わらべうた 349・5 −ハナブサ−




新しい人生を生きるんだ――。
やや強引に背中を押され、預けられた南部精一の家はいつも騒がしかった。
「先生、この子、熱があるみたいなんどす」
「足が痛いんや、どうにかしてくれ」
「いつものお薬もらえますやろか」
老若男女、職業問わず、絶え間なく患者は南部の元を訪れる。何人かの助手もいるが、南部は一人一人に穏やかに対応しているようで人柄が窺えた。
宗三郎は奥の間で、ひとまずは火傷を治すため静養を与えられ、ぼんやりとその光景を眺めていた。
南部は会津藩医だという。医者というのもはもっと偉ぶっていて、金も払わない貧乏人の面倒などみないものだと思っていたが、ここで見ている限りは彼にそんな様子は微塵もない。子供には優しく「大丈夫だ」と語りかけ、老人には「痛いところはないか?」と気遣う。どんなに夜遅くに訊ねてきた患者にも親切に対応している。
(あんなふうに…俺はなれるのかな)
松本良順から、お前は医学の道に向いていると何故か断言されたものの、宗三郎にその自覚は無かった。今までは真反対の、とても表沙汰にはできないような仕事をしていたのだ。だからこそ、南部のような姿は眩しくて仕方ない。
一抹の不安を感じつつ目を閉じると、ズキリと顔の半分が痛んだ。火傷の傷は思った以上に深いようで、おそらくは顔に残るだろうと宣告はされていた。
しかし、その件について宗三郎は特に気に病んでいるわけではなかった。
火傷があれば、見目が美しいとは誰もとても言えないだろう。『天女』は自分のなかから去った。それはまるでこれまでの自分の人生との決別のようで、その点については晴れやかな気分だった。
すると、此方に近づいてくる足音があった。
「よお」
遠慮なく部屋に入ってきたのは松本だった。どうやら家の裏口から入ってきたようだ。
「…どうも」
「怪我の具合はどうだ?」
「…わかりません」
宗三郎の素っ気ない返答を気にする様子もなく、松本は「どれ」とその場に腰を降ろして包帯を取った。
松本はこうして時折、南部の家を訪ねてくる。彼は幕府御典医という南部以上の地位にいる医者だそうだが、偉ぶることは無く、まるで近所のお節介な親父のように接してくるのだ。だが、その強引さが嫌ではない。
「やっぱり、痕は残っちまうか」
松本は残念そうに呟いたが、宗三郎は「別にいい」と返した。もう容姿で判断される日々は真っ平だ。
「ま、お前さんがそう言うのならいいが。それよりもどうだ、ここでの暮らしは?」
「暮らしって…」
宗三郎は困惑した。
ここに来てからまだ十日ほど、自分はどちらかと言えば患者として客人のように扱われている。ここで「暮らしている」という自覚は無かったのだ。
「まあ、心配するな。南部は良い奴だ。ああいうのを生まれ持った医者だと俺は思う」
「…あんたは違うの?」
「俺は負けん気が強い。だから、誰にも負けたくねえって思って日本一の医者になった。しかし南部にはそういうところはないのに、あいつの方が俺よりも医者らしいのだから不思議だな」
「それは…確かに」
快濶な話に、宗三郎の気が緩む。笑うと火傷が痛んだけれど、松本は「それでいい」と頷いた。
「病は気から、だ。お前さんは笑った方が良いぜ」
「…それは…」
しかし、松本の言葉でも、宗三郎はどうしても心から気を休めてしまうことはできなかった。
十日前の、苦々しい記憶。
炎の中に消えた背中。
まるで夢のような地獄と、そして考えられなかった現実が訪れていて、自分でも今が現か否か、良くわからない。
「…店主の遺体、埋葬してくれたんだって…?」
宗三郎が訊ねると、松本は「ああ」とその表情をあからさまに落とした。
火事のあと店主を埋葬したようだ、と南部から聞いたのは昨日のことだった。どうやら新撰組がすべてを取り仕切り、西本願寺で供養までしてくれたらしい。しかしそれは、宗三郎にとっては店主が本当に死んだのだということを、真っ向から突きつけられた気持ちになった。
「西本願寺に立派な墓をつくったそうだ。お前さんも怪我が治ったら、墓に参ったらいい」
「……できないよ」
松本の提案に軽々しく乗ることなどできなかった。
「俺が…殺したようなものなんだ。それに、いまだにどうして店主が俺を庇ってくれたのか…わからないんだ」
河上に斬られると思ったあの一瞬。
宗三郎を庇い、斬られた店主。
いつも無愛想で言葉数の少ない店主は、きっとただの商品の陰間たちに興味などないのだと思っていた。だからこそ、命を賭して守ってくれたということが信じられないのだ。
顔が歪み、また火傷が痛んだ。
けれどそれ以上に心があの日から何も治ってなんかいないのだ。心の中で何かが閊えていて、もどかしい。枯れてしまった涙がこぼれてきそうだ。
すると、松本は腕を組みなおして唸った。
「これは口外すべきではないと思っていたんだが…」
「なに…?」
「あの店主、新撰組に情報を流していたようだ」
「え?」
宗三郎は驚いたが、松本は頷く。
「新撰組の隊士から聞いたこぼれ話だがな…あの場に土方が駆けつけたのは、店主から情報提供があったそうだ。お前の元に、怪しげな浪人が通っているとな」
「…店主は俺を疑っていたってこと…?」
だとしたらますます自分を庇う理由なんてないはずだ。
すると松本は首を横に振った。
「いや、そうじゃねえ。店主はお前さんのことが心配だったのさ」
「心配…?」
「南部に聞いた話だが、あの店主、昔は陰間だったそうだ。大層美人な陰間で唄や踊りも逸品だった。大店の旦那に落籍されたが、すぐに旦那が亡くなってな…南部は助手だった頃、その際に立ち会ったらしい」
「…そう…」
いつもどこか影があり、無愛想で無口だった店主からは想像できないような話だ。
「俺の推測だが、おそらく自分とお前さんの境遇を重ねていたんだろう。だから、自分の命を賭してでもお前さんを守った…俺はそういうことだろうと思う」
「……」
何故か、松本が話すといつもそれが真実のように聞こえてしまう。そんなわけない、と反論する気持ちが失せて、「そうかもしれない」という微かな希望さえ感じてしまう。
店主は無表情で愛想がなかった。けれど、いつもどこか気にされている、気遣われているという感覚がなかったわけではない。
微かな希望は、ただの妄想かもしれない。
でも、そんな風に思える自分が、悪くないと思える。
「…そうだね」
おそらく振り返って悲しむことを、誰も望んではない。
新しい道を歩く、その始まりの場所に、いま自分は立っているのだ。
「それはそうと、今日はお前さんに別の用事があるんだ」
松本は手を叩いて話を変える。宗三郎も目尻を拭って「何?」と訊ねた。
「お前さんの新しい名前について話をしに来たんだ」
「…名前?」
「お前さんのことは有名すぎる。だから、名前でも変えねえと心機一転出来ねえだろう」
「はあ…」
強引な物言いだが、今の宗三郎には有難かった。松本は既に新しい名前を考えてきたようで
「英(はなぶさ)っていうのは、どうだ?」
「はなぶさ?」
と、自信満々に提案したのだが、宗三郎は怪訝な顔をした。
「ちょっと…不相応だと思うけど」
英、には漢字の通り「すぐれている」という意味がある。これまで人よりもすぐれていると言えば身形くらいのもので、それさえ失ってしまったというのに。明らかに名前負けしている。
しかし、松本は「そんなことねえ」と言い切った。
「お前さんは俺が見出したんだ。すぐれていねえわけがねえだろう。それに、英は『花房』とも読める。お前さんは名前のない花かもしれねえがいつか誰かの花になる」
「……」
松本は何も知らないはずだ。
宗三郎の今までの生い立ちも、暮らしも、生き方も。性格も、考えも…何もかも知らない。
しかしそれでもなお、こうして自信満々に言い切る。
羨ましいほどに豪快で、そして…強い。
「…クサい台詞…」
「何だと?」
こんな強さが欲しい。
「わかったよ…英でいい」
今はまだ名前に相応しくはない。
けれどこの名前に相応しい生き方をしようと思う。
自分の周りにいるすべての為に。

花はいつか、咲くのだから。













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