NEXT

わらべうた


432


斉藤が南部を連れて別宅に戻ってきたのは、それからすぐのことだった。松本は残念ながら不在だったようで数人の弟子を連れてやってきた。
玄関で倒れたまま加也の看護を受けていた土方は、弟子たちによって傷口を気遣われながら部屋に運ばれた。
「義父上、出血は止まりましたし、脈拍や呼吸は随分と落ち着きました」
「わかりました。傷を見る限り、数針縫うことになるでしょう」
「わたくしも手伝います」
「いいえ」
加也の申し出を南部は拒んだ。患者の前ではいつも温厚な南部の表情は冴えない。
「斉藤先生に伺いました。あなたは怪我をしているのでしょう」
「それは…」
「休んでいなさい。治療中は誰も部屋には入らないように」
取り付く島も与えない南部は加也の前から去り、土方が運ばれた部屋に入っていく。いつになく厳しい顔をした南部に加也は首を傾げた。
「南部先生の言う通りだ」
「斉藤様…」
「あんたも…沖田さんも、休んでいろ。俺は屯所に戻ってくる」
南部を連れて戻ってきた斉藤はそう告げると、翻すように屯所へと向かった。玄関には加也と総司、そして痛々しく残る土方の血痕が残った。
するとそれまで黙り込んでいた総司はふらりと立ち上がった。覚束ない足取りで歩き出し、土方が運ばれていった部屋の方へ向かっていく。
「沖田様、なりませぬ。義父上が部屋には誰にも入らないようにと…」
加也は総司の腕を掴み引き留めたが、彼は振り払った。
「沖田様」
「…せめて、近くに居させてください」
総司は寂しく口にする。今にも泣きだしてしまう子供のような表情に加也は何も言えなかった。総司は土方が運ばれた部屋にほど近い縁側に腰を下ろした。
早速治療が始まったのか、部屋からは騒がしい音が聞こえてくる。松本や南部が学んだ医学所では麻酔を使わない方法で傷口を縫う。その痛みに悶絶し気を失ってしまう患者は多くいた。
時折聞こえる土方の苦悶の声に総司は顔を歪める。加也は膝を抱えて蹲る総司の隣に座った。
「きっと大丈夫です。出血は収まりましたし、呼吸も穏やかになっていました。傷口さえ塞がれば…」
「…わかってます。南部先生のことは信頼しています」
「…」
「…」
二人の沈黙の間に、冷たい風が流れる。夕暮れの空はいつの間にか夜に塗りつぶされ始めていて、その闇は刻一刻と空を支配していく。
顔を伏せたまま何も口にしない総司の隣で、加也も目を閉じた。ひたむきに愛する人を思う彼を隣にしていると、同じように純粋だったあの頃のことが思い起こされた――。


父の葬儀から数日。その日は残暑の厳しい日だった。
加也は医学所を訪れていた。突然、何の前触れもなく亡くなった父の遺品が遺されていてそれを引き取りに来たのだ。
「手伝いますよ」
そう申し出たのは南部だった。
「…一人でできます」
「いいから、手伝わさせてください」
温厚で穏やかな南部だが、自らが決めたことには融通の利かない頑固な一面がある。それを重々知っていた加也はそれ以上断ることはできなかった。
父の私物は加也が思っていた以上にたくさんあった。医学書は山積みになっていてその分野は多岐にわたる。仕事では優秀だった父だが、整理整頓は苦手だったのでどう手を付けていいのかわからないような状態だった。
「母上はいかがですか?」
「……相変わらず、塞ぎこんでいます」
「そうですか…」
加也の短い返答に、南部は少しため息をついた。
父が亡くなってから、母はすっかり気落ちしていて心ここに在らずという状況だ。食事にもろくに手をつけておらず、水しか口にしていない。眠ることもできないようで真っ青な顔で父のことばかり考えて憔悴しているようだ。
「一度、お伺いしましょう。残暑の厳しいなかですから、身体を壊しやすい」
「…ありがとうございます」
「あなたは大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
それは反射的な返答だった。
父が亡くなってから親族や知人に心配されたが、そのたびに「大丈夫です」と答えた。父がいなくなったことも、母が落胆していることも、そして自分自身さえその芯がふらついてしまっていることも、誰かに話して解決するようなことではない。だから「大丈夫」だと答えてそれ以上の詮索を避けた。そうすることで自分を守った。
けれど、南部はその返答を聞いてもじっと加也を見つめた。加也は目を逸らしたが、彼は逃がしてくれなかった。加也の肩を押さえて正面を向かせて、微笑む。
「…私は医者ですから大丈夫ではないことくらい、すぐにわかりますよ」
「精一郎先生…」
「ここは私が片づけますから、休んでいなさい」
少し強引に南部に手を引かれて、近くの一室に連れられた。そこはいつも患者が寝泊まりする部屋だが偶然にも今は空室のようで誰もいない。
南部から渡された白湯を飲み干し、加也は横になった。いつも清潔に保たれた布団からは何の匂いもしなかった。
「…あの…精一郎先生…」
「何ですか?」
「父の遺品ですけど…先生が、引き取ってもらえませんか?」
「私が?」
「…あんなに沢山の医学書を持ち帰っても仕方ありませんから」
残された膨大な遺品。それを持ち帰るのも難儀なことだし、誰もその医学書を読むことはない。だったら南部に託したほうが父も喜ぶはずだ。
加也はそう思ったのだが、南部は首を横に振った。
「いけません。片桐先生の遺品ですから、あなたが持ち帰るべきです」
「迷惑ですか…?」
「違います。あれはあなたに遺されたものですから」
「…おなごは、医者にはなれませぬ」
「そんなことはありませんよ。片桐先生もおっしゃっていたでしょう」
生前、父も同じようなことを言っていた。熱心に医学所に通う父を真似るように難しい医学書を読む加也に「お前は医者になればいい」と笑っていて、幼かった頃は父の言葉を真に受けて「医者になりたい」と言っていたが、今はそれは簡単なことではないとわかっている。
ただでさえ、医者は男の世界。知識も技術も必要な厳しい道のりを志すだけで白い目で見られてしまう。女は芸事を学ぶことこそ優秀…そう嘲笑を含めて陰口をたたかれることもあった。それでも「父のようになりたい」と願う気持ちは変わらなかったが、もうその父がいなくなってしまった今では「医者になる」という気持ちも消え失せてしまった。
「…もう父はいませんから。それに、いまは母のことが心配です。医学を学んでいる時間なんて…わたくしにはありません」
「…」
流石に南部も何を言っていいのかわからなかったのか、口を噤んで顔を顰める。重たい沈黙と気まずい空気が流れた。
「…少し眠ります…」
加也は耐えかねてそう申し出ると、南部の視線から逃げるように布団を頭まで被った。
父の遺品を片付けてしまえば、ここに来ることはない。
幼い頃から父とともに過ごしたこの場所は、もう自分とは関係ない場所になる。
そして
『大丈夫ですか?』
彼の優しい声に心配されることもない。
それがなぜだか無性に寂しくて、とめどなく涙ばかりが溢れてきた。
「加也」
「!」
南部が被っていた布団を強引に引き剥がす。聞こえていないと思っていたのに、南部は気が付いていたようだ。加也はとっさに両手で顔を覆ったが、隠しきれるものではない。
大粒の涙を指で拭いながら、南部が加也の頭を撫でた。
何も言わずに、ただただ優しく。
「精…一郎先生…」
「…何ですか?」
「母の…田舎に帰るんです」
「え?」
父がいなくなったいま、頼れるような親戚は近くに住んでいない。それでは生活が覚束ないだろうと加也の伯父にあたる母の兄が援助を申し出てくれたのだ。幸いにも兄は商売を起こして裕福な暮らしをしていているので、母と二人で生活することなどできないいまその話を断る理由はない。
「だから…父の遺品を片付けたら…この場所を去ります…」
「…」
「いままで…ありがとうございました…」
これまでの思い出が走馬灯のように駆け巡る。
ここで過ごした時間も、父が魔法のように患者を救う姿も、そして穏やかな微笑みで加也を見守る南部さえも…すべてが過ぎ去り、過去になって、離れてしまう。
考えれば考えるほど寂しさと悲しみばかりが募り、涙は止まらなかった。
そんな加也を南部は抱き起こし、そして強く抱きしめた。
「精一郎…先生…」
「…行ってはいけません」
「え…?」
「君はここから離れてはいけない」
真綿でくるむように抱きしめられ、いつになく強い口調で引き留められる。その言葉を聞いて、加也の心はすとんと落ちた。
恋に、落ちた。
(そうだ…)
ここから離れてはいけない。
ここから離れることなんてできない。
だって
ずっと、この人の傍にいたいから――。


身体を休めたのち、遺品の一部を持ち帰ることにした。それは特に父が愛用していた聴診器などの医療用具で加也にとっては形見に等しいものだった。
「送りますよ」
まだ日が長く明るいものの、持ち帰るものが沢山あったため南部の申し出を有難く受け取ることにして、二人は家に向かった。並んで歩くなんて今まで幾度となくあったのに、なぜだか今日は心臓が高鳴って仕方ない。
『行ってはいけません』
南部の言葉が、声が、鼓膜に張り付いて離れなかった。「あれはどういう意味ですか?」と訊ねたかったけれど、何だか期待しているようではしたない気がした。
「着きましたね」
「あ…っはい…ありがとうございます」
そうしているといつの間にか家に辿り着く。母と暮らす平屋はこの頃は手入れが行き届いておらず、雑草が足元に生えてしまっている。
「ここまで足を運んだのですから、母上の診察をしていきましょう」
「…はい!」
別れがたく思っていたのが知られてしまったのかもしれないが、南部がそう申し出てくれたのは嬉しかった。
南部とともに家に上がる。父という灯を失った屋内は、相変わらずしんと静まり返っている。
「母上?」
いつも寝込んでいる寝所を覗くが、そこに母の姿はない。布団が捲りあがったままで放置されていて几帳面な母にしては珍しいなと思った。
「どうしました?」
「…いえ…母が、いなくて」
「え?」
それまで遠慮がちに様子をうかがっていた南部は、荷物を置いて足早に屋内を歩き回る。
嫌な予感がする――南部も加也と同じ感覚を覚えたのかもしれない。
南部の後を追っていた加也だが、彼がふと足を止めて立ち尽くしたので同じように立ち止まる。庭の景色が見渡せる母のお気に入りの縁側だ。
少し沈黙して、南部は告げた。
「加也、あちらを向いていなさい」
「…!」
その意味はすぐに分かった。
けれどそんな言葉で誤魔化されたくなくて、加也は南部の背中越しにその光景を見た。
「加也!」
南部が制したけれど、それは目に焼き付いた。
小刀を手にした母が血まみれでその場所に倒れていた。その表情はなぜか安堵に満ちていた。






NEXT


解説
なし


Designed by TENKIYA