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わらべうた



525


翌朝、俺を迎えにやってきたのは月代を見事に剃り上げ高級そうな着物と袴に身を包み、武人というよりも貴族のようにお高く止まった男一人のみだった。
「君が山口一か」
「…はい」
男は値踏みするように俺の頭の先から足のつま先までまじまじと見た。父に言われて外向けに誂えた衣服に身を包んでいたが、この男の前ではすっかり霞んでしまう。
男は「ふん」と少し鼻で笑った。
「私は名乗れぬ立場の人間だ。本来であればお前と会うことはない。それ故にここから全ては他言無用だ」
「はい」
男の高慢な態度は気に障ったが、いちいち反抗するのは面倒だったので頷いた。しかし例の話し相手がこの高慢な男の主人かと考えると億劫だった。
男は「道を覚えろ」と端的に命令したので俺は男の二、三歩後ろを歩いた。入り組んだ武家屋敷を歩き回る…途中からそれが最短距離ではなく誰かに尾行されないように向かう道順であることに気がついた。細道や人目につかない道が多いので、これからこの道を使えということなのだろう。
そしてようやくたどり着いたのは大きな屋敷の裏口だった。見渡してもその屋敷の終わりが見えないほど広大な土地であったので(どこかの藩邸だろうか)と察した。門番の付く裏口は俺の家の玄関よりも随分立派だ。
「さて、お前に言っておくことがある」
男は中に入ろうとせず、俺を見据えた。
「まずこのあとお会いする御方は高貴なお立場の御方である。御方について余計な詮索や口出しは重罪と心得よ」
「…わかりました」
「そして御方の前ではお前は『人』ではない。…それ故、名乗るどころか一言も発することは許さぬ」
「…」
俺は流石に首を傾げた。父の話ではその高貴な方の『話し相手』として呼ばれたはずだ。それなのに一言も発することを許されないとは思いもよらなかった。
しかし男は俺の疑問になど答えることはなく、裏口を開けて中に入った。俺に当然拒む権利などなく男に従うしかなかった。
中に入るとすぐに一面に季節の花々が広がっていた。花びらの紅色、橙色、桃色、葉の青々とした緑色…鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。そんな眩い光景に囲まれながら人が一人通れるかくらいの狭い石畳を歩き、やがて視界が開けてたどり着いたのは広い庭と外観通りの立派な屋敷だった。
そしてそこにいたのは、年老いた女中に付き添われた一人の年若い少年だった。
「若様」
そう呼ばれた少年は俺よりも少し年下だろうか、真っ白な肌に細く長い髪が靡き温厚そうでいて繊細で美しい顔立ちだった。精巧に作られた人形のように現実味のない存在に俺は思わず目を奪われていた。
しかし俺をここまで誘導してきた男は少年の前で膝をついて深々と頭を下げたので、慌てて従った。
「若様、お身体の具合はいかがでしょうか」
「うん。今日は大分いいんだ。お千代と一緒にお屋敷をぐるりと回っても息が上がらなかった」
若様と呼ばれた少年は部下である男に向かって愛想よく返事した。声変わりは終えているようで、何だか顔立ちと釣り合いが取れていないように感じた。
「それはよろしゅうございました。しかし邸内と言えども乳母一人では心許ないでしょう。…今日は先日ご所望されましたものを連れてまいりました」
男が振り返り、俺に前に出るように促す。(献上品か)と内心吐き捨てながら俺は頭を下げたまま二、三歩前に出た。
「若様、新しい『イチ』です」
男の紹介に俺は「え?」と喉元まで声が出かけたが、ぎりぎりのところでぐっと堪えた。
(『イチ』…?)
たしかに俺の名前をそう読むことはできる。しかし通常は『はじめ』と読むものが大半であるので、男が間違えているのだろうか。しかし俺の素性など調べ尽くしているだろう彼がそんな間違いをするとは思えなかった。そして『話すこと』を禁じられた俺には訂正することはできない。
それに少年が
「イチ!」
と俺を見て目を輝かせたのだ。そして少年は俺に近づくとまじまじと好奇な眼差しで見ている…俺は顔を上げることはできなかったが、彼がとても喜んでいるのはわかった。
そして俺はぼんやりと理解した。
『御方の前では「人」ではない』
先程この邸宅に入る前に男が釘を刺した言葉。それは誇張でもなんでもなく『事実』だったのだろう。
ーーーー犬だ。
寡黙な自分などがなぜ『話し相手』などに選ばれたのかと不審に思っていたが、今なら納得できる。
この時から俺は『イチ』という若様の『犬』となったのだ。



俺はそれから連日、迷路のような道を歩いて若様に会いに行った。彼らから受ける『犬』扱いは不服ではあったが、たった半年のことならと耐えることにした。
それに、慣れれば苦痛ということはなかった。
毎日、若様の話を聞いているだけなのだ。相槌も返事もせずただ黙って聞く。傍目に見れば若様の独り言だ。しかもその内容は朝食が美味しかっただの、天気がどうだなど日々の他愛のないことばかりで拍子抜けしてしまうほど平和な内容だった。俺はその話を庭に膝をついて頭を下げ、黙々と耳に入れる。たまに邸内の散歩に付き合うことはあるけれど、空気のように彼に寄り添うだけだ。
彼の周りには常に俺以外の誰かがいた。千代と呼ばれた乳母であったり、女中であったり…決して二人きりになることはなかった。若様が病弱なせいかもしれないが、俺の存在が警戒されているのかもしれない。
けれど若様は毎日穏やかだった。人間なのだから喜怒哀楽というものがあり機嫌の良い日や悪い日があるはずだが、彼に限ってはそれがないように思えた。日々の些細なことに気を配り、誰に対しても人当たり良く接している姿しか見たことがない。初めて若様に会った時の『人形のようだ』という感覚は俺の中にまだ残っていた。
けれどそんな若様が晴れ渡った空を見上げながら
「ああ、外に出て見たいなあ」
と呟いたのが印象的だった。それまでの世間話のような口調とは全く違う子供じみた憧憬。
籠の中に囚われたまま囀り続ける鳥のようだった。

晴れの日も、雨の日もあった。しかし俺の中では同じ日が続いた。
本当の『犬』ならば主人の話を延々と尻尾を振りながら聞き続けることができるだろう。意味を理解せず聞き流せる。
けれど俺は次第に考えるようになった。
若様は何者なのか。
若様は何を考えているのか。
若様は俺のことを本当に『犬』だと思っているのだろうか。
(問うてみたい…)
誰にも関心がなく、人と関わろうとしなかった俺にとってその感情は今まで生まれたことのない稀有なものだった。だからこそどうしていいのかわからなかった。
そんなある日、乳母とともに三人で広い庭を歩いていると突然の雷雨に見舞われた。すぐに屋敷に入れれば良いのだが、広すぎる庭ではそれは難しい。大きな木の麓に移動した。
「傘をとってまいります」
乳母がそう申し出て俺をチラリと見た。二人きりにさせることが不安だったのかもしれないが、それよりも病弱な若様を気遣う感情が優ったようだ。
初めて二人きりになった。俺は少し距離を置いて若様の側で跪いていたが
「イチ、もっと近くにおいでよ。そこでは濡れてしまう」
「…」
「イチ」
言葉を発することができないが故に拒むことはできなかった。俺は木陰に入り、雨を凌げる場所でもう一度跪くと若様が笑った。
「せっかく二人きりになったのだから、喋っても良いのに」
「!」
俺は驚いたが若様は構わず続けた。
「イチ、本当の名前は何ていうの?まさか本当に『イチ』なんて犬みたいな名前ではないでしょう」
「…」
「ううん…こういう言い方は好きではないけれど、答えてくれないなら仕方ないな。命令だよ、教えてくれないかな」
あの男によって縛られていた命令が、容易く解かれる。俺は恐る恐る口を開いた。
「…あながち、間違っているわけではありません。私の名前は『一』です故」
「へえ!偶然のことなのかな、篠原も面白いことを考えるね。じゃあイチのままでいいのかな」
「はい」
若様は俺を見て無邪気に笑った。篠原と言うのがあの男の名前なのだろう。
「『イチ』というのはね、君が来る前に死んだ…犬なんだ。ずっと私のそばに寄り添ってくれた…心優しい犬だった。死んだ時は悲しくて…思わず篠原にお願いしたんだ『私よりも先に死なない友人が欲しい』って」
「…」
秘められていたことがあっさりと明かされていく。俺は突然のこといに呆然としていたが、若様は堰を切ったように話を続けた。
「そうしたら君を連れてきた。少し驚いたけれど、君は一言も喋らず、かといって聞き流す風でもなく私の話を聴いてくれた。…まるで『イチ』のように」
「…」
「…私の周りは少々複雑で、いろんな思惑を持った大人が出入りしている。君は篠原が連れてきたのだからそういうこととは無関係の人間なのだろうけれど、周りはなかなか認めない。だからこうやって二人きりになりたかったんだ」
ようやく叶ったよ、と言わんばかりに若様は満足げだ。
彼がどういう大人に囲まれているのかはわからない、けれどそのなかで息苦しい思いをしていることはわかる。
俺は言葉を選びながら口を開いた。
「…自分は、若様がどういうお立場の御方なのかは存じあげません」
「うん、それでいい。それがいい。イチは私の友人でいてくれ」
若様の願いに俺は頷いた。
そうしていると雨が降る中、乳母が傘を持って戻ってきたのだった。







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解説
斉藤の過去についてはもちろん創作です。

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