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わらべうた



524


天保十五年、一月一日。
「一」という名前はめでたい日に生まれたからなのだと両親は語っていたが、実際のところはわからないし、さほど興味がなく物心ついた頃には簡単で楽な名前だと思っていた。
父は明石藩の足軽であったが、江戸へ下り旗本の鈴木家に仕えた。姉と兄がいて次男として生まれた俺はなに不自由なく育ったが、幼少の頃から周りに「変わった子だ」と評されることが多かった。
まず無口であった。両親は最初は喋ることができないのかと危惧したようだがそうではなく、単に性格の問題だったのだ。一人遊びを好み、面倒を厭い、交流を疎う…陰気な子供であった。
そして人の話に耳を貸すことがなかった。次男なのだから他家への士官など将来を見据えて学問をするべし、という両親や兄姉の忠告を聞き流し、唯一興味のあった剣の道に邁進し続けた。
剣はわかりやすい。身につけたことがすぐに形となって現れる…その単純明快な事実が無関心な俺を惹きつけた。毎日、ただただ剣を振るい続けた。
十になる頃には両親は諦めたようだった。後継である兄を立派に育て、姉は良い嫁ぎ先に出せるように注力し、俺のことは放置した。厭われていたわけではないが、「何を言っても無駄だ」と悟ったのだろう。俺にとってはそれは都合がよく益々剣の道ばかりを辿った。
当然、幼い頃から培われた無愛想な性格は直らずついに十五になった頃、通っていた道場で孤立した。その頃は幕府の大老井伊直弼によって朝廷の勅許を得ないまま条約を結んだことで世間が乱れ始めていた。道場の血気盛んな青年たちは剣よりも論議に花を咲かせ道場の外で盛り上がる。道場の裏の小庭で「尊王攘夷だ」「佐幕だ」と唱える彼らを、俺はそれを白い目で見ていた。
「何だよ山口、その人を小馬鹿にした目は」
三つ年上の梶谷という男が俺に絡んだ。同じ御家人だが大きな旗本に仕える家柄の嫡男である彼は傲慢な態度で周囲を萎縮させ、道場で中心人物として居座っていた。
「…別に」
「ふん、日和見しやがって。剣ばっかりやってるからおつむが足りないんだろうが、江戸の民でありながら世の情勢に無関心など考えられぬな」
「全くその通りだ」
「少しは梶谷さんの話に耳を傾けたらどうだ」
「…」
梶谷とその手下のような金魚の糞弟分二人が俺を嘲笑する。しかし他人が口にしたことに昔から悉く興味のなかった俺は、なんの感慨もなくそのまま通り過ぎようとした。しかし
「おい!無視するのか!」
弟分の一人が俺の前に立つ。稽古で使う木刀を俺に突きつけた。
俺は宣戦布告と捉え、すぐに同じく手にしていた木刀を構えた。そして素早い動作で先制して彼の木刀を打ち払うと、威力の差は明らかであっさりと落とした。
「ひっ」
と弟分の一人が小さな悲鳴をあげた。落とした木刀を慌てて拾おうとしたが、それは必然的に俺に背中を向けることになる。
「おいやめろ!」
梶谷が叫んだが、彼の耳にも俺の耳にも入らない。喧嘩をふっかけてきたのはそちらであり、相手をしてやっているのは俺の方だ。高ぶった気持ちがあった。
しかし
「やめなさい」
という別の声が響いた時、俺は弟分の背中に向けた木刀を止めた。それは背筋に触れるか触れないかギリギリのところであり、側で見ていた梶谷ともう一人の弟分も「やられた」と思っただろう。だが三人は窮地を救った声の主を見上げて少し青ざめた。
「せ、先生…」
「こんな裏庭で何をしているのですか」
道場の若い塾頭である『先生』だ。凛々しい眉に綺麗に剃られた月代が印象的な精悍な男である。
「さ…佐助が稽古の相手を頼んだだけです、なあ佐助?」
「は、はい」
「本当か?山口君」
先生は公平な性格の持ち主で道場で人気者だ。そんな彼に睨まれては梶谷たちもやり辛いと思い嘘をついたのだろう。
だが俺はその嘘を暴くつもりはなかった。それはさらなる面倒ごとを招くだけだとわかっていたからだ。
「はい」
「…そうか、だが稽古ならこんな裏庭ではなく道場でしなさい」
「わかりました!」
三人は慌てて去っていく。しかし梶谷は俺を睨みつけることを忘れなかった。
先生は「ふう」と大きなため息をついた。もちろん梶谷たちが俺に絡んで返り討ちにあった…ということなど百も承知のはずだ。
「山口君。確かに君の剣は強いが、強いが故にああいう輩を真っ向から相手にすることはないだろう」
「…」
「だんまりか。…面倒な喧嘩に巻き込まれなくなかったら、年が上の者にはそれなりの敬意を払わなければならないよ」
「…剣の前で年齢は関係ありません。先生は戦うべき相手を前に『あなたはいくつですか』と尋ねるのですか」
俺は梶谷たちを相手にした時には感じなかった苛立ちを、先生の言葉に覚えた。そんな妥協をするくらいなら売られた喧嘩を買う方がましだ。
しかし先生は俺を笑った。
「…君のその率直なところは嫌いじゃないな」
「…」
「でも君が『くだらない』と思うことも、もしかしたら本当はそうじゃないかもしれない…そう考えることも必要じゃないかな」
「…はい」
俺は空返事で答えた。剣の腕の優れた先生だが、こういう子供扱いのような説教は苦手だったのだ。
しかし先生はそんなことさえ見透かして「じゃあもう帰りなさいい」と穏やかに笑ったのだった。


道場から家に戻ると待ち構えていたように父に呼び出された。
それは珍しいことだった。父は兄と姉ばかりに関心を寄せて俺のことは相変わらず放置していたからだ。
床の間を背にして父は難しい顔で腕を組んでいた。無骨な父であった。足軽から御家人に上り詰めたあとも黙々と仕える主人のために働き、子供達を厳しく育てた。兄はそんな父にて真面目な後継になり周囲から信頼され、姉は堅実な嫁ぎ先が決まったらしい。
(俺は一体誰に似たのか…)
そんなことを考えていると、父がようやく口を開いた。
「…一、お前に頼みたいことがある」
「頼みたいこと…」
何か説教が始まるのだと思ったので、そんな風に切り出されるとは思わず俺は少し驚いた。
「あるお方の話し相手になって欲しいのだ」
「…話し、相手?」
「年の頃はお前よりも少し下だが、由緒正しいお家柄のお方だ」
「…」
父が重々しく語る『お方』はおそらく身分の高い人物なのだろう。父の仕える鈴木家からの依頼なのだろうか…としかしそれよりも俺には不似合いな『話し相手』という仕事の方が気になっていた。
「稽古の前後、少しの間で良いそうだ。長くて半年、頼まれてくれるか」
「…父上、俺はあまり喋りが得意ではありません」
「その通りだ。だから一度は断ったのだが…先方はどうしてもお前が良いそうだ」
「…」
己を他人がどう見ているのか…そんなことは知っている。一人を好み、周囲とは関わりを持たずそのせいで愛想など身についていない。そんな俺をわざわざ指名して『話し相手』など何かあるのだろうと勘ぐるのは当然だ。
「お断りします」
俺はきっぱりと告げた。相手が高貴な立場というのならなおさら自分に全うできる仕事だとは思えなかったのだ。
しかし父は渋い顔をして「それはならん」と突っぱねた。
「直々のご命令だ。それにお前が断ればお勝の縁談に支障をきたすかもしれない」
「…」
一体どこからの『命令』なのか…父は明言を避けたが、断ることができないのだと理解した。それに決して仲の良い家族とは言えないが、姉に迷惑をかけるわけにはいかないと思った。
(たった半年だ…)
期限があるのだから腹をくくることはできる。それにわざわざ俺を指名するのだから無口で無愛想なことも承知しているのだろう。
「わかりました」
俺がそう答えると、父は少し安堵したようだった。
「…明日の朝、迎えの者が来るそうだ。今夜は早めに休みなさい」
「はい」
俺は頭を下げてそのまま立ち上がって部屋を出た。









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解説
斉藤の過去についてはもちろん創作です。

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