わらべうた 376.5 ―風の声―



疲労しきった身体を横たえたのは、夜も更けた頃だろうか。今が一体何時くらいで、あとどれだけで朝日が昇ってしまうのか…総司には良くわからなかった。
「大丈夫か?」
散々我儘を尽くした後だと言うのに、土方の表情は涼しい。
「…大丈夫なわけ、ありません」
あまりに白々しく言うので、総司は少し不貞腐れてしまった。
真夏の夜に晒された裸体に、少し開いた障子の隙間から爽やかな風が吹き込んできた。総司は下半身に力が入らないため、それを横たわったままでしか感じることはできないが、土方は飄々と立ち上がり、脱ぎ散らかした羽織を肩にかけて庭の縁側に出た。
「ああ…涼しいな…」
そう呟いた土方の髪が靡く。昼間には考えられないほどの涼しさで、それに今夜は雲もなく月明かりだけで十分に明るい。振り向いた土方は「総司、こっちにこい」と手招きしたが、総司は呆れて苦笑した。
「行ける訳ないじゃないですか…もうくたくたです」
「鍛え方が足りないんだ」
「好き勝手にした人がよく言いますよね…鍛えるって言ったって、どうやって鍛えればいいんですか」
「浮気は許さないからな」
「土方さんだけには言われたくない台詞ですね」
軽口を言い合うのはいつものことだが、土方の表情は柔らかい。屯所では決して見せない顔だ。
(…いつもそうだと良いのに)
しかし土方はそれを受け入れようとはしないだろう。
総司は「よいしょ」と上半身を起こした。下半身だけではなく、腕にも力はなくまるで自分の体じゃないみたいに弱弱しい。もどかしい身体をどうにか起こして土方と同じように羽織に袖を通すと、土方がやってきた。
「仕方ねえな…」
「え?」
腰を降ろした土方は、総司の背中と膝の下に手を差しこんだ。そしてそのまま担ぎ上げる。
「ちょ…っ!」
予想もしていなかった行動に慌てたが、土方が「落ちるぞ」と言った。
「お、重たいでしょう…?子供じゃないんですよ」
「ガキにこんなことやったことねえよ。いいから、お前は首に手を回してろ」
総司自身、壬生の子供たちにせがまれて抱きかかえたことは何度かあるが、それを自分がされるのは初めてのことだ。土方に言われるがままに、総司は恐る恐る手を回した。
土方の方は意外にも軽々と総司を持ち上げたまま、縁側から踏み石の上にあった草履を履き、庭に出た。
おみねによって手入れされた庭は落ち葉一つなく、小さな名勝のようだ。庭には季節の花々が植えてあって、愛着を持って育てている。
「おみねさんが言っていました。今は芙蓉が見ごろだそうですよ」
「ああ…いまは蕾だがな。…今は知っているか?芙蓉は一日で枯れるんだ」
「え?そうなんですか?」
「ああ…たくさんの花を咲かせるからそういうふうには見えないが、一日花だ。この蕾も明日には咲いて、夜には散る」
「へえ…」
意外にも物知りな土方が総司を抱えて芙蓉の前までやってきた。月明かりに照らされた花の蕾は固く閉じていて、明日、咲くのを待っている。
抱きかかえていると土方の表情が近くでわかる。女を魅了してやまないその瞳が、花を見ている。
「…ふふ」
「ん?」
「いや…まさか、土方さんとこんな風に穏やかに、花の話をしているなんて…屯所では考えられないですよね」
屯所で鬼副長が花を愛でていたりいたら、何の天変地異かと隊士たちが吃驚してしまうだろう。しかし、句作が趣味だと言うことを知っている近藤や総司からすれば、それが土方の在るべき姿であり、本当の彼であることに違いはないのだが。
土方はふん、と鼻で笑った。
「試衛館の頃にはよく話していただろう」
「そうですね…土方さんが笛を披露してくれたの、覚えていますよ」
総司が懐かしい思い出を口にすると、土方が苦い顔をした。
「…覚えていたのか」
「当たり前じゃないですか。浪士組を出発する前のことでしたよね」
「忘れろ」
「嫌ですよ。また聞きたいなあ…あの笛、持ってきていないんですか?」
「……」
土方は答えない。それが無言の肯定だということを総司は良く知っていた。
(素直じゃないんだから…)
そう口にするときっと怒るから、総司は心の中で笑うにとどめた。
真夏の夜は、昼の暑さを孕んだ空気が残っている。その中を時折、涼しい風が通り抜けていく。総司は土方の腕に抱えられながらその風を感じた。
それはあの日聞いた、土方の笛の音色のようだった。









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