ソラカナタ 第2部






ゆらゆら
ゆらゆらゆれる

「おい、起きろよ、相馬」
浅い眠りを起こされて、相馬は目を擦りつつ声に従い目を開けた。声の主が誰かということくらいはわかっている。
「何だよ、まだ朝には早いだろう…」
大江艦には新撰組をはじめ多くの兵士たちが雑魚寝している。十分なスペースがないなかでの就寝は少し神経質なところもある相馬にとっては毎晩厳しい。昨夜もなかなか眠れないなかをどうにか眠ったのだ。
しかしそのようやく手に入れた安眠も、野村利三郎には関係ないようだ。
「いいから、甲板に来いよ。いいもんみられるから」
「いいもん…?」
十月も終わりに差し掛かり、冬が近づいてきたせいかすでに朝は肌寒い。相馬は「俺は良い」と言ったが、「そういうなよ」と野村が強引に引っ張るので仕方なく重い腰を上げた。
雑魚寝する兵士たちの間を、そろそろと歩き、階段を昇り甲板に出た。
まだ朝早いため太陽は影を潜め、周囲は薄暗い。黒い波が艦を押して一定のリズムを刻んでいる。最初は船酔いに襲われたが、さすがにこの艦内で数日生活をしていれば慣れることができた。
「ほら、これでもかぶってろよ」
「…ああ」
野村が差し出した毛布を受け取り、言われるがままに肩から羽織った。異国製のそれは、存外温かい。ひと肌ほどのぬくもりがあった。
「お前は?」
「ん?ああ、俺は寒くねえから」
野村はあっさりと断ったが、海風にさらされる甲板が寒くないわけがない。今度は相馬が強引に野村を引き寄せた。
「いいから、強がってないでこっちに来い。一緒に羽織っていればいいだろう」
「ん、あ、あぁ…」
相馬が毛布の半分を野村の肩にかけてやる。野村は少し躊躇いつつ、相馬の傍に寄り男二人で毛布を共有することとなった。
先程まで気楽に会話を交わしていたのに、距離が近付くとまるで別人のように野村に緊張が走っていた。彼が何を考えているのか…そんなことは分かっている。
(どうしてこんなことになったんだろうな…)
二人を変えたのは、野村が口走ったあの一言。
『お前のことが好きだ』
死にたいと嘆く相馬に、野村は真摯な眼差しでそう告げた。すぐに取り下げて「なかったことにしてくれ」と言われたけれど、それが嘘だということくらいわかっている。
だが、それ以降野村は何も言おうとしない。彼は相馬へ答えも返事も求めずに、しかし「なかったことに」しようとしているわけでもないので、こうして時々、居心地の悪さを感じている。だから、相馬は彼へいずれ何かを言わなければならないのだろう、と思う。
(答え…か)
自分の気持ちはまだわからない。今まで、野村のことを一番親しい友人だとしか思っていなかった。無くしたくない相棒のようなものだと…そう思っていた心を、急に変えることはできない。だから、むしろ相馬は別のことを考える。
(どう返せばいい…?)
お互いの気持ちを一番尊重して、大切にして、傷付かずに済むように、この関係を壊さないように。彼へどんな言葉を返したら、正解なのだろう。
(正解なんて求めるのが間違っている…そんなことは分かっている)
けれど、それくらい、野村のことが大切だ。壊したくない、傷つけたくない、嫌われたくない…。
「あっ」
黙り込んでいた野村が急に声を上げたので驚いた。
「な、なんだよ」
「朝陽だ!」
相馬は彼が指差す方向に目をやった。橙色と赤色が混じる淡い光が見えてきた。それはそれまで真っ暗だった海を照らし、何にも染まらないはずの黒を、明るく染めていく。
「ほら…綺麗だろう。どこまでも海しかないんだ」
「ああ…」
見蕩れるほどに神聖な光景に、相馬も釘付けになる。
それからは時間が早く感じられるほど、太陽が昇っていくのは早かった。
「相馬」
「ん?」
野村は笑って
「おはよう」
と今更なことを言った。しかし、そんな彼が相馬の心を解きほぐす。
「…おはよう」
そう返すと、彼は満足げに頷いた。


慶応から元号が変わり、世の中は明治となった。徳川幕府が統治していたこの国は、たった一年でその姿を変えた。明治と言う元号はおそらくその象徴となるのだろう、と相馬は何となく感じていた。激動の世の中に翻弄される人々と同じように、相馬も自分自身の環境が目まぐるしく変化していることに気付かざるを得ない。
近藤局長と共に新政府軍へ投降した野村、そしてその助命嘆願に向かった相馬は、新政府軍に捕えられたものの、近藤局長の死をもってその身を解放された。その後、上野戦争を経て北上。仙台にてようやく新撰組と合流できるに至った。
もちろん道中の葛藤があった。特に近藤局長を助けられなかった無念を背負い込んだ相馬は、土方の目の前で切腹をする覚悟だけを持ち、どうにか前に進み続けた。仙台につくまでに相方の野村は何度も相馬の切腹を止めようと懇願した。しかし意固地になった相馬にはその決断を止めるわけにはいかず、死ぬことでお詫びをする以外は何も選ばないのだと決めた。
しかし実際に仙台で土方副長と再会すると、簡単にその決心は揺らぎ、そしてそれが正しくないのだと、「ちゃんとしていない」のだと、知った。ただ自分は逃げているだけで、それでは誰も報われないのだと思い知った。
(だからもう逃げない…)
死にたいなんて口にしない。それが土方副長と、そして亡くなった仲間の為になるのだと信じることにした。

そして、そこからは怒涛の日々だった。
旧幕府海軍総裁・榎本武揚とともに土方副長は新政府軍に対抗すべく各藩に助力を求めたが、既に会津、庄内、仙台藩が降伏したため奥羽越列藩同盟は崩壊、旧幕府軍兵士たちは居場所を失った。東北戦線の崩壊にもはやこれまでかと相馬をはじめ新撰組の面々は落胆したが、榎本武揚、そして土方歳三はそんなことでは屈服しなかった。
まず、旧幕臣からなる伝習隊、額兵隊ら二千五百の兵を吸収し、旧幕府軍戦艦『開陽丸』、旧幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸、鳳凰丸にて仙台を出航。旧幕臣の保護を旨とする嘆願書を新政府軍に提出した。
「蝦夷地が我らの祖国になる」
榎本からそう宣言があったときに、相馬は身震いと希望と一抹の不安と…そのどれもが一気に押し寄せてきたような複雑な気持になった。とても諸手を挙げて喜べるような状況ではない。もっとも、相棒の野村は
「良かったよな!」
と単純に大喜びしていたが、そう簡単にはいかないだろう。
そしてその蝦夷地を目指し、相馬たちは大江艦にてしばしの休息を持て余しているのだ。


「島田先輩、これ不味いっす」
配給の食事を受け取りつつ、野村は不満を先輩隊士である島田にぶつけた。まるで無邪気な子供のような野村の愚痴に、相馬は「おい」と窘めたものの、島田は「はっはっは!」とその大きな口を開いて笑った。
「正直だなあ、野村。西洋風の飯は口に合わないか!」
「合うわけないっすよ。獣臭いっていうか、いちいち臭みがある」
「そういうな。榎本総裁お気に入りの、なかなか食えない高級品だそうだ」
「…俺は握り飯と味噌汁があればそれでいいのに。異国の奴らが毎日、こんなもん食ってるなんて、信じられねえ…」
野村は眉間に皺を寄せつつ、羊肉のスープとパンを頬張る。羊肉の独特の味には兵士たちも閉口しているが、それしか艦内にないのだというのだから、どうしようもない。その不満は兵士誰もが持っている。
しかし島田は気にも留めない様子で、ぽんっと野村の肩を叩いた。
「俺たちと同じように、黒船が浦賀に来航した時は艦内で羊や鶏を飼って食糧にしたと聞いた。なかなか味わえるものじゃないんだ、今のうちに堪能しておけよ」
「へえい」
野村の返事に満足して「じゃあな」と島田はその場を去り、他の兵士のもとへ向かった。
相馬はその姿を見送って、ため息をつく。
「お前なあ…みんな我慢しているんだから、我慢しろよ」
「我慢…ねえ」
意味深に呟く野村をよそに、相馬もスープに舌鼓を打つ。野村のような拒絶は無いものの、確かに癖のある味を相馬も得意ではない。
去っていった島田を見る。彼の周りにはいつも人だかりが出来ていて、誰もが笑顔になって、彼の人柄が窺われた。もちろん新撰組のなかでも一番の古参だという信頼感はあるが、それ以上に温かな眼差しと分け隔てない平等な態度が自然と人を惹きつけているのだろうと相馬は思う。それは京にいた時もそうだし、変化はない。おそらくそれはもともと、島田の中にあったモノだ。
相馬はスープを飲み干して胃を満たす。
(副長もそういうことなのだろうか…)
苦い味を噛みしめながら、ふとそんなことを思った。
仙台で再会した時にはすぐに気が付かなかったが、あの「鬼の土方」の姿はもうない。不自然なほどに消え失せていた。
その理由が、近藤局長が亡くなったことなのか、沖田組長が亡くなったことなのか…それは相馬には計り知れない。もっとも、北上する間の戦場で、相馬の知りえない悲惨な状況に何度も立ち向かったのかもしれない。
しかし、そうだとしてもそんなことで折れるような人ではなかったはずだ。残酷で非情で…自身の考えを曲げないまっすぐな人。近藤局長とは違う鈍色の芯が彼のなかには確かにあったはずなのに。
ゆらゆらゆれる波のなかで、散らばってしまった光のようだ。






風は北上するにつれ冷たくなっていた。
まるで針のように、土方の頬を撫でていく。
「土方先生」
若く幼い声に呼ばれて、土方は振り返った。彼は甲板で冷たく強い風に吹かれながらも、どうにかバランスを保ちつつそこに立っていた。
「…田村か」
「お風邪を召されます」
若年にしては丁寧な言葉遣いを知っている。自分がその年だった頃のことを考えると雲泥の差だ。
彼が手渡してきた羽織を受け取った。洋装には合わないだろうが、温かさはやはり勝る。
田村は若干十二歳にして新撰組に入隊した。もちろん土方は入隊を止めた。若さ故の無謀と無茶を感じたのだ。
『新選組はガキのお守りなんてしない』
拒絶してやれば諦めるだろう、ときっぱり土方は言い切ったが、当の田村は『ガキではありません!』とすぐに反論した。当時鬼の副長として名を馳せていた土方に向かって、堂々たる態度だった。
すると傍に居た総司が大声で笑いだした。
『土方さんが悪ガキだったような、十二歳ではないということですよ』
総司はちょうど奉公に出ていた土方と同じ年だということが言いたかったらしい。奉公先で女とできて追い出された土方とは雲泥の差だと、遠回しな嫌味だったようだ。どういう理由か、総司はえらく気に入ったらしく、近藤にも『いいじゃないですか?』と口添えをした。そして絆された近藤も『そうだな』と頷いて彼の入隊を受け入れた。
入隊当初は子供のようだ、と皆がからかっていたが、子供のくせに生真面目で礼儀正しい態度を貫いた田村は、次第に一人前として認められ隊内でも可愛がられる存在となった。若年の為いまだ非戦闘要員として扱われ、戦場に出たことはない。
「…皆と一緒じゃなくて、悪かったな」
土方は新撰組の隊士が乗った大江艦とは別の戦艦に乗船した。土方の小姓として付き従っている田村は、自動的に土方と同じ戦艦に乗ることとなり、親しい仲間とは別れてしまったのだ。すると田村は首を横に振った。
「島田先輩や野村先輩に羨ましがられました。そして何かあったときには必ず土方先生をお守りするようにと強く言い渡されています。それからしっかりお世話をするようにと」
「お世話って…」
全く、と土方はため息をつく。
昔から土方に対して尋常ではないほど尽くす島田はとにかく、合流した野村までも口煩くなってしまったものだ、と土方は閉口する。よっぽど土方よりも野村の方が無茶をしでかしそうなものだ。
(…そんなに、危うく見えるのか…?)
近藤が死に、総司も一緒に逝ってしまった。どの戦地に赴いても結果は負けばかりで、多くの同志を失ってきた。後ろを振り返れば、怒りと悲しみと悔しさしかない。しかしそんななかでも前を向かなければならないと、己を奮い立たせてきたつもりだ。できるだけ仲間の前では気落ちした姿を見せてはならない、と鞭打ってきた。
「…箱館に着いて、あいつらに会ったら言っておけ。俺はガキじゃねえんだ。世話なんているかってな」
「わかりました」
小さく笑って、田村は頷く。そして「でも」と続けた。
「相馬先輩が同じようなことをおっしゃっていました」
「相馬が?」
「土方先生は立派で強い方なのだから、世話なんてとんでもない…と、野村先輩に」
野村に叱るように言い聞かせる相馬。その光景が自然と浮かんできたのは、京都に居た頃からそういう光景をよく見ていたからだ。入隊の時期の近い二人は自然と意気投合していった。まるで初めて出会うような間柄には見えなかった。
そしてその二人がここまで生き残っているのだから、運命とは不思議なものだ、と土方は思う。そしてその一方で、相馬の言葉が耳に残っていた。
(立派で強い…か)
おそらく相馬にとって土方という人間がそのように映っているのだろう。しかし島田や野村のように土方を心配する声もある。
(どちらも…当たっている)
北へ、北へと向かうにつれて、自分のなかの何かが削ぎ落されていくような感覚を味わっている。悲しみや悔しさと言った感情が麻痺して、広く抱いていた展望が段々と狭くなっていく。今は当てもなくゆらゆらと揺れる波のように漂っていて、本当なら消えてしまってもおかしくはない泡のような存在なのに、何故か生にしがみついている自分が居る。
(いまはきっと…こいつらの為に生きているんだろうな…)
土方は二歩ほど下がった場所で待つ田村の方へ振り返った。
「なかに戻る。お前も戻れ」
「はい!」
冷たい風に背を向けて、土方は甲板を去った。
もうすぐ箱館だ。


明日の朝には、北の大地に着くということだった。ようやく艦内での生活に慣れてきたところだったが、無事に上陸できることに越したことはない。朝が待ち遠しく、相馬たちは早めに就寝した。
「相馬」
早速鼾をかき始めた兵士もいるなかで、隣に横になる野村が声をかけてきた。てっきり寝ていると思っていたが、野村はいまだに起きていたらしい。相馬は「何だ」と小声で返す。
「ちょっと話があるんだ」
「話…?明日じゃ駄目なのか?」
程よく眠くなってきたところだったので、相馬としては明日に回してほしいと思ったが、
「今じゃなきゃダメだ」
と野村の真剣な声色が聞こえたので、重い身体を起こすことにした。
傍にあった適当な羽織を肩にかけて、薄暗い艦内を出る。数日前に、野村が相馬を連れ出した光景とデジャヴしたが、しかし野村の様子はあの時とは全く違う。
(何か…思いつめている?)
言葉にしなくても、長年連れ添えばそれくらいはわかる。彼の緊張が伝わってきて、相馬の心臓も何故か高鳴った。
冷たい風が吹く甲板に出る。もうすぐ到着だと言うが、まだこの先の大地は見えない。いつもよりも少し荒い波が船を揺らし、足元は酷く覚束ない。
「話って…なんだよ」
一向に口を開こうとしない野村に問いかける。背中を向けたままの彼は、拳を強く握りしめていた。
「…いや、やっぱり無理だって思ったんだ」
強張った身体とは裏腹に、野村の声色は軽い。それが無理やり作り出した彼の精一杯の虚勢だということは、相馬も分かった。
「無理…?」
「気づかないふりなんてできねえし、お前だっていつまでも知らないふりもできないだろうなって、思ったんだ」
「野村…」
彼が何を言いたいのか、相馬はおぼろげに分かった。しかしそれを口にするのは、自分の役目ではないだろう、と留める。野村は続けた。
「俺は…お前が、生きるって決めてくれて、本当に嬉しかったんだ。お前が切腹するくらいなら、俺も一緒に腹を切る。それくらいの覚悟はできてたんだけど、でもできるなら一緒に生きていきたいと…そう思っていたから」
「それは…有難いと、思ってる」
彼の友情は真っ直ぐに相馬の元へ届いた。土方からの「許す」という言葉添えがあったにしても、野村が必死に「死ぬな」と言い続けてくれたから、今こうして生きているのだと思う。
「だから、俺のいまのこの気持ちは…きっと足枷にしかならねえんだよな」
「……それは」
いまこの気持ち。
(俺が好きだと言う…その気持ちか…?)
彼の気持ちを迷惑だとか思ったことはない。突然のことで驚きはしたものの、自分とは違う意味で好意を抱き続けてくれていた野村には、感謝をしている。だから野村が出した「足枷」だというその結論には、相馬は納得できなかった。
野村は振り返って、相馬の目を見た。相馬が目を逸らしたくなるほど、真摯な眼差しだった。しかし野村は待ってはくれなかった。
「明日にはこの船を下りて、俺たちはまた戦い続けることになるだろう。いつ死んでもおかしくない状況だ。だから、いつそうなってもいいように、ちゃんとお前に振られておこうと思ってな」
「野村…」
野村は既に結論を出していた。相馬の気持ちをないものだと思って、自分の気持ちを押し殺す覚悟を決めていた。本当は彼の言うとおりに、「ごめん」と謝ってしまうのが良いのだろう。そうすれば京都に居たあの頃のように、親友として傍に居ることができる。
けれど、相馬にはそれができなかった。
(お前だけ苦しめるようなやり方は…)
それはできない。彼はもともとその気持ちを相馬に告げるつもりなどなかったはずだ。だから彼をそうさせたのは相馬自身で、彼だけこの先苦しめるようなことになるのは、耐えられなかった。しかし
(だったら他にどんな答えがあるというんだ…?)
痛みを分かち合える答えが、どこにある?
「相馬?」
何も答えようとしない相馬を、野村が心配そうに見ていた。そして「ははっ」と笑って続けた。
「いや、たいしたことじゃねえよ。お前はお前の気持ちに素直に向かえばいいんだからさ。俺のことは気にするなよ、しばらくしたら適当に復活するって」
「たいしたことないって…」
「失恋を糧にして別の恋を探すっていうか…。いつまでも引き摺ったりしねえから、ここでこっぴどく振ってくれれば…」
「お前なあっ!」
軽い調子で話す野村に、相馬は掴み掛った。
「お前、俺がどれだけ悩んでいると思ってんだよ!そんなことが簡単にできるなら、とっくの昔に答えなんて…」
「答えは、もう出てるだろう?」
胸ぐらを掴んだ相馬へ、野村は冷静に返答した。
「相馬、無理をしなくてもいいんだって。俺の独りよがりに付き合わなくっても、俺はお前の親友でいることを辞めたりなんかしない」
「違う、野村…そうじゃない」
「じゃあなんなんだよ!」
野村は相馬の肩を両手で掴んだ。強く握りしめた痛みに相馬は顔を歪ませたが、野村は構うことなくそのまま引き寄せた。
「ん…っ?」
唇が重なった、と頭ではわかっていた。しかしその相手が紛れもなく野村だということを理解するのは時間がかかった。
「…っ、のむ…」
今までずっと一緒に居たのに、こんなに近くで彼の顔を見たことはない。大きな黒い瞳が重なって、身体中の体温が上がっていくのを感じた。
(…嘘だ…)
事態を飲み込めず、相馬は混乱する。さらに不運なことが続いた。
「わっ!」
船が大きく揺れたのだ。身体が浮き上がるような感覚を覚え、野村は咄嗟に相馬の体を引き寄せたが、それが逆効果で不意に引き寄せられた相馬の方が、身体のバランスを失った。足がもつれるようになり、そのまま尻餅をつく。すると引き摺られるように野村もその上に重なった。
「…収まった…?」
「ああ…」
波は数度船を大きく揺らしたが、次第に元の揺れに戻っていく。相馬は安堵したが、覆いかぶさった野村はいまだに熱っぽい瞳で相馬を見つめていた。
「野村…」
「嫌なら、このまま突き飛ばしてくれ。そうすればそれが答えだと、思うから…」
そうすれば納得するから。
野村の懇願と決意を感じた。彼は軽い調子で「振ってくれ」なんて言ったけど、本当はそんなことを望んでいるわけじゃない。
(それがわかるから…)
だから、きっとこうして答えを出せずにいるのだ。
野村は相馬の耳元へ舌を這わした。ぞくっとした感触に相馬の身体は強張った。野村は少し窺うようにしながらも、頬に口付けを落とし、そしてもう一度唇へと重ねた。どくん、どくんと跳ね上がる心臓。しかしそれが少しずつ暴かれていくようだ。
「相馬…」
冷静さを失い、時折漏らす声に相馬はどうしても抗うことができない。抗うという選択肢を選ぶことができない。
首筋を舐め、そして着物の襟に手をかける。寒さを気遣いながらも、熱く求める彼に抵抗もせず身体を預けた。
(このまま…)
どうなってしまうのだろう、と相馬は思った。どこか他人事のように、身体が、頭がぼんやりとしていた。野村とこうしているということは、つまり彼の気持ちを受け入れたということになるのだろうか。
(こんな中途半端なままで…?)
それで、いいのだろうか?
「…っあ…!」
それまでくすぐったいだけだった感触が、一気に別のものに変わった。野村の左手が腰のあたりから弄り、その奥へと指をすすめたのだ。
「の、むら…ちょっと…」
「何?」
待ってくれ、と。そう口にすることもできず、相馬は唇を噛んだ。そうしなければ、声が漏れてしまうと思った。しかし野村は構うことなく、自分の指先を舐めて濡らして、相馬の一番奥へと滑らせる。
「あ、い、いた…」
「痛い?」
相馬は頷いて返す。しか野村は止めてくれない。足の指先から頭の先まで、すべての力を失い、彼の指一本で翻弄され、(もうだめだ)と相馬は思考を手放そうとした。
しかし、それを許してはもらえなかった。
「何をしている!」
大きな怒号が甲板に響いた。ぱっと思考が冴えわたり、野村はすぐに相馬から離れ、相馬は咄嗟にもってきていた羽織で肌蹴ていた身体を隠した。そして声の主の方へ目を向ける。
「島田…先輩」
腰に手を当てて、島田は二人を…どちらかと言えば、野村の方を睨み付けていた。






明治元年十月下旬。仙台・折の浜を出港した幕府艦隊が、蝦夷島・鷲ノ木浜に集結し始めた。既に足の高さほどの雪が積もる蝦夷は、真白く化粧がなされていた。
順次上陸が開始されるなか、先行して人見勝太郎ら三十名の使節団が鷲ノ木へ向かった。職を失った徳川家臣団による蝦夷地の開拓と北方警備を求める嘆願書を、新政府が収める箱館政府へ届けるためだ。もし拒否される場合は抗戦する旨も添えられており、上陸を果たした喜びもつかの間、緊張は高まっていた。


青黒い海から、雪の積もる陸へと場所を移した。やや非現実的だった鉄の戦艦から抜け出し、柔らかな土を踏むとどこか安心するのは、そもそも農民の出だからだろうか。「田舎臭い」と笑われそうな感想だが、
(いや…かっちゃんも同じことを言うよな)
と、土方はそう思って苦笑した。
「あ、土方先生!新撰組の皆が出てきましたよ!」
田村が子供のようにはしゃぎ、指を指すのでそちらへ目をやった。大江艦から降りてくる兵士に交じって、見慣れた隊士たちの顔が視界に入って来て、確かな安堵感を覚えた。
そして彼らも同じだったのだろうか、新選組の隊士たちは土方の姿を見つけると、我先にと駆け寄ってきた。
「土方先生!」
「ご無事でしたか!」
皆が口々にそう言うものだから、土方は内心(過保護な)と笑った。しかし口に出すとまた面倒なので胸に留めておきながら、まずは彼らの方の安否を確認した。
「お前たちこそ、長い船旅でお疲れだったな」
隊士たちが揃って首を横に振る。そんなことは全く問題ない、という元気な姿だった。
すると、一人の隊士が声を上げた。
「土方先生、少しお痩せになられましたか…?」
鋭く指摘してきたのは、相馬だった。(相変わらず目敏い…)と土方は思いつつ、答えてやった。
「そうかもしれんな。なんせ、西洋の食事は口に合わない。あんなものを食って戦う奴らの気が知れんな」
「確かに!」
隊士たちが揃って声を上げて笑った。開戦前の緊張感のなかだというのに、新撰組だけは別の空気が流れているようだ。しかしその騒がしいほどの笑い声が響く中でも相馬は、少し苦い顔を浮かべていて、どうやら誤魔化されてくれなかったようだと土方は思う。
そして、その隣に野村がいないことに気が付いた。

再会の喜びが少し収まった頃、
「島田!」
と土方は島田を手招きした。遠くに居た島田だが、すぐに駆け寄ってきた「何でしょうか」と訊ねる。
「話がある、付き合え」
「は、…はい!」
島田の表情に緊張が走る。京都に居た頃からの習慣か、土方の呼び出しにはろくな用件が無いと思っているのだろう。
「そう固くなるなよ。大した話じゃねえんだ」
「はい…」
そう取り成したものの、島田は不安そうな顔をした。
戦艦からの荷物の搬出が行われるなかで、土方と島田は少し離れた岸辺に歩いた。
「相馬と…野村、何かあったんじゃねえのか?」
「へっ!?」
唐突な切り出し方に、島田が驚いた声を上げる。目が泳ぎ慌てふためく島田に、どうやら正解だったようだと土方は確信した。
「あ、あの…野村から、何か?」
「いや、俺は何にも聞いちゃいねえ。ただ様子が変だと思っただけだ」
「それだけで…」
それだけで察せられたのか、と島田が感心した様子を見せる。しかし土方としては新撰組時代に培った、『人を疑う癖』のようなものなので、褒められた特技ではないと思っている。
すると島田は少し息を吐いて、話し始めた。
「自分も…すべてを知っているわけではありませんが…」

島田は夜中にふと目を覚ました。喉がカラカラに乾いていたのだ。
水の上で生活しているとは言っても、海の水は飲めるようなものではない。補給する場所もないから、船上では特に水が大切なのだと初めて知った。そして水が自由に飲めない不自由さも知った。
(一杯…飲んでくるか)
固い鉄の床に、薄い煎餅布団。島田にとっては狭いスペースでの睡眠は毎日が戦いのようなものだった。慢性的な寝不足だが、新撰組の古参隊士として弱った姿を見せるわけにはいかない。
毛布を肩から掛けて、布団を抜け出して部屋を出る。すると、甲板の方から冷たい風が流れてきた。
(もう蝦夷が近いのか…)
日を追うごとに北へと向かうこの戦艦では、どんどん気温が下がって行った。今まで体験したこともない様な寒さで、これ以上に寒いと言われる蝦夷の地は島田にとっては恐怖でもある。しかし、やはり古参隊士としてのプライドを崩すわけにはいかず、「こんなのは平気だ」と毎日言い聞かせている。
水樽の水を一杯拝借し、喉に流す。心地よい冷たさに眠気は飛んでしまったが、喉を潤すためなら仕方ない。そうしていると、ガクッと身体が揺れた。
「…っ?」
バランスを崩した島田だが、慌てて水樽のふたを閉めた。貴重な水をこぼしてしまうわけには行かない。次なる揺れに備えたが、どうやら艦は平衡を保ち始めたようで、何事もなかったかのように揺れは収まった。
ほっと一安心して、島田は部屋へ戻ろうとする。
(…ん?)
しかし、ふと甲板の方で声が聞こえて、立ち止まった。
(誰かいるのか…?)
夜の甲板は酷く冷える。船酔い冷ましには良いが、そこそこにして部屋に戻らせなければならない。これもまた古参隊士として注意しなければ、というお節介な思考が働いて島田は甲板へと向かった。
だが、そこには思いもよらない光景があった。
「何をしている!」
すべてを本能的に理解して、島田は怒号を挙げた。絡み合っていた二人の体は、野村の方から慌てて離れて行った。夜の甲板で、冷たい風が吹く中で相馬の衣服はとても乱れていた。
動揺する野村と、呆然とこちらを見ていた相馬。
島田は遠慮なく二人の間に割って入り、まずは相馬に自分の毛布を被せてやった。
「しま…」
「何も言わなくていい。相馬、部屋に戻れ」
語気を荒くして、命令する。相馬は躊躇いつつも頷いて
「は…はい」
と促されるままに甲板を降りて行った。ふらふらと足元は頼りなかったが、相馬は階段を下りていき、甲板から姿を消した。
次に島田は、野村の方へ向いた。野村は俯いて、唇を噛みしめて、握り拳を震わせていた。
「…野村、合意か?」
何となく答えはわかっていたが、島田は訊ねた。すると野村は首を横に振って、
「たぶん…合意じゃありません」
その答えに、島田は「はあ…」と深いため息をついた。
野村の相馬への気持ちを、まったく知らなかったわけではない。京都に居た頃はなかの良い二人だと思っていたが、仙台で再会した時に二人の間に流れる空気は、明らかに変わっていた。戦線を二人だけで乗り切ってきた、その戦友としての関係よりも、深く、深く慈愛に満ちた視線を、野村は相馬へと送っていた。それは鈍い島田でも気が付かざるを得ないほどに。
「お前…何でこんなことを…」
結果を急いでいるようには見えなかっただけに、島田にもショックだった。だが、それ以上に動揺しているのは野村のようだった。
「島田先輩、一発、殴ってください」
野村の申し出に、島田は「は?」と目を丸くした。
「野村…」
「いや、ほんと…俺、馬鹿なんですよ。大馬鹿なんですよ。もう、諦めて、こっぴどく振られちまおうって…ちゃんと、そう思っていたのに」
野村は二、三歩後ろに下がって、壁に背を置いた。そしてそのままずるずると座り込み、膝を抱えて項垂れた。
「でも、あいつが…諦めようとした俺を引き留めて…ちょっとだけでも、俺のこと好きかもって…そんな風に期待した。そんなわけねえのに…全部、台無しだ」
二人の間でどんな会話があったのかは島田にはわからない。
しかし、相馬をあきらめきれなかった野村と、野村を傷つけたくなかった相馬…その二人の微妙な均衡が崩れてしまったのだろうと、思った。
島田には何の慰めの言葉も見つからない。そうしていると、俯いた野村が、顔を上げた。
「島田先輩が来てくれて…良かった。止めてくれて、良かった。だってまだ…戻れる」
「野村…?」
泣いているのだろう、と思っていた野村はしかしそんなことはなかった。そして、もう何の迷いもなかった。
「俺はやっぱり友達のままでいい。もう二度と…相馬を傷つけたりしないように、俺は相馬を諦めます」
もう何の未練も、後悔も、悔しさも、悲しさもない。相馬を失うことに比べたら…と。
島田の目には、彼の決意が強く、深く、感じられた。



「…正直、自分は余計なお節介をしてしまったんじゃないかと後悔しています」
島田は肩を落として、ため息をついた。
「野村の想いを、もしかしたら相馬は受け止めてやれたのかもしれない。ですが、それを断ち切らせてしまったのは自分です。それから、野村は相馬と距離を取り始めてしまい、それを見ているのも、自分にとっては何だか申し訳なくて…」
野村は友達に戻ると言っていたけれど、それさえもできなくなってしまうのではないか。そう思うと、すべてを自分が崩壊させてしまったのではないかと、島田は後悔してやまなかった。
しかし、土方は話を聞き終わると「ふっ」と息を吐いて、そして笑い始めた。
「ひ、土方先生…?」
「…ああ、いや、すまん。別にお前は悪くねえんじゃねえか?」
軽い調子の返答に、島田は困惑する。だが、土方は尚も笑いつつ、呟いた。
「俺と、総司みたいだ」
「え?」
どういうことだ、と訊ねようとしたが、土方は「何でもねえよ」と先に答えてしまった。
だが、何故かその横顔はどこか嬉しそうに綻んでいた。






箱館政府へ、旧幕府軍の蝦夷地開拓、北方警備を求める嘆願へ向かった人見勝太郎ら使節団は、22日深夜、峠下で新政府軍の迎撃にあった。

「見事に迎え撃ち、圧倒的に勝利したとのことだ!」
早朝。鷲ノ木沖付近に寄宿した旧幕府軍兵士は、伝令役からの報告を聞き、諸手を上げて喝采した。幕府軍の進行を阻むべく箱館府軍は、深夜の暗がりを狙って、峠下付近の旧幕府軍宿営地を奇襲した。
「だが、寄宿地付近の地形をすでに把握して、万全の態勢を取っていた人見先生たちは、反撃し見事に勝った!」
新撰組内でも皆が群がって、喜びの声を上げた。
「敵大将の、清水谷ってのは温室育ちのお公家さんだ。急ごしらえの部隊で攻撃してきたらしいが、これまで転戦してきた俺たちには敵わなかったんだ!」
「伝習隊は流石だ!」
「戦なんてのは実戦経験がものをいう。あいつらなんて、新撰組一隊で十分勝てる相手じゃねえのか!」
口々に己を鼓舞する隊士たちは、一様に喜びとともにどこか安堵の表情を浮かべていた。
これまで北へ北へと向かい、負け続け、逃げ続け、身を削るような思いでここまでやってきた。口では強がっていても、どこか不安で「負けるのではないか」と疑心していた。それが先鋒した部隊の勝利で、少しだけ晴れた。
きっと皆、そういうことだろう、と相馬は思っていた。
相馬は彼らと一緒になって喜ぶことができず、少し離れたところからそっと見守っていた。もちろん、勝利が嬉しくない訳はない。久々にかちえた確かな「勝利」に酔いたいのは相馬も同じだ。
しかし、いまは別のことに、心を持って行かれる。
(これでは…駄目だ)
相馬は唇を噛んだ。
新撰組隊士が集まる輪の中に、野村の姿がある。
つい二日ほど前のことがあってから、野村はあからさまに相馬を避けた。お神酒徳利だと言われるほど常に一緒に居たのに、今では他人のように振る舞っている。それが野村の気遣いや、後悔、贖罪なのだと…相馬はわかっていた。わかっているからこそ、苦しい。
(どうしてあの時…)
どうしてあの時抗えなかった?
このまま野村の思いに答えてしまってもいいと、思ったからではないのか?彼の想いに報いるのが、友情だと過信しなかったか?
(それは、最低だろう…)
はぁ、と相馬がため息をつく。すると後ろに気配を感じて咄嗟に振り向いた。
「…なんだ、気は張ってんだな」
「土方先生…!」
相馬は慌てて一礼する。土方は苦笑しつつ、相馬の隣に立った。
「お前はあんまり嬉しくなさそうだな」
「え…?あ、いえ、そんなことはありません。伝習隊の皆さんの活躍は素晴らしいと思います。これからの戦も幸先よく…」
「真面目だな、お前は」
ふっと笑って、土方はそう言う。褒められたのか貶されたのか、相馬には良くわからなかった。
今でこそ気軽に話しかけてくる土方だが、昔、それこそ鬼の副長と言われていた頃は、こうして二人きりで話すことなどまったくなかった。それほど土方という存在は抜きんでいたし、怖いと感じることがあったのも否定できない。近寄りがたいと思っていたのは相馬だけでなく、他の隊士にとっても同じだっただろう。
だから、何を話したらいいのか、相馬にはよくわからない。
「あの…」
「野村のことは、もういいのか?」
ストレートすぎる質問に、相馬は一瞬、土方が何を言っているのかよくわからなかった。しかし、土方はまるで世間話の一つのようにあっさりと口にしただけで、そこに何の思惑もないように見えた。
「…あ、あのもういいっていうのは…」
「島田に聞いた」
その端的な答えで、相馬は理解した。
「そうですか…」
島田がどのように報告したかはわからない。だが、あの時島田は明らかに相馬を庇い、野村を攻める物言いをしていた。(野村のことを誤解していなければ良いけれど)と相馬は内心思いつつ、それ以上の言葉は紡げなかった。不自然な沈黙が続いていたところで、「ふっ」と土方が笑った。
「まるで通夜みたいな顔だな」
「え…俺、ですか?」
「ああ。…野村のことは許してやれ」
土方の言葉に、相馬は顔を赤らめた。
「ゆ…許してやるとか、やらないとか…そういう立場ではないと、思っていますが…」
「じゃあお前、野村のことが好きなのか?」
「…っ」
上官の、しかも土方からの質問に、相馬は息を詰まらせた。まるで拷問みたいだ、と口を閉じ俯くが、土方は構わず続けた。
「まあ、許さないなら許さないでもいい。ただ、お前たちがお互いを親友だと認めてきた時間を、否定するようなことをするな」
「土方先生…」
「そうしなければ、この先の戦で片方が死んだとき…お前たちは絶対に後悔する」
この先の戦…土方がそう言うと、その言葉の重みが増す。そして土方の言葉は、また別の意味に聞こえた。
「…土方先生も、後悔されたのですか…?」
相馬は思わず訪ねていた。
思えば、新撰組結成以来からの同志はもう誰もいない。試衛館からの食客たちはもう誰も。ひとり、またひとりと失うなかで土方は後悔を重ねたのだろうか。
しかし、相馬は訊ねておきながら(しまった…)とすぐに己の失言を恥じた。そんなことを土方に聞いたところで、心の奥底に沈めた苦い記憶や悲しい感情を思い起こさせるだけに決まっている。
すると土方は、ふと遠い目をして「さあな」と曖昧な返事をした。そして、
「お前は聡すぎる」
と笑った。
「後悔なんて死ぬほどしてる。俺は生き続ける限り、後悔を続けるんだろうな」
「そんな…」
そんな弱気なことを言わないでほしい、と相馬は思った。新撰組の隊士は土方の生き方に憧れて、土方の行く道に従い、そして土方の為に死にたいと思っているのに。そしてその思いを、誰よりも土方は知っているだろうに。
すると、相馬と土方の視線の先…新撰組の隊士たちがこちらに気が付いた。隊士の一人が「土方先生だ!」と声を上げて、皆の視線がこちらに集まった。そしてその中にもちろん野村もいた。
(あ…)
目があった。しかし野村はその視線を外した。
「相馬」
「は…はい」
もう戻れないのか?
心が動揺を隠せない。そしてそれは土方にも伝わったはずだ。
「これはただのお節介だ。俺はお前も…そして野村のことも気に入っている」
「土方先生…」
「だから、俺と…総司のように、なってほしくないと思っている」
そういうと、土方は前へ歩きだし、隊士の元へ向かう。隊士たちも駆け寄ってくる。だが、どうにも止められなくて、相馬は土方の背中に問いかける。
「先生は…沖田先生とのことを、後悔しているんですか…っ?」
明日をも知れぬ時を生きているなかで、土方と沖田は互いにどうしようもない別れを選ぶことになった。土方はたった一人の孤独のなかで、最愛の人を置き去りにしたことを後悔しているのだろうか。
すると土方は振り返って、微笑んで返した。
「さあな…後悔してるような気がする」
「先生…」
「死んだら、あいつに聞いてみるよ」
そう言うと土方は手を振って去っていく。
相馬は呆然とその場に立ち尽くした。膝の力が抜けて、座り込みたいほどだったけれど、どうにか耐えた。


同日。旧幕府軍は五稜郭を目指し出立することになった。雪が降り積もる悪条件だったが、待っていたところで条件は悪化するのみだ。
しかし、思わぬことが起きた。
「なんで土方先生とは別行動なんですか!」
声を荒げたのは野村だった。先輩の島田に詰め寄って訊ねる。他の隊士も不満を隠しきれずにいた。
五稜郭へ進軍するに当たり、鷲ノ木から内陸と行く本道口と、沿岸を進む間道口に軍を二部することになった。本道口は先鋒部隊が戦をした峠坂を通るルートであり、戦が予想された。もちろんこれまで連戦勝利を収めてきた土方が率いると思い、新撰組は本道口の軍に加わったが、あとから土方は間道口の総督に就くということがわかったのだ。
「仕方ないだろう!もう決まったことで、我々は大鳥先生の下に付くんだ」
「そんなのは嫌です!俺たちの大将は土方先生なんだ。俺たちは土方先生と一緒にいく!」
野村が声を上げると、その動揺は隊士たちにも広がっていく。やがて苛立ちの矛先が島田に向いていくのが、相馬にはわかった。
(拙いな…)
野村の感情的な言い分は相馬にも理解できたが、見知らぬ土地で、隊の統率が取れないことは致命傷になる。土方と一緒に戦えなかったという不満が、戦への悪影響になっては元も子もない。
「島田先輩!どうにか配置換えをお願いしてきてください、もしくは土方先生に直接…」
にじり寄る野村に、島田は困惑していた。相馬は意を決して、野村の背後に歩み寄り
「野村!」
とその首根っこを?まえて、島田から引き離した。野村は
「相馬…っ?」
と必要以上に驚いた顔をしたが、相馬は無視して続けた。
「俺たちの我儘で土方先生に迷惑をかけてどうする!それよりも、俺たちに本道口をお任せくださった上官の期待に応え、間道口の総督になられた土方先生をお祝いし、無事を祈るのが先だろう!」
相馬の一喝は野村だけではなく、隊士皆を黙らせた。感情に流されない冷静な判断…皆が呆気にとられ、同時に圧倒される。そして島田が
「相馬の言うとおりだ。まだ戦は始まったばかりで今後も土方先生の下で働く機会もあるだろう。その時までどうか堪えてくれ」
古参隊士の言葉に皆が頷いて、どうにか渋々ではあるが皆は進軍の準備に取り掛かった。
相馬はほっと息を吐いて、首根っこを?まえたままだった野村から手を離した。
「そ、相馬…」
野村は口を開いたままで、相馬を見ていた。相馬は少しため息をついて
「野村、行こう」
と肩を叩く。
何の答えも出ていない。何が正解なのかもわからない。どうすれば後悔しないで済むのかも、模索している。
でも時間は待ってくれない。
(…戦が始まる)
死が二人を分かつときに、このままで良かったのかと問いかければきっと否と答えるはずだ。
だから探す。
後悔をしない、答えを。





身体を打ち付ける雪は、まるで本土のそれとは違っていた。打ち付ける固さも、冷たさも、経験したこともないほどだ。身体に張り付くような猛吹雪の中、雪が身体を侵食していくようだと相馬は思った。
二四日早朝。本道口を進む旧幕府軍はようやく峠下へたどり着き、伝習隊と合流した。ここからさらに軍を二部して五稜郭を目指す。
「新撰組は人見先生の方へ就くようだ」
先鋒から話を聞いてきたらしい野村は、早速相馬や他の隊士に知らせた。大野方面は大鳥が伝習隊を率い、七重方面へは人見が遊撃隊、砲兵隊、そして新撰組を率いることとなったらしい。
「良かったぜ。俺はどうもあの西洋かぶれの軍事学者が気に食わねえんだ」
「野村、口を慎め」
そんなくだらない私情など口にするべきではない。相馬は厳しく諌めたが、野村は「へいへい」と適当な返事をした。
あの夜から数日。不自然に開いていた距離が急に縮まり、普段通りに戻ったことについて、相馬も、野村も特に何も口にしなかった。戦時下でそれどころではなかったし、それよりも優先すべきことはたくさんあったからだ。
「それにしても、不利な方を選ぶことになりましたね」
野村の話を聞いて冷静な感想を述べる青年が居た。新撰組隊士・三好胖だ。彼は新撰組隊士とはいっても、彼の素性は野村や相馬たちとは違う。歴とした唐津藩の四男で、幕府老中の義弟にあたる血筋だ。唐津藩士とともに新撰組に合流している。
「なんでだ?俺は西洋かぶれで頭でっかちな大鳥よりも、既に勝利を収めた人見先生に就く方が有利とだと思うけどな」
野村の私情入りの感想には、相馬は頭を抱えたが、三好はくすりと笑うだけだった。
「確かに僕も大鳥先生の指揮の実力は信頼できません。会津や仙台までの戦でも何度も伝習隊は壊滅の危機を迎えたと聞きます。ですから、やはり誰が率いるかということは、軍の力以上に影響のあるものだと思います」
理路整然と意見を述べる若者は、こんな時でも落ち着き払っている。
「だったら何故?」
「峠下で人見先生ら先鋒の伝習隊が勝利を収めることができたのは、地の利を知っていたこと、そして最新鋭の小銃を使いこなせていたことです。敵はまだ箱館府が誂えたばかりの玩具のような兵隊です。だからこの先の七重の地をよく知っているかどうかは、僕たちと同じくらいの土俵だと言えます。だったら小銃の勝負になるかもしれません」
小銃を得意とするのは伝習隊だ。その伝習隊は隊を二部して大野方面へと向かう。つまり七重方面で銃撃戦となった場合は圧倒的にこちらが不利になる。
「…確かに銃撃に合うと厳しい戦いになる」
相馬も三好の意見に同意した。銃の遣い方は一通り京都にいた頃から学んできたが、どうしても咄嗟の時には刀で応戦する。しかしそれでは太刀打ちできないのだということは、鳥羽伏見の頃から嫌というほど味わってきている。
「そうならないことを祈らなければならないな」
そんな先行きの不安になる話をしていると、出発の合図が聞こえた。大野方面へ向かう大鳥らを見送り、その西を行くこととなる。
「…」
雪は相変わらず、冷たく、荒く、相馬らの身体を打ち付けていた。目の前が真っ白に揺れて足元もおぼつかない。そんな道をずっと歩いてきたはずなのに、七重に向かう足取りはずんと重くなる。
(怖いのか…?)
三好の言葉が頭を離れない。嫌な予感というのはいつも当たってきた。嫌になるほどに、相馬を苦しめてきた。この感覚を、知っている。
「相馬」
突然、背後にいた野村が、どんっと肩を押した。
「わっ…」
バランスを崩した相馬は、積雪に足を取られてそのまま顔から雪に倒れこんだ。まるで子供のように、滑稽なほどに転んだ。
相馬はすぐに体を起こす。しかし周囲にいた三好ら新撰組隊士を始め、兵士たちが相馬の姿に声を出して笑っていた。
「…っ、野村ぁ!」
相馬は野村を睨み付けるが、野村は合掌して「悪い」と謝りつつも笑っていた。
「悪い、悪い、やり過ぎた」
そう言って手を差し出してくる。相馬は仕方なくその手を取った。
冷たいはずの彼の手は、何故か不思議なほど暖かく感じられた。


しかし相馬の『悪い予感』はすぐに当たることとなった。
警戒しながら進んだ七重には敵影はなく、兵士たちは安堵しつつさらに南進した。雪による視界不良、潜伏していると予想した場所に敵兵がいなかった肩透かし、疲労…簡単に言えば油断した。
「進軍!進軍!」
前方を歩く兵士から伝わる声。雪に足を取られ、身体は疲弊し体力はどんどん減っていく。寒さゆえに朦朧とする意識の中で、唯一聞こえていた「進軍」の合図。だが、それが突然途切れた。
「ん…?」
相馬は不意に前方を見る。すると叫び声が、悲鳴に変わっていた。
「敵兵だ!」
「銃撃だ!」
耳に入ったその言葉で、カッと瞳孔が開く。それは傍に居た野村も同じで、すぐに刀を抜いた。
銃が弾丸を放つ音が上から聞こえてくる。相馬はすぐに敵が高台にいることを察した。
「野村、こっちだ!」
今にも前に突っ込まんばかりに歩を進めていた野村の腕を、相馬は引いた。野村は「え?」と驚いた顔をしたが説明している暇はない。急いで樹林の影に隠れた。
「相馬、なんで隠れる!応戦しねえと…」
「敵は高台から銃で狙ってる。闇雲に出て行っては的にされるだけだ」
冷静な相馬に、野村がぐっと言葉を飲み込んだ。振り返ると島田を始め、数名の隊士も同じようにしていたので相馬は間違った判断をしていなかったようだ。
まるで雹が降ってような銃撃は、止む気配はない。前方にいて隠れる場所を失った兵士たちが死に、逃げ惑い、倒れこむ姿は見ていられるものではなかった。野村は「くそぉっ」と拳を握りしめて声を上げた。
すると隣の樹林に隠れていた三好が銃を構えた。
「僕が行きます」
「三好…!」
相馬は止めようとした。三好は剣術よりも銃に優れた才能を持つ。最新鋭の小銃も持参し、的を当てるのも新撰組では誰よりもうまい。しかしこんななか出て行っても、それはただの無駄死だ。
すると三好は相馬と、そして後方にいた島田を見据えた。
「我ら唐津藩士のなかで銃に優れている者が応戦します。少しでも犠牲を少なくするために。その間に皆さんは相手の背後に回り込み、斬りこんでください。それで挟み撃ちです」
三好の従える部下たちは皆、穏やかな微笑みだった。その笑みの下で、その作戦で圧倒的に自分たちが死ぬ確率が高いということを悟っているはずだ。彼らの覚悟に、相馬は息を飲んだ。
しかし黙っていられない男もいた。
「馬鹿野郎!そんな、お前たちを犠牲にすることなんかできるかよ!」
「野村…!」
「もっと、別の方法を考えるんだ…!」
諦めきれない野村は必死に叫ぶ。だが野村だってわかっているはずだ。彼らの覚悟を、感じ取っているはずだ。それでも彼らの命を思えばもっと別の作戦があるのではないかと言う気持ちになる。それは野村が仲間を大切に思っているからだ。
相馬だってそれは同じだ。
(考えろ、考えろ…!)
相馬は唇を噛み、拳を握りしめた。
しかし考えても考えても、三好が言う以上に確率の高い勝負はない。相手が銃撃に気を取られているうち背後に回り込めば、新撰組の独壇場となるだろう。
すると島田が小走りにこちらにやってきて、ぽん、と相馬の肩を叩いた。
「島田先輩…」
そして大きくうなずくと、島田は命令する。
「お前の言うとおりにしよう」
「…はっ!」
島田の言葉に三好は笑みを湛えていた。そして小銃に弾を装填した。
相馬は気づく。重い、重い、役目を島田は背負ってくれたのだ。三好の案以上の良案なんてないと悟り、旧幕府軍が勝つために何をすべきかという大局的な視点で、そして新撰組の古株として全てを抱え命令したのだ。彼らが死んだとしても、その責任は自分が取るのだと、そう宣言してくれたのだ。
相馬はその事実に呆然としつつ、颯爽と銃を従え踊り出る三好の背中を見送った。
何か気が利いたことを言いたかった。けれど何も思いつかなかった。(死に行くわけじゃない)と、(彼らが生き残らないわけでもないのだ)と、自分を励ますしかなかった。
「相馬、行こう」
すると今度は、まるで別人のように表情を変えた野村が相馬の腕を引いた。唇を強く噛みしめて何かに耐えるような顔をしていた。しかし相馬の腕を強く握りしめて、深雪に足が囚われないように、前へ前へと進んだ。
遠くで銃弾が聞こえる。
人の断末魔も聞こえる。
耳を塞ぎたくなる現実がある。
(でも…)
彼らが繋いでくれた道を進まなければならない。相馬はそう覚悟をして、相馬の手から離れて歩き出した。


七重での銃撃に為すすべもなかった状況を打開したのは、敵陣への斬りこみであった。小銃の扱いに慣れた兵士たちは、突然の斬りこみに対応できず状況は一転。ついに新政府軍の撃退に成功したのだった。







七重で苦戦を強いられた本道軍とは裏腹に、間道を進む土方が率いる軍は順調に五稜郭へ向かっていた。
道すがら、敵からの銃撃は受けたが、その後は強い抵抗もなく、要衝・川汲峠に成功。峠を下って湯ノ川まで進出した。真冬の寒さや海風の痛みに似た凍りつく吹雪、敵の待ち伏せを警戒しながらの進軍には気力・体力を使ったが、実際にはすべて杞憂に終わっていた。次第に、土方は敵が本道の方へ重点的に軍を置いたのだと感じ始めた。
(くそ…外れか)
海沿いを行く方が敵にも戦いやすい環境と踏んでいたが、そうではなかったらしい。銃の扱いに慣れた伝習隊が居る限り、本道軍は安心のはずだが、率いるのが大鳥だということが気がかりではあった。
(大丈夫だ…あいつらもいる)
京から戦い続け、生き抜きつづけた新撰組がいる。だからきっと大丈夫だとは思っている。
(この感覚を…いつかも、経験した)
ふと、そんなことに気が付いた。
そう、あれはこんな真冬とは正反対の、蒸し暑い夏の京都のこと。特有の祭り囃子が木魂する夜を駆け抜けた、六月。あの時も、敵が見つからない焦燥感を持ち、どうか無事でいてくれと願った。それをまた繰り返している。土方の取る選択は、いつも彼の思惑と外れる。
「よほど、運が悪いらしい…」
「どうかしましたか?」
傍に居た田村が土方の独り言を拾ったようだったが、土方は「なんでもない」と誤魔化した。昔話をしたところで、最近入隊した田村にはその情景がわからないだろう。田村は不思議そうに首を傾げていたが、すぐに「あっ!」と叫んだ。
「土方先生、あそこに…!」
傍に居た田村が指を指す。白く降る雪の狭間にその方向に稜堡式城郭・五稜郭がその姿を現そうとしていた。


一日前に、距離的に近かった本道軍がすでに五稜郭に到着していた。無血開城だということで皆は喜び、この二、三日の戦いの休息を取っていたところだった。土方は数ある兵士のなかから新撰組の姿を見つけた。
「土方先生、遅いっすよ」
そんな軽口で出迎えたのは野村だった。見慣れない城郭にも馴染んだようで、リラックスした様子だった。そして野村を先頭に新撰組隊士たちが土方の周りに集まってくる。
「お怪我が無いようで何よりです」
島田が重々しく頭を下げたので、土方は「それはお前たちだろう」と返答した。すでに本道軍の戦いについては大鳥から話を聞いていた。
「お前たちの方ばかりに敵が集まったらしいな。特に七重の方は激戦だったと聞いている」
土方が彼らの慰労を労うと、それまで明るかった野村の表情が曇った。そしてそれは島田や他の隊士たちも同じだった。もちろん土方は大鳥から、新撰組から死傷者が出たという話は聞いていた。
重苦しい空気の中で島田が切り出す。
「土方先生、自分は…」
「もういい」
しかし土方は聞かず、首を横に振った。島田は少し呆然として、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「俺たちに悼む暇などない。五稜郭に入ったとはいえ、ここもまだ敵の戦場だ。次は松前城攻略に動く」
死んでしまった仲間の為にも、前向かなければならない。言葉にしなくともずっとともに戦ってきた新撰組の隊士なら、土方の言いたいことはだれでもわかった。だからそれ以上は、胸のなかに留めておくことにする。
「松前にはいつ…?」
それまで黙り込んでいた相馬が、土方に訊ねる。
「二日後だと聞いている」
「俺たちも連れて行ってもらえるんでよね?!」
ぱっと表情を変えて、野村が訊ねてきた。まるで遊びに行くような、明るい表情だ。冷静で表情を崩さない相馬とは正反対だ。
「残念だが…主に間道軍で向かうことになっている」
「えーっ!またですか?!」
言葉通りの不満を漏らし、野村が苦い顔をして叫んだ。新撰組の隊士たちもざわざわと騒ぎ、
「俺たちも連れて行ってください!」
「間道軍の兵士よりも早く着いたんだから」
「体力は回復しています!」
と隊士たちは口々に懇願した。
(全く…戦が好きな奴らだ)
吹雪に打たれながらの進軍など、そう長く続けたいものではないだろうに、血気盛んな新撰組の隊士たちはすすんで出撃したいという。
しかし土方は彼らの願いを却下して笑った。
「馬鹿。お前たちは本道をやってきて、手柄の一つや二つ挙げただろうが、間道軍は手柄を挙げたくても上げられなかったんだ。だから、彰義隊や額兵隊、陸軍隊で行くことになっている」
「ずりぃよなあ。俺たちは留守番ってことっすか?」
「そういうことだな」
土方がそういうと、不満たらたら、まるで駄々をこねるように野村が言ったが
「留守番も立派な仕事だ。その前にこの五稜郭を隅々まで活用できるようにしておくんだ」
と傍に居た相馬が諌めた。すると渋々であるが野村は頷いて、他の隊士も納得してくれたようだ。
島田は古参隊士として人情に厚く、信頼に値する男だが、その一方で相馬は冷静に状況を判断し、その意見には皆が耳を傾けるような説得力があるようだ。
「ひとまず、もう少し休め。寒さで思った以上に身体は消耗している。無理はするな」
「はいっ!」
背を向けると、若い隊士たちが頷いて声を上げて土方を見送った。


「野村」
土方を見送り、それぞれがそれぞれの行動を取る中で相馬は野村の腕を取った。
「何だよ」
「いいから、こっちにこい」
相馬は強引に野村の腕を引いた。人の騒ぎを逃れ、そしてそのまま人目のつかない場所に行く。
「何だよ、大胆だな」
「馬鹿。そうじゃない」
冗談めかす野村を無視し、相馬は手のひらを野村の額に当てた。
「つめた…っ」
雪の冷たさに等しい相馬の手のひらが野村に触れて、一気に野村の頭がさえわたる。しかしその一方で、手を当てている相馬は「やっぱり」と少し怒ったように呟いた。
「お前、無理してたな」
「無理って…」
「熱が出てる。それも相当高い熱だ」
「あ、あれ…?そうだっけ…」
そんなことには全く気が付かなかった、というようなリアクションを取る野村だが、相馬は既に見抜いていた。
「いつからだ。七重を過ぎたあたりか?」
「いやあ…まあ、これくらい平気だって。一晩寝ればすぐに治る…」
「昨日だってここに寝ただろう。それでも治らなかったんだ。いいから大人しくしてろ」
相馬はそこらの荷物で適当に枕を作り、着ていた羽織を野村に押し付けた。そして強引に横にして、「寝てろよ」と念を押した。
「待てって。今度はお前が風邪をひくだろう」
「そんなことは後になってからでいい。いつ出陣になるのかわからないのだから、お前は取りあえず身体を休めろ」
そういうと、相馬はさっさと野村から離れて、島田の元へ向かった。島田に何かを伝えてそしてさらに歩いてどこかへ行ってしまう。
(…くそ…)
急に病であることを自覚したせいか、くらくらと視界が揺れた。しかしその一方で相馬が押し付けてきた羽織の温もりが、身体を包み込む。それが忘れようとした感情を呼び起こすには十分だった。

相馬は小走りしながら
「土方先生!」
と土方の背中を追った。先に小姓の田村が振り向いて、「どうされましたか?」と訊ねてきた。
「その…土方先生にお願いが」
「お願い?」
今度は颯爽と歩いていた足を止め、土方が振り向いた。
「あの…石田散薬をいただけないかと」
「いしださんやく?」
聞き覚えがなかったのか、田村は不思議そうに首を傾げた。だがそんな田村を無視して
「誰か具合でも悪いのか?」
と土方が訊ねてきた。
石田散薬は土方家伝来の薬だ。京で新撰組の屯所には常備されていて、打ち身から切り傷、頭痛、腹痛まであらゆることに効能を持っていた。もっとも隊士の間では「鬼の散薬」なんて言われていて、怪我や病が治るのは鬼副長の呪いか何かだと噂していたが。
(そう言えば沖田先生は、『酒と一緒に飲むからだ』なんて言っていたけれど…)
相馬はそんなことを思い出しつつ、「野村が、ちょっと」と答えた。すると土方は懐から紙包みを取り出して、二・三包、相馬に渡した。
「ありがとうございます」
「馬鹿は風邪を引かないものだと思っていた、と伝えておけ」
「…わかりました」
相馬は真面目に重々しく頷くと、土方は「冗談だ」と苦笑した。
「はあ…」
どうやら土方の冗談を真に受けてしまったらしい、と相馬は思ったが、(昔はそんなことはおっしゃらなかった)とも思った。
そうして言葉を紡げないでいると、土方は田村とともに相馬に背を向けて去って行った。







土方が言っていた通り、松前藩攻略に向け、進軍が開始された。総督に任命された土方は、彰義隊、額兵隊、陸軍隊、衝鋒隊を率いることになり、十一月より松前藩攻略のための戦闘が始まった。
まず松前城へ向かった土方ら攻略軍は松前沖からの軍艦・蟠龍の艦砲射撃という援護もあり、進軍を順調に進め、松前軍を退けつづけた。五日後には松前城をめぐる攻防戦となったが、四方を取り囲み攻め上げたため、わずか半日で陥落に成功した。またこの際、土方は陸軍隊とともに守りの手薄な背後に廻り、梯子を使って侵入、白兵戦で圧倒的な強さを見せつけたという。
さらに松前軍追討に向かった土方は大滝へ向かい防衛線を突破。また同じ頃、攻略軍別働隊が館城を攻略し、その作戦は順調に進んでいた。

十一月の中旬。珍しく太陽の光が差しこむ暖かい日の五稜郭には、威勢の良い掛け声が響いていた。
「やっ」
「やっ」
「やぁー!」
新撰組の隊士が息の揃った素振りを繰り返す光景を、別の兵士たちが珍しそうに見ていた。
五稜郭という城郭は攻防に優れ、近代的な武器使用を前提とした機能的な造りをしているが、新撰組はと言えば京にいた時と変わらず、剣に重きを置いた稽古を重ねていた。
「それにしても幸先の良い話ばかりだな!」
腰に手を当てつつ、その大きな口で笑った島田は、隣にいる相馬に語りかけた。二人は今日の稽古の師範役なのだ。
「そうですね。思ったよりも、抵抗が少なくこちらの被害が最小限で済んでいます。もちろん土方先生のおかげでしょう」
「そうにちがいない!」
古参である島田は、今では誰よりも土方のことを信頼している。例えば土方が白いものを黒いと言ったら、島田も黒いと言う。そんな感じだと相馬は思っている。
五稜郭に届く知らせは良いニュースばかりだった。松前藩という一つの藩を相手に戦うのだから、厳しい戦いを強いられるのだろうと覚悟していたが、実際は被害も最小限に進軍は進んでいるようだった。おそらくはこのまま目標通り、熊石まで攻略することができるだろう。
新撰組の出番がないという意味では悔しがる隊士もいたが、まだまだ戦は続く。冬が開ければ、新政府軍もこちらを放っておくわけにはいかないだろう。
稽古に励む隊士の様子を見ながら、島田が急に苦笑した。
「本当は鳥羽伏見や会津の戦の時に、銃や大砲の遣い方を学んでおいた方がいいと何度も思った。だが…何故だか剣を振っている方が安心できるのだから、変な感じだ」
「…そうですね」
刀の無力さや非力さは嫌というほど味わった。土方でさえ「銃を学ぶべきだ」と言っていた。しかし、どうにも剣を捨てる気になれないのだから仕方ない。
「でも、知らせによると松前城攻略や館城攻略にはやはり白兵戦が有効だったと聞きます。こうして稽古しておくことは無駄ではないはずです」
「…そうだな、いや、そうだとは思う。ただ…」
島田は少し言い淀んで、そして頭を掻いてやはり苦笑した。
「たぶん…近藤先生や沖田先生のことを思うと、銃の稽古よりも壬生でやっていたような稽古をしなくちゃならねえ…そんな風に思ってしまう。でもこれは俺の個人的な感傷なのかもしれないな」
「……」
分かる気がする、とそう言いかけてやめた。相馬が理解できないほどに、島田は新撰組のことを想っている。今まで過ごした日々を愛おしく思っている。だからこそ簡単に「わかる」などと言えない気がしたのだ。
「…沖田先生も、最期まで刀で戦っていらっしゃいました」
相馬は思い出す。野村とともに最期に会った沖田のことを。しかし、自分は俯いてばかりでまともに顔を見ることができなかった。それは悔やんでいる。
「きっとお身体のことを考えれば、刀よりも銃の方が良かったのだと思いますが、それでも先生は最後まで刀を捨てなかった。…それを考えると、こうして稽古をしているほうが先生もお喜びになるのだと、思います」
相馬はそう言いつつ、空を見上げた。この北の地では厚い雲が雪を降らすばかりで、青い空が覗くことは少ない。だからこそ、こんな晴れやかな日にはこうして稽古をしている姿を、見てほしいと思う。
すると島田は「そうだな」と頷いて、
「次!」
と大声で叫んだ。隊士たちが素振りをやめて、今度は二人一組で向かい合う。それは隊士なら知っている慣れた手順だ。その様子を見ていると相馬の目に、野村が入った。後輩の隊士を相手に打ち合いを行っている。腕はもちろん野村の方が上なので、少し手加減しているようだが、相手の後輩隊士は本気でぶつかっている。
「沖田先生と言えば…」
「…え?」
野村に目を奪われていた相馬は、慌てて島田の方へ向きなおす。しかし島田の方が「いやいい」と言いかけた言葉を止めた。
「何です?」
「ああ…うん、まあ…その、実はお前に謝らなきゃならないことがあって…」
「え?」
口ごもる島田を「何ですか?」と相馬が促した。すると島田が「悪かった」と急に謝った。
「その…あの、艦での出来事を…土方先生にはご報告したんだ。というかすでに察せられておられたという感じで…」
「…ああ、それなら土方先生から聞いています」
「そうなのか?」
島田は驚いた顔をしたが、相馬は頷いて返した。
「…むしろ島田先輩に謝らなければならないのは俺たちの方です。巻き込んでしまって、気にやまれたのではないかと…すこし、気にしていました。申し訳ありません」
「いや、それはいいんだ。俺が余計なことをしただけなのだから」
気まずそうに顔を顰めた島田は、少し言いずらそうにしつつ
「それで…その、どうだ?野村のことは…」
と小声で尋ねてきた。単なる好奇心ではなく、本当に心配してくれているのだと相馬は感じ、素直に答えた。
「よくわかりません。ひとまず友人として、親友としてこの戦を切り抜けなければならないのだと思い、まるで忘れたように振る舞っていますが…野村がそれでいいのか、俺自身もそれでいいのか…自分でさえもよくわからなくて」
後輩隊士と打ち合っていた野村が、徐々にヒートアップしている。感情が高ぶりやすいのは、野村の剣にそのまま表れているようだ。その姿を見ながら、相馬は続けた。
「ただ、土方先生には『後悔しない選択をしろ』と言われました」
「土方先生が?」
島田は腕を組みなおした。
「どちらを選ぶことになったとしても…自分たちが親友でいた時間を否定するようなことだけはするなと。自分たちのように後悔しないようにしろと…」
「土方先生が…そんなことを」
信じられない、という表情で島田は呟いた。その感想には相馬も同意だった。
固い絆で結ばれた土方と沖田は、周囲も羨むほどの存在だった。互いが互いのことを信頼し、背中を預けている…それは離れていても同じだし、最期までそうだったのだろうと相馬は思っていた。しかし土方は『後悔している』と言った。それはまるでそれまでの二人を否定するかのように。
確かに二人は悲しい別れを迎えただろう。その別れは、それまで二人で過ごしてきた時間を打ち消すほどにつらかったのか。だとしたら土方がしている「後悔」とは彼を一人置いてきてしまったことなのだろうか。
(だとしたら…俺は、野村を選ぶのが、怖い)
これ以上大切だと思って、これ以上距離を縮めて、これ以上野村のことを知ってしまうのが…怖い。いつか来る別れに耐えきれる自信が無い。だから結局、意気地がない。勇気が無い。
(でも、野村…お前にはその勇気があるんだな)
彼はきっとそんな気難しく考えてなどいないのだろう。今、自分のなかにある感情だけを信じているのだろう。その強さが、羨ましくもある。
「…土方先生がどう思われているのかがわからないが…」
腕を組んだまま深く考え込んでいた島田が、口を開いた。
「傍目に見ていて、沖田先生はそんなことを思っていなかったように思う」
「…そうでしょうか」
病だと分かってから距離を取っていた相馬にはよくわからない。儚い笑顔の下で何を考えていたのか…そんなことは想像もつかない。しかし島田は、迷いなく続けた。
「置かれている状況を嘆くことがあったとしても…過ごしてきた日々を後悔したりはしなかった。そんな人じゃなかった」
「……」
今更わかることではない。しかし
(そうだとしたら)
そうだとしたら救われるだろう。
「…なあ、相馬。これは俺が言うべきことじゃないのかもしれないし、余計なお節介だろうとは思う。けど、言っておかないといけないんじゃないかという独りよがりの、独り言だと思ってくれればいいんだが…」
「何ですか…?」
島田らしくない前置きに、相馬は首を傾げた。一体なんなのだろう…と推察する前に島田が口を開く。
「野村はお前のことを諦めると…そう言っていた」
その言葉を聞いて、相馬は自分の頭が真っ白になるのがわかった。






「土方さん!」
その声に起こされて、土方は目を開けた。不動堂村の屯所には、新築の匂いが残っている。
障子をあけて、総司が顔をのぞかせる。朝日が眩しく、また真冬の寒さが急に襲ってきて、土方は顔をしかめた。
「…おい、まだ早いだろう…」
目覚めの悪い土方にはまるで拷問のようだったが、総司はどこか楽しそうだ。
「いいから、起きてくださいよ。いいものがあるんです」
「いいものって…お前、身体は良いのか?」
「もう、そういうことは言わないで下さいよ」
総司は身体のことを聞かれると、いつも嫌そうな顔をする。しかし、いつも平気な顔をして無理をする性格だということは、土方が良く知っていた。だから、こうしていつも訊ねてしまうのだ。
総司に腕を引かれて、土方はしぶしぶ部屋を出た。真綿の入った厚手の羽織を肩にかけ、言われるままについていく。
すると庭には真っ白な雪が積もっていた。
「初雪ですよ。みんな、まだ起きてないから、足跡もついてないんです」
自慢げにそういった総司は、何故かとても嬉しそうだ。
「…江戸でも良く降っただろう」
そのたびに試衛館総出で雪合戦をした。紅白の軍に別れて朝からはしゃいだ。その光景を昨日のことのように覚えている。
「…そうですね。あの頃は、楽しかったなあ…」
先程まで嬉しそうに顔を綻ばせていたくせに、総司は切なげに笑った。もう、あの頃には戻れないのだ。そう感じているのだろうか。
「総司」
悲観的になる総司の腕を引いて、土方は胸のなかへ抱き寄せた。
「ふふ、なんですか?」
「…冷えるだろうが」
羽織を総司の肩にかけてやる。ぬくもりを共有して、生きていることを互いに感じる。
(それだけでいい…)
生きていてくれさえすればいい。
「土方さん、あの…」
「ん?」
少し甘えるようにしながら、総司は言った。
「…いまが、一番幸せです」


「土方総督!」
大音声に起こされて、土方は瞼を空けた。視界に飛び込んできたのは、額兵隊の兵士だった。
「…あ、ああ…」
「お休みのところを申し訳ございません。そろそろ出発のお時間です!」
「わかった」
寝覚めの身体の重さをどうか誤魔化して、土方は身体を持ち上げた。雪が降る中での、木陰での野宿はあまり体に安らぎを与えてはいない。しかし眠らなければ体力は持たない。
「一番幸せです」
総司の声が、頭のなかで何度もこだましていた。穏やかにそう言ったあの日、土方は「そうか」と返答するだけだった。
でも、本当は聞いてみたかった。
(お前、本当に幸せだったのか…?)
と。悔いはなかったのかと。
しかしその答えは、生きている間は知ることができないのだ。
「…昔を懐かしんでいる場合じゃねえ…」
「総督?」
指示を待つ兵士が不思議そうに土方を見ていた。しかし土方は首を横に振って号令をかける。
「出発!」
兵士から居合にも似た叫び声が上がった。

吹雪の中を、攻略軍は海沿いを前へと進んだ。
相変わらずの大雪に体力はすり減らされたが、しかし五稜郭を制圧し手中に収めたことで、背後の敵に気を遣わなくて済むことは有難かった。進軍に集中することができ、また軍艦からの援護もある。土方の予定よりも早く、進軍していた。
「頼もしいですねえ、開陽!」
兵士たちからそんな歓喜にも似たフレーズが聞こえてきた。
旧幕府軍艦・開陽。異国の地からやってきたそれは、榎本ら海軍の誇りであり、土方らの希望でもあった。当時の日本でも最上級の武器を兼ね備え、海戦なら異国にも負ける見込みがない、と榎本が自負しているだけあって、兵士たちの間ではこの戦の切り札の一つとして崇められている。
(…開陽がある限りは、負ける気はしねえな…)
刀の無力さを無念に思わないでもないが、この開陽のおかげで新政府軍との力の差は五分と五分になっているといっても過言ではない。
「土方先生!」
「…なんだ?」
小姓の田村が小走りに土方のもとへ寄ってきた。雪の中を軽い身のこなしで進んでくる。頬は赤く染まり、土方にはますます子供っぽく見えた。
「開陽のことなんですけど」
「ああ」
「オランダに留学されていた榎本先生が直々に、『夜明け前』という意味で『開陽』と命名されたというのは本当ですか?」
好奇心で目を輝かせていた田村だが、土方は
「そうか。そんな話は聞いたことがない」
と残念ながら答えをもってはいなかった。田村は残念そうに「そうですか」と視線を落としたので、土方は付け加える。
「しかし、想像できない話でもない。あの榎本大先生はそういうことをいいそうだ」
榎本の異国帰りの奇天烈な髭や服装を見る限り、そういう発想をしそうなものだ、と土方は思った。彼の纏う雰囲気は周りの人間とは良い意味でも、悪い意味でも違うのだ。
「そうですよね!皆に言ってきます!」
田村は嬉しそうにそういうと、「失礼します!」と土方に背中を向け、兵士の中に混じる。土方から聞いた来たことで盛り上がっているのか、楽しそうだ。
田村は新撰組隊士だが、年が若く子供っぽい性格が、他の兵士にも気に入られているようで、自然と溶け込んでいた。
「…夜明け前か…」
随分意味深な名前を付けたものだ、と土方は思う。
まるで夜が明けない日々が続いている、この場所みたいじゃないか。


十一月中旬の朝。
新撰組をはじめ、多くの兵士たちが飛び起きた。
「開陽が沈没…!」
伝令役から聞いた、という知らせは島田の大音声のおかげで、一気に隊士たちの耳に入った。そのなかでも一番に飛び起きて、島田のもとへ走ったのは相馬だった。
「本当ですか…っ!」
相馬には信じられなかった。圧倒的な存在感を持つ鉄の要塞は、あんなに凛々しく海面を支配していた。土方ら攻略軍の援護に向かう姿は、頼もしいとしかいいようがなかった。その開陽が沈没しただなんて想像がつかない。
しかし島田の青ざめた表情で、それが嘘ではないのだと相馬は思い知る。
徐々に集まってきた新撰組の隊士たちは、寝起きとは思えないほど血気立ち、
「あり得ない!」
「何故だ、榎本先生もいらっしゃるというのに…!」
「攻略軍は無事なのですか?!」
と口々に騒ぎ始めた。皆が島田に詰め寄る中
「うるせえ!」
と後方から声が上がり、一気に静まり返る。声の主は野村だ。いつもなら一緒になって騒いでいそうなものだが、堅く唇を結び誰よりも真剣な眼差しで島田を見ていた。
その静けさを確認して、島田はようやく語りだした。
「…十五日の夜に、天候に煽られたとのことだ。回天丸と神速丸も救助に向かったが…神速丸の方は二次遭難に見舞われてこちらも座礁、沈没した。中島機関長の尽力もむなしく、座礁を食い止めることができず、乗組員は全員脱出して、止む無く沈没を見守った…伝令はそのように伝えてきた」
島田は堪えるように言葉を絞り出した。旧幕府軍を勝利へ導くと豪語されていた開陽の沈没は、これまで幾多の試練を乗り越えてきたはずの隊士たちに大きな絶望とこの先への道のりの困惑を与えた。
皆が押し迫り、悪夢であって欲しいと願うなか
「島田先輩」
とやはり野村が声を上げた。
「なんだ」
「援護艦が二艦も無くなったということですよね。土方先生たち攻略軍は、どうなったんですか」
「…攻略軍は開陽の沈没を見守られ、作戦は続行されている」
「俺たちも援護に向かうべきでは?」
野村の提案に、島田は首を横に振る。
「待機せよ、と上からの命令だ。開陽丸沈没の知らせで新政府軍がすぐに動くとは思えないが、それでも最大の砦を失った。一気に新政府軍が息を吹き返さないとも限らないからな」
島田は集まった隊士を見渡して、「そういうことだ」と念を押した。皆、まだ困惑したままだったが、それでもようやくこれは夢ではなく、現実なのだと自覚し、俯いていた。相馬でさえ、気落ちする自分を誤魔化せなかった。
相馬はちらりと野村を見た。野村は俯いてはいなかった。
(土方先生は…)
どうだったのだろう。野村のように、前を見据えたのだろうか。








北風は案外気持ちの良いものだった。
肌をすり抜けていく冷たさが、身体をぴりりと痺らせる。寒さが頭を冴えらせて、心地の良い波音が鼓膜を揺らす。ゆらゆらと揺れる船に最初は閉口したももの、慣れてしまえばここはまるで異国の地のようだ。そう思うのは、乗組員が皆、異国の言葉を話してるからかもしれない。もちろん意味も分かるコミュニケーションが取れるわけはないが、たまに日本語を齧ったかのように、真似して揶揄しつつ話しかけてくる輩もいて、ほとんどが見知らぬ日本人に優しく接してくれていた。
(同情かもしれないな…)
今は無くなった左手をみて苦笑したが、しかしそれは遠い昔の、まるで他人の事のように感じた。
海を切り抜けて、波をかき分けて、自分の力ではないなにかで、前へと進んでいる。それは不思議な感覚で、不思議な時間だ。乗組員の話ではもう到着するとのことだが、まるでその実感はない。
遠くを見つめながら甲板でぼんやりしていると
「八郎!」
と片言ではない流暢な日本語が聞こえた。声の主はよく知っている。
「…よう、小太」
「よう、じゃない!」
幼馴染である本山小太郎は、慌てて自分の羽織を伊庭の肩にかけた。
「傷に障ったらどうするんだ!」
「…お前はそればっかりだなあ。口うるさくて仕方ない」
うんざりして伊庭が毒づいたが、本山は「うるさくて悪かったな」と特に気に留める様子はない。
伊庭は仕方なく羽織を受け取って、「ほら」と右手で指差した。
「蝦夷だ」
「…ああ。ようやく、だな」
伊庭と本山が見つめる先に、北の大地がその輪郭をのぞかせていた。その場所ではまだ戦が待っているというのに、新しい土地に子供っぽいふわふわとした期待感が生まれていた。
「ようやく、歳さんに追いついた。遅いと怒られてしまいそうだ」
ふふっと笑った伊庭を、本山は複雑そうに見た。しかし伊庭はその視線を無視して続けた。
「ここが我らの国か…」
そう呟いておきながら、伊庭にはそれが絵空事だと重々に分かっていた。しかしこの歩みを止めるわけにはいかない。
「小太」
「…ん?」
まだ遠い北の大地に目を細めていた本山に、伊庭は語りかける。
「まだ…戻れるんだぞ」
俺と違って。
やり直すことだって、忘れることだって、逃げ出すことだって…まだできる。
だが、本山は「お前もそればっかりだな」と先ほどのお返しとばかりに返した。
「俺はもう決めちまったんだよ。俺がお前以上に頑固だって、良く知っているだろう」
「……知っている」
(そして俺は、その返答を期待してしまっている…)
二人の間に、冷たい風が吹いた。視線が重なって、相手が何を考えているのか伝わる。
「…なあ」
伊庭は本山の頬に手を伸ばした。彼は避けることも嫌がることもない。
「キスって言うんだって」
「ん?魚か??」
本人は真面目に答えたのだろうが、予想通りの呆けっぷりに「違うよ」と伊庭は笑った。
「これのことだ」
そして軽い一瞬の口付けをして、教えてやったのだった。


開陽と神速の二艦を失い、戦力だけでなく兵士の士気を挫かれたが、土方ら攻略軍は順調に北上を続けた。十一月二十日に松前軍追討のため熊石に到着。戦闘に備えたが、松前藩主は青森に向けて脱出し、松前軍は降伏するに至った。これで旧幕府軍の蝦夷地平定が完了し、箱館に凱旋することとなった。
一方、それらと並行して外交でも成果があった。箱館在留の各国領事へ「徳川脱走家来」と称して声明文を送付していた。内容は蝦夷への来航主旨と旧幕府軍を国際法上の「交戦団体」として承認することを求めるものだった。これを受け、英仏両国の軍艦が領国を代表して横浜から箱館に来航し、榎本と永井玄蕃と面談が持たれた。榎本は彼らからの好感を得て、旧幕府軍を事実上の権力者として認めさせることに成功した。さらに新政府軍の仲介として「蝦夷地開拓の許可」を求める嘆願書を受け渡すことにも成功。外交ルートでの交渉は順調だった。
そしてその十二月十五日は土方の凱旋とともに、蝦夷地領有宣言式が行われたのだった。

地鳴りのような咆哮が何度も箱館の街に響き、港に停泊する軍艦が五色の旗で彩られ、弁天台場からは101発の祝砲が放たれた。さらに旧幕府軍による函館から五稜郭への軍事パレードが行われ、兵士だけでなく、箱館に住む人々も大いに祭りに酔いしれた。
目に移るすべてのものが明るく、派手な色合いに輝いていて、相馬はくらくらするような浮遊感のなかにいた。
「夢みたいだな…」
「何、呆けているんだよ」
野村が笑って相馬の顔を見た。二人でパレードを見物しながら、近くの店に入ったのだ。
「いや、だって…ついこの間まで戦ばかりだったんだぞ。これが夢でなくて、何なんだ」
「相変わらず生真面目だなあ。土方先生たちが見事に勝利して、さらに蝦夷地も俺たちのものになったんだ。その祝いなんだから、これくらいして当然だろう?」
野村らしい、気楽な感想だが、確かに町は浮かれている。
(まるで祇園祭のようだな…)
古式ゆかしいあの祭りとは違い、相馬には西洋風のものばかりが目新しくうつった。
先ほどは店の娘が、西洋風のドレスに身を包んでガラスのグラスにワイン酒が注いで勧めてきた。もの珍しい紫の果実酒は良い香りがしたが、口に含むと少し酸っぱい。
「ほら、これ食ってみろよ。この果実酒によく合うからさ」
野村が皿に盛った白い固体を差し出した。恐る恐る口にすると口の中でまったりとした甘さと癖のある味が広がった。確かにそのあとにワインを流し込むと口の中でバランスが取れる。
「何だこれ…」
「チーズって言うんだって。牛の乳からできてる」
「牛の…っ?!」
相馬は思わず吐き出しそうになった。牛や豚の肉は新撰組でも食してきた。食べ慣れているという意味では西洋人の食事にも順応しているが、まさか牛の乳だとは思わなかった。もうすでに胃に流し込んでしまったが、その異物感に吐き気を催しそうになるほどだった。
野村は相馬の反応を見てけらけらと笑った。
「何だよ、その顔!拙かったのかよ」
「拙くはないが…お前、牛の乳なんて得体の知れないものをな…」
「得体が知れなかろうが、何だろうが、美味いものは美味い。それでいいだろ」
そう言うと野村は口にぽいっとチーズを投げ入れた。豪快な食べっぷりもそうだが、いちいち考え込んでしまう相馬とは大違いで、野村には自分と他の者に対する垣根がない。
(そういうのは素直に羨ましいと思うな…)
相馬はチビチビとワインを口に含みつつ、野村の顔を見た。
島田から聞いた話が、ときどき脳裏に過る。
野村は、自分のことを諦めると宣言したらしい。
それを聞いたとき、頭が真っ白となると同時に、憤りのようなものも覚えた。
(今更、諦められる程度の感情だったのか…)
と、ショックを受けた。けれど、よくよく考えてみれば、野村がそう思うのも当然で、相馬もそれを願っていたはずだ。だから、こんな風に考えてしまうのはきっと我儘なのだろう。
(でも俺は…)
心のどこかで、諦めてほしくないと思っていた。そんな弱虫で卑怯で…お前に愛されたいと思う自分がいたということは間違いなかったのに。

二人で店を出て、人通りの多い箱館の町を歩いた。あちこちで蝦夷地平定を祝う歓声が上がり、弁天台場からの祝砲に背中を押されるように、町は活気づいていた。ぶらぶらと歩きながら、その雰囲気に身を寄せた。野村とは他愛のない会話をした。しかし、相馬はワインを飲み過ぎたのか、くらくらと頭が揺れて、足元がおぼつかなくなった。
「おい、大丈夫かよ」
笑う野村に「うるさいなあ」と既に呂律が回らない相馬が言い返す。しかしもともと酒に強くないせいで、視界までが眩んできて
「…ちょっと悪い」
と木陰を見つけて背中を預けた。そうすると野村も心配そうな顔をして「大丈夫か?水でも貰ってこようか」と言い出した。
「いや、いい…こうしてれば、治るから」
「そうか…」
野村も相馬の隣に立つ。
「…野村、良かったらひとりで周ってきたらいい。島田先輩たちもどこかで飲んでいるって聞いたし…」
「いや、お前といるよ」
野村は即答した。相馬には申し訳なさとしかしその一方で素直に嬉しいという気持ちが込みあがってきた。肩を並べて立つ野村に相馬は少し身を預けた。
「相馬、つらいなら背負って帰ろうか?」
「…なあ」
野村の申し出を無視して、相馬は訊ねる。
「お前…俺のこと、諦めたのか…?」
酔いに任せて、相馬は口走ったが、特に酔っていない野村は途端に身体に緊張を走らせた。そういえば、こんな話をするのはあの時以来だ。あの時は野村が一方的に話すだけで、相馬から何かを聞き出すということもなかった。
「どうしてそんなことを聞くんだよ…酔っているのか?」
野村は苦笑しつつ訊ねる。相馬は
「りゆう……理由なんていらないだろう」
と曖昧に返した。すると野村は少しため息をついて続けた。
「…諦めたよ」
「……」
「正確には、諦めようとしているっていうのが正しいかもな。お前の傍に居る限り、忘れるなんてできないし、まるで何事もなかったかのようになんかできない。でもせめて忘れたふりをしようって…そう思っているよ」
だから、安心しろよ。
そう言わんばかりの優しい声色だった。
(酔いのせいだ…)
何故かじわりと目に涙が込み上げてきた。でもそれを悟られたくなくて、相馬は野村の方に顔を埋めた。
「相馬、大丈夫か?」
「だいじょう…ぶじゃない」
「やっぱりな」
ははっと笑って、野村は背中を見せた。「乗れよ」と、そのまま強引に手を引いて相馬を背負った。
「…悪い」
「なんてことはねえよ」
野村はそういうと、相馬を背負って歩き出した。人々の往来が多いなかで、男が男を担いでいるのは酷く注目を浴びた。相馬は顔を隠すように彼の首元に顔を隠して身を任せた。
「…野村」
「ん?」
耳元の、彼にしか聞こえないような場所で、相馬は言う。
「…俺は酔っているんだ」
「そりゃそうだ」
何を言っているんだよ、と野村は笑う。
「だから…おかしいことを言うかもしれない」
「どうぞどうぞ。酔っ払いにとことん付き合ってやるよ」
茶化して答える野村だったが、その一方で相馬は真剣だった。
「俺は、お前に諦めてほしくない」
「……相馬?」
歩いていた野村の足が止まった。彼が振り返って、相馬と触れ合うほどの一番近い位置で目が合う。
「俺はお前の気持ちに答えられないとずっと思っていた。けど…たぶん、そうじゃない。答えるのが怖いだけなんだ。俺は…こういうことは、疎いから。お前に対してどう接していいのかわからなくなるから」
「…だから、お前は無理しなくても…」
「俺は無理をしたい」
相馬は野村の首元に回していた腕に力を込めた。
「無理や無茶をしても…それでも、お前の気持ちに答えたいと…思っている。まだその途中から、最終的に絶対に答えられるとも言えない。けど、できれば…」
「…できれば?」
「もう少し、待ってくれ」
酔いが、回ったせいだ。頭が沸騰するように熱くなって、野村と重ねている部分に熱がこもって、ぐるぐると目が回るのは。
立ちつくし、何も言わない野村。
するとばぁん!と後方から大きな音が響いた。弁天台場からの祝砲が、また町を揺らしたのだ。
「…相馬」
その音に背中を押されるようにして、野村はまた歩き出した。
「酔いのせいには、してやらないからな」
歩き出したから、相馬には野村の表情は見えない。けれど、その声色はとても嬉しそうに弾んで聞こえた。
相馬は知らなかった。
彼が喜んでくれるのが、こんなに嬉しいものだと。




10


蝦夷地平定を祝して、箱館の夜が煌びやかな灯りで彩られるなか、土方が先導する攻略軍は松前城から五稜郭へ凱旋した。開陽沈没から沈みがちだった兵士たちも、五稜郭に残った仲間や箱館の人々に温かく迎えられ、その表情を緩めた。
土方は五稜郭に到着し、早速兵士たちに休息を命令した。松前城・館城攻略のみならず、仙台から戦いっぱなしだった兵士たちは各々箱館の町に乗り出した。
土方はひとまず榎本のもとへ向かった。攻略の成果を報告し、榎本をはじめ多くの幹部にたたえられた。また今日の夜は各国領事を招いた蝦夷地平定の祝賀会が行われる為、それまでには自由にして構わないと話を受けた。
榎本らが集う部屋を出て、一息ついたとき
「ご苦労様でした」
と穏やかな声で迎えられた。
「…島田か」
「お怪我がないようで何よりでした」
大きな体躯を折り曲げて、島田が深々と頭を下げた。土方は「やめてくれ」とうんざりして告げた。
「大した成果じゃない」
「ご謙遜を。攻略軍の兵士からお話は聞きました。白兵戦では先陣を切って突入されたと」
土方は歩き出す。島田は付き人のように、歩幅を合わせてついてきた。
「そんなことより、新撰組の奴らはどうした」
「それぞれ飲みに出かけています。鬱憤が溜まっていたのか、皆よく飲んだようです」
「そりゃあ、羨ましいな」
土方は、ははっと枯れた声で笑う。しかし、島田はその声に同調することはなかった。
「お疲れのようですね」
「…何故だ?」
「土方先生が飲みたいとおっしゃるときは、お疲れの時だと、以前お聞きしました」
誰に、とは島田は言わなかった。しかしそんなお節介なことを言うのはあいつしかないだろう。土方は苦笑して「その通りだ」と認めてやった。
「…開陽の沈没は、痛かったな…」
「……」
瞼を閉じれば思い出す。
その夜は突然の嵐になった。雪も混じる冷たい吹雪に兵士たちは身を寄せ合って耐えたが、開陽は耐えることができなかった。嵐で艦体が斜めになり、バランスを失った。中島機関長が大砲を地面に打ち付けてバランスの均衡を保とうとしたが、それすら失敗。救助に向かった神速さえ失って、ただただ沈没を見守るしかできなかった。
海辺の松に縋って、皆が泣いた。そもそもこの攻略戦に開陽は必要がなかった。しかし開陽の乗組員が率先して参戦を要求した為、不必要でありながら援護に回ったのだ。榎本は自らの決断を後悔し、ただただむせび泣いた。海軍の軍事力を、自ら放棄してしまったに等しい。不運な出来事だった。
「…その知らせを受けた時、自分たちも動揺しました。しかし自分たちにできるのは白兵戦です。相馬と野村が中心となってすぐに稽古に取り組んでいました」
「…へえ」
その光景は容易に想像できた。野村が奮起して、相馬が先導したのだろう。
「新撰組はあいつらに支えられていると言っても過言ではないか…」
「はい」
古参の島田が躊躇いもなく頷いた。その返答は信頼に値した。
「取り敢えず部屋で休む。皆には気が済むまで飲むように伝えておけ」
「分かりました」
島田はそう返答し足を止め、頭を下げていた。土方は一人、部屋に向かった。
土方に与えられた部屋は奥まった場所にあり、箱館の町の活気からは隔離されていた。閑散とした静寂に包まれていて、今の土方にはちょうど良かった。
西洋風の足の長い椅子にジャケットを掛け、土方はため息にも似た息を吐きながら、椅子に腰かけた。
戦の緊張感から放たれる…ようやく一人になる時間が生まれたことに、安堵した。
目を閉じて、これまでのことを走馬灯のように振り返る。
戦ばかりの日々。昨日生きていた者が死に、明日生きていると思っていたものがやはり死んだ。言いようもない脱力感と無力感と虚脱感が層のように重なって、背中に重く圧し掛かる。
それでも、それが重くて苦しくて仕方なくても、前へと歩みを進めなければならない。
(どんな苦行だ…)
自分で自分を笑うしかなかった。


一方、箱館の町は太陽が隠れて夜になっても、その興奮は冷めやまず、あちこちの店で兵士たちが集い酔った。
一旦宿舎に戻った野村と相馬だが、すぐに新撰組の隊士に誘われて飲みに出かけることになってしまった。宿舎近くの居酒屋は、既に大盛り上がりだ。野村はともかく、相馬は重い身体を引き摺っての宴会となった。
「休んでなくていいのか?」
「…いい」
短く答えた相馬だが、顔色は相変わらず良くない。壁に身体を預け、目を閉じて酔いと戦っているようだ。しかし新撰組の隊士たちは、気が付かないほど酔いはしゃいでいた。
「よう、もっと飲めよな」
そう言って一升瓶を抱えて野村の隣に座ったのは尾関だった。池田屋以前より入隊した、島田と同じ古参隊士だ。
「俺は有難くいただきます。でも相馬は勘弁してやってくださいよ」
「なんだ、もう酔っているのか」
「まあ、弱いですからね」
野村は尾関の盃を受け取った。
「そういえば、今夜、入れ札が行われるという話は聞いたか?」
「入れ札…?」
「一人一票ずつで、誰が総裁に相応しいか決めるんだそうだ」
「へえ…」
尾関は榎本が言い出した西洋風のやり方だ、と教えてくれた。残念ながら今回は幹部以上の投票で行われ、自分たちに投票権はないが、それでも画期的な方法だということだ。
「つまりな、我らが土方先生も総裁になれるかもしれないっていうことだ。土方先生はこれまで一度も負けていない。負け知らずの軍神だと兵士たちだけでなく、兵長たちも崇めているんだぜ」
「総裁っていうことは…」
「つまり、この蝦夷共和国のてっぺん、藩主みたいなものだ!」
一介の浪人が藩主まで上り詰める…そんな戦国時代のようなことを、いま成し遂げるかもしれない。尾関の雄叫びに、新撰組の隊士たちが呼応して、宴会は最高潮の盛り上がりを見せた。
まだ決まっていなのにむせび泣く隊士たちもいて、彼らがどれだけ土方のことを慕っているのか思い知る。
しかし野村は一緒に興奮することなく、
(土方先生が総裁…ねえ)
と考え込んだ。
何故だか、土方がそんなことを望まない気がしたからだ。土方はこれまで近藤局長を支えることを忠義だという姿勢を見せていた。それは今後も変わらないだろうし、性格的にそれが自分に合っているのだと決めているのではないか…そう感じずにはいられなかった。
「…う」
「ん?」
隣にいた相馬が急に眼を開いて、口に手を当てた。みるみると顔色が悪くなっていく様子を見て、野村はすぐに察して
「ちょっと出てきます」
と尾関に一声かけて相馬の腕を引いて外に出た。
外に出ると冬の蝦夷地らしい、凍りつくような寒さで鳥肌が立ったが、今はそれどころではない。
「こっちだ、相馬」
「う…ん…」
相馬を引っ張って、近くの用水路に連れてくる。それが相馬の限界だったらしく、背中をさすってやると胃の中のものを吐き出した。
肩を上下させて苦しそうにゲホゲホと咳をする相馬を、「よしよし」と子供にするように励ます。通りかかる人はいたが、あちこちで宴会をしているなかなので、特段珍しい光景ではない。
(無理しやがって…)
野村は苦笑した。相馬はきっと場の雰囲気を壊したくなくて宴会に付き合ったのだろう。そういう変な責任感が根付いているのは、生まれつきの性格だろうか。
全て吐き終えたのか、相馬はぜいぜいと息を荒げるだけになった。
「帰ろうぜ。もう十分付き合ってやっただろ?」
「…一人で…帰れる」
「俺のことは気にするなよ。また背負ってやるからさ」
「……いい」
頑固に首を振る相馬だが、相変わらず顔色は良くない。
「しばらく休んだら…一人でも、大丈夫だ。だからお前は戻れよ…」
「別にいいよ。お前と一緒にいる方が俺にはいいし」
「…そういう、問題じゃ…」
ない、と言いかけたのだろうが、喋りすぎたのか相馬はまた咳き込んだ。野村がまた背中をさすってやると
「大丈夫かい?」
と背後から声がかかった。久々に聞く江戸訛りだ。野村が振り向くと、心配そうにこちらを覗き込む二人の男がいた。
一人は背丈の高いしっかりした体躯の男で、もう一人はその整った顔立ちがすぐ見てわかるような美男子だった。人通りの多いなかにいて、二人の存在が際立っていて現実味が無く見えた。そのあまりに突然の登場に、野村がしばしぽかんと見つめていると、
「小太、確か酔い止めの薬を持っていただろう」
「ああ」
と二人の間で話が進んでしまった。野村は慌てて申し出る。
「あ、いや、そんな気ぃ遣ってもらわなくても…」
「あんたたち、新選組だろう。だったら遠慮することはない」
そう言って笑った男は懐手のまま、薬を手渡してきた。相手が新撰組の隊士だと知った上での、この余裕の態度が野村には引っかかったが、「どうも」と素直に受け取ることにした。
「水、貰ってくるよ」
体格の大きな男がそう言って、近くの店に入っていく。野村は咳き込む相馬に薬を手渡した。
野村はちらりと残った男に目をやった。凛とした瞳に目鼻立ちのくっきりとした顔。刀を腰に帯びているので、どうやら町人ではないようだから仲間なのだろうが、ここまでの戦では見たこともない。それにこんなに目立つ男を見逃すはずはない。
野村がじぃと見つめていると、もう一人の男が戻ってきた。そして貰ってきたらしいグラスを直接相馬に手渡し、そのまま薬を飲むように誘導した。酔いのせいで状況の掴めていない相馬は、されるがままに薬を口に含み、グラスに注がれた水も一気に飲み干した。
そうするとどうやら吐き気は収まったようで、咳も無くなり呼吸が楽になったように見えた。
「もう大丈夫そうだな」
小太と呼ばれていた男が頷いて、相馬の体を野村に預ける。
「あ、すいません。助かりました」
「いいって。通りかかって勝手にお節介を焼いただけだ」
男は穏やかに微笑むと、もう一人の男は「八郎」と彼を呼んだ。
「そろそろ時間だ。入れ札が始まる」
「ああ、そうだな。じゃあ…」
(入れ札?)
野村は先ほどの尾関の話を思い出した。入れ札に参加できるのは確か旧幕府軍の指揮役(仕官)クラス以上だ。だとしたらこの二人は自分たちよりも上官に当たるわけだが…
「あの…!」
去っていく二人の背中を、呼び止めたのは野村ではない。二人が振り向いて、呼び止めた声の主…相馬を見た。
「もしや…伊庭八郎先生では、ありませんか…!」
先ほどまで酔いでふらふらしていたくせに、相馬は真っ直ぐに二人を見つめていた。充血した目を輝かせて、二人を見ていた。
(伊庭…?)
野村にも聞き覚えがあった。確か江戸の名門道場の一つで、その御曹司は確か遊撃隊の隊長を務めていたはずだ。
すると懐手の男が、微笑んで返した。
「…間違いなく、俺は伊庭八郎だ。お前は?」
「し…新撰組隊士、相馬主計と申します、こちらも同じく隊士の野村利三郎です!」
急に大声を上げて畏まった相馬だが、すぐに「うっ」と言って頭を抱えた。
「ばっか、急に叫んだりするなって…」
「そうはいくか!あのな、野村、この方ははなあ…」
「耳元で喚くな、馬鹿」
「ば、馬鹿とはなんだ、馬鹿とは…!」
言い争いになりかけたところで「はははははっ」と伊庭が声を上げて笑った。相馬がはっと気が付いたようで、姿勢を正して伊庭に頭を下げた。野村も仕方なく相馬と同じようにする。
「相馬と野村ね。覚えておく」
「八郎」
もう一人の男が伊庭を急かす。伊庭は「じゃあ」と手を振って去って行ったのだった。





11


試衛館の縁側に腰掛けて、土方はぼんやりと夏の夜を眺めていた。
雲一つない夜には、星が燦々と輝いている。大小さまざまな星を眺めつつ、頭の中で趣味の発句を捻りだす。そうしていると、
「歳三さん」
と呼ぶ声がした。庭の片隅から、総司が顔を出していた。
「…総司」
「あ、お邪魔でした?」
句作が趣味だということは、近藤と総司しか知らない。知られたい趣味でもなかったので口止めしているのだが、ときどきこうやって総司にからかわれるので、(総司にも漏らすんじゃなかったな)と内心後悔していたりもする。
「別に…」
「そうですか。じゃあ遠慮なくお邪魔します」
そういうと、総司は何故か忍び足で、そろそろとこちらに向かって歩いてきた。何故か目の前で手を合わせて拝むような恰好をしている。
「…何やってるんだ」
「へへ。歳三さんにいいものを見せてあげようと思って」
総司は土方の目のままでやってきて、嬉しそうに笑った。
「行きますよ」
「ん?」
そこで総司はゆっくりと手を開いた。拝んでいると思っていた手から、柔らかな光が零れ、ゆらゆらと飛んでいく。
「…蛍か?」
「はい。すぐそこで、つかまえたんです」
二人は視線で蛍の光を追った。ふわふわと風に乗り、蛍は解放されて嬉しそうに飛んでいく。屋根より高く飛んで行った蛍は、そのうち星の光と同化して、どこかへ行ってしまった。
「…籠に入れて、鑑賞するのも良いですけど、やっぱり放してやる方が綺麗ですね」
「そうだな…」
あの儚い光をいつまでも手元に置いておきたいと思うのは勝手な利己主義なのだろう。こうして空を自由に舞い、好きなように生きることを誰もが願っている。
「歳三さん。京に行っても、こんな時間ができるといいですね」
「…俺が句作に没頭できる時間か?」
「それもですけど」
総司はその整った顔で微笑んだ。
「二人きりで、空を見上げていられる時間が、あるといいなあ…」

コンコン、と扉をたたく音で、土方は浅い眠りから覚めた。どうやら椅子に掛けたまま寝てしまったらしい、と思いつつ「入れ」と返事をすると、田村がこちらを覗いていた。
「先生、お時間です」
「…ああ、わかった。すぐに行く」
そう答えると田村は扉を閉めた。
土方は椅子から立ち上がり、ジャケットに袖を通した。
(…最近は、こんな夢ばかりだ…)
髪をかき上げつつ、苛立つ。夢を見ている間はいつも穏やかで、心地よい。だからこそ、目を覚ましたあとに思い出す、現実がつらい。
「…総司」
名を呼んでも、返事が無いことを思い知る。
(何でお前ばかり、出てくるんだ…)
まるで呼んでいるみたいじゃないか。そう思って、しかしその通りかもしれないと自嘲した。

蝦夷地領有を宣言した榎本らは祝賀会とともに、新たな幹部陣を選ぶ「入れ札」を行うことを決めていた。誰もが総裁になる権利を得ることができるという意味では、画期的な方法ではあるが、土方からすれば誰が総裁になると特に興味はなかった。もちろん、自分がなるということにも興味はない。それは新撰組に居た時から同じだ。
しかし幹部クラス以上の投票が必要だということで、仕方なく足を向けることにした。付き添いでやってきた田村はそわそわとしていて
「榎本先生が総裁になられるでしょうけど、土方先生だって連戦連勝なんです、兵士の票を入れれば間違いなく一番多いはずです!」
などと囃し立てる。土方は「やめてくれ」と煙たがった。
「万が一、そんなことになったとしても俺は辞退する」
「え!どうしてですか?」
「興味が無いからだ」
きっぱり言い切ると、田村は「そんな」と残念そうにした。しかし土方には周囲の期待に応えるつもりはなかった。
流山で近藤が投降して以来、新選組や旧幕府軍を率いてきた。そしてつくづく自分は統領には向かないと思い知ったのだ。誰かに指示をしてじっと待つ。それは孤独に等しい。だったら自分は現場に出て、命のやり取りをする方が向いているのだと悟った。
「相変わらずですね」
田村と歩いていると、ふと声がかかった。物陰には人の気配がある。
それまでの会話を聞いていたのかと思い、土方は身構え、田村は警戒したが、その陰から現れたのは、昔馴染みの顔だった。
「…久しぶり、というか、お待たせしましたと言うほうが、良いんでしょうかね」
「伊庭…!」
微笑んで顔を出したのは、伊庭八郎だった。洋装の兵士が多い中、彼は着物に身を包んでいて、昔の雰囲気のままだ。
「いつの間にこっちに来たんだ…」
「つい先日ですよ。松前から上陸して、祝賀会に合わせてこちらに」
「そうか…」
土方はちらりとその左手に目を向ける。噂で彼の左手首が斬られたと聞いていたからだ。すると、その視線に気が付いた伊庭が苦笑した。
「情けないことになっちまいました。まあ、右手があるから生活に支障はないですよ。小太もいるし」
「…本山さんも来ているのか」
「ええ。入れ札には俺しか行きませんから、ここにはいませんが。一緒に行く人がいないから、探していたんですよ」
と伊庭は笑った。すると土方の傍に居た田村が、「あの…」と不思議そうに首を傾げていた。
「田村、この男は伊庭八郎だ。名前くらいは聞いたことがあるだろう」
「いば……伊庭先生ですか!あの遊撃隊の…」
「君は新撰組の隊士?」
伊庭が訊ねると、田村は「はいっ!」と背筋を伸ばして頭を下げた。
「新撰組隊士、田村銀之助と申します!土方先生の小姓を務めさせていただいております!」
「へえ、小姓。新撰組にはえらく古風な役職があるんですねえ」
感心する…というよりも少しからかうように、伊庭は土方を見た。すると田村が
「いえ、あの僕がまだ若輩者だから、お傍に置いていただいているだけなんです。小姓とはいっても、大した働きは何も…」
「いや、歳さんの傍に居られるというだけで大した働きですよ。ねえ?」
昔から変わらない軽い口調に、
「…お前の方が、相変わらずだ」
土方は鼻でふん、と笑って「行くぞ」と二人に声をかけた。そろそろ時間が押し迫っていた。


目が痛くなるほどの眩い光の中、三人は蝦夷地領有を祝した祝賀会に参加した。これまでともに戦ってきた同志だけでなく、諸外国の領事も招かれての祝いの席は、これまで味わったことの無い煌びやかさと豪華さがあった。
祝賀会で最も注目を浴びたのは伊庭だった。榎本をはじめ多くの人々が彼を取り囲み、歓迎していた。また彼がこれまで辿ってきた道のりや、合流するまでの道程について質問攻めにあっているようだ。
土方はその人の輪から外れた壁際に居た。
伊庭との再会で、どこかバランスが崩れていた自分を持ち直すことができたように思う。江戸以来の友人の存在がここにきてこんなに身に沁みるものなのかと驚いたほどだ。
伊庭とは吉原で出会った。お互い色男と持て囃され、何となくお互いのことを意識していた。それがいつしかともに飲みに行くような間柄になり、伊庭は試衛館にまで足を延ばすようになった。幕臣でありながら分け隔てなく接する伊庭は、試衛館食客たちに好かれ、浪士組の上洛の際には泣いて別れを悲しんだ。
そんな彼と、この北の大地でまたともに戦うことになるとは、何という運命の巡りあわせだろう。土方はそんなことを思いながら、手にしていたグラスのワインを口に含んだ。
そうしていると、どうにか輪から抜け出してきた伊庭が、こちらにやってきた。
「…やれやれ、疲れましたよ」
「遊撃隊の方には、顔を出したのか?」
土方が訊ねると、伊庭は「もちろん」と頷いた。
「本来であれば一緒に戦うはずだったんですからねえ。美加保丸座礁以来、お互い消息もわからなかったから、何だか顔を見たときはほっと一安心しましたよ」
「お前もお前で、良くここまで来たものだな」
美加保丸座礁の話を聞いたとき、土方は正直、伊庭と二度と会えないことを覚悟した。美加保丸が座礁したのは敵の領内で、しかも左手を無くした伊庭は目立つ存在だった。
「小太が居なかったら、駄目だったかもしれないですねえ…。つくづく、俺は一人では何にもできないんだと思いましたよ」
「…へえ…」
そんな弱気なことをいう伊庭が珍しくて、土方は伊庭の横顔を眺めた。
輪郭は少し痩せたようだが、表情は昔と比べて柔和になったように感じた。しかし凛とした眼差しは相変わらずだ。
相変わらず、あいつに似ている。
「…お前に最後に会ったのは、江戸だったな」
「ええ。確か市ヶ谷ですね。沖田さんのお見舞いに行った帰りだった気がしますよ」
その頃、土方は流山から投降した近藤の為に、助命嘆願に駆けまわっていた。勝海舟まで訊ね、その赦免状を相馬に渡した後に伊庭に出会ったのだ。
「あの時の歳さんは酷く疲れていて…とてもいつもの歳さんじゃなかった」
「……そうか」
自覚はない。しかし、投降した近藤や死が迫る総司のことで頭がいっぱいだったのは間違いない。伊庭は急に声のトーンを落とした。
「近藤先生も、沖田さんも…本当に、残念でした」
「ああ…」
近藤が処刑されたとの知らせとほぼ同じ頃、総司が死んだとの知らせもやってきた。どうしてこんなにも悲しいことばかり重なるのかと、慟哭した。それ以来、新撰組隊士を始め誰もそのことに触れなかった。触れてはいけないのだと、まるで暗黙の了解でもあるかのように。
しかし、仙台までやってきて相馬と野村に再会した。自分と同じくらいの傷を抱えた二人を見て、もっと強くならなければならないと思った。
(あいつらが…自分たちを責めないで済むように)
だから、弱っている自分や悲しみに打ちひしがれている自分を…誰にも、見せないように。ずっと隠して行けるように。
だからまだ、開いた傷が塞がっていないのかもしれない。瘡蓋になって剥がれることを知らずに、ずっと膿みつづけているように。
(でも…この傷は塞がらなくていい)
塞がってしまったら、きっと忘れてしまう。
それが、今、土方が一番恐れていることだった。





12


初めての「公選入れ札」は蝦夷新政府の新しい始まりだった。
そもそも現在、旧幕府軍は榎本武揚が先導しここまでやってきたが、元藩主や元幕府老中といった大名クラスの参加もあり、君臣の関係が曖昧になっていた。また海軍と陸軍でもグループが細かく分かれ、とても統率できているとは言えない状態だった。そこで公平な「入れ札」を行い、役職を分けたのだ。
結果は、榎本武揚が最大投票を得て「総裁」となり以下「副総裁」「海軍奉行」「陸軍奉行」…とその結果は順当に割り当てられることとなった。土方は「陸軍奉行並」となりさらに「箱館市中取締」や「陸海軍裁判局頭取」も兼ねることとなった。

夜更けになっても終わりを知らない宴を、土方と伊庭は抜け出した。色男二人が抜けるというので、ドレスを着た女たちは残念がったが、ここまで付き合えば上等だろう、と土方は思っていた。
「疲れましたねえ」
「ああ」
伊庭も同じだったようで、首をすくませた。
「何度も何度も同じ話を聞かれては疲れますよ。人に囲まれすぎたせいで酒も飲んだ気がしないし、食い足りないし」
心底疲れたというように、伊庭はため息をついた。
土方は新撰組時代の武勇伝、そして伊庭は左手のことを執拗に訊ねられた。不機嫌に返すわけにもいかないので、愛想笑いを続けていたせいで疲れ切ってしまったのだ。
「お前、遊撃隊の方へこのまま帰るのか?」
「まさか、こんな大雪で帰れませんよ。歳さんの部屋に泊めてもらいますよ」
さも当然、と言わんばかりの伊庭の言い分だったが、土方は「そんな話は聞いていない」と突っ返す。だが土方がそういう返答をすることはすでに知っていたようで
「これ、飲むでしょう?」
と、こっそり宴からくすねてきたワインを差し出したのだった。

殺風景な部屋に蝋燭で灯りをともし、宴の続きが二人だけで始まった。小さな机を、足の長い椅子二脚で囲む。しんと静かな部屋はやはり隔離されているかのように別世界だ。
「乾杯」
「…ああ」
声とグラスが重なる音が部屋に響く。何故か、ワインの味が、宴で飲んだ時よりも鮮明に感じた。
「…でも正直、歳さんにまた会えるとは思いませんでしたよ」
しみじみと語る伊庭に、土方は少しウンザリして「昔話か」と呟いた。しかし機敏な伊庭はそれを察して苦笑した。
「いいじゃないですか、今日くらいは。お互い生きているとは思っていなかった身なんですから」
「まあ…そうだな」
少なくとも先ほどまでの宴の席とは違う。
土方は飲み干してしまったグラスに、ワインを注いだ。伊庭のグラスはまだ空いていない。口をつけるだけで、ちびちびと楽しんでいるようだ。
「…随分、長い間、戦ってこられたんでしょう。鳥羽伏見、会津…噂を聞くたびに、ヒヤヒヤとしました」
「何だ、大して心配はしていなかったんだな」
伊庭のヒヤヒヤという感想には茶化した意図を感じた。伊庭は頷いた。
「ヒヤヒヤさせられるのには慣れていましたからね。京へ行かれて政変、池田屋…蛤御門の一件。もう何年も前から、そちらの動向には敏感になっているんです」
八月十八の政変、池田屋事件、蛤御門の変…伊庭の口からでたすべてが、遠い昔の出来事のような気がした。あの時は皆いた。試衛館食客も、近藤も、そして…総司も。いなくなるはずがないと確信していた。
(今は誰もいないのだから…不思議なものだ)
「これだけ負け続けているのに、歳さんの率いた軍だけ勝っている。信頼されているんですね。なんせ『陸軍奉行並』ですもんねえ」
「…嫌味かそれは」
「違いますよ。心からの称賛です。なんせ、俺よりも偉いんですからね」
ふふっと小気味よく笑った伊庭は、ワインを口に含む。お互いそれほど酒が飲めるわけではないが、癖になりそうな味ではあった。
「…俺は別に、副長のままで良かったんだがな…」
ふと口にしてしまった呟きを、伊庭は笑い飛ばすと思ったのに、少し考えて「そうですね」と答えた。
「歳さんは近藤先生という主君にも似た大将が居たからこそ…なんですよね。だから、俺はちょっと不思議なんです」
「何がだ?」
伊庭は手にしていたグラスを机に置いた。足の長い机はワインとグラスを二つ置くだけで一杯になってしまうほど小さい。
「何で、ここまで戦って…生きているんでしょうねえ」
「……」
「誤解しないでくださいよ。生きていてほしかったのは俺の本音です。そしていま再会を果たして心の底から嬉しいと思います。でもその一方で、あなたがここまで生きていることが不思議なんです」
伊庭は冗談めかしているのではない。心底不思議そうに、土方に訊ねるのだ。
「近藤先生が亡くなって…沖田さんが、いなくなって。歳さんはきっと早く死にたいのだろうと、そう思っていました」
「……お前には、何もかもお見通しみたいで、昔からそう言うところは好かねえよ」
伊庭に倣って、土方もグラスを置いた。不思議なほどに酔えない酒だった。
「すみません。こんなことを訊ねることで、歳さんの傷を抉ることはわかっているんです。でも、俺はこの先も死んでほしくないからこそ聞きたい。その理由を」
「…理由なんてない」
土方は椅子から立ち上がり、部屋に唯一ある窓辺へ歩いた。真っ暗な闇の中に雪が降っていた。
「死ぬ機会が無かった…それだけだ」
「…」
じゃあこの先はわからないということですか。
伊庭の目がそう問い詰めているように感じた。しかし土方はその答えを伏せる。雪が積もるように、嘘を積もらせて、覆い隠してしまう。昔からの馴染みの友人に漏らしたのは本音に違いない。
すると、ため息が聞こえた。
「…それが本音なら、貴方は何かに生かされているんでしょうね」
土方のことをよく理解している伊庭は、これ以上の詮索を避けた。彼は自分が説得するなんて正義感を振りかざすような真似はしない。ただ「そうですか」と無理矢理にでも納得してくれるのだ。そういう存在が、今の土方には有難かった。
「ま、正直、人のことをとやかく言える立場じゃありませんから。俺だって、なんでこんなところまで来て戦っているのか…自分で自分が不思議でならない」
自嘲するように笑い、伊庭はグラスを再び手に取った。そして一気に飲み干す。そしてまたグラスにワインを注いだ。
「じゃあ、俺も一つ、質問がある」
「どうぞ」
土方は窓辺から椅子に戻る。伊庭はついでに土方のグラスにもワインを注いだ。
「お前、何で本山さんと衆道関係なんかになってるんだ?」
「…いやだなあ、歳さんだって人のこと言えないですよ。何でもかんでもお見通しで、嫌になっちまう」
「一目瞭然だろう。俺じゃなくても気づく」
土方はそう言ったが、伊庭は「そうかなあ」と首を傾げた。
「何で…と聞かれると、そうしたかったからとしか言いようがありませんね。美加保丸が沈んだくらいかな、俺にはどうしてもこいつが必要で、こいつにはどうしても俺が必要なんだなとしみじみと感じたんですよ」
「…」
「歳さんもそうだったんじゃないんですか?」
伊庭に鸚鵡返しに訊ねられたが、土方は返答できなかった。
必要だとか必要じゃないとか…総司に対してそんな風に考えたことが無かった。そもそもいるのが当たり前で、いないのがおかしい。そう言う風に思い込んでいた。
「…まあ、いつか二人が別れる時が来るかもしれないのに、余計に虚しくなるだけじゃないかとか、そんなことはもうわかっているんですよ。でも、それでも互いが必要だったんだから、仕方ないですね」
「…」
答えが出ない土方とは裏腹に、伊庭は既に一周廻って答えまでたどり着いたような物言いをしていた。しかしそんなに簡単に割り切れるものではないはずだ。それを考えることが、彼らにとって一番タブーなのかもしれない。
二人が沈黙し、重い空気が流れる中で、伊庭が「あ」と声を上げた。
「ワインで思い出した。新撰組の隊士に会いましたよ、ワインの飲み過ぎでげーげー吐いてましたけど」
「あ?誰だよそれは…」
確かに酒が入れば騒ぎ散らすような輩なので考えられない話ではない。しかし伊庭は意外な名前を告げた。
「相馬…っていったかな、で、一緒に居たのは野村だった」
「へえ…」
野村はともかく、相馬は酒の席で羽目を外すようなタイプではない。土方は「逆じゃないのか」と聞いたが、伊庭は間違いないと首を横に振った。
「いや、相馬の方はともかく…野村には小太と同じような雰囲気を感じました」
「野村に?」
「うまく言えないですけど…目が…まあ、何となく、の話ですよ」
曖昧に誤魔化した伊庭は、何か言いたいことがありそうだったが、明確な答えはなさそうだ。最も、土方にはやんちゃで騒がしい野村と、寡黙で真面目そうな本山が同じようには見えなかったのだが。
「野村はともかく、相馬はいずれ新撰組を任せたいと思う人材だ。あいつは頭がよくて、視野が広い」
「…へえ」
伊庭は心底意外そうな顔をした。確かに胃の中のものを吐いている相馬しか知らなければ、仕方ないのだろうが。
しかし、その顔はすぐに少し寂しそうに歪んだ。
「やっぱり、死ぬ気なんですねえ…歳さんは」
その呟きを、土方は聞こえないふりをした。




13


「朝帰りとは、良いご身分だな」
やや不機嫌そうに顔を顰めて、本山が腕を組んで出迎える。伊庭は何となく、彼がそんな風に出迎えるのはわかっていたので、
「歳さんのとこ、泊めてもらったんだよ」
と卒なく答えた。嘘を付く必要もないし、疾しいところもない。
そんなところが逆に彼の癇に障ったのか、本山は伊庭の右手を引いて、宿舎に入った。朝とは言えど昼が近く、宿舎には誰もいない。扉を閉めてしまえば、二人きりだ。
本山は伊庭を壁に押し付けて、距離を縮めた。
「…なんだよ」
「お前、俺がどれだけ心配したと思っているんだよ。宴会もそこそこで切り上げてくるっていうから…」
「仕方ねえだろう。別に好きで飲んでんじゃねえ」
過保護な物言いに苛立って、伊庭は本山に捕まった右手を払おうとした。しかし体格で勝る彼の手は簡単には解けない。
「心配し過ぎだって。俺は生娘か…」
彼が怒っているらしい、と伊庭は呆れて本山を見る。しかし冗談めかす伊庭とは違い、本山の表情は真剣だ。
(宴会の帰りが遅くなったくらいでこんなに…)
怒るわけないだろう、と思ったところで伊庭はようやく気が付いた。本山はそのことに怒っているのではない。
「…お前、なぁんか、誤解しているだろう」
伊庭がそう問うと、やはり生来素直な彼はあからさまに表情を変えた。少し視線を外して「別に」と嘯くが、幼馴染である伊庭にはお見通しだ。
「歳さんとは何でもねえって言っているだろう」
「べ…別に俺は」
「お前、蝦夷に行くって話になってから、どうにも気にしてるじゃねえか」
「気にしてない!」
本山が大声で怒鳴った。やはり正解のようだと伊庭は思う。
何がどういう理由で本山が誤解をしているのか、伊庭にはよくわからなかった。しかし、こんな時は誤解を解くよりももっと手早い方法がある。
伊庭は左手…と言っても右手よりも短いそれで、本山の首筋に触れた。そして自分の方へ引き寄せて、唇を重ねてやる。誘ったのは伊庭でも、そのうち本山が蹂躙するように口の中で舌をかき回す。
(どっちかっていうと、お前のそういう手練手管の方がどこで覚えてきたんだっていうの…)
些かの矛盾を感じつつも、怒りながら甘える幼馴染にはそういう突っ込みを控えてやる。意地になって、拗ねられると長いのだから。
長い口付けのあと、ようやく唇が離れる。彼は名残惜しそうにしたが、伊庭には言わなければならないことがあった。
「…俺は、お前の…だろう?」
何度も教えてやらなければならない。この男はすぐに忘れてしまうのだから。


パカッ、パカッと馬の小気味よい足音が、箱館の町に響いていた。昨日の昼夜通してのお祭り騒ぎのせいか、町の朝は静かだ。冬らしい乾いた風が頬を霞めた。
「土方先生、昨日は遅くまでお忙しかったのでは?」
土方が乗る馬の後ろから、相馬が乗る馬が追いかけてきた。相馬は京に居た時から馬の扱いが上手い。
「ああ、面倒な奴に絡まれたせいで、ほとんど寝ていない」
「それでしたら、無理をなさらなくても」
「いいんだ」
相馬は心配そうにしたが、土方はその心配を振り切った。
入れ札の結果は、土方の予想していた通りだった。いくら『入れ札』と言えども、順当な役職になったように思う。一緒にいた田村などは土方の『陸軍奉行並』という結果を興奮気味に喜んでいたが、土方からすると『箱館市中警護』の役の方が、性に合っていて正直、嬉しかった。こうして朝から早速任務に励むくらいには。
土方が朝一番に新撰組の宿舎に顔を出すと、どの隊士もどっぷり寝ていた。ひとしきり飲んだようで、朝が来たのにも気が付かなかったようだ。そこで唯一相馬が目を覚ましていたのだ。朝からの任務に誘うと喜んでついてきた。
「…お前の方こそ、昨夜はよく酔っていたそうじゃないか。珍しいな」
「そ…それは、ワインという飲み物のせいで…」
「ふうん。伊庭の奴は全然酔えないのだと言っていたが」
人によって差があるのかもな、と土方は苦笑した。すると相馬の「え?」と声を上げる。そして相馬の馬が追い付いて、二人が横に並んだ。
「あ、あの…土方先生は、伊庭先生のお知り合いなのですか?」
驚いた様子で尋ねてくる相馬に、土方は「ああ」と頷いた。
「江戸に居た頃の腐れ縁だ。あいつはしょっちゅう試衛館に来ていたからな」
「そうでしたか…」
「そう言えば、お前ら、伊庭に会ったんだってな」
今度は土方が訊ねると、相馬は少し頬を赤く染めて、躊躇い気味に頷いた。
「酔い止めの薬をいただきました。初めてお会いしたのに、あんな醜態をさらしてしまって…どうお詫びすればよいのか…」
「そんなことを気にする性格じゃねえよ。次に会った時には忘れているだろ」
気に病む相馬を適当に励まして、土方は馬を蹴る。スピードを上げて駆ける風が、心地よい。程よく残っている酔いが、すっと冷めていく。本当はいつまでも酔っていたいと思わないでもないが、目を覚ませばそこに現実があるのなら、早くその現実に戻らなければならない。
『死ぬ機会が無かった…それだけだ』
つい伊庭に漏らしてしまった本音は、やはり言うべきではなかったなと土方を後悔させた。吐露出来て気が楽になるのは自分だけで、聞かされた伊庭からすると大きな負担をかけてしまっただろう。それは『死にたい』と言っているのと同義だ。
(俺はやはり…弱い)
例えば同じ立場でも、近藤ならそう言わなかったはずだ。自分の信念を曲げずに、きっと心から幕府の為にここまで戦うだろう。そして総司でも、きっと言わなかったはずだ。思い返せば、あの病魔に侵された身体をもってしても、『死にたい』と彼が言うことはなかった。その二人のことを考えると、やはり自分の未熟さやか弱さに、土方は吐き気がした。
やがて町を離れ、潮風に誘われて、二人は海岸にやってきた。静かなで穏やかな波打ち際を、馬に歩かせる。土方は遠くを見つめた。青く空と繋がった水平線の向こうに、いったい何があるのだろう。この先の、未来のように。
「土方先生」
後ろについてくる相馬が呼んだ。
「何だ」
「ずっと…聞きたかったことが、あります」
「いってみろ」
海岸には誰もいない。波が打ち寄せるだけで、それ以外は無音のように。
「この間のお話の続きです。沖田先生とのことを後悔されていると…何故、先生はそのようなことを?」
「……」
あの時、中途半端なままで話は終わっていた。適当に、曖昧に誤魔化して切り上げたのは土方の方だった。
「詮索をしてはならないと思っても、どうしても気になってしまいました。申し訳ありません」
「いや…いい。お前が気になるのは当然だ」
相馬は許しを得て、少し緊張をほぐした。
「あくまで平隊士の俺の目から見ても…お二人はとても仲睦まじくて、どんな時でもお互いの背中を任せている。そんなお二人の関係が羨ましいほどでした。だから、この間のお話は納得ができませんでした。先生はどうして、後悔しているなんて、そんなことを…」
「…死に目に会えなかったからだな」
土方は相馬の問いに素直に答えた。綱を引き、馬の歩みを止める。すると相馬も同じようにして、二人が並んだ。
「最近、あいつが夢に出てくるんだ」
「沖田先生が…」
「ああ。まるで、俺を呼んでいるみたいに」
土方は苦笑したが、相馬は顔を顰めた。しかし土方は構わず話を続けた。
「昔の…楽しかった思い出ばかりを夢に見る。あの頃はよかった、あの頃は楽しかった…あいつに、そう恨み言を言われているような気がする」
「そんな…沖田先生は、そんな人じゃありません」
「そんなことはわかってる。けれど、俺は最期の時に一緒に居られなかった」
土方は目を細め、地平線の先を見つめた。
「どんな言葉を残したかったのか、何か伝えたいことはなかったのか…最期の最期に一人きりで逝くことになって、本当は俺を恨みながら死んだんじゃないのか。…そんな悪い想像ばかりが尽きない。おかしいものだ、最期に会えなかっただけでそれまでのすべてが良くなかったものにかわる。終わりよければすべてよしという言葉があるが、まるでその反対だ」
「土方先生…」
相馬が俯いた。
「だから、お前たちにはそうなってほしくないと、俺は思っている」
「…」
「それだけだ」
何の答えにもなっていないのかもしれない。しかしそれ以上のことは、土方自身でさえもよくわかっていなかった。
土方は馬を蹴って、再び走らせる。しばらくすると相馬が追い付いてきて、そしてまた並んだ。
「土方先生。失礼を承知で申し上げます」
堅苦しい切り出し方だった。土方は相馬が怒っているらしいと察した。
「絶対に、そのようなことはありません」
「…」
「新撰組の誰に聞いても…沖田先生は、そんなことで土方先生を恨むような方ではないと答えると思います。夢に出ていらっしゃるのは、きっと土方先生を案じてのことです。絶対に、間違いありません」
見かけよりも強情な瞳が、土方に訴える。きっとこの目に、野村は惹かれたのだろう。
(…俺よりもよっぽど、強い…)
やはり自分の見立てには間違いはない。次に新撰組を背負うとしたら、この男しかいない。
「…そうだな」
海風が髪を靡かせる。打ち寄せる波の音が、総司の声に似ていた。



14


「蝦夷共和国」が華々しく宣言されても、今の旧幕府軍は曖昧な立場にあった。あくまで徳川家の家臣らを救済するための「蝦夷地の開拓と警備」を行うということを対外的に公表した。徳川家及び家臣の救済を図る榎本の案であり、旧幕府軍に味方する諸外国の高官らも新政府軍との仲介を申し出たが、新政府軍がそれを認める見込みはない。冬の間は、あちらも見知らぬ土地ということで攻めあぐねているだけで、春になればさらに本格的な戦になるだろう。

新撰組が屯所とした称名寺は箱館大町のすぐそばにある。大町には土方が宿舎としている商家「丁サ」もあり、商家や民家が立ち並ぶ比較的賑やかな町だ。
「ちょっと京に雰囲気が似てるな」
その町の雰囲気に、そんな感想を漏らしたのは野村だった。今朝は隊士総出で雪かきをしていた。今もパラパラと雪が降っている。
「そうだな。ちょっとこじんまりしているけど、いい町だと思う」
相馬はそう同意しつつ、
「ぼーっと突っ立ってないで、働け」
「はいはい」
と、雪かきに身が入らない野村の尻を叩いた。今日は降り積もった境内の雪をかいて、そこで稽古を行う予定なのだ。
「うー…さむ…」
野村は相変わらず動きが鈍い。これまでの戦では嵐の中を進軍したのだから、屋内にいられるだけマシだと相馬は思うが、野村曰く「戦っているときはそっちに集中できるから寒くなかった」とか。良くわからない言い草だが、これからますます寒くなり、雪が降り積もるこの地では、雪かきをしなければ生活が送れなくなる。
「身体を動かせたら寒くなんかない。早く終わらそう」
「へいへい」
相馬に注意されて、野村がようやく雪かきを始めた。そうしていると
「相馬、ちょっと」
と、呼びつつ島田がこちらにやってきた。相馬は持っていた道具を野村に押し付けた。
「何でしょうか」
「土方先生がお呼びだ。俺と一緒に『丁サ』に行く」
「わかりました」
何の用事かはわからないが、呼ばれた以上は素早く出向く。相馬は何の迷いもなく頷いた。すると
「いーなー。俺にはご指名がないんですか?」
と少し拗ねた口調で野村が会話に交じった。口をすぼませて、芝居かかった様子だ。すると島田が苦笑しながら答えた。
「お前はお呼びではないとさ。雪かきが終わったら、皆と一緒に稽古を進めておいてくれ」
「…ちぇ。わかりましたよ」
野村は渋々頷いて、二人を見送った。

土方の寄宿先『丁サ』へと向かう大町では、朝から市が開かれていた。相馬は先日のパレードの際にはこの町を煌びやかな町だと思ったが、日々生活を過ごせばここが生活をするには過酷な町だと実感できた。開墾されていない地では米を作ることはできず、芋類が主食として食べられていた。特にこの冬の時期では雪に埋もれて作物も実らず、市には食料と思われるものは少ない。しかし、そのかわり早くから異国との貿易で栄えていたためか、流通しているモノは異国から輸入された目新しいものばかりだ。
島田とともに歩くすがら、相馬は出見世で売られている物に目が行った。
「これは何でしょう」
「何だろうな…簪でもないし…」
二人で思案していると、店主が「ブローチだよ」と教えてくれた。金や銀でできた細工は京でもよく見たが、相馬たちには変わったデザインのそれらが珍しかった。値段を聞くととても買えるような価格ではなく、二人はさっさと出見世から離れた。
「こうしていると言葉は通じても、異国にいるようですね」
「ああ。京に初めて上京したときの気持ちを思い出すな。俺は国を出たこともない田舎者だったから、新撰組入隊の為に京に来て、その景色に圧倒された」
「それはわかります」
島田の言葉で、相馬も自分の入隊した時のことを思い出した。若気の至りか、家族と喧嘩をして国を飛び出し流浪するなか、身分を問わずに志願できる新撰組の話を聞いた。すでに池田屋で功績をあげていた新撰組に入隊したいという一心で、上京し真っ直ぐに壬生を目指した。
「京の道はとても複雑で…あちこち人に訊ねてようやく壬生を目指しました。覚悟を決めて出向いた八木邸で、新選組は既に西本願寺へ移転したと聞き、肩を落としたのをいまでも覚えています。そして西本願寺に向かうのにさらに彷徨いました」
「はははっ しっかり者のお前でも迷子になったんだな」
島田が大声で笑い、相馬は肩を竦めた。
「しっかりなんかしていません。路銀もあまりなかったから西本願寺に着く前に何も食えずにもう疲れ果てていて…ついにはその場に蹲ってしまったんです」
「へえ」
相馬は話ながら、自分の記憶がさらに鮮明に思い出される感覚を味わった。
そう、その蹲ったときに。
「…そうだ、その時に野村に初めて出会いました」
「野村に?ああ、お前たちは確か入隊が同じだったな」
「はい…ああ、そうだ。大宮通でした。蹲っていたら、野村に声を掛けられて…」
『どうしたんだ、大丈夫か?』
そう声を掛けられて、いつもなら強がるところを、弱っていた相馬は事情を話した。すると野村は大声で笑って
『なあんだ、俺は病か何かかと思った!よし、じゃあ行こうぜ』
『行こうって…あの、どこへ?』
『飯ぐらいおごってやるよ』
野村は胸を張って答えたが、野村自身も路銀がもう無くて二人でいっぱいのかけそばを食べるのが精いっぱいだった。
「あいつ、『俺は腹が減っていないから食え』なんて言っていたけれど、あいつも俺と同じで腹が減っていたんです。それを強がって我慢して…そしてお互いに新撰組へ入隊の為に上京したのだと知って、それから意気投合しました」
「ふうん…そんななれ初めがあったんだな」
「それが今でも続いているのだから、不思議なものです」
相馬が笑うと、島田も「確かにな」と笑った。
(…野村は覚えているだろうか)
帰ったら聞いてみよう。
相馬がそんなことを思っていると、『丁サ』にたどり着いた。


小姓である田村が出迎えてくれて、大きな商家の奥の部屋に通された。土方の寄宿舎は近いとは知っていたものの、訪れたことも呼ばれたこともない。新撰組でも土方の部屋に近づく者は少なかったから、こうして呼ばれるというのは新鮮な体験だ。
「失礼します。土方先生、島田さんと相馬さんです」
まだ少年らしい声の田村に答えて、土方が短く「ああ」と答える。障子が開くと、土方は火鉢に火をくべて、書物に目を通している所だった。見慣れた洋装ではなく、昔の和装の姿だ。
田村が障子を閉めて去っていく。二人は居住まいを正した。
「遅くなり申し訳ありません」
「いい。急に呼んだのは俺の方だからな」
土方は手にしていた書物を机に置いた。
「大した話じゃない。これからの新撰組の指揮を、お前たち二人に任せたいということだ」
「え…」
驚いたのは島田ではなく、相馬だった。
「何だ。不服か?」
「いえ…あの…新撰組の隊長は土方先生だと、隊士の誰もが思っていると思います。島田先輩はともかく、俺は新撰組の指揮なんてそんなことは…」
「これは内々の話にしてくれ」
土方はそう言うと、島田と相馬の方へ身体を向けた。
「春になり、戦になれば俺が新撰組の指揮をとれるとは限らない。新撰組はあくまで旧幕府軍の一つの駒として扱われることになるだろう。その時の隊長を相馬、お前に任せるつもりだ」
「俺がですか…!」
「島田、お前は相馬を助けてやれ」
島田が頷いて、相馬はさらに驚いた。古参隊士である島田のサポートに回ればいいと考えていたが、逆だとは全く思いもしなかったのだ。
「ま…待ってください。俺はそんなこと…」
「鷲ノ木からの戦…これまでのことは全部、島田から聞いているし、俺もお前がいいと思っている」
相馬は島田を見る。島田も穏やかな顔で微笑んでいた。おそらく前々からそのような話を二人でしていたのだろう、と相馬は気がついた。
しかし簡単に引き受けることなどできなかった。
「お…俺には、できません。そんな能力もないし、皆を纏める力なんてむしろ野村の方があるし俺なんかより相応しいひとは…!」
「相応しいかどうかは周りが決めて、俺が判断することだ。…野村にとも考えたが、あいつは感情が優先するからな…」
土方が苦笑して、島田と視線を合わせて頷いた。
相馬は「しかし」と食い下がった。
「いままでそんなことを考えたことも…」
「じゃあ考えろ。結論は春になるまででいい」
土方の物言いは簡潔で、反論の隙間も与えてもらえない。相馬は自分の心臓がどくどくとうねるのを感じた。
(考えるって…)
そんなことを、一度たりとも考えたことが無かった。
隊長と名のつく人物は近藤、そして土方しか自分のなかにはいない。あの野村と出会い、新撰組に入隊した時から。






15


『丁サ』からの帰り道。空からまた雪が降ってきた。賑やかだった町から、次第に人がその姿を消していく。そんななか
「…考えすぎだよ」
苦笑しつつ、島田は相馬の肩を叩いた。二人は屯所に向けて歩いていた。
島田の言うとおり、相馬はまだ動揺したままだった。想像もしなかった「隊長」という話は、考えれば考えるほど自身に重たく圧し掛かった。相馬はまだ最近、新撰組隊士として入隊した気がしていた。大政奉還の頃、入隊した自分はこれと言った成果を上げたわけでもなく、また近藤局長を助けることすらできなかった。死にたいと願いながら戦った…そんな弱い自分をようやく自分自身で許せたところなのに、まさか隊を任せられるとは思いもしなかったし、想像もできなかった。
「…何故、土方先生は島田先輩を指名なさらなかったのでしょうか。隊士たちの信頼も厚くて、誰からも文句はないのに…」
「いやあ、そう言われると照れるな」
頭を掻いて笑った島田は、少し茶化すかのようだ。しかし、相馬には冗談のつもりはない。思わずむっとして
「島田先輩が任されるべきです!」
と言い返してしまった。きつい物言いになったことに、島田が気が付かない訳はない。しかし島田は穏やかなままだった。
「俺こそ、無理だ」
「何故ですか」
「俺は、俺が死ぬときは土方先生の盾となって死ぬことしか、考えていないんだ。だから土方先生より後には死ねない」
微笑を浮かべたまま、島田はさらりとそんなことを言った。しかしその声色には真摯な感情があって、相馬は言葉に詰まった。
「先輩…」
「そんなことを土方先生に言えば、ご迷惑になるだろうから口にはしていない。だが、きっと土方先生は気が付いておられる。だから俺を指名しなかったんだ」
そして島田は「冥土の先もお供するつもりだ」と断言した。相馬よりもよほど土方とともに過ごしてきた時間が長い古株だからこそ、その言葉に並々ならぬ決意を感じた。
相馬はそれ以上訊ねることはできなかった。無言のまま二人は歩く。
空から降ってくる雪が、大粒になって、肩に落ちた。そして溶けて、無くなった。
「…島田先輩。土方先生は死ぬおつもりなんでしょうか…」
相馬はようやく気が付いた。どうして土方が自分を指名したのかということではなく、どうしてそんなことを言ったのか。そちらの方が重要だということに。
自分が死ぬつもりだからこそ、誰かに任せたいと言ったのではないかと。
そしてふと、数日前の早朝、海で話したことを思い出した。
『呼ばれている気がするんだ』
そう話した土方はとても寂しそうに見えた。失ってしまった大切な人に呼ばれる夢を夜毎に見るのだと。相馬には土方がそちら側に行きたいのだと言っているように聞こえた。どうにか励ましたくて、でも良い言葉が浮かばずに相馬には「そんなはずはない」と否定することしかできなかった。しかしその言葉は、土方には全く届いていないように思った。
死にたいのではないか…相馬の質問に、
「そうだろうなあ…」
と、島田は曖昧に頷いた。
「でも…例えそうだとしても、俺はお止めすることはできないだろうな。随分前から、土方先生が早く死にたいのだと言っているような気がしていた。だから、今回、相馬にこの話をすると聞いて、『やはり』としか思えなかった」
「…どうして、俺なんでしょうか。俺なんかよりよっぽど相応しい隊士はいます。古株の尾関さんや…野村でもいいのに」
「さあな…ただ、俺は土方先生がお前を指名してちょっと安心したんだ」
「安心?」
思わぬ言葉に、相馬は驚く。
「土方先生は、たとえご自身が死にたいと願っていたとしても、新撰組を道連れにするおつもりはないんだと、そう思ったんだ」
「何故…」
「お前はもう死にたいとは思っていない。だから俺みたいな死にたがりに任せるのではなく、お前に任せたのはそういうことじゃないかと俺は思う」
死にたいと、願っていたのは仙台までだ。それから先は、一度死んだような気持ちで前を向いて歩いてきた。そう言えばその時から、死にたいなんて思ったことはない。生きていたい、野村とともにこの先も…いつの間にかそう願っていた。
(いつの間にだろう…)
自分さえも気が付かなかった。
(きっと野村のせいだな…)
いつの間にかあの前向きな思考に感化されていたようだ。
「相馬、もう少し考えてみよう。土方先生がただ理由もなく、お前を指名するはずがないんだ。断るのはその理由を見つけてからでも遅くはないだろう」
「…わかりました」
相馬は躊躇いつつも頷いた。



相馬と島田が屯所へと戻る頃、行き違うように野村は傘を借りてぶらりと町へ出掛けた。
境内の掃除が終わり、稽古をしていると大粒の雪が降ってきた。島田に言われたとおり、稽古の指揮を執っていた野村は、市中見廻りに向かう者以外を自由行動とし、野村自身がいの一番に町へと出かけたのだ。
「さみぃ…」
戦の最中は我慢をしていたが、生来寒いのは苦手だ。故郷は滅多に雪は降らなかったから、京にやってきて初めての冬は火鉢の前から離れなかった。「雪が降れば野村が大人しくなる」…隊士からはそんな風にからかわれた。だから、今日は昼間からではあるが、身体を温めようと酒を飲みに行こうかと思い、出掛けたのだ。
(途中で会えば、相馬を誘えばいいや)
そんな淡い期待をしつつの、道中だった。
「おにぃさん!」
視界を遮るほどの大粒の雪が降る中、高い声が響いた。
「ん?俺か?」
振り返えるが、目の前には誰もいない。空耳かと思い
「…なんだ気のせいか」
とまた歩き出そうとしたところで、
「おにいさん!」
もう一度呼ばれて気のせいではないと理解して、そしてようやく気がつた。
「…なんだ、俺を呼んでいたのはお嬢ちゃんかい」
視線を落とすと、野村の足くらいの背丈の少女が、傘も持たずにそこにいた。まだ十にもなっていないのではないか、と思うほど幼い少女だった。まるで雪を背負うように頭から真っ白に染まっていて、赤くなった頬と大きな黒い瞳が目に焼きついた。
「これ!」
「ん?なんだ…」
少女は手にしていた籠を押し付けるようにする。あまり言葉を知らないのか、「これ!」と連呼するだけだった。
「もしかして物売りか…」
周囲を見渡すが親らしき姿はない。特に珍しい光景ではないが、雪の冷たさのせいで身体が震え、あかぎれした指先が痛々しかった。
何か買ってやろうか、と籠を覗くと見慣れないものがあった。
「何だこれ…」
それは草木で染めたような色合いだった。布きれかと思い触れると、驚くほど暖かかった。少女は嬉しそうに微笑んで
「マフラー!」
と叫んだ。
「ま…マフラー?」
「ん!」
野村が聞きなれない言葉に困惑していると、少女は野村の手からマフラーを取り上げた。そして器用にくるくると野村の首元に巻いていく。
「ああ、なるほど。こうして巻いておくのか…あったけえな。お前さんが作ったのか?」
「ん!」
「へえ。じゃあこれ…と、あともう一つあるか?」
「ん!」
言葉少ない少女は色違いのマフラーを野村に渡した。野村はそのマフラーを最後に少女の籠が空になったことに気が付いた。
「これで帰れるな。…ほら」
野村は少女のあかぎれた小さな手に、金を握らせた。少し多めに持たせてやると、少女は赤くなった頬をさらに赤らませて喜んだ。そして少し駆け足に野村のもとを去っていった。
「…こりゃいいや」
首元が暖かくなっただけで、身体全体の血の巡りがよくなったようだ。野村は良い買い物をしたことに満足し、またこのもう一枚のマフラーを相方に渡すことを考えると自然と笑みがこぼれた。
(…きっと喜ぶな)
そんなことを考える自分はどうやら生娘のようになっちまったようだと自分で自分を笑うしかなかった。

残念ながら、野村の期待は外れ道中で相馬に会うことはなかった。仕方なくふらりと入った居酒屋は昼間だというのによく繁盛していた。常連客に混じり兵士も酒を飲んでいて込み合っていた。野村は適当に目についた椅子に腰かける。すると「おや」と声が上がった。
「誰かと思ったら、野村じゃないか」
「え?」
野村は声の方を見る。二人組の男が向かいの椅子に座っていた。最初はそれが誰だかわからなかったが、
「なあんだ、親友の大恩人を忘れやがったのか」
「大げさな」
という息の合った二人の物言いを聞いて、ようやく思い出した。
「あ…伊庭…先生、」
あの日、相馬に酔い止めの薬を渡した二人に違いなかったのだ。






16


野村は偶然相席になった二人とすぐに意気投合した。話に聞くと、どうやら朝から飲んでいるらしいということだったが、伊庭はともかく、伊庭の隣にいる本山と言う男はちっとも酔っている様子はない。
伊庭のことは、初めて会った日の翌朝、相馬から聞いていた。江戸の名門道場の御曹司で、幕臣の子息が学ぶ講武所で教授を務めている家柄だそうだ。確かに、家柄の良さげの気品のようなものを感じる風貌で、周囲からも浮いている。さすがの野村でも最初は身構えたが、伊庭の快闊であっさりとして分け隔てのない態度が、自然と距離を縮めた。
一方、その隣で伊庭の世話を焼いているのは本山小太郎という男。こちらも幕臣で伊庭とは幼い頃からの友人だそうだ。
「こう見えて、昔は俺よりも小さかったんだ。それがひと月合わない間にこんな風に、見下ろされるようになっちまった」
昔話のついでに、おどけて笑う伊庭に、本山は「大袈裟だ」とため息をついた。確かに今では背丈は本山の方が頭一つ大きいくらいだから想像がつかない。
野村は本山につられて、酒を飲むペースを上げた。
「そういや、土方先生とはお知り合いっすよね」
これも相馬から聞いて驚いたことだ。すると伊庭はにやりと笑って語る。
「お知り合いもなにも、歳さんは俺の恋敵」
「恋敵?」
すっかり砕けた口調を厭うことなく、伊庭は続けた。
「俺が吉原に通い始めた頃に、お近づきになった女がいてな。さて、馴染みにしてやろうかと思っていたら、歳さんが横から掻っ攫っていったんだ。あの頃の俺は純情だったから、それはそれはもう憤慨したもんだ」
「へえ。さすがの伊庭さんでも取られちまったんすね」
「言ったろう。その頃の俺は純情な青年だったんだ。熟練した歳さんの手練手管に足元も及ばなかったのさ」
はははっと笑い、酒を飲む伊庭の隣で、本山は複雑そうに顔を歪めていた。こういう色話は苦手なのだろうか、と野村は思いつつも伊庭がやめようとしないので付き合った。
「まあ、そんな歳さんが結局男に走ったんだから、世の中っていうのはよく分からないものなんだよなあ」
「…沖田先生のことっすか?」
伊庭はそうそう、と頷いて酒の肴を口に入れた。
野村はふと思い出した。江戸の千駄ヶ谷で別れたあの日も、あの人は穏やかに笑っていた。まるで誰も恨まず、誰も憎まず。あの人の周りの空気だけはいつも新鮮だった。
伊庭は感慨深そうに言葉を漏らす。
「いや、あれは男に走ったというより、沖田さんだからこそそうなったという方が正しいのかな。本当はずっと前から、そうなることを望んでいたのかもしれない」
「…試衛館の頃から、っすか?」
「歳さんは何も言わなかったけれど…たぶんずっと、想ってたんだろうなと思う」
古くからの知り合いである伊庭の感想に、断片しか知らないながら、野村も同意したくなった。土方が沖田を見る眼差しは特別だったし、自分にも身に覚えがあったからだ。
(最終的には、男だろうが女だろうが関係ねえんだ…)
一番、愛おしい者を求めてしまう。その感情は、他の感情よりも止めどなくて、厄介だ。
「ま…最後に最後に行きついた恋が、いともあっさりと、泡沫のように消えちまったんだから、何とも言いようがないよな…」
同情を滲ませつつ、伊庭が呟く。野村の胸もずきりと痛んだ。隊士でも、そして古くからの友人でさえも、土方を慰めることはできない。それを思うと、あの勇敢な背中が酷く寂しげに思えたからだ。
窓辺の席からは、雪が激しく降り積もる外の景色が良く見えた。雪は真っ白だと思っていたのに、実は少し影があるのだとここにきて知った。
何となく重苦しい沈黙が流れていると、
「野村、ほら」
「…あ、はい。頂きます」
それまで無言だった本山が、沈黙を破って野村に酒を注いだ。それを一気に飲み干すと、向かいの席に座る伊庭が笑った。
「お前ら、本当にそっくりだなあ」
「え?ああ、酒の飲み方っすか?」
確かにまるで水を飲み干すように飲む姿は良く似ていて、そう言う意味では本山に野村は親近感を覚えていた。しかし伊庭が言うのはそういう意味ではなかったようで「それもあるけどね」と曖昧に濁されてしまった。
「酒と言えば、あいつはあれから大丈夫だったのかい?」
「…あ、相馬ですか?そうだ、あの時は有難うございました」
今更ながら、ではあるが頭を下げた野村に、伊庭はあっさりと「そんなのはいいけど」と手を振って流した。
「相当、酔っているみたいだったから。お前と違って弱いんだな」
「普段はそこそこなんすけど、あの時はたまたま。あとで相馬は正気に戻って、恥ずかしすぎてあわせる顔がない、どう謝ったらいいのかなんて悩んでましたけど」
「はは。歳さんに聞いた通りの、生真面目だな。そりゃ次期、新撰組隊長だなんて言われるわけだ」
伊庭の何気ない一言だったが、もちろん野村は聞き逃さなかった。
「…隊長?」
野村は酒を口に運ぶ手を止めた。目敏く察した本山が、「おい」と伊庭を咎めたが、伊庭は
「いずれわかることだろう」
と気にする様子もなかった。それどころか呆然とする野村に、
「何だ、拗ねているのか?」
と茶々を入れた。さすがに本山が「悪いな、酔っているらしい」とフォローを入れたが、野村は特に気分を害してはいなかった。むしろ、まったく伊庭が言うような負の感情は思い当たりもしなかった。
「いやあ…いろいろ、納得しましたよ」
頭を掻きつつ笑った。
(だから、今日、呼び出されたのか…)
今朝の、旧幕府軍の陸軍奉行が一隊士である相馬を呼び出すことに、野村は違和感を持っていた。しかしそれがそういう話だとしたら、納得がいく。野村は、いったん止めた杯を口元へ運んだ。
「あいつなら…相応しいと思いますよ。ほんと、あいつは真面目だし冷静だし…いざという時は頼りになるし、俺なんかよりよっぽど頭がいいんすよ」
自然と顔が緩んだ。それは野村の心からの賛辞だった。相馬が隊長に選ばれるということは、自分より評価されたということだが、その事に一切の嫉妬も負け惜しみもなかった。むしろそんな風に頼られる相馬のことを誇らしく思ったほどだ。
「だからあいつが隊長になるなら…それは安心して任せられると思います」
本人はどう思っているのかはわからないが、野村は迷いなくその背中を押したい。そう思った。
すると伊庭が「へえ」と意味ありげに相槌を打つ。そして言葉を飾ることなく問いかけた。
「相馬のこと、好きなんだろう」
「…え?」
「八郎!」
隣に座る本山が、耐えかねたようで軽く伊庭の頭を叩いた。
「いてえ」
「さっきも言っただろう、酔いすぎだ」
伊庭が拗ねたようにして「口煩い」と言うと、本山も少し怒ったように口を結んだ。仲違をされては困ると、野村は慌てて
「いや、いいっす。その通りなんで」
とあっさりと認めてしまった。すると拗ねていた伊庭が不満げな本山を尻目に、満足げに笑った。
「やっぱりな」
「やっぱりって…」
「目が、そっくりなんだよ。こいつに」
伊庭が隣の本山を指さした。
「目?」
「お前が相馬を見る目は、こいつが俺を見る目と同じなんだ。だからあの夜から、ずっとお前のことは引っかかってて、次に会えたら絶対に聞いてやろうと思っていたんだ」
「はあ…」
まるで悪戯が成功した子供みたいだ。伊庭は「ほらみろ」と隣の本山に自慢げにするが、やはり本山は不機嫌そうに息を吐くだけだった。
(…ってか、同じってことは…)
流石に野村でも、伊庭の言葉から察することができた。どうやら二人はそう言う関係らしい。
「…厠に行ってくる」
本山はそう言って立ち上がると、店の店主に厠の場所を聞いて出て行った。不機嫌そうな横顔に野村はハラハラしたが、当の伊庭は「いつものことだ」と気にする様子もなかった。
「見かけの割にウブなんだから、扱いに困る」
酒の肴を弄る伊庭に、野村は少し躊躇いつつも
「あの…聞いてもいいっすか?」
と切り出した。
「本山さんとは…その、いつから、そう言う関係に?幼馴染ってことは昔からっすか?」
「全然。ここに来る少し前のことだ」
意外な返答に、野村は「へえ」と驚いた。伊庭は肴を弄る手を、止めた。
「…本当なら、小太はここに居なくてもいいんだよ」
「え?」
「あいつは別に戦いたいわけじゃない。そもそも剣もそれほど腕があるわけじゃないし、幕府に忠義があるっていう性格でもない。きっと新しい世になっても順応していける頭もある。だけどここまで来た」
「…それは伊庭さんの為に?」
「ああ」
伊庭はそう答えると、懐手にしている左手を野村の前に差し出した。普段は人前に見せることはないというその傷口は、いまだに痛々しくその姿を残している。
「これが、こうなった時…あいつ、ガキみたいに泣いてさ」
「そりゃそうっすよ」
「いや、そうかもしれないけど、あいつばっかり泣きやがって、俺の涙なんて引っ込んじまった。あの外見で人目も憚らず泣かれてみろ、こっちが恥ずかしくなるだろう」
「…まあ、それは…」
あの無骨な本山が泣きわめく姿など、出会ったばかりの野村には想像すらできない。伊庭はまた左手を懐に戻した。
「だけど、そんな姿を見てたら、きっとこいつは俺なしじゃ生きていけないんだろうなあなんて思ったんだ。そして逆に俺の方も同じだと気が付いた。…そこからは自然にってことだ」
穏やかに微笑んでいる伊庭は、少しだけ照れているように見えた。本当はもっと細かいプロセスもあるのだろうが、これ以上を語ろうとしないのは照れ隠しなのだろう。野村は「妬けますね」なんて相槌を打ちながら、酒を口に含む。
『半身』
野村の脳裏にその二文字が自然と浮かんだ。
それは確か相馬が話していたことだ。島田が土方と沖田の関係について、そんな風に表現していたのだと。まさにこの二人の関係も同じではないだろうか。
そんなことを思った。


雪は変わらず止みそうもなかったので、太陽が沈む前には屯所に戻ることにした。
「すいません、奢って貰っちゃって」
店を出つつ頭を掻きつつ礼を言うと、伊庭は「また今度返してもらうさ」と軽く返答した。本山は
「また機会があれば飲もう」
と言ってくれたので、どうやら野村のことを気に入ってくれたらしいと思った。
「じゃあ、ここで」
「ああ」
二人とは帰り道が反対方向だ。軽く頭を下げて、少女から買い求めたマフラーをしっかり首元に巻いた。
(早く帰ろう)
何となく、早く相馬に会いたい気がした。なんだかんだで仲のいいあの二人に当てられたのかもしれない。しかし、どこか足取りは軽い。
そんな時だった。

――パァァン!

鼓膜が破れるような音が、耳元に響いた。この音には聞き覚えがある。そうだ、これは銃声だ…。
「く…っ…?」
野村は膝を崩して、その場に蹲った。雪が冷たいはずなのに、皮膚が裂けるような熱い感覚…そして自分が撃たれたのだと気が付いた。
(誰だ…)
脇腹の辺りを抑えつつも、前方の視界を見る。霞んだ視界の奥に、人影があった。ふらふらと頼りなくこちらに近づく姿は一人しか見えない。
(やべえな…)
朦朧とする意識の中、刀を抜かなければ…そう思っても身体が上手く動かなかった。痛みを堪えていると、もう一度、パァン!という銃声が響いた。流石にやられたかとまるで他人事のように思ったがそうではなく、今度の銃声は背後からだ。野村にはその銃弾で人影は消えたように見えた。
「野村!」
この声は先ほどまで一緒にいた伊庭だ。どうやら踵を返してくれたようで本山も駆けつけていた。
「…傷は浅い。野村、大丈夫だ」
言葉数の少ない本山が励まし、野村を抱きかかえるようにして手拭いを傷口に押し付けた。野村は自分の脇腹が真っ赤に染まっているのをようやく知った。
伊庭は右手に短銃を持ち、人影の方へ走るが、もう敵がいないと分かるとすぐにこちらに戻ってきた。
「残党だな、まだいやがったか」
「野村、どうにか意識だけは保て。…八郎、医者を」
「ああ」
冷静な会話を交わす二人に囲まれて、野村は安堵した。そして安堵した途端、本山の言葉に反して意識を失ってしまったのだった。




17


相馬が島田と連れだって屯所に戻ると、稽古は既に終わり、各々が自由に行動をとっていた。相馬は野村の姿を探したが、目立つ彼がどこにもいない。
「野村なら飲みに行ったよ」
相馬を見るや、古株の尾関が教えてくれた。京にいた時から野村は一人でふらふら出かけることが多かったので、特に珍しいことではない。しかし
(こんな時に限って…)
と、相馬はタイミングの悪さに少し苛立った。いの一番に野村に打ち明けたかったのだ。土方からこれからは新撰組の指揮を執るように、そして次期隊長に任命されたこと…島田のアドバイスである程度、疑問や困惑は薄れたが、それでも「受け入れる」と頷くことはまだ出来そうもなかった。だから、野村なら何というだろうか…助けを求めて、彼の答えを早く知りたかったのだ。
(やっぱり…俺は野村を頼りにしている)
誰かに頼りたいとか、言葉を聞きたいとか…そんなことを思ったのは初めてだ。昔の自分ならこういう場面に立ち会ったとしても、自分一人ですべてを判断して、決めていた。故郷を捨てて、新撰組に入ることを決めたのも自分一人だった。それはそれ以外に方法なんて知らなかったから。
しかし今は違う。野村を頼ることができる。だが、頼ってしまうことを、自分が弱くなったとは思わない。誰かに寄りかかることができるというのは、自分を信じる以上に他人も信じることができているということだ。だから、誰かを信じる強さを覚えたことがきっと自分にとっての成長だ。それはこの戦を通じて学んだことでもある。
(でもだからって…)
だからって、野村との関係をさらにもう一歩進めてもいいのかどうかは、分からない。仲間の中で誰よりも信頼し、互いに励まし合ってきたということは認めても、それが友情ではなく愛情であると決めきれない。
まるで長い川が二人を隔てるようだ。野村が対岸の相馬のもとへ橋を架けようとしているのに、自分はその橋が脆く壊れてしまうのが怖くて、野村の元へ行くことができない。声は届くのだからと、対岸で叫ぶだけだ。橋を架けても自分が崩れれば、野村が架けた橋まで崩れていくのが怖くて…。
「…成長がない」
相馬はため息をついた。同じところをぐるぐる徘徊しているみたいだ。こんな調子だと野村のことどころか、土方からの話もいつ決着がつくのか分かりそうもない。
相馬は雪に濡れた衣服を着替えて、皆が屯する大広場へ向かった。北の大地にやって来ても、まるで京にいた頃と同じで、囲碁や将棋に興じたり、黄表紙を読んだり…と雑多な雰囲気だ。しかしそんな何気ない日常が幸せなのだということを相馬は良く知っている。例えこの冬の間だけだとしても――。
「大変だっ!」
穏やかな気持ちに水を差すように、怒鳴り声が響いた。駆け込んできた隊士は、雪をかき分けてきたのか泥まみれだ。
「どうした!?」
唖然とする空気のなか、島田が隊士を問い詰める。隊士は見回りに出かけている組の者だ。だとしたら敵の侵攻か…誰もがそんなことを思い、出動に備え皆が刀を手に取り身構えた。ぴりりとした空気のなか、隊士が叫ぶ。
「も、申し上げます!大町に箱館奉行所の残党が現れ、新撰組の隊士が負傷ッ!」
「何?!」
「どういうことだ!」
騒ぎ立つ隊士を、島田が「黙れ!」と一喝する。すると一気に静まり返った。
「残党はどれくらいだ!」
「いえ、一名のみで、すでに伊庭八郎先生が仕留められました!」
「伊庭先生が…」
流石だ、と相馬をはじめ伊庭の名声を知る隊士が感嘆の息を吐く。しかしすぐに相馬は、安堵するのは早かったのだと思い知らされた。
「負傷したのは…野村さんです」



撃たれた場所から、ちょうど土方の寄宿先である『丁サ』が近かったので、伊庭と本山はちょうど居合わせた新撰組の隊士らと共に野村をそこへ運んだ。
「何の騒ぎだ」
と土方は驚いていたが、脇腹を真っ赤に染めた野村を見るや顔色を変えた。
「歳さん、この辺りには医者がいないとのことでした。出来れば高松先生を…」
「ああ。田村、高松凌雲先生を呼んで来い!」
「はいっ!」
土方の命令で小姓の田村が慌てて駈け出していく。高松凌雲は、オランダ医学を学び、一橋家の専属医師から幕府の奥詰医師に登用された医者だ。おそらく箱館では一番の名医に違いない。
冷静に受け止めつつ、土方は意識のない野村を見て顔を歪ませた。
「…誰にやられたんだ」
「すでに仕留めました。おそらくは戦の残党ではないかと思います。猟銃ならともかく、短筒なんてこの辺りの住人は持っていないでしょう」
「そうか…」
この状況であっても冷静な返答をする伊庭に、土方はふんと鼻を鳴らす。
「…腕は鈍ってないみたいだな」
「ええ。ですが、今では短銃の方が扱いやすいくらいです」
失ったのが利き手ではなかったのが不幸中の幸いだったのだと、そんな会話を交わす隣で、本山は女中らと共に野村の止血を続けていた。
「小太、どうだ」
「…恐らくは大丈夫だ。呼吸も安定しているし、傷も浅い。意識が戻れば心配はいらないはずだ」
確かに目を閉じたままの野村の顔色も、良くなってきた。土方も伊庭の隣で安堵のため息をついたが、本山の衣服は血まみれになってしまっている。
「悪いな、本山さん」
「いえ…偶然とはいえ、野村を酔わせて注意力を損なわせたのは俺達ですから、責任はあります」
「…ったく、油断しやがって」
土方は毒づきつつ、一緒に野村を運んできた新撰組隊士らに命令した。
「お前らは念入りに見回って来い。他にも仲間がいないとも限らない」
「はっ!」
仲間が襲撃されたことで、弔い合戦だと言わんばかりに興奮しているようで、隊士たちは揃って返答すると、早速、駆け出して行った。
そして隊士らが居なくなり、『丁サ』はようやく落ち着きを取り戻す。
「相馬には知らせなくていいんですかね」
と伊庭が土方に訊ねた。隊士の誰でもなく「相馬」と口にした伊庭は、やはり彼らしく二人の関係を悟っているのではないか…土方はそんなことを思いつつ、笑った。
「…屯所は目と鼻の先だ。そのうち、飛んでくるだろう」
「でしょうね」
伊庭は苦笑した。



野村は道場に大の字で転がっていた。まるで全力疾走をしたように息が上がり、肩を上下させた。この人と打ち合う時はいつもそうだ。
「…もう、降参ですか?」
野村を見下ろして微笑むのは、隊で一番の遣い手の沖田だ。見た目には身体の線が細く、腕っぷしは分からないが、実際にこうして相対するとその強さがわかる。まるでしなやかな風のような強さだ。
「ま…まだまだ!」
野村は竹刀をもう一度握り、それを杖にして立ち上がった。正直、強がったものの、足の筋肉はすでに疲労に疲労を重ね、立ち上がることがやっとだ。
その様子を見兼ねて、沖田は
「休憩にしましょう」
と微笑んだ。沖田は汗一つ掻かず疲れている様子はない。しかし、それは病のせいかもしれない。
「…はい」
野村は沖田に従って、もう一度全身の力を抜いた。道場で身体を広げて、疲れを癒やす。
「…野村さんは面白い人ですねえ」
「え?」
横になった野村の傍に、沖田が座った。
「病のせいで、稽古どころか傍に寄ることさえも倦厭する隊士もいるというのに。貴方は相変わらずだ」
「…病は、関係ないっすよ」
野村は実際、病のことで沖田と隔たりを持つことはなかった。相馬は少し距離を置いてどうしていいのかわからないような態度を取っていたけれど、こういう時に「いつも通り」であることが、沖田を癒やすのだと野村は分かっていたからだ。
「たとえ病であっても、いまだに俺は剣術で手も足も出ないんですからね。さすがです」
「ふふ…そのうち、私はコテンパンにやられるのかもしれないですねえ」
「ははっ それはそれで想像ができないっすよ」
いつまでも元気で、いつまでも師でいてほしい。その願いはきっと届かないのだろうけれど、心のどこかでは奇跡が起きることを望んでいる。
そんな野村の思いを知ってか知らずか、沖田はやはり穏やかに微笑んだ。
「土方さんのこと、宜しくお願いしますね」
「え?」
文脈に沿わない沖田の言葉。
そしてそれまで道場だったはずの景色が、一気に歪んで、千駄ヶ谷のあの一室に変わる。床に伏した沖田は力なく微笑みかける。最期の別れをしたあの日と同じだ。
「沖田先生…」
「ほら、行ってください。呼んでいますよ――」
あなたの『半身』が。
そう言い終わらないうちに、沖田の姿は泡となって消えた。そう、まるで伊庭が言った『泡沫』のように。


「野村っ!」
野村が重たい瞼を開けると、そこには相馬が居た。目に涙を滲ませた彼が、ずっと呼んでいたのだと…野村はすぐに分かった。
「…そうま…」
「おま…っ、馬鹿だ、本当に、馬鹿だ!」
起きて早々の罵倒だったが、野村は微笑んだ。
「何、泣いてんだよ…」
野村がそう言うと、相馬はかっとムキになった。
「煩い!昼間から酒なんかふらふら飲んでるからこんなことになるんだ!伊庭先生にも土方先生にも迷惑をかけて…!」
野村は相馬から視線を外す。すると土方や伊庭、本山がこちらへ顔をのぞかせていた。傍には医者らしき姿もあって…どうやら助かったらしいと気が付いた。
(…ああ、戻って来たんだ。あれは泡沫の夢だったんだ)
「野村、大丈夫か」
土方が顔を覗かせる。鬼と言われた昔なら一隊士の怪我なんて気にも留めなかったはずだ。そんな土方に野村は告げた。
「…沖田先生に、会いました」
「総司に?」
「はい…」
思った以上に脇腹の傷が痛み、それだけ言うのが精いっぱいだった。医者も首を横に振って、土方に(無理をさせるな)と伝えているようだった。
「…もういいから、喋るな」
土方が穏やかにそう言ったので、野村は頷いた。皆が安堵した表情で野村を見守るなか、相馬だけはまだ複雑な感情が混じりあって、今にも泣きそうな歪んだ顔をしていた。そして
「お前は、本当に…」
と小言を続けようとする。だが、その続きを野村は知っている。
「ちゃんと、しろ…だろ…」
言い慣れた…しかしそれでいて懐かしい台詞。京にいた時から続くやり取りに、相馬の力がふっと緩んだのが分かった。相馬が野村の右手を取って、拝むようにして両手に包み込んだ。
「頼むから…ちゃんと、してくれ」
ああ。やっぱり。
(俺はこいつの為に生きて、生かされているんだ…)
そう思えた。





18


隊士から、野村が『丁サ』へ運ばれたと聞き、相馬は取るものも取りあえず、一目散に屯所を出た。島田が相馬を引き留めたが、相馬は従うことはできなかった。
すでに日が翳り、雪は降り続いて凍てつく様だったが、何故だかそんな感覚はなかった。
(あの…っ、馬鹿、馬鹿、大馬鹿野郎っ!)
境内から続く長い階段を駆け下りつつ、野村を罵倒する。こんな昼間から酒なんか飲んでいるからだと叱りつけたい。しかしそれと同じくらいどうにか生きていてくれと願った。
屯所へ駆けつけた隊士は、野村を運ぶのを仲間に任せて報告に来たらしく、野村の容体はわからないとのことだった。ただ血まみれで意識はなかったらしい。
心臓がドクドクと波打ち、そしてそのリズムは増していく。
京から戦を続けていくなか、何度も互いの死を覚悟した。昨日、元気だった仲間が死んでいくことを知っていたからだ。だから、戦のたびに誰かが居なくなることを覚悟して、そして生きていて良かったと互いに励まし合う日々を過ごしてきた。だから、たとえ野村が死んだとしても、その覚悟はできていたはずだ。
(全然…違う…)
覚悟があると思っていたのに、いまはこんなにも取り乱している。明らかに今までと感覚が違う。感情が違う。
(俺は、こんなにも野村のことが大切だったのか…)
友人よりも近しいのはわかっていた。けれど、それ以上じゃないはずだと蓋をしていた。しかし今は、感情が膨張して、その蓋がカタカタと音を立てて外れていきそうな…
この感覚を知っている。
もう少しで、近づく。確信に変わるから。
『もう少し、待っていてくれ』
そう言っただろう?
だから
「死ぬなよ…!」
相馬はさらに前へ駆けだした。


相馬にしては珍しく、挨拶もなく『丁サ』へ飛び込んだので、その場に居た全員が相馬の登場に驚いた。息を切らしている相馬に
「来たな」
と土方が手招きした。相馬は慌てて草履を脱いで部屋に上がった。部屋には土方と伊庭、本山、小姓の田村と、医者風の男が二人いて、囲まれるように野村は横になって寝ていた。どうやら一応の嵐は去って落ち着いたところだったようだ。
「…っ、は…ひ…土方先生!あの、野村は…っ!」
「しっ」
土方はなく、伊庭が口元に人差し指を突き立てた。
「麻酔でゆっくり寝ている。起こすなよ」
「は…はい」
小声で伊庭がそう言ったので、相馬は出来るだけ音を立てないように野村の元へ向かった。恐る恐る野村の姿を見ると、彼は穏やかな表情で寝息を立てていて、顔色も悪くない。相馬はようやく安堵することができた。
(良かった…)
屯所を出てからここまでに、悪い想像はいくらでもした。しかしそのすべてが杞憂だったと分かると、緊張の糸が途切れ、今更、全身に疲労を感じた。
「…弾は貫通しておったし、傷口も大人しくしていれば年明けくらいにはよくなるだろう。無理をさせないように」
医者は簡潔にそういうと、土方の方へ向いて、
「彼は置いていく。何かあれば言いつけてください」
と、若い男の方へ視線を遣った。同じ白衣を身に着けていたので、こちらも医者らしいと相馬は察する。医師は道具を片付けて「では」と軽く挨拶をした。
「ありがとうございました」
その場にいた全員が仰々しく頭を下げ、土方と田村が見送りに向かった。(一体何者だろう)と、相馬が呆然としている伊庭がこっそり教えてくれた。
「あの方は、幕府奥詰医師の高松凌雲先生だよ」
「お、奥詰…っ!」
あまりの大物に、相馬はまた声を挙げそうになったが、寸での所で慌てて手で押さえた。しかし一介の浪人である野村を看てもらえるような医師ではないはずだ。
困惑する相馬を察して伊庭が笑う。
「歳さんが呼んだんだ。昔は一橋家に仕えた幕府奥詰医師を呼びつけるなんて、野村をよっぽど気に入っている証拠だな」
「そう…ですか。…有難い、限りです…」
相馬はそう言うのが精いっぱいだった。そして座り直し、伊庭と本山の方へ向き直って、頭を下げた。
「野村を助けてくださったとお聞きしました。本当に…本当に、ありがとうございました…っ」
畳に額が付かんばかりに頭を下げる相馬に、本山が「頭を上げてくれ」と相馬の肩を取った。
「あの場に居合わせたのだから、当然だ。それに俺たちも一緒に酒を飲んでいたのだから、同罪のようなものだ」
「ま、確かに、飲ませたのは小太だよなあ」
「……」
ははっと軽く笑う伊庭に、本山は何とも言いようもない表情をしていた。相馬は慌てて「いいえ」と頭を振る。
「野村は昔から蟒蛇でいくら言っても飲んでいるような奴で…ほんと、昔から人を心配させてばっかりなんで…!」
非番になれば、上司の原田らと決まって飲みに出かけていた。毎晩、門限ぎりぎりに帰ってくる野村を、いつも相馬は待ち続けていた。
「ちゃんと言い聞かせます。本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ございません…!」
「相馬、もういいよ。それよりさ」
伊庭は穏やかに告げた。
「叱るのは、傷が治ってからにしてやりな」
そして伊庭は相馬の肩を叩き「ほら」と野村の方へ視線を向けた。相馬がつられて視線を向けると、野村がうっすらと目を開けていた。
「野村…っ!」
安静に、という医者の指示を生真面目なはずの相馬でさえ、守ることができなかった。何度も「野村!野村!」と繰り返し、彼を呼び戻そうとした。医者を見送りに行った土方と田村が戻ってきて、全員で野村の床を囲んだ。
そうしていると、固く閉じた瞼を押し上げるように、野村が目を開いた。最初は虚ろに揺れていた瞳が、相馬の視線と重なった。
「…そうま…」
野村の薄く開いた口元から、自分の名前を呼ぶ声が零れた。相馬の中でこみあがってくるものがあり、涙で目が滲んだ。
「おま…っ、馬鹿だ、本当に、馬鹿だ!」
つい先ほど伊庭に忠告されたばかりだが、我慢することはできなかった。もちろん伊庭が「やれやれ」と笑っているのは聞こえたが。
すると野村までもが薄く笑った。
「何、泣いてんだよ…」
図星をさされ、相馬はかっとわらに感情が高まった。
「煩い!昼間から酒なんかふらふら飲んでるからこんなことになるんだ!伊庭先生にも土方先生にも迷惑をかけて…!」
怒鳴る相馬をよそに、野村が相馬から視線を外し、ぐるりと目だけを回した。土方や伊庭、本山…医者の姿も目に入っただろう。
「野村、大丈夫か」
それまで黙っていた土方が顔を覗かせる。鬼と言われた副長ではなく、一部下を心配する穏やかな眼差しだった。
すると野村は不思議なことを告げた。
「…沖田先生に、会いました」
「総司に?」
「はい…」
その場に居た全員が目を合わせて驚いた。ただの寝起きなら「夢だろう」と笑って済ませる話だが、生死の境をさまよった野村の台詞だからこそ、真に迫っていて
(沖田先生…)
相馬は守ってくれたのだと思った。まだこっちに来てはいけないのだと、野村を追い返してくれたのだ。
しかし野村はそれ以上は語らなかった。それまで脇腹の痛みを感じたのか、顔が歪んでいる。土方が「もういいから、喋るな」と言うと、素直に頷いた。
だが、相馬はどうしても我慢できずに、
「お前は、本当に…」
と小言を続けようとする。すると野村が、穏やかに微笑んだ。
「ちゃんと、しろ…だろ…」
言い慣れた…しかしそれでいて懐かしい台詞。それは京にいた時から続くやり取り。飲みに行った彼を出迎えるたびに、そんな風に小言を繰り返し言っていた。いつまでもいつまでも彼の帰りを待ち続けて、いつも同じ台詞を告げていた。飽きるほどに繰り返した。
だから、それがまさかこんなに特別に感じることになるとは思わなかった。
相馬は野村の右手を取って、拝むようにして両手に包み込んだ。
(生きている…ちゃんと、お前が生きているんだな…)
良かった、心から良かったと、思ったんだ。
「頼むから…ちゃんと、してくれ」



その日の夜、土方は野村だけでなく、相馬にも『丁サ』に泊まっていくように命じた。相馬は遠慮したが「野村の看病だ」と言うと、大人しく従った。
「今日は悪かったな」
土方は寄宿先に戻る伊庭と本山を外まで見送った。
「いえ、まあ色々ありましたけど、良い一日だった気がしますよ」
伊庭はそんな曖昧な感想を述べたが、それは何となく土方も分かるような気がした。
「じゃあ、ここで…」
本山が土方に頭を下げて「おやすみなさい」と別れを告げた。伊庭もひらひらと手を振って歩き出そうとする。
「あ、歳さん」
しかし足を止めて、土方の方へ向き直った。
「何だ」
「たぶん歳さんも、死にかけたとしても、沖田さんに追い返されるんじゃないんですかね」
軽い口調で告げた伊庭は「じゃあ」とまた何気なく別れを告げて歩き出す。一、二歩遅れて本山もそれに従い、二人は連れ立って歩く。
土方はその二人分の背中を見送りながら、ふと夜空を見上げた。雪はいつの間にか止んでいて、満天の星がこちらに輝きを放っていた。
あの中の一つが、総司なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ口元が緩んだ。





19


深い雪のなか、明治二年という新しい年が明けた。
「やあ、諸君。明けましておめでとう!」
総裁の榎本の号令で集まった幹部たちは新年を祝うべく宴を催したが、その顔色は皆一様に冴えなかった。
昨年の十二月、入れ札という当時としては画期的な方法で独立政権を樹立したが、もちろんそれは新政府軍及び諸外国には認められていない、ままごとのような政権だった。その為、榎本は、比較的好意的に接していたイギリス・フランスへ蝦夷地の開拓を求める嘆願書を託したが、両国公使から嘆願書を受領した朝廷はこれを却下した。さらに青森には新政府軍が続々と集結し、開戦に向けた準備を進めているという話伝わり、とても心から正月を祝えるような状況ではなかった。
「土方君、一杯どうだ」
榎本が土方に声をかけた。ワインを片手に皆に声をかけて慰労する順番が回ってきたようだ。
「…いえ、俺は結構です」
「そうか?」
素気無く断った土方に、榎本は特に悪い気にはなっていないらしい。
(…こういうところは、少しかっちゃんに似ている)
榎本と初めて出会った時、見かけどおりの『異国かぶれ』に土方は閉口した。そもそも頭ばかり賢くて戦争を経験したことの無い榎本の能力を疑っていたし、『蝦夷共和国』の話を聞いたときには妄想としか思えなかった。
しかし、話を聞くうちに、陸での戦いはともかく海での戦い方においては土方の知識を優に超えていた。また留学していた経験から、日本という国がどれだけ小さく力ない国なのかと熱く語られ、これから我らはどうするべきなのかという指標を、固く自分のなかに持ちつづけているのだと気が付いた。
方向性や性格はまるで違う。しかしそれが、かつての盟友・近藤勇と同じであるということを知った。
それから、彼についていくことを決めた。近藤勇の幻影を追い求めるように、榎本の導く先を共に目指すことにした。
「ところで、土方君。相談があるんだが」
「…はい」
榎本が急に声を潜め、周囲を窺った。そして人影のないところへ土方を誘う。
「何でしょうか」
「いや…あまり気持ちの良い話ではないとは思うのだが。君が新撰組として京にいたときに…その、資金調達はどのように?」
(なるほど)
土方は一瞬で、榎本の相談の核心を察した。
旧幕府軍は意気揚揚とこの北の大地に足を踏み入れたが、現実的な生活や兵を養う為の金には困り続けてきた。新政府軍の侵攻に備えた軍備を削るわけにはいかず、資金は底を尽きかけている。
そこで、かつての新撰組の話を耳に挟んだのだろう。
「…その昔、壬生浪士組と呼ばれていた頃には、会津藩からの手当ても少なく、京だけでなく大坂の豪商から御用金を調達していました。先代の局長…芹沢と言いますが、芹沢がかなり強引なやり方を強いて」
「そうか…」
「しかしそれは新撰組が当時、無秩序だった京の治安を守るための、ある意味、毒薬だったからこそできたことです。たとえ民に嫌われても治安さえ守れれば良かった。だから、今とは状況が違う。この箱館を『国』として住まうのなら、民とは友好的で在ればあるほど良いに決まっている。その方法は勧められません」
榎本は唸った。
「…君が反対するとは思わなかったよ」
「鬼の副長、ですか」
「ああ」
素直に認める榎本に、土方は苦笑した。
「まあ、否定はしません。芹沢の所業を黙って見ていたのもまた事実ですから」
「その芹沢という局長は…?」
「死にました」
端的な答えだった。その過程がどうであったとしても、結果は同じなのだから、土方は榎本に余計な情報を与えずに済む言い方をした。すると榎本は「そうか」とあっさりと納得して何も聞かなかった。
「…だが、資金不足は深刻だ。ある程度の反感を覚悟しなければ我らは飢え死ぬことになるだろう」
「ある程度ではなく、最小限を意識すべきでしょう。ただでさえ、一本木に関所を設けて通行税を徴収していることで評判は良くない。いつ民がこちらに牙を向けるかわかりません。その証拠に先日、新撰組の隊士が撃たれました」
「何?」
初耳だったようで、榎本はとても驚いていた。
「怪我程度で済みました。おそらくは戦の残党だということですが、こちらに反感を持っていたことに間違いないでしょう。我らはいまだ戦場の中にいるのだということを忘れてはならない」
「……」
こんな風に呑気な宴をしている場合では無い…遠回しな嫌味をいうつもりはなかったが、そう聞こえても良い、と土方は思った。榎本は少し押し黙って、「わかった」と頷いた。
「ひとまずその怪我をした隊士にはお見舞いを伝えておいてくれ。私の方でも、明日からは今後のことについて調整を進めていく」
「明日から…ですか」
土方が顔を顰めたが、榎本は穏やかに笑って返した。
「正月の一日くらいを楽しく過ごしても、罰は当たらないだろう」
その少し呑気で、朗らかなところが、やはり近藤に似ていた。



屯所では新年の宴が一日だけ許され、餅と酒が振る舞われた。
「相馬、俺にも酒をくれよ」
野村の怪我は、年が明ける頃には日常生活に支障が無くなるほどに回復した。しかしまだ安静にしておくようにと医師から言われ、相馬は野村にそれを固く守らせた。基本的には野村は布団の上、その周りで生活の世話を相馬が担当している。
「馬鹿。お前は当分酒はなしだ。この間のこと、まだ反省できていないのか」
相馬は雑煮を野村に手渡した。野村は口をすぼませて、不満げだ。
「正月くらい許してくれよ。祝い酒なんだからさあ」
「ダメなものは駄目だ。治ったら飲ませてやるから」
野村は駄々をこねたが「ちぇ」と言うと、雑煮を食べ始めた。
大部屋で開かれている宴会の声が、少し離れたこの部屋にまで聞こえてくる。野村の一件で自分たちがまだ戦の最中であり、油断していたのだということを痛感させられたが、久々の宴ではしゃぐこともたまには必要だろう。
「…仕方ねえ。酒は我慢するから、一つ、お願い聞いてくれよ」
「お願い?」
ずずっと野村が雑煮の汁まで平らげる。怪我をしていても食欲は相変わらずのようで、相馬は安心した。
「恵方詣り(*)。行ってもいいだろう?」
「恵方詣り?」
「医者からは少しの運動くらいは、むしろした方がいいと言われたんだ。ずっと寝続けているのは筋肉っていうのが落ちるらしいからな」
「ふうん…」
相馬は野村が平らげたお椀を盆に乗せる。
「どうしても、祈願しておきたいことがあるんだ。いいだろう?」
「…ま、医者がそう言うなら…」
「よっしゃ!」
心から嬉しそうに拳を握りしめた野村だが、すぐ次の瞬間には「いてて」と脇腹を抑えていた。そんな野村を、相馬は笑った。

恵方詣りと言っても遠くへ行くわけにもいかないので、屯所にしている称名寺で十分だろう、ということで相馬は野村に草履を履かせてやった。撃たれてから初めての外出だ。
「…思ったよりも、寒いな」
「ああ。冷たいと言うよりも凍りつく様だ。…ほら、できた」
「ありがとう。…あ、そうだ」
野村は相馬に「あれ」と指さした。野村の小さな行李だ。
「あのなかにマフラーがある」
「マフラー?」
聞きなれない言葉に相馬は首を傾げるが、「いいから取って」と野村が言うので行李を探った。すると触れると暖かい編みこまれた布が二枚あった。野村に手渡すと、くるくると自分の首元に巻きつけた。
「こうしていると暖かいんだと聞いたんだ」
「聞いたって誰に?」
「あの日、行商で声をかけてきた小さな女の子だ。お前の分も買ってやった」
「え?」
野村はもう一枚のマフラーを相馬の首に巻きつけた。「自分のと勝手が違うな」と苦笑しつつもまかれたマフラーは、確かに暖かい。
「俺の分は血がついちまったけど、奇跡的にお前分は綺麗なままだったんだ。良かったよなあ」
「あ…ああ。ありがとう」
首元が暖かくなったせいか、急に相馬の頬が赤く染まった。野村から何かを貰うなんていうことをこんな風に特別に感じたことなど、一度もなかったというのに。
「さ、行こうぜ」
「あ…ああ…」
特に野村は気が付いていないようだったので、相馬も平気な素振りのままで肩を貸してやった。そしてゆっくりと歩き出す。かき分けられた雪道は冷たく足の裏を冷やした。時折「いてて」と呟く野村だが、どうにか本堂までやってきた。
「はは…屯所だっていうのに、何だか遠かった気がする」
「そうだな」
早速、野村はパンパンと手を叩いて目を閉じて祈り始める。相馬も少し遅れて目を閉じた。
祈願したいことはたくさんあった。
新政府軍がこちらに進軍の準備を始めているという噂は、兵士の中に広まっていた。だがそれは当然のことだから、驚くべきことでもない。春には開戦になるだろう。
(…何としても勝ち、皆が生き残りますように)
もちろん願っているだけでは叶うことではない。しかし誰もが願ってやまないことだろう。
相馬はちらりと目を明けた。すると隣の野村はいまだに目を閉じたままだ。相馬はもう一度目を閉じて、手を合わせることにした。
(欲張りだと、叱られるな…)
心の中で苦笑しつつ、もう一つの願いを伝えて置いた。
(野村のことを…もっと大切にできるように)
願いでも何でもないのかもしれない。けれど、野村が撃たれ、そして生きていると知った時に、刻み付けられた感情がまだ疼いている。まだ答えだと断定できるものではない。しかし
(たぶん、俺が今まで生きてきたなかで…誰よりもお前のことが大切だと思う)
そのことは、紛れもない事実だと、わかったんだ。
相馬が薄く目を明けたところで、
「終わったか?」
と野村が声をかけてきた。同じマフラーを首元に巻いた、特別な親友の笑顔が目に焼き付いて離れなかった。


(*恵方詣り…江戸時代ごろは、元旦にその年の方角(恵方)にある神社へ参拝することを恵方詣りという。明治・大正期に恵方を気にしない現代の「初詣」が定着し廃れた習慣ですが、時代的には恵方詣りという名称を使用いたしました。)



20


凍てつく寒さの中、白い息が暗闇の中に舞う。
「…っ、は…!」
声を押し殺して耽る行為には背徳が混じるせいか、ゾクゾクと感情を高ぶらせた。蝋燭ひとつの薄暗い光の中で、彼の手のひらの熱さが身体に焼印を残すかのようだ。
「…ぁっ、…お前、調子に…乗るな」
「調子になんて…乗ってない」
いつもの彼にしては苛立った返答に、伊庭は(何か怒らせたっけ?)と自問自答した。箱館から松前へと移動した後は、土方とも特に関わりはなく、彼の嫉妬を助長されるような出来事もなかったはずだ。
(そういや…野村は、もう良くなったかな…)
翻弄される身体とは裏腹に、思考は別のことを考えていた。店を出てすぐに銃声が鳴ったときはもう駄目かと思ったが、幸運なことに脇腹を掠めただけだから回復は早いはずだ。野村の手をぎゅっと握って涙ぐむ相馬の姿には、以前、左手が無くなったあとに本山と顔を合わせた、あの時を彷彿とさせられた。本山はあの時子供のように泣いた。左手が無くなった悔しさで泣いているのかと思ったら、『生きていて良かった』と彼は零していた。自分は彼にこんなに願われた存在だったのだと、その時に実感した。
「…何、考えているんだ」
「え?」
余所事を考えていた伊庭を、目敏く察した本山が両手で伊庭の頬を挟んで、逃さないようにして口づける。口唇の隙間を一切与えない、息苦しい触れ合いに、伊庭はもがいた。
「っ、く、る…しい!」
胸板をドンドンを叩いて息苦しさを叫ぶと、ようやく本山は両手の力を抜いた。互いに息を荒げていると、本山が急に力を抜いて伊庭の身体から離れた。
「ん…?終わり?」
「…終わりだ」
中途半端なままだが、本山は着崩れを直して伊庭の隣で横になった。伊庭も急に寒くなった身体に衣服を纏う。
「…お前、やっぱりなんか怒ってる」
「怒ってない」
「ずーっと、そればっかりだな」
ぷいと顔を逸らした本山に、伊庭はため息をついた。拗ねたら長いので、困ったものだ。火照った体を沈めつつ、沈黙したままでいると、本山の方が口を開いた。
「…あいつら、見ているとな」
「ん?」
脈絡のない話だが、「野村と相馬だ」と本山は付け加えた。
「まるで自分たちとよく似ていて…胸が、騒ぐ」
「…どうして?」
彼らが自分たちに似ているとは伊庭も思っていた。だが、胸が騒ぐということは伊庭にはなかった。すると本山が言葉を選びつつ語る。
「…戦がいつ終わるかわからない中で、お前とこういう関係になっても良いのか…俺もそんな風に、悩んでいたことがある」
「お前が?」
伊庭は驚いて、上半身を起こした。本山は背を向けて寝転んでいるままだ。
「片恋のままでいる方が、楽なんじゃないかと思っていた。結ばれてしまえば離れがたくて、もう戦なんかできないんじゃないかと…少し、恐れていた」
「…へえ」
「例えばお前が死んでしまったら…俺は、抜け殻になってしまうに違いない。だから、いっそこの気持ちを押さえつけてなかったことにする方が、良いんじゃないかと思っていた」
抜け殻。そう、まるで土方のように。
伊庭は起こしていた身体をもう一度横たえた。そしてそっぽを向いたままの本山の背中に後ろから抱きつく。
「今も…そう思っているのか?」
一歩を踏み出してしまった。そのことを、本山は後悔しているのだろうか。
しかし「ふっ」と本山が息を吐く音が聞こえた。
「いや…今では、その悩んでいる時間さえも惜しかったと思うな」
「…そうか」
彼が嬉しそうに笑うので、伊庭も安堵した。
この先のことを考えればきりがない。状況はまるで雪に閉ざされてしまったこの土地のように閉ざされていて、わからない。この先に道があるのさえも。
だから、伊庭は考えることをやめた。ただ、その時に一番良い選択をする以外に何もできることはないのだと悟った。
「相馬と野村は…たぶん、大丈夫だろう」
「…根拠は?」
本山の問いかけに伊庭は
「ない」
と即答した。すると彼が「ないのか」と喉を鳴らして笑った。伊庭は本山の背中に絡ませた腕に力を込める。
「…続き、するだろう?」
そしてそんな風に彼の耳元で囁いた。



明治二年、一月の半ばを過ぎる頃には、野村の傷はすっかり良くなっていた。一人で身の回りのことを熟し、生活に困らない程度には回復したため相馬の看護は必要はなくなった。しかし、彼の無茶をする性格は相変わらずなので
「野村っ!稽古はまだ駄目だって言っていただろう!」
と、隊士に混じって稽古する野村を怒鳴ることはしばしばだ。
「いい加減、稽古しねえと腕が訛るって」
「そういう問題じゃない!傷口が開いたらどうするんだ!」
「もう塞がってるって。お前も大概しつこいなあ」
相馬が叱りつけるのを、笑いながら流す野村。その光景はある意味いつものことで、一緒に稽古をする隊士らが笑っていた。すると今日の稽古の当番である島田が二人の元へ笑いながらやってきた。
「まあまあ、相馬。無理をしているようなら俺からも止めさせるから、勘弁してやれ。うちの主力隊士だから、早く回復して貰わないと困るからな」
「島田先輩…」
確かに京以来の同志は少なくなり、北上の途中に加入した隊士が増えた。そう言う意味ではかつての『新撰組の空気』とはかけ離れている所もある。野村がいることで活気が戻るというのなら、復帰は早い方が良いに違いない。年配の島田にそう申し出られては、相馬でもぐうの音は出なかった。
「…わかりました。私も稽古に加わります」
「おう。そうしてくれ」
島田は満足げに頷くと、「さあ、もう百本だ!」と隊士に檄を飛ばした。相馬は野村の隣を位置取り、竹刀を構えた。
「無理せずにすぐ言えよ」
「わかってるわかってるって」
軽い調子で返す野村に、相馬は内心ため息をついた。多少の無理なら強引に押し通す性格なのはよく知っていたからだ。しかし口煩く言っても聞かないのは昔からだから、仕方ない。相馬は竹刀を構えて、素振りに加わった。

稽古が終わると、野村が「散歩に行きたい」というので相馬は付き合うことにした。野村は素振りはできても流石に打ち合いはできなかった為、途中から稽古をやめて見学となったのだ。本人は至極つまらなそうな顔をして不満げだったので、散歩くらいは許してやることにした。
互いに揃いのマフラーを首に巻いた。色もお揃いというのは気恥ずかしかったが、温かさがかなり違うので相馬はそこには目を瞑ることにした。
野村は元旦の時は支えなしでは歩くのも辛そうだったが、今では飄々と歩いていた。歩くスピードも以前と変わりなく、隊務に復帰する日も近いだろうと相馬は安堵した。
「伊庭さんは、松前の方に行ったんだってな」
「ああ…。挨拶がしたかったけど、話を聞いたときには遅かった」
「まあ、また会えるだろうさ」
野村が「こっちに行こう」と海の方向を指さしたので、そちらへ歩く。珍しく太陽がこちらを覗く暖かい日で、日差しも穏やかだ。
「それにしても、剣術は達者だって噂には聞いているけど、短銃の方まで使いこなしているなんてな。完璧すぎて嫌になるよな」
軽い調子で語る野村がだが、その話には『野村が撃たれた』ということも付いて回る。相馬としてはあまり聞きたくない話だったが、本人が笑って話せるくらいなのだから、自分もそうしなければならないだろう。
「ああ。…左手を無くされてからは、剣術よりも銃の方が扱いやすいと笑っておられたと、話に聞いたことがある。それでも、片手を無くされれば自分のなかの秤だって狂うだろうから、やっぱり剣術だけでなく、戦いの才能があるんだろうな」
「そうだな」
そんな風に伊庭の話をしていると、野村が思い出したように飲みに行った時に伊庭から聞いた話を相馬に語った。伊庭の幼少時代の話、本山とは幼馴染であるということ、土方との出会い――そして、伊庭と本山の関係。
それを聞いても相馬は特に驚きはしなかった。そんな気はしていたとさえ思った。
そうして歩いていると、潮の匂いがして、波の音が聞こえた。
「海だ」
まるで子供のように嬉しそうな顔をして野村は駆けだした。相馬もそのあとを追う。道を抜けると、雄大な海が相変わらず波を打ち付けて、そこに在った。海風はやはり冷たかったが、突き抜けるように青白い海が、相馬と野村に開放感を与えた。
背伸びをして「気持ちいいな」と野村が呟く。確かに一定の速さで耳を掠める波の音や、清々しい冷たさを孕んだ海風が身体を一気に冷まして、まるで浄化するようだ。
しばらく沈黙していると、野村が
「あのさ」
と切り出した。相馬が「なに?」と聞き返す。
「お前、俺に何か相談したいことがあるんじゃないのか?」
「……」
相馬は少し驚いた。彼にしては察しが良すぎると思ったからだ。すると相馬の表情を見て気が付いたのか、野村が頭を掻きながら苦笑した。
「実はさ、伊庭さんから話聞いて島田先輩にも確認したんだ。先輩には『内密の話だ』って念を押されたけど…だから、お前がいつ切り出すのかと思ってた」
「そうか…」
野村は待っていたのだ。もしかしたら相馬を散歩に連れ出したのも、二人きりで話をする機会を作りたかったのかもしれない。しかし相馬自身もいつ切り出そうか迷っていたことでもあったので、良い機会だった。
「次の戦が始まったら、隊長に…っていう話を土方先生から受けた」
「で、どうするんだ?」
「……わからない。本当はもっと早くにお前に相談したかったんだ」
怪我をしている野村に負担を掛けたくなくて、相馬はずっと一人で抱えていた。やはり答えは出ずに、堂々巡りを繰り返しているだけだったが。
すると野村は笑みを浮かべて
「やればいいさ」
と軽く言った。あまりに簡単な返答に、相馬は困惑した。
「やれば…って、そんな簡単に。島田先輩や尾関さんだって、今まで新撰組を支えてきた隊士なんだ。その人たちを差し置いて、了承なんてできないし、俺にはそんな才能も…」
「隊長に相応しい才能や器なんて、誰にもわかんねえよ」
野村は相馬の躊躇いを一蹴した。
「俺たちが今まで信じてきた、土方先生がそう言っているんだ。だったら間違いねえ。俺なら、そう思う」
「……」
「それに島田先輩たちだって、お前が隊長になったところで祝福するに決まっている。そうじゃなかったら、俺が説得してやるよ」
力強い言葉に、相馬の心は揺さぶられる。尚も野村は続けた。
「それに…お前なら、新撰組を託せる。俺はそう思う」
「野村…」
「最近、思うんだ。俺たちは、この戦で絶対死んじゃいけねえんだって…強く、思う」
野村の視線は海の先を見ていた。まるでその先に未来があるかのように。
「だって俺たちが全滅したら、誰が新撰組のことを語り継ぐっていうんだ。今のまま死んだら俺たちは朝廷に楯突いた悪者だ。だから、そうじゃないってことを生きて、証明しなければならない」
「野村…」
「そうしなければ、死んでも死にきれない」
かつての野村ならそんなことを考えたりはしなかっただろう。しかし、先日、死に直面して初めてそういうことを考えたのではないか。相馬はそう思った。
「…それが、俺ならできるって?」
重大な任務だ、と隊長の責務に重責を感じた。しかし不安げに訊ねる相馬を励ますように、野村が「ああ」と即答した。
「俺の勘だけど、お前はきっと新撰組を生かせる。頭もいいし、冷静だし、真面目だし…だからみんなもついていくだろうし、土方先生だってお前に任せたいと言ったと思うんだ。大丈夫だ、何かあれば俺も助ける。お前を一人になんかしない」
「……」
曖昧で、理由なんてない。根拠も、証明もできない。でも、野村の言葉は誰の言葉よりも、相馬の胸に響く。
海風が吹いた。
お揃いのマフラーが靡いた。
波の音が、二人の間に流れた。
「…わかった」
相馬は頷いた。初めて、頷いた。心の中で決意を固めた。
彼が言うように、きっとこの責務は後に相馬を押しつぶさんばかりに、重くなっていくだろう。
しかし、そうだとしても、野村が傍に居てくれるなら大丈夫だ。彼の言葉で、確信できた。

すると野村が嬉しそうに笑った。
その笑顔を信じればいいだけだと、相馬は思った。




21


明治二年二月。雪解けの春は、まだ遠い。

「八千…だと」
報告を受けた榎本は、その顔を青白く染めた。共に報告を聞く幹部たちも、俯いたり、苛立ったように唇を噛んだり…と反応は様々だが、場は一気に不穏な空気に包まれた。
新政府軍への密偵の報告を受けていたが、伝わるのはこちらとの軍事力の歴然とした差ばかりで、良い知らせはない。
そんな中、土方は毅然と前を向いたままだった。敵軍の兵の数が八千だということを聞いても、何の反応も見せずに、腕を組んだままだった。そして、しぃんとした沈黙のなか、「それで?」と何事もなかったかのように、報告にやって来た兵士を促す。
「は…はっ!陸軍は松前藩、弘前藩兵を中心とした部隊が八千、海軍も最新鋭の戦艦を諸藩から集め、艦隊を結成した模様です」
「戦艦…」
榎本は瞳孔を開いた。
「もしや…ストーンウォールでは…?」
恐る恐る榎本が問いただすと、兵士は一度息を飲んだ。
「…おっしゃる通りです」
兵士のその言葉に、榎本の落胆は増した。
「あれはもともと幕府が買い付けた装甲軍艦だッ!」
海軍奉行荒井が悲痛にも似た叫びを発した。
ストーンウォール号は、幕府がアメリカに注文していた、鉄張りの軍艦だ。アームストロング砲を備え、当時最大の攻撃力と防御力を兼ね備えていた。しかし慶應四年四月に横浜に入港した時は既に、新政府軍が江戸城に迫る戊辰戦争真っ只中であった。また、諸外国が日本に対して局外中立を宣言していたため、アメリカ公使はストーンウォールの引き渡しを抑留していた。
「アメリカは局外中立を解除し、新政府軍が代金を支払い引き取ったとのことです…」
「ふん、横取りというわけだな…!」
「アメリカも我らの敵か!」
幹部たちが口々に吐き捨てたが、それをいくら訴えたとしても負け犬の遠吠えになってしまうだろう。その中で、
「…開陽が沈没したのは、痛かったな」
ぽつりとつぶやいた榎本の言葉は、後悔に満ちていた。
先日の暴風雨で、海に沈んだ開陽丸を失ったことで、旧幕府軍の海軍における軍事力は大幅に低下した。もちろん、現在の旧幕府軍には新たに軍艦を買う余裕などなく、ストーンウォール号だけでおそらくは殲滅させられる程度だろう。
総裁である榎本の言葉で、ますます場の空気が重くなった。土方はその様子を見て、内心ため息をついた。
「…無い物ねだりをしても仕方ないでしょう。先のことを考えるべきです」
リーダーが諦めてしまえば、もうこの先はない。難局に在るときこそ、リーダーが諦めない姿勢を見せ続けなければならない。醜態をさらしても、物わかりが悪いと言われても……近藤のように。
すると、土方の思惑を察知したのか、榎本が「そうだな」と同意した。悲痛に歪む表情を隠し、
「…策を練ろう。打開策はどこかにあるはずだ」
と皆に語りかけた。沈んだ空気は相変わらずであったが、弱弱しくも一歩踏み出す決意を新たにしたのだった。

ひとまず、海軍の軍事力を少しでも向上させるために、海軍奉行荒井や軍艦回天の艦長・甲賀らが動くということで、話は終わった。会議が解散となるなか、榎本が土方の元へやって来た。
「君はそうやって、近藤局長を支えていたんだね」
榎本は穏やかに土方に声をかけた。混じりけのない賞賛だが、土方は受け取ることはできなかった。
「…近藤の影で、操っていたという者もおりますが」
皮肉のつもりはなかったが、彼は新撰組のことを何も知らない。そして土方自身が新撰組の中で決して褒められた存在でないことを自覚していた。だからこそ賛辞を素直に受け入れるわけにはいかなかった。
しかし榎本は、土方の皮肉を意に返さず
「それは視野の狭い者の言い分だね」
と軽く流した。
「良い意味でも悪い意味でも序列は必要だ。そもそも人間を束ね、結束させるには強い思想か、権力もしくは暴力がつきものだ。君はそれをよく知っているから、新撰組で悪に殉じたのだろう?」
「…さあ、どうでしょうか。もともと、悪だったのかもしれません」
土方はわざとはぐらかせた。榎本とのこういう会話はまるで探られているようで、居心地が悪いのだ。
しかし榎本はあっさりと断言した。
「君は悪ではないよ」
「…」
「本当に悪だとしたら、私と共にここまで来ていない。私を斬って総裁になっているか、旧幕府軍を見放しているか…君ほど頭の良い人間が、何故こちら側にいるのか…私は時々不思議に思うよ」
惚けているようで、ときどき鋭い。こういうところも近藤に少し似ていて…似ているからこそ、苛立つのかもしれない。
「悪でなければ何だと…?」
「空虚かな」
土方の問いかけに、榎本は迷わずに答えた。
「君には今、何もない。空っぽで、空洞で…ただそれだけだ」
榎本は少し冗談めかしたが、人当たりの良い彼はこんな風に人を批判する様な性格ではない。だとしたら、これは本音に違いないのだろう。
(嘘や建前を言われるよりは信用できる)
土方は口元に笑みを浮かべた。
「…なるほど。それはあながち間違いではないかもしれません」
そう答えて、「では」と榎本の返答も待たずに背中を向けた。
空虚。空洞。一体、何を失ったのだろうか。



思っていた以上に雪の多い日々が続くなか、相馬は火鉢で火を起こして暖を取った。
京にいた時のような喧騒が、この北の大地には全くない。雪に閉ざされた町はいつも静かで、不気味なほどに平和な日々が続いていた。
(不気味…)
不気味というよりも、不穏だ。
新政府軍が青森の地に集結しているという話は、島田から新撰組へと伝わった。松前攻略よりもはるかに多い八千の兵が、いま足音を立ててこちらに近づいているらしい。数の上では勝てる見込みなど全くなく、兵士の中では不安と困惑に苛まれる者も多い。また雪で閉じられたこの環境もあまり良い影響を与えないのだろうと相馬は思う。
炭の炎が消えそうになって、相馬は息を吹きかけた。微かに光って、また炭を燃やし始める。小さな炎が消えてしまわないように。
「よっ 何してるんだ」
「野村…おかえり」
客間で火鉢に当たる相馬の元へ、野村が顔を出した。
「見回りはもういいのか?」
「ああ。やっぱり雪のせいで人っ子一人いねえよ」
まるで見回りのし甲斐が無かったというように、野村はため息をついて、相馬の向かいに腰を下ろした。寒さで赤くなった手を火鉢にかざす。
「…身体は?」
「もうすっかりいいって」
野村は少し苦笑して答えた。わかっていても、相馬は訊ねてしまうのだ。野村の傷口はすっかり塞がり、後遺症もなく無事に復帰することができた。本人曰く痛みも全くなく、以前と同じ暮らしができると喜んでいた。
「あーでも、お前に何度も何度も心配されると、だんだん沖田先生の気持ちがわかってきたな」
「沖田先生?」
「周りから心配されて、大丈夫だって言っているのに誰も信じてくれないから困る、なんて良く漏らしてたよ」
「…へえ」
労咳の沖田に、唯一と言っていいほど態度を変えずに接したのは野村だったかもしれない。必要以上に気を遣ったり、憐れんだり、遠ざける者が多かったなかで、野村だけは全く変わらんか遭った。どんな人に対しても、同じ態度で接することができるなんて、実はとても難しくて大変だと言うのに、野村はいつも難なくやってのける。
(俺にはないところだな…)
内心、感心していると
「そういや、土方先生にはもう伝えたのか?」
野村はそう言いつつ、傍にあった干し柿を摘まんだ。先日決心した『隊長』の話の件だ。相馬は首を横に振る。
「今はきっとお忙しくされているから、それどころじゃなさそうだ」
「あー…なんだっけ、ストーンなんとかって?」
「ストーンウォール」
そうそれ、と野村が干し柿を噛み切る。
「俺たちが乗ってきた木造の戦艦が、海を渡るだけでも驚いたのに、鉄で覆われた軍艦が、なんで水の上を浮くんだろうな?」
不思議そうにする野村に、相馬はため息をつきつつ「知らないよ」と答えた。そんなことよりもやはり心をよぎるのは、
「開陽があればまだ互角に渡り合えたかもしれない」
ということだった。開陽は木造戦艦だが、機動性や攻撃性はストーンウォールに勝っていたと小耳にはさんだ。それを聞けばますます、その沈没が惜しくなる。
過去に思いを馳せ、悔しげに息を吐く相馬に
「ま、無いものは無いんだから、仕方ねえだろ」
と、野村は特に気にする様子はない。相馬は野村の性格が、呆れる一方で、羨ましくもあった。
「…お前は気楽でいいな」
「全然、気楽じゃねえよ。こう見えていろいろ悩んでいるんだからな」
相馬は「何を?」と訊ねる。
すると、火鉢越しにじぃと相馬の顔を見つつ、
「わざと聞いてんのか?」
と、逆に野村が訊ねてきた。思い当たる節のなかった相馬は「わざと?」と問い返すと、野村は視線を逸らして「あー」と声を出した。今度は野村の方があきれ顔だ。
「何だよ。言いたいことがあるならはっきり言え」
相馬が促すと、野村は外していた視線を相馬へ戻す。そして真剣な表情をした。
「じゃあはっきり言うけど、お前の返事のことだよ」
「返事…って」
「もう少し待ってくれって、そう言ったろ?」
相馬はようやく野村の意図するところに思い当たる。今度は相馬が視線を外す番だった。
「……もう少し」
「どれくらい?」
「…急かすなよ」
「急かしているつもりはないけど。だってもう二か月経ったんだぜ?」
「それは…」
相馬が答えあぐねていると、不意に野村が力を緩めて笑った。
「ま、いいけどさ。いつまでも待つつもりだし。でもなあ…」
「…な、なんだよ」
「早い方がいいかもなあ」
野村は穏やかな瞳の中に、少しだけ寂しげな色を見せた。だから、野村がそのまま何かを曖昧に誤魔化したように感じた。しかし相馬には朧げに分かってしまった。
早い方が良い。
もう、戦が始まるから。
野村はきっと、そう言いたかったのだろう。
彼の中にも、確かな戦の足音が聞こえているのだ。
(俺たちを引き裂くかもしれない戦の足音が…)
「…野村」
「ん?」
相馬は外していた視線を野村の瞳へと戻した。まっすぐに彼を見つめて、そして何の飾りもない言葉で告げた。
「春までにはちゃんと答えを出すから」
「……」
「…だから、それまでは生きていろよ」
いつまでもずるずると、野村の気持ちに甘えるのはもうやめよう。
諦めないでくれといったあの頃の気持ちから、芽生えつつあるこの感情は、もう少し成長すればちゃんと花を咲かせるだろう。そして花を咲かせることができたなら、花束にしてお前にあげるから。
(だからお前は、ちゃんと受け取れよ)
相馬はいまはまだ言えない想いを、飲み込んだ。
すると野村が頷いて
「お互いに、な」
と笑ったのだった。




22


明治二年二月末。
「久しぶりですね」
松前へ配置となった伊庭が久々に箱館・五稜郭へと顔を出した。土方と顔を合わせるのは正月以来となる。
「…久しぶりって言うほど、久しぶりじゃねえけどな」
「もう、そんな嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないですか」
そう言いつつ、伊庭は土方の隣に腰かけた。
「総裁からの呼び出しが無かったら、顔を合わせる機会だってなかったかもしれないのだから、もう少し再会を喜んで下さいよ」
「喜べる状況なら、喜んでいる」
固い表情のままの土方に、伊庭は「本当かなあ」と茶化した。
部屋には続々と幹部と呼ばれる上官たちが集まって来ていた。今日は榎本からの呼び出しで、海軍にまつわる「ある作戦」が皆に布告されるのだという。
「起死回生の策だとか聞きましたよ」
「…これまで、戦艦がらみで上手くいった覚えがねえ」
「それは確かに」
場違いなほど伊庭は、ははっと声をあげて笑った。
土方にとっては開陽の沈没、伊庭にとっては美加保丸の座礁…悉く、裏切られてきたのだ。
ストーンウォール号…彼らは「甲鉄」と名付けたらしい戦艦が、新政府軍のものとなって、形勢はすっかり逆転した。こちらは開陽と言う決定的な戦力を失い、海軍によりも陸軍で応戦すべきだという意見がちらほら出ていた。その苦境の中で、起死回生の策がある…土方はその事に懐疑的だった。
それは他の上官たちも同じようで、部屋の中には緊張感が漂っていた。そんななか、
「そういえば、野村は良くなりました?」
伊庭は軽い調子で話を変えた。
「…ああ。撃たれた後の処置が良かったおかげで、回復も早いと医者がいっていた。もう見回りにも加わって、通常通りにしている」
「そうですか。小太が心配していたので、伝えておきますよ」
「ああ、宜しく伝えておいてくれ」
そんな会話を交わしていると、前方のドアが開いて、榎本総裁を始め、海軍奉行荒井郁之助、回天艦長甲賀源吾が入場し、ざわついていた部屋が一気に静まり返った。
「諸君、わざわざ呼び立ててすまない」
榎本の挨拶もそこそこに、本題へと入って行った。
「我らは開陽丸を失い、海上戦力では新政府軍に対して劣勢に立たされている。また諸君も知っている通り、新政府軍はストーンウォール号…甲鉄を買い上げ、艦隊を組織しこちらへ向かっているという話となっている。海上戦力の補強は早急の課題である」
そこまで語ると、榎本が海軍奉行荒井に場を譲った。一度咳払いをして、荒井が前に立つ。
「ご存じのとおり、あちらの旗艦の甲鉄は幕府がアメリカから買い上げる予定だったものだ。さらに榎本総裁は江戸から北上する以前から甲鉄の譲渡について交渉されていた経緯もあり、そもそもは我らの戦艦に等しい。そこで、我々は新政府軍から甲鉄を奪取することとした」
荒井の高らかな宣言に、あからさまに上官らが騒いだ。
驚きと困惑…土方もさすがに伊庭と顔を見合わせた。そしてその中で、声が上がった。
「一体、どのように!」
「そうだ、こちらには甲鉄に敵う戦艦などない!」
上官たちが口々に声を上げるなか、荒井は続けた。
「これはフランス海軍のニコールの発案の策である。また奇策中の奇策であるため、新政府軍の間諜に悟られないようにしなければならない。ここに集まった諸君の胸に留めておくことを約束してほしい」
騒ぎ立った上官らが、口を噤む。それを確認して、荒井が机に両手を付き、一呼吸おいて口を開いた。
「…新政府艦隊はおそらく三月には宮古湾に到着する。停泊する甲鉄に、斬りこみ兵を乗せた回天、蟠竜、高尾の三艦を接舷させ、斬りこみをかけ、白兵戦を仕掛け、舵と機関を占拠する。そして甲鉄を箱館へ曳航する」
話を聞いた瞬間に、(無理だ)と土方は思った。
甲鉄は最新の砲弾を備えている。隠れ場所も、逃げ場所もない海の上で機動力で劣る三艦が甲鉄に近づくことはできない。
(やけくそか…?)
しかし荒井や傍に居る榎本、甲賀らは特に取り乱している様子はない。腕を組み、苦い顔をする土方の隣で、伊庭が手を挙げた。
「それは無理かと思います。いくら新政府軍の不意を衝くことができたとしても、こちらの一艦が近づけるのがせいぜいでしょう。白兵戦になっても勝てるかどうかわからない。むしろこれ以上の兵を失うのは得策ではない」
「もちろん、その通りだ」
荒井は伊庭の疑問に穏やかに微笑んで返した。伊庭は
「ではどうやって?」
と食い下がる。すると荒井は土方でさえ予想できなかった方法を述べた。
「三艦が甲鉄に接舷するぎりぎりまで…星条旗を掲げ、アメリカ艦を装う。攻撃開始と同時に日章旗に改め、斬りこむ」
荒井の回答に、室内は一気に騒ぎ立った。
「なんと卑怯な!」
「断じて、断じてならぬ!幕臣の名が廃る!」
「榎本総裁は何を考えておられるのだ!」
ある者は叫び、ある者は怒り、ある者は脱力していた。野次馬のように声を上げる上官らの言葉を、榎本らは黙って受け止める。このように反発されるということは予想済みだったのだろう。ざわざわとした喧騒で騒然となる。
「…歳さん、話を聞かされていたんですか?」
伊庭さえも表情を崩す中で、土方は口を結んだままだったため不審に思ったのだろう。しかしさすがの伊庭でもそれは外れだ。
「いや。初耳だ」
「だったら、なぜ黙っているんですか。こういう作戦を一番嫌っているのは歳さんでしょう?」
確かに気にいらない作戦ではある。卑怯だと思うし、武士道に背くともいえる。しかし、それで勝てるというのなら…いまの土方は受け入れることができる。
「…試衛館にいた頃の俺だったら、ここで怒鳴っていただろうな」
土方のあっさりとしたコメントに、伊庭は苦い顔をした。
京に上ってから、誰よりもこんな『卑怯な手段』を講じてきたのは、誰でもなく土方だった。だからこの作戦に驚きこそすれ、それを野次馬と一緒になって否定することはできなかったのだ。
そうしていると榎本がようやく声を張り上げた。
「諸君の言い分はもちろんわかる。だが、静まってくれ」
両手を挙げて、落ち着くように号令をかけると、不承不承ながらも上官たちが黙った。その様子を察して、荒井が続きを述べた。
「これは万国公法で認められたれっきとした作戦だ。卑怯でもなければ、恥じる必要もない。それに甲鉄を奪取できれば、海軍の軍事力だけでなく、対外交渉においても上手く行くと考えている」
榎本は荒木の隣に立った。
「…今のままでは、必ず我らが負ける」
「総裁!」
「榎本総裁!」
上官らは叫んだ。当然だ、大将たる総裁がその様な弱気の発言をすれば士気に関わるからだ。
土方は榎本を睨んだ。先日、あれだけ言ったのにどうやら理解していないようだと思ったからだ。すると榎本と視線が重なった。彼は(わかっている)と言うように少し頷いた。
「だからこそ、この作戦を実行する意味がある。どんなに卑怯だと罵られようとも、我らには勝つことしか、前へ進むこともできないし、我々の主張を高らかに叫ぶことができない!」
穏やかで人当たりが良く、学者肌の榎本らしくないともいえる、強い物言いだった。
「後世、諸君らがこの作戦を実行したことを罵られるときがあるならば、その時は『榎本が強行した』と言ってくれても構わない。すべての責任は私が取る。この通りだ!」
頼む、と榎本はその場で深く頭を下げた。荒井が「総裁!」と慌てる。
榎本の覚悟と、この作戦を卑怯で、大胆で、破天荒で、無茶な作戦だと罵った上官らが、ようやく理解し始める。どんなに意にそむく作戦であろうとも、こうすることでしか自分たちは生き残り、勝利することができないのだと。
誰も作戦への同意はできなかった。しかし、その作戦を否定し、生き残るための術を…他に何も知らなかった。
だからこの作戦に賭けるしかないのだと…ようやく悟ったのだ。
「土方君」
しぃんとした室内で、俯く上官らの前で、榎本は土方を呼んだ。土方は億劫そう立ち上がり、
「何でしょうか」
と愛想もなく冷たく返答した。しかし榎本は気にする様子はない。
「君に突入する陸兵の統率を任せたい。人選も君に任せる」
「……わかりました」
作戦とは裏腹に、土方が任されることについての異議や異論はなかった。陸軍奉行並としても、新撰組副長としても、そしてここまで戦ってきた軍神としても、土方が相応しいと全会一致だと言うように。
(…ここで、死ぬのか?)
作戦の詳細はわからない。けれど、これは一か八かのような賭け事にも似た作戦だということは、肌で感じていた。
そして酷く、穏やかな気持ちになった。


軍議が終わり、解散になると伊庭が土方の腕を引いて人気のないところまで誘い込んだ。
「歳さん、お願いがあります」
いつにもなく厳しい表情をした伊庭だが、土方はふっと息を吐いた。
「残念だが、お前はつれていかない」
「…どうしてですか。俺は剣も使えれば短銃も扱いに慣れています」
「お前には左手が無い」
土方の遠慮のない言葉に、伊庭でさえも息をのんだ。
「戦場は海の上だ。波や風のせいで立っているのもやっとの環境になるかもしれない。そのなかで、片手を失ったお前は確実に足手まといになる」
「…本当、嫌になるな。冷静で、的確で…」
伊庭がその厳しい表情を解いた。しかし誰よりも自分自身が足手まといになることを、伊庭はよく知っていたはずだ。
「…心配するな。どうにか生きて帰る」
「嘘ですね。そんな顔していないですよ。あなたはもう死んでもいいと、この作戦が死に場所だと…そういう顔をしています」
(嫌になるのはこっちの方だ)
土方は内心苦笑した。何でこんなにも伊庭には悟られてしまうのだろう。まるで顔に書いてあるかのようだ。
伊庭は土方の腕を掴んだ。残っている右手で、強く、掴んだ。
「自分自身をどれだけ陥れようとも構いません。でも、あなたはまだ死んではいけない…お願いですから、『わかった』と言ってください。じゃないと、足手まといだと言われようとも、乗り込みますよ」
真っ直ぐに、目を離さずに、見つめる伊庭の姿が、どうしてか総司と重なった。
(何故…)
「土方先生っ!」
土方が答えを出す前に、若い青年の声がした。
「田村…」
「あ…すみません!お取込み中でしたか?」
慌てる田村に、土方は「いや」と首を横に振る。伊庭は顔を歪ませつつも、掴んでいた腕を離した。
二人の少し不穏な空気に怖気づいたのか、田村は表情を強張らせていたが、土方は変わらずに命令を出す。
「田村、島田を呼んで来い。あと…相馬と、野村もだ」
「は…はい!」
田村は頭を下げるとバタバタと足音を立てて駆けていく。伊庭は歪ませた顔のままで
「…あの二人を連れて行くんですか?」
と訊ねた。土方は「本人たち次第だ」と答えるにとどまった。




23


土方に呼び出されたのは、相馬、野村他十名ほどの隊士だけだったが、『丁サ』には土方だけではなく、榎本も待ち構えていた。
思わずその場にひれ伏せるように頭を下げた隊士たちだったが、榎本が「顔を上げてくれ」と穏やかに言ったので、隊士たちは恐る恐る体を起こした。
(榎本総裁がどうして…)
相馬だけではなく皆、不思議に思ったが、張り詰めた空気のなかでは訊ねることはできない。戸惑いを隠せない隊士を前に、土方が重々しく口を開いた。
「今から話す作戦は、くれぐれも内密にするように。口外するようなら身内であっても容赦しない」
仁王立ちで腕を組む姿は、久々にみる鬼の副長に等しい。ぴりっとした緊張感がさらに増し、隊士らは
「はっ!」
と併せて身構えた。すると榎本が眉間に皺を寄せた。
「土方君、何もそんな言い方をしなくてもいいじゃないか。私の方が怖くなってしまうよ」
「…すみませんが、これが地なもので」
「困ったな。その様子だと、君に怒鳴られたら私は尻尾を巻いて逃げだすしかないようだ」
「…総裁に怒鳴るようなことはありませんが」
榎本の遠慮ない返しに、言葉に詰まる土方。物珍しい光景に唖然となる中、隣の野村が「ぷっ」と噴出した。
「野村!」
「だってさあ…」
相馬は小声で諌めたが、野村は笑いが堪えられない様子だ。すると居心地が悪いらしい土方が、咳払いをして仕切り直した。
「年が明けてから、新政府軍が青森に集結しているのはお前たちも良く知っていることと思う。こちらは兵二千五百に対して、あちらは兵八千…数の上では圧倒的に不利だ。時が経つだけあちらは戦力を増強する。雪解けを待っている暇はない」
土方の言葉に、皆が唸った。分かっている事実とはいえ、三倍以上の兵力の差は土方の言うとおり『圧倒的』だった。
(正直…奇跡が起こらない限り、勝てない)
悲観的ではあるが、相馬はそう思った。せいぜい撃退を繰り返し、戦を長引かせることくらいしかできない。
そしてそんなことは誰もがわかっていることでもある。
しかし土方は
「陸の上なら勝てる」
と断言した。それまで俯き、沈んでいた隊士が顔をあげる。もちろん、相馬も野村も同じだ。
「お前たちは知らないだろうが、池田屋の時は二十人の敵に対して、こちらはたったの四人だった。その時を思えば二千五百もあれば、陸の上なら負けたりしない」
もちろん、状況が違うのだとか、相手は最新の武器を装備しているだとか…そんなことはとうにわかりきっている。池田屋と同じ状況ではないことも、頭の良い土方が分からぬわけはない。けれど、どうしてだろう。
(こんなにも…勝てそうな気持ちになる)
相馬のなかで、高揚にも似た気持ちが湧きあがる。
これまで軍を率いてきた土方だからこその強い言葉に、引っ張られる。相馬は野村の方を見た、すると彼も同じように嬉しそうな顔をしていた。
すると榎本が「ふふ」と小さく笑う。
「では陸の上では土方君に任せよう」
榎本は悪戯っぽく笑って「それでだ」と話を戻す。
「問題は海軍の軍事力だ。皆も聞いているだろうが、新政府軍はもともと幕府が買い上げていたストーンウォール…『甲鉄』を横取りして、自らの旗艦としてこちらに向かっている。『甲鉄』は『開陽』に勝るとも劣らない戦艦だ。『開陽』が座礁していなければ、戦力は等しかったが、いまではおそらく海軍は一刻も持たずに壊滅してしまうだろう。…そこで、我々は『甲鉄』を奪い返すこととした」
場の空気が一気に変わる。驚きと動揺…困惑。すると土方がやはり不機嫌そうな顔をして
「大将がぺらぺらとおしゃべりなのは宜しくない」
と続きを請け負った。
「現在、こちらにある『回天』・『蟠竜』・『高雄』の三隻で三月停泊するであろう『甲鉄』に接舷し、一気に白兵戦を仕掛ける」
「しかしそんなこと…」
聡い相馬は思わず声を上げた。そんなことはできるはずがない、と。
すると土方は頷いた。
「正面をきっていけば、ただの的となり、返り討ちに合うだろう。そんなのは愚かだとしか言いようがない。そこで、三隻の戦艦にはあらかじめ米軍の国旗を掲げて『甲鉄』に接近、直前に日章旗に改め、接舷、突入する。お前たちは斬り込み兵として『甲鉄』に乗り込む役を買ってもらいたい」
「だまし討ちですか…!」
相馬の後ろに控えていた尾関が声を上げると、途端に騒ぎ立った。しかし土方は構うことなく
「ああ、そうだ」
あっさりと断定した。そして
「勝つための、唯一の策だ」
と宣言する。
相馬は視線を落とし、想像した。
『開陽』を失ったいま、『甲鉄』を手に入れることができれば、榎本をはじめ多くの知識人がいる旧幕府軍海軍は盤石となるだろう。また『甲鉄』を失えば新政府軍は新たに戦艦を作るにしても、月日がかかり世情は変わるかもしれない。確かに榎本や土方の狙い通り、いまの状況は覆せるかもしれない。
(しかし、危険な賭けだ…)
失敗すれば、三隻の軍艦を失いこちらの海軍における戦力はゼロになる。また兵力も失われ士気も下がるだろう。
相馬はちらりと野村を見た。すると意外なことに、彼は嬉々とした表情を浮かべていた。
「おもしれぇ…!」
拳を握りしめ、キラキラとした瞳を土方に向けていた。相馬のようにマイナスの側面を全く考えず、ただ成功することだけを思い浮かべて。
(やっぱり…敵わないな)
単純で、短絡的で。前へ進むことしか考えず、その先に落とし穴があったとしても飛び越えるような。
でもそういう彼だからこそ、憧れてしまうのだ。
「やります」
相馬は野村と同じように、榎本と土方へはっきりと告げた。迷いのない眼差しを、二人へ向けた。
すると土方が頷き、集まった隊士たちを見渡す。
「異議がある者は、去って良い。これは危険な賭けだ。命を賭けるに値しないと思う者を咎めたりはしない」
だが、新撰組隊士の中で誰一人去ろうとする者はおらず、
「俺も、加わります」
「わ、わたしも!」
「俺もだ!」
と相馬に呼応した。
相馬は振り返る。最初は困惑気味だった隊士たちの表情が生き生きとしていた。それはやけになったのではなく、この作戦に未来を託すべきだと悟り、命を賭けるべきだと決意したからだ。
その状況を見て、土方は表情を変えず、榎本は満足そうに頷いた。
「では、続きを説明しよう」
そうして、かつてない作戦、「アボルダージュ」の作戦が、新撰組隊士十二名に伝えられたのだった。


詳細を伝え終わるころには、既に夕刻となっていた。土方は、何人かの付添と共に榎本を五稜郭まで送ることにした。
「気持ちの良い隊士たちだ」
榎本は終始、機嫌よく隊士たちを称えた。特に相馬のことを気に入ったようで、「頭がいい」と褒めていた。
「まだ、本決まりではありませんが、相馬は次期の新撰組隊長を任せたいと思います」
「そうか。それはいいな」
榎本は満足そうに頷いたが、「しかし」と続けた。
「だとしたら、相馬はこの作戦に参加させない方が良いんじゃないか?」
「…相馬は剣の腕だけでなく、的確に生き残るための状況判断ができる頭があります。むやみに命を落とさないのは、この作戦で必要な判断力です。…それに、これで生き残らないようならそれまでということでしょう」
「何だ、案外冷たいな」
榎本が驚いたように言う。それに土方は答えなかった。
(冷たいのは…最初からだ)
接舷後の白兵戦の人選を任せると言われた時から、新撰組の隊士の中で誰を選ぶかは決めていた。この作戦に必要なのは剣の腕ではなく、心の問題だ。どんな不利な状況に陥ったとしても、正義という心情に従い逃げずに命を張れる者。言葉を悪くすれば、ただただ従順に土方の言葉を受け入れる者。もし作戦が失敗した場合、彼らは犬死になる。
(捨て駒…か)
彼らは死ぬ時にそう思うのではないだろうか。
土方の心のなかは、何か暗いもので満たされた。


肩に背負った重さを自覚したのは、屯所に帰る道すがらのことだった。
作戦によると『回天』は大型の外輸船で接舷が難しい為、『蟠竜』と『高雄』が新政府軍『甲鉄』に接舷し、『回天』はその援護に回ることとなった。新撰組隊士の十二名の内、十名は『蟠竜』に乗り込み、接舷後の斬り込み部隊となる。土方は今回の作戦の斬り込み兵の統率の為、『回天』に乗り込み、新撰組隊士十二名の内の残りの二名…相馬と野村は同じく『回天』への乗船を指示された。土方の介添役に相馬、同介に野村が任命されたのだ。
「島田先輩は選ばれなかったんだな」
相馬と違って、野村は軽い足取りで相馬に訊ねた。
「…島田先輩はいざとなれば土方先生の身の安全を第一に考える。こういう作戦が決行されるとわかれば力づくで止めかねない」
「はは!確かに、目に浮かぶなあ」
まるで落語でも見た時のように、声を弾ませる野村に、相馬は思わず、
「お前は気楽だな…」
と呟いてしまった。
「ん?そんなつもりはねえけど」
「嘘だ。平気で笑ってるくせに」
「笑って誤魔化しているだけだよ」
そういうと、野村は相馬の右手を取った。突然のことに相馬は驚いたが、しかし同時に彼の手が小刻みに震えていることに気が付いた。
「…野村」
「はは…情けねえや。こんな面白い作戦に選ばれたってのに、いざとなればこんなに不安になるなんて」
「不安…?」
彼らしくない言葉だった。しかし野村の表情は明らかに曇っている。さっきまで晴れ渡っていたのに、突然、曇天が被さるように。
するとつないでいる手をそのままに、野村が相馬を抱き寄せた。
「の、野村…!」
既に陽が落ちているとはいえ、人通りもある。しかし野村は「少しだけ」と小さく告げた。
密着した身体から、野村の鼓動が聞こえる。相馬のそれよりも少し早いリズムに、彼が言葉通り、不安を感じているのだと分かった。



24


明治二年三月。
直前まで内密にと言われた作戦は、さすがに出向前日になると新撰組の隊士たちにも知れ渡った。
状況を全く知らなかった島田は、話を聞くと思っていた通り動揺を隠せず、
「土方先生をお止めする!」
と屯所を駆けださんばかりの勢いだった。危険な作戦に挑むこと、そしてその傍に居られないこと…島田は嘆いた。けれど、相馬と野村たちが必死に引き留めた。
「先輩!どうか耐えてください!俺たちがお守りしますから!」
「きっと無事に、いえ、必ず勝利して戻ります!」
出動する十名の隊士に説得されては、さすがに島田も抵抗をやめた。もうどうしようもないところまで作戦が進んでいるのだと悟ったのだ。そして力なく、ただただ相馬と野村に「くれぐれも土方先生を頼む」と何度も繰り返した。
「土方先生はずっと死に場所を探されている。だからこの作戦はその場所じゃないのだと…教えて差し上げてくれ。頼むから、お守りしてくれ」
島田の懇願。彼と同じ感覚を、相馬も味わっていた。
『あいつが夢に出てくるんだ』
『まるで、俺を呼んでいるみたいに』
冬の海を見つめながらそんな風に言っていた土方は、まるでそのまま海の中に吸い込まれていきそうなほどだった。
「必ず守ります。俺の命に代えても」
野村はそう言って島田の手を強く握った。島田は安堵したようだが、相馬の胸はきゅっと締め付けられる。
(お前の命に…)
野村が島田を安心させるために言ったのだということは重々承知だ。真に受ける必要なんてない。それでも、相馬には受け入れがたいものがあった。
土方や…野村が死ぬなんて想像をしたくはない。
(いや…だめだ)
ここで俯いて、愚だ愚だ考えるのはいつでもできる。けれど、もう船は出港する。
後戻りのできない片道の旅になるかもしれない。
けれど、帰り道は輝かしい栄光への旅路となっているかもしれない。
(…そうに違いないんだ)
何度も何度も、そうやって言い聞かせる。そうすれば歩けることを、知っているだろう?



春が過ぎた頃。庭に咲いた桜の花びらがはらはら舞っているのを、総司は飽きることなく見ていた。
「…それ、楽しいのか?」
花びらを目で追う総司に、土方が語りかける。土方がやってきた時から縁側に佇み、薄着のままの総司に羽織を肩から掛けると、嬉しそうに
「ありがとうございます」
と、笑った。そして続けた。
「楽しいですよ。この前まで雪が舞っていると思っていたら、いつの間にか桜の花びらが舞っている。こうして季節を感じられる時間がいままで無かったから、とても新鮮です」
「…そうか」
「ま、豊玉宗匠には敵いませんけど」
「いつまでも同じことばっかり言っているなよ」
土方が少し呆れると、総司は「ふふ」と悪戯が成功した子供のような表情を浮かべた。
そして総司は羽織を肩から掛けたまま、下駄を履いて庭に出たので、土方も後を追った。ひらひら舞う桜の花びらが、どこか幻想的で、儚い景色だ。
「…土方さんは、洋装が良くお似合いです」
「あ?何だよ、突然」
「突然、思ったから言ったんですよ」
土方は新撰組の中でも一番早く和装を捨てて洋装に着替えた。江戸の町ではよく目立つ格好だ。
「土方さんは着替えたときに効率的で無駄が無い…そう周囲には公言していたけれど、本当は新しい物好きの生来の性分なんでしょ?」
「…いいだろ、別に」
「いいですよ、別に」
総司はわざと口をすぼませて、土方の口調を真似る。「この野郎」と軽く叩くと、総司はやはり軽やかに笑った。
そんな総司の様子に、土方は内心安堵する。元気そうに――いや、それには語弊がある。総司は明らかに病人のような風貌になっていて、痩せ細った姿は痛々しくも見える。そして
「土方さんは…新しいところへ行くんですねえ…」
そんな風に寂しげに漏らすことも増えていた。
「…別にどこへも行かねえよ。ちょっと戦って、勝って、ここに帰ってくるだけだ」
「負けたって帰ってきてもいいんですよ?」
「縁起でもねえ」
強がる土方に、総司がははっと笑う。
するとそのタイミングで息が詰まったのか、総司がゲホゲホと咳き込んだ。土方は総司の肩を抱く。軽い咳払いとは全く違う、低い音を出す咳のせいで、総司の病が重いものだということを今更ながらに想い知らされる。身体がつらいのか、その場に蹲る総司と一緒に、土方も膝をついた。
「大丈夫か?」
「…大丈夫です…」
息苦しそうに肩で呼吸する総司が、無理やりに微笑む。土方を安心させようと、笑う。
(そんなこと、しなくてもいい…)
そう思うのに、総司には言えない。どうしてだろうか、総司を傷つけるような気がして。
土方は総司の膝を抱えて、抱き上げる。総司は抵抗することもなく身を預けたので、庭から縁側へと移動し、そのまま床の上に横にさせた。ぜいぜいと苦しそうにしていた息が次第に収まり、総司はもう一度「大丈夫です」と言った。
「…あんまり、無理をするな」
「ええ…そうですね」
総司は言葉だけでは同意するが、その表情は硬い。
「…そろそろ行く。勝先生との約束の刻限だ」
「ああ…そうですか」
少しでも顔が見たくて足を延ばすけれど、別れるときはいつもこれが最後ではないかと覚悟する。それを繰り返す方が苦しいと分かっているのに、会いたくなってしまう。
土方は総司の床から離れ、縁側から庭に出た。裏口から出ていくのはいつものことだ。
風が吹く。
桜の木が大きく揺れて、薄紅色の花びらが土方の視界を染める。
「――…たさん」
気が揺れた音と、総司の声が重なった。呼ばれた気がして、土方は振り返る。
しかし声は聞こえない。
総司の口だけが動いている。
「…なんだって?」
お前は、今、なんて言った――?


コンコン、と小気味よい音が部屋に響き、土方は目を覚ました。土方にしては起きてすぐに目が冴えて、頭が働きだした。
(ああ…今日、だ…)
今日、宮古湾に向けて出発する。
「…土方先生、お目覚めですか?」
遠慮気味にドアを開けたのは田村だった。明日は必ず早く起きるから、起きてなければ起こせ…そんな風に彼には指示をしていたが、それを的確に守っていたようだ。
「ああ…すぐに行く」
「わかりました」
田村がドアを閉める音がした。
土方は窓の外に目をやる。まだ朝も早く薄暗い。
夢の中で総司に出会うのは何度目だろう。何もこんな日に現れなくてもいいのに、と思う一方で、やはり総司が呼んでいるような気がしてならない。
しかも今日の夢は間違いなく現実に起こったことだった。近藤の助命嘆願に奔走する中、時折訪れていた。痩せ細る総司が微笑む顔が、瞼に焼き付いていて、そしてたぶんあれは、
「…行かないで…」
総司はそう言った。
引き留めるように、そっちに行かないでくれと、嘆願するように聞こえた。


明治二年三月二十日。
旧幕府軍兵士たちの見送りを受けて、『回天』・『蟠竜』・『高雄』の三艦は箱館を出発。宮古湾に向けて南下を始めた。
『回天』には海軍奉行の荒井郁之助、艦長・甲賀源吾、以下およそ二百名、そして「アボルダージュ」の発案者である元仏海軍・ニコール
が乗船した。また陸軍奉行並・土方歳三、添役・相馬主計、同介・野村利三郎、彰義隊十名、神木隊三十六名も加わり、三隻の中でも一番の収容人数となっていた。
二月の海は、十月の海よりも冷たく風が吹き付けていて、誰も甲板に出ようとはしなかった。しかし野村が
「せっかくだから今のうちにいってみようぜ!」
と、まるで冒険心むき出しの少年のように言ったので、相馬は付き合って甲板に出てやった。十月に仙台から乗ってきたものとは少し異なるが甲板の様子は似たり寄ったりだ。
「うーっ、さみーっ!」
野村はそう叫びつつも気持ちよさそうに冬の風に当たるが、相馬は風から逃れるように壁を背にして物陰から外の様子を眺めていた。打ち付ける黒い波が、まるで襲ってくるようだ。ときどき顔にかかる水しぶきが冷たくて、相馬はマフラーに顔を埋めた。
(そう言えば…あれも、こんな甲板だった)
北の大地に降り立つ直前。野村は突然、相馬を甲板に連れ出して想いをぶつけてきた。
仙台へ向かう途中から分かっていたくせに、知らないふり、聞こえないふりをしていたのだということを、見せつけられたような気がした。そして曖昧なままだった答えを出せずに、けれど野村を失うことが怖くて、中途半端な思わせぶりな返事をしてしまったのだ。
今ならわかる。そのことで、自分と…そして野村を傷つけたのだと。
(あれから五か月くらい経つのか…)
とても昔のことのようで、しかし思い起こせば最近のことのような気がした。
でもあの時と、明らかに気持ちが変わっている。
『諦めてほしくない』
『無理をしたい』
きっと、そう言った時からおそらく答えは出ている。そして野村が撃たれたことを聞いたときに、その輪郭がもっとはっきりとした。
(俺は…たぶん、野村がいないと生きていけないような気がする)
そんなことに、気づき、そして認め始めている。
「…おい、相馬」
「えっ?あ、ああ…もういいのか?」
突然、視界に入ってきた野村に、相馬は驚いた。
「何だよ、ぼーっとして。寒いか?中に入ろうか」
「い…いや、まだ大丈夫」
「本当に?」
なんてことの無いいつもの会話なのに、相馬は野村の方を見れずに顔を逸らした。野村のことを考えていた…なんて、そんなことも言えずに「大丈夫だ」と繰り返す。
するとふわりと暖かい体温が重なった。
「の…野村?」
壁を背にして、追い詰められてしまうともう逃げ場はない。重なった場所から暖かくなっていく。
「なあ…」
「な、何…?」
耳元で囁かれると、ぞくっと身体の芯が震えた。そしていつの間にか呼吸が、鼓動が、早くなっていく。
「やっぱり…待たなきゃ駄目か…?」




25


「やっぱり…待たなきゃ駄目か…?」
冬の夜の空気に触れて、少し乾燥した野村の声が、それでも耳元でははっきりと響いた。
いつもの冗談めかすような口調ではなく、まるで別人のような声色に、彼がどれだけ真剣に言葉を発したのかが良くわかる。
「野村…」
「堪え性がねえよな…」
自嘲気味にそう言うと、野村は相馬の首元に顔を埋めた。彼がくれたマフラーが重なって、海風を防いでくれる。
「明日死ぬかも…って思ったら、せめて死ぬ前に、聞いておきたいって思っちまったんだ」
「…そんな…」
死ぬなんて。
そんなことを考えるなと、彼を叱ることはできない。どうしても脳裏を過るは相馬だって同じだ。
もし嵐がやってきて、船が転覆したら?もし先に新政府軍に見つかってしまったら?そもそも白兵戦だって勝てる見込みがあるわけではない。そんな状況で、明日の我が身を愁いるのは当然の思考だろう。
(でも…)
相馬はぶら下げたままだった腕を、野村の背中に回した。壁を背にして、彼を引き寄せるように抱きしめ返した。しかし、はっきりと告げた。
「まだ…駄目だ」
きっとここが戦場では無かったら、彼のことを受け止めたのかもしれない。この気持ちに名前を付けて、「恋だ」といって、彼に渡したのかもしれない。
けれど、そんなことをしてしまったらきっと後戻りどころか、先へ進めなくなってしまう。
(いざというときに…戦えない)
それは駄目だ。島田に託された願いを、放棄するわけにはいかない。その願いは島田だけのものではないことを、良く知っている。
「…思わせぶりなこと、しやがって。期待しちまったじゃねえかよ」
抱きしめ返したことに対して、野村が苦笑した。彼だって相馬と同じ気持ちがなかったわけはないだろう。
相馬は首を横に振る。
「この作戦が終わったら…ちゃんと言う。だから、生き残れ」
「無茶を言うなあ…」
野村がため息をついていると、突然、海風が強くなった。船体が傾いて、抱きしめあったままだった二人はバランスを崩して尻餅をついた。だが幸いにもそれだけで、船体は持ち直してまた水平を保ち始めた。
揺れで尻餅をついた二人はそのまま立ち上がることなく、壁に背中を預けて隣り合って座った。
何となく沈黙していると、野村の方が口を開いた。
「勝てる…なんて断言できる話じゃねえだろう。俺が死ぬかもしれないし、お前が死ぬかもしれない。生き残りたいのは山々だけど…」
「…なんだ、お前らしくないな」
「さすがにな」
ため息をつきつつ、野村は視線を上にあげる。相馬もつられて見上げると、満天の星が輝いていた。
「皆の前では意地を張ったけど、最初はこんな作戦、本当は無茶だって思った。戦艦一つを乗っ取ろうなんて…正直、わけわかんねえ。…でもそんなのは皆わかっててさ、無茶で、無謀なのに…それでも土方先生は俺たちに任せてくれた、俺たちを選んでくれた…そう思ったら、やっぱり土方先生だけを戦場に行かせるわけには行かねえって…思っちまった」
「お前らしいよ」
事実よりも、感情で動く。真っ直ぐでシンプルな理由。
「…お前はたぶん、俺よりも土方先生に惚れてるんじゃないのか?」
相馬がそうからかうと、野村は少し迷って「そうかも」と頷いた。
「あの人だけは一生、裏切ることができない…そう思う」
「俺もだ」
相馬が即答し、二人で目を見合わせてお互いを笑った。
あの背中にずっとついていきたいと願っているのは、二人だけではないのだから、土方には何か人を惹きつける魅力があるのだろう。
野村は「敵わねえよな」と笑った。相馬も「ああ」と頷いた。
(こんな風に笑えるのは今だけだ…)
そう思うと、少しでも長く笑っていたい。魂に焼きつけるように、彼のことを想っていたい…相馬はそう思った。そして不意に思い出した。
「…じゃあ俺も、一つ聞きたかったことがある」
「ん?」
「俺と初めて出会った時のことを覚えているか?」
三か月ほど前、『丁サ』へ行く道すがら、島田と話していて野村と初めて会った時のことを思い出した。それを彼の方は覚えているのか…聞くつもりが、そのあとすぐに野村が撃たれて聞けないままでいた。そしてそのまますっかり忘れていた。
すると野村は
「覚えているよ」
と、意外にも即答した。そしてすらすらと語り始めた。
「大宮通だったよな…お前、田舎者丸出しでふらふら歩いているから、良く目立っていたよ。話を聞いてみたら、路銀が無い、腹が減ったなんて言うもんだから、俺はなけなしの金を叩いてかけそばをおごってやったんだ」
「…よく、覚えていたな」
「忘れるわけねえだろ。お前は忘れてたのか?」
野村の問いかけに、相馬は「まあ…」と曖昧に濁した。思惑が外れて、何だか自分の方が忘れていただけだったようで、恰好がつかなくなってしまった。すると野村が微笑んで
「あのかけそば…美味かったよなあ。なんか、すげえ薄味だったんだけど…美味かったことだけ、覚えててさ」
「…ああ。そうだな…」
「もう一回食いたいな…」
一杯のかけそばを分け合って食べた。野村からこれから新撰組の入隊試験に行くのだと聞いて、すっかり意気投合した。そしてそこからすべてが始まった。そしてそれは終わらないはずだ。
「食いに行こうか」
相馬が野村に語りかける。野村は少し驚いたような表情を浮かべた。
「行こうかって…京へ?」
「ああ。この戦が終わって…京に戻って、食おう。たぶん、金が無いから俺たちまた、ふらふらになるんだ。それから、一杯のかけそばを…二人で分け合って食ってさ…」
自然と、語尾が震えた。
どうしてだろう。
(どうしてこんなに泣きそうになる…?)
思い出が懐かしくて?野村が覚えていたが嬉しくて?それが実現しない夢だから?いや…そうではない。理由はよくわからない。
「…そうだな」
何かを察したように、相馬の後ろ頭に、野村が手を回す。先ほどとは違い、優しく抱き寄せられて、二人は互いに互いの体重を預けた。
温かい。暖かい。彼の隣は、いつもこんなに暖かい。
(そのことを…ずっと、前から知っている)
出会ったあの時から、知っていた気がする。
そして彼の声が耳元で木魂する。
「…相馬。生きるときはともに生きよう。そして…死ぬ時も、一緒だ。これなら、文句はないだろう…?」
文句なんてない。生きるのも死ぬのも同じなら、何も怖くない。
「ああ…」
ああ。
まるで、目が覚めるのが惜しいぐらいに、幸せな夢をみているようだ。彼が隣で息をしていて、生きていて、こうして抱きしめあっているだけで何もかもが満たされていくような気持ちになる。
戦なんて忘れて、心のつかえがすべて消えて…真っ白な気持ちになって、
(まだ…目を覚ましたくない)
たとえ夢だったとしても、ずっと見ていたい。瞼の奥で、彼とともにこうして重なっていたい。少しでも、少しでも長くこうしていたい。
いい加減、認めよう。
(これは…もう恋だ…)
ようやく、迷い続けた気持ちが、心の奥底に住処を見つける。ずっとそこに住み続けるような、安住の地を見つけたように。そしてそこに留まり続ける。
早く彼に伝えたい。
そうすれば…喜んでくれる。だけど、それは、それだけはいまできない。
(次期、新撰組の隊長として…)
そしてこの苦しみを野村も分かっていて、でも、そんな相馬のことを理解しているから、この状況でも待ち続けてくれている。
(好きだ…好きだ…本当はお前のことが、好きすぎて…困っていたんだ…)

どちらからともなく、軽い口付けをした。
そして満天の星の一つを指さして、約束した。
「もし死んだら、あの星で待ち合わせだ」
相馬はそれに、頷いて答えた。



皮肉にも満天の星は、それから二日後の夜にはその姿を隠した。
「暴風ですっ!」
「艦影を見失いましたッ!」
土方のもとへ次々と届く報告に、介添えとして傍に控えていた相馬、野村二人ともが息をのんで見守った。
三月二十二日の夜から海上は暴風雨となり、『回天』『蟠竜』『高雄』はお互いにその姿を見失ってしまった。
慌てふためく海軍を尻目に、土方は表情を変えずに状況を見守っていた。
「…どうなるんでしょうか」
「さあな。ただ、じたばたしたところで俺たちに出来ることは何もない」
冷静かつ無駄のない判断に、相馬は内心感嘆する。同じ立場なら、何かしなければと慌てふためいてしまいそうだ。
(俺もまだまだだ…)
隊長に指名されたからと言って、それを甘受してはならない。相馬はもう一度気を引き締めた。
土方は椅子に腰かけて、テーブルに肘をつく。ため息をつきながら、
「指揮系統は『回天』にある。ということは『回天』だけの突入になるかもしれないな…」
と呟いた。『回天』は構造上船体の側面を接舷させることが難しいとされている。その為もともと『蟠竜』『高雄』の小型艦で接舷させる作戦なのだが、その二艦が行方不明ともなれば作戦を実行するのは海軍奉行・陸軍奉行並の揃う『回天』となるだろう。
(…ついに…か)
相馬の心臓が高鳴る。一気に期待と不安で、満たされた。






26


三隻の戦艦が互いの姿を見失って二日が経った。二十二日から続く暴風雨は相変わらずで、先の計画の見通しも立たない。このまま作戦は失敗か…そんな暗澹たる空気に包まれていたが、二十四日、一筋の希望の光が差しこむ。
「高雄ですっ!」
姿を見失っていた『高雄』が『回天』と合流を果たしたのだ。そして丁度その頃に、嵐も止んだ。
「良かった…」
安堵する相馬と野村は顔を見合わせて頷いた。しかし、残念ながら万全とも行かず『高雄』は嵐で機関を損傷していたため、止む無く二隻は宮古湾の南に位置する山田湾に入港することとなった。
『高雄』の修繕を行う一方で、新たな知らせが飛び込んできた。
「新政府軍艦隊が宮古湾鍬ケ崎港に入港しているという確かな情報が入った」
『回天』の一室で、海軍奉行の荒井が重々しく告げた。その情報に居合わせた『回天』の甲賀艦長、『高雄』の古川艦長、陸軍奉行並土方、そして相馬、野村は揃って息をのんだ。敵は、すぐそこにいる。
「『高雄』の状況はどうなんだ?」
荒井が古川に訊ねる。古川は深く頷いた。
「…おそらく、問題ないでしょう。しかし『蟠竜』を待つべきではないでしょうか」
もともと『蟠竜』と『高雄』の2艦を平行接舷させる計画だ。さらに『蟠竜』には百名ほどの兵士が乗船しており、新撰組十名、彰義隊十名、遊撃隊十二名の実戦経験豊富な兵士も含まれている。実力を持った彼らが行方不明のまま、突入するのはさらに状況を悪くしてしまうことが危惧される。
「だが、このまま待ち続けたところで、『蟠竜』と合流できる保証はない」
そう言いつつ、荒井はちらりと土方、そして相馬と野村に目を向けた。
「…『回天』には兵は二百。『高雄』には七十。三分の一を失った戦力で支障はないでしょうか」
「ない」
土方はあっさり断言したので、相馬は驚き、野村は息を飲んだ。根拠もないことを、皆が厳しい顔をするなか、しかし、土方は表情を変えることなく足を組みなおしつつ答えた。
「元々、今回の作戦はどれだけ迅速にストーンウォールを制圧するかが一番の焦点となる。作戦が粛々と進めば、腕の立つ足の速い奴が五十もあれば十分だろう」
何の迷いもない土方の言葉に、その場に居たものが感嘆する。それはこれまで勝利を収め続けた土方だからこその説得力だ。
土方は「それよりも」と話を変え、目の前に広げられた海上地図を指さした。
「心配すべきは、接舷が可能かどうかだ。『高雄』はともかく『回天』はもともと接舷に向かないという話だったが」
甲賀に質問を投げかけると、彼は躊躇いつつ答えた。
「…ええ。『回天』は外輪船ゆえに構造上、接舷が難しい。横づけが難しい為、出来たとしても船首からの接舷となる」
「だったらやはり『高雄』のみで接舷させる方がいいだろう」
素早い土方の判断に、甲賀は頷いた。
「もともと二隻で接舷する予定だったものを『高雄』に押し付けるのは申し訳ないが…」
「いえ、甲賀艦長。ご心配には及びません。お任せください」
古川は胸を張って敬礼をする。その場に居る全員の意見が一致し、海軍奉行荒井が「いいだろう」と決した。
「状況は厳しいが、みすみす目前の敵を逃すわけには行かない。作戦は明日の夜明けに決行だ」
力強い言葉で、締めくくられた。

山田湾では『回天』にはアメリカ旗、『高雄』にはロシア旗を掲げて、決戦前夜を過ごすこととなった。
「悪かったな」
夜も深くなる頃、相馬は土方から『回天』の甲板へ呼び出された。しかし、土方から開口一番にそう言われ驚いた。
「な…なにをおっしゃいますか」
「いや…殿を務めさせるはずだったのに、どうやらお前たちに先陣を切らせることになりそうだ」
『回天』はもともと接舷する二隻の後方支援が主な任務だった。しかし『蟠竜』がいない状況となり高みの見物とは行かなくなったのだ。相馬は首を横に振った。
「…もともと覚悟をしていたことです」
奇想天外で、奇を衒った『アボルダージュ作戦』とは言えども、楽に勝てる戦ではないことは察していた。自分も出動することになるだろうと乗船する時からわかっていたことだ。いまさら躊躇いはない。すると土方は微笑んで「そうか」と相槌を打つ。
夜の風が冷たく、髪を靡かせる。土方は甲板の柵に手をかけて夜の海を眺めていた。
相馬は一呼吸おいて、少し息をつめて声を発する。
「土方先生…先日、お話をいただいていた件ですが」
「ああ…」
「新撰組隊長…お受けしようと思っています」
土方は振り向かないで、あっさりと「そうか」と答えた。相馬は続けた。
「もちろん…俺は、土方先生の代理です。新撰組の皆は土方先生のことを一番に慕っていますから、それを…」
「それは困るな」
土方が相馬の言葉を遮った。するとようやく土方は相馬の方へ振り返った。
「お前は俺のことを気にすることなく、お前の判断で新撰組隊長を務めて、行動しろ。そうじゃないとお前を選んだ意味がないだろう」
「意味…ですか」
それを、ずっと考えていた。何故自分が選ばれたのか。その理由や意味を…ずっと知りたいと思っていた。
「…土方先生、教えてください。なぜ、俺が…新撰組隊長なのですか?」
他にも相応しい人がいるはずなのに。
隊長を務めるという覚悟はできても、その疑問と感情だけは払しょくできなかった。そしてその答えは、土方だけが持っているはずだ。
すると土方は穏やかに微笑んだ。
「理由は…ない。ただ、お前なら新撰組を守れる。そう思ったからだ」
「守る…」
「ああ。新撰組は俺にとって…生きがいだ。こんなに大切になるなんて思わなかったけれど…それをお前になら託せると思った」
「それだけ…ですか」
「ああ、それだけの理由で、答えだ。それを信じられないというのなら仕方ないことだが…」
自らの曖昧な理由に苦笑する土方に、相馬は首を横に振った。
「信じます」
『俺たちが今まで信じてきた、土方先生がそう言っているんだ。だったら間違いねえ。俺なら、そう思う』
今、この場にいない野村が前にそう言っていたことを思い出す。自信たっぷりに、間違えるはずがないのだという風に。
(…まったく、その通りだ)
相馬は改めて背筋を伸ばし、土方に頭を下げた。
「この光栄な役目を…精一杯、務めさせていただきます」
何ができるかとか、どうしたいとか、どうすればいいのかとか…そんな漠然とした不安はいまだに残る。そしてこの先も抱き続ける。けれど、今は土方が自分を選んでくれたということを誇らしく思えばいい。胸を張って受け取ればいい。
(俺はたぶん、とても幸運で…幸せ者だ)
憧れの人に誰よりも認めてもらえて、大切な人に誰よりも支えられている。いまはそれを感謝して、そしてそんな人たちを守るために、勝ち続けなければならない。その為に自分が必要なのだと言われているのだから。

「…生き残れよ」
土方は呟くように、願うように、そう言った。


「…おかえり」
相馬が甲板から戻ると、野村が待っていた。
「寝ていなかったのか?」
「寝られるわけないだろう。こんな夜にさ」
野村はそう言いつつあくびをした。どうやら相馬の帰りを待ってくれていたらしい。
「隊長のこと、引き受けてきた」
相馬は野村に報告する。すると野村はふっと息を吐いた。
「…そっか。じゃあ、土方先生の用件はそれか」
「ああ…たぶんな」
土方は相馬を呼び出したのに、何も言わなかった。まるで相馬が引き受けることを知っていたかのように、言葉を待っているようにも見えた。
相馬があれこれ考えていると、野村がもう一度あくびをした。相馬は苦笑した。
「もう寝ろよ。明日は早いんだから」
「…京にいたときとは、逆だな」
「ん?」
野村は床に入りつつ、笑った。
「京にいたときは、俺が遊んで帰ってくるのをお前がずーっと待っててくれただろう?」
「それは…お前がいつもふらふらしているから、同室としてだな…」
「それがさ、妙に嬉しかったんだ…」
相馬は野村の隣に床を延べた。そして「ん?」と話を促す。
「待っててくれる奴がいるんだって…そう思えるだけで、何だか支えられていた気がする」
「野村…」
「実はあの時から惚れてたんだなって、今ならわかるよ」
赤裸々な告白に、相馬は顔を真っ赤に染める。
「お前…時々、そういう…恥ずかしいことを、平気で言うよな」
「そうか?俺は恥ずかしくなんかないけど…嫌?」
「…嫌っていうわけじゃ…ない、けど」
「けど?」
恥ずかしがる相馬を、少し茶化す様に野村が問い詰める。相馬は意固地になって「もういいっ」と話を終わらせて、布団を頭からかぶった。すると布団の外から野村が笑う声がして、だが優しく「おやすみ」と彼は声をかけてきた。
「…おやすみ」
ぶっきら棒に返事をした相馬だが、明日への緊張から眠気は全くなく、目がすっかり覚めていた。明日の作戦は早朝なのだから、体調は万全にしなければならないと思えば思うほど、プレッシャーで眠れなくなる。
相馬はきつく目を閉じた。(何も考えるな、何も考えるな…)と自分に何度も言い聞かせ心を落ち着かせる。
「相馬」
そうしていると、頭まで覆っていた掛布団が身体から離れた。ひやっとした冷たい空気を感じる間もなく、背中から抱きしめられる。
「野村…?」
「一緒に、寝ていい?」
訊ねておきながら、野村は承知を待たずに相馬の布団を半分占領し、掛布団を再び二人の身体に掛けた。背中から伝わる野村の鼓動。それは自分と同じくらいに早い。
「いいって…言ってない」
「聞こえた」
「嘘つけ」
野村は「嘘じゃないよ」と小さく囁く。丁度相馬の耳の位置に彼の唇があって、まるで鼓膜を撫でるようにして声が響いた。それだけで、相馬は自分の体温が上がるのを自覚した。それを悟られたくなくて、
「今日だけ…だから」
と強がって返答すると、野村が嬉しそうに「うん」と言って、さらに強く背中から抱きしめた。
そして自然と野村の右手と、相馬の右手が重なった。野村から指先を絡み合わせ、相馬も拒まずにそれを許した。
真っ暗な部屋の中で、彼の全身から伝わってくるぬくもりが、不安や恐怖、恐れ…そんあ負の感情を、全てを溶かす。こんなにも心を熱くする存在だったなんて、いつの間に自分のなかで彼がこんなにも大きくなったのだろう。
(もし明日、死ぬとしても…)
その時まで、お前といたい。
終わりまで、お前といたい。
この手を、ずっと、ずっと離したくない。
そんな願いとともに、温かいものに包まれて、相馬は自然と眠りに落ちた。眠れないと思っていた夜が、生きてきて一番、暖かい夜になった。





明治二年三月二十五日早朝。
皆がそれぞれの覚悟を決めるなか、深夜から宮古湾へ向かっていた二隻だが、ここでまた不運な出来事があった。
「『高雄』の機関故障です!」
その報告には、皆が愕然とした。昨日の修繕は不十分だったのか、それとも他のトラブルか…まるで呪われているかのようだと、兵士が暗澹たる思いが湧き上がる中、
「作戦を変更する」
と、土方が颯爽と立ち上がって宣言した。
『高雄』は故障を起こしたものの、航行は可能だった。そのため『回天』との役割を入れ替えて、後方支援に回り、『回天』が『甲鉄』に接舷することとなった。しかしマイナス要素はもちろんある。
「『回天』の構造上、船首からしか『甲鉄』に乗り込むことはできない。入り口が小さくなる分、敵にも突入口を狙われるだろう」
斬りこみの白兵たちを前に、土方が先頭に立つ。そしてこんな時だからこそ、力強く宣言した。
「兵は拙速を尊ぶ。今更引き返すことは敗戦を意味する。この戦…勝てば長く語り継がれることになるだろう!」
怒号のような雄たけびが上がった。相馬も、野村も、それに呼応した。根拠もなく、状況は悪くなったのに、不思議と不安が拭い去られていくような気持になった。

「相馬、野村…頼んだぞ」
先発隊として先陣を切る二人に、土方が声をかけた。先ほどまでの演説と違い、土方の表情は少し歪んでいた。
野村は目敏くそれに気が付いたようで、
「大丈夫っすよ!何人も切り倒して、手柄独り占めにしてやります。土方先生を悔しがらせるくらいに!」
と大声で笑った。あまりにも緊張感のない声が響いたので「野村っ」と思わず相馬が嗜める。こんな時にでも茶化し明るい野村と、相変わらず野村を叱る相馬。土方は二人を穏やかに見守って「楽しみにしてるさ」と返した。
「土方先生も…お気をつけて」
相馬の言葉に、土方は頷いた。そしてすぐに目を鋭くした。
「二人とも、必ず戻ってこい。これは命令だ」
そう、鬼の副長らしく、命令した。
二人は頷いて
「はいっ!」
と返事をした。


朝靄のかかる午前五時。宮古湾。
新政府艦隊が停泊するなか、『回天』は『甲鉄』へ一直線に向かった。
機関の火を落とした新政府軍は、アメリカ国旗を風になびかせた『回天』に注意を払うことなく、接近を許した。そして予定通り接舷直前にアメリカ国旗を日章旗へ掲げなおし、ついにアボルダージュは決行された。


『回天』は前後左右、上下に大きく揺れ、『甲鉄』に接舷した。だが、予想通り『回天』は水車が飛び出した外輪船であるため、横づけが難しく小回りが利かない。そこで甲賀艦長は諦めて、『回天』の船首を『甲鉄』の左舷に押し込み乗り上げる形となった。
「突入ーッ!」
土方の号令で、先発隊の白兵たちが船首から『甲鉄』への乗り込みに向かう。その先頭に相馬と野村の姿があったが、すぐに足止めを食らうこととなってしまった。
「高すぎる…!」
相馬は叫んだ。船首が乗り上げる形となったせいで、『甲鉄』と三メートルもの高低差が生じてしまったのだ。
しかし、ほぼ同じタイミングで新政府軍による敵襲の合図である空砲が、轟いた。敵がこちらに気が付いたとなれば、時は一刻を争う事態だ。だが、誰もが怖気づき『甲鉄』へ飛び移るのをためらう中、
「俺がいく!」
と野村が声を上げた。
「野村…っ!」
「ばっか、心配すんな!これくらいの高さ、屁でもねえ!」
顔を強張らせつつ、野村は強がって叫ぶと、助走をつけて飛び移った。誰もが息をのむ一瞬だったが、野村は見事に着地した。その行動で、一気に士気が増した。
「つづけ!」
「俺もだ!」
「俺はいくぞ!」
野村に押されるように、先発隊の兵士数人が次々と飛び移った。相馬も覚悟を決めて、大きく飛ぶ。すると足の裏の衝撃と裏腹に、上半身は優しく受け止められた。
「野村…」
「行くぞ…!」
安堵する暇はない。
野村のこれまで見たこともない様な厳しい表情に、相馬は頷いた。相馬は刀を抜いた。目の前にはすでに敵が迫っていた。
「おおぉぉぉぉぉーッ!」
味方とも敵ともわからない声があちこちで上がる。早朝の襲撃ということもあり、敵は旧幕府軍の急襲に対応できずに、あっさり斬り倒されていく。圧倒的に白兵戦は有利に進んでいた。
(勝てる…!)
相馬は敵を切り崩しながら、僅かながらそう思った。一人、また一人と敵を倒すごとに、道が切り開かれていくような気がして。
そして急に、目の前が不意に、あの懐かしい浅黄色に染まった。
(ああ…!)
まさに、浅黄色のだんだらを羽織った時の高揚感に似ている。
かつて、浅黄色の羽織を着て颯爽と歩き、刀を抜く姿に憧れた。新撰組が浅黄色を身に纏い、凛と歩く姿は今でも目に焼き付いている。…良いか悪いかは分からない。しかし、ただただ、相馬には彼らが英雄にしか見えなかった。そして同じ場所にいられることを誇らしく思った。
(負けたくない…!)
ここで負ければ、あの浅黄色を汚すことになるだろう。近藤が築き、土方が支え、沖田が身を尽くした新撰組を、いつまでも守りたい。
その思いは、刀を振るうほど増していく。
まるで自分が強くなったかのように、錯覚する。
相馬が三人目の敵を斬りつけたとき、野村の姿が視界に入った。血で赤く染まっているようだが、すべて返り血のようで怪我もない。
(このまま押せばいい…!そうすれば…!)
相馬が前を向いた、その時だった。

夥しい銃声が鼓膜を打ち付けた。その音はまるで地鳴りのように、一瞬してその場を支配する。
相馬が咄嗟に物陰に身を隠すと、野村も同じ行動を取った。
「なんだ、あれは…!」
視線の先には手押し車のような武器。弾丸が連発され次々と撃ち抜かれていく。相馬は絶句とともに、すぐに理解した。
「ガトリング機関砲…!」
「何だよそれ…!」
野村が叫びながら問うが、相馬は答えることができない。話には聞いていたが、実物を見るのは初めてだったのだ。
「あれは…一気に、二百発弱の弾丸を撃ち込むことができる…最新の武器だ…っ」
「二百…だと…?!」
さすがの野村でも、悲痛な声を挙げた。せいぜい数発が限界のこちらの武器に比べたら、到底及ぶべくもない。
そしてガトリング機関砲は、『甲鉄』に斬りこんできた兵を、次々と撃ち殺していった。まるで的になるかのように、何十発もの弾が撃ち込まれ、悲鳴を上げる間もなく絶命し、倒れていく。仲間の死を目の当たりにした別の兵士が、刀を振り上げて向かっていくが、しかしそれも何の意味も為さずにあっさりと、終わってしまう。その悲惨な現実に、相馬は言葉が出なかった。
(無理だ…!)
あの最新の武器一つで、おそらく白兵は全滅する。太刀打ちできるわけがない!
相馬が直感した直後に、甲板の敵である相馬、野村の方ではなく、『回天』が接舷した船首の方へガトリング機関砲が向けられた。危惧されていた通り、細い白兵の突入口は格好の標的となり、乗り移る前に『回天』甲板上で兵たちが撃ち倒されていく。
「退却ッ退却ーッ!」
『回天』から指揮を振るう甲賀艦長の雄たけびが聞こえた。しかしその姿さえもガトリング機関砲の的となり、腕、胸を撃ち抜かれ、最後には弾丸に頭を貫かれた。そして言葉が途切れる。
「甲賀艦長ッ!」
相馬は身を乗り出しそうになったが、野村に腕を引かれて止められた。
「相馬、無理だ」
「野村…っ」
退却を始める『回天』がゆっくりと『甲鉄』から離れていく。
(どうすればいい…!)
戦っても死ぬだけ、退却もできるかどうかわからない、そしてここに隠れ続けるわけにはいかない。
そんななか、
「相馬…野村っ!」
を二人の名前を呼ぶ声が聞こえた。見上げると『回天』の甲板で、土方がこちらに向けて必死に叫んでいた。そして退却用のロープをこちらへ投げる。
しかしそれはガトリング機関砲の的のなかだ。ロープを掴んだところで、撃たれて終わる。決断しかねる状況の中で、混乱する相馬に
「相馬、逃げろ」
と野村は短く告げる。
「え…っ」
「お前は、新撰組背負うんだろ。ここで死ぬな」
「の、のむら…なにを…」
何を言うんだ。
まるで、
まるでそれじゃあ、お前だけ、死ぬみたいじゃないか。
すると野村は相馬の左手を取り、素早くその甲に口付けた。
「…っ…」
「死ぬなよ」
相馬が言葉を理解する前に、野村が前へ躍り出た。そして手近な敵から斬り倒していく。
(野村…っ)
野村は囮になったつもりなのだろう。彼が敵に向かっていく姿は、最新鋭の武器を目の前にしても怖気づくことはない。馬鹿正直で、まっすぐで、まるで浅黄色の羽織を肩にかけているかのようで。

「だ…だめだ…!いくな…!」
相馬はようやく絞り出せた声で叫ぶ。しかしそれは間に合わない。彼の耳には届いていない。
ガトリング機関銃の照準が、野村へと定まって――

耳鳴りのように、木魂した弾丸の音が、野村の身体を貫いた。

そして同じタイミングで船が大きく揺れた。敵味方がそのバランスを崩す中、銃弾に貫かれた野村の身体が海の方へ投げ出される。
「野村っ!」
相馬はすべての危険を放棄して、咄嗟にその手を掴んだ。『甲鉄』の甲板から身体を乗り出して、手のひら一つで、野村を繋ぎとめる。
「…手、離せ」
血まみれの野村が、薄れゆく意識の中で、相馬にそう言った。穏やかに、子供に言い聞かせるように。
しかし相馬は首を横に振った。手を離したら、このまま海に落ちる。
それは野村との別れを指す。
「嫌だ…っ 絶対に、離さない…!」
「…馬鹿だなあ。それじゃ…お前も意味が、ねえだろうよ…」
血まみれの手を、野村は離そうとした。だが、相馬は強く掴んだまま、離さなかった。
そうしていると、一発の弾丸が相馬を貫いた。ガトリング機関砲ではなく、当たったのは足だったので野村を支えるには支障は無いが、力が入らなくなってしまう。
「く…っ」
せめてもう少し…と耐える相馬に答えるかのように、船は再び大きく揺れる。敵兵も体勢を崩すなか、相馬の身体も、海へと投げ飛ばされそうになる。だがもう片方の手で鉄格子を掴み、どうにか耐えて野村の手を握りなおした。
「相馬…離せって…お前まで、死ぬ…」
「…生きる時も…死ぬ時も、一緒だって……お前が、言ったんだ…!責任、とれよっ」
「…はは…なるほど…そうだな……」
口調は穏やかだが、野村は息苦しそうだ。ガトリング機関砲で撃たれた場所がどこなのか相馬にはわからない。足なのか、腕なのか…致命傷になるような、場所なのか。
だが、野村が既に諦めているのだと、相馬は思った。だから、叫んだ。彼に生きていてほしくて、彼に諦めてほしくなくて、声の限りに叫んだ。
ずっと伝えたかったことを。
「ちゃんと、お前のことが好きだから…ッ!だから、生きろよ…!」
ガンガンに自分の頭に鳴り響く。
こんな時に言うことになるなんて、思わなかった。けれど、伝えたかった。彼と一緒に生きたいのだという気持ちを、叫びたかった。
相馬の言葉に、野村の目が驚いたように大きく開いた。そして
「は…すげえ、嬉しい…」
笑う。いつも以上に嬉しそうな彼の笑顔で笑う。あどけない顔がそこにある。
(ああ、もっと…)
もっと早く言えばよかった。彼がこんな風に笑ってくれるなら、何も躊躇うことはなかったんだ。
野村は曇りのない瞳を、相馬へ向けた。
「相馬…ありがとうな」
「…のむ…」
「俺と出会って…くれて、俺と一緒にいてくれて……俺のこと、好きになってくれて…さ。俺、たぶん…」
海風が強くなる。
どくどくと相馬の鼓動が加速する。
「たぶん…すげえ…幸せなまま、いけるから。だから…もう一つ…許して」
波が押す。
相馬が繋ぐ野村の手と、反対の手が相馬のもとへ伸びた。そしてその手には刀の装飾である小柄が握られていて、
「約束破って、ごめんな」
という言葉とともに、野村が最後の力を振り絞るように、小柄を相馬の手の甲に突き刺した。
ちくりとした痛みが走るとともに、相馬の手から一瞬力が抜けた。そしてその一瞬に相馬は悟る。野村が、断ち切ったのだと。
「野村ぁぁぁぁぁ―――――――――ッ」
相馬は身を乗り出して叫ぶ。声を枯らすほど名前を呼んだ。
でも思いとは裏腹に、野村の姿が小さくなって、そして暗く、青い海に、溶けた。一瞬の、泡のように。

波が彼を攫って、また『甲鉄』を大きく揺らした。
「あ…あぁ…ぁ……」
(何が…起きたんだ…)
まるで何が起きたのか、相馬にはわからなかった。いや、分かっているのに、わからなかった。これが夢なのか現なのか…それさえも。ただ、いま、この一瞬に何かがすっぽりと無くなってしまったのだと、それしかわからなかった。
(野村が…いなく、なった…)
呆然とする頭で、相馬はふらりと海を覗き込んだ。
(だったら…俺も…)
共に生きようと言った。
死ぬときは、一緒だとも、言った。
(だったら…)
だったら、ここで一緒に落ちれば…彼の所へ間違いなく行けるのではないだろうか。
彼と一緒に青に溶ければ…。
「…相馬…ッ」
名を呼ばれて、相馬は身体を固くした。そして何度となく大きく揺れた隙に、退却用のロープが相馬の目の前に落とされた。相馬を呼んだのは土方だった。
「掴まれ…っ、頼むから…!」
おそらく一部始終を見ていたのだろう。そう叫ぶ姿に、
(はは…鬼の副長らしくない…)
と心を切り離して、相馬は思った。高々、一兵士。鬼副長だったらそんなに動揺することもないはずなのに。
そして無心に弾丸で貫かれた足を引き摺って、相馬はそのロープを両手で握った。
離さないように強く握った。
いまはまだ何も、上手く理解できない。けれど、一つだけ、たった一つだけわかっていることがあった。
(俺が…離したんだ…)
紛れもなく、偽りなく…野村の最後の幕を下ろしたのは自分自身だということ。
その感触も、温かさも…またこの手に残っているというのに。

目から一筋の涙が、零れた。
そしてその滴も、青の一つとなった。

























お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
後半は駆け足の更新とはなりましたが、5月中完結のはずが、8月までお待たせしまして本当にすみません。でも結果から見れば、この第2部のお話を1か月は無理だったなと思ったりもします…。
第1部は近藤の死に纏わる後悔と懺悔…相馬と野村の再生のお話でしたが、第2部は相馬が主人公の恋のお話です。そしてこれから大切なものを失った人たちが、どう生きていくのか。そのあたりを第3部で書ききって、ソラカナタを完結させていきたいと思います。
来年の慰霊展までお待ちいただければありがたいです。どうぞよろしくお願いいたします。
ひとまず、最後までありがとうございました。
ご感想等お寄せいただければ、とっても嬉しいです。
2014.08.09
榊マユリ









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