ソラカナタ 第3部




幾度となくうちよせる波。
冬の冷たい海は、足の指先に触れるだけでまるで氷のように冷たい。
ふと足を止めて、何気なくその場に腰を下ろす。海の先…地平線の向こうを見ようとして、でも見えなくて俯いた。
そして俯いた先にあった細かい粒子状の砂に、何気なく指を立てて、線を引く。
絵でもない、文字でもない。ただ心の赴くままに指先を遊ばせる。まるで子供のように、意味もなく、無心に。
すると、突然大きな波がうちよせてきて、足首まで濡らした。そしてその波は砂を平らに戻してしまう。
指の痕ひとつない。
一瞬で掻き消される。
波が攫って行く。まるでそこに何もなかったかのように真っ白に戻す。
(あの時と同じだ…)
そんな風に思って、胸が締め付けられ、目を閉じた。痛みをこらえる為に縋った真っ暗な瞼の奥で、しかし思い出したくもない光景が勝手に浮かんできた。
ガトリング砲の無機質な発射音。木霊する仲間たちの悲鳴。そして、
「…っ…く、…!」
海に消えた彼のことを。
もう涙は出てこない。枯れてしまったのだ。しかし代わりに襲ってくるのはこんな息切れだ。まるでまだあの場所にいて、銃で撃たれ続けるような衝撃と、後悔ばかりを繰り返す縛り付けた縄のような感覚が身体が残っている。
息を荒げるそのなかで、うっすらと開いた瞳が右手の甲に残った痕を恨めしく睨みつけた。
『約束破って、ごめんな』
彼はそういって、この甲に小柄を突き立てた。そして一瞬だけ気を取られた隙に、彼はこの手を離して、青に落ちた。自分から、それを望んだ。
(いや…あいつのせいじゃない)
仕方なかったんだ…そう自分を慰めることはできない。
掴んでいられなかった。守ってやれなかった。助けてやれなかった…すべて、自分のせいだ。
この手を離さなければ、失うこともなかったはずなのに。こんな悲しみを味わうことはなかったのに。
どうしようもないとわかっていても、やるせない気持ちだけが残っている。
身体の力が抜けて、両膝を海に向かい合うようについた。彼を奪った青をただ力なく見つめる。
この青の中に彼がいるはずだ。
この青の中に彼が生きているはずだ。
(青…)
皮肉なものだ。
かつて自分の人生で一番誇らしいと思った色が、彼を奪ってしまったなんて。



明治二年三月。のちに宮古湾海戦と呼ばれることになる、新政府軍軍艦・甲鉄(ストーンウォール)奪取作戦(アボルダージュ)は、旧幕府軍の目論みから大きく外れ、甚大な被害を齎した。原因は天候悪化により接舷に向かない『回天』で作戦を決行したこと、また突入口との高低差があり、旧幕府側の兵士の投入が遅れたこと…と様々あったが、開戦早々、新政府軍との兵力の圧倒的な戦力差は明らかであった。
形勢不利と見た荒井郁之助が作戦中止を決め、『回天』は宮古湾を離脱した。わずか三十分ほどの出来事であったという。
しかしそれだけに留まらず、新政府軍により追撃を打許し、機関故障を起こしていた『高雄』は『甲鉄』と『春日』により捕捉。乗組員は田野畑村付近に上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降した。
結果は惨敗と言えた。

殴り書きのような手紙に目を通した伊庭は、大きなため息をついた。隣にいた本山にその手紙を投げるように渡し、自分は椅子から立ち上がり窓辺から外を見る。もう四月だというのに、雪が降り続いていた。
「甲賀艦長が戦死…か」
本山は寂しげにつぶやいて続けた。
「接舷予定だった『蟠竜』と『高雄』の機械故障が痛かったな…」
「ただでさえ頼みにしていた『開陽』を失い、『甲鉄』も奪取できないとなれば、もう海軍は頼りにならない。今回のことは自ら墓穴を掘ったような結果になってしまった」
「…」
伊庭の指摘に本山は二の句が継げない。数少ない勝利への活路をこの作戦で見出しつつあったが、この失敗でさらにその道は狭まってしまったのだ。
本山は手紙を折りたたんで机に置き、窓辺に立つ伊庭の隣にやってきた。
「…野村が死んだそうだな」
「ああ…『回天』の離脱に間に合わなかったのだろう。相馬も怪我をしているらしい」
伊庭は「くそ」と悔しげに呟いた。
「あの作戦を聞いた時点で嫌な予感はしていた。希望的観測ばかりで、無謀で…失敗した時の危険が大きすぎたんだ」
「八郎、終わったことを言っても仕方ないだろう」
「終わったことなどと簡単に言えるものか!」
伊庭は声を荒げた。
「『高雄』を失い、百名以上の兵士を投降させ、仲間が死んだ。敵はこの雪の先に今か今かと開戦を迫っている。この状況で敵討ちも出来ず、のうのうと雪解けを待つのが、どれだけ苛々するか!」
伊庭は苛立ちを吐き捨て、片方しかない拳を強く握りしめた。しかし本山は穏やかに
「落ち着けよ」
と返答した。
「開戦は遠い先の話ではない。振り返る暇が在ったらこの先のことを考えろ…いつものお前なら、そういうだろう」
先の尖った鋭利な苛立ちが、穏やかな本山の慰めによって少しだけその影を潜める。しかし伊庭には
「わかってる…」
と力なく返答するので精一杯だった。
本山はきっとわかっているのだろう。伊庭が苛立ちで、悲しみや後悔を誤魔化しているということを。分かりすぎるくらいに、分かっているのだろう。
「なあ…」
「何?」
雪が風と舞い、目の前を真っ白にする。
「どうせ死ぬのなら…あいつらは一緒に死ねた方が…良かっただろうか」
この真っ白な世界で、この先いったい何が起こるのだろう。勝利を願ってやまないのに、何故だろう、思い浮かぶのはあまり良い未来とは言えない。
そんな場所に一人で残されるくらいなら、一緒に死にたかったと…相馬は今、そんなことを思っているのではないだろうか。
二人がどのように別れたのかはわからないが、いつ、どんな時であったとしても、納得できる最期なんてない。
(俺だって…同じだ)
遺されるのも、残していくのも…どちらも嫌だ。
だから怖い。
「八郎…大丈夫だ」
肩を抱いた幼馴染が耳元で優しく鼓膜を撫でる。
「俺はお前を残していったりしない」
どこへも。
どこにも。
重くて、甘くて、穏やかな誓い。
(ずるいな…)
伊庭は内心苦笑する。彼にそう言ってほしかったから、こんな弱気なセリフを吐いているのだと、誰よりも自分が良く知っていたからだ。
本当は野村と相馬の残酷な別れを目の前にして、いつか自分たちにもそんな運命が訪れるのではないかと…それが、怖かったのだ。
けれどそれを口にしてしまうと、それが本当になってしまいそうで。
だからかわりに別の言葉を口にする。
「小太…寒い」
もっと強く抱きしめろ。
そんな言葉で誤魔化した。



雪が解け始め、春の海はその色を少しずつ変え始めた。
例え自分がそこに立ち止まっていたとしても、時間は経ち、季節は移ろう。出歩くのも億劫だった寒さは、時を経て和らいでいく。
時が傷を癒してくれる、と誰かが言った。それは先輩の島田だったか、古参隊士の尾関だったか、もしくは憧れの土方だったか…覚えていない。「そんなものだろうか」とその時は思ったが、しかしいまだにこの傷は塞がることなく、傷み、膿みつづけている。だからまだ、この痛みを時が治してくれるのかわからない。
深い傷が未だに相馬を苦しめる一方で、だが、もう一つの感情が生れていた。
(何をしているんだ、俺は…)
俯瞰する自分が、いい加減にしろと自分を責める。
『お前は次期、新撰組の隊長で』
『こんなところでのんびり悲しみに浸っている暇などないはずだ』
『まだ戦争の最中だ――』
(そうだ…そうなんだよ…)
戦は終わっていない。たとえ結果が見えていたとしても、まだ戦わなければならない。この足を踏み出して、この手に刀を握り、目の間に立ちふさがる敵を斬らなければならない。
「そうなんだ…」
頭は理解している。ただ、動かないのは、身体と…
「あ、ここにいた!」
相馬の思考を遮る様に、明るい声が聞こえた。砂浜に駆けてくる青年…よりは少年と言った方が良い彼は、それでも立派な新撰組隊士だ。
「市村君…」
「探しましたよ!五稜郭で土方先生が待ってます!」
まだ十五だという彼は、これからが育ち盛りなのかまだ背丈も低く、新撰組でも浮いた存在だ。新撰組が幕臣に取り立てられた頃、兄とともに入隊した。兄は江戸で脱走をしたが、弟である彼は新撰組に残った。土方の傍に侍る田村とも年が近く、底抜けの明るさと幼さ故か、隊士たちに可愛がられている。
「…すぐに行く。先に戻っていてくれ」
しかし、今の相馬にとっては彼の明るさが苦しかった。彼の明るさに答えられない自分がもどかしく、また彼がかつての野村に重なって見えたからだ。
だが、市村は邪気のない明るさで続けた。
「ダメです。相馬さんと一緒に戻ってくるように、と土方先生からの言いつけですから」
「…」
残念ながら土方附きの市村は相馬の思うようにはしてくれないようだ。相馬は軽くため息をついた。
「…わかった、行こう」
「はい!」
市村は頷いて、先んじて歩き出す。
相馬は歩き始める前に、海を一瞥した。
(…また、来る)
心の中で語りかける。その海の先に野村がいるような気がした。

久々に足を踏み入れた五稜郭はバタバタと忙しない様子だった。雪が解け、新政府軍の総攻撃も近い…新撰組にも流れている憶測だが、どうやらそれも本当らしい。
市村と共にやってきた土方の部屋で、軽くノックをする。すると土方の返答が聞こえてきたので、市村がドアを開いた。
「土方先生、遅くなりました。相馬さんをお連れしました」
市村に促され、相馬も部屋に入る。あれ以来まともに顔を見ることが無かった土方が、椅子に腰かけて座っていた。
(だいぶ…お疲れのご様子だ)
相馬はすぐに気が付いた。多くの戦力と戦艦を失った旧幕府軍。いくら軍神と崇められる土方でも、形勢逆転の策を練るのは難しいのだろう。
「相馬、ここに座れ。…市村は席を外せ」
土方の命令に、市村は少し不満げだったが「わかりました」と部屋を出て行く。相馬は躊躇いつつも、土方に従って目の前の椅子に座った。
しかし、土方は相馬を傍らに座らせたまま、何も話そうとはしない。五稜郭周辺の地図に目を向けて黙ったままだ。
「用件…は…」
相馬が切り出すと、土方は「ああ」と、だが気のない返事をして、少し言いづらそうに話し始めた。
「総司がな…」
「…沖田先生が?」
土方は唐突に口にする。ここにはいない人の名前。もういなくなった人の名前。野村と同じ場所に行ってしまった人の名前。
しかし土方は、それをまるで昨日聞いたかのように懐かしく話す。
「あの宮古湾へ向かう前の夜だ…俺の夢に出てきた。いつもの懐かしい頃の思い出かと思ったが…あの日は違った」
「違った…といいますと…」
「俺を引き留めた」
「…」
相馬の呆然とした顔をみて、土方は「ふっ」と苦笑した表情で息を漏らした。
「所詮、夢の話だ。戯言だと思ってくれればいい…ただ、俺の印象に残っていただけだ。だが、もしあの時あいつの言うことを聞いていたら…と、考えなかったと言えば、嘘になる」
「…そう、ですか…」
土方らしくない現実味のないことではあるが、しかし、もしかしたら、本当の言付けだったのかもしれない。
結果から言えば、宮古湾での戦は完全な負け戦だった。不運が重なり過ぎた戦は、あっけなく負けて、あっけなく人が死んでいった。退却さえできなかった戦艦が、そのまま港へ向かい降伏したという話も耳にした。何の得もない戦だったのだ。
(それでも…俺たちは、何もしないではいられなかった)
だから、きっとその話を事前に聞いていたとしても、この戦に突き進んでいったことだろう。
すると、土方が椅子から立ち、そのまま傍の窓辺に足を向けた。
「…相馬、野村は自分で落ちたのだろう?」
「っ!」
淡々とした土方の物言い。しかしその言葉で、自分のなかにカッと熱が宿った。
誰も触れなかった、誰も語ろうとしなかった、誰も訊ねなかったあの瞬間――それは思い出すだけで、あの場面に戻る感覚が残っている。
頭を砕くかのようなガトリング砲の破裂音。大きな波に揺れる船。投げ飛ばされた野村の身体。
「あ…あいつは…、自分から、飛び出して…行きました」
喉が、舌が、唇が、声が、身体中が震えていた。
相馬は咄嗟に右手の甲に、左手の手のひらを重ねた。野村が突き立てた小柄の痕が、疼いた気がした。
「…ガトリング砲の…的を、自分の方に向けるために…!」
(俺を逃がすために)
そして身体中を撃ち抜かれた野村は、船体が揺れるのと同時に海に投げ出されそうになった。相馬はすべてを擲って彼の手を掴み、落とさないようにと必死に掴んだ。
あの時、相馬は自分が死ぬことを考えていなかった。ただただ、野村を助けなければならないと思い、一心不乱に彼の身体を繋ぎとめた。
けれど、野村は。
「俺が見たのは、そのあとくらいだ。お前がつないだ手を、あいつは自分で離した…そうだろう?」
「……ご存知、でしたか」
「ああ…」
その場に居た者はほとんど戦死している。その為野村の死は乗り移った甲鉄で勇敢に戦った、戦死として伝わっている。野村が相馬の手を自ら離し、海に落ちたことを知る者はいない。
野村の最期を知っているのは、二人だけということだ。
土方は窓を外を見続けていた。積もった雪が解け、土と混じり濁った色になっている。
しかし、相馬はその場で俯いた。
「…土方先生がなにをおっしゃりたいのか、わかっています。野村は自分で落ちた、俺を救うために落ちた…だから、俺は野村の分まで生きなければならない、戦わなければならない…俺にはその責任がある。野村だってそれを望んでいる。…そうおっしゃりたいのでしょう」
「…」
土方は何も答えない。外の景色に目を向けたまま、その唇を開くこともない。
何も答えてはくれない。
「でも、無理です…!」
相馬はまるで吐き出す様に叫んだ。
「俺だって、何度もそう言って、自分で自分を奮い立たせようとした!…でも、わからないんです。野村の分までって、なんですか?あいつが生きたかった分を生きるって、どうやって生きればいいんですか?!」
それを、教えてくれるのは野村しかいない。だから、ここで土方に怒りや苛立ちをぶつけても何の意味もない。この人は答えを持っているわけではない。
そんなのはわかっている。
でも野村の最期を見た土方なら、何かを示してくれるのではないか。
同じような想いをした土方なら、この気持ちを理解してくれるのではないか。
そんな期待をした。
しかし、土方はやはり何も答えなかった。まるで聞こえていないかのように、涼しい顔を崩すこともなかった。
だから、誰にも打ち明けなかった、口にするつもりもなかった本音を、漏らしてしまった。
「こんなに苦しいくらいなら、あの時一緒に落ちれば良かったんだ…!」
あの極寒の海の中。
一人で落ちてしまうなら、二人の方がまだ良かったかもしれない。
この想いは、助け出された後、ずっとこの胸の中にあった。野村と一緒に死ぬことを選べなかった自分が、情けなくて悔しくて…殺してしまいたいほど憎かった。
すると土方がようやく窓の外に向けていた視線を、項垂れた相馬の方に向ける。そして一、二歩近寄り、そっと震える相馬の肩に手を置いた。
「…無謀な戦を起こしてしまった責任は痛感している。嵐で回天しか接舷できないと分かった時に引き返せば良かった…公開もしている。だから、野村が死んだのも、沢山の兵が死んだのも、指揮官である俺の責だとわかっている。だが…俺は、お前を助けたことを後悔などしていない」
「…」
あの時。
野村がいなくなり、突然の絶望に打ちひしがれる中、ロープを垂らしそれに捕まる様に懇願したのは土方だった。生き長らえさせたのは、彼だった。
死ねばよかった。助かりたくなかった。
相馬のその言葉は、きっと助けた側の土方の心を抉ったことだろう。
けれど、相馬には謝ることはできなかった。表面的な謝罪を口にすることはできるけれど
(でも…今の自分は、本心から助かったことを喜べていない…)
土方の行動を認めてはいない。有難かったと受け取ることができない。生きていて良かったと思うことができない…。
俯いたままの相馬を、土方は責めなかった。肩に置いた手を離し、「話はそれだけだ」と告げた。
相馬は力なく立ち上がり、
「失礼します…」
と告げて部屋を出ようとした。しかし、ふと足を止めて振り返った。
「土方先生…」
「何だ」
淡々とした土方には、やはり疲労の影がある。しかし相馬は思い直した。
(疲労じゃない…)
責任は痛感している。
俺の責だとわかっている。
土方は生き残った指揮官としてその責任を一身に引き受けようとしている。疲労の奥に悲嘆に暮れる彼の暗い感情が見えた気がした。
「…俺は、土方先生を憎んでいるわけではありません」
「…」
「俺は、俺自身が…許せない、だけです」
その言葉に偽りはない。土方を気遣って、嘘を付く余裕などいまの相馬にはない。
すると土方は
「そうか…」
とだけ呟いた。
相馬は振り返ることなく、部屋を出た。重い扉を閉めて、深く深く息を吐いた。
「久しぶりだ…」
自分の気持ちを暴露して、叫んだのは。
少なくとも京にいた頃の自分なら、上司である土方の前で感情を爆発することなどありえなかっただろう。自分は土方とそんなに距離の近い隊士ではなかったし、土方は自分にとっては孤高で、厳かで…そして少し怖い存在だった。
ついこの間まではそう思っていたのに…と、そんなことを考えていると、向かいから人影が近づいてきた。
「…島田先輩」
「よぉ」
手を挙げて島田は相馬の前で足を止めた。島田とも宮古湾から帰還して以来、顔を合わせていない。
「どうも…ご心配をおかけして申し訳ありません」
相馬は一礼した。隊士たちの面倒見の良い島田が、敢えて相馬と距離を取っているのは気を遣ってのことだろう。
「土方先生に用事ですか?いま、部屋にいらっしゃいますよ」
「ああ…いや、俺はお前を探していたんだ。市村から土方先生の所へ向かったと聞いてな」
島田は真っ直ぐに相馬を見つめた。
「お前、この先どうするつもりだ?」
「この先…とは」
「新政府軍は宮古湾の一件で勢いに乗ったらしい。今日明日にも上陸しようかという話だ。…土方先生から何も聞いていないのか?」
聞いていない。
むしろ土方はそんな切羽詰まった様子を、微塵も見せなかった。
相馬が何も答えないでいると、島田は顔を顰めた。
「新撰組の隊長として、お前には俺たちを率いてもらわなければならない。…正直に言わせてもらえれば、今のお前にその能力と気持ちがあるのか、俺には疑問だ」
「…同感です」
自分のことは、自分がよくわかっている。
こんな状況で部下である隊士たちの命を預かり、先陣を切って戦うことなどできない。
(この場所にいてもいいのかさえ、わからない…)
自分の存在は士気を下げてしまう。島田に言われなくともよくわかっていた。
すると、島田は「はぁ」と大きくため息をついて続けた。
「…だが、土方先生は頑としてお前を隊長から外すつもりはないということだ」
「え?…何故…」
「知らん。お前には悪いと思ったが俺は何度も相馬を外す様にお願いしてきたが、先生は理由を語らないんだ」
「…」
土方の信頼。
『お前なら新撰組を守れる』
あの時の言葉を、その時の自分は喜んで受け取った。紆余曲折あったものの、是非務めさせてほしいと願った。
だが、今は違う。
(今は…重すぎる…)
困った表情のままの島田に、相馬はもう一度頭を下げた。
「…俺からお願いして、外してもらいます。島田先輩のお手を煩わせるようなことは致しません」
「そうか…」
「失礼します」
相馬は島田との話を切り上げて、通り過ぎる。
「相馬!」
すると島田から声がかかった。相馬は振り向くことなく立ち止まった。
「これでいいのか?」
島田の問い。
そんなのは、とっくに自分にも問いかけていたが、しかし人から言われると、その意味は違って聞こえた。
これでいいわけないだろう。
そう問いただす様に聞こえた。
だが、相馬は何も答えずに、止めた歩みを再び進めた。
島田はもう何も言わなかった。






相馬が出て行ったあと、部屋に残された土方はしばらくはぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
『こんなに苦しいくらいなら、あの時一緒に落ちれば良かったんだ…!』
いつもは冷静沈着な相馬が、自分の前ですら理性を保てずにそう叫んだ。今にも崩れてしまいそうな身体を、どうにか気力だけで支える彼の姿は、痛々しくて、そしてかつての自分に重なった。
いつだって自分は残されてきた。
近藤が斬首され、総司は病に侵された。かつての仲間の消息はなく、いま自分は北の大地に居る。そのことが酷く滑稽に想えて仕方なかった。
どうせなら一緒に死にたかった。
同じ刀に首を落とされて、同じ病に身体を蝕まれて死にたかった。そうできればどんなに楽だったことか。落ちる場所が地獄だとしても、生き地獄の方がつらいときだってある。
…けれど土方は楽な道は選ばなかった。この道が悲しくて寂しくて仕方ないのだと分かっていても、生き続けると言う選択をした。その理由を相馬に聞かせてやれば良かったのかもしれない。けれど。
(俺にだって…そんなものはわからない)
何故いまここに在るのか。
そんな簡単な問いに、答えさえ持っていない。
不思議なくらい理由がわからない。
土方は二、三歩歩いて椅子に座った。そして手近にあったワイングラスに手をのばし赤い酒を注ぐ。普段は嗜まないそれを一気に飲み干した。
異国かぶれの榎本はいつも満足げに口にするが、土方には決して美味いとは思えない。
「…馬鹿だな…」
何故いまここに在るのか。
何故生きているのか。
その理由もわからないまま生きているこの身体は、きっと屍と同じなのだろう。だとしたら、この身に宿る魂はない。きっと魂は総司が死んだ、あの日に土方の元から旅立ったのだ。
「総司…」
その名前を久々に口にして、身体の力が抜けるような気持ちになった。急に目尻が熱くなり、土方の中の何かが一気に崩れてしまいそうだった。
きっといま慈雨bんは、相馬の気持ちに引き摺られている。『半身』を失った者同士が引き寄せられている…わかっていても、あの別れの日のことを思いだしてしまった。思い出したところであの時間には戻れないし、自分の心を傷つけるだけだと分かっているのに。
瘡蓋を剥がして、傷口を確かめる。そしてそこから溢れる血を目に焼き付けるように―――。



俺が総司の元を訊ねたのは五月晴れの心地よいある日のことだった。
総司は幕府御典医でもあり、新撰組の主治医であった松本良順先生から紹介された植木屋平五郎宅で療養を続けていた。薩長の中には新撰組を憎んでいる者も多い。そんな奴らに総司の場所が知られるわけにはいかないので、彼の居場所を知る者はごくわずかだ。
植木屋平五郎宅の周辺は戦の喧騒のない、静かな場所だった。連戦の戦や京の賑わいに慣れた俺からすれば静かすぎる場所で、まるで江戸にいるような雰囲気はない。しかしひとまずは薩長の連中の姿もないようなので、安心した。
(総司まで…捕まるわけにはいかない…)
新撰組は甲陽鎮撫隊へと名前を変えて流山に布陣した。新しい隊士も加えて大所帯となり、ここから形勢逆転をはかろう…そんな風に高揚していた気持ちはあっさりとへし折られた。
流山はいつの間にか新政府軍に取り囲まれていたのだ。さらに調練へ行かせていたため、隊士の数はごくわずかで対抗できる戦力もない。
『俺が行こう』
どうにか近藤さんだけでも逃げ延びてほしいと願う俺に対して、近藤さんはそう言って聞かなかった。珍しく意固地になっていたのは、覚悟を決めていたからかもしれない。
俺は諦めて、近藤さんに大久保大和と名乗るように言い聞かせて見送った。その姿が露見すれば死は免れない…綱渡りのような選択だが、そうするしか方法はなかったのだと今ならわかる。
そして俺は単独で江戸へと潜入し、勝海舟先生のもとへと向かった。江戸城無血開城を果たし、薩長の奴らに顔が聞く勝先生なら近藤さんを奪還することも可能かもしれないと思ったからだ。勝先生は俺の懇願に応じ、釈放の嘆願書をしたためてくれた。けれど、
『期待はするな』
と釘を刺された。勝先生の鶴の一声があったとしても、それは『大久保大和を助けるべし』ということであって、新撰組の近藤勇を救うことはできないのだ。
分かっていたとは言え、心を挫かれたのは否めない。俺は心の奥底で期待をしていたのだ。勝先生なら近藤さんを助けられる、どうにか方法はあるはずだ、そして俺たちはまた元通りに一緒に戦って生きることができる…そう信じていた。けれど勝の重い一言ですべてが幻の夢なのだと気づかされた。
その折れた心を抱えた俺は、自然と総司の元を訪ねていた。もちろん総司は近藤さんが捕まったことなど知らない。知られるわけにはいかない。あいつは知ればきっと怒るだろう。下手したら俺よりも、近藤さんに対する親愛の情は深いのだ。
俺は植木屋平五郎宅の裏口へと回った。新撰組の土方が表から堂々と訊ねるわけにはいかないので、使用人のみが利用する小さな扉を開けて、周囲の様子を窺いつつ腰を屈める。そしてなかに入ると庭があるので、木の葉を掻き分けて進むと縁側に誰かが座っているのが見えた。
「…なんだ、土方さんか。ちゃんと玄関から入ってきてくださいよ」
総司は穏やかに笑った。俺を盗人か何かだと思ったのか刀を手にしていたので、とっさの判断はまだ衰えていないようだ。俺は少し安堵の笑みをこぼしつつ、
「元気そうだな」
と声をかけた。しかしそれは嘘だった。
近づいてみると、思っていた以上に総司の体は痩せ細っている。俺の目にはまるで一回り以上小さくなったようには見えた。もちろん、そんなことは総司は認めない。
「ええ、元気ですよ」
彼もまた嘘を付いた。
「土方さんの方はお疲れみたいですね。…どうしたんですか。この辺りに用事でもあるんですか?」
総司の質問に俺はドキリとさせられた。その用事など語れるわけがない。
「…用事はもう済ませてきた」
不自然なほどに、俺は低い声で返答していた。さすがの俺でも近藤さんのいまの状況を背負って、『何も用事はない』とは言えなかったのだ。
だが、総司は何かを察したのかそれ以上の追及はしなかった。戦場を離れた自分には理解できない事情だ…そういう諦めがあったのかもしれない。
すると、総司の膝で昼寝をしていた黒猫が「にゃあん」と寂しげに鳴いた。俺の登場が邪魔だったのだろうか、起き上がるとそのまま去って行った。
「黒猫か…」
黒猫は不吉だと聞く。その不吉が総司を連れて行ってしまうのだろうか…そう思うと、猫を追い払ってやりたい気持ちになった。
しかし総司はケロリと
「友達です」
と茶化して答えた。黒猫が不吉だとは知っているだろうが、そのあまりに拍子抜けする答えに俺は「そうか」と笑ってしまった。そのおかげか強張った緊張が少し解れた気がした。
俺は総司の隣に腰掛けた。そして総司の右手を掴んだ。細くて冷たい指先だ。このまま強く握りしめたら、折れてしまいそうなほどに儚い。
「…土方さん?」
俺の手のひらは少し汗ばんでいた。彼は気が付いただろうか。
「総司…」
そして反対の手で、総司の頬に触れる。引き寄せるようにして、彼と唇を重ねた。生ぬるい感触に懐かしさを覚え、彼が生きていることを実感した。
…何故だろう。
それが、涙が溢れそうなほどに嬉しかった。
(おかしいな…)
誰も死んでなんかいない。近藤さんだってまだ生きているはずだ。総司だって目の前で息をしているじゃないか。
(なのにどうして…こんなにも胸を締め付けられるのだろう…)
「……うつります」
総司は俺の胸板を押して離れた。労咳は伝染を恐れ、隔離される病だ。俺に移ることを気兼ねしているのだろう。
(そんなことを気にしなくてもいい)
その言葉は何度も彼に伝えたけれど、わかっていないようだ。
俺は不意に空を見上げた。
晴れ渡る空のもと、すべてを吐露して、彼に弱音を聞いてほしいと思っていたけれど、すっかり細く小さくなってしまった彼に俺の感情まで背負わせるべきではないだろう。
本当は何も伝えるべきではない…けれど、別れさえ口にしない訳にはいかなかった。
「会津へ行く」
俺は視線を戻して、ポツリと呟いた。
近藤さんを投降させてでも戦い続ける道を選んだのは、かつての主君である会津の元で戦うべしという近藤さんの意思を引き継ぐためだ。会津藩には返しきれないほどの恩がある。その恩に報いるのは当然であり、俺もゆくゆくは会津へ向かうつもりだった。
けれどそれは総司を置いていくということでもある。
「会津…?」
「だからしばらくは会えない」
俺はできるだけ淡々と伝えたつもりだが、総司の落胆は明らかだった。病の療養とはいってもいつだって駆けつけられる江戸にいたのに、今度こそ離れ離れになる。
けれど、俺はまだ最後の別れだなんて思っていない。総司は死なない…病に伏せっていてもいつかは治るに違いない。いくらなんでも、俺の大切な二人を、二人とも奪って行ったりしないはずだ。
「土方さん…」
総司は俺の袖を引いて顔を埋めた。そしてしばらくそのままじいっとしていたが離れた。彼が何を考えていたのかなんてわからない。けれど、とても悲しく寂しそうな顔をしていた。まるで俺が近藤さんを見送った時のような。
「土方さん…私も連れて行ってください」
そして絞り出すように願った。その言葉に俺の心は揺れた。
(連れていけるものなら…)
連れて行きたいに決まっている。こんな静かな場所でたった一人にしたくない。いつだって総司の周りには人がいた。その輪から外れていまこんなにも寂しげにしているというのに。
けれど、どうしても、現実から逃げることだけはできない。
「…ダメだ」
死ぬわけはない。病は治る…それは夢だ。今、この瞬間にでも総司が死ぬかもしれないと、俺が一番わかっている。だからこそ、一瞬でも多く生きていてほしい…それは彼をつれて行きたいと願い気持ちと同じくらいに、切実な望みでもあるのだ。
「…そう、ですよね」
睫毛を伏せた総司を、俺はもう一度僕を引き寄せた。背中に腕を回して、痛いほどに強く抱きしめる。覚えておくように、刻み付けるように、強く、強く抱きしめる。
「総司…愛してる」
耳元で囁くこの言葉を、もう誰にも言うことはない。
そしてもしかしたら、もう二度と口にすることもないのかもしれない。
俺はいつまでもこうして抱きしめていたいと思う気持ちを突き放すように、総司から離れた。そして背中を向けて
「じゃあな」
と敢えて素っ気なく言った。
そして元来た道を戻る。総司の返答を待たずに、木の葉を掻き分けて裏口から逃げるように出た。
治るはずだ。
治るはずがない。
また会えるはずだ。
もう会えるはずがない。
相反する気持ちが、俺の中に渦巻いていた。





まだ冬が鎮座する四月、新政府軍がついに乙部に上陸を果たした。
その知らせを聞いたとき土方は
「意外だったな」
と思わず漏らした。
「上陸を阻止するために応戦したものの阻止できずに、松前まで撤退したそうです。情けないことです!」
報告にやってきた市村は熱くなり感情を爆発させていた。しかし土方は苦笑した。
「そう言うな。誰もあちらから上陸するとは思っていなかった。新政府軍を警戒して台場を構築していた内浦湾側でなく、日本海側からの上陸するなんてな…」
「それはそうですが、敵はあまりに我々の裏をかいています!」
「どこかから情報が漏れているんだろうな」
「もう、土方先生!どうしてそんなにも冷静なんです!」
まだ十五と若い市村は、報告を聞いても特に驚きもしない土方の反応に痺れを切らしているようだ。しかし、土方は幾度となくこのような戦を経験してきた。攻め込まれて不利に陥ったとしても、慌てふためくようなことはない。
「…おそらくは出陣になるだろう。榎本総裁と話をしてくる」
「わ、わかりました…」
市村はまだ不満を言い足りない顔をしていたが、それでも「失礼しました」と謝って部屋を出て行った。まだ若いが、いざとなれば機転がきく賢さがある。きっと新しい時代でも生きて行けるだろうが、この戦争はその若芽を摘んでしまうことになるのだろうか。
そんなことを思いながら、土方は掛けていた上着を羽織った。着慣れた洋服だが、戦の前になるこれが浅黄色の羽織のように思える。
堂々と誇らしく青を背負っていたあの頃。
(あのころは…負けるなんて思っていなかった)
世界が反転してしまったような今では、笑い話だろう。幕府が倒れるわけがない、そう疑いもなく信じていた自分たちは愚かだったのかもしれない。
けれど、それを愚かだと思いたくはない。あの日々を間違っていたのだと決めつけられるのは耐えられない。
「だから…俺は戦っているのかもしれないな…」
土方は刀を手に取った。
そこに宿る御霊を戦に連れて行くために。


箱館市中警備を命じられていた新撰組は、新政府軍上陸の知らせを受けて拠点としていた称名寺から、弁天台場へ移ることとなった。
しかし壬生浪士組以来の古株である島田は納得できない様子だった。
「土方先生が出陣されるというのに、我々は弁天台場の守りだと!?」
上陸した新政府軍は松前口、二股口、木古内口の三方向から進軍している。これを迎撃すべく土方は二股口の総督として軍を率いることになり、てっきり新撰組もそれに加わるかとおもっていたのだが、新撰組は五稜郭にほど近い弁天台場で待機せよという命令が下されたのだ。
その知らせを持ってきた市村は少し困ったような表情をしていた。
「あの…何でも土方先生が直々に、俺たちには弁天台場を守るようにという指示を出したということです」
「馬鹿な!我々は新撰組、土方先生の軍だ。先生が最前線に行かれると言うのを黙って見送るわけにはいかない!」
島田が熱くなるにつれ、他の隊士たちも「そうだ!」「俺たちも戦へ加わる!」という興奮した声が上がっていく。
「市村!土方さんは何故俺たちを連れて行ってくれないんだ!」
「そうだ、俺たちだって戦える!」
彼らの怒りの矛先が若年の市村に向けられてしまい、場はどんどんと盛り上がってしまう。
最初は相馬はぼんやりとその様子を見ていたが、あまりに収拾がつかなくなってしまい、市村が困った様子だったので
「島田先輩」
と重い腰を挙げつつ、声をかけた。
「市村君が言うには、そのうち土方先生が直々にお話にきてくださるということでした。市村君は報告に来たにすぎません。彼を責めても仕方ない…ひとまずは、待ちましょう」
「…そうか…そうだな」
中心に居た島田を宥めると自然と周りも収まっていく。隊士に囲まれて責められていた市村も安堵の表情を見せた。
熱くなりやすい島田だが、隊士一人一人の気持ちを代弁できる彼だからこそ理解ある先輩として皆に慕われているのだろう。
(野村も同じだった…)
もし、この場に野村がいたら島田と同じように熱くなっていたことだろう。誰よりも勇敢な彼は土方と共に戦いたいといつも願っていたのだから。
そんな彼を知っている。いつも一番近い場所で見ていた。
そんなことを考えると、心臓が大きく高鳴った。息が止まって、そして吐き気を覚えた。この感覚は知っている。脳裏によみがえる記憶はいつも相馬の心を傷つけていく。
「相馬さん!」
「…っ」
無邪気に声を掛けられて、相馬は我に返った。目の前にいたのは満面の笑みを浮かべた市村だった。
「ありがとうございました。やっぱり相馬さんはすごいですね!」
「…すごい?」
市村は飾りのない称賛を口にする。相馬は額に冷や汗をかいていたが、彼は気が付いていないようだ。
「いつも冷静ですよね。島田さんは確かに皆と仲が良いけれど、俺は新撰組の隊長には相馬さんが向いていると思います!」
「…俺が隊長になるなんて話、誰から聞いたんだ?」
それは土方から内密に伝えられた話で他には島田くらいしか知らないはずだ。すると市村は「あっ」と顔を歪めた。
「すみません、俺、偶然聞いちゃって…」
「…そうか…」
市村は土方の小姓を勤めている。いつも傍らに控えていれば聞こえてくる話も多いだろう。
相馬は市村を誘って、島田たちから少し離れた。
「土方先生は…今はやはり、お忙しいのか?」
「はい…俺も詳しくはわからないのですが、新政府軍との戦は一進一退の繰り返しのようです。あまりに突然の上陸に、最前線の部隊と指揮官との連携が取れていないのだと土方先生は文句を言っていました」
「先生らしいな」
「はい。明日には二股口へと向かうそうです。…俺も、一緒に連れて行ってもらうようにお願いしましたが、駄目だと拒まれてしまいました」
市村は子供っぽい少し拗ねた表情をした。勇猛果敢な彼は小姓として戦に赴かない立場に在ることをいつも不満に感じているようだ。しかしそんな彼を慰める余裕はない。
「そうか…じゃあ、お話ができるのは今日か…」
相馬は目を伏せた。
新撰組の隊長を辞退する…その件をまだ土方に伝えられていなかった。島田に言われた様に、今の自分では新撰組を纏める能力は無いし、破滅的な気分になって逆に新撰組を滅ぼしかねない。そうなってしまっては新撰組を築き、死んでいった仲間たちに面目が立たないと思ったのだ。
しかし、その一方で本当に辞退していいのかという迷いもあった。
(あいつは…あんなにも望んでいたのに)
初めて土方に『新撰組の隊長を任せる』という話を聞き、迷っていた相馬の背中を押したのは野村だった。
『…お前なら、新撰組を託せる。俺はそう思う』
曇りのない表情で野村はそう言った。彼は心から自分が隊長になることを望んでいたのに。
(それを…投げ出してもいいのか)
きっとあいつは怒るだろう。自分がいないくらいで、何で弱腰になっているんだって。
(でも…お前はもういないじゃないか)
『一緒に支える』
そう言ってくれたから、決意したのに。その彼はもういない。
相馬は少し離れた海を見た。あの青の中にいる野村を探すように、遠い目をした。もういない彼の姿を探す癖が身についていた。
「…相馬さん」
市村は迷いながら呼んだ。
「相馬さんは時々…土方先生と同じような表情をします」
「土方先生も…?」
「時々、同じように海を眺めています。いえ…海というよりも、どこか遠くを…」
市村は少し寂しげに言って、同じように遠くを見つめていた。その横顔はまだ幼いと言うのに、とても寂しげに見えた。
「俺、土方先生のそんな顔を見ると心配になるんです。土方先生は本当はここじゃなくて、その遠い場所に行きたいんじゃないかって。いま生きていることが嘘なんじゃないかって。…だから、いつか本当に消えてしまって、目の前からいなくなってしまうんじゃないか…心配なんです。だから俺、小姓で良かったって思えます。いつも傍に居られるから」
「…そうか」
「相馬さんは何を考えているんですか?」
無邪気で、素直で、子供らしい…そして残酷な質問だと思った。
「なにも…考えていないよ」
だから、嘘を付いた。きっと十五歳の彼にでも見破られる嘘だとわかっていたけれど、それでも言葉にするのは悲しかった。
野村を、探しているんだ。
いなくなった俺の『半身』を、探しているんだ。
そう告げるのはあまりにも勇気が必要だった。


その日の夜になって、土方は新撰組が屯所にしている称名寺にやってきた。乙部に新政府軍が上陸していること、二股口から迎撃に向かうこと、新撰組をつれてはいけないこと…市村が伝えたことを土方は繰り返し、隊士たちは再び落胆することになった。
「弁天台場は五稜郭の守りの要だ。もし新政府軍が乙部だけではなく内浦湾へ侵攻した場合、あまりにも守りが手隙になる。榎本総裁をはじめ、俺たちの陣地を守るために新撰組を置いていく」
土方にそう言われてしまえば、新撰組の隊士たちはぐうの音も出ない。島田だけは「しかし!」と食い下がったが土方は冷たく
「もう決まったことだ」
とあしらった。古株の島田でさえ取りつく島がないのなら、小姓の市村が同行することは不可能だろう。
すると土方はちらりと相馬の方へ視線を向けた。何かを意図している雰囲気だったが、相馬は何も掴むことができない。
そして、土方はその視線を皆の方へ向けた。
「ひとつ言っておく。分かっているだろうが俺は陸軍奉行並となり、直接新撰組の指揮を執ることは難しくなった。…そこで新撰組の隊長は相馬に任せることにした」
「え…っ」
相馬の驚きとともに、新撰組の隊士たちが騒ぎ立つ。土方が新撰組を離れること、相馬が隊長になるということ…その戸惑いと驚きが拡がっていく。
そして誰よりも動揺していたのは相馬だった。
(なぜ…)
土方から隊長に就任するように話を受け、それを飲み込んだのはあの宮古湾の戦の時だった。
『お前なら新撰組を守れる』
大切なものを託してくれた土方の気持ちが嬉しくて、漠然とした不安があったけれど受け入れた。あの時は野村がいた。
けれどいまは何もない。空洞で空虚で…なにもない。こんな自分に何ができるのか、わからないというのに。
(それでも…先生は俺に託すのですか?)
何もないこの俺に、先生は何を見ているのですか?



夕日が沈み、辺りを闇が包んだ。敵に居場所を悟られないように火は早めに消したので、この冬の冷たい一晩を身を寄せ合って過ごすことになった。
「ああ…疲れたな…」
伊庭は思わずそう呟いていた。
宮古湾での敗戦から乙部への上陸はあっという間に出来事だった。てっきり五稜郭に近い内浦湾からの上陸だろうと高をくくっていたのが間違いで、軍備が手薄だった乙部からあっという間に攻め込まれた。
戦力の差、そして死角からの上陸で旧幕府軍の指揮系統は乱れた。進軍、退却の指示が何度も出されて、その度に兵士たちは戸惑い、伊庭もまた苛立った。そしてついには堪忍袋の緒が切れて伊庭が先導する形で遊撃隊は斬りこみ、新政府軍を打ち破ることに成功したのだ。
「そうだな…さすがに、疲れた」
本山もまた深いため息をついた。
打ち破った…といっても、相手は末端の一軍にすぎない。勝利への歓喜というよりも、どうにかもぎ取った勝利であり、これから続く大きな戦への懸念しか生まれなかった。
伊庭は不安のなか、空を見上げた。冷たい空気の中でくっきりと浮かぶ星々が見えた。
「綺麗だな…」
普段は口にしない感傷的な言葉が、無意識に口から零れた。すると本山もまた同じように空を見上げて、
「ああ…そうだな」
と頷いた。らしくない台詞だけれど、目にも鮮やかな星々の輝きで心は癒された。
背中合わせの二人は、自然とさらに身を寄せた。重なる部分だけが暖かくて、もっと重なりたいと思うけれどそれはできなくて。
(明日も…生きていられるだろうか)
本当は、そんな弱音を、漏らしてしまいたかった。
脳裏に過ったのは、相馬と野村の姿だ。お神酒徳利な二人は二人三脚でここまで歩んできて、そして最悪の形で別れることになってしまった。相馬の悲しみや慟哭を思うと、胸が締め付けられる。
そしてまた、同じことを土方も味わった。彼は何も言わないけれど、今でも葛藤し続けているだろう。
(想像するだけで…心が壊れそうだ)
それは空想でも、妄想でもなくてすぐそばにある。
「八郎」
「えっ…なに?」
悪い想像から救い出すように、幼馴染の声が響いた。
「絶対に…大丈夫だ」
彼が語りかける言葉が身体の芯を温める。
その言葉をいつまでもいつまでも、信じていたかった。



夜の海は不気味だ。
暗闇の中で、色もなく、形もない。ただただ風の冷たさと波の激しさだけを感じる。相馬はランプを手にした土方に誘われて、その海へとやってきた。
土方はしばらくその海を見ていた。いや、海を見ているのか、それとも夜の闇を見ているのかはわからない。もしかしたら相馬が予想もできないような別の場所を見ているのかもしれない。けれど、ランプの橙色の灯りに照らされた土方の表情は、まるでそこに吸い込まれていきそうで、相馬は何故かハラハラしながら彼の言葉を待った。
そうしていると
「…悪かったな」
土方の形の良い唇がそう告げた。相馬は「え?」と驚いた。
「隊長のことだ…本当は、悩んでいたのだろう」
「…」
土方が鋭いのは京にいたときから変わらないけれど、あの頃はこんな風に相馬のことを気遣ったり労ったりするような人ではなかった。そしてまた相馬自身にとっても土方は遠い人だった。
「今でも…迷っています」
けれど今はあの副長はいない。もう引き返せないのだとしても、相馬は土方へ素直に心情を吐露した。
「あの時、俺が隊長を引き受けたのは…土方先生が俺を信頼してくれている気持ちに応えたかったのと…野村の後押しがあったからです。自信はあまりなかったけれど、野村がいてくれるなら新撰組を守ることができると思えた。…でも、いまは違います」
「…」
「俺は空っぽです。島田先輩も…皆も、気が付いているはずです。俺には何もない、戦う気力も、皆を守る力もない。…土方先生も、わかっていらっしゃるはずです…!」
相馬は土方から視線を外すことなくそう叫んだけれど、土方自身は相変わらず夜の闇夜と向き合ったままだった。言葉は聞こえているはずなのに、相馬には届いている気がしない。
「土方先生…!」
呼んだ。そして伝えたかった。
俺にはもう無理です。
例えこれが士道不覚悟だと罵られても、負け犬だと笑われても、野村に怒られても…それでも今から戦って勝ち残って、生き続けたいなんて思うことはできない。
でも、そんなこときっと土方だってわかっているはずだ。だって
(先生も同じだったはずだ…!)
盟友を失い、大切な人を失い、仲間と次々に別れてきた。その悲しみや慟哭や落胆は誰よりもわかっているはずじゃないですか。
(俺に同じ目に遭えと言うのですか…?)
相馬はぎゅっと拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込んだけれど、何故か痛みは感じなかった。
するとようやく
「相馬」
土方は視線を相馬の方へ向けた。その目はどこか寂しげだった。
「先生…」
「お前が思うほど…新撰組の隊長なんて立派なもんじゃないさ」
苦笑するように土方は続けた。
「もともと新撰組には二人の隊長がいた。芹沢という男で、大酒のみの大暴れ…金遣いは荒く女を屯所に連れ込むような男だった」
「…聞いたことがあります。その芹沢局長は…長州の恨みを買い、不逞浪士に襲われて亡くなったと…」
「表向きはな」
土方はふっと息を吐いて
「…俺が、殺したんだ」
「え…?」
あまりに突然の告白に、相馬は虚を突かれた。芹沢という人物に相馬は面識はない。入隊した時点で既に亡くなっていたので、古参隊士の島田が昔話の一つとして教えてくれた。しかしその時には土方が手にかけたという言葉はなく、『おそらくは長州の仕業だ』という島田から曖昧な結末を聞いたのみだ。
「先生が…?」
「正しくは俺と総司、原田、山南さん…この四人だな。会津からの指示だったから、近藤局長ももちろん知っていた。あいつを暗殺したのち、俺たちは新撰組を芹沢から奪い取ったんだ」
「…」
「俺はとっくに士道不覚悟だったんだよ」
自らを嘲笑うかのような台詞に、相馬は何も返答をすることができなかった。『私の闘争を禁ずる』…それは新撰組の鉄の掟だったのだが、執行する土方によってすでに破られていたのだ。
尚も土方の昔語りは続いた。
「お前だって知っているだろう。俺たちは何人もの敵を捕縛したが、同時に仲間も殺してきた。士道だ、浅黄色だ、局中法度だ…そんな言葉で高らかに誤魔化してきたが、結局は新撰組なんてものは、近藤先生と俺が思うままに動かしてきた。だからこそ負けるようになってから往年の仲間だった永倉や原田が抜けて行って…俺しか、残らなかったんだ」
「…先生…」
「だから、お前が考えるほど、新撰組の長なんて誇らしいものでも何でもねえし、この先も大していいことなんかねえよ。この戦に負けたら…なおのこと、責められる立場になるだろう。お前ひとりが責任を負うことになるかもしれねえ…貧乏籤だ」
寂しげにそう言うと、土方はふっと相馬の前から離れた。五、六歩歩いて、波打ち際へと向かう。
相馬もそれに続いた。波の音が大きくなって、足元が濡れた。冬の冷たい海水だったけれど、不思議と冷たくは感じなかった。
「なあ…野村は何て言ってたんだ?」
「…野村が…?」
「お前が隊長になるって聞いたとき、あいつはなんて言ってた?」
「それは…」
あいつは、なんて言った?
(そうだ…)
青に消えて行ったあいつと、ある日海に出かけた。
『…お前なら、新撰組を託せる。俺はそう思う』
『最近、思うんだ。俺たちは、この戦で絶対死んじゃいけねえんだって…強く、思う』
『だって俺たちが全滅したら、誰が新撰組のことを語り継ぐっていうんだ。今のまま死んだら俺たちは朝廷に楯突いた悪者だ。だから、そうじゃないってことを生きて、証明しなければならない』
『そうしなければ…』
そうしなければ
「生きて、証明する…そうしなければ、死んでも死にきれない…」
彼は確かにそう言った。
自分たちは死ぬべきではない。死んでしまっては、誰にもわかってもらえない。自分たちが何のために戦い続けたのか。それを語り継がなければ、今まで死んでいった仲間たちに合わせる顔がない。
野村はそう言っていた。笑いながら、でも、いつになく真剣な表情をしていた。
「…あいつの言いそうなことだな」
土方はふっと笑った。そして今度は迷いのない表情で相馬に告げた。
「俺の考えは変わっていない。お前は新撰組を守れる。それだけの力と頭がある。だから、たとえこの戦に負けたって…お前になら、新撰組を託せる」
「…先生…」
「お前には過酷な道が待っているかもしれない。その責任を負わせてしまうことになるのは申し訳なく思う。…だが、だからこそ俺はお前に隊長を任せたい。どうか…俺たちの新撰組を頼む」
俺たち。
土方は自分と、そして誰の顔を思い浮かべたのだろう。無念の最期を迎えた近藤か、それともかつて一緒に新撰組を築き上げた仲間か、それとも…
(ああ…そうか…)
野村が死んでから、新撰組の隊長という重責を、何故俺が背負わなければならないだろう、と考えていた。自分にはその資格がないのだと思っていた。
でも、そうじゃない。
(違うのか…)
資格なんてない。資質なんて関係ない。
(俺は願われているんだ…)
いなくなった野村から、そして目の前の土方から。俺は託されている。俺がたとえ空っぽだったとしても、その二人の気持ちは変わらない。
約束は朽ちない。
生きている限り、その約束を果たす…それが、俺のすべきこと。
『俺たちが今まで信じてきた、土方先生がそう言っているんだ。だったら間違いねえ。俺なら、そう思う』
野村の声が響いた。久々に蘇った彼の声は、いつも元気で溌剌としていて…涙が出るほどに明るい。ああ、そうだ、彼はこんな風に笑っていたんだ…そんなことをようやく思い出すことができた。
野村の言うとおりだ。
土方はまだ信じてくれている。何にもなくなって、何にもできなくなって、自分すら信じられなかった自分をまだ信じ続けてくれている。
そのことを誇りに思おう。
相馬は片膝をついた。そして土方に跪くようにして頭を下げた。
「お任せ…ください…!」
心が、あの時と同じように震えた。そしてようやく新しい一歩を踏み出せる気がした。
夜の海が怖かった。
彼がこの真っ暗な海に消えてしまったのだと思うと、その孤独を考えるだけで身が凍えるような気がした。
けれど今は違う。
例え姿は消えてしまったとしても、彼の志は自分のなかに生きている。
だから大丈夫だ。
絶対に大丈夫だ。




翌日の出立に向けて、土方は早々に五稜郭に戻った。衝鋒隊や伝習歩兵隊など三百の兵を率いてこれから戦に赴く姿は、相馬にはとても凛々しく見えた。
(あんな背中にならなければならない)
相馬は新撰組の隊長を引き受けたことで改めてそう感じた。
「もう行かれてしまったのか」
声をかけてきたのは島田だった。ランプを手にした彼は、もう見えなくなった土方を探すかのように遠い目をしていた。
「…はい。出立がお早いそうです」
「土方先生は昔から朝が苦手だからな。まあ…いまはそんな素振りもみせていらっしゃらないだろうが…」
寂しげにつぶやいた島田は、きっと土方と共に戦いに向かいたかったのだろうと思う。古参隊士である島田はずっと土方の傍で戦い、生き抜いてきた。その誇りが島田を支えている。
「土方先生が俺たちを…新撰組をつれて行かない理由が、わかりました」
「なんだ?」
「…土方先生はきっと、おそらく自分の命よりも新撰組が大切なのだと思います」
最前線へ向かう歩兵に、気心の知れた新撰組がいれば土方だって心強いはずだ。なのに敢えてそうしないのは本当に大切だから、本当に守りたいから。
(あの人はそう言う人だ…)
本当は優しいのに、その表情を隠して目的の為に自分を律する。鬼副長なんていう仇名は本当の彼を知る人から見れば、真反対の言葉だったのだろう。それを近藤局長や沖田はよく知っていたことだろう。
「…元に戻ったようだな」
島田はランプを相馬に向けた。淡い灯りでお互いの表情が露わになる。
「土方先生に喝を入れてもらったのか?」
「…はい。おかげでようやく決心が固まりました」
『俺たちの新撰組を頼む』
よくよく考えれば、土方からそんな言葉を貰えるなんて、自分は幸せ者なのだろう。野村が聞けば地団太を踏んで悔しがりそうだ。
島田は相馬の言葉に安堵の表情を浮かべた。
「いまのお前になら、任せられるよ」
「…有難うございます」
島田は軽く相馬の肩を叩いた。そして「戻ろう」と声をかけた。



一方。
出立を控えた深夜の五稜郭では、小姓である市村が今か今かと土方の帰りを待ちわびていた。土方は相馬に話があるということで、自分だけ先に帰っていたのだ。土方からは休むようにと命令を受けていたが、市村は土方の部屋の前で憮然と待ち続けていた。
(納得いかない…)
腕を組み、市村は悶々と考え込んでいた。
新撰組に入隊したのは慶応三年、十四歳のことでそれからすぐに鳥羽伏見の戦いとなった。しかし若年であるという理由から最前線で戦わせてもらえず、土方の小姓として付き添った。そして箱館までやってきた今でも、「まだ若い」「小姓で十分」と土方には散々役立たずのような扱いを受けてきた。
(俺だって…もう戦える)
人の生き死にも目の前で見てきた。剣はまだまだ及ばないけれど、銃ならば扱える。いざとなれば土方の弾除けくらいにはなれる…その自負ある。しかし冬を跨ぎ、ついに開戦となった今でも土方は自分を一人の兵として認めてくれない。
(何度も拒まれて来たけど、今晩こそは…!)
明日こそは連れて行ってほしい。
自分だって戦える。
市村はそう直談判をするつもりで、ドアの前で待ち続けているのだ。
すると
「市村」
と声がかかった。聞きなれた若い声だ。
「ああ…田村。まだ起きていたのか?」
暗い廊下に蝋燭の小さな灯りを持って現れたのは、田村銀之助だった。田村も自分と同じ頃に入隊した若い隊士で、土方の小姓として共に北上してきた仲間だ。
市村からすれば、田村は頭がよく気遣いもでき、いざとなれば機転がきく…まさに小姓らしい雰囲気を持っている青年だ。剣の腕では勝っても、頭の出来は田村には敵わない。土方もそのあたりを察して、田村を陸軍隊隊長春日左衛門の養子とさせた。そしてその能力を買われ今は通訳の田島応親よりフランス語を学んでいるらしい。
「うん。田島先生から学ぶことは多いから」
彼の手には見たこともない文字で書かれた書物がある。ずっしりとして重そうだ。
「期待されているんだなあ…」
市村は田村のことが少し羨ましかった。勉学がしたいとは思わないけれど、その能力を買われて一人前として扱われているのは、市村とは対照的だ。
しかし田村は表情を曇らせた。
「いや…どうかな。こんな時にフランス語を学ぶだなんて…そんな呑気なことをしていていいのかなって思うよ。もちろん、土方先生や義父さんの考えはわかる…フランス語を学ぶことは将来役に立つのだろう。でも…将来って、どこにあるのかな…」
「…将来…か…」
「将来なんて、勝った先にしかないのに…僕はこの戦に勝つために、なにもできていない」
寂しげに微笑む田村は、視線を落として手にしていたフランス語の本をぎゅっと握りしめた。
己の無力さに脱力しているのだろう。こんなことをしていていいのだろうかと自問自答を繰り返している…それは市村にもよくわかった。
けれど。
(俺よりは…よっぽど、マシだよ…)
市村はギュッと唇を噛んだ。悔しかったから、口にすることはできなかったけれど。
「…明日、出立されるんだって?」
話を切り上げるように、田村は顔を上げた。
「ああ…戦はすでに始まっているからな。土方先生は二股口の方へ進軍する予定だ」
「土方先生ならきっと勝てるね」
「…そう、だといいよな…」
田村の励ましに、市村は曖昧な返答しかできなかった。
脳裏を過ったのは、宮古湾での敗戦だ。奇策での勝利を信じていたのに、結果は散々だった。新撰組隊士たちもことごとく戦死した。あの時ほど落胆する土方の顔を見たことがなく、市村はしばらくは部屋に近づくことすらできなかった。
「…じゃあ、もう行くよ。勉強の続きをしなきゃ」
「まだ寝ないのか?」
市村は驚いた。夜も更けて皆は寝静まっているのだ。しかし田村は苦笑した。
「そういう君だってまだ起きているじゃないか」
「それは…」
「僕にできることはこれしかないから。だったら、いまは一つでも多くのことを学ぶんだ。いざとなった時…僕はこれで戦うしかないんだから」
田村はそう言うと「じゃあね」と離れていく。重たい本を抱えた田村は、まるで刀を持っているようにも見えた。
その姿がやはり羨ましくて、市村はその後ろ姿を見えなくなるまで見送る。
彼が言うように「できること」すらできない自分が悔しかった。
そうしていると、反対側からコツ、コツという足音が聞こえてきた。ブーツの音だ。
「…ここで何をしているんだ?」
ランプを持った土方は、部屋の前に立つ市村を訝しげに見た。
「はいっ!あの…お話が…!」
「大声は止せ。…話なら、部屋で聞く」
「は…はい…」
土方はドアを開けて市村を招き入れた。市村は恐る恐る部屋に入りつつ
(今日は…機嫌が良い様だ)
と土方の顔をちらりと見た。出陣が決まった時は厳しい顔をしていたのだが、いまは和らいでいる。古巣である新撰組から戻ってきたからだろうか。それとも相馬と何か良い話をしたのだろうか。
「それで話は?」
「あ…はい!」
土方に促され、市村は背筋を伸ばした。そしてまっすぐに土方の目を見つめて
「明日こそ俺も…連れて行ってください…!」
「……」
市村は深々と頭を下げて懇願した。
新政府軍はついに進行してきた。蝦夷を失えば、もう幕府軍が向かうべき場所は無い。だとしたら、これは最後の戦になる。そんなことは、市村にさえ予感できたのだ。
しかし土方は
「…何故だ?」
と訊ねてきた。そしてコートを脱いで、傍にあった椅子に腰を降ろした。
「何故…とは…」
「何故、お前は戦いたいんだ?」
そんなのは決まっている。
市村はぎゅっと拳を握った。そして頭を上げて、土方の顔を見る。
「もう俺たちは敗走することはできない…この北の大地以外に行く場所などありません!だとしたら、これが最後の戦になる。最後で、最大の戦になる…だからです!」
「…足手まといだ」
「そんなことはわかっています!」
わかっている。
そんなことは、新撰組に入隊したとっくの昔から知っている。目の前で新撰組の隊士が死ぬ姿を何度も見てきた。その時にどれだけの無力感を感じたことか。
土方にとっては足手まといになるのかもしれない。初戦になる自分は何の役にも立てないのかもしれない。
でも、それでも。
「…勝つか負けるか…その二択しかありません。それは俺が生きるか、死ぬかの分かれ道なんです!なのに、その選択に自分が携われないのは…もう真っ平なんです…!」
仲間が死ぬたびに感じていたのは。
悲しさよりも勝る、悔しさだった。
「お願いします…!」
市村は土方に詰め寄った。これで無謀だと叱られても、面倒だと遠ざけられても構わない。
(もう置いて行かれるのは嫌だ…!)
市村は咄嗟にその場に膝を折った。そして深々と頭を下げて土下座した。そして何度も「お願いします」と続けた。土方がうんと言ってくれるまで続けるつもりだった。
しかし、土方は意外な反応を見せた。
「…ふっ…」
(…え?)
市村は恐る恐る頭を上げた。土方は市村に憤るどころか…笑っていた。薄明かり故の見間違いかと思い、市村は目を擦ったが確かに土方は笑っていた。
「あ…あの…?」
滑稽な茶番だと思っているのではないか…市村は疑ったが、
「わかった」
と土方は答えた。
「え?…えっ??」
懇願しておきながら、市村はその「わかった」の意味が分からなかった。まさか土方にこんな簡単に許しを得られるなんて、予想だにしていなかったのだ。
「お前をつれていく」
「本当…ですか?」
「変な奴だな。お前が連れて行けと言ったのだろう」
「それは…そうですが…」
いまだに信じられない。立ち上がることすら忘れて、市村は呆然とした。すると土方が「仕方ねえな」と立ち上がると市村の腕を引いて無理矢理に引き上げた。
「…俺も、お前の立場なら、同じことを思った」
「同じ…?」
「自分のあずかり知らぬところで、自分の運命を決められるのは…真っ平御免だとな」
薄く笑った土方は。
少し昔の、鬼副長の頃の表情をしていた。それは決して恐ろしいという意味ではなく、どこか得意げで負けず嫌いな。
「…もう寝ろ。出立は早い…寝坊したら、置いていくからな」
「は…はい!有難うございます!」
「いいから、寝ろ」
土方は市村の背中を押して部屋から追い出す。市村は何度も「有難うございます!」と叫んでいたけれど、さすがに真夜中には声が響いてしまったので
「うるせえ」
と叱られてしまい、ドアをあっさりと閉められてしまった。
しかし市村の心は躍っていた。
(俺も…戦える!)
嬉しいという感情はあった。そして高揚とついに戦場に建てるという興奮もあった。そして同時に「死ぬかもしれない」という恐怖も追いついてくる。
けれども自室に戻る市村の足取りは軽かった。


市村が過ぎ去った部屋で、彼がいなくなったのを確信して土方は呟いた。
「…許せよ」
と。






土方は四月十日、五稜郭を経ち、二股口へと向かった。
新政府軍は乙部より上陸した千五百名を三つのルートに分けて進軍させた。内陸の二股口、沿岸の松前口、そしてその松前口の上ノ国から木古内に抜ける木古内口だ。大して旧幕府軍は、二股口は土方が総督して向かい、他の二つを包括して大鳥が迎撃に向かった。
「大丈夫でしょうか…」
土方の隣を、小姓として付いていた市村は顔を顰めたままだった。
「何がだ」
「大鳥先生の部隊です。松前口だけではなく木古内口まで…」
「大鳥さんには任せられないって?」
「…正直申し上げると、その通りです」
市村は躊躇ったものの、頷いた。戦を前にして無用な気遣いなどいらないと思ったからだ。すると土方も怒ったりせず苦笑するだけで「あんまり大きな声で言うなよ」と釘を刺した。
陸軍奉行並である土方はこれまで連戦連勝を続けている。市村からすれば土方は榎本総督の下で、全軍の指揮をとってもおかしくはないと思っているのだが、三分の一のルートを任されたのみで、衝鋒隊と伝習歩兵隊からなるわずか300の兵を率いているだけだ。
(正直…物足りない)
しかし、土方はそうは思っていないようだ。
「二股口は乙部から五稜郭までの最短の道程だ。普通に考えれば、新政府軍の主要部隊はこの道を通るに違いない。俺からすれば、陸軍奉行並の俺に二股口を任せてもらえるとは思わなかった」
「…だったらなおのこと、もう少し兵の数を…」
「数が多ければいいという問題ではない」
「そうなのですか?」
「狭い道に兵がゴロゴロいれば、それだけ居場所を悟られるだろうし無駄な標的になるだけだ」
「……」
土方にあっさりと返されて、今まで小姓として戦から遠い場所に居た市村には、それ以上は何も言えなかった。土方の戦での勘…はどこかで学んできたものではなく、鳥羽伏見の戦いから蓄積されてきたものだ。一日二日では学び切れるものではない。
市村は己の無力さを思い知るとともに
(今度こそは…!)
という気持ちも漲った。初陣に身体中の武者震いが止まらなかった。

雪が残ったままの足場の悪い山道を進み続け、ようやく土方軍は二股口に到着した。兵士たちにはしばらくの休憩を言い渡され、市村も兵たちに混じって身体を休めていたのだが、
「市村、行くぞ」
とすぐに土方から呼びつけられて、休む間もなく歩き出した。疲れ切っていた市村だが「嫌だ」と言えるわけもなく従う。
「…ど、どちらに行くのですか?」
土方は迷いなく歩いている。まるで何度も足を運んだことがあるかのように。
(…いや、既に何度も来ていらっしゃるのかもしれない…)
土方は戦が休戦状態になった冬のあいだも、馬に乗り一人で出歩いていることが多かった。誰もその行き先を詮索したりはしなかったが、いずれ戦場になる地形を頭に叩き込んでいたのかもしれない。
二人は近くに住む農民の家に足を踏み入れた。すると土方はそこに住む老夫婦からこの辺りの地形や土地の状況を詳しく聞き出した。そしてすぐに踵を返して戻り、土方の指示によって天狗山を前衛として十六か所の塹壕を構築した。そして弾薬庫には三万五千発もの弾薬が持ち込まれる。
次々と戦の準備が進んでいくなかで、特に市村が驚いたのは本陣の近くに簡易的ではあるものの風呂場と精米所を設置したことだ。
「どうしてこんなものを作ったのですか?」
市村が率直に訊ねると
「長期戦になるからだ」
と土方は淡々と答えた。
こちらが三百の兵に対して、新政府軍は千五百。戦っても戦っても敵は限りなく攻めてくる。土方は既にそういった状況を見通しているのだ。
(…すごいや…)
市村は呆気にとられた。土方の指揮によってこれまで勝利を収めてきた理由が、彼の傍に居るだけでわかる。入念な戦場の下調べと先を予測する頭の回転。初陣というだけで浮足立つ市村には到底追い付かなかった。
疲労を感じさせず次々に指示を出す土方。その背中を見ながら、市村は付いていくのに必死だった。
そして、それから三日後の十三日の昼。
新政府軍との戦闘が始まることとなった。


一方。
時間を少し戻す。
松前城に陣地を置いていた旧幕府軍五百名が江差奪還するために出陣したのは、土方軍が二股口の到着した翌日の四月十一日のことだった。
乙部から上陸した新政府軍は江差を突破し、そのまま南下。松前に迫っていた。敵を迎え撃つべく伊庭は遊撃隊とともに根武田に陣を置き、今か今かと戦の時を待っていた。
日が沈み、夜を迎える。
既に伝令から「もうすぐそこに敵が迫っている」という知らせが届いている。伊庭は緊張感を全身に漲らせ、目を細めて暗闇のなかの敵を探し出そうとする。
いつ開戦になるのか、いつ動けばいいのか…一瞬の隙さえ見逃せない。
しかし。
「…何だよ」
伊庭は幼馴染の本山を軽く睨んだ。この緊迫した空気の中で彼はずっと腹を抱えて笑うのを堪えている様子なのだ。
「…ふ…っ、いや、何でもない…気にするな…ふふ…」
「気になるに決まってるだろう。そんな風に散々笑っておいて、今更何でもないとはないだろう」
今から戦に向かうと言うのに、まるで緊張感のない幼馴染だ、と伊庭は憤慨していたのだが
「いや…思った以上にカッコいい啖呵を切ったなと思ってな」
と、彼としては褒めているつもりらしい。
千五百もの敵が乙部から上陸し、江差を呆気なく突破されたと聞けば誰しもが怖気づく。圧倒的な兵力を目の前に「負けるかもしれない」という疑念に駆られる。
この根武田で陣を敷いても、兵士たちの士気は下がり続けていた。
そんななか檄を飛ばしたのが伊庭だった。
『俺たちは命を賭けてこの地を守る。いま確かに新政府軍は江差を攻略し、一気にここに迫っている。だが、今、奴らを破らねば、どのような顔をして総裁や仲間に会うことができるだろうか。…昔の兵法にはこうある。戦に勝っても将が驕り兵が怠ければ、たちまち敗れると。いま新政府軍はこの戦に易々と勝つと思い込んでいることだろう。すなわち、これからの戦はこちらにこそ必勝の利がある。…諸君、努力せよ!』
そう言い放つと、俯き、逃げ腰だった隊士達の表情が変わった。皆が奮い立ち、勇んで戦に向けた準備を始めた。伊庭の言葉で空気が一変したのだ。
「ああでも言わないと…この状況で、誰も斬りこまないだろう」
伝え聞く戦況は悪化するばかりだ。ある意味自分にはっぱをかけるように伊庭は宣言したつもりだった。すると本山はようやく表情を引き締めた。
「ああ…そうだな、悪い」
「…別にいいけど」
伊庭は一息ついて、また遠い場所へ目を向けた。すると本山が伊庭の隣に立ち、
「…二股口はどうだろうかな」
見えるはずもない遠くを見つめて本山は問いかける。
伊庭は首を横に振った。
「さあな…。五稜郭を目指すなら最短の道だ。おそらくは長期の激戦になるだろうが…土方さんに任せておけば何とかなる」
「…お前の土方さんに対する信頼は、もしかしたら俺よりも厚いのかもな」
嫉妬めいたことを口にした本山に、伊庭は苦笑した。
「お前は相変わらず余計なことを考える…。本人を前にしては絶対に口にしないけど、俺は土方さんが自分よりも戦上手だと分かっている。俺のように兵学を頭に叩き込んだわけじゃなく、実戦で重ねてきた経験はどんなに学があったって追い付かない」
「それは…そうだろうが…」
本山が何か言いたげにしたその時。
宵闇のなかをバタバタと駆け込んでくる音がした。手に明かりを持った兵士は「敵影です!」と叫ぶ。
いよいよ来たか…頭の先から足の指先まで電流が走ったかのような衝撃が走った。
「わかった。…砲兵隊に大砲の準備をするように伝えろ」
「承知しました!」
兵士はそう答えて、走り去る。
同じ緊張を幼馴染も感じていることだろう。
「小太」
「…ん?」
彼の声が少し震えていた。もしかしたら自分の声も震えているかもしれない。
「お前に言われるまで…土方さんのことを忘れてたんだ」
戦が始まる。死が迫っているかもしれない。そんな状況で、自分のなかに余裕なんてない。
ただ唯一考えられるのは。
「お前が無事に生きていて…どれだけ一緒に居られるかってことしか、考えてない」
「八郎…」
そしてそれが唯一の光でもある。
本山は伊庭に近づき、そしてその手に触れた。お互いの指先は少し震えていたけれど、絡まるとその震えも収まった。


根武田にて激突した戦は、旧幕府軍の猛攻により新政府軍の退却という結果をもたらした。






四月十三日。
二股口から五稜郭を目指す新政府軍が土方率いる旧幕府軍の前線である天狗岩に迫ったのは、昼ごろのことだった。
土方の傍に控えていた市村は、新政府軍来襲の知らせを間近で耳にした。
(ついに来た――!)
二股口に陣を敷いて二日。ついに戦が始まるのだ、と息を飲んだ。
そして覚悟を決める暇もなく、銃声が聞こえた。そしてその音は、だんだんと大きくなっていった。


太陽が木々の合間からも、そして雲の合間からも姿を隠し、今が一体何時なのかのも見えない。
誰かの息遣いが聞こえる。
塹壕に身を隠しつつ、次なる弾薬を詰め込む。そして息さえも潜めて銃を構え、見えない敵に撃ち放つ。その弾丸が届いたのか、届いていないのか…そんなことはわからない。けれど、それをやめれば敵に進軍され、負ける…だから、それを何度も繰り返した。
戦が始まった頃には耳を塞ぎたくなるほどの破裂音がそこかしこで聞こえてきて、その度に心臓がどきどきと震えた。その弾丸が自分にあたるのではないか…情けないことに脅えていた。しかし、その音にも慣れてきた。自分に向けられたものではないのだと誤魔化すことができた。
しかし、いまだに手は震えていた。
(くそ…!)
あんなにも願った戦場に居られるのに、震えているなんて情けない。
市村は右手の震えを左手で押し込めつつ、弾丸を詰め込んだ。
どうか当たってくれ。そしてこの戦を終わりにしてくれ…そんな気弱な気持ちで構えた。
敵は影も形も見えない。定める目標などないけれど、引き金を引いた。そうしなければいけないんだと思ったからだ。
(…土方先生は…)
小姓として傍に控えていた市村だが、戦闘の混乱ではぐれてしまった。しばらくは探し回っていたが、それでは敵の標的になるだけだと味方の兵士に諭されて塹壕で銃を渡された。
見よう見まねで引き金を引きつづけ…いつの間にか夜になった。
すると、ようやく敵の銃声が止んだ。陽が落ちれば山の中は真っ暗闇になってしまい、弾丸が味方に当たってしまうかもしれない。
(よかった…)
市村は素直に安堵した。昼から続く緊張が一気に抜けて、腰から崩れ落ちた。茫然とするなか、手を握り、そして開いてみた。
「…生きてるんだ…」
そう呟いてから、実感した。まだ死んでいない…まだ、生きている。この指先はまだ震えていたけれど、それでも生きている。
「大丈夫か?」
訊ねてきたのは同じ塹壕にいた兵士だった。土や煤に汚れた顔のせいで、それが誰なのかはわからなかったけれど、市村よりは一回り以上年上のように感じた。
「あ…はい…なんとか」
「なんとか…か。そうだな、俺たちよく生きているよな…」
兵士は苦笑していた。
何時間も砲弾を浴びつづける。当然のことながらその一発に当たれば怪我を負い、下手すれば死ぬ。土方が機転を利かせて塹壕を準備したおかげで互角に渡り合えているのだ。
「敵は…まだどのくらい…いるんでしょうか?」
市村が訊ねると兵士は首を横に振った。
「さあな…むしろ、俺は敵よりも、味方があとどのくらい残ってんのか…そのほうが気がかりだ」
「……」
乙部に上陸した兵は千五百だと聞いている。三つのルートに分かれて進撃したとしても、五百はこの道を通ることになる。
まだまだ、この戦は続く。
兵士の言葉でそのことを悟った市村は、無意識ながらもため息をついてしまう。
そんな時。
「あ…」
市村は自分の頬に冷たいものを感じた。手をのばした先でも同じ感触があり、雨が降ってきたのだと気が付いた。
(恵みの雨かな…)
雨は次第に強くなっていく。
カラカラの喉を潤してくれるのか、それとも行く手を塞ぐ水溜りになるのか…そんなことを考えていると
「上着を脱げ!」
という怒号が聞こえてきて、はっと我に返った。
「弾薬を覆い、雨から守らねえと使えねえ弾になる!特に雷管は懐に入れて死守せよ!」
的確な指示の声で、現実に戻される。もちろん声の主は土方だった。
全員がその指示を受けて慌てる中、市村は塹壕から這い出てその姿を探した。小気味良い馬の蹄の音がこちらに迫っていて、その馬上には土方の姿があった。
「土方先生…!」
市村が叫ぶと、土方は手綱を引いて足を止めた。
「…市村か。生きていたのか」
「はい…!先生もご無事で良かった…。俺も一緒に行きます!」
小姓の役目は常に傍に居ること。一度ははぐれてしまったが、もう二度と傍を離れない。その決意を胸に身を乗り出そうとしたが、
「いや、お前はここに居ろ」
と土方に止められてしまった。
「先生…!」
「戦が終わったと思ってんのなら、大間違いだ。遠距離での砲弾合戦が終わっただけで、これからは至近距離での小競り合いが始まる。しかもこの夜の中だ…さらに危険は増すだろう」
「……」
市村は馬上の土方を見上げた。雨が滴るなか、土方の眼だけは先へ、またその先へと向けられている。
「足手まといになる。…お前はここにいろ」
『足手まとい』
その言葉を何度も聞いてきた。その度に『そんなはずはない』と憤慨していた。自分にだって何かができるはずだと地団太を踏んで悔しがった。
けれど。
「…わかりました」
いまほど、その言葉が身に沁みたことはない。自分は紛れもなく足手まといであり、何の力もない。塹壕に実を隠しながら震えている子供に違いないのだ。
土方は「じゃあな」と短く口にして、手綱を引いて去っていく。
蹄の音が遠くなっていくのを聞きながら、市村は黙って雨に打たれていた。



「…雨が降ってきたな」
そういって相馬に灯りを手に傘を差しだしたのは島田だった。
弁天台場で待機を続ける新選組は屋根すらない廃屋で、ただただ敵を待ち構えていた。
「戦が…始まっているのでしょうか?」
相馬は暗くなった海の先を見つけつつ、訊ねた。
乙部から上陸した新政府軍は千とも二千とも聞く。状況が拮抗したとしても、新政府軍は援軍を呼ぶことだってできる。戦は敵が諦めない限り続くことだろう。
その猛攻にさらされる味方のことが気がかりだった。二股口に布陣している土方や市村、そして松前にいるはずの伊庭や本山…遠くを見つめながら、様々な顔が浮かんだ。そして不安に苛まれた。
島田は隣に立った。
「他人事じゃない。奴らはいつこの箱館湾から直接乗り込んでくるかもしれないんだ…もし、兵士が出払っているいいま五稜郭が攻められれば…」
「…」
終りだ、と口にはしなかった。けれど、もちろんその答えを相馬は知っていて、口にするのは躊躇われた。
「…そう言えば、今回は市村君を連れて行ったんですね」
相馬が話しを切り上げて訊ねると、島田は苦笑して「そうらしい」と頷いた。
「あいつの粘り勝ちかな。新撰組に加わった頃は、なんで新撰組で子守なんかするんだと思ったものだが、今となってはあの勇敢さが羨ましい」
「…そうですね。土方先生を心から尊敬しているのでしょう」
「その気持ちは負けたくはないがな!」
島田は大口を開けてははっと笑った。今では新選組の古参として最も長く土方と共に時間を過ごしているのは島田なのだ。
「…島田先輩は壬生浪士組だったころからの同志なのですよね?」
「ああ。俺は永倉組長と知り合いだったから、話を聞いて入隊をさせてもらったんだ。…まあ、正直こんなに長居をするつもりはなかったんだがな」
「そうなのですか?」
「ああ。会津から給金がもらえるという話に飛びついて…金が溜まったら出て行こうと思っていた。でもできなかったんだ」
「…法度があるから、ですか…?」
脱走は切腹に値する。その法度で何人もの隊士たちは切腹に追い詰められた。島田もその一人だったのかと思ったが、彼は「いいや」と首を横に振った。
「俺は…たぶん、土方副長に惚れちまったんだなあ」
「え?」
「…いや、そういう意味じゃないぞ!ただ…ああいう生き方をしてみたいと思ったんだ」
「そう…ですか?」
新選組にとって土方は影の存在だと思っていた。監察を掌握し、法度を犯せば隊士たちを粛清する…縁の下の力持ちといえば良い風に聞こえるが、実際は恐れて近寄りがたいイメージを持っている隊士の方が多かったはずだ。
しかし島田は穏やかに語った。
「確かにいろんなことがあったが…土方先生の志はまっすぐだった。多少荒い所業も、結果的には近藤先生や新撰組の為だった。自分自身の感情を殺してでも誰かの為に生きるなんて誰でもできることじゃない。だから…俺も、土方先生のように大切なものを、一生、大切にできるような…そういう男になりたいんだ」
「……」
「…恥ずかしいことを語っちまったな。忘れてくれよ」
島田はそう言って頭を掻いた。
けれど相馬は
「そうですね」
と頷いた。
そして、きっと土方はこの戦の中でもまだ生きているだろうと確信した。
(新選組の為に…)
島田が惚れたと語る志は、まだ土方の中に生き続けているはずだから。
だからこの黒い海の向こうで戦っていることだろう。






雨は夜通し降りつづけることになった。
まだ冬の名残が残る蝦夷の地での雨の一粒一粒は、固い氷に等しい。鋭利な角度を伴って、身体を痛めつけられるように落とされる。その雨に目を縮めながら、市村は遠くで聞こえる砲弾の音を聞きつづけていた。
土方が言っていたように、戦はまだ続いていた。総力戦となるような戦ではなく、小競り合いのような戦が前線で続いているようだ。ここからは弾が尽きるまでの持久戦となる…すべてが土方の予想通りに進んでいる。怖いくらいに、すべてが的中している。
市村は塹壕で膝を抱えた。
(土方先生は…どこまで見えているんだろう)
全てを見通していた彼はこの戦の行方も、そして旧幕府軍の行く末も、そして自分の命の結末さえもすべて見通しているのではないか…。
だとすれば、それはとても恐ろしいことだ。
「土方隊長!」
市村はおなじ塹壕に控えている兵士の声ではっと我に返った。
いま、誰かが土方の名を呼んだ。もしや土方の身に何かがあったのか…と背筋に電流が走ったが、それは杞憂だった。
「生きているか?」
手元に仄かな灯りを手にした土方が、塹壕へと腰を屈めてやってきたのだ。表情は少し疲れてはいたが、軽く微笑んでいた。
塹壕に潜んでいた兵士たちが慌てて居直るが、土方は「そのままでいい」と柔らかく言った。そして自身も腰を降ろす。
「ど…どうか、されましたか?」
兵士の一人が恐る恐る訊ねた。
それもそのはずだ、戦場での土方はまるで鬼神のように厳しい表情を浮かべている。それなのに、今はまるで別人のように穏やかだったからだ。怒鳴られるよりも、いったい何があったのかと不安になってしまうのは当然だろう。
しかし土方は手にしていた酒樽を差し出した。
「差し入れだ。薄い酒だがな」
土方は鼻で笑いつつ、強引に兵士に御椀を持たせた。そして遠慮なく柄杓で酒を注いでいく。
しかし受け取る兵士たちは困惑していた。
「よ、良いのですか…?」
「ここは戦場…なのでは…」
雨の向こうでは砲弾が聞こえる。いつここに、弾丸が飛んできてもおかしくはない。それなのに呑気に酒を酌み交わすなんて、土方でなくとも懲罰ものだ。
しかし、土方は「いいんだ」とやはり微笑んだ。
「おそらく戦は朝まで続くだろう。それまでずっと気を張り詰めるなんてことは、できるはずがねえ。少しくらい酒を飲んで気を休めてくれた方がよっぽど戦えるだろう。ほかの塹壕の奴らにも配ってきたんだ」
「しかし…」
「ただし、一杯だけだ。ヘベレケになって遣いもんにならなかったら困るからな」
土方はそんな軽口を口にしたが、それでも兵士たちは飲むのをためらっていた。土方はやれやれと言わんばかりに少しため息を漏らして、「命令だから飲め」と強引に伝える。すると兵士たちが恐る恐る酒を口にした。
「う…うまい」
「生き返るようだ…」
それまで蝦夷の冬の厳しさと、雨の冷たさと、戦への恐れで震えていた兵士たちが、みるみるその血色を明るく変えた。彼らの緊張で強張っていた表情が解けていき、愛おしそうに彼らは酒を口にした。
酒樽を持って兵士を労う…そんな土方を市村は初めて見た。それはそれまで市村自身が戦場に立たなかったせいかもしれないが、新撰組時代の「鬼副長」からは考えられなかった行動だ。
(新撰組の皆に伝えたらどう思うだろう…)
それが土方歳三という男なのだ、と納得するだろうか。
鬼副長は変わったのだと、驚くだろうか。
それとも。
(何となく…漠然と…不安な気持ちになるのは、俺だけなのだろうか…)
鋭利な眼差しで周囲を圧倒し続けてきた彼が、まるで憑き物が落ちたかのように穏やかになってしまった。それを「怖い」と恐れるのは自分だけなのだろうか…。
「市村」
「はっ…!はい!」
土方は市村へ酒を差し出そうとしたが
「お前は下戸だったか?」
と訊ねてきた。市村自身に下戸という自覚はないが、飲み慣れていないのは確かだ。市村は「遠慮しておきます」と断ると土方は「そうか」とあっさり頷いた。
土方が手渡した一杯の酒のおかげか、塹壕の雰囲気は次第に温かなものになった。依然として戦の緊張感はあるがそれを片隅に置き、生きているということを実感できる…そんな印象深い酒になるのだろう。
土方は兵士たちと雑談を交わしていたが、そのうち市村の元へやってきた。
「市村、いいか」
「は…はい!」
市村は土方に手招きされるままに塹壕を抜けた。ちょうど砲弾と雨も収まっているタイミングだったのだ。
二人は連れ立って歩き、近くの弾薬収納庫までやってきた。ここは構築された塹壕の中間地点にあたり、ここから各拠点へ弾薬が運ばれている。
「弾薬は…もう半分を過ぎましたか…」
中身を覗き込むと、沢山運ばれたはずの弾薬の姿がすっかりなくなっていた。戦が夜通し続いているのだから、当然と言えば当然だが、この弾薬が尽きれば戦は決することになる。そう思うと、この残量は心許なかった。
しかし土方は
「相手も同じように疲弊している。むしろ、使っている弾薬はあちらの方が多いだろう…心配することではない」
と、淡々と答えた。戦場を切り抜けてきた土方の言葉には妙な説得力がある。市村は「そうですね」とこれ以上、深く考えることをやめた。土方は適当な木陰に腰掛けたので、市村はその傍に立つことにする。
「ところで、初陣はどうだ?」
「あ…はい…」
土方の問いかけに、市村は言葉を詰まらせた。
「…その…無我夢中で、良くわかりませんでした…」
威勢よく戦場に乗り込んだものの、その場の雰囲気に飲まれ、自分の命を守るのに精いっぱいだった。戦力どころか足手まといになったのではないかという危惧の方が大きい。
そんな自分が情けなくて、市村は俯いたが、
「そんなもんだろう」
と土方は苦笑した。
「…そうでしょうか…」
「死ななかった分だけ、随分マシだろう」
「はい…」
土方らしい励ましにも、市村は曖昧に答えるしかなかった。すると土方はふっと息を吐いた。
「…とはいえ、今回の戦はお前には重荷だろう。戦どころか、銃の扱いにも慣れてねえんだ。…だから、お前には別の任務を与える」
「別の…任務、ですか?」
「ああ」
土方は懐から紙に包まれた何かを取り出した。戦のなかずっと懐に仕舞われていたようで随分くしゃくしゃになってしまっている。
「これは…」
「開けるなよ。そして、誰にも奪われるな」
「は…?」
押し付けるように渡され、市村は困惑しつつ受け取る。薄いが少し重い。市村には中に何が入っているのか見当がつかなかった。
しかし、土方の次の言葉に頭が真っ白になった。
「市村…お前にはこの蝦夷を抜け出し、これを俺の日野の家族に元に届けてほしい」
「…は…?」
市村には。
それが土方の言葉とは到底理解できなかった。夢を見ているんじゃないか、と考える方が現実的で、まったく予想だにしていなかった。
「……先生、いくら俺が初陣で、ちょっとビビってるからって…悪い冗談です」
「冗談なんかじゃねえ。俺は最初からそのつもりでお前を戦場に連れてきたんだ」
指先が震えていた。
「五稜郭には人の目が多い。お前だって仲間を置いて抜け出すのは気持ちが良くないだろう」
土方の口にする、一つ一つの言葉が
「今なら、暗闇と雨に紛れて抜け出すのも容易いはずだ」
耳に入らず、心に響かず
「お前にしか頼めないことだ」
まるでこの雨のように冷たく感じた。

市村はしばらくの沈黙ののちに、受け取った手紙を、押し戻すように土方の胸に押し付けた。
「…先生、これは…お返しします…ッ!」
悲しみと怒りと疑問と…いろんなものが混じりあい、市村は叫んだ。
「いくら俺が使えない、足手まといだからって…俺にはできません!こんな、状況で…こんな時に!先生や皆を置いて逃げる様な真似は…!俺にはできない!」
そんなことはできない。兄と同じようなことはできない。
「仲間を裏切るようなことはできない…!」
兄は、流山にたどり着く前に新撰組を抜け出した。もちろん弟に『一緒に逃げよう』と声をかけたが、市村はそんな兄が情けなくて仕方なかった。
『負けるから逃げるのか』
『勝てないから逃げるのか』
兄を問い詰めて、結局彼は一人で逃げた。おそらくは故郷に帰り、これからのうのうと生きていくのだろう。それがただしいのかもしれない。けれど、市村にはそんな兄が恥ずかしくて、だからこそ戦い続ける道しか選ぶつもりはなかった。
その事情を土方も知っているはずだ。だからこそ小姓として傍に置いてくれたのに。
けれど土方は
「もう決めたことだ」
と動かなかった。
「先生…!いやです…!」
「どうしてもいやだというのなら、お前をここで斬る」
「…っ!」
迷いなく一蹴されるどころか、土方は「鬼副長」の目を市村に向けていた。強い眼差しは見つめられているだけで殺されそうなほど。
市村は力なくその場に座り込み、愕然と項垂れる。つき返しても、受け取ってもらえない手紙を握りしめた。
すると土方は市村の肩に手を置いた。
「…市村、これは任務だと言っただろう。俺の指示だ、仲間を裏切るようなものじゃない」
「それは…屁理屈です…」
「屁理屈も理屈のうちだろう。それに…全ては仲間の為だ」
「…仲間の為…?」
市村が顔をあげると、土方は深く頷いた。そして問いかけた。
「…野村が、なんて言っていたか、知っているか?」
「野村…さんですか…?」
「生きて、証明する。俺たちが何故戦い続けたのか…自分たちの正しさを、生きて証明すると言っていたそうだ」
「……」
野村らしい言葉だ、と市村は思った。直接かかわった機会は少ないが、あの明るさに皆が救われていたことは良く知っている。
ぽつ、ぽつ…と止んでいた雨が、再び降り始めた。
「…市村。おそらくこの戦には…負けるだろう。五稜郭まで攻め込まれるのは時間の問題だ」
「土方先生…!」
「だが、誰かが生き続けなければならない。野村の言ったように、俺たちが生きた証を…誰かが伝えなくてはならない。そうしなければ、今まで死んだ奴ら皆が…生きた意味を無くすだろう」
雨と共に、また遠くで銃弾の音がする。
「俺にとってそれだけは避けなければならない。俺は…新撰組の、死んでいった奴らの正しさを貫くために、生きてきたのだから」
ああ、そうか。
(この手紙は…きっと遺書なんだ…)
日野への贈り物でも届け物でもなく、市村を逃がすために方便でもなく。
託されたのは土方の最後の意思なんだ。
「…先生…」
「何だ…」
「これは…俺にしかできないことですか…?俺なら…できることですか?」
市村は手紙を強く、強く握りしめた。
土方はもう死ぬことを知っている。自分がもう引き返せないのだということを、見通してしまっている。そしてそれを受け入れている。
それを覆すのは難しい。現実を見ればそれは明らかだ。
だとしたら、新撰組隊士として自分にできることは何だろうか。この塹壕で身を潜めている以上に、意味のあることなのではないだろうか。
土方がそう言ってくれるなら。
「ああ…お前にしかできないことだ。人にはそれぞれの役割がある。相馬には新撰組を守るように伝えている。だから、お前の役割は…俺たちが何のために戦い続けて命を燃やしたのか、そして…俺が最後まで紛れもなく新撰組の副長であったことを、郷里の人に伝えることだ」
その願いを心臓の刻もう。
握りしめたままの手紙を、市村は懐に仕舞った。そして答えた。
「…命に代えても、果たします」
降りしきる冷たい雨の中で、市村は膝をついて誓った。





明治四月十四日、早朝。
「敵が撤退していきます!」
前線からの報告に、土方はようやく一息つくことができた。
昨日の昼から続いた激戦は深夜の小競り合いを経て、新政府軍の弾薬が尽き、ようやく終結へと向かった。旧幕府軍側も三万五千を超える銃弾を消費し、戦場には数万の薬莢が散乱していた。しかし、これはただ一時的に退けたに過ぎず、新政府軍の補給が完了すれば、同じようにまた戦が始まることだろう。
(市村はちゃんと切り抜けただろうか…)
脱走を促した少年は、悔しさと悲しみに顔を歪めつつも、土方の命令に従った。若い感情を抑えて使命を背負ってくれた彼には感謝している。ただこの戦況を切り抜け、海を渡り、日野にまでたどり着けるかどうかは…土方も運だと思っている。
そして、自身の状況も運次第だ。
(次に勝てるかどうか…)
新政府軍と同じようにこちらも銃弾を補給し、同じ数の敵勢ならば再び退けられるだろう。あちらが諦めるまで戦い続けることはできるが、しかし大鳥が包括する木古内や松前が落ちれば話は別だ。
(松前…か…)
松前には旧友である伊庭と本山の遊撃隊が向かっている。腕の覚えのある者でも、数で押し切られれば追い詰められてしまう。
(死ぬなよ…)
まだ別れには早いはずだ。
生き残っている唯一の友人を思いながら、土方は軽く目を閉じた。


「撤退!撤退―!」
伊庭は幾度となく聞いた命令に「またか」と舌打ちした。
明治二年四月九日に乙部に上陸した新政府軍は、松前・木古内・二股から進軍を開始し、そのうちの松前ではこれまでの間に三度にわたり江差奪還を試みた。新政府軍との激闘は一進一退を繰り返したが、そのなかで何度か奪還を掴みかける場面もあった。しかし、もう少し…というところで五稜郭本営の指示で後退する羽目になってしまい、伊庭は苛立っていた。
「榎本総裁は何を考えているんだ!」
遊撃隊隊長という立場でありながら、怒りに任せて怒鳴るのはいかがなものかと耐えてきたが、我慢の限界だった。犠牲を払って勝てる戦だったというのに、撤退をしてしまっては、死んでしまったものが無駄死にになる。
苛立った伊庭を、さすがの本山も窘めることはなかった。
「…五稜郭との連携が上手く行っていないのかもしれないが…三度も出陣、撤退を繰り返せば兵にも悪影響だ」
「くそ…」
しかし今回の戦は夜半から始まっていたため、疲れ切っていた旧幕府軍兵は皆命令に従い、撤退を始めた。伊庭も仕方なく江差に背を向けることにする。
「そう言えば、二股口はどうなったって?」
苛立ちを抑えつつ伊庭が訊ねると、本山はふっと笑った。
「さすが軍神様…というところか。昼間から夜を跨ぎ、朝まで戦い続けて、新政府軍を撤退させたそうだ」
「はっ…軍神、というよりは何か怪しい妖怪でも憑りついているんじゃないか。この状況で押し勝つなんて、あり得ない」
「そうかもしれないが…余程戦慣れしているようだな」
「まあ…鳥羽伏見からずっと戦続き…」
言葉を止めた伊庭は「いや」と首を横に振った。
「歳さんからすれば、江戸を旅立って浪士組に加わったあの時から…戦を続けているのかもしれない」
「……」
壬生浪士組、新撰組…そのすべての日々が彼にとって戦だったのかもしれない。孤独な戦ばかりを続けてきたのかもしれない。
「決して羨ましいとは口にしないが…でも、武士としては誇らしい人生なのかもしれないな」
同じ道を歩みたいとは思わない。歩めるとも思えない。けれど、土方が今まで歩んできた道のりは、その背中は、武士として生きる誇りに満ちているように思える。
「お前は土方さんのこと……」
「…あ、また余計なことを言うんじゃないだろうな?」
伊庭が土方のことを語るとき、本山はいつも良い顔をしない。それは甚だ迷惑な勘違いを本山がしているせいなのだが。
しかし本山は首を横に振った。
「…いや…そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
「…八郎は、土方さんに憧れているんだな」
「え?」
それは今までにない指摘だったので、伊庭は素直に驚いた。本山は続けた。
「お前はいつも友人だって言うけれど…それ以外の『何か』を土方さんに向けている気がした。だから俺も…気になっていたんだ」
「それが憧れだって?」
「尊敬とも言えるかもしれない。だから…俺はやっぱり、土方さんが羨ましい」
心境をありのままに吐露する本山は、少し子供っぽく見える。伊庭はそれまでの苛立ちが消え失せて、この男がとても愛おしく感じた。
そして同時に、「そうだろう」とすとんと心に落ちた。
幕臣だった伊庭は、試衛館の食客たちが浪士組に参加することをとても羨ましく感じていた。彼らは武士として立場を確立している伊庭を羨ましがっていたが、伊庭からすればそんなものは足枷でしかなかった。
それから、八月十八日の政変、池田屋、蛤御門…彼らの活躍を耳にする度に、称賛の心と羨望の眼差しを向け続けていた。農民という身分から、這い上がって、いつの間にか伊庭よりも上に居る彼らがとても恰好の良いものに思えた。
だから、同じように戦い続けているのかもしれない。せめて「幕臣」という誇りだけは汚さぬように、生きて、死にたいと思っていた。彼と同じように。
伊庭は照れ隠しで苦笑した。
「やっぱり嫉妬じゃないか」
「男なんてそんなものだろう。惚れた相手にはいつでも『カッコいい』って思われたいんだ」
「思ってるよ」
「嘘つけ。自分の方がカッコいいって思ってるに違いない」
「そんなことはない」
戦場にはいつも、無しかない。相手を無に陥れるか、自分が無に嵌るか。そのどちらに自分が堕ちるのかだけを争う。それは心を蝕む。
そんななかでも、愛しい者とともに居られるなんて、自分は幸福に違いない。撤退しているとしても、負け戦になったとしても、隣に彼がいるのなら悪くないと思える。
(こんな日々を、いつまで過ごせるのだろう…)
生きるのも一緒なら、死ぬのも一緒が良い。
そう願うのは贅沢なのだろう。
土方だって、相馬だって、本当はそうしたかったはずなのに、叶わなかったのだから。
「小太」
「ん?」
「もし片方が先に死んだとしたらさ」
「そう言うことを言うな。縁起が悪い」
本山は渋面を作って即答した。しかし伊庭は「いいから聞けよ」と強引に話を続けようとした。
「ちゃんと…」
三途の川の手前で、待ち合わせをしよう。
そういって手をのばしかけたのに、しかし、その言葉は背後から響く発砲音によって遮られた。
「敵襲!敵襲です!!」
殿を勤める隊士から、悲鳴にも似た声が上がった。伊庭は咄嗟に振り返り、刀を抜く。本山に比べれば早い速度だった。
「残党か?!」
「新政府軍は撤退したはずだ、数は少ない」
「だったら応戦だ!」
本山の状況予測に、伊庭は即座に判断を下し、隊士たちに命令を出す。出陣と撤退を繰り返してきた兵士たちは、疲れていたものの逃げ出すことはない。行く道を切り返して、背後から襲ってくる敵に斬りかかっていく。
「俺も行く」
伊庭は駆けだそうとしたが「待て」と本山に止められた。
「何だ」
「敵の数がわからない中で、隊長が先陣を切るのは危ない。もし何かあった時に、誰が遊撃隊を率いることができるんだ」
「…だが…!」
本山はいつになく強引に伊庭を引き留めた。強く腕を掴み
「俺が行くから。状況を確認したら戻る」
それは正しい判断だったと思う。隊長が前線に立ち指揮を執ることは危険を伴うし、伊庭自身も隻腕の身では最前線の戦場で臨機応変に対応できるは言い難い。それに、残党であれば返り討ちにしてしまえばいい。
「…わかった」
伊庭は頷き、本山も少し口角をあげた。そして掴んでいた手を離し、伊庭に背を向けて走り出した。
砲弾の鳴り響く中に走っていく。
伊庭はその背中を見送った。



弁天台場に控える新撰組の元には、続々と戦況の知らせが舞い込んでいた。新撰組の隊長として、一番にそれを受け取る相馬だが、しかしその状況は判断しかねるものだった。
「土方先生の二股口は新政府軍を押し返したようだが…松前や木古内は危ない」
土方の無事には安堵するが、予断を許さない状況だ。松前・木古内は戦況が悪化しており、じわじわと五稜郭に新政府軍は迫っている。
相馬を補佐する島田もこの状況に良い表情はしなかった。
「…今は乙部からの進軍だが五稜郭が手薄になればなるほど、この箱館湾からの上陸もあり得る。いざとなれば五稜郭での籠城戦も考えておかなければならないな」
島田は腕を組みかえ唸ったものの、相馬はその先を想像した。
籠城してどうなる。本土から新政府軍の兵士が蝦夷に押し寄せれば、この小さな城壁で何日持つのか。勝てる見込みがあるのか…。
そこまで考え込んで、相馬はかぶりを振った。
(…悪い方向に考えてはならない)
戦況を知らせる手紙を懐の奥に仕舞った。
そして弁天台場から見下ろす大地に目を向けた。五稜郭は薄い霧に包まれていた。






明治二年四月十四日に新政府軍を撃退した二股口だったが、二十三日から再び激戦が勃発し、前回の戦を越える持久戦となり、二日間に及ぶ激戦が続いていた。
「連射により熱を帯びた銃身は水で冷やせ!撃つのをやめるな!」
土方が檄を飛ばし、隊士たちはそれに従った。
新政府軍はただただ銃撃を繰り返すだけではなく、急勾配の山を登り、側面から見下ろすように銃撃を加えた。夜を徹しての大激戦が続く中、伝習隊が抜刀によって突撃し、新政府軍を敗走させるという活躍も見せた。しかし、新政府軍は諦めず兵を投入し続け、一進一退を繰り返していた。
そんな四月二十五日。
「土方先生!」
顔を土で汚した兵士が土方の元へ駆けつけてきた。前回の戦も含めるともう十日以上も二股で陣を敷いており、隊士たちの疲労は幾重にも重なっているようだ。
土方は銃を下ろした。
「どうした」
「はっ…!たった今、五稜郭から伝令が。木古内口、松前口は敗走を続けています!」
「そんなことはわかっている」
持ちこたえているのは二股口くらいで、あとの木古内、松前が進軍と敗走を繰り返していると言う話は伝え聞いていたし、良そうもできた。そろそろ敵は五稜郭に迫ってきただろう…そんな危惧もあった。
すると兵士は苦虫を噛み潰したかのように「それから…」と続けた。
「新政府軍が安野呂口からも進軍を開始したようです」
「安野呂だと…!」
土方はさすがに瞳孔を開いて驚いた。
安野呂は二股よりも北部から五稜郭へ進軍するルートだ。険しい道のり故、地元民でも通らないと口を揃えていた為、旧幕府軍は安野呂には迎え撃つ軍を配置さえしていない。
(奴らはここを放棄するだろう)
二股がなかなか陥落しないため、新政府軍がルートを変更したのだろう。
(そう簡単に進軍できるとは思えないが…)
早く二股口を落ち着かせ、安野呂に向かわなければならない。
土方の気持ちは急いていた。

しかし、二股口を死守し続けてきた土方のもとに、撤退命令が届いたのは二十九日のことだった。松前口の矢不来が陥落してしまったことで、二股口の退路が祟れる恐れがあった為だ。
「くそ…!」
土方は唇を噛み、悔しさを堪えた。


一方。
「撤退命令が出たようだ!」
弁天台場に控える新撰組の元に、土方と同じ知らせが届いたが、島田は複雑に表情を歪めていた。
「松前口が堪えきれなかったようだ。矢不来が落ちれば二股口の退路を断たれてしまう。榎本総裁の判断は正しいが…やはり、悔しいな…」
敗走が続く戦のなかで伝え聞く二股口の善戦は唯一の希望となっていた。二股口が新政府軍を撃退する突破口になるかもしれない…そんな淡い期待は打ち砕かれる結果になってしまったのだ。
新撰組隊士たちも意気消沈するなか、しかし相馬は首を横に振った。
「やはり、榎本総裁の判断は正しいと思います。松前口や木古内口では命令系統が乱れていたために、勝てる戦も勝ちきれなかったと聞いています。この五稜郭での総力戦となればその心配がありません」
「…そうだな、それに、また土方先生と戦えるんだ」
「ようやく俺たちの出番ってことだよな!」
「まったく、待ちくたびれたぜ!」
「だよな!」
悪い雰囲気が、一気に新撰組らしい血気盛んなそれに変わる。何よりも大切なのは士気だ、と言い続けてきた土方と同じように相馬も整然と皆を励ました。
その様子を見て、島田はふっと息を吐いた。
「やっぱり、お前が隊長に相応しいよ」
土方が不在の間、誰が新撰組を纏めるのだろうかと危惧したが、そんなものは不要だったのだと島田は悟る。しかし相馬は苦笑した。
「…そんなことはありませんよ。ただ…理由をつけて誤魔化しただけです」
「誤魔化した?」
「戦況は頗る悪い。松前、木古内そして安野呂からの進軍に、もしこの海から上陸されれば…一溜りもないでしょう」
弁天台場から見える海は、いままだ穏やかに揺れている。しかしこの海を新政府軍が支配したならば、山からの進撃と併せて五稜郭は取り囲まれることになる。甲鉄を奪われ、開陽を失っている旧幕府軍には海の上で対抗する術は無い。
「お前は涼しい顔をして、色々なことを考えているんだな」
「…そうでもありません。案外…楽観的に考えている部分もあります」
「へえ?」
島田は首を傾げていたが、相馬はそれには答えずに海の向こうへと目を向けた。
(どうか…守ってくれよ…)
青に溶けたお前が、きっと敵から守ってくれるはずだ。
そんな空想じみた願いと希望がいつも心の中にある…そんなことを島田に言えるはずはなかった。
そうしていると
「相馬さん!」
と名を呼ぶ声が聞こえた。少し甲高い声は懐かしくも聞こえる。声の主を見つけると相馬は顔の緊張が解けて、手を振った。
「田村君」
新撰組隊士の田村銀之助。いまは榎本総裁附きの小姓であり、また陸軍隊春日左衛門の養子だ。若年の為、非戦闘員として扱われており、通訳のもとでフランス語を学んでいる。
彼は急いで相馬と島田の元へやってきた。
「久しぶり」
「相馬さん、島田さん、お久しぶりです。弁天台場の戦況はいかがですか?」
「戦況というほどのことはない。いつも暇にしているぞ」
相馬と島田が苦笑して答えると、田村は安堵したように「そうですか」と息をついた。常に五稜郭に身を置いている田村には、忙しない日々が続いているのだろう。
「それよりも、五稜郭はどうだ?」
「はい。矢不来が堕ちたことで、おそらくは七重浜での攻防が続くのではないかと言うことになっています。土方先生が戻られれば、そのあたりも話しがすすみ、またこちらにも話が届くかと」
「そうか…」
日和見だった戦が、ついに間近に迫っている。相馬はそんな実感が初めて沸いたような気がした。
「それで、何の用だ?非戦闘員のお前が伝令…というわけではあるまい?」
島田が腕を組みなおすと、田村は表情を曇らせて、相馬へと目を向けた。
「はい。…相馬さん、一緒に箱館病院に来てくれませんか?」
「箱館病院?」
「高松凌雲先生がいらっしゃる病院です。怪我をした兵士たちを看てもらっています」
「何故、俺が…?」
相馬は首を傾げる。
以前、一度だけ高松凌雲との面識はあった。野村が銃撃されたときに手当をしてくれたのだ。高松はもともと一橋家のお抱え医師であり、慶喜が将軍になったことで幕府奥詰医師となった。幕府への恩義から榎本共に北上し、医師として戦争に参加している。
「相馬さんに会いたいという方がいるのです」
「俺に…?新撰組の隊士か?」
「いえ…遊撃隊の伊庭八郎先生です」
「伊庭先生?」
田村の表情、そして彼の居場所…背筋がゾクリとする悪い予感が頭をよぎった。
「…まさか、お怪我をされているのか…?!」
「はい…松前での戦で腹部に被弾されたため、重篤な状態です。相馬さんに会いたいと…」
「まさか…」
伊庭との交流は左程ないが、出会いから野村が撃たれたあと、そして野村が死んだ後も気にかけてもらっていたことは知っている。相馬が気落ちしている間に彼も松前に行ってしまったので、見送ることはできなかったのだが。
「…本山さんは?」
「もとやま…さんですか?」
彼と共に行動し、松前にも向かったはずだ。常に一緒にいる二人だから、田村の口から本山の名前が出ないのはおかしい。しかし、田村は本山の名前すら知らないらしい。
(どういうことだ…)
思い悩む相馬の背中を、島田が押した。
「何があったのかは知らねえが、取りあえず行って来い」
「…わかりました。島田先輩、よろしくお願いします」
相馬は島田に新撰組を預け、田村と共に弁天台場を出た。台場を離れるのは久しぶりだった。
二人で並んで歩いていると、田村が言葉を濁しつつ切り出した。
「あの…相馬さん、市村のことは聞きましたか?」
「市村?市村鉄之助か?」
「はい。土方先生と共に二股口に向かって…」
「ああ…まさか彼の身にも何かあったのか?!」
相激戦が続く二股口で初陣を迎えた市村は、さぞ苦労しているに違いないと相馬は身を案じていたのだ。
しかし田村は首を横に振った。
「市村は…戦から離脱したそうです」
「離脱…?何故だ?」
「わかりません。ただ二股口から箱館病院に収容された兵士からは、いつの間にかいなくなっていた、逃げたのではないかと…」
「…まさか…!」
誰よりも勇敢に戦に参加したいと願っていた彼が、逃げ出したというのか。相馬は信じられない気持ちでいっぱいだったが、田村も同じようだ。
「あいつに限ってそんなことはないと僕は信じています…はは…おそらく道に迷っているのでしょう…」
彼は寂しげに笑って誤魔化した。
(それほど、戦が過酷なものだったのだろうか…)
弁天台場に控えているだけではわからない熾烈な戦が始まっているのだと、相馬は改めて自覚したのだった。






田村とともに向かった箱館病院は、怪我人で溢れかえっていた。
「これは…」
相馬は驚きを隠せなかった。
箱館病院の噂は聞いていた。病院の長である高松はもともと幕府の奥詰医師であり、旧幕府軍の怪我人などを看てきた。フランス留学を経た高松の医学知識は群を抜いていて、榎本の依頼で箱館病院の院長に就任したが、その際に「病院の運営に関しては任せること」という条件を榎本に受け入れさせた。そして、高松は敵味方関係なく怪我人の治療に当たったのだ。
(話には聞いていたが…)
高松のその行動について、味方の中でも賛否が分かれた。高松は旧幕府軍の医師であるのだから味方のみを治療するべきである、とか、怪我人に敵味方は関係ないだとか…相馬には実感がわかないことだったが、こうして目の前にすると複雑な感情になった。
(このなかの誰かが仲間を…野村を、殺したのかもしれない…)
そう考えると、怒りが込み上げてくるのを止めることはできない。
実際、収容されている彼らも同じようで、軽い怪我の者はいがみ合い、口論となっている様子も見受けられた。
「これでもマシになったほうです」
田村は苦笑した。
戦線を離れ、フランス語を学ぶ田村は時折この病院に足を運んでいるらしい。高松はフランスで学んだ英才であるので、彼に学ぶことも多いのだろう。
「こちらです」
田村の案内で相馬は病院の奥へと進んでいった。
奥へ進むにつれ、比較的軽い怪我と思われるものからだんだんと重い怪我を負った兵士たちが増えてきた。もう声を発することはできないような者や、腐敗臭のするけが人もいる。こうしていると敵味方などの区別はわからなくて、皆が同じ一人の人間だったのだと思い知る。
そして、同時にこの奥にいるという伊庭の容体が心配になった。重傷人ばかりが集まる病室に彼はいるのだ。決して良い状態とは言えないのだろう。
しかし伊庭の元にたどり着く前に高松の姿が見えたので、相馬は駆け寄った。
「高松先生…ご無沙汰をしております」
「…ああ、君は…新撰組の、相馬君」
「あの時は…お世話になりました」
相馬は深々と頭を下げた。高松と会うのは野村の治療以来のことで、その時も左程言葉を交わしたわけではない。しかし高松は覚えてくれていたようだ。
「ああ…しかし、あの時、せっかく取り留めた命がもう無いのだと思うと…戦とは無情なものだと思い知るな…」
「…申し訳ございません」
顔を顰めた高松に、相馬は謝ることしかできなかった。彼が尽力して助けた野村の命はあっという間に果てた。その事実に彼が脱力するのは当然だ。
「いや…戦とはそういうものだとは分かっている。いまこの病院にいる者も治れば戦に出て行くのだろう」
「…あの、先生。伊庭先生の具合は…いかがなのですか?」
逸る気持ちを抑えきれず、相馬は伊庭に対面する前に高松に訊ねてしまった。
伊庭に会うのが怖い。それは嫌な予感を拭えないからだ。
すると高松はさらに渋面を作った。
「…よく生きて帰って来られたものだと、感心するほどだ。弾を抜けないほどの状態だ。今あの者は…気力だけで生きている」
「そんな…!」
宣告された事実に、相馬はまるで雷を落とされた気持ちになった。高松は続けた。
「木古内で胸部に被弾している。もう施しようもない状態であり、本人も…おそらくは長くないと分かっている」
「……」
相馬は口を開けたまま、何も言うことはできなかった。
野村はあっさりと目の前からいなくなってしまった。彼の痛みや苦しみを知ることもなく、まるで消えるように。しかし、伊庭は違う。消えていく灯のようにゆっくりと死へと向かっているのだと言う。
田村は痛ましい表情を浮かべていた。
「ですから、土方先生や相馬さんをお呼びしたんです。会いたいと…おっしゃったので…」
「…土方先生も?」
「はい。ただ、まだ二股口からお戻りではありませんので…そのうち、足を運ばれるのではないかと思います」
「そう…か…」
伊庭の状況を教えられ相馬は俯いたが、高松が「ごほん」と軽く咳ばらいをした。
「見舞いに来た者が暗い表情を見せるんじゃない。誰よりも苦しんでいるのは患者だということを忘れてもらっては困る」
高松は冷静に諭して、相馬に念を押した。
(その通りだ…)
相馬は何とか頷いた。

高松と別れ、ついに伊庭のもとにたどり着く。他の患者からそれなりに仕切られた場所に彼は横たわっていた。
「…ああ、相馬…か…」
「伊庭先生…」
伊庭は痛々しい姿だった。胸部に被弾したという怪我よりも、まるで生気が抜けてしまったかのように痩せこけた表情の方が目についてしまった。
「情けない…姿に、なっちまった…」
彼は無理に笑おうとしたが、しかし傷が痛んだのかすぐに顔を顰めた。相馬はベッドの近くにあった椅子に腰を降ろした。
「木古内では…大変な戦だった…そうですね」
「…ああ…押しては引く…もどかしい、戦だった…」
相馬の問いかけに、伊庭はまるで遠くを見るような目をしていた。木古内では本部からの命令系統が乱れ、勝てる戦も勝てないような状況だったと聞いていた。しかし、彼にとっては既に遠い過去のことなのかもしれない。
伊庭はか細い声で続けた。
「それに、比べて…歳さんは、勝ち続けて…いるんだろう?」
「はい…そのように伺っています。見舞いにもそろそろ足を運ばれるかと…」
「…ふ…ふふ、死ぬ前に会いたいとは…思ったけれど、会えるとなれば…複雑だ。こんな情けない…姿で…」
強がる姿がかえって痛々しい。
「…そんなふうに…おっしゃらないでください…」
相馬は何を言ったらよいのかわからずに、俯くことしかできなかった。
死ぬことを悟っている伊庭を目の前に、何の言葉が意味を成すと言うのだろう。
(この感覚を…覚えている…)
あれは、京にいた頃。
労咳に侵された沖田への接し方を、相馬は悩んでいた。野村はいつも通りに無邪気に接していたが、相馬にはそうすることはできなかった。それは同情や憐みだったのかもしれない。
「相馬…」
「は、はい」
相馬が言葉に迷っていると、伊庭はそれまでの穏やかな表情を消して、声を落とした。
「…お前の気持ちが…わかるんだ…」
「え?」
「いや…わかっていたと思って…居たけれど、どこかで…他人事だとも、思っていたんだ…。こんなに、痛いなんて…思わなかった…」
彼はとても抽象的な言い方をした。傍に居た田村には何のことかわからないようだった。
「歳さんは…こんなものを、二年も抱えていたんだな…」
けれど、相馬には直感的にわかった。
彼が、何を言いたいのか。
彼が、何を伝えたいのか。
彼に、何が起こったのか。
「本山先生は…亡くなられたのですか…?」
被弾の痛みよりも、彼が傷ついていること。感情を押し殺すことでしか、やり過ごせないこと。
(それは…『半身』を、失ったからだ…)
身体を半分奪われてしまうような痛み。それを相馬と土方は味わった。彼はそれを言いたいのだろう。
伊庭は何の反応も見せなかったが、少しして頷いた。
「…木古内で敵に急襲された…その時に、殿を……あいつが…」
「そうでしたか…」
伊庭は『死んだ』とは言わなかった。言えなかったのかもしれない。
それを口にするということは、本山の死を認めるということになる。彼にはどうしてもそれができなかったのだろう。
「正直…それからは、記憶が無い…んだ。何故いま、ここに倒れているのか…わからない…」
「……」
死に至るような胸部への痛みですら、『半身』を失った痛みには届かなかった。死すら、今の彼には何の痛みにも恐怖にもならない。
(その気持ちは…わかる)
まるでここに生きているのか、生きていないのか、わからないような感覚。心をあいつが持って行ってしまったんじゃないかというほどに、空虚で空っぽな自分。
「…先生」
相馬は彼の右手に手をのばした。乾いた手のひらに重ねた。
「いまは…悲しみに向き合う時ですから…」
「…」
「だから…大丈夫です」
伊庭の痛みを前にして、相馬にもあの時の苦しみが込み上げてきそうだ。
この悲しみを癒すものは、時間しかない。ぽっかりと空いた穴に何かが満たされていくまで、生きていくしかない。
(けれど、急ぐこともないはずだ…)
悲しみに浸ったっていい。苦しみに悶えてもいい。むしろそうしなければならない。そうしなければ、この空虚で空っぽな穴を誤魔化してしまうから。
「…ああ…そう、だな…」
彼には時間がないのかもしれない。悼む時間すら、残されていないのかもしれない。
でも半身を失った痛みに向き合ってもいい。
亡くした人との思い出を、繰り返せばいい。
大丈夫だと、思えるまで。
生きていくのだと、悟れるまで。
(そうか…)
あの時も、そう言えばよかったんだ。
『大丈夫だ』
と。
そう背中を押して、励ますだけで良かったはずだ。そうするだけで、あの人はもしかしたら喜んだのかもしれない。








夜の病院は静まり返っていた。
定期的にろうそくに火を灯した婦人…高松は「ナース」と呼ぶが、彼女たちが病人の様子を見て回っている。敵味方も収容された病院では、昼間はけが人や病人同士がいがみ合い諍いを起こすこともあるが、夜になるとまるで嘘のように静かになる。
そんななか、カツン、カツンと靴の音がした。外国文化を取り入れ始めた時代になっても、いまだに靴を履いているものは少ないはずだ。そしてその音は、まっすぐに伊庭の元へ近づいていた。
伊庭は目を開けた。もともと眠っているわけではなかった。
やがてその足音はすぐそばに近づいた。
「…起きてるか?」
訪問者はナースたちと同じように手に蝋燭を持っていた。その淡い光で端正な顔が浮かび上がる。
「歳さん…でしたか…」
胸の中に微かに抱いた希望が打ち砕かれる。しかし、わざわざ見舞いに訪れた友人、伊庭はどうにか微笑んだ。
「具合はどうだ?」
「…見ての通りですよ。情けない…ことに…」
「……」
土方は沈黙した。
これが治らない怪我だと言うことを伊庭は知っている。ゆっくりと身体が朽ちていくのを感じている。次第にこの視界は失われ、声も聞こえなくなり、何も話すことはできなくなるだろう。
急に、時が過ぎるのがゆっくりになった気がした。そしてその時間の中で考えた。
(何のために…生き長らえたのか…)
その答えは、まだない。
「歳さんこそ…どうですか?」
外の情報から遮断された病院では状況がわからない。すると土方は近くにあった椅子に腰掛けた。昼間に相馬が座った椅子と同じだ。
「ああ…今日、二股口から戻ってきた。田村にお前の話を聞いてその足で、ここに来たんだ」
「二股口は…勝ち続けて、いたのでしょう?」
「どうにかな」
「流石ですね」
「ただ…敵は二股を諦めて安野呂からの進軍に切り替えたし、木古内や松前口も撤退した。おそらくは…箱館での総攻撃となるだろう」
「…そうですか…」
(しかし、その場所に俺が立つことはできないのだろう)
伊庭はそう悟り、それ以上何も言うことはできなかった。
そして二人の間にしばらくの沈黙が流れた。蝋燭一本の灯りしかない真っ暗闇に二人が黙り込んでいる。流れる時間が重く、冷たい。
「……伊庭」
その沈黙を破ったのは土方だった。
「本山さんは…死んだのか…?」
「……」
その言葉が一層、部屋の空気を重くさせた。しかし、江戸以来の旧知である土方は訊ねないではいられなかったのだろう。
「…ええ…」
伊庭の声は震えていた。相馬の時には堪えた涙が、あっさりと一筋流れていった。
「何故…死んだ…?」
「江差からの撤退途中に…敵に強襲され、あいつは…先導する俺のところに、戻ってこなかった…」
戻るって言ったくせに。
あいつは、俺の元に戻ってこなかった。
その事実を受け入れるまで、数日かかった。兵士から姿が消えたと聞かされても、おそらく戦死されたのだと言われても、それでも「生きているはずだ」と信じていた。しかし、そんな伊庭を絶望に追いやったのは本山の脇差を持ち帰った兵士がいたことだ。本山が勇敢に戦って亡くなったのだと聞かされた。
その瞬間、頭が真っ白になって。
(勇敢になんて…戦わなくて、良かったんだ…)
生きて、戻ってくれたほうがどれだけ嬉しかったか。
「歳さん…」
「…なんだ」
「歳さんの気持ちが…少し、わかりました」
「俺の気持ち…?」
土方はこの状況で生き続けてきた。たった一人、勝てない戦を続けてきた。
死にたい、と何度も願ったのだろう。親愛なる友人たちの元へいけるなら、それだけ幸せかと。
しかしその度にそれができないのだと思い知ったはずだ。
「…小太や…沖田さんはきっと、俺たちに生きてほしいと願うのでしょう。自分たちの分まで…って。でも…俺たちは、この戦に負けて、新政府軍に首を垂れて生き続けることなんてできない…そんな生き方を、きっと選ぶことはできない…」
「…ああ…そうだな…」
土方は静かに聞いていた。伊庭は天を仰いだ。
「生きればいいのか、死んだ方が良いのかわからない。…いっそ誰かが殺してくれないかと…そう、願うばかりだ…」
「……」
土方は今度は「そうだな」と言わなかった。
ただただ、伊庭の言葉に耳を傾けていた。


土方が病院を出たのは、伊庭の元を訪ねてから半刻ほど過ぎた深夜だった。
伊庭がポツリ、ポツリと語る言葉が重かった。まるで二年前の自分に重なって、聞いているだけでまるで地に落ちていくような落胆を味わった。
片割れを失い、半身をもがれるような感覚。
だったらいっそ、最初から一人孤独に居れば良かったのに、そうすることはできなかった。相馬も、伊庭も、…そして自分も。
土方は病院を背に歩き始めた。
真っ暗闇の中で、あの日のことを思いだした。


不動堂村に新撰組の屯所を移した頃。新撰組はまさに絶頂の時を迎え、幕臣への取り立てを目前に控えていた。
「…は…?」
そんな状況のなか俺の言葉を聞いて、総司がその大きな目を見開きぽかんと口を開けて、まるで時が止まってしまったかのように驚いていた。
「い、いま、なんて言いました?私の聞き間違いですか…?」
「……何度も言わせるな」
俺がそっぽを向くと、総司は驚きの表情から訝しむように首を傾げて腕を組んだ。
「…冗談…ですか?いや、でも冗談にしては土方さんらしくないかな…遊郭で勇名を馳せる新撰組の鬼副長が、いまなんて言ったんですか?」
「…っ、だから!俺と…衆道関係になれって…!」
いや、最初は「なってほしい」と言ったつもりだ。しかし、総司が嘘だと疑って仕方ないので命令口調になってしまった。
だが、俺がそう言うと総司はようやく本当のことだと実感したのか、みるみる顔を真っ赤に染めた。
「き…気でも狂ったんですか?」
俺が意を決して口にしたと言うのに、総司の反応は散々なものだ。しかしもう後戻りはできないし、撤回するつもりもない。俺はこれまでの総司との関係を壊してでも、そう在りたいと思ったのだ。
「俺は気が狂ったわけでも、冗談でもない」
「…そ、そう言われたって…いままで吉原やら祇園やらに通い詰めていた土方さんが、今更…衆道、なんて…どうやって信じろって言うんですか…!」
「お前が嫌だと言うのなら、もう花街に足を伸ばすことはしない。既に女とは手を切ってる」
俺が即答したことで、総司はさらにあんぐりと驚いた表情を見せた。確かに、総司の言うとおり俺は今まで何人もの女と関係を持っていたし女好きは江戸にいた頃から変わらなかった。
しかし、心のどこかに総司のことが引っかかっていた。沢山の女と遊んでも、深い仲に為れずにいたのはそのせいだと確信した。それからは総司への意識が輪郭を為していった。
「で…でも…」
「何だよ、何か問題でもあるのか?」
俺は真摯な眼差しを総司へ向けるが、以前彼は混乱したままだ。耳まで真っ赤に染めて俯いている。
「…やっぱり、駄目です」
「何が?憎からずお前だって俺のことを想っているんだろう?
「そ…そういう話ではありません」
「だったら?」
総司は俯いていた視線を、俺の方へ向けた。そして躊躇いつつ答えた。
「…今は良くても…いつか、後悔するかもしれません」
「後悔…?」
「いつ死ぬのかもわからない…そんななかで、もし片方が…居なくなってしまったら、嫌だから。土方さんとそういう関係になって…残されるのは、辛いでしょうから」
だから、これ以上踏み込むわけにはいかない。
いつか来る別れが悲しいから。
そんな総司の考えが理解できないわけではない。今日明日とも知れない場所に身を置けば、守るべきものを作るのは弱さにつながる。それは俺にも通じる考えだ。
しかし俺は、俺の気持ちをもう止めることはできなかった。
「だったら、俺はお前を置いていかない」
「……」
「お前よりも長く生きる。残される悲しみは…俺が背負う。だったら、いいか?」
俺らしくもなく、総司に対して必死だった。総司に断られ、拒まれたくないと言う思いが強かった。
こんな約束ができるわけはない。何の保証もない。
けれど俺は誓った。
お前を悲しませたりはしない。何があっても、離れ離れにはならない。
「…ふ…っ」
俺がそう食い下がると、総司は力を抜いたように笑った。そして軽く頷いた。
「…わかりました」
「いいのか…?」
「やだな、土方さんから持ち出してきたくせに…」
「それは…そうだが…」
あまりにもあっさりと総司が受け入れたせいで、今度は俺が驚く番だった。穏やかな笑みを湛えた総司からは、肝心のことが聞けていない。
「お前は…俺のことを、どう思っているんだ?」
「…言わなきゃ駄目なんですか?」
「当たり前だ。今度は…お前の番だ」
俺は総司に近づいて、手をのばす。肩から、首筋へ。そして
「私も…土方さんと同じように、想っています」
頬へ触れた。その言葉が紡がれた唇に、ゆっくりと俺のそれを押し当てた。柔らかくて温かい。俺はこんなにも優しい口付けをするのは初めてで、柄にもなく緊張していた。
(生きていて良かった)
そう思ったのは、この時が初めてだった。
しかし、俺たちはすぐにこの幸福から絶望へと落とされる。
総司が労咳になったからだ。








箱館病院を出た土方は、夜半の道を歩き五稜郭へと入った。夜の郭内は不気味なほどしんと静まり返っていた。コツン、コツンとブーツの音が響く。
ここまでくる間、昔の記憶ばかり反芻していたせいか、らしくもなく気が落ちていた。
(…俺は、後悔している…)
いつの日か、相馬に語ったことがある。総司との関係を後悔したことがある、自分たちのようになってほしくはない、と。
それは、毎日が苦しかったからだ。
咳き込み、血を吐き、日に日に死に向かって歩いていく総司を止められない、無力な自分に向き合うのが、苦しくて仕方なかった。けれど苦しさで顔を沈ませることもできなかった。新撰組の鬼副長として弱い自分を晒すことはできなかったのだ。
お前を置いて死んだりしない。
そう約束して、その通り先に総司は死んだ。近藤もいなくなり、土方がすぐに後を追うことだってできた。総司よりも後に死んだなら、彼と交わした約束を反古にしたことにはならないだろう。
しかし
(あんな約束をしたせいで…俺は今まで生きている)
土方にはできなかった。自ら自分の人生に幕を引く…志半ばで首を落とされた近藤や病で死ぬしかなかった総司のことを思うとそんなことはできなかった。それに新撰組の副長として、今でも慕ってくれている隊士たちを見捨てることはできなかったのだ。
あの約束を後悔しているわけではない。ただ…
「…やあ、帰っていたのか」
薄暗闇のなか不意に声を掛けられ、土方は足を止めた。すると手元にランプを持った総裁・榎本の姿が近づいていた。
「ええ…少し前に戻っていました」
「二股口ではご苦労だった。君のお蔭で…ここまで永らえたよ」
苦笑する榎本はまるで終わったかのように語るが、土方は表情を崩さなかった。
「弱気なことをおっしゃらないでください。戦はまだ続いています」
「いや…もう終わりは近いはずだ。良くここまで持ったとさえ思うよ。…君もそう思っているんじゃないのか?」
「…まさか」
あくまで強気な返答をする土方に、榎本はやはり穏やかに笑った。
「私は…君の強さが、羨ましくもあり、そして悲しくもあるよ」
「…どういう意味でしょうか」
ほの暗い灯りの中。二人の間にあるのは榎本のランプだけだ。そのせいで、榎本の表情が良く見えない。
「君は自分がまだ戦える、勝てると思うからこそ…逃げるという道を選ばないのだろう。どんな屈強に立たされても、逆転の道を探す。……しかし、逆に言えば逃げられないと言うことだ。君は苦しみ続けなければならない」
何故だ。
「…君がもっと弱くて、優柔不断な性格だったならば…苦しまないでいられたのだろう」
土方は目を擦って、もう一度榎本の顔を見た。声は彼のものに違いない。しかし
(どうして…かっちゃんに見えるんだ…)
榎本の顔が、流山で別れた近藤に似ていた。何かを諦め、生きることを手放すかのように悟りきった表情。
「榎本総裁…何を考えているのです」
「…ん?」
「とぼけないでいただきたい。あんたは…何を、諦めているんだ」
あの時。
流山で不意打ちのように敵軍に囲まれた。十数人しか残っていない兵力のなか、土方は徹底抗戦を近藤に訴えた。ここで死んでも構わない、近藤を投降させるよりはよっぽどマシだと覚悟した。
しかし近藤は首を横に振った。
『俺が行くよ』
穏やかであり、しかし同時に頑なな決意を感じた。その近藤の表情ががすべてを諦めていたのだと、あとになって悟った。そして、何故もっと必死に止めなかったのかと後悔したのだ。
それを今、榎本にも感じている。
「…これを、敵方に渡すつもりだ」
土方の質問を無視して、榎本は本を差し出す。ずっしりと重たいそれは異国の見慣れぬ言葉で書かれた本のようだ。榎本のものらしい日本語の書き込みもある。
「これは?」
「オランダに留学中も肌身離さず持ちつづけていた『海律全書』だ。…端的に言えば、私がこの日本国の為に学んできたことすべてだ。私に罪があったとしても、私が学んできたこととこの本に罪はない。この本は必ずや今後の日本国の為に必要なものなんだ」
「それを…敵方に渡すと?」
「ああ…」
榎本は本を自分の手元に戻し、大切そうに抱えた。まるで親が子を抱くように愛おしそうに。
しかし、土方は榎本に考えに賛同はできなかった。
「それは駄目だ」
「土方君…」
その本を譲るということは、榎本が降伏するということだ。命さえも投げ出す覚悟をしたということ。そんな決断を易々と受け入れるわけにはいかなかった。
「その本はあんたが自分自身の手で成し遂げるためのものだ。新政府軍の奴らなんかに渡すべきではない」
「そうしたいのは山々だ。しかし…」
「頼むから、やめてくれ」
土方は深く頭を下げた。新撰組の鬼副長の思わぬ行動に榎本はぎょっとして驚いたようだ。
「ひ、土方君!頭をあげてくれ!」
「いや。あんたがその考えを取り下げるまで、そういうわけにはいかない」
「わ…わかったよ。わかったから、頭をあげてくれ」
榎本の返答を得て土方はようやく頭をあげる。土方としてはいくら頭を下げても構わない、土下座さえも辞さない覚悟があったので表情に変わりはない。榎本はため息をついた。
「まったく…君という人は掴めないところがあるな…。ひとまず、この本はまだ私の懐に置いておくが…万が一の時に、この大切な本を残したいという私の気持ちだけは理解してくれ」
「…わかりました」
土方の返答に榎本は満足したように頷いた。
「こんな夜更けに引き留めてすまなかった。疲れているだろう、部屋に戻ってくれ。今後のことは明日話し合おう」
「はい。ではまた明日に」
「…おっと、一つだけ」
部屋に向かって歩き出そうとしたところで、榎本に止められた。
「君から薬の匂いがしたが…箱館病院に行ってきたのかな」
「そうですが…よくわかりますね」
「少し前に私も行ったんだ。病院の匂いというのは特徴的だな。…伊庭君にあってきたのか?」
「ええ…まあ」
土方が答えると、榎本は少し目線を逸らした。
「…彼もおそらくは長くはないのだろう。箱根の戦から、ここまで生き延びてきたと言うのに…」
「……」
伊庭の容体は誰の目に見ても明らかなのだろう。土方は答える言葉がみつからない。
「箱館病院は総攻撃を前に移転することになっているんだが…伊庭君が承知しないようだ。五稜郭に置いて行ってほしいと訴えて、高松先生も困っているらしい。あの状態になっても、戦い続けたいとは…幕臣としての誇りか、武士の性なのだろうか…」
そのあたりの詳しい事情は土方にとって初耳だったものの、伊庭なら言い兼ねないと内心思った。しかしその理由は榎本の予想とは違う。
(あいつは…本山さんと同じ戦地で死にたいのだろう)
先に逝かせただけでなく、床の上で死ぬような最期を伊庭は望んではいないのだ。
「機会があればまた伊庭君を説得してくれ。…では、今度こそお休み」
榎本は土方の傍を通り過ぎていく。土方は振り返り、仄かな灯りが見えなくなるまで見送った。

榎本と別れた後、土方は気怠くなってそのままベッドに横になった。首元を緩めて深い呼吸を繰り返す。すると、見るだろうと思っていた夢を見た。

「ごめんなさい」
病床で総司は何度もそう繰り返していた。大坂城でのことだ。この頃には既に病が進行して、吐血の回数も量も増え、手の付けられない状況になっていた。
「何を謝るんだ」
「…こんな時に…一緒に、戦えないなんて」
ぜえぜえと苦しそうに浅く呼吸する総司は、病に対する弱音など吐かずにずっと戦のことばかりを心配していた。
「大丈夫だ…こうして無事に帰ってきている」
「でも…」
いまはそうであっても、今度は違うかもしれない。総司はそれを恐れているのだろう。
しかし、今後のことがわからないのは土方だって同じだ。将軍さえも逃げ出すこの戦に勝機はあるのか。この絶望の中を生き続けられる保証なんてどこにもない。
だが、固い決意はある。
「…俺はお前との約束を守る…必ずだ」
「……」
だから心配するな。必ず戻ってくる。
言葉にしなくてもあの時の約束を忘れたりはしない。
しかし、守ってください、とは総司は言わなかった。
もしかしたら総司は、その約束が後々、俺を苦しめるのだとわかっていたのかもしれない。






土方が弁天台場の新撰組の元へ顔を出したのは、四月も終わる頃だった。
「土方先生だ!」
「先生!」
「副長!」
段々と近づいてきた戦に戦々恐々としていた隊士たちの目が一気に輝いた。土方の元へ大勢の隊士たちが駆け寄る。
「久しぶりだな」
まさに赤子が母を慕うがごとき…と誰かが言っていたが、隊士の表情はその通りだろう。土方との再会は二股口以来だった。
「土方先生、ご無事ですか?!」
特に表情を明るくしたのは島田だった。古参隊士である島田はこれまで先頭に立って隊士たちを纏めていたが、今はまるで何かの緊張が解けたように破顔していた。
「この通り無事に決まっているだろう。かすり傷一つねえよ」
「良かった…!本当に良かった!」
「大げさだな」
「大げさではありません!二股口の戦は厳しい日々だったと噂に聞いていました。先生がご無事かどうか考えると夜も眠れず…!」
島田は再会を喜び、歓喜のあまり涙を流しそうになるが、土方が「やめろよ」と迷惑そうに顔を顰めたので、堪えたようだ。
しかしそう言いつつも、土方は一人一人と軽く会話を交わし再び会えたことを喜んだ。昔は『鬼副長』と恐れられ、遠ざけていた隊士も多かったと言うのに、今ではまるで吸い寄せられるようの人が集まっていた。
そして最後の最後に相馬の元へやってきた。
「相馬、大変だっただろう」
土方は穏やかに相馬を労うが、首を横に振った。
「いえ…まだ何も。この弁天台場で控えていただけです。実際に戦に出ていた兵に比べれば全く…」
「何を言っているんだ。ここに新撰組がいるだけで安心して出撃できる。前線に出るだけが戦じゃねえ」
「…はい」
土方はそう言って励ますと、相馬の肩を軽くたたき「話がある」と続けた。相馬の方も話したいことがあったので、二人で木陰へと移った。
「お前、伊庭のところに行ったんだろう」
「はい。土方先生も足を運ばれたのですか…?」
「ああ…あいつらしくない姿だった」
「…そうですか…」
相馬は土方の言葉に同意しかねた。実際に伊庭と会ったのは数回しかなく、土方と伊庭の関係に比べれば顔見知り程度の関係なのだ。
しかし、その苦しみは痛いほどわかる。
「本山先生が…亡くなられたそうです」
「…ああ。同じ戦場にいたのに、片方だけが死ぬ…あいつはやりきれないようだったな」
「伊庭先生と本山先生は長い付き合いなのですか?」
「ああ…俺なんかより、ずっと長い」
土方は廃屋になって久しいボロ屋の間口に腰を降ろす。ギシィと軋む音は頼りなくあったが、相馬も隣に腰掛けた。
「俺は若い頃に吉原であいつに会ったのが初めてだが…あいつらは幼い頃からの幼馴染なんだよ。今では隻腕の剣豪なんて言われているがああ見えて、伊庭は剣を取るまで時間がかかったようだ」
「そうなのですか?」
「有名な道場に生まれたからって、剣を好きとは限らねえからな。病弱で剣よりも本が好きだった伊庭は自分の生まれを憎んだこともあったそうだ。…まあ、農民に生まれた俺にはわからねえ気持ちだが…」
土方はそう言って苦笑する。名の知れた道場に生まれ順風満帆に暮らしてきたのだと思っていた相馬には意外な話だった。土方は軽く息を吐いた。
「俺が知っていることは全部伊庭の与太話として聞かされたもので、実際はどうだったのか知らねえ。…そういうあいつの、過去の弱い面も幕臣として生きてきた日々も…全部知っているのは本山さんだけだ。本山さんの前だけなら弱音も零せたのだろう。…だから、俺はあいつらがそう言う関係になったのは別段不思議には思わなかった」
「……」
土方の話を聞くともしかしたら彼らは、衆道関係で結ばれる以上の何か固い絆で結ばれていたのかもしれないと思った。人と比べてどうという話ではないにせよ、あの二人が引き裂かれてしまった痛みや苦しみは相馬が体験した以上のことなのかもしれない。
(そして一人残されて、今も死の淵に居る…)
一体どんな気持ちなのだろう…想像できないほどの絶望に相馬が沈黙していると、土方は懐から一枚の紙を取り出して渡した。
「これは…?」
「…伊庭の辞世だ」
「辞世…」
重たい響きに息を飲みつつ、相馬は目にした。
『まてよ君 冥土も共にと 思ひしに 志はしをくるる 身こそ悲しき』
(…ああ…)
伊庭の絞り出すようなこの短い言葉に、相馬の目頭は一気に熱くなった。その小さな紙を持つ手が震えて、あの日の野村の死に際が蘇った。
あの瞬間。あの、手が離れた瞬間から生まれた後悔の嵐に苛まれる心。
――わかる。
そう口にするのは憚られたけれど、この辞世に込められた伊庭の気持ちはかつて心に占めた悲しみに似ていた。
「…これを目の前に、あいつにこれ以上、生きろとは言えなかった」
土方は伊庭の辞世を取り上げた。相馬の表情から察したのだろう、すぐに懐に戻してしまった。
「せめてあいつの最期が…安らかであることを願うしかない」
「そう…ですね…」
いつか死が彼を迎えにくる。その瞬間がせめて穏やかなものであることを願うしか、もうできることはない。
相馬は滲んだ涙を拭った。土方に気遣われたくはなかったし、新撰組の隊長として目元を赤く腫れさせるわけにはいかなかったのだ。
そして軽く息を吐き、話を変えた。
「あの…一つ伺っても?」
「なんだ?」
「市村君のことです。二股口の戦から戻ってきていないと…田村君が心配していました」
「ああ…」
土方は言葉を濁して、不意に顔を上げた。相馬もつられて見上げると、そこにはうっすらと雲がかかりつつも穏やかな晴れ間が覗いていた。
「市村は…逃がしたんだ」
「え?」
「蝦夷を出て、江戸の日野に向かうように指示した。あいつが日野に着く頃には…この戦は終わっているだろうな」
「な…何故…?」
これまで脱する者、逃げ出す者を厳しく弾劾してきた土方の行動とは思えずに、相馬は唖然とした。そして若いながらも誰よりも勇猛果敢な市村がそれに従ったというのも意外だった。
すると土方はふっと笑った。
「…生きていてほしいと、思ったからだ」
「先生…?」
「ああいう若い奴がこんな負け戦で命を落とす必要はない。そのかわりに俺よりも長く生きて…証明してほしいと言った。お前も覚えているだろう?野村の言葉を…」
「…はい」
『生きて、証明する。俺たちが何故戦い続けたのか…自分たちの正しさを、生きて証明する』
宮古湾での戦の前に野村が語った言葉だ。残念ながらその言葉通りにはいかなかった。
戦いの前線に出て命を散らすことだけが戦ではない。たとえ負けたとしても、自分たちの存在を胸に刻み堂々と生きる…それだけで死んでいったものは救われるだろう。
土方は「ふっ」と笑った。
「…俺らしくないとは思う。死ぬことで己の意思を貫く…それが美しいのだと思っていた。…だが、戦にでて命を張るなかで気持ちが変わったんだ。ここで道連れのように死ぬことだけが道ではない、お前たち新撰組の隊士には一人でも多く生き残ってほしい…」
空を見上げていた土方の視線が、相馬の方へと向く。まっすぐの、真摯な眼差しだ。
「相馬、俺は…お前にその責任を負ってほしいんだ」
「責任…ですか?」
「ああ。ここまでついてきた新撰組の隊士だ、死ぬという決断よりもおそらく生きるという決意の方が難しいだろう。けれど、一人でも多く…生かしてくれ。それが俺がお前に託したいことだ」
「……」
わかりました、とは言えなかった。
相馬自身、この戦が終われば、すべてが終わるのだと思っていた。新政府軍に降伏したのちの人生など自分にはないのだと。おそらく同じことを新撰組の隊士たちは思っているだろう。
そして何よりも、相馬が受け入れられないことがあった。
「…先生は、共に生きてくださらないのですか…?」
「……」
土方が語る未来に、彼の姿がなかった。隊士達に生きてほしいというのなら、彼自身も生きることを決意してもらわなければ説得力がない。土方を慕う隊士達も納得はしないだろう。
しかし彼はそれ以上は何も語らず、立ち上がった。その姿を見上げると、陽光もあってとても眩しかった。
「…俺が新撰組を終わらせて、お前が新撰組を始めるんだ」
「始める…?」
「新しい時代を生きる…新撰組をな」
「……」
それは一体、どんな姿なのだろう。浅黄色の羽織を脱ぎ棄て、誠の忠義を向ける主を失くして生きる…そんな日々にどんな価値があると言うのだろう。
「…土方先生」
相馬も立ち上がり、土方の前に立った。
「この戦…新撰組は全力で戦います。新政府軍を必ずや討ち負かす…その決意がなければ、戦えません。死をも恐れず皆戦う覚悟を持っています…それが新撰組です」
「…ああ、そうだな」
「でも…以前、先生がおっしゃった言葉も覚えています。『新撰組を守る』…それが俺の使命だと思っています。だから…もし、土方先生がおっしゃるような未来が待っていたとしたら、死ぬこと以外の戦い方を見つけるのも一つの道なのだと…今のお話はそう言う意味で、俺の胸の奥底に留めておきます」
「それで十分だ」
土方は満足そうに笑った。その晴れ晴れとした笑顔は、見上げた空のように澄みきっている。
相馬は何となく感じた。
(これが…最後なのかもしれない)
「先生…」
「…なんだ?」
「死んではいけません。俺たちと…生きてください」
その言葉は、思った以上に虚しく響いた。土方の元に届かなかったのだと言うことがすぐに分かった。
それでも伝えたかった。
届かないと分かっていても、せめてそう願っている人が…たくさんいるのだということを声に出して伝えたかった。
「…ああ」

そしてその予感通り、これが相馬にとって土方との最後の会話となったのだった。





松前口の矢不来陥落、そして二股口の撤退により旧幕府軍の勢力は五稜郭周辺から箱館のみとなっていた。新政府軍は内陸の大川と沿岸の七重浜から迫り、特に七重浜では一進一退の攻防が八日間にわたり続いていた。
「…徹底…抗戦…です、か?」
蚊の鳴くようなかすれた声で、伊庭が土方に尋ねた。その問いかけに「どうかな」と土方は曖昧に答えた。
五稜郭の一室。伊庭はベッドに横たわり、その傍らに土方が座っていた。箱館病院の傷病者は戦地を避け湯の川へ送られることになっていたが、伊庭は『これ以上、戦地から離れたくない』と聞かずに結局はその懇願通り五稜郭に入ることになったのだ。しかしその願いがかなえられたとしても彼の肉体の腐敗は進み、死は容赦なく迫っていた。
「抗戦を続けるべきだと主張する者がいれば、勝てない戦なのだからあきらめて恭順すべきだという声もある。…榎本さんは態度を示さない」
攻防を続けている七重浜も突破される寸前だ。おそらくこの二、三日中に五稜郭で戦が始まり、伊庭だけでなく皆に命の危険が迫ることだろう。
「と…し、さんは…?」
体が思うように動かない伊庭は視線だけで土方に語り掛ける。
「俺はもう決めている」
「…戦う、と…?」
「当たり前だ」
土方が断言すると、伊庭が微かに笑った。
たとえ旧幕府軍が恭順の意思を示したとしても、土方は刀を振りかざし敵陣に乗り込むつもりでいた。その覚悟をしているからこそ、周囲が何をどう決めようとも関心はなかったのだ。
「そう…です…よ、ね…」
伊庭は苦しくなったのか目を閉じた。こんなに弱弱しくなってしまった伊庭を見るのは初めてで、土方は視線を逸らしてベッドの傍らから離れた。
五稜郭の窓から外を見る。清々しいほどに晴れ渡った空は、海と同じ青い色で染まっていた。まぶしすぎる太陽の光に空気が、海がキラキラと輝く。
(いいところだ)
五稜郭に入って数か月経つというのに、土方は今更そんなことを思った。海を渡り上陸したときは雪が降り積もり視界も暗く、(こんなところでやっていけるのか)と不安になったものだが、季節が過ぎればこの北の大地にも必ず春がやってくる。
(青い…)
この青い空と、青い海。その彼方に一体何があるのだろう。
「…羨まし…いな…」
伊庭の声が聞こえて、土方は振り返った。横たわったままの伊庭が、苦しそうに顔を歪めて、でも何かを伝えようとしている。
「俺は…ずっと、羨ましかった…。歳さん…は、知ら…ないでしょう…?」
「羨ましい?俺がか…?」
驚く土方に、伊庭は軽くうなずいた。
羨ましいと思っていたのは土方の方だ。本人の意思はともかく、有名な道場の跡取り息子に生まれ、流れる血に沿う剣術の腕を持ち、頭も良い…加えて容姿端麗で女にモテる。江戸にいたころの土方は年下の伊庭に対して決して口にはしなかったが、羨ましいと焦がれていた。
しかし、それは伊庭も同じだったと語る。
「浅黄色…」
「ん?」
「浅黄色のだんだらだって…新撰組の、揃いの羽織…」
「ああ…まあな」
浅黄色が良いと言い出したのは芹沢で、だんだらにしようと主張したのは近藤だった。浅黄色は切腹裃の色、だんだらは忠臣蔵を模した衣装。それぞれに明確な想いを乗せた末に完成した羽織だった。土方は最初はそれを嫌がった。浅黄色は江戸の吉原では貧乏侍の象徴のような色でそれに役者衣装のようなだんだらは目立って仕方なかった。一時は羽織を全く着なかった時期もあった。
しかし、戦況が悪化していくなかで着用の機会は増えた。
新撰組で居ること。
新撰組で在ること。
その思いが苦しい戦の支えになり、それを証明できる羽織だった。
「…野暮ったくて…気障っぽくて…俺には、とても…着れないや…って、思って…ましたけど」
「ふん…お前はそうだろうな」
憎まれ口をたたく伊庭は、しかし穏やかに笑った。
「でも…羨ましかった…」
「……」
周囲の声なんて関係ない。己の意志を貫くだけだ。その誓いを背負うあの羽織は…新撰組そのものだったのかもしれない。
「歳…さん」
「…なんだ」
「生きても…良いんですよ…」
既視感のある言葉だった。
『死んではいけません。俺たちと…生きてください』
相馬と話をしたとき、彼はそういった。しかし、そう言いつつもその表情はどこかあきらめていた。頭の良い相馬は土方の中にある決意を察していたのかもしれない。そして同じように機転の利く伊庭も同じなのだろう。
土方は一息ついて語り始めた。
「伊庭、もう俺には無理なんだ」
「……なに、が…」
戦を目の前にした相馬には、何も返答してやらなかった。どんな言葉も相馬の希望に沿うものではないと分かっていたからだ。けれど、伊庭は違う。伊庭もまた死を覚悟している。これが最後の会話かもしれない。
「今は…陸軍奉行並だとかそんなのもあるが、俺は…新撰組の副長だ。その生き方を変えることはできない。俺は…新撰組として死んでいった奴らのために、戦って戦って…死ぬんだ」
「…」
「お前が…周りの奴らが言いたいことはわかっている。俺は生き続けることを願われているのかもしれない。新しい時代になってもしぶとく生きる…そんな道もあるってな。…でも、どうしても駄目なんだ」
「駄目…って…」
「それは、士道不覚悟…局中法度で切腹だ」
土方の答えを聞いた伊庭が驚いたのか一瞬目を見開いた。「そんなことで」と言いたげな眼差しだった。
しかし、土方は本気だった。
今までずっと新撰組の副長として生きてきた。新撰組のために隊を律し、局中法度で人を縛った。そんな自分が、敵軍に降伏し生き続けるのは『士道不覚悟』に違いない。かつての鬼副長ならそう断罪するだろう。
だから、逃げない。
だから、戦う。
だから…死んでもいい。
歩んできたこの道を駆け抜ける以外に、もう何も残っていない。
「俺は新撰組の一員として生きて…生き尽す」
その最後の一瞬まで。
新撰組の副長として死ねるなら、本望だ。
しかし、目の前の彼は納得をしようとはしなかった。
「お…!沖田、さんは…!」
それまでか細い声だった伊庭が力の限りに叫んだ。しかし一言を発するだけで精いっぱいだったのか、それ以上は顔を顰めて苦しそうに息を吐いた。
土方は先ほどまで座っていた椅子に再び腰かけた。
「ああ…総司は怒るかもしれないな。でも、あいつとの約束は果たした…あの世であいつに許しを請うしかない」
総司と別れたあの日。
『負けたって、帰ってきてもいいんですよ』
彼はそう軽やかに告げ、土方は『馬鹿言え』と答えた。けれど、その言葉がずっと頭に残っていた。
(怒って…怒って、でもあいつは許してくれるだろう)
負けて、あいつのもとに戻った自分を迎え入れてくれるだろう。
「…たとえ身は蝦夷の島根に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらん」
「と…し、さん…」
「辞世だ。伊庭…お前と同じだ」
死んでいった者たちに、この命を捧げる以外にもう願いはない。
伊庭はつらそうに表情を強張らせた。けれど、次第にその苦しみが薄れていってゆっくりと息を吐いた。
「…仕方…ない、人ですね…」
「ああ…」
伊庭が土方の答えを受け入れたことに、土方は安堵した。
(俺は認めてほしかったのかもしれない)
誰かにこの気持ちを打ち明けて、理解してほしかったのかもしれない――。


それからは他愛もない雑談を交わしたが疲れさせてはいけない、と土方は部屋を出た。
「また来る」
と言い残したものの、いつ戦が始まり、いつ彼の命が尽きるのかもわからない。そんな二人の不確かな別れだった。
すると、部屋のすぐそばに人影を見つけた。険しい表情で佇む、榎本だった。
「…伊庭に会いに?」
「そう思ったが…客人ばかりでは疲れてしまう。出直そう」
「そうですか」
土方はそのまま榎本に背を向けて歩き出したが、彼のほうが追いかけるようにしてやってきた。
「土方君、話がある」
「話…?」
「伊庭君のことだ」
伊庭のことだといわれ、土方は足を止めた。すると榎本はジャケットの裏ポケットから懐紙に包んだ薬を差し出した。
「これは…?」
「…モルヒネだ」
「…」
その薬の名前を知り、土方は榎本の意図を察した。榎本は表情を落とし、言葉を濁した。
「戦が始まれば…この五稜郭も攻められるかもしれない。そのときに病床の彼が…不本意な死を遂げることになっては、可哀想だ」
「だから、あいつが楽に死ねるように…と?」
「…ああ。彼には自分の体を切り裂く力すらないだろう。ならば死ぬのなら己の意志で…そう考える私は、間違っているかな?」
榎本は伊庭に死を勧めているわけではない。もう助からない彼の最期をどう彼の意志で迎えさせるか…いわばこれは榎本の思いやりだ。
「いえ…あいつもきっと…喜ぶでしょう」
喜ぶ、という物言いが正しいのかはわからない。けれど己の死を己で決める…それが彼にとって最後の自由になるというのなら彼も喜んでそれを受け取るだろう。
「そうか…旧知の君が言うのなら、安心だ」
土方の返答で榎本が安堵したので、「では」とまた歩き出そうとするが。
「…土方君、君の決意は固いようだね」
「……」
再び引き止められてしまう。榎本は伊庭との話を聞いていたらしいが、榎本は土方を責めるわけではなかった。
「いや…君を止めたいわけじゃない。この状況の中では一人一人の考え方が違う…徹底抗戦か、恭順か。それは個人の判断だと思っているしそれは尊重すべきだと思う」
「あなたのお考えは?」
繰り返してきた会議の中で、榎本が自分の考えを述べることはなかったのが気になっていたのだ。榎本は少し沈黙した。そして天を仰ぐように見上げた…そこには無機質な天井しかないのに。
「ここ最近…私は、私の生まれてきた意味を、考えていた」
「意味?」
「天命…なんて大仰なことを言うつもりはないが、それでも私が為すべきことは何なのか…考えていたんだ。最初はこの戦に勝ち、徳川家を復権させることが私の天命だと思っていた。しかし将軍が戦を諦め江戸城を引き渡し、世の中が変わっていく中で…それが無理だということは気が付いていた」
「…」
「だったらこの戦で果てるのだと…君のようにそう言い切れないのが、情けないな」
榎本は苦笑して土方を見た。
「…私はまだ、生きたい。学んできたことをまだ形にしていない」
それが彼の本音であるということは、榎本の表情で汲み取れた。もともと船乗りだった彼は、総裁として崇められることを望んでなどいなかったのだ。
「それで…構わないのではないですか」
「…そうかな。とても私事ばかりで…みんなの前では言えないよ」
「俺も…私事です」
たいそうな理由をつけていたけれど、結局は自分の我儘だ。多くの人に止められても、その我儘を突き通すだけなのだから、榎本と大差ない。
しかし、土方がそういう返答をすることが意外だったのか、榎本は驚いた顔をした。そして穏やかにほほ笑んだ。
「…願わくば、私は戦いたい者とそうではない者…そのどちらの望みも叶えたいと思っているよ。だから、まだ降伏はしない…君が戦い続ける限りは」
「…ありがたいな」
土方はまた歩き始めた。

生まれてきた意味を考えるなら。
今ここで戦うことだったのだろう。
土方は小さな窓から眺める浅黄色の空を見上げながら、そう思った。







「よっ!元気にしてるか?」
片手をあげて親しげに声をかけてきた男の顔を見て、相馬はしばらく茫然とした。見覚えのある…そしてずっと会いたいと思っていた男だった。しかし同時に(これは夢だな)と悟った。会えるわけがないのだと、夢の中の自分でさえ理解していたのだ。
「…ずいぶん、久しぶりだな。野村」
目の前の野村は明るい表情で笑っていた。その表情を見るのは…思い出すのは、久々だった。
不思議なことに、彼が宮古湾の海に散ってから夢に出てくるようなことはなかった。なぜ夢にさえ出てきてくれないのかと嘆いたこともあったが、今となってはなぜ今夢に出てきたのかと疑いたくなるようなタイミングだ。
「ついに戦かあ。長い冬だったよな」
「…ああ、そうだな」
彼は暢気にそういって満面の笑みで腕を組んだ。まだ生きているかのようなセリフに、相馬はつられて笑った。
長かった。
雪が解けるまで、こんなに果てしなく長く感じたのは初めてだ。
(お前を失ってから…長かったよ)
そう口にしようとして、できなかった。心と体がうまくつながっていないのは夢だからなのか。
野村はかわりなく明るかった。
「いま、お前が新撰組の隊長だっけ?一介の平隊士だったくせに、異例の出世だな!」
「お前がそうしたら良いって言ったんだろう?それに…俺にはまだ、実感がないよ。土方先生だってまだ戦っておられるのに…」
「そりゃそうだけどよ、変な遠慮はするなよ。土方先生だってそう思ってる」
「…わかっているよ」
野村はいつもストレートに相馬を励ます。相馬に対して厳しい物言いをしたことはなく、彼はいつも相馬の味方だった。
(まるで俺の心を読んでいるかのように)
彼は限りなく優しい。
「野村」
「ん?」
「お前はいま、どこにいるんだ…?」
あの青く冷たい海に落ちて、その姿を溶かして。深く、遠い場所に落ちていったお前はいまどこにいるんだ――?
相馬の問いかけに、野村は両手を腰に当てて「何言ってるんだ」と不満そうな顔をした。
「相馬、お前すっかり俺との約束を忘れているみたいだな?」
「約束?」
「あーあ、俺は傷ついた、すっげー傷ついた!」
「な、なんだよ、約束って…!」
「自分で思い出せよな!」
「いいから、早く教えろよ」
芝居がかった様子で悲しんで見せる野村に相馬は食い下がる。夢の中で彼にへそを曲げられて聞き出せなかったら、一生その答えは聞けない…そんなことを思って必死に尋ねた。
すると彼はまたころっと表情を変えて笑った。
「死んだら、あの星で待ち合わせだ」
その彼の言葉が、声が、響きが…鼓膜を揺らした。
「…っ」
宮古湾へ向かう甲板の上。冷たい風に身を震わせながら、二人で寄り添ったあの満天の星のもと、交わした誓い。野村がそういった。まったく同じ声で、まったく同じ表情で。その時のことを鮮明に思い出した。
「俺を…待ってくれてるのか…?」
「当たり前だろう。俺は約束を違えたりはしない男だ。お前を待ってるんだ」
野村はふんぞり返って自信たっぷりに語る。
夢だ、なんてことは重々承知している。これはただ己の願望が夢で叶ったというだけでしかなく、現実味のない絵空事だ。
(でも…それでも…)
今か今かと戦が迫る中、彼と再会する夢を見ているのは単なる偶然ではないはずだ。
(たぶん俺はもうすぐ、お前の所に行くよ)
心の中での返答は、やはり口にはできなかった。
そして野村は言った。
「ずっと…お前が爺さんになるまで待っててやるからな!」
曇りのない笑顔を浮かべ、野村が笑う。けれど相馬は唖然とした。
「え…?」
そして夢は突然に、途切れた。


明治二年五月十日。その夜の海は静かだった。
夜中に目を覚ました相馬は、陣を置く弁天台場から夜の海を見下ろした。月の明かりのおかげで海の波の輪郭が見える。絶え間なく同じリズムで打ち寄せつづける波を見ながら、相馬はため息をついた。そして
「…野村」
その名前すら、口にすることを躊躇っていた。胸を刺す痛みはいつまでも慣れずに、心の中にとどまり続けていた。相馬がそんな風に野村を思い出すことを避けていたせいで、これまで野村が夢にさえ現れなかったのだろう。
しかし、今晩は現れた。ふらっと、まるで気まぐれの猫ように。
相馬は暗い海から視線をあげ、夜空を見上げた。満月のもと輝く星は空を埋め尽くしている。野村と約束した待ち合わせの星はどれだろう。あの時、一番強くはっきりと輝いていた星だ。
『死んだら、あの星で待ち合わせだ』
あの時うれしそうに指さしていた。彼はその約束を覚えていて、この空の星のどこかで相馬のことを待ち続けている。夢の中で彼がそういったとき、相馬は(早くあいつのもとに行かなければ)と思った。あいつを待たせているのなら、早く行ってやりたい…けれど、野村が言いたいことはそうではなく。
『お前が爺さんになるまで待っててやるからな』
満面の笑みの野村に、嘘はなかった。彼が本気でそう思っているのだ、ということは相馬にはすぐにわかった。だから同時に切なくなった。
(お前は…たった一人で、いつまでも俺のことを待っているのか…?)
所詮、夢だと理解はしている。死んでしまった野村の心なんて誰にもわかるはずもない。
でも夢の中の彼の言いたいことはわかる。
お前は死んではならない、生き続けるんだ…と彼はそう伝えたかったのだ。
「なんだ、お前も目を覚ましたのか?」
突然声をかけられ、はっと相馬は振り返った。そこには羽織を肩から流す島田がいた。
「ええ…まあ。島田先輩も…どうしたんですか?」
「胸騒ぎがしてな…気分転換でもしようと抜け出してきた」
「そうですか…」
島田は相馬の隣に立った。夜風が二人の間を通り抜けていく。なんとなく沈黙が続き、相馬は尋ねた。
「…あれから土方先生とお話しされましたか?」
土方が弁天台場の新撰組のもとへ顔を出したのは、十日ほど前のことで、たくさんの隊士に囲まれていた。その後は近くの『丁サ』に入ったとのことだったが、島田は苦笑して答えた。
「いや…そんなに深くお話ができたわけじゃない。ご無事でよかったとお伝えできたくらいかな」
「そうでしたか」
「お前は土方先生と話し込んでいたな?まったく、羨ましい」
相馬よりもよっぽど付き合いが長い島田を差し置いて、相馬は土方と二人きりで話す機会を得た。島田にとっては羨ましかったのかもしれないが、相馬は複雑だった。
「…いえ…俺は、土方先生を止めることができませんでした」
今から思うと土方と交わした会話は遺言だったのではないか。そして遺言だというからには、彼は死ぬことを決めていて相馬に託し、遺すつもりであの言葉を託けたのだ…相馬はそんなことに気が付いたのだ。
「もっと強くお引き留めしたかったのに、何も言葉が見つかりませんでした。『共に生きてください』とお伝えしたけれど…きっと土方先生の心には届いていないでしょう」
その固く、強い決意を翻す言葉を相馬は持っていなかった。それが、今更ながら悔しくて、無力感に苛まれた。
しかし島田は意外にも「そうか」と淡々と返事をして、続けた。
「…きっとお前の言葉が届いていないわけじゃない。でも、先生を立ち止まらせるほどの力は…きっと誰にもないんだ」
「そうでしょうか…」
「ああ。だからこそ俺はあえて…もう何も言わないことにしたんだ」
島田は小さく、寂しげに笑った。
「もう先生は十分に戦い続けて、生き抜いて来られたんだろう。本当はとっくに腹を切ってもおかしくはないのに、俺たち新撰組を守るために…生き続けてくださったんだ」
「…島田先輩…」
「だからこれ以上、先生を苦しめたくはない。これから始まる戦で…先生の望む形で本懐を遂げられたなら…俺は黙って先生を見送るつもりだ」
「……」
古参隊士である島田の言葉だからこそ、重かった。ずっと土方の傍にいたからこそ、土方の決意がわかって、土方の気持ちを悟って、島田は島田なりの覚悟を決めたのだという。
「そのかわり俺は生涯、先生のことを忘れない。この戦が終わっても俺は新撰組として…生き続けるんだ」
『俺が新撰組を終わらせて、お前は新撰組を始めるんだ』
『新しい時代を生きる…新撰組をな』
土方の『遺言』が脳裏を相馬の掠める。その遺言を知らないはずなのに、島田のような古参隊士には土方の考えが読み取れてしまっているかのようだ。
「こんなことを先生に言えば、『暑苦しい』だの『大げさ』だの馬鹿にされてしまうからな。羨ましいとは言ったけれど、俺は土方先生を目の前にすれば泣いてしまいそうだから、あれで十分だったんだ」
「…そうですね」
夜風がまた二人の間を通り抜けていく。夜の波を月の光が照らし、揺らす。

そんな静寂な夜が、切り裂かれた。

「敵襲!敵襲だーっ!」
聞き覚えのある隊士の、しかし聞いたこともない金切り声に相馬と島田はとっさに振り返った。
闇の中に蠢く、何かが見えた。







五月十一日、午前三時頃。新政府軍の箱館総攻撃が始まった。
松前口、二股口から進出した新政府陸軍は内陸の大川と沿岸の七重浜から五稜郭へ進撃、五稜郭の背後を守る現権台場が落ちると四稜郭の脱走軍は退却した。
土方は司令官らが集う中に、腕を組み佇んでいた。
「四稜郭を放棄!七重浜も新政府艦『朝陽』の艦砲射撃に苦戦しています!」
「箱館港に停泊中の回天も損傷!」
兵士から寄せられる悪い知らせに、司令官たちの表情は曇っていく。
「やはり恭順すべきだったんだ!」
「今からでも遅くありません、榎本総裁!」
「何を言う!もう戦は始まってしまったんだぞ!こうなれば命を賭してでも…!」
「その通りだ!」
焦りと不安から様々な声が行き交う。榎本はその中心に立たされ、眉間に皺を寄せていた。いまだに恭順か降伏か定まらないなか、土方はじっと腕を組み、目を閉じていた。
(どちらであろうと関係はない…)
どんな結論だろうとも、もう自分の行く道は決めている…心に迷いはなかった。
その時。
「申し上げます!」
息を切らして駆け込んできた伝令役の男が叫ぶ。
「新政府軍が…箱館に上陸!まもなく陥落します!」
「何?!」
その兵士の知らせにはその場にいた全員がどよめき、土方はカッと目を見開いた。
新政府軍が五稜郭の北から進軍、また海からも攻撃…という道筋は予想できた。しかし海に囲まれた箱館が早い段階で戦場となることは想定していなかったのだ。
「箱館山裏手の寒川、山背泊から上陸し、一気に制圧した模様です!警備にあたっていた伝習士官隊は撤退しています!」
「そんな…」
「箱館が制圧されれば残るのは五稜郭のみではないか…っ」
司令官たちが言葉を失い、唖然とする。このままでは敵に囲まれて打つ手がなくなる。
一気に戦意を喪失し、司令官たちは黙り込んだ。負けた…そんな嫌な空気が部屋中に漂った。
そんななか、それまで一言も発せず座り続けていた土方が、突然立ち上がった。
「榎本総裁。千代ヶ岡台場の額兵隊を借りる。まだあの辺りに敵はいないはずだ」
「そ…そのはずだが、君は何を…?」
「ここにいても仕方ない。このまま負けを認め、降伏したい者はすればいい…俺は御免だ」
揺らぐことのない言葉が、暗澹たる空気が流れる部屋に響く。
そのまま土方は部屋を出て歩き出した。
箱館はまだ陥落していない。まだ道はある…逸る気持ちが自然と土方の背中を押していた。
「待ってくれ!」
部屋を早々に去る土方を、榎本が追いかけてきた。土方は振り返り「時間がない」と会話を拒んだが
「待ってくれ、頼む」
と懇願され、仕方なく足を止めた。
「土方君、君はどこへ行くんだ」
「…額兵隊とともに箱館を奪還する」
「奪還…そんなことができると本当に思うのか?」
榎本の真剣なまなざしに、土方はふっと笑った。
「…俺が馬鹿だって、そう言いたいのか?」
伝習仕官隊でさえ撤退を余儀なくされた…状況は圧倒的な不利で、勝てる見込みなどない。榎本でなくとも誰が見ても明らかな状況だ。そんななかたった一部隊を率いて出陣する焼け石に水だろう。
でも、無理だとわかっていても、動かないではいられなかった。
「ああ…君は馬鹿だ。自分の命を粗末に扱いすぎる」
「俺の命なんて大した価値もない」
「そんなことはない!」
いつも温厚で声を荒げることがない榎本が声を上げた。そして土方の腕を掴んだ。
「君はここで死ぬべきではない!生きて…生き続けて、戦い続けるべきだ!」
榎本はいつも『君に任せる』と言わんばかりに、土方に干渉しなかった。まるで親が子のやんちゃを見守るように穏やかな目線を向けていた。そんな彼が自分の考えを土方にぶつけるのは、初めてだった。
しかし土方は首を横に振り、掴まれていて腕を振り払った。
「…その言葉を俺に言ったのは、あんたで三人目だ」
相馬、伊庭…そして榎本。示し合わせたかのように同じ言葉を口にした。
「それは…君のことを皆案じているのだろう」
「俺もあんたに言いたいことがある」
「…なんだろうか」
土方はまっすぐに榎本に向き合い、ゆっくりと頭を下げた。
「あんたには感謝している」
「な…?どうしたんだ…いきなり…」
榎本は瞳孔を開き、驚いた。
「あんたは幕府側の人間だが、本当は戦のことはどうでもよかった…いつ降伏してもよかったはずだ」
「それは…」
「それなのに頑固な俺たちのために放棄することなく戦い続けてくれた。それは感謝している」
土方は顔を上げて今度は榎本を見た。
「それから、俺はあんたを通して近藤さんをみていた。近藤さんはあんたと少し似ている」
「…そうなのか…?」
「ああ。あいつは俺よりも先に逝ってしまった。だが…今度はそうはさせない。死ぬのは俺みたいな馬鹿だけで十分だ。あんたはあいつらに恭順して…あの本を武器に、生き残れ」
流山で、土方は新政府軍に投降する近藤を見送った。そしてそれが最後の別れになってしまった。
いま、この瞬間もまさに流山のあの時と同じだ。
圧倒的な不利な状況のなか、生きるか死ぬかの選択を迫られている。流山での選択は、いまの土方からすれば間違いだったのだとわかる。罪人のまま首を斬られた幼馴染はどんなに無念だったことだろう。
だから、今度はそんな間違いを犯さない。
榎本を罪人にして殺されるわけにはいかない。
(あんたは…生き続けるんだ)
土方は榎本を振り払うように背を向けた。
そして歩き出す、戦への道へ。その道があともう少しで途切れるとしても…構わない。
「土方君!」
榎本が呼んだ。
しかし、土方は振り返らなかったので、彼は叫んだ。
「君は一つ間違っている!私は…私の意志で戦い続けてきた!私も、君と同じように負けたくなかったんだ!」
その言葉を背中に受け、土方は歩き続けた。暗闇の中の、火花へと。
(…そうだな)
近藤さんもそうだった。だから、再起の道を目指し、投降したはずなんだ。新撰組を守るために…あなたのように。
土方はそんなことを思った。


一方。
新撰組は弁天台場を拠点に、急襲した新政府軍との戦闘を続けていた。銃弾が飛び交い、あちらこちらで爆音が響いていた。
「何人やられたッ!?」
傷だらけの島田が駆け込んできた。拠点としている廃屋にいる相馬は渋面のまま答える。
「わかりませんが…少なくとも二人。粕屋さんと蟻通さんが…」
「蟻通ッ!」
ケガをして運び込まれる仲間の中に、息もなくぐったりした蟻通がいた。彼は新撰組結成以来の同士で、島田との縁も長い。島田は駆け寄り、抱きかかえるが蟻通の反応はない。
「畜生…!」
「…状況は、どうですか?」
相馬は島田に尋ねた。
深夜の急襲に、隊士たちは飛び起きて応戦した。暗い中だったので状況も掴めないまま、闇雲に戦い続けていまようやく朝陽が昇ったところだ。
「相当…拙い。箱館港の回天や蟠龍も攻撃を受けたようだ」
「そうですか…おそらく五稜郭の北からも攻撃が始まっているでしょう。海と陸から、挟み撃ちです」
「くそ…」
悔しそうにいらだつ島田は、蟻通に己の羽織を被せた。そして軽く合掌したあとに刃こぼれした自分の刀を、彼の刀と交換する。
そんななか、兵士が相馬のもとへ駆け込んできた。
「相馬隊長!箱館が…!」
「箱館?」
「陥落間近だそうです…!」
「なにぃ?!」
その知らせに相馬よりも大きな声を上げたのは島田だ。想定していない事態に相馬はぐっと堪え、冷静に頭を回転させた。
「…箱館が占拠されれば…ここが、孤立だ…」
箱館山からの強襲を受け、相馬はこのまま本陣である五稜郭への退却を考えていたが、そのルートになる箱館の町が新政府軍に占拠されてしまえば、弁天台場が孤立することになる。島田もその考えに至ったのか、顔面を蒼白させた。
「相馬…どうする?」
「とにかく…戦い続けるしかありません。五稜郭の…土方先生の援軍を待ちましょう」
「わかった!」
島田は頷いて蟻通の刀を手に、また戦場に出ていく。そして新撰組の隊士たちも恐れることなく敵に向かっていった。
状況は最悪だ。どんどん追い詰められているのが身をもってわかる。
しかし、そんななかでも不思議と気分が高揚していた。
(あの頃のように…)
敵に向かって駆け出していく皆の姿が、浅黄色の羽織を着て戦い続けるあの日と重なった。
相馬もまた刀を抜き、駆け出した。銃には敵わなくとも、刀同士ならば負ける気はしない。襲ってくる敵を一人、また一人と薙ぎ払った。
一人でも多く、生かす。そして新撰組で在り続ける。
土方と交わした約束を胸に、無心になって戦い続けた。
晴れ渡る青い空。
東から昇ってきた太陽が、不似合いなほど明るい。
(野村、見てるか――?)
夜でなくとも、星は光っているのだという。太陽の光が強すぎて見えないだけで、あちらはずっとこっちを見てくれている。そうだろう――?


昼前になって、ようやく状況が落ち着いた。といっても、一進一退を繰り返すだけで新撰組はどうにか同じ状況を保ち続けているだけだ。そんななか
「永井様!」
新撰組のもとへ数名の兵士たちとともに箱館奉行の永井尚志がやってきた。永井は京都で幕府側の使者として交渉ごとにあたり、会津藩氏松平容保のもとでも働いた彼は新撰組とも長い付き合いがあり、ともに箱館まで戦い続けていたのだ。
「相馬…」
「よくご無事で…!箱館は新政府軍に占拠されたと伺いましたが…」
「…ああ…そうだ…」
いつもは老年とは思えないほど溌剌とした永井だが、顔色が悪く言葉が淀んでいた。一気に老け込んだ様子をみて、それだけ状況が悪いのか…と相馬は思ったが、永井は思わぬことを告げた。
「今知らせが届いた。…土方君が、死んだそうだ」
「…え?」
銃声が止み、人々の声が失われる。
あっさりと告げられたその事実に、すべてが凍り付く。
相馬はそんな感覚を味わった。








五月十一日早朝。
まだ日も昇らない朝靄の中、土方は馬に乗り千代ヶ岡台場へ向かっていた。そこで額兵隊と合流するためだ。
『土方さん』
薄暗闇の道で総司の声が聞こえた。同時に馬の蹄が鼓膜に響いていたので、夢ではないようだが現実でもない…そんな狭間にいるような感覚だった。
「なんだよ」
傍から見れば独り言に聞こえるだろうが、土方はためらいなく問う。すると総司は少し間をおいて告げた。
『土方さんの行き先には、終わりしかないんですよ』
穏やかでありながら、残酷な言葉。まるですべての結果を知っているような物言いだ。
しかし土方は「はっ」と笑い飛ばした。
「…知ってるよ」
知っている。
そんなことは、ずっと前から。
いままでの道だって、決して始まりの道だったわけではない。ずっと終わりへ進むための道だった。終わりへ向かうための道だった。
「ようやく…終わるんだ」
浪士組の一員として試衛館を出たあの日から始まった道が、終わる。
長い長い道のりだった。そして険しく、厳しい道のりだった。そして、一人、また一人と去っていく虚しい結末だった。
『終わらせてもいいんですか?』
「…お前までそんなことを言うな」
飾らない総司の問いかけに、土方は苦笑した。
生きるべきだと。
そういわれるたびに涼しい顔で聞き流してきた。相馬の懇願も、伊庭の願いも、榎本の叫びも…全部、聞こえなかったわけじゃない。届かな分かったわけじゃない。でもそれに答えることはできないのだと必死に堪えた。
けれど総司は食い下がる。
『負けたっていいんですよ。惨めに生きたって…誰もあなたを責めないのに』
声しか聞こえない。でも、総司が微笑んでいるのだと思った。
負けたっていい。
その言葉を何度も思い出した。きっと同じことを近藤もいうのだろう。
けれど、それを受け入れることはできなかった。
(生来の…負けず嫌いのせいか)
「…総司、もう何も言うな」
『土方さん…』
「お前やかっちゃんのために…俺を武士として、死なせてくれ」
近藤は斬首、総司は病で…己の思いとは別の形で死んでいった。だからせめて自分だけは、新政府軍に頭を下げおめおめと生き残るなんて無様な真似をしたくはない。くだらない、誇りだとしても。
そんな自分の思いを、総司が知らないはずがない。
『…仕方のない人ですね』
「ああ…お前は待ってろ」
馬の蹄の音が途端に大きくなって、代わりに総司の声が消えた。
土方は一層強く、手綱を握った。


ようやく昇ってきた太陽が、あたりを爽やかに照らし一日の始まりを告げる頃。
土方は千代ヶ岡台場の額兵隊を率いて駆け出し、一本木関門にたどり着いた。浜辺に面する一本木関門は陥落間近の箱館市中と七重浜の間に位置する激戦区だ。
「かかれーッ!」
土方の指示で、額兵隊を初めとした兵士たちが敵に向かって駆け出していく。銃を手にした新政府軍には間近まで迫れば刀で十分応戦できる。新政府軍はまだまだ寄せ集めの部隊だ。少しでも崩れれば勝機は見える。
土方も馬を降り、刀を抜き戦った。これまで指揮ばかりしていたせいで腕が鈍っているかと思ったが、自分でも意外なほど体は軽く動いた。新政府軍の最新武器に、恐怖も恐れもない。
(久しぶりだ…)
この体が、この手足が戦い方を覚えていた。
(かっちゃんは…そうだ、あいつは型に忠実だった)
天然理心流に養子に入ったくらいだから、近藤の剣筋は基本に忠実だった。いくつもの道場で見よう見まねで剣を覚えてきた土方を時折叱った。
土方はまっすぐに敵に向かい、姿勢を正し、刀を振るい薙ぎ払った。近藤がよくそうして、自分を叩きつけたものだ。
そして次の敵に向かった。
(…あいつのは、真似できねえな…)
型に忠実だった近藤に似て、総司の剣もまたそれらしいものだったが、しかしそれは誰にも真似できないだろう。しなやかな風のようでありながら、豪胆な面も見せる…静かな湖面に落とされた一滴が波紋を起こすような、そんな剣だった。
「やああああっ」
我武者羅に向かってくる敵に、土方はまっすぐに刀を突きだした。その剣先は喉元へ突き刺さり敵はあっさりと倒れた。突きは総司の得意技だ。
そんなふうに我武者羅に剣を振るいながら、土方は笑った。
「…ふっ…」
一人で生き残ったのだと思った。
けれど実際はそんなことはなく、土方を支えているのは昔の記憶と思い出だったのだ。
(それを…この手が、覚えている)
この手が、この剣が…覚えている。決してすべてを失ったわけじゃない。いや、むしろ何も失っていない。この体の中にあいつらが生きていて、生かされているんだ――。
それに気が付き、胸が熱くなった。
「土方隊長ッ」
一本木で、一進一退を繰り返すなか一人の若い少年兵士が土方のもとへ報告にやってきた。顔立ちは少し市村に似ていて勝気でありながら若い。
「何だ」
「朗報です!我々の蟠龍が敵艦を撃沈させました!」
土と血で顔を汚した少年は疲れも見えたが、しかし喜びで溢れていた。土方は少年の報告を聞いて一本木から見える七重浜の浜辺に目を向けた。
最初は苦戦を強いられていた海の戦いでは、旧幕府軍艦『蟠龍』と新政府軍艦『朝陽』が戦闘を続けていた。これまでその戦いを横目にしながら陸上で戦い続けていたが、見事に『蟠龍』が『朝陽』を轟沈させたのだという。
まだまだ押されている状況とはいえ、良い知らせであることは間違いない。
「そうか…ではこちらが負けるわけにはいかねえな」
「はいっ!」
勝機はある…そん細やかな喜びの中。
「土方先生…っ!」
少年兵の隣に、今度は別の兵士が駆け込んできた。ぼろぼろの身なりだがその顔には見覚えがあった。
「お前は…」
「はっ…新撰組隊士、木村忠次郎と申します!」
男は姿勢を正して名乗った。
彼は一か月前に入隊した元桑名藩士だ。藩主である松平定敬を追って箱館までやってきたが、定敬はすでに箱館を脱した後だったためそのまま新撰組に加わったという経緯があった。
先ほどの少年兵とは裏腹に、木村は悲壮な表情で叫んだ。
「弁天台場が孤立しました…っ!援軍を呼ぶため、どうにかここまで…っ」
「…」
土方はぐっと唇を噛んだ。
箱館が陥落間近となり、一番危惧していたのは弁天台場に控える新撰組のことだった。箱館の町からだけではなく箱館山からの進軍も許した弁天台場が、敵に囲まれ孤立するのは時間の問題だったのだ。
(想像よりも早い…)
『蟠龍』の活躍の喜びは一瞬で消え失せ、土方の鼓動が早くなる。
「…お前はこのまま五稜郭へ迎え。榎本総裁に頼み、弁天台場へ兵をやるんだ」
「は…はいっ」
「行け!」
土方は木村の背中を押し、そのまま五稜郭へと向かわせた。新撰組を救う手立てがあるのかどうかはわからないが、榎本も力を尽くしてくれることだろう。
そして、
「…俺たちも弁天台場へ向かう」
「えっ?」
土方は迷いなく馬に乗ったが、少年兵は戸惑っていた。
「しかし、隊長!弁天台場へはこの箱館の町を通らなければ…」
「そんなことはわかっている」
土方は手綱を引く。そして弁天台場の方を見た。そこへ至るまでの道には沢山の敵がいることだろう。
だが、全部薙ぎ払って見せる。
走り抜けて見せる。
(あいつらが危ないって時に…こんなところでもたもたしてられるか…!)
「蟠龍が敵艦を落とした!我々も、敵を打ち払え!」
土方の号令に、兵士たちが「おおおっ!」と呼応する。馬の蹄の音がその轟音の中を駆け抜けていく。
その時だった。

パァン―――!

その破裂音は不思議なことに土方の耳元でひどく大きく聞こえた。銃声など珍しくはない、爆音も聞きなれている。
それなのに今この瞬間に聞こえるのは、馬の蹄と、破裂音、そして沈黙だけだ。そして次にやってきたのは体が抜け殻になっていく感覚と熱い痛み。
「土方隊長ッ!」
先ほどの、名前も知らない少年兵の声が聞こえた。それと同時に馬から落ちた身体が地面に叩きつけられた。
「おのれっ!」
「よくも隊長を…!」
「決して逃がすな!」
額兵隊の兵士たちが怒号を上げて駆け込んでいく。その怒りに任せた戦いぶりをみて土方はようやく悟った。
(ああ…撃たれたのか…)
土方が痛みのある場所に手を伸ばすと、血は溢れ出ていて手のひらを真っ赤に染めた。
「隊長、隊長ッ!」
動揺を隠しきれない少年兵が、自分の額に巻いた鉢巻で傷口を抑える。しかしそれも無意味なほど傷は深い。
いつ死んでもいいと思っていた。死ぬための戦だと覚悟していた。
けれど
(まだ…死ぬわけにはいかない…)
身体を起こして、立ち上がり、馬に乗って行かなければ。守ると誓った、助けると決めた、新撰組のもとへ。
だが、いま身体がまるで自分のものではないみたいに、指一本さえ動かない。
(俺たちが作った…新撰組を…)
むざむざと敵に殺されてたまるものか。
「なりません!隊長、まだ…血が…!」
「ぃ…行け…っ」
「…えっ?」
「弁天…台場へ…!行け…!」
弁天台場で孤立する彼らのもとにはどうやら行けそうもない。
だがせめて、援軍を待っているあいつらのもとに一人でも多くの兵士を。そして少しでも多くの命を救え…土方は最後の力を振り絞って叫んだ。
「…は、はい…ッ!」
少年兵は涙をぬぐい、立ち上がる。そして刀を抜き、土方の傍らから駆け出して敵のもとへ向かう。
なぜだかそれだけで土方は安堵して、地面に背中を向けて手足を投げ出した。皮肉なほどに晴れ渡る青い空を眺めながら、少しずつか細くなっていくおのれの息遣いを聞いた。
(相馬…頼んだ…)
生真面目でしっかり者の相馬なら、きっと新撰組を守り抜くだろう。すべてを受け止めて新しい新撰組を、新しい時代で始めることはできるはずだ。野村の死を乗り越えた彼なら何でもできるだろう。
(…島田…悪いな)
誰よりも彼が守りたいと願ったはずなのに、こうしてあっさりと死んでしまう。彼は一生悔やみ続けるのかもしれない…そのことを古参隊士に詫びた。
それから一人ずつの名前を思い出す。弁天台場でいまだに戦い続ける仲間の名前を。どうにか生き残ってほしいと祈りながら。
『土方さん』
消えたはずの総司の声が響いた。また夢と現実の狭間にいるのだろうが、しかしはっきりと総司の姿が眼に映った。
土方は手を伸ばす。整った輪郭も、触れればやわらかい髪の触感も確かなものだった。
「総司…」
『ご立派でしたね』
「…お前の元気そうな顔を見るのは…久々だ」
総司が微笑む。その姿は試衛館にいた時のような明るい姿だった。
『土方さん、新撰組を終わらせる…なんて言ってましたけど』
「…ん…?」
『近藤先生が待ってますよ。こっちでも新撰組をやるんだって』
「ああ…そうかよ」
近藤はきっと『勝太』と呼ばれたあの頃のように遊ぶつもりなんだろう。石田村のバラガキと天真爛漫な愛弟子と、試衛館の食客たちと、再び。
「…仕方ねえなあ…」
土方は浅黄色の青空と別れ、ゆっくりと目を閉じた。










――光を失った。
永井の言葉を受け止めた全員が、そう感じたはずだ。
相馬自身も体の力が抜け、くらっとよろめきそうになる。
「…う…嘘だ」
箱館奉行の永井から聞かされた「土方戦死」の知らせに、新撰組隊士全員が茫然とした。言葉を失い、焦点がぼやけた。夢と現実の狭間で孤独に立ち尽くしているかのように。
そんななか「違う!」と叫んだのは、古株の島田だった。
「嘘だ…!嘘でしょう!そんなはずはない、土方先生が死ぬなんて…そんな…ッ!」
土方の死を予感し、覚悟を決めていたはずの島田が狼狽していた。皆の兄貴分として頼りにされている島田が、永井に詰め寄る。
「先生は…!俺たちを、助けに来てくれるはずだ…!死んだりはしないんだ!!」
まるで駄々っ子のように叫ぶ島田に、永井はゆっくりと首を横に振った。
「ここに来る途中だったそうだ。一本木関門で…撃たれた」
眉間に皺を寄せ苦しそうに告げる永井の表情に嘘はない。
土方が死んだ。
この世にはもういない…その事実は、揺るがない。
「うわあああああああ…ッ!」
「島田…!」
大粒の涙を零し、島田はその場に崩れる。同じ古株である尾関が駆け寄り、二人は泣いた。
そしてその場にいた隊士たちが次々と悲しみに暮れていく。島田と同じように座り込む者や、立ち尽くしじっと痛みに耐える者、わなわなと拳を握り悔しそうに唇を噛む者もいた。
そんななか、相馬は天を仰いだ。
目尻に熱いものが込み上げていた。けれど、それを流すわけにはいかないと思った。
(俺は…新撰組の、隊長だ…)
土方という大きな存在がいなくなり、皆は道しるべを失った。そんななかだからこそ、『隊長』である自分が泣き喚くわけにはいかない。
ぐっと唇を噛んだ。悲しみも、悔しさも、寂しさも…すべてを飲み込んだ。
「…永井様、戦況は…どうなのですか」
皆がさめざめと泣く中、相馬が凛と尋ねる。その姿に永井は少し驚き、周囲の隊士たちからも視線が集まったのを感じた。
永井は重く告げた。
「戦況は…良くない。土方君は額兵隊を率いてどうにか箱館を奪還しようとしたそうだが…それももう難しいだろう。五稜郭にも敵が迫っている。…ここが持ちこたえているのが…奇跡のようだ」
「…」
その奇跡はきっと土方が起こしたものなのだろう。彼は命をかけて新撰組を守ろうとしていたのだから。
「…五稜郭の、榎本総裁は…?」
「まだ…決断をされてはいない」
「そうですか…」
相馬は永井の物言いに、この戦いの結末を悟った。榎本は決断をしていないだけで、負けを認めている。旧幕府軍はこの状況を打開できるほどの戦力を持っておらず、軍神と称えられた土方もいない。
永井もまた、それを理解している。相馬の肩に手を置いた。
「相馬…命の使い方を、考えなさい」
「……わかりました」
相馬は目を伏せた。


箱館での戦いはすぐに雌雄決する戦かと思われていたが、しかしそれから弁天台場は三日間籠城戦を繰り広げた。土方を失った悲しみを忘れようとするかのように、新撰組隊士たちは奮戦しどうにか敵を交わしていた。
(しかしそれも長くは続かないだろう…)
司令官として籠城戦を率いる相馬は、冷静にそう考えていた。
弾薬や食料など物理的にも尽きかけ、隊士も疲弊している。いまは「負けるわけにはいかない」と気力だけで奮闘しているだけでそれもいつかは切れる。一人、また一人と仲間が失われていく。そしてその死はこのままだと全員に訪れるだろう。
必ず、終わりはやってくる。
『お前たち新撰組の隊士には一人でも多く生き残ってほしい…』
『けれど、一人でも多く…生かしてくれ。それが俺がお前に託したいことだ』
土方の言葉が…遺言が、何度も相馬の頭を掠めていく。
彼がここまで戦い続けた理由。そしてこの言葉を遺した訳。
それを考えれば考えるほど、この苦しい決断を下さなければならないのだと思い知った。
弁天台場で迎えた何度目かの夜。
相馬は台場から海を見下ろせる場所で、膝を折り正座した。月明りで照らされた黒い海は、黒く蠢いている。相馬はゆっくりと目を閉じた。
(…降伏だ…)
その決断を、下すと決めた。…負けを認める、その重い思いを。
「…野村…」
相馬は目を閉じたまま、彼の名を呼んだ。
「これで…いいんだよな?土方先生は…なんて言っているんだ…?」
夢の中では都合よく現れたくせに、こんな時に限って返答はない。
(いや…一人で、決めろということなのかもしれない…)
相馬は苦笑した。
失った人々はもう既にたくさんの言葉を遺していった。彼らの意志を受け止めれば、おのずと答えは出る。
「もう…決めたよ」
相馬がそうつぶやいたとき、波が大きな音を立てた。野村が「それでいい」といったような気がした。
「…相馬。何やってるんだ」
「島田…先輩」
海面に向けて正座している相馬の背中に、島田が現れる。月明りしかない場所でそんな風にしていれば声をかけたくなるのは当然だろう。
「…大丈夫ですか…」
「ああ…」
屈強な島田の声は今までになくか細い。
土方戦死の知らせから、誰よりも我を忘れて前線で戦い続けているのは島田だ。悲しみを忘れたい一心で、命を張り敵をなぎ倒し続けている。その我武者羅な姿が不安定な内面を吐露しているようで、相馬は不安に思っていた。
相馬は立ち上がり、膝下の砂を払った。
「今日は…月が眩しいな。星もよく見える」
「そうですね…」
島田はまるで生気のない表情で夜空を仰いだ。空気が澄んでいるのか、いつもよりも星が眩い。遠くを見つめる島田に、相馬は向き合った。
「…島田先輩」
「何だ」
「降伏しましょう」
敢えて淡々と告げたのは、迷いを感じさせないためだ。
すると島田はカッと瞳孔を開き
「駄目だッ!」
と叫んだ。それまで生気を失っていたのが嘘のように、相馬に掴みかかり襟を引き寄せた。
「そんなこと…絶対に駄目だ!俺たちは負けるわけにはいかない、土方先生の無念を晴らせていないんだ!」
「…島田先輩」
「相馬!お前だって悔しいだろう!?悲しいだろう?!だったら、戦うんだ!戦って戦って死ぬんだ!」
「先輩!」
相馬は島田の掴みかかった手を振り払った。強い力で引き剥がした。
「先輩だってわかっているはずでしょう!俺たちが死ぬことを、土方先生が望んでいるわけがないと!」
「…っ」
「先生は…先生は、俺たちを守ろうとして亡くなったんです。戦い続けて、俺たちが命を落とすことがその想いを踏みにじることだと思わないのですか?!」
あの後、永井から土方の死の状況を聞いた。傍らにいた少年兵が語ったそうだ。
土方は額兵隊を率いて、負けるとわかっていたはずの戦場に向かっていった。その先にある弁天台場で新撰組を救うのだと、そう指示を出した後の死だった。そして撃たれたあとも、新撰組を救うのだと叫んだそうだ。
(先生のその最期を、俺たちは受け入れなければならない…!)
相馬の決意は、島田の激高を前にしても揺らぐことはない。
土方の遺した言葉を…自分の心に刻むべきだ。

しかし、目の前の島田はいまだに首を縦には振らなかった。
「…相馬…だったら俺を殺してくれ」
弱弱しく項垂れ、涙を流して視線を落とした。
「先輩…」
「俺は…土方先生が死んでから、わからなくなったんだ。今を生きている自分が現実なのか、それとも浅黄色の羽織を着ていたあの日が夢なのか…。でも、俺は…間違いなく新撰組隊士なんだ。だったら、負けたなんて言えない。負けたなんていえば、士道不覚悟なんだ、切腹なんだ。先生に…怒られるんだ」
それはきっと、誰もが同じ思いを抱いていることだろう。
負けたなんて言えない。降参して頭を下げることなんてできない。
それは武士としてあるまじき姿だから。そんな姿を晒すくらいなら、立派に死にたい…そう思っているから。
「土方先生がいなくなっても受け入れるなんて、俺にはできなかったんだ。俺だけが、このまま生き残るなんて…駄目だ。俺が俺を許せないんだ。…相馬、頼む。頼むから、降伏するなんて…言わないでくれ、この通りだ…!」
島田はその場に膝をつき、相馬に対して土下座した。大きくて屈強な島田がその体を小さくして相馬に懇願した。
島田の思いは間違ってはいない。相馬も一隊士の立場なら、島田に同調していたことだろう。
「……」
けれども、その懇願にこたえることはできない。
それが何よりも、彼が尊敬する土方の意志だからだ。
「…島田先輩、土方先生の言葉です」
「せ…先生の…?」
「『俺が新撰組を終わらせて、お前が新撰組を始めるんだ』」
あの日、陽光を浴びた土方が相馬に残した言葉だ。
「新撰組は…終わったりしません。生き方や目的は違っても…俺たちは死ぬまで、新撰組隊士です。それを誰にも否定させません」
この刀を振るうことはないのかもしれない。命の狭間で戦うことさえできなくなるだろう。あの浅黄色の羽織を着ることもない。
でも誰も、この胸の中に秘める志を汚すことはできない。
あの人たちが生きてきた道を、忘れることはできない。
(新しい新撰組は…そういうものでしょう)
土方が言いたかったことは、そういうことなのでしょう。
「…相馬」
土下座を続けていた島田が顔を上げた。
「お前が…土方先生に見えたよ」
そう零した島田は、少し憑き物が落ちたかのように穏やかになっていた。



五月十六日。
静まり返った五稜郭で、コツンコツンという足音が響いていた。
目を伏せたままだったが、誰かがここにやってくるのだということはわかった。最近は意識がはっきりせずに、生きているのか死んでいるのかわからない時があるが、この時ばかりは生きているのだと思った。
「…失礼」
榎本の声だったが、それに返答することはできなかった。声も枯れ、身体はもう動かないからだ。
しかし薄く目を開けた。ランプを手にしてやってきた榎本は穏やかだった。
「具合は…どうかな?」
「……」
伊庭は視線だけで答えた。この通りだ…とう答えるように。すると榎本は頷いて、傍らの椅子に腰かけた。ランプは枕元に置いた。
「…土方君が死んだよ」
「……」
「戦死だ。立派な…最後だった」
榎本は悲しげな表情で告げたが、伊庭は(良かった)と思った。彼は彼の望む形の死を迎えた…彼は満足してこの世を旅立ったことだろう。
(いよいよ…誰もいなくなった…か…)
伊庭は心の中で苦笑した。本山、土方…まさか自分が最後まで見送る立場に立たされるとは思っていなかったからだ。
「敵は目前に迫っている。我々に勝機はなくなった…明日、降伏する」
「……」
「君は…納得がいかないかな…怒っているかい」
榎本は心配そうに語り掛けたが、伊庭は怒ってなどいない。そう伝えるために力を振り絞って首を横に振った。
とっくに終わりを迎えていた戦がようやく本当に終わるだけだ。終わりを見届けて…自分も終わることができるのだ。
「…私自身、どうなるのかはわからないが…しかし、君たちが戦い続けてくれたことを誇りに思い続けるよ」
榎本はそう語りつつ、懐に手を伸ばした。そして小さな小瓶をすっかり細くなった伊庭の手に握らせた。
「…君の死に方は、君に任せる」
「……」
「私にはこれしかできないんだ…」
きっとこの小瓶の中に、死が入っている。しかし、ままならない体のまま、敵に甚振られるのかと絶望していた伊庭にとってそれは希望になった。
「…そう…さ…い」
「なんだい…」
蚊の鳴くような声だが、声を発するのさえ久々のことだった。
「…感謝…します…」
「……」
榎本は何も答えなかった。そして立ち上がり、そのまま部屋を出ていく。
コツン、コツンという榎本の靴の音が遠のいていく。伊庭はその音に耳を澄ませながら、その小瓶を握りしめた。


五月十七日、旧幕府軍は降伏という道を選んだ。
























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