わらべうた 107.5 Pain





切り裂かれた背中の痛みよりも
裸足で駆け出した足の痛みよりも
見捨ててしまった心の痛みよりも
俺なんかよりも。あいつは痛がっていたのに。



俺は追いかけてくる隊士たちを何とか巻き、奇跡的に屯所から逃げ出すことができた。背中の痛みは腕のしびれへと繋がり、今後は刀を持つのも厳しいかもな、とふとおもった。背中と一緒に裂かれた着物の袖を引きちぎり、傷口に当て縛った。止血をするととめどなく血があふれた。
しかし傷口ほどの痛みは俺自身は感じていなかった。
それよりも、そんなことよりも、痛む場所があった。
「おい…!松永!」
小声だが、しかし俺の名を呼ぶ声が聞こえた。同じ長州藩士の松井龍次郎だった。逃げ出した越後三郎も一緒だった。彼らは俺を手招きして、潜伏先としている定宿に入っていく。俺もそれに従った。

俺はもともと長州藩士であり、間者として新撰組…当時はまだ壬生浪士組だったが、入隊した。それは彼らも一緒で 斬られた荒木田、御倉も同じだった。
この宿で人目を忍んで情報を共有し、長州藩の小者へ得た情報を伝える。それが仕事だった。宿は町から外れた場所にあり、めったに他の客はいない。商売繁盛しているわけではないのでうってつけの場所だったのだ。
「顔色が悪いが…無事だったようだな」
越後がけがの手当てをしながら俺に声をかけた。
「荒木田と御倉が斬られたのは残念だった…判断を誤った。松永君が情報を得ていたのに助けられなかった…!」
無念そうに拳を握り締める松井を見ながら、、俺は小さくうなずいた。
俺は彼から前もって情報を得ていた。彼らが土方副長に目をつけられていることはわかっていたのに、それを本人たちに 伝える機会を疑っていたばかりに先に粛清されてしまった。
あの夜に逃げ出していれば、死ななかったはずだ。
「…手当はこれで終わりだ。痛みはあるだろうが少し辛抱してくれ」
「はい…」
越後が手当してくれた背中は、血も止まり痛みもだいぶ引いた。斬りつけられたときは死んだかと思ったが、浅手だったようだ。
「とにかく、我々の役目は終わりだ。死んだ二人には悪いが、あいつらのせいで俺たちは失敗した。国元に戻ってそう報告しよう」
「そうだな」
「……」
俺は、もともと間者に向かないと思っていた。
大柄な体はいやでも目立つし、剣術には自信があっても策略を巡らすような頭は持っていないからうまく立ち回れるわけがないと思っていた。
そしてそれはその通りで。
首尾よく永倉先生に近づいて情報を得ようとしていた荒木田、御倉にひどく責められた。
俺たちはこんなに危険なことをしているのに、お前は何もしていない、と。俺は間者としては未熟者だとひしひしと感じた。
…そして、俺はどこか新撰組に居場所を見つけてしまっていた。
笑いの絶えない原田先生、剣術に関して指導のうまい永倉先生…そして懸命に稽古に励む隊士たち。厳しいこともあるが、もともと剣術バカな俺にとって、とても張り合いのある場所で。
この宿で密会をするよりもよっぽど性に合っていて。
願わくば、ずっとここにいたいと思えるほどの場所になっていた。
そして、彼の存在がそれを大きくさせた。
「お疲れさまです。良かったら、どうぞ」
稽古が終わり汗だくになった俺はうっかり手拭いを忘れてしまっていた。そんな俺に声をかけてくれたのが楠だった。 細身の体で声色も顔も女のような彼は、隊のなかでも浮いた存在だった。本人は気が付いていなかっただろうがいわば 高嶺の花、という存在だったのだ。
そんな彼の優しさに触れた、ちょうどその頃、仲間がついに爆発した。
「お前は忠誠心がない!」
荒木田にそう一喝され、俺は止む無く指示通り楠を巻き込んでしまった。

「…松井さん、越後さん。すんません。俺は国元には帰りません」
「何を…!」
二人はさっと顔色を変えた。
「ここにいては奴らに命を狙われ続けるだけだぞ!」
「そうだ、命を粗末にしてはならない!再起を図るんだ!」
二人の応酬も俺の耳には届かない。
俺は楠の弱さに付け込んだ。彼に近づき、彼を慰め、彼の一番傍にいる特権を得て、彼を巻き込み、そして、殺した。土方副長と原田先生が待ち構えていたあの時に、俺は卑怯にも彼を捨てた。
彼よりも、誇りよりも、死ぬことへの恐怖がまさった。彼の背中を押したあの掌はまぎれもなく俺の本音だったのだ。
俺は死にたくない。
俺は生き残りたい。
こんなところで
こんなことで
死にたくなんかないんだ。
その叫びだった。
「俺は…また、裏切るかもしれません…」
「何だと…!」
俺が国を裏切ったように。俺が彼を裏切ったように。俺が自分の言葉を裏切ったように。
「だから、俺のことは置いて行って…ください」

この痛みを忘れないように。
この苦しみを刻み付けるように。
俺は、生き続けなければならない。


俺の目の前から、いつの間にか二人がいなくなっていた。
そして俺もここから消えよう。
俺は痛みだけを持っていく。




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