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わらべうた


437

冬の夜が更ける頃。
診療所の裏口の扉がガタガタと開く音が聞こえた。横になって目を閉じていた加也は、その身をゆっくりと起こした。普段痛みはないものの、そういった動作には少し痛みを感じてしまう。
肩から羽織を掛けて、裏口へと向かう。そこには腰を下ろして草履を脱ぐ南部の背中があった。
「おかえりなさい」
「…」
「…義父上?」
南部は背中を向けたまま返答することはなく、その背中には疲労感があった。夜遅くまで診療に時間がかかることは多いが、こんなにも疲れている姿は初めてだ。
「義父上、どうかなさったのですか?いまお茶でも…」
「加也、そこに座りなさい」
南部は背中姿のまま名前を呼んだ。その口調は強く、彼らしくないものだった。
(怒っている…?)
加也はすぐにそう思った。最も南部が怒っている姿など一度も見たことがないのだが。
加也は言われるがままにその場にゆっくりと膝をついた。肋骨は少し傷んだがそれよりも南部のことが気になっていた。
「…あの…」
何も言わない南部から、ほのかに煙の匂いがした。そして僅かに酒の香りも鼻を掠める。
(飲んで帰ったのかしら…)
松本に付き合って飲むことが多いのに、と彼らしくない行動に加也は首をかしげる。よっぽど難しい治療があったのか、助からない命に出くわしたのか…加也自身にはその理由が思い至らなかった。
するとようやく彼は口を開いた。
「沖田先生から、縁談は取りやめたいとお話を伺いました」
「え…っ?」
寝耳に水の話に、加也は驚く。
深雪が襲われた一件があって先延ばしになることに決まっていたが、取りやめることになるとは思わなかったのだ。
「あの…わたくしは何か粗相を…?」
総司から断られてしまい、さらには南部がこうして不機嫌になるほどの何かをしでかしてしまったのだろうか。しかし加也には心当たりがない。
南部は背中を向けたまま続けた。
「沖田先生に、片恋の相手がいると告げたそうですね」
「!」
「先生にも同じように好いた相手がいる…それを利用して縁談をまとめようとしていたと正直に告白されました」
ようやく南部は加也の方へと身体を向けた。怒っている…というよりもどこか哀しそうに眉を顰めていた。
「義父上…それは…」
「今回の縁談を言い出したのは、良順先生です。あの人が考えそうな素っ頓狂なことです。いつまでも隠し通せることでもないでしょうに…」
「申し訳ありません…」
加也は素直に頭を下げた。発案が誰であれ、それを受け入れて縁談を進めたのは他でもない自分自身だ。それが南部を騙すとわかっていたのに、悪びれはしなかった。
悪いことだと、思わなかった。
南部は深いため息をついた。
「世が世なら縁談後に別の相手を思うなど…手討ちになってもおかしくはありません。それを新撰組の…誰よりも誠実に生きようとしている沖田先生に強いようとしたことは謝って済むことではないでしょう」
「…はい」
南部の話に反論できることは何一つない。加也は俯き、唇を噛んだ。
それからしばらく沈黙が流れた。重苦しく冷たい時間だった。指先一つ動かすのさえ緊張する…そんな空気は初めてで、加也は息を飲む。
「…それで?」
「え…?」
「あなたの片恋の相手とは…誰なのですか?」
それは、
ガン、と頭を殴られたかのような衝撃だった。何を尋ねられたのかわからないくらい、クラクラと目の前が揺れていたのは、きっと自然に込み上げていた涙のせいに違いない。
哀しさと、悔しさと。
様々な感情が混じり合う。
それまでずっと堪えてきたものがガラガラと崩れていくようだ。
(もう…我慢しなくていいや)
加也はそう思った。
だから、覚悟した。
「…精一郎先生」
南部のことをそう呼ぶのは随分久しぶりだった。養女として迎えられてから、ずっと封じてきた名前。
「わたくしは…精一郎先生を義父上なんて呼びたくはありませんでした。ずっと…最初から、ずっと。でもそう呼んでいないと…怖かった」
「…」
「本当は分かっているくせに、まるでなかったように聞き流す。精一郎先生のそういうところが…嫌いです」
加也は涙を拭った。そして目の前にいる南部の顔をしっかりと見据えた。
「わたくしの片恋の相手は精一郎先生です。…本当は、知っていたでしょう?」
「加也…」
まっすぐに見つめている加也から逃れるように、南部は視線を落とした。
「…精一郎先生、良順先生を責めないでください。良順先生はきっとわたくしのことを想ってこそ、沖田さまとの縁談を進めようとなさったのですから」
「何故…」
「そうしていれば、この気持ちをずっと持っていられるからです。沖田先生との夫婦関係を隠れ蓑に精一郎先生をずっと想っていられる。良順先生にはそれが過酷な道だとも言われましたが、それでもいいと言ったのはわたくしです。沖田先生はお優しいからそれに付き合ってくださっただけのこと…悪いのはすべてわたくしです…」
でもそれでも、何をも犠牲にしても。
(好きだったから…)
その気持ちが勝っていた。
南部もそれをようやく理解したのだろう。表情を歪めて頭を抱えた。そして両手で顔を覆ってどうにか動揺を堪えようとしているように見えた。
いつも穏やかで温厚な彼が見せる苦悩の姿に、加也はそうさせてしまった罪悪感と痛みを感じる。けれどもう引き返すことなどできない。
「精一…」
「その名で呼ばないでください」
加也の言葉を、南部が遮った。手で顔を覆ったままだった。
「…私は、君が思うような人間ではない」
「どういう…ことですか?」
「私は君の家族を殺した」
「…」
「私は君の母…志乃さんのことをずっと想っていた。それは父の片桐先生もご存知のことだった。あの日、片桐先生が倒れたとき、処置を施したのは私です。でも…私にはその時の記憶がさっぱりありません」
南部は顔をくしゃりと歪めた。
「気がつけば片桐先生が亡くなっていた。そして私はすぐに志乃さんのことを思った。相思相愛の仲だったのに、こんなにも突然の別れを志乃さんが乗り越えられるはずがないと…そう思って…」
気がつけば、駆け付けた。自分がいるから大丈夫だと励ました。そして彼女の気持ちが少しだけ変わっていることに気がついた。弱り切った彼女の心に、自分の居場所ができていた。
淡い期待。邪な熱情。暗い願望…
『精一郎先生』
そんななか、加也が名前を呼んだ。父を亡くして途方にくれる少女が穢れのない瞳で見つめた。
そのたびに後ろめたい気持ちでいっぱいになった。
そして志乃は死んだ。
それは紛れもなく彼女の意思によるものだったけれど、一方で紛れもなく自分のせいだった。
これは報いだ。
善良だと信じていた自分のことが何一つ信じられなくなった。
「…私は志乃さんを想うばかりに、片桐先生の処置を怠ったんじゃないか…死んでもいいと手を抜いたんじゃないか…」
「精一郎先生はそんなことしません」
加也はいつの間にか震えていた南部の手を取った。寒い冬だというのに温かい手だった。
「加也…」
「わたくしも…あの時のことは朧げにしか覚えていません。でも精一郎先生は父の為に精一杯処置をしてくださって、亡くなったあとも母を励まそうとしてくれた…それはちゃんと覚えてます」
加也はもう片方の手も添えた。その言葉と暖かさに震えは止まった。
「精一郎先生は何も悪くありません」
その言葉に嘘はなく、加也には南部を責める気持ちなど微塵もなかった。
「加也…」
しかし南部はその手を逃れるように引いた。そして立ち上がる。
「精一郎先生…?」
「…少し頭を冷やしてきます。先に寝ていなさい」
「え…」
引き止める間も無く、南部は扉を開いて出て行く。ガラガラと深夜に響く扉の音が、まるで南部の心の扉が閉じて行くような音に聞こえた。
(やっぱり…迷惑なんだ)
ずっと封じ込めてきた気持ちを解放し、伝えた。それだけで満たされると思っていたけれど自分は自分が思う以上に貪欲で、望んだ答えが得られないことを嘆いてしまう。
「う…ぅ…」
大粒の涙が溢れた。
(言わなければ良かったの…?)
ポタポタと落ちて行く涙を止めることはできなかった。
「加也」
ギシィという足音とともに、松本の声が聞こえた。南部は知らなかったようだが、松本は今晩南部に会う為に来ていたのだ。当然、二人のやりとりは聞いていただろう。
松本はゆっくりと加也のもとにやってきて、膝をついた。そして肩を抱き
「よく頑張ったな」
と、頭を撫でた。それはまるで子供をあやすようだったけれど、誰かに肯定されるととても心が解かれた。
先ほどよりも大粒の涙が頬を伝う。けれどあの日…養女になったあの日のような冷たい悲しみではなく、心に小さな明かりが灯ったかのような温かさがあった。
ただの自己満足かもしれない
でもこれで良かったと、そう思った。







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解説
なし


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