わらべうた 486.5 ―縹緲の霧―





こうなることを、どこかでわかっていた気がする。


夕暮れ時。
斉藤が河合の謹慎する部屋の前にやってくると、見張りの当番を務めている隊士が疲れた顔を見せた。
「斉藤組長…」
「様子はどうだ?」
配下の三番隊の隊士たちは同じく謹慎を言いつけられた藤堂の見張りについている。そちらは藤堂がその獰猛さを潜めたため極めて平穏に時間が過ぎているようだが、こちらはそうではないようだ。
隊士はため息混じりに答えた。
「はい。…半刻に一度、『飛脚が来た』と大騒ぎになります。こんな夜遅くに来るわけがないのに…」
「…」
河合が謹慎となって四日目の夜。部屋から出ることもできず、食事にも手を付けなければ気が狂うの当然だろう。
「早く飛脚が来れば良いのですが…あまりに憐れです」
隊士は同情するように呟いた。彼に恩義がある者、もしくは彼の働きぶりを知っている者は彼がこのような事態に追い込まれていることに哀れみを持っているようだ。
「…しっかり見張れ」
「はっ…!」
斉藤はそう言いつけて踵を返した。
河合に同情する者が多い中、斉藤は己の感情が動くことはなかった。彼が八十両過失の張本人でないことは重々わかっているが、それでも己の引き起こした事件であることは間違いなく、真犯人を告発しないのは庇っているのと同じこと、だったら罪を負うのは自己責任だ。
無理やり犯人を吐かせ、助けてやる必要などない。
(…冷めている)
その自覚はあった。
河合のために必死に駆けずり回る藤堂とは真逆の場所にいる。自分は優しくない人間なのだろう。
(だが…)
河合がどれだけ哀れで同情すべきあっても、孤立しても法度を遵守する副長とそれを支える彼を見捨てることはできない。
自分の中にある数に限りがある優しさは、沢山の人間に振り分けるものではない。不器用な自分には守れる者は少ないのだから、欲張りせずに守れるものだけを守る。それでいい。
例えすべてが敵になってしまっても、揺るがない覚悟を持っている。
「試されているな…」
斉藤は長く息を吐いた。白い息が空へと舞い上がり、夕暮れの空に溶けた。


そしてーー。
予想していた最悪の結末を目の前にしていながら、斉藤は特に動揺はしなかった。
まるで最後の足掻きのように、言いたいことを口にして河合は去った。正しくは他者の手によって消えた。
彼が訴えた言葉は見事に土方副長にとって耳が痛い言葉ばかりだった。彼はいつからそんなことを考えていたのか…しかしそんなことをもう聞くことはできない。その冷たくなった骸には彼の魂はもうないのだから。
斉藤とともに全てを見守っていた総司は絶句していた。ずっと守っていた一線を土方は超えてしまった。結果は同じであったとしても、河合の罵倒に苛立ち形式を踏まず私情で人を殺めてしまったのだ。しかも、本人はいつも通りの冷たい表情を崩さなかった。
斉藤は時が止まった空気を裂くように、河合の魂のいない骸に近づいた。そして切腹を促すつもりで持っていた短刀を取り出すと、河合の腹を浅く刺して横に傷つけ、抜いた後にまだ温かい彼の手に持たせた。
「…河合は突然切腹を図り、副長が介錯した…これで宜しいでしょうか」
幸いにもここには副長側の人間の三人しかいない。彼の死を偽装するのは簡単だ。土方は河合の血で汚れた刀身を懐紙で拭きながら、
「ああ…そうだな」
と答えた。分かりずらかったが、鬼の副長の彼にも動揺があったが、そのまま部屋を出て行った。呆然と立ち尽くす総司に何も声をかけずに。
彼らの歩む道はおそらく違う。総司が同じ道を歩きたいと願っても土方は拒むだろう。それは人を人として見ず、ただただ孤立し続ける虚しい道なのだから、大切な者ほど近づいて欲しくないと思うはずだ。
今回の件はそれを顕著に見せつけるものだった。義に生き誠を口にする日の当たる道と、不都合な事実に蓋をして汚れた闇夜を歩く道。二人で一つの存在だとしても、光が当たる方は決まっている。
(試されている…)
彼にその自覚があるだろうか。
「…今日は夜番だったよな?」
斉藤が声をかけると、総司はハッと我にかえった。
「は、はい…」
「だったら後のことは任せてそろそろ準備に向かった方がいい。…出来るだけ平常心で」
「わかりました…」
総司は覇気のない返事をして、部屋を去る。
斉藤はその足音が聞こえなくなるまで耳を澄ました。


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