わらべうた 499.5 ―ふたり3―





伊庭は西本願寺を出て南へと歩き始めた。
春の訪れを感じさせる暖かな気候になった。桜の蕾が色づいている。各地の名勝では幻想的な春の季節を迎えるのだろう。
その景色に後ろ髪を引かれながらも、今いるべき場所はここではないのだと自分に言い聞かせて歩を進めた。
この場を去ることに不安がなかったと言えば嘘になる。
懸念していた御幸太夫…孝のことは杞憂に終わったが、近藤の妾である深雪の死については様々な原因があるようだ。
そのことがかつて同じ釜の飯を食った試衛館食客たちの絆を裂こうとしている―――試衛館に出入りしていた伊庭にとって
友人たちの動向は気にかかることだった。もう少し滞在して様子を窺いたい気持ちはあったが、
(でも…俺の出る幕ではないな)
と悟った。
試衛館にいた頃なら仲裁役を買って出たかもしれないが、彼らは『新撰組』という組織の中にいるのだ。幕臣の伊庭が
しゃしゃり出るわけにはいかないだろう。
それが少しだけ寂しいが、己の感情は抜きにしていま為すべきことを為さねばならない。
(為すべきこと…)
大坂に戻り、幕臣の一人として将軍をお守りすることだ。親衛隊の奥詰として若き将軍の安寧を維持すること。
薩長同盟のような討幕の風に惑わされることなく、その道を進み続ける。
彼らと同じように、しかし、彼らとは違う道を。
「戻ろう…」
伊庭が一息吐き気持ちを切り替えて、大坂への道を力強く踏み出した時。
「…あっ」
目の前からやってくる男の姿が視界に入った。あちらも伊庭に気が付いたようで、居心地悪そうに視線を逸らしたが
逃げたり隠れたりするようなことはなかった。
(面白いなあ…)
都にやってきて彼と距離を縮めることができたのは伊庭にとって一番の収穫だった。
「斉藤さん」
手を振って名前を呼ぶ。まるで親しい友人のようにすると彼は迷惑そうに顔をしかめて早足でやってきた。
「…屯所に何か用事でも?」
ぶっきらぼうな表情で不本意そうに尋ねてくる。
新撰組三番隊組長、斉藤一。隊内でも一、二を争う剣の使い手だ。何度か酒の席を共にしたが、どうも好かれていないらしい。
だが好かれていないとわかっていても、ちょっかいを出したくなる…伊庭にとってそういう存在なのだ。
「いえいえ、用事を終えて大坂に戻るところです。少し遊び過ぎましたからね」
「そうか…」
「寂しいですか?」
「せいせいする」
「またまたぁ」
遠慮のないやり取りが心地よい。伊庭が楽しそうに笑うのを見て、斉藤は反対に苦い顔をした。
彼は総司に思いを寄せているらしい。それは伊庭が何となく察してしまったことで本人から聞いたことはないのだが、
時折土方とよく似た表情をしているので、間違いないだろう。けれどその気持ちに蓋をして総司の一番の友人として
振舞っている。それが己の恋の形だと決め込んでいる不器用な男だ。
だからこそ頼れる存在でもある。
「…いろいろ大変そうですけど、沖田さんや土方さん…皆さんのことよろしくお願いします」
「なぜ俺に言う」
「そりゃ斉藤さんが俺の友人だからですよ」
「…」
斉藤は今までで一番嫌そうな顔をした。眉間に皺を寄せまるで汚物を見るような目で伊庭をまじまじと見ている。
「…友人、だと?」
「え?違いました?もう二回も酒を飲み交わした仲じゃないですか。俺は斉藤さんに好かれているものだとばかり」
「…」
もちろん冗談のつもりで伊庭は茶化した言い方をしたのだが、斉藤はやはり不本意そうな顔を隠さなかった。
すっかり黙り込んでしまった斉藤を見て
(思った以上に好かれていなかったらしい)
と伊庭は内心苦笑し、落胆する。少しでも気を許してもらっていたと思っていたのは勘違いだったのだろうか。
伊庭はため息をついた。
「…じゃあ、俺は大坂に戻りますから…」
「友人だとは思っていないが…」
伊庭の別れの挨拶を無視して、斉藤は言葉を紡ぐ。まるで一文字一文字とゆっくりと慎重に選ぶように。
「え?」
「頼りにはしている。…あんたのような幕臣が味方になってくれるなら今後は心強いだろう」
「…」
今度は伊庭が無言になる番だった。
無口な彼が口にした言葉だからこそ、そこに嘘はない。ぶっきらぼうな言い方だったがそれでも胸に熱く響いたのだ。
彼の中で『友人』という形に収まらなかっただけで、確かに『信頼関係』はある。
自然と笑みが零れた。
「…いやだな、ますます惚れそうだ」
「勘弁してくれ」
「大坂から文を出しますから、必ず返事を下さいね」
「女のように気色悪いことするな」
「ひどいなあ」
伊庭がハハハ、と一方的に笑って斉藤は依然として面倒そうに顔を歪めていた。けれどその仏頂面が取り繕うこともなく
自然に接してくれている証拠なのだと気が付いた途端、心が温まるような心地がした。
「じゃあ、また」
「…ああ」
伊庭は気軽な友人のように去っていき、斉藤はそれを見送ることなく通り過ぎていく。
春の風が二人の間を通り抜けていく。温かくも、冷たくもない生ぬるい風だ。
短い間に結ばれたこの友誼の意味は何なのだろう。
その意味を誰が知っているのだろう。
伊庭は空を仰いだ。






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