わらべうた 473.5 ―ふたり―



「あれ?」
聞き覚えのある声が聞こえて、斉藤は振り返った。しかしその顔を見た瞬間には内心(振り返らなければよかった)と後悔した。
「斉藤さんじゃないですか」
伊庭八郎。
『試衛館食客の一人』とも言えるほど距離の近い彼は、数日前から都に滞在している。屯所にも顔を出していたので隊士から話には聞いていたが、非番の往来でバッタリ出会うとは思っていなかった。
「…どうも」
斉藤は淡々と挨拶をした。
彼のことは苦手だった。幕臣の家柄に生まれた御曹司という出自だけでも彼とは距離を感じてしまうのだが、明るく分け隔てなく接しながらも、何かを見通すような賢さが見え隠れしている…彼の近くにいるとなにもかも隠していることさえ暴かれてしまうのではないかと構えてしまうのだ。
そしてそんな態度を伊庭は感じ取って
「あからさまに嫌そうな顔をしないでくださいよ」
と笑った。不快感はないようだ。
彼に最後に会ったのは一年ほど前、土方と共に隊士募集のため東帰した際に偶然居酒屋で鉢合わせした。その際に『何かあったんですね?』とその時の複雑な心境を看破され、辟易とした。それがあったので出来る限り彼とは接触しないように心がけていた。
「別に嫌というわけでは…」
「じゃあ食事に付き合ってください。斉藤さんオススメの店で良いですから」
「…」
無遠慮な誘いだが、彼の場合は嫌味がない。しかし同時に拒む選択を与えない隙のなさがある。
斉藤は渋々ながら、彼とともに歩き出した。
「こっちは寒いですね。大坂から少し北だというだけなのに雲泥の差があるようです」
盆地である京都には大坂にはない冷たい風が吹き込んでくる。こちらは痺れるような寒さだと語る伊庭だが、どこか楽しそうだった。
「…それで、何の用でこっちに?」
「物見遊山…というのは建前ですけど。気になることがあってこちらに」
「気になること?」
「ええ。まあ俺の思い過ごしなら良いんですけどね。…決着を見るまではこちらに居座ろうと思っています」
「…」
相変わらず和かに返答した伊庭だが、斉藤の質問には一切答えなかった。
彼は話す気は無いのだろう…答える気のない相手を追及することほど無駄なことはない。斉藤はそれ以上は何も聞かなかった。
それからは一方的に伊庭が話した。近場のうまい店や地酒、土産、都で仕入れた知識などまさに『物見遊山』な内容だ。巷で女子が井戸端会議を開いているかのように呑気な世間話だ。
「斉藤さん、知ってます?都の商家では毎月食べるものが決まっているそうですよ。月初は小豆ご飯、八のつく日は海藻と揚げの炊き物、月の終わりにはおからだとか」
「…」
「食べるものを前もって決めておけば献立を考える手間を省けます。しかもそれが質素倹約に繋がるのですからさらに合理的です。都の人はもっと煌びやかな生活を送っているのだと思っていましたが、そうではないようですね」
斉藤は右から左へと聞き流すが、伊庭は楽しそうに話し続けている。はたから見ればまるで気の置けない友人関係に見えるだろう。
そうして歩き続け、繁華街に入ったところで
「斉藤さん」
と再び斉藤を呼ぶ声が聞こえた。手を振ってこちらにやって来たのは英だ。往診の途中なのか大きな風呂敷を抱えている。人混みの中でも彼の花のような端正な顔立ちはよく目立った。
「ちょうど南部先生が往診中なんだ。こんなところで会うとは思わなかった」
「ああ…」
「非番?」
「そうだが…」
英の話を聞きながら、斉藤はちらりと伊庭を見た。彼はまじまじと英を見ている。
以前、総司から江戸にいた頃の話を聞いていた。その昔、土方は伊庭とともに英…その頃は薫と名乗っていたが、彼のいた蔭間茶屋に足を運んだことがあるらしい。つまりは彼らは初対面ではないのだ。賢い伊庭が英のことを覚えていてもおかしくはない。
だが、過去を切り離しようやく前を向いて歩き出した英にとって、昔の客には二度と会いたくはないだろう。
斉藤は先手を打った。
「…こちらは会津藩医の南部先生の弟子の英。…英、こちらは幕臣の伊庭先生だ」
「どうも…」
英は目の前の伊庭の様子に訝しげに首を傾げた。彼は相変わらず隅から隅まで見極めるように英を見ているのだ。
(余計なことは言うなよ…)
斉藤が眉を顰めた時、伊庭はパッと表情を変えた。
「初めまして。お若いのに会津藩医のお弟子さんとは、優秀なのでしょうね。俺は斉藤先生の友人で少し用事があってこちらに滞在しているんです。病や怪我に見舞われた時は是非診察をお願いしますね」
「…幕臣の方にそう言っていただくのは、光栄です」
爽やかで精悍な伊庭の微笑みに、英の警戒はあっさりと解かれる。
ちょうどタイミング良く診察を終えた南部が商家から出てきたので、斉藤は「じゃあ」と話を折り、伊庭の背中を押してそのまま立ち去った。
英の姿が見えなくなる頃、伊庭はくすくすと笑い出す。
「斉藤さん、顔が強張ってましたよ」
「は…?」
「心配しなくても、余計なことは言いません」
「気がついていたのか?」
彼がかつての薫であるということに。
「そりゃあの美貌ですから、忘れたくても忘れられませんよ。たとえ火傷があったとしてもね。…相変わらず同じ男には見えないや」
「経緯は聞いたのか?」
江戸にいた頃だけではなく、こちらでも新撰組と英には一悶着あったのだ。それを知っていなければ敢えて『初めまして』と切り出し、『斉藤先生の友人』と土方の友人であることを気づかせないような配慮はできなかったはずだ。
しかし、伊庭は首を横に振った。
「いいえ、まあ…彼がこちらにいるらしいということは聞いていましたが、その後のことは聞いていませんでした。でも斉藤さんの顔を見ていたら何となく察しました」
「…」
「まさか医者の卵になっていたとは。『英』ですか…良いお名前ですね」
しみじみと語る伊庭は穏やかだ。
言葉にしなくても、気がついてしまう。
それを『賢い』『聡い』と称賛するのは簡単だが、彼は人以上に周りを見ているのだろう。そうすることで人それぞれとの距離感を見極めている。
(相変わらず苦手だが…)
嫌いではない。
彼にはきっと誰もに、そう思わせる魅力があるのだろう。
斉藤は息を吐いた。
「…嫌いな食べ物は?」
「え?別にないですけど…いや、赤貝に当たったことがあるから貝だけは避けたいですね」
本気で嫌そうな顔を浮かべる伊庭を見て
「わかった」
と答えて、斉藤は店を決めた。向かったのは貝の美味い鮨屋だ。
その店に入った時、彼がどんな顔をするのか…見ものだと、内心北叟笑んだのだった。




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