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わらべうた


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「南部…これは一体、何の冗談だ?お前が志乃さんを手にかけたっていうのか?」
思わぬ告白に松本は一気に背筋が凍るような気持ちになった。昔からの付き合いがあるが冗談でそんなことを言っているのではないということはもちろんわかっていたが、冗談だと思いたいというのが本心だった。
「直接関わったということではありません。ただ…私には、そのように思えるのです」
「…話せ」
松本が先を促すと、南部は一瞬ためらうように口を噤んだ。しかし今更誤魔化すことはできないと意を決して語り始める。
「片桐先生には私が入門したときからお世話になっていました。先生は誰にでも優しく…ある日、家に招いてくださったのです。その時初めて志乃さんにお会いしました。若くして夫婦になられながらも、医学に熱中してたまにしか帰宅しない片桐先生を責めることもなくとても穏やかな女性でした」
「確かに亭主が寄り付かねえのに一つも文句を言わねぇいい女だった。…岡惚れしちまったのか?」
「…ただ、志乃さんのような妻ならばどれだけ幸せだろうと思っていました。そういう目で私は彼女を見ていた…その時の私には自覚はないままでしたが…片桐先生には気づかれていたように思います」
「片桐さんがっ?!」
松本は思わず声を上げた。
いくら可愛がっている後輩とは言えども、自分の奥方に岡惚れしていると気づけばよい気分ではないだろう。遠ざけたりする距離を置いたりするはずだ。
南部は苦笑した。
「片桐先生は優秀な医者でしたから人の心に敏感でした。…ある日、『医者だからいつ患者から病を貰うかわからない、何かあった時は家族のことを頼む』とも言われました」
「…変わった人だとは思っていたが…そこまでとは思わなかったぜ」
南部の気持ちを容認する…それは松本には理解の及ばないことではあったが、あの片桐なら、と納得はできた。己のことよりも周囲を案じる…案じすぎる人間だった。
南部の話は続いた。
「しかし、片桐先生はそうおっしゃいましたが、私は志乃さんとどうこうなりたいと思ったことはありません。加也と三人、ずっと穏やかに暮らしてくれれば良いと、本当にそう思っていました。加也が医者を志すならそれを本気で支えていく…それが志乃さんの幸せに繋がるのならそれだけでいいと満たされていた」
「…」
「そんなときに、片桐先生が亡くなったのです」
あまりに突然の別れに、彼を取り巻く人すべてが茫然となり悲しんだ。とりわけ妻の志乃は人目も憚らずに嘆いた。
「片桐先生が亡くなって、志乃さんのことは気がかりでした。すべてに絶望して自暴自棄のような気持ちになっている彼女を放っておくことなどできなかった…私は暇を見つけては、彼女の元へ通いました」
彼女から目を離してはならない。そんな焦燥感に煽られるように通い続けた。
けれどその気持ちが変わっていく。
「それが…次第にどうしてだか後ろめたい気がきました。片桐先生か亡くなった途端に志乃さんのもとに通う…それが裏切っているような…。だから加也にも見つからないように時を見計らって彼女のもとへ通いました」
「…まさかとは思うが、手ェ出したのか?」
「…」
南部は曖昧に首を横に振った。
「ただ邪な気持ちがなかったかと言われれば嘘になります。それは片桐先生の言葉を思い出してしまったからです。『何かあった時は頼む』…それが免罪符のようだった」
もう何も阻むものはない。むしろこれは亡くなった片桐の願いを叶えることができることなのだと、自分を擁護する理由はたくさん見つかった。
「じゃあ何で…自害なんかしたんだ?」
南部のことだから志乃をしっかり支え、励ましたことだろう。
松本が尋ねると、南部は視線を落とした。
「本当のことは何も…。ただ、私は…この気持ちが志乃さんに気付かれたのではないかと思います。そして自惚れかもしれませんが…志乃さん自身が揺れていたのでしょう」
「揺れていた?お前のことを好いていて夫婦になるつもりがあったってことか?」
「…いえ、私よりもむしろ加也のことを気にしていたのだと思います。片桐先生がいなくなれば加也もそれまでのように医学所に通うことはできない。けれども私と夫婦になれば加也を医者にすることができるでしょう」
「なるほどな…」
片桐とともに医学所に通う加也を志乃はずっと見守り続けてきた。片桐のような医者になってほしいと思っていたに違いない。
「その時は私は知らなかったのですが、遠方の親戚のもとに身を寄せる話が来ていた。片桐先生が亡くなった悲しみはもちろん、加也のことと自分自身のこと…そして私のこと。色々なことが頭を過り、混乱していたのでしょう。ですから…」
だから悩みぬいた挙句、自害した。
しかし松本は「違うな」と首を横に振った。
「…悩みが多いからって、自害はしねぇ。あの奥方はそんなに柔じゃねぇし、加也のことを案じていたならなおさらだろう。…南部、お前はわかっているんだろう?一番の理由が、何かってことは」
「…」
「志乃さんは、一番つらくて仕方ねえときに傍に居たお前に…惚れちまった。操を立てたはずの亭主が死んですぐにほかの人間を好きになっちまった。そんな自分に…絶望したんだな」
ひたむきに片桐を支えてきた彼女だからこそ、そんな自分を許せなかった。松本にはそれが突発的な自害に繋がったと考える方が自然なことのように思えた。
そしてそれを、南部はわかっている。
だから『殺した』というのだ。
「…私が余計な考えを回して、彼女の傍に居なければ良かった。悲しみに沈んだとしても加也がいるなら志乃さんはきっと立ち直ったはずなのに…!」
南部の握りしめた拳が震えていた。後悔してもし足りない…そして誰にも話すことはできない懺悔。松本にもそれは痛いほど伝わった。
そしてかける言葉も見つからなかった。
(南部も志乃さんも…そして加也も、誰も悪くねえ…悪いとすれば、片桐さんだけだ…)
何で死んでしまったんだ。
あっさりと逝ってしまった片桐に「くそったれ」と言いたい気持ちだ。
項垂れてしまった南部から流れる涙が畳の色を変えた。
これからどうしようもない後悔を抱えて彼は生きていく。ただ純粋に彼女を想っていただけのことが、ここまで最悪な結果を招いた…その罪は背中に伸し掛かる。
それは重くて、仕方ないだろう。
「南部…わかった」
「…良順先生」
「加也は例の伯父に任せよう。悪かった」
松本は頭を下げた。志乃のことで苦しむ南部にこの上、加也と夫婦にさせるなど酷なことはできない。加也は面差しは志乃に似ているのだ。傍に居ては一生責められるような気持ちになるだろう。
南部は顔を上げて、涙を拭った。
「…いいえ」
「ん?」
「加也は…ここにいたほうが良い」
「だが…」
困惑する松本を南部は強い眼差しで見た。その瞳には決意が宿っていた――。


その日の夜、南部が松本ともに加也の元を訪れた。
「ど…どうぞ」
二人を目の前にして加也は緊張していた。きっと松本が加也を嫁にするように南部に話したに違いない。今日はその返事を告げに来たのだ。
加也は二人を客間に通した。父と母の荷物を整理した家は、どこか寂しく生活感のない雰囲気になっている。
「ちょっと厠を借りるぜ」
松本がそう言って席を外した。加也は南部に茶を差し出しながら、その表情がいつもと違うことに気が付いた。
「どうかされたのですか?」
「え?」
「いえ…その目元が赤いです」
驚いた表情を見せた南部は少し言葉を選ぶように「何でもありません」と穏やかにほほ笑んだ。いつも通りの穏やかさだったはずなのに、なぜだか胸が騒いだ。
そうしていると松本が戻ってきた。加也が差し出した茶を一気に飲むと、「プハーッ」と声を出す。そして意を決したように話し始めた。
「加也、悪い!」
「…え?」
豪快に頭を下げる松本に加也は困惑した。
「夫婦の話は無しだ!俺の早とちりっていうか、気が急いたみたいだ。すまない!」
「…あ…そう、ですか…」
その勢いに押されて加也はそう答えるしかできない。
期待していたものが崩れていく。悲しいというよりも、心が凍るようなものだった。
加也はちらりと南部を見た。頭を下げる松本の隣で複雑な表情を浮かべていて、加也は申し訳なさを感じた。
(勝手に期待して、思い込んでいただけなのに)
「良順先生、頭を上げてください。先生はわたくしがこれからも医学を学ぶための方法を考えてくださっただけなのですから…」
松本にも、そして南部に非があったわけではない。
だから、好きじゃないと嘘をつく。強がって心の動揺を見透かされないように笑った。
「明日には伯父が迎えに参ります。これまでお世話になりました」
伯父とともに田舎に帰る。遠く離れれば、こんな気持ちも消え去ってしまうだろう。いい思い出だったと笑えることができるだろう。
(だから…大丈夫…)
「加也」
「…精一郎先生」
「言ったでしょう…『ここから離れてはいけない』と」
「え…?」
その意味がわからず、加也は首を傾げた。隠したはずの期待がまた膨らんでしまう。しかしいつも通りの穏やかな南部の隣で松本が複雑な顔をしていた。
南部が口にするその言葉を既に知っていたのだろう。
「君を…私の娘にしたい」
「…むすめ…?」
「養女です。そうすれば、君はここに残って学び続けることができる。片桐先生の歩んだ道を君が継ぐことができる」
それは思ってもない申し出だった。妻ではなく娘にしたい…確かにそうなれば南部の養女としてここに留まり学ぶことができる。父の意思を継いで医者として生きることもできるかもしれない。
けれど、
でも、それは
(好きじゃないってことだ…)
ここに残ることができるという結果は同じことなのに、南部は妻ではなく娘を選んだ。
それは加也にとってとても残酷な宣言に聞こえた。
「加也…断ったっていいぜ」
加也の心情をよく知っている松本は、そんな風に気遣った。南部の申し出がどれだけ加也を傷つけるのかわかっているのだ。でも松本はそれを黙って見過ごすような性格ではない。きっと止めたはずだ。
それでも南部は申し出た。
(あなたのことが大好きで…大嫌いだ)
加也の溢れだしかけた気持ちに、南部はその穏やかな笑みのまま蓋をした――。











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解説
なし


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