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わらべうた


431


父が倒れたと聞いたのは十五の夏のことだった。
医学所で学びながら近所の住人の往診を欠かさなかった父は、その日も患者の元へ向かっていた。カンカンに真夏の太陽が照り付けるなか額に汗しながら歩き回り、その途中に倒れそのまま亡くなった。
加也は父は死なないのだと思っていた。誰よりも医学を熱心に学ぶ父はきっと己の身体のことは当然わかっていて、誰よりも長生きするすべを知っている。だから死ぬわけがない…そう思っていたからこそ、父が死んだと聞かされたときにはまるで現実味のない絵空事のようにしか思えなかった。
それからあっという間に葬儀の日は訪れた。沢山の人々が父の死を悼み、残された母と加也を励ました。母は特に悲しんでいた。周囲の知人たちが心配するほど嘆き、後追い自殺をするのではないかと危惧されるほどに悲しんだ。父の死を受け入れることができずに母が泣きじゃくるその隣で、加也は茫然と空を仰いでいた。幼いころから医学所に出入りし父とともに医学を学んだが、死んだ後どうなるかなんて考えたことはなかった。
ただわかるのは
(父上…)
そう問いかけてももう返事はないということ。医学所を読みふける横顔も、患者の隣で微笑む柔らかな表情も、もうこの目には映ることはないということ。そしてもうあの穏やかな声で名前を呼ばれることさえもない――それが死だ。
医学を学んでいたのにそんなことすらわかっていなかった。
茫然とする加也は母とともに喪服に身を包み、弔問に訪れた知人たちを見送っていた。
「加也」
「…!」
その中の一人が加也の名前を呼んだ。その優しい声がまるでそれまで波一つ起きなかった水辺に落ちた一滴のように響いた。
「…精一郎先生…」
父とともに医学所で学んでいた南部精一郎だった。誰に対しても柔和な眼差しで接する穏健な人物であり、年は離れていたが父が『親友』だと語っていた男だ。加也は父とともに医学所を訪れ遊び場にしていたし、南部とは家族ぐるみの付き合いだったため幼いころから知っている。
南部はそっと加也の頭を撫でた。
「…ちゃんと食べていますか?」
父が死んでから、悲しみに明け暮れる母を皆が心配していた。だから、傍目には動揺していない加也はそんな風に声を掛けられたことがなかった。
「た…食べて、…ます…」
「本当ですか?顔色が悪い」
「…っ」
本当はここ数日食欲がなく、水しか口にしていなかった。けれど誰もが母に気を取られ、そんなことには気が付かなかった。こんな風に心配してくれたのは南部だけだ。
指先が震えた。瞳が潤んで、視界がぼやけた。
「加也」
南部は加也を引き寄せて抱きしめた。彼は父みたいな声で名前を呼んだ。その声に導かれるように加也は南部の胸の中で泣きじゃくった。
彼の体温に包まれ、それまで固まっていた感情が解けていく。
悲しい、とようやく思えた。
だから
「…っと…」
「何ですか?」
「もっと…呼んで…」
彼が父じゃないことはわかっている。しかし加也はあまりにも突然の別れを受け入れることすらできていなかった。
だからせめて、もう少しだけ。偽りの、偽物のぬくもりであったとしても傍に居てほしい。
そんな我儘を南部は何も言わずに受け入れた。
「…加也…加也…」
強く抱きしめたその耳元で囁かれる名前。
父の声で、
南部の声で、満たされていく。
その温かさにいつまでもいつまでも浸っていたかった――。


薄く目を開くといつもとは違う天井がそこにあり、その瞬間今まで見ていたのはただの夢だと悟った。
「加也さま!」
目を覚ました加也に気が付いたみねが、安堵したように微笑んでいた。加也は身体を起こそうとしたが脇腹が痛んでしまい、みねの介添えが必要だった。
「おみねさん、深雪さんは…?」
「へえ、大事ありまへん。斉藤せんせが傍にいてくれはります」
「そうですか…」
障子の向こうから橙色の色が差す。長く眠っていたわけではなさそうだ。
「あの…沖田様は?」
「お西さんの屯所へ。先ほどの一件をご報告に」
「…」
加也が眠りにつくまで、総司は傍に居た。心から加也のことを案じてくれている姿は父の葬儀のときの南部に似ていた。
(だから…あんな夢を…?)
二度と思い出さないようにと心に決めたはずなのに、あっさり夢に見てしまった…そんな虚無感に襲われた。
その時、玄関の扉が開く音とともにガタッと大きな物音が聞こえた。総司が帰ってきたのかと思ったがそれにしては騒がしい。
「様子を見てまいりましょう」
みねはそういったが「わたくしも参ります」と加也は床を出ようとしたが、止められてしまう。
「あきまへん。加也さまはお怪我をされているのですから」
「先ほどの不審者かもしれません。それこそおみねさんを一人で行かせるわけにはいきません」
「せやけど…」
食い下がるみねを無視して加也は痛みを堪えて立ち上がる。そっと障子をあけて様子を伺いつつ、すぐ近くの玄関まで足音を立てないようにやってきた。身を隠すように様子を伺うと、そこに広がっていた光景は加也の想像にないものだった。
「お…沖田様!」
加也は思わず叫んだ。
玄関に倒れ込むように二人の男がなだれ込んでいた。一人は総司でどこか虚ろな表情でもう一人の男…土方を見ていた。土方は顔を真っ青にして項垂れていて、意識がない様子だ。土方を抱えてここまでやってきたのか、土方だけではなく総司の着物まで血まみれに汚れている。
その凄惨な光景に加也は脇腹の痛みを忘れて飛びつくように駆け寄り、土方の傷を見た。
「…お…加也さん…」
「斬られたのですか!?」
「おそらく脇腹を…浅手だと言っていましたが…」
「そんなことはありません!このままでは死にます!」
傷口をみるや加也はすぐに止血のためその傷を強く押し込んだ。半分意識を失っている土方の表情が歪んだが、構わず押す。
「沖田様はお怪我は…?」
「わ…たしは、ありません…」
加也の問いかけに対して、総司の返答は鈍い。彼の視界には土方しかなく、加也の声は掠めている程度にしか聞こえていないのだろう。加也は振り返り動揺するみねに声をかけた。
「おみねさん、義父上を…いえ、もし可能であれば良順先生を呼んできてください」
「へ、へえ…」
「俺が行こう」
いつの間にか姿を現していた斉藤は、みねには代わりに深雪の傍に居るように指示を出す。もちろん彼の方が足が速いだろうしこのような状況を前にしても冷静な彼の態度には、加也は少し安堵した。
しかし
「…殺したのか?」
斉藤は総司の肩を引いて問いかけた。彼はそれに対して
「はい」
と、答えた。
彼らは誰を、とは言わない。もちろん土方を刺した人間に違いない。
その短いやり取りを目の前にして、加也は冷や水を浴びせられたかのように身体が冷えた心地がした。総司の表情が見たこともないほど暗く淀み、嫌悪と怒りという闇にに囚われていたように見えたのだ。
「そうか」
斉藤は表情一つ変えず淡々と受け取ると「行ってくる」といいすぐに玄関を飛び出していく。男の足なら数十分で引き返して来ることができるだろう。
加也は傷口を押さえつつ、彼の手首の脈をとる。
「…歳三さん…歳三さん…」
総司は朦朧としている土方の名前を一心不乱に呼ぶ。そう名前を呼ぶことで次第に先ほどまでの表情は消え失せ、まるで自分が怪我を負ったかのように追い詰められたような横顔だ。そして土方のもう片方の手を取り両手で握りしめた。
祈るような願うようなその姿を見て、加也は悟った。
(ああ…この人なんだ…)
松本の言っていた『沖田の想い人』はこの人だ。もっとも、いつも穏やかな彼がこんなに必死に助かるようにと祈る姿を見れば誰でも気が付くに違いない。
『加也』
どうしてあの夢を見たのだろうと思っていた。もうとっくに忘れたはずのあの声を、なぜ今更思い出してしまったのだろうと。
けれど、いまこの時のことを予感していたのかもしれない。
「沖田様、もっと名前を呼んであげて下さい」
「…え?」
「そうすればきっと…大丈夫ですから」
何の根拠もなかったけれど、総司はそれに頷いてずっと土方の名前を呼び続けた。そうしていると痛みに苦悶していた彼の表情が和らいだ気がした。








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解説
なし


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