島田と尾関から畳みかけられるものの、相馬は困惑した。
「…しかし、何を話せばいいのか…」
個人的に話をしたことがない榎本と思い出話をすればよいのか。もしくは大橋と上田について伝えれば、良いのか…。
すると島田が穏やかに告げた。
「お前が話したいことを、話してくればいい。こんな機会は二度とない。新撰組の隊長としてお前が伝えたいことを伝えるべきだ」
伝えたいこと。
その言葉が明確には浮かんでは来ない。しかし輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。
「…わかりました」
相馬は頷いた。

榎本が滞在しているという宿は尾関の言った通りすぐ近くだったようで、二つほど角を曲がると見えてきた。榎本の好みそうな洋風の宿だ。もちろん警備の兵が数名屯していた。
相馬はその兵の一人に、自分の名前と榎本の古い友人であることを告げ、会う約束をしていると嘘をついた。兵は怪訝な顔をしながらも宿の中に入り、榎本へ確認に向かった。
もちろん約束なんて取り付けていない。相馬の名前を聞いて、榎本はどう思うだろう。過去を蒸し返す行為を不快に思うか、それとも不審な人間だと思って追い払うだろうか…とそんなことを考えているうちに兵が戻ってきた。相馬が思っていたよりも早い。
「中へどうぞ」
あっさりと招かれ、相馬は拍子抜けした。案内されるままになかに通され長い廊下を兵とともに歩く。高級そうな絨毯が敷かれ、所々にランプが灯り、まるで昼間のように明るい。センス良く飾られた彫刻や絵画に目を奪われつつ、奥の部屋に案内された。
「こちらです」
「…どうも」
兵は軽く頭を下げて去っていく。
相馬は一息ついてドアをノックした。奥から「どうぞ」と声が聞こえ、榎本だと確信してドアを開く。
部屋の真ん中に置かれたソファに榎本が腰かけていた。降伏した時よりも健康的な表情でふくよかな体型だ。髭をたくわえ、あの頃よりも威厳が増している。
しかし、相馬の顔を見ると微笑んで立ち上がった。
「久しぶりだね、相馬君」
「…ご無沙汰をいたしております、榎本…中将」
榎本は相馬に近づいて右手を差し出した。
(そういえばこの人流の挨拶だった)
そんな懐かしさを覚えつつ握手を交わした。
「警備の兵が君の名前を告げてきた時には驚いたよ。まさか会いに来てくれるとは思っていなかった」
「覚えていてくださったのですか?」
「もちろんだ」
榎本は深くうなずいて「さあ」とソファへ促す。慣れない相馬はおずおずと榎本の前に腰を下ろした。
相馬は緊張していた。その理由は榎本が海軍中将であるということよりも、旧幕府軍の総裁であったということに方が大きい。昔の癖のようなものだ。
「それで…君の用件は何だろうか?」
榎本の表情が少し厳しいものに変わる。相馬のことを顔なじみだからと言って、油断して良い相手だとは思っていないのだろう。しかし、彼に尋ねられた「用件」がうまく言葉にできなかった。
(なんと切り出せばいいのか…)
相馬が迷っていると、先に榎本が話し始めた。
「わかっている。…君も、私を責めるためにここに来たのだろうか?」
「責める…ですか?」
「ああ。私が降伏し、投獄されたにも関わらず…新政府に出仕していることを気に入らないと思っている、かつての同志は多い。幾度となく…責められたものだ」
榎本の表情が陰る。この数年、新政府で活躍すればするほど、旧幕府軍の兵士からは余程非難の目を向けられてきたのだろう。もしかしたら大橋や上田のように何かを企む人がいてもおかしくはない。
溜息混じりに彼は続けた。
「君は勇猛果敢な新撰組…そして土方君の部下だった。私を恨んでいてもおかしくはないが…」
「恨んでなどいません!」
榎本の言葉を遮って、相馬は首を横に振った。
「俺は…榎本総裁があの戦の降伏を決定する前に、新撰組の隊長として敵に降伏することを決断していました。ですから…総裁のお気持ちは、理解しているつもりです」
降伏を決めた。負けることを誰よりも早く受け入れた。むしろ相馬もまた榎本と同じ立場だったのだ。榎本に同情をすることはあっても、批判的な気持ちを持ったことはない。
榎本は「そうか」と柔和な表情に戻し、少し笑った。
「それにしても『榎本総裁』…そう呼ばれたのは、久方ぶりだ」
「も…申し訳ありません。つい…」
「いや…良いんだ。おかげで、あの頃の記憶が蘇るよ」
榎本は立ち上がり、ポットに手を伸ばした。西洋の陶器にコーヒーを注ぎ、「どうぞ」と相馬に差し出し、自身も同じように注いだ。相馬は飲みなれないコーヒーを口にした。苦い…が、頭の芯が冴えていくようだ。
榎本は再び向かいのソファに腰を下ろした。
「誰にも話したことがないが…君には話そう。実は私は、あの日の降伏よりもだいぶ前に降伏をしたいと考えていた」
「…え?」
「新政府による箱館総攻撃の少し前だ。二股口の戦から帰ってきた土方君に打ち明けた。この本を…新政府に譲りたい、とね」
榎本は机の上にあった厚い本を相馬の前に差し出した。英語で書かれた表紙はもちろん相馬には理解できないが、「『海律全書』だ」と教えてくれた。
「これからの日本の外交には必要な知識が書いてある。この本を敵方に譲り、降伏するべきだと私は考えていた。それを言葉にはしなかったが、私のその意志を土方君は見抜いていた」
「先生は…なんと?」
土方は降伏し生きながらえるという選択肢さえ、己の中になかったはずだ。榎本がそんなことを考えていることすら、許せなかっただろう。
怒鳴ったのだろうか、抵抗したのだろうか…相馬が尋ねると、榎本は笑った。
「頭を下げたんだ。『頼むからやめてくれ』とね…新撰組の鬼副長があんなにも深々と頭を下げるなんて、私は驚いたよ」
「土方先生が…」
「ああ。この本は敵方に渡すのではなく私自身の手で成し遂げるべきだと…必死に食い下がった。驚きのあまり私は降伏を撤回してしまったよ!」
破顔一笑する榎本に、相馬は茫然としてしまう。
傍目には『仲がいい』とは言えなかった二人だったが、榎本は土方に本音を漏らし、土方は榎本を励ます…そんな関係だったのだ。
榎本は続けた。
「でも…あの時の土方君の言葉に、いまだに私は救われている。降伏を経て私は敗者という立場になってしまったが、それでも生きて、この国の海軍のために働くことができている…この本を武器に、私自身の手で成し遂げるべきことができている」
榎本は愛おしそうに『海律全書』に触れた。本のページは黄ばんでいて、読み込まれているのがわかる。
「降伏したあとものうのうと新政府に出仕している…そんな風に笑いたければ笑えばいい。恨みたければ恨めばいい。ただ、私は私のすべきことをするだけだ」
「…」
「それが私の生き方なのだから」
そう高らかに口にする榎本に、敗者としての影はない。ひたすらに自分の道を歩み続ける…そんな信念を胸に秘めていた。
(近藤局長のようだ…)
相馬の脳裏に流山でのあの時の光景が思い浮かぶ。――不意を突かれ、新撰組は新政府軍に取り囲まれた。投降に応じた近藤は、危機が迫っているというのに晴れやかな表情だった。己の歩んできた道に一片の曇りもないからこそ、あんなに朗らかな様子で新政府軍に投降したのだろう。
(…きっと土方副長も同じように思っていたんだ)
近藤と榎本を重ねていたのではないか。幼馴染の盟友とまったく同じだとは思えなかっただろうが、仕えるべき相手として相応しいのだと認めていた。だからこそ、負け戦だとわかっていても逃げることなく榎本の為に戦い続けたのだろう。
「…少し、熱く語りすぎてしまったな」
榎本は頭を掻いて照れくさそうに笑った。コーヒーカップを置いて、「ふう」と一息ついた。そして話題を変えた。
「土方君から君のことを聞いたのは…アボルダージュの頃だったかな」
「…俺が榎本総裁に間近でお会いしたのも、その時が初めてです」
新政府軍の軍艦「ストーンウォール」を奪還する…アボルダージュ作戦は関係者以外には伏せられていたため、作戦内容も榎本から直々に説明があったのだ。
「土方君から、君を次の新撰組の隊長に任命するつもりだと聞いていた」
「そのように…俺も、耳にしました」
もっともそんな話を聞いたのはつい先ほどのことだ。榎本は深く頷いた。
「君は無茶な作戦だとわかっていながら、『やります』とはっきり答えた。その強いまなざしを見て…私も、君が新撰組の隊長に相応しいと思ったよ。土方君の考えに賛同した」
「…恐縮です」
遠い人だと思っていた榎本がそんなことを考えていたとは思わず、相馬はどこか居心地が悪い。しかし、続けた。
「ですが…安易に、引き受けることはできませんでした。新撰組隊長という肩書は重く…また、支えてくれるはずだった友人も亡くしました」
野村がいてくれるなら、大丈夫だ。
そう感じて引き受けた新撰組隊長という重責は、彼を失ったことでさらに重くなった。重くて、立ち上がれないほど足枷になった。
榎本は目を伏せた。
「…野村君…だったかな。アボルダージュ作戦では真っ先に賛同してくれた」
「覚えていてくださったのですか…?」
「当然だ。彼が戦死したと聞いたときは…胸が痛んだよ」
ただの一兵卒だった野村のことを、榎本が覚えている――そのことに、相馬は胸が熱くなる。
野村を失ったあの時、新撰組隊長なんてできるわけがないと思っていた。周囲からみても、「あいつには任せられない」と思うほど憔悴していた。
でも、それでも新撰組隊長を引き受けた。
そして、その責務はこの今の瞬間でさえも続いている。何があっても果たさなければならない。…その気持ちはもう、揺るがない。
「俺は…今でも新撰組の隊長です。土方先生から託されたことを忘れることはできません」
「託されたこと?」
「一人でも多くの隊士を生かす…そう、託されました」
榎本は驚いた顔をした。
土方自身は死ぬ道を行くしかない。けれど、新撰組を道連れにはしたくない。
(土方先生は我儘だ)
そんな願い、自分勝手だ。死んだ方が何十倍も楽なのに、それを許してくれないなんて。
でも、
(それをずっと捨てられない俺も…馬鹿真面目だよな…)
そんな土方の思いは、魂は、まだここに宿っている。
「榎本総裁…いえ、榎本海軍中将。かつての新撰組隊士が、あなたの命を狙っています」
「…」
「俺は…それを止めるためにここに来ました。彼らは横須賀の進水式で騒ぎを起こすかもしれません」
「…どうして君が止めるんだい。いま、私は政府の高官だ。新撰組隊士とはいえ、警護の兵もたくさんいる。そうそう私に危害が及ぶことはないだろう」
「そうかもしれません。上様もいらっしゃると伺いました。いち市民に簡単に命を狙うことなどできない。…でも」
守りたいのは、榎本だけではない。
「私の闘争を許さず…新撰組の、法度です」
「法度…」
「新撰組隊長として…隊士に間違いを起こさせるわけにはいかない。己の『誠』を汚すようなことをしてはいけないと彼らを諭さなければなりません」
たとえ敗者となったとしても、その誇りを忘れてはならない。
――土方の代わりに、土方の分まで。そしてかつて新撰組で生きた人々の分まで、伝えなければならない。それが、相馬を突き動かす衝動だった――。



翌日は冬にしては澄み渡るほどに晴れやかな日だった。
横須賀の海辺で行われる国産初の軍艦『清輝』の進水式は思っていた以上に人が集まった。招かれた政府高官だけではなく、竣工に関わった人々や、一目見たいと詰めかける野次馬など人ごみがごった返していた。
「こりゃあ…絶好の襲撃日和だ」
身動きが取れないほどに詰めかけた群衆の中で、尾関はそう茶化し島田は閉口した。
「尾関、誰が聞いているのかもわからないのにそういうことを口にするな。――相馬、榎本さんは何か起こるかもしれないということを承知してくれたのだろう?」
「はい。警備の兵も増やすと約束してくれましたが…その『何か』が起こる前に、俺たちで止めなければなりません」
「当然だ」
三人は進水式そっちのけで、周囲に視線を凝らす。野次馬の視線は大きな戦艦に向いている。男も女も、若者も老人も――進水式の開始を今か今かと待ちわびている。
「島田、どうだ」
尾関は背の高い島田に尋ねるが、首を横に振る。
「いないな…くそ、この中に紛れ込まれちゃ、見つけられるかどうか…」
「相馬は顔を覚えているのか?」
「…すみません、朧げにしかわかりません」
「まあ、覚えていたとしても髷を落としているだろうから、印象が違うかもしれねえな…。俺は港の方を見てくるから、ここは頼む」
「ああ」
そう言って、尾関は場を離れた。
「相馬、俺は前の方を探すから、お前は後方を頼む」
「わかりました」
島田は人波をかき分けて進んでいく。大きな体躯の島田は前に進むだけでも一苦労の様子だ。一方の相馬は後方に下がり、少し離れた場所から大橋と上田の姿を探した。
進水式はまもなく開始されるようで、物々しい警備が敷かれ始める。榎本の指示なのか、野次馬に対しては特に警備が厚い。この様子なら二人が現れたとしても榎本まで危害が及ぶことはないだろう。
相馬は安堵しつつ、あたりを見渡した。人々が前へ前へと殺到する…そんななか、相馬と同じようにどこか虚ろげな視線で立ちすくむ男に目が留まった。
(…あれは…)
相馬と同じくらいの年齢、背丈の男。髷は落としているものの、地味な着物と袴を身に着けている。表情に覇気がなく、とても進水式を見に来た客には見えない。
そして何よりも違和感は
「刀…?」
その腰に刀を帯びていることだ。明治三年、一般に禁止され翌年は帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。廃刀令の議論も進んでいるいま、一般市民が腰に刀を帯びていることは少ない。
相馬は何か予感がして、その男のもとに駆け出した。確信はなかったが、この場に在る違和感は明確だったからだ。
すると、男は相馬が近づいてきたことを察した。ちらりとこっちに視線をやると、その虚ろだった表情にカッと火が灯る。その顔を見た途端、相馬は悟った。
(上田だ―…!)
弟の上田安達之介。彼は降伏をする…そう伝えた時、烈火のごとく怒り抵抗した。その時と同じ表情をいま、目の前に見ている。
「お前、上田だな…っ?!」
相馬の予感は確信に至る。そう問いかけると、上田は返答もなく刀を抜いた。
「相馬…相馬、隊長…!」
「お前たちの企みは尾関さんから聞いている。馬鹿なことはやめろ!」
「馬鹿なことだと…?!」
上田は相馬に向かって振りかぶる。相馬はとっさに腰に手を伸ばしたが、そこに刀はない。代わりに帯びていたのは鉄扇だ。
「…くっ!」
無茶だとわかっていながらも、相馬はその扇で応戦する。刀とは距離感が異なるため、ぎりぎりまで詰められていたが何とか横に払い、凌いだ。
久々の感覚と衝撃に腕が震えていた。
「馬鹿なのは隊長じゃないか!」
上田は叫んだ。
「まだ戦えたのに、まだ勝てたのに…!降伏した!俺たちが敗者としてどれだけの屈辱を味わったか…!」
「…それは…」
「こんな惨めな生き方をするくらいなら、あの時降伏をすべきではなかった、幕府に殉じて死んだほうがどれだけマシだったか!」
その想いを抱えた者が、どれだけいるのだろう。
目の前の上田や、兄の大橋だけではない。きっと島田や尾関も降伏なんてしたくはなかったはずだ。
「それなのに…っそれなのに、あの榎本は!新政府でのうのうと首を垂れてやがる…!許せるはずがない!」
「榎本総裁は、榎本総裁の考えがある」
「庇うつもりか!」
上田は再びその切っ先を相馬に向けた。だが相馬は冷静に告げた。
「…庇っているわけではない。榎本総裁の今の立場を良く思わない者は…確かにいるだろう。だが、お前がここで榎本総裁を殺せばどうなる。お前の名前は犯罪者として世間に広まり、元新撰組の隊士だっただと伝わるだろう」
「それの何が悪い!一矢報いた、勇敢だったと称えられるはずだ!」
疑いもなく、胸を張る上田に、
「そんなわけがないッ!」
相馬は怒鳴った。上田は突然のことに驚いて怯んだ。
「な…っ」
「お前のように負けたことを、降伏したことを、後悔している者は多いだろう!だが、周囲から新撰組隊士だと指を差されてもそれをどうにか受け入れて、皆生きている。新しい人生を、どうにか踏み出している。…そんななかでお前たちが騒ぎを起こせばその足枷になるとは思わないのか!」
「では隊長は…では過去を隠して、忘れて、生きよというのか…っ!」
「そうではない!」
相馬は鉄扇を上田へと向けた。
「新撰組隊士だと名乗るのなら、法度に背くことなく、誇り高く生きろと言っている!お前たちの行いは士道に背く間敷事…切腹だ!」
「…っ」
虚を突かれたように、上田は言葉を失った。
その法度を、箱館戦争から新撰組に加わったとはいえ、二人が知らないはずはない。
「どんなに世の中が変わろうと、志さえあれば俺たちの誇りは汚されない。だから俺たちの正しさを証明するために、正しく清く生き続ける。それが…この新しい時代を生きる、新しい志だ…!」
『戦え』
土方は夢でそう言った。それは刀を持って、かつての仇に仕返しをしろということではない。
生きろということだ。
新撰組隊士という過去は、重荷かもしれない。生きづらいかもしれない。
でも
『生きて証明する』
そう力強く口にした野村の分まで、生き続けなければならない。
「そこまでにしておけ、上田」
「…島田さん…!」
いつの間にか島田が相馬の背後までやってきていた。上田は島田の顔を見ると生気を抜かれたように刀を下ろした。
「刀を持ったお前が、鉄扇だけの無防備な相馬に敵わなかった。そんなお前じゃ、榎本さんに手出しはできないし、何も成すことはできないだろう」
「……」
「負けを認めろ。相馬の言う通りだということは、お前だってわかっているんだろう…?」
箱館での降伏の際、二人を説得したのは島田だった。相馬よりも島田の言葉は重く響くことだろう。
上田は項垂れた。そして刀を落とし、その場に膝をついた彼はすでに戦意を削がれている。相馬はほっと安堵しつつ鉄扇を腰に仕舞った。
「兄はどうしたんだ」
「…兄はここにはいません。さすがにこの警備では無理だろうと…」
「ではどこに?」
上田は首を横に振った。
「わかりません。でも兄は…俺が説得します。相馬隊長の言葉を伝えれば…きっと納得するでしょう」
「…そうか」
もう大丈夫だろう。
相馬がそう思ったとき、「パーン」という破裂音が鳴り響いた。進水式の開催を告げる花火が、真昼の空に放たれたのだ。観衆は一気に沸き、拍手がそこかしこで起こる。
遠目に榎本の姿が見える。軍服に身を包み進水式に臨む姿はとても凛々しく見えた。
相馬はその光景をぼんやりと見ていた。



横須賀から東京に戻ったのは、その日の夜のことだった。横須賀では空は晴れ渡っていたが、こちらに戻ってくるとはらはらと雪が舞っていた。
「ご苦労さん」
乗合馬車から降りて、島田は相馬を労った。彼はこのままもともと生活していた京都へ戻るのだという。
「島田先輩こそ、お疲れ様でした。穏便に解決できて…良かったです」
その後尾関と合流し、上田のことは彼に任せることになった。尾関は上田の刀を取り上げて反省させ、兄の大橋も必ず説得すると息巻いていた。そんな尾関に任せて島田とともに東京に引き上げたのだ。
「お前のおかげだ」
「いえ、俺は何も…」
「そんなことはない。お前の説教…身に染みたぜ」
島田は苦笑して続けた。
「正直、上田の気持ちがわからないわけじゃない。榎本さんのように新政府で働く…なんて俺には考えられないからな…。だが、どんな形であれ強く生きるべきだ。新撰組の隊士として恥ずかしくない生き方を…そう思えた」
「…はい」
あの時は上田を説得するので必死だったが、言葉はブーメランのように自分に跳ね返った。本当は彼を説教できるほど、自分が誇らしい生き方をしているわけではないことに気づかされたのだ。
彼らが気づかせてくれた。
(ただより良く…生きていけばいい)
その具体的な方法はわからない。けれど、
(どうにかなるだろう)
降伏して初めて、明るい兆しが見えた気がした。それはまた島田も同じなのだろう。彼も晴れやかに笑っていた。
「また京に遊びに来てくれ。おマツさんも一緒にな」
「はい、ぜひ。先輩もこちらに来られた時はお知らせください」
「おう」
島田は力強く頷いて、「またな」と手を振って別れた。お互いにお互いの姿が見えなくなるまで手を振り続ける。真っ暗な闇とハラハラ舞う雪がやがて彼の姿を隠した。
しんと静まった夜道…相馬は蔵前に向かって歩き始めた。マツが帰りを待ちわびている…自然と速足になる。
「…京か…」
その場所には、もう二度と足を踏み入れることはないだろうと思っていた。あの景色を目にすれば否が応でもあの頃に戻され、そのまま立ち尽くしてしまいそうだったから。
ずっと、怖かった。
だが、この数日で様々な人に会い、様々な言葉を聞き、それまで目を背けていたことに向き合った。その中でなぜ自分はこんなにも生きづらいのか…と考えていた。どうしてこんなのも息苦しのかと。
すると、その答えは簡単だった。
(俺が未だに新撰組隊士だからだ)
それを認めてしまえば、過去は足枷ではない。
ただそれだけだった。
「長い…寄り道だったな」
呟いて笑った。野村が隣にいれば「本当だな」と一緒に笑ったことだろう。
相馬は夜空を見上げた。冬の澄み切った空気のおかげで、星は爛々と輝いて見える。あの中の一つで彼はこちらを見ていることだろう。大口を広げて笑っていることだろう。
そんな野村に、相馬は語り掛ける。
「京に行ったら…かけそば、食うんだったよな…」
彼と初めて出会ったあの日。
二人とも新撰組の屯所を目指していた。お互い腹が減っていても金がなく、一杯のかけそばを二人で分け合ったのだ。それがとても美味しくて仕方なかった。あの味は未だに舌が覚えている。
野村が生きていた頃、二人でまたあのかけそばを食べに行こうと約束をした。その約束を果たすことはできないが、マツとともに食べに行けば彼も喜ぶことだろう。
そんなことを考えて歩いていた
―――その時だった。
「…ッあ…!」
突然だった。
背中に、熱い痛みを感じた。
(こ…これは…)
肩口から腰のあたりまで…斬られた、とすぐにわかった。しかし頭が理解しても身体はその場に膝をつきうずくまってしまう。
手をついた場所が真っ赤に染まる。
(誰だ…!)
相馬は痛みを堪えながら振り返る。一人の男が刀を手に立っていた。街灯のランプが男の顔を仄かに照らした。知っている――でも、知らない顔。
「…だ…れだ…」
「ご無沙汰してます…相馬隊長」
重たい声だったが、その声に聞き覚えはない。でも、彼が誰なのか…わかる気がする。痛みで思考がまとまらないだけだ。
(この男は…)
男は刀を鞘に戻しつつ、続けた。
「弟をどうやって篭絡したのかは知らねえが…俺にはあんたの言葉なんて通じない。あんたのように降伏はしない…二度とな」
大橋。
大橋山三郎。上田の兄だ。
「じゃあな」
大橋は相馬に背中を向けて去っていく。不運なことに周囲に人はなく、誰も彼を捕らえることはない。
「く…っ、ぁ…」
相馬は痛みを堪えてどうにか立ち上がった。身体中が震えている。指先の感覚がなく、身体が冷たい。ままならない思考だったが、不思議と大橋に対する怒りは沸いて来なかった。
ただ、
「かえ…る…んだ…」
この姿を、誰にも見られるわけにはいかないと強く思った。
相馬は誰に助けを求めることなく、重たい体を引きづって歩いた。歩くごとに痛みは増していく。身体がどんどん重くなっていく。しかし相馬は歩き続けた。
ひたすら歩き続けると、しんしんと雪の粒が大きくなった。滴る血はおそらく雪が流してくれるはずだ…きっと明日になれば雪とともに消えてなくなる。誰にも気づかれない。きっと大橋はこのまま逃げ切るだろう…そんなことを考えた。
「はぁ…はあぁ…ぁあ…」
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ようやく家の前にたどり着く。そして扉を開け、なだれ込むように身体を押し込んだ。
「…旦那様…?」
マツが警戒した様子で声を上げる。大きな物音が響いたので賊か何かだと思ったのだろう。
「旦那様?!」
倒れ込んだのが相馬であることにもちろんマツは驚いた。寝間着姿の彼女は倒れ込んだ相馬に飛びつく。そして背中をバッサリと斬られていることに気が付くと一気に青ざめた。
「あああ…あああ…旦那様…!旦那様、どうしてこんな…!」
悲鳴を上げるマツに相馬は言葉を絞り出す。
「…マツ…すまない…」
「すぐにお医者を…!」
「頼みが…ある…」
相馬は力を振り絞って体を起こした。マツは大粒の涙を流し、相馬の身体を支える。
「…刀を…もってきてくれ」
「…ッ、どうして…!すぐにお医者様を読んでまいります!このままでは…」
「わかって…いる。だから、頼む…」
「旦那様!」
刀を持ってきてほしい。
その意味を、マツだって察することができる…彼女は何度も首を横に振って拒んだ。
「嫌です!旦那様、しっかりなさってくださいませ!」
「頼む…しっかり…しているうちに、終わらせたいんだ…」
意識が朦朧としてきた。そのうち呂律が回らなくなり、息が止まるだろう。自分の体だからこそ時間がないことはわかっていた。
「マツ…刀を……頼む…」
「…っ」
相馬は懇願した。マツはぎゅっと唇を噛み、相馬の身体を壁に預けると奥の部屋から刀を持って帰ってきた。彼女は子供のように全身で泣いていた。
「旦那様…どうして、こんな…」
「…マツ…夫として、君に何も…何も遺せなかったことを、申し訳なく、思う…」
やっと自分自身と向き合えたように、心から君に向き合えると思ったのに。本当の夫婦になることができると思ったのに。
しかしマツは首を横に振った。
「…そんなこと…ありませぬ…!」
「いまから…二つ……頼みがある」
「ふたつ…」
相馬は大きく息を吸った。そうしなければ言葉を紡ぐことすら、できなくなってしまう。
「…まず…すべては…他言無用だ…」
「他言…無用…」
何が起こったのか。
どうして相馬が死ななければならないのか。そんなことは誰も知らなくていい。
(君に憎しみは似合わないだろう…)
連鎖はここで終わらせる。
ひゅーひゅーと頼りない音がする。それが自分の息遣いだと気が付き、本当にもう時間がないことを思い知った。
そして相馬は続けた。
「もう一つは…いまから…私を、一人に…してくれ」
「……旦那様…」
「惨いことを、頼んで…すまない。許してくれ…」
マツは言葉を失った。相馬のこの二つの頼みが彼女を傷つけることはわかっていた。他言無用という重い使命と死に目を看取れなかったという後悔を背負わせることになってしまうのだから。
だが、マツはゆっくりと頷いた。手に握っていた刀を相馬に渡し、自身は少し下がったところで膝を折り美しい姿勢で頭を下げた。
「…お別れですね」
「ああ…」
「短い…短い、時間でしたが、楽しゅうございました…マツはとても、…幸せでした。あなた様のお嫁様にしてもらって…嬉しかった」
大粒の涙を流しながらもマツは微笑む。彼女も混乱しているはずだ。それでも相馬の願いを叶えて、笑って見せてくれた。
「…ありがとう…」
相馬も笑った。
お別れだ――なぜだろう。悲しいと思っていた言葉は、それほど悲しくはない。
マツはすっと立ち上がると、そのまま家を出た。
彼女は島育ちの、ただの女子だ。ただ、その凛とした後姿は武家の女性のように美しかった。
そして静寂が訪れた。
相馬は一人きりになった。
そして最後の力を振り絞り、鞘から刀を抜いた。愛刀を持つ手が震えていた。このままではみっともない最期になるかもしれない…だが、それでも、相馬には切腹で終わらせなければならない理由があった。
「…後ろ…傷だ…」
士道に背く間敷事―――後ろ傷は武士の恥だ。
「…野村…そうだよな…」
『ああ』
彼の声が聞こえた。
彼の笑う顔が浮かんだ。
(そっちに行くよ)
「野村…」
待たせて、ごめんな。
お前がいなくなって気が付いたんだ。

この世の中には、何人もの人がいる。男と女がいる。そして海を越えた世界には髪や肌の色が違う者がいる。
空彼方、その向こうにだってきっと沢山いる。
そんな途方もないたくさんの人の群れのなかで、
お前と巡り合えた。
ともに笑い、ともに泣いて、ともに生きた。

なあ、これって。
奇跡だと思わないか―――?

























「…腹が減った…」
俺はそんなことを呟きつつ、ふらふらと歩いていた。
京の入り組んだ道は田舎者の俺にとって複雑怪奇だ。どの街並みも同じようにつながり、まるで迷路のようだ。
「新撰組の屯所って…どこだよ…」
歩き疲れて、路銀は尽きた。一刻も早く新撰組の屯所に辿り着かなければこのまま死んでしまう…俺は本気でそんなことを考えていた。
そんな時だった。
「どうしたんだ?お前」
気軽に声をかけてきた男がいた。俺にとって眩しすぎる笑顔を浮かべていた。だが俺にはまともに答えてやる元気はない。
「…腹…」
「腹?」
「腹減った…」
カラカラに乾いた喉で、絞り出すように口にし精いっぱいの言葉。しかし男は何が面白かったのか
「あっはっはっはっは!」
と笑い出した。俺はキッと睨むように男を見たが、しかし同時に腹が鳴る音も聞こえた。俺のものではない。
「…あー…俺だ、俺」
男は頭を掻いて笑った。俺と同じようにこの男も腹が減っているようだ。俺はなんだか気が抜けて、「何だよ」と併せて笑った。
すると、男がすぐそばの蕎麦屋に入ろうと言い出した。俺は路銀を持っていない、と断ったが男は「おごってやる」と背中を押した。普段なら知らない相手に奢られるなんてことはないが、今の俺にはそんな気力はない。
男は店に入って自分の財布を確認する。そしてかけそばを一杯だけ頼んだ。
「悪い、俺も大して金がねえんだわ。一杯を半分こ、これでいいだろ?」
「…ああ…ありがとう…」
もちろん一銭も出さない俺は文句を言える立場ではない。かけそばはすぐに二人の目の前にやってきた。
どんぶりに注がれた汁と麺。そこから白い湯気が立つ。
俺は柄にもなく貪るように蕎麦をすすった。こんなにも美味しい蕎麦を食べたのは生まれて初めてのような気がした。
そんな気がしたのに。
「ん?どうしたんだ?」
「…どうしたって…」
「なーに泣いてるんだよ?そんなに美味かったか?」
男が笑い、俺は戸惑った。
泣いている?なぜ?俺が?
にわかには信じられず、自分の頬に触れた。そこには一筋の涙が流れていた。
(俺…何で泣いているんだろう…)
理由はわからない。
どうしてだろう。
なぜ、泣いているんだろう。
「仕方ねえなあ、あと全部、食っていいからさ」
男は笑って俺の肩を叩き、どんぶりを押し付けてきた。俺はまじまじと蕎麦を見る。何てことのない、普通のかけそばだ。
でもどうしてこんなにも、胸を締め付けるんだ――。
「お前、名前は?」
「え?」
「俺は野村っていうんだ。今からこの先の新撰組の屯所に向かうところさ」
軽やかに告げた彼に、俺は涙をぬぐいつつ
「俺もだ」
と答えたのだった。










































あとがき


ソラカナタ、最後までお付き合いをいただきましてありがとうございました。
慰霊展に掲載した「蒼のオト」を含めて全60話でした。第一章から最終章まで約三年弱…完結まで時間がかかりました。特にこの時代は資料とのにらめっこで、なかなか更新が進まずにすみません。でも、私の中ではかつてない達成感があります(笑)

本当はこのソラカナタ、第二章で終わりだったんですけど、途中から「長丁場になる…」と悟り、第三章を書き始めるときには最終章の内容までは漠然と決めていました。
最後の展開については、読んでくださった皆様が色々と想像をしていただければ嬉しいです。

ご感想などお寄せくださいましてありがとうございました。
難しい時代背景故、わかりづらい部分も多々あったかと思います。それでも最後まで読んでくださったことに深く感謝いたします。
ありがとうございました。




明治時代の新撰組の資料が手元に乏しく、特に第四章はかなり想像で補完している部分があります。以下は注釈となりますが、これ以外にも史実と相違する点がございますので、ご了承ください。
注)相馬とマツが暮らした場所を「蔵前」としていますが、本当は豊岡県に出仕する前に住んでいたとされています。再び東京に戻った後にどこに住んでいたのか資料がなかったため、「蔵前」としました。
注)明治政府の処罰の基準についてですが、公務としての殺害(例えば巡察中の殺害)出会った場合は赦免、私闘だった場合は罰するとしており、作中に名前が挙がった大石は伊東甲子太郎暗殺について「私闘」であると判断されたために斬首となったようです。大石は実際に油小路事件に参加しています。
注)豊岡県に出仕していた相馬が免官になった理由は不明です。
注)作中に登場する大橋山三郎と上田安達之介は実在の人物ですが、島田とともに名古屋藩から赦免された後のことはわかっていません。
注)横須賀造船所の進水式に榎本が出席したのかどうかは不明です。初代艦長は井上良馨です。『清輝』は日本初の軍艦としてヨーロッパへ遠征したことが有名です。
注)相馬の死に関しては知られているように不明です。通説では自殺とされ、相馬はマツに「他言無用」と厳命し、マツもそれを守り通したためです。





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