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わらべうた



528


安政五年、十月。
大樹公が亡くなったことで、俺と若様は突然面会を遮断された。
「任務は終わりだ」
いつも以上に不機嫌な篠原から一方的に告げられ、納得はできなかったがその篠原さえも近習役を解かれ若様にお会いすることはなかなかできなくなったらしい。そして若様もまた益々自由のない生活になってしまった。
「お立場が変わるのだ。仕方あるまい」
「…」
若様はこれから弱冠十三というお歳で将軍の座に就任される。想像のつかないことだが、若様はますます遠くへ行くことだけはわかった。
「これは謝礼だ」
篠原から渡された金はズシリと重かったが、若様との時間を換金されたような気がして俺は一銭ももらわずさっさとその金を父に渡した。姉の嫁入り道具の資金になるのだろうが、構わなかった。
そして俺は再び元の生活に戻る。家と道場を行き来する静かな生活へ。
(手の届かない御方になってしまった…それだけだ)
俺は自分に言い聞かせた。
お立場が変わったからと言って、すべてを忘れてしまうような御方ではない。そして俺の心に灯った若様への『忠義』が消えるわけでもない。
けれど、
(ただ、もう一度お会いしたかった…)
お立場上いつかこんな日が来るとは分かっていたが、別れを言えないままなのが心苦しかった。特別な感情で俺のことを『友人』だと繰り返していた若様も同じように思っているに違いない。若様は悲しんでいる…俺はそのお側にいることさえできない。
そんな悔しさに心をかき乱され、その苛立ちは必然的に剣に伝わった。いつも以上に気迫のある稽古の相手をできるのは先生くらいで、梶谷やその子分たちは遠巻きに見ているだけだった。
打ち込み稽古を終えると、先生が声をかけてきた。
「どうした、山口君」
「…別に」
「別に、ということはないだろう。いつも冷静沈着な君がまるで人を殺すような剣を振るっていた。…何か理由があるのだろう?」
「…」
温厚で中立的な先生のこのお節介のような気遣いが今は癇に障った。
「放っておいて下さい」
冷たく言い放つが、先生は「汗を流そう」と宥めるように俺を道場の井戸へと誘った。
井戸には稽古を終えた門下生たちが集っている。『井戸端会議』なんて言葉は女のものだと思っていたが、ここへ来るといつもその認識を改めなければならないと思う。
「紀伊の慶福様が次の将軍だろう?」
「一橋様が優れた方だと聞くが、血筋を東照神君まで遡らなければならぬらしいな」
「異国に狙われている今、血筋など関係あるまい!」
「俺も一橋様が相応しいと思う」
「慶福様はまだ十三ではないか」
好き勝手な議論が交わされている。昔の俺なら気にも留めなかったが、若様と出会ってしまった今では自然と彼らを睨みつけてしまう。
(相応しくないなどと、勝手なことを…!)
若様は慈悲に溢れた方だ。無口で無愛想な俺にすら優しく手を差し伸べ『友人』だと言った。そんな若様にとって将軍職は確かに重荷かもしれないが、それでもこの国を良い方向へと導いてくださると確信できる。
「山口君、顔が怖いよ」
「!」
先生に指摘され、ハッと我にかえった。気がつけば井戸を囲っていた門下生達がこちらに気がついていて、俺の剣幕を見るや逃げ出すように去ってしまう。そして井戸は無人となった。
「はは、都合がいい」
先生はそんな風に笑いながら桶を引き上げた。
「しかし君は南紀派だとか一橋派だとかそんなことに興味がないのだと思っていたが、そうでもなかったのか?」
「…今でも興味はありません」
数ヶ月前に若様は大樹公の世子と決まり、今更立場がひっくりかえるようなことはないだろう。俺は門下生達の輪に入り議論を戦わせるつもりはさらさらなく、ただ若様の行く末を案じているだけだ。
先生は手拭いを濡らし、俺に渡した。
「興味がない…その一言で済ませられれば良いが、いまこの国は危機に晒されている。私などは歯痒さを感じるな」
「…この国がどうなろうと、関係のないことです」
「あまり無関心なのもどうかと思うが」
「若輩の自分にできることなど何もありません」
己の無力感などすでにひしひしと感じている。俺はあの藩邸の扉を乗り越えて、若様に会いに行くことすらできないのだ。
けれど先生は「そんなことはない」と笑った。
「君のその剣があれば、この世界を変えることはできる」
「…」
その時、俺はその言葉の意味を理解することはできなかった。

その日の夕刻、道場を出た。
むしゃくしゃした思いを素振りに込めたが、未だに靄は晴れないままだ。いつかこんな思いも無くなるのか…それが待ち遠しいような苦々しいような複雑な気持ちだ。早く解放されたいが、その方法はわからない。
夏が過ぎ、秋が訪れようとしている。日に日に昼が短くなり、太陽がその姿を隠すのも早くなって行く。
俺は足早に帰路に着く。すると俺を引き止める小さな声が聞こえた。
「イチ」
「…」
俺は空耳だと思った。ついに俺の願望が幻聴になったのだと呆れた。俺のことをそんな風に呼ぶのはたった一人だけで、この場におられることはないのだ。
けれどもう一度「イチ」と今度ははっきりと聞こえた。俺が周囲を見渡すと物陰に身を潜め、顔を隠すように頭巾を被り手招きする姿があった。
「…若様…!」
俺は驚いて駆け寄った。
「なぜこのようなところへ…!」
俺は混乱しながらも、誰かに見つからないように若様を狭い路地に誘導した。
若様は頭巾を取りながら、まるで悪戯が成功した子供のように満面の笑みを浮かべていた。
「篠原に頼み込んでようやく屋敷を抜け出すことができた。たぶん彼は遠くで見守ってくれているはずだよ、だから安心して」
「…な…」
「篠原は私にとても優しいんだ」
俺は幻でも見ているのかと思ったが、若様は確かに目の前にいる。
いつも俺に対しては冷たい態度を示してきた篠原がどういう気持ちで若様を連れ出したのかわからないが、ああ見えて若様への忠誠が厚い男なのかもしれない。
俺は若様の前に跪いた。
心よりも体の方が素直だった。若様に再会できた喜びで足先が、指先が、震えていたのだ。
そんな俺を若様は優しく見下ろす。
「…篠原に頼んだんだ。もう一度だけでいいからイチに会わせてほしいと」
「もったいない…お言葉です」
「イチにお願いがあるんだ」
「何なりと」
俺は即答した。厳重な警備が敷かれているなか危険を顧みずここまで来てくださったのだ。たとえ命の危機があったとしてもその御望みを叶えたい。
けれどそれはあまりにも和やかな望みだった。
「蛍が見たいんだ」
「え…?」
「前に源氏物語のことを話した時に、イチが『外に出ればいくらでも見られる』と言ったでしょう。…私はこれからますますこうして外に出ることが難しくなる。だからその前にイチと一緒に蛍が見たいんだ」
「…」
若様は十三の年相応に目を輝かせていた。若様が俺ごときの言葉を覚えていてくれたことに喜びを覚えたが、それと同時に俺自身の言葉不足を申し訳なく思った。
「若様、申し訳ございません…蛍は今は見られません」
「どういうこと?」
「夏の前にはたくさん見られますが…今は…」
季節は秋に移ろうとしている。山奥へ足を運んだとしてもその姿を捉えることはできないだろう。
俺の返答を聞いて若様は最初はぽかんと呆けていらっしゃったが、次第に笑いだした。
「はは…!あはは!恥ずかしいな。知識としては知っていると言ったのに、そんなことは知らなかった!」
「若様…」
「イチは悪くない。私が勘違いをしたんだ」
若様は気分を害された様子はなく、それどころかかつて見たことがないほど弾けたように笑い続けていた。
(これが本当の若様の笑顔なのだ…)
囚われた鳥かごで囀る小鳥ではなく、開け放たされた自由という空のもとなら、こんなにも無邪気で天真爛漫なお方なのだ。朗らかな彼に見守られる民が不幸になるわけがない。
(将軍に相応しい…)
「…若様、宜しければ自分に案内させてください」
「うん。でもどこへいくの」
「自分にとって、大切な場所です」
そんな曖昧なお誘いに若様は
「行こう」
とすぐにお答えになれた。





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解説
なし

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