NEXT

わらべうた



522


谷の一件が収束する頃、廣島に残っていた伊東と篠原が帰営した。
「長らく留守に致しまして、申し訳ございませんでした」
伊東は篠原とともに恭しく頭を下げた。
その場に居合わせたのは近藤と土方、巡察の報告に足を運んでいた総司、そして伊東の帰営を知らせに来た斉藤だった。
近藤は
「長旅、ご苦労でした。色々お話は伺いたいがお疲れだろう。少し休まれたあとで…」
と労ったが、隣に控えていた土方が「いや」と言葉を遮った。
「…二度目の長州征討が近い。有用な情報を得ているのなら一刻も早く聞きたい」
土方はいつも以上に鋭く伊東を見据えていた。
伊東は深雪の死を知り、近藤の早めの帰京を促し自身は廣島に留まった。愛妾の死で動揺する近藤に漬け込んだ行動だと非難しているのだ。しかし近藤の前で口にするわけにはいかない。
もちろん伊東も誹りを受けることを理解していただろうが、涼しい顔をして「わかりました」と微笑んで頷いた。
「…さまざまな伝手を利用し、情報を得るよう努めました。長州藩は思った以上に国力を増強しているようです。幕府に恭順すべきという意見もありましたが、今では倒幕へ向け長州挙藩一致し、幕軍を迎え撃つ体制のようです」
伊東は懐から書を取り出し、近藤の前に出した。
「これは?」
「『防長士民合議書』…三十万部以上作成され、藩内に配布されているそうです。内容としては、忠臣蔵を例に挙げ、冤罪で朝敵となった藩主のために忠義を尽くすべし…というものです」
「忠臣蔵か…」
土方は「ふん」と鼻で笑った。新撰組の羽織の『だんだら』は忠臣蔵から得たものだがそれを全く正反対の立場の者が例に出すとは皮肉なことだ。
伊東は続けた。
「幕府が朝廷に奏上し勅許が下された最終処分案…藩主の蟄居、家老の断絶などを長州が受け入れる様子はありません。それどころか薩摩と手を結び異国からの最新鋭の武器を得ているとなれば…今度の長州征討、幕府が苦戦することもありうるでしょう」
「外様一藩に幕府が負けると?」
「可能性の話です」
総司は息を飲む。
伊東の流れるような語り口のせいかもしれないが、全てが「言った通りになる」ような感覚を覚えてしまうのだ。しかしそれでも、何百年続いて来た幕府が長州藩に負け、全てが覆されることは想像ができなかった。
場が緊迫したが、伊東は微笑みを絶やさなかった。
「…とはいえ、長州征討に新撰組が関わることはないでしょう。今は長州や薩摩、そして土佐に刺激を与えるようなことを避けるべきであると考えます」
「土佐?」
「二藩に手を結ばせるように手引きしたのは、土佐藩の者だと聞いています。今はまだ幕府に近い立場ですが…今後、どう転がるかは注視しなければならないでしょう」
「…」
数年前の蛤御門の変の際、幕府側として朝廷をともに守った薩摩と土佐が反対の立場へと変わりつつある。
政局は動いている…総司はそれを改めて感じた。
そして伊東は話を切り上げた。
「局長、詳細はまたご報告いたします。大変申し訳ないのですが、私も篠原も長旅の疲れを癒したく思います」
「そうだな、すまなかった。…土方君、いいだろう?」
「…ああ」
土方は渋々ながら頷いた。
伊東は篠原とともに腰を浮かし、そのまま部屋を出ていく。するとしばらく間をおいて土方が「厠へ行く」と行って去ってしまった。
部屋には近藤と総司と斉藤が残った。
「…いてて」
「先生、どうかされましたか?」
「いや、大したことではない。いつもの胃痛だ」
腹を抱えるようにしながらも近藤は大したことはないと苦笑するが、総司が傍に寄ると額やこめかみに脂汗をかいていた。
近藤が胃痛持ちになったのは都へ来てからだ。それまで貧乏道場主でしかなかった近藤が新撰組局長として政治の表舞台で議論を交わすようになってから精神的なプレッシャーが生まれ、それが胃痛となって現れたのだ。
「お薬をお持ちしましょうか」
「いや…薬は、切れている。南部先生の所へ行こうと思っていたが…足を運べないままだった」
「でしたら先生をお呼びしましょうか。そうだ、診療所には松本先生がいらっしゃいますから…」
「休めばなんとかなる。松本先生は大樹公の件でお忙しいんだ、ご負担をかけるわけにはいかない」
青ざめていたが近藤は語気を強めて拒み、総司は「すみません」と謝った。近藤の言うように松本も大坂城での診察に疲れている様子だったのだ。
すると同じように青ざめている人物がもう一人いた。
「局長…今の話は本当でしょうか」
「…斉藤さん?」
それまで無言を貫いていた斉藤が語尾を震わせ動揺を隠すことなく問いかけた。カッと瞳孔を開き、深刻な表情だ。
そのあまりの態度に近藤も痛みを忘れたように驚く。
「斉藤君…?どうした?」
「どうかお聞かせください。いま、なんと…!」
「ん?…松本先生は大坂城に出入りし、大樹公を診察されている。まだ内輪の話だが…お加減が良くないご様子らしい」
「…!」
斉藤はぐっと唇を噛み、素早く立ち上がった。そしてそのまま早足で去って行ってしまう。冷静さを欠いた彼らしくない様子だ。
「斉藤さん…?!」
「…総司、彼を追いかけろ」
「でも…」
胃痛に苦しむ近藤を置いてはいけないし、先日の一件もある。総司は斉藤とはしばらく距離をとるべきだと考えていたのだ。
しかし近藤は「いいから」と背中を押す。
「斉藤君の様子は明らかにおかしかった。彼のことはよくわからないが、今のは追い詰められてる表情に違いない」
「…わかりました。すぐに山野君に薬を取りに行かせますから先生はこのまま休んでいてください」
「ああ」
近藤の返答を受け取り、総司は急いで斉藤を追いかける。どうしようもない胸騒ぎがしていた。


一方。
「伊東参謀、どちらへ?」
土方は伊東を呼び止めた。「疲れた」といって退出した伊東はさっさと旅姿を解き、自室を出ようとしていた。
「…妾宅へ行く所です」
「妾宅ですか」
「屯所とは距離を置き、疲れを癒す…それが妾宅でしょう」
伊東は穏やかな笑みで答えたが、先程の近藤の前とは違う、どこか土方を牽制するような表情だった。
「二つ話がある。一つ目は近藤局長の許可のみで廣島に残留したことだ」
「前回同様に我々は手土産なく帰営するわけにはいきませんでしたから、私と篠原が残った次第です」
「…深雪の逝去を利用して近藤に伝えた」
「人聞きの悪いことを仰らないでください。近藤局長は深雪殿を大切にされていたので、まさか口止めされていることなどと思いもよらなかったのです。…死に際に会えなかったのはとても残念なことですから、せめて早めの帰京を促したまでのこと」
「他意はないと?」
「もちろんです」
伊東は終始表情を崩さなかったが、その用意周到さが逆に真実を覆い隠しているようだった。
しかしこの件に関しては土方はこれ以上問いつめるつもりはなかった。
「もう一つは?」
「…幕府の要人を相手に長州への寛典論を説いたとか」
「…」
流石に伊東は一瞬表情を曇らせた。秘密裏に行動していたつもりかもしれないが、監察の山崎も残していたので情報は土方の耳に入る。
しかし伊東はすぐに取り繕い微笑んだ。
「説いたと言うほどではありません。寛典論は私の持論です。長州の罪を問わず寛大な処置を取れば、戦など起きずに政局は安定します」
「局長の論理とは異なる」
「そうでしょうか。『攘夷』という意味では同じです。国力をつけた長州と幕府の戦が長引いた場合、諸外国につけ込む隙を与えてしまう…それを阻止するためです」
「それを『新撰組参謀』が吹聴していることが問題だ」
会津お預かりである新撰組はどう考えても佐幕の立場にある。寛典論が最終的に『攘夷』に繋がるとしても、戦へと動いている幕府に逆らうことになってしまう。土方はそれを危惧していたのだ。
硬い表情を崩さない土方に対して、伊東は尚も微笑んだ。
「…わかりました。でしたら局長を説得しましょう。土方副長は『局長の論理と異なる』ことがお気に召さないようですから」
「…」
「それでは、花香が待っていますので失礼します」
伊東は軽く頭を下げて去って行く。
彼は今まで飾り立てた言葉で真意を覆い隠し、はっきりとした意見を口にすることは少なかった。
けれどいま、伊東は『自分は違う』ことを隠さなかった。
(ついに動き出すのか…)
土方は深く息を吐いた。









NEXT


解説
伊東の帰営は谷死去よりも前です。

Designed by TENKIYA