わらべうた 130.5 誇り高き一歩


この手に残る感触が、ちくちくとその傷を抉り、一生消えない痛みを与え続ける。


これでよかったのか、と問いかける。
野口は笑顔だった。何の悲嘆も、怒りもなく、むしろ幸せそうに死んでいった。切腹という武士にしか許されない終わらせ方でこの世を去ることを喜んだ。
それはきっと嘘ではないのだろう。安藤のために無理をしていたのではなく、彼は退嬰的な日々に絶望し、ずっと前から死にたがっていたのだろう。
けれど。
でも。
だからって。
そんなことで、自分を許せるわけがない。自らの罪が軽くなるわけでもなく、己が彼を殺したということは間違いないのだ。 そして、介錯人という役目を全うしたことで物理的にもこの手で彼を葬ってしまった。その感触も消えることはないのだ。
この後悔という名の痛みが、ずっと棘のように刺さって消えない。
…これから、生きる資格があるのだろうか。こんな、罪人に。

「さっ、謹慎は終わりましたし、早速仕事に復帰していただきますよ」
野口が切腹という形で果てた後、安藤は一週間の謹慎となり、蔵の中に閉じ込められていた。そしてその謹慎の終了を告げに来たのは組長だった。
「……仕事?」
いつもと変わらない当然のことを告げるかのように、組長は笑っていた。まるで野口が死んだことが嘘なんじゃないかと疑ってしまうほど彼の表情は明るかった。 いつもの安藤ならそんな組長に苛立ちさえ感じてしまうだろうが、いまはそんな気力さえない。
「ほら、行きますよ」
組長が差し出してきた手を、安藤は握れなかった。
「…俺を、切腹にしてください」
それは一週間ずっと考えてきた結論だった。
確かに野口は後ろ傷を浴びた。それは規則に反するあるまじき失態だっただろう。だが、そもそも酒を飲んで酔いつぶれた己の罪が引き起こした出来事だ。
だったら己の罪は?己は何も悪くないと誰が言える?
「お願いします…」
「何故です?」
てっきり叱られるかと思いきや、組長の言葉は優しかった。
「貴方は確かに前後不覚になるほど酔っていた。それが野口さんの足手まといになってしまった、それは間違いないでしょう」
「だから…っ!」
「貴方が一番ご存じなんじゃないですか?野口さんは、あの芹沢先生に認められた人間だったんですよ?」
「それが何だっていうんですか…!」
「足手まといがいたとして、後れを取るような使い手じゃないということです」
安藤は言葉を失った。
そして対照的に組長はやはり微笑んだままだった。
「…わざと、後ろ傷を浴びたと……言いたいんですか…」
その声は擦れていた。
そしてその問いに組長は何の答えも返さない代わりに、再度手を差し出して安藤の右手を掴んだ。そして強引に立ち上がらせる。
外から差し込む陽の光が安藤には眩しすぎた。目がくらむほどに空は明るく、空気は澄んでいた。蔵に閉じ込められ暗闇に閉ざされた世界にいた安藤からすれば それはまるで別世界のような場所で。
「…俺は、どうすれば…いいんですか…」
その明るすぎる場所に踏み出していいのか、わからない。
たとえ組長の言うとおりだったとしても、そんな答えでは自分を赦すことはできない。そして納得させることもできない。
彼の死に、手を貸しただけだというなんて。
「貴方は…貴方らしく、生きるだけです」
「俺らしく…」
「彼が在りたかった姿が貴方だというのなら、その生き方を貫けばいいんじゃないですか。彼からもらった言葉を忘れずに、彼のことを忘れずに…」
組長は安藤の手を引いた。冷たい空気が頬を撫でる世界は、晴れ晴れとどこまでも空は高い。
「それが貴方にできる唯一の供養だと思います」
「…俺に、そんな資格は…」
「何故貴方に介錯を任してくれたんだと思いますか」
「え…?」
安藤の手を組長は強く握った。
「最後の瞬間を託す相手を貴方にしたのは、何よりも自分が幸せに逝く姿を一番近くで見てほしかったからでしょう。芹沢派最後の人間として誇り高く消える姿を貴方に見せたかった。そして貴方はその大役に選ばれた。貴方はだからこそ人よりも誇り高く生きなければならない。 貴方は前を向いて歩きださなければならない」
まるでそれは
「…野口さんの、遺言ですか…?」
野口の言葉のようにすとんと胸に落ちた。
しかし組長は首を横に振った。
「あの人は何も言いませんでした。でも…最後に話をして、そう思った。それを伝えたかっただけです」
そういうと組長は安藤の手を放し、背を向けた。
「さあ、仕事ですよ」
そう言って去っていく。
安藤はしばらく立ち尽くした。どんな言葉を尽くしても、この一歩を踏み出していいのかわからなかった。
けれど、
『貴方は、…私のなりたかった、私ですから』
彼がそういうのなら。
彼の分まで踏み出そう。
彼の敬愛する男と、そして彼自身の誇りを背負っていく。それはきっと重く、苦しく、難しい道だろうけど。
一歩を踏み出す。



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