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わらべうた



527


数日後、いつも通り藩邸の裏口から出たところで世話役の篠原に出会った。その不遜な態度で偶然ではなく待ち伏せをしていたのだろうということがわかる。
篠原は不機嫌そうな顔を隠さず報告した。
「梶谷という青年には金を渡して黙らせた」
「…」
任務のことを梶谷に知られてしまった件はすぐに篠原に報告していた。篠原は怒り、俺を任務から外そうとしたが若様が止めた。
『イチを辞めさせるなら、私にも考えがある』
普段は温厚で感情の起伏がない若様だからこそその脅しは効いた。篠原は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも「わかりました」と引き下がったのだ。
「本来ならお前に責任を問うているところだが、若様のご命令なら仕方ない。…ただ二度とは許さぬ。より一層警戒して任務に当たれ」
「…ありがとうございます」
「お前に礼を言われる筋合いはない。…それから、若様との会話も許可する」
「!」
「これは乳母の千代殿からの進言があったからだ。若様がお前と二人きりになり会話をするために、しきりに千代殿や女中を遠ざけておられる。しかし若様は病弱な身…御身に何かあった時に困る、とのことだ」
篠原は腕を組み直し、わざとらしく「はぁ」とため息をついた。
「…お前のような下賎な者を若様に近づけるのは本意ではないが…しかしあまり機嫌を損ねるわけにはいかぬ。何が気に入られたのかはわからぬが、ぐれぐれも余計なことは口にせぬように」
「一つ…お尋ねしたいことがあります」
「何だ」
「…本当に若様は、紀伊の若様…つまり次期将軍候補、なのでしょうか」
「…」
この邸宅が紀伊藩邸なのだとすれば若様の正体は梶谷の言う通りなのかもしれないが、俺は彼の下世話な話を鵜呑みにしたくはなかった。
(せめて自分で確認をしたい…)
そんな俺の問いかけに篠原は少し視線を外した。いつも率直で口が悪い彼に迷いが見えた。
しばしの逡巡の後、篠原は答えた。
「…確かに、若様は紀州藩十三代藩主徳川慶福様である。そしてお前の言う通り若様の周囲には将軍に推す思惑を持つものが多い…。しかし、私は若様の近習役にすぎず、お前も若様の『犬』。これ以上出過ぎたことを口にするな」
篠原から告げられた重々しい名前は、予想通りではあったもののそれが現実だと思うと俄かには信じられない。俺は改めて住む世界の違うお方なのだということを実感した。
篠原は「今聞いたことは忘れろ」と命令したが、もとより若様の事情に踏み込むつもりはない。
「わかりました」
俺は聞き分けの良い返事をして篠原を満足させた。


俺は若様の正体を知ったがその事実は心の奥底に留め置いて、若様の『友人』として接するように努め、その結果自然と距離を縮めることになった。
病弱な若様は、一日の半分は部屋に篭り乳母の千代の加護を受け、もう一人養育係である浪江(なみえ)という女性から歌や儒教を学ばれる。それ以外は勇ましい武芸などは目もくれず、女中とともにあやとりや双六など女子が嗜むような遊びをして過ごしていた。
そんなある日、いつものように裏口から庭を通り抜けると若様のお姿がない。すると乳母の千代に招かれて俺は初めて縁側から若様のお部屋に入った。
若様は寝込んでおられた。千代によると軽い風邪だそうで、今は話し相手を欲しているらしい。
「くれぐれもご無理をさせませぬように」
千代に釘を刺されながらも、俺は若様の側で膝を折った。
「イチ」
嬉しそうに笑う若様の頬は少し赤く火照っている。
「すまない。イチに風邪を移してしまうかもしれないとわかっているけれど、呼んでしまった」
「…構いません、自分の身など」
「『友人』に風邪を移して平気ではいられないよ」
「…」
若様は俺のような遥かに身分が下の者に対しても穏やかで心優しい。しかしその一方で『友人』というものに固執しているように感じられた。優しく手厚く扱わなければいなくなってしまう…そんな恐怖の裏返しのような。
(そんなことをご心配されなくとも良いのに)
俺とは違い、若様の温厚な性格なら誰にでも好かれるが、けれど若様には理解できないだろう。広いこの邸宅の片隅の世界しかご存じないのだ。
若様は横になられたままいつものようにあれこれと話し始めた。
「少し咳と嚔をしただけで千代から床から出るのを禁じられてしまったんだ。昔から千代は大げさで困る。…退屈で仕方ないと浪江に訴えたら、物語を聞かせてくれた。まるで幼子のようだが、不思議と心地よかった」
「…そうですか」
俺は相槌を打ちながら、自分自身にはそのような体験がないことに気がついた。母は無口で無愛想な幼少の俺に物語を読み聞かせようなどという発想はなかっただろうし、それくらい可愛いげのない子供だったのだということは自覚している。
若様は続けた。
「『源氏物語』の『蛍』を読んでもらった。イチは知ってる?」
「いえ…自分はそういうものは、全く」
「そうだね、『源氏物語』なんて女子の読み物だ。…源氏は自分の養女にした玉鬘に恋心を寄せながら、他の男との仲を焚きつけるような悪戯をして玉鬘は困ってしまう…そういうお話なんだけれど、その源氏の気持ちは私にはよくわからない。沢山の女に想いを寄せるなんて不誠実だし疲れると思う」
「…」
若様らしい意見だが、俺にはなんと答えていいのかわからずそのまま耳を傾けた。
「でもその中に、源氏が玉鬘に想いを寄せる男を呼び出して、几帳越しに対面させる場面があるんだ。源氏は玉鬘の後ろに控えて蛍を放つ…その仄かな明かりで玉鬘の横顔が少しだけ照らされてその美しい顔立ちにさらに男は想いを寄せる…」
若様は目を閉じた。
「…私は生まれてからほとんどこの藩邸から出たことがないから、知識として蛍は知っているけれど実際に見たことはない。…だから想像するだけだけれど、小さくて淡い灯りが飛び回る…とても幻想的で美しい光景なのだろうと思うんだ」
目を閉じて恍惚に浸る若様は、その瞼の裏にどのような景色を想像しているのだろう。
(俺にはきっと想像すらできない)
若様が心踊るような物語も、俺にとっては他人事のように受け取ってしまう。蛍を見たことがない若様は部屋に放たれた淡い光を見て喜ぶだろうが、俺は同じように喜ぶことはない。
誰もが、俺とは違う人間だ。けれど若様はその誰よりも遠くにいるような気がする。
(それなのに、どうして俺はここにいるのか…)
何故俺を『友人』だと思えるのか。
「イチ、どうしたの?」
「…いいえ、何も」
若様はいつのまにか目を開けて、俺を見ていた。微熱のせいで潤んだ瞳のせいでいつも以上に幼く見える。
吸い込まれそうだ。
「イチ、何か聞きたいことがあるのでしょう」
「…」
「今は千代も浪江もいない。私に答えられることなら、なんでも答えるよ。イチに隠しごとはしたくない」
『友人』だから。
まるで枕詞のように若様は繰り返す。しかしその言葉に頑なな気持ちが解きほぐされていくのもまた事実だ。
俺は慎重に口を開いた。
「…若様は、この先も実際に蛍をご覧になることはないとお思いですか」
「…?」
「蛍など、外に出ればいくらでも見ることはできます」
川辺に足を運べば、蛍の淡く脆い光をいくらでも目にすることができる。しかし若様はこの広くも狭い檻のような場所から出ようとはしない。望むことすら恐れているように見えたのだ。
若様は俺の問いかけに対して少し驚いたような表情を浮かべた。だが次第に言葉の意味を噛み砕き、飲み込み、「ふふ」と穏やかに笑った。
「イチがそんなことを聞くなんて思わなかったから驚いてしまった」
「…申し訳ございません。気分を害されたのなら…」
「いや、いいんだ。…イチは私のことを心配してくれているんだね」
聡明なお方だ。俺の遠回しな問いかけの意味をもう察してしまったのだ。
若様はゆっくりとお身体を起こした。そして俺を真っ直ぐ見つめた。
「…私は生まれてすぐに養子に出され家督を継いだ。藩政は側近たちが思うままにしたから、私は飾りのような存在だった。だから生まれながらに将来のことは自分で決められない運命なのだと悟ったんだ。…この先も、それはきっと変わらない。私の人生は私のものではない」
「…」
「私が推されるのは、大樹公との血筋が一番近いという理由だけだ。私よりも年上で聡明と噂の一橋殿の方が相応しいのに…本当はこんな面倒なことになって申し訳なく思っているくらいなんだ」
若様が半分は誰をも羨むことなく心の奥底からそう思っているのがわかる。しかしもう半分は諦めから出た言葉だろう。
「私はきっと誰かに望まれる場所で生きていく運命なのだろう。だから自由に外を出歩いて蛍を見ることなんてきっとできない」
「…」
悲観する若様に何を言えばいいのか、俺にはわからない。けれど若様は俺をみて微笑む。
「…私はイチの目が好きだ。最初に会った時から私のことを知ってしまった今でも変わらず、恐れずしがらみもなく曇りなく、真っ直ぐ見つめる」
「それは…自分の悪いところです」
家族にも周囲の人間にもそして自分にも心を許すことができない。それ故に無意識に牽制し、怒らせ悲しませ遠ざけてきた。
しかし若様は首を横に振った。
「違うよ。イチは強いから、目を逸らさないんだ。世の中を遮断し内に篭り逃げ続ける私とは違う…。だから本当はきっと私と出会うことはなかった。ふふ…今の立場でなければイチと出会えなかったのなら、この幸運に感謝したいくらいだ」
「若様…」
若様は俺の手に触れた。細くしなやかで温かなぬくもりを感じた。
「私にとって蛍よりもイチの方がとても尊いものに思える。…だから、今は何も望まないんだ」
若様の声は寂しく俺の鼓膜を揺らす。
部下がいる、乳母がいる、女中がいる。俺よりも沢山の人に囲まれているのに、それなのに孤独を感じていた。それは誰もが『次期将軍』として若様を見ているからだ。誰も彼も本当の若様を見ていない。
だからしがらみのない俺を『友人』だと繰り返す…そんな孤独な若様を守りたいと思った。
(俺はこのお方に…忠義を誓う)
俺は若様の手を握り返した。
『友人』を所望する若様には不本意かもしれないが、生来『友人』など居たことがない俺にはその方がわかりやすかった。
何があっても、この手を汚すことがあっても、若様を守ろう。
その誓いは深く、胸に刻まれた。


けれど時は止まることなく、流れ続ける。変わらなくて良いものを変えてしまう。
大樹公がお亡くなりになったのだ。






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解説
なし

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