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わらべうた



529


俺は人目を偲びながら若様を引き連れ、江戸の町を抜けた。幸いにも陽が落ちてあたりに人気はない。田畑を抜け小道を進むと背の低い小山が見えてくる。
ここまで四半刻も歩いていないが若様は既に息切れをしていた。
「若様」
「大丈夫だよ」
気丈に返答されるが、ただでさえ慣れない外出をされたのだ、身体に何かあってからでは遅い。
「…若様、どうぞ」
無礼かとも思ったが俺は背中を差し出した。若様は少し拗ねたように拒んだ。
「イチ、大丈夫だって」
「この先は階段が続きます」
「階段…」
「この山の上までです」
「…わかった」
若様は不服そうだったが見上げた階段の途方も無い高さに根負けし、俺の背中に身を預けた。
軽く細いお身体だった。こんな小さな身で国を背負われることになるのかと思うと同情を禁じ得ない。俺がそんなことを考えている一方で若様は、
「イチは私と一つしか年が変わらないのに、こんなにも背中が大きい」
と楽観的に言いながら、先ほどまで嫌がっていたのにさらに身を預けた。
俺は若様のあたかな体温を感じながら埋もれた石段を登り、荒れ果てた境内にたどり着いた。
「静かな場所だ」
俺の背中から降りながら、若様は周囲をキョロキョロと見渡した。かつては人々の信仰を集めていたとらしき神社だが、雨風にさらされ草木に覆われ鬱蒼としていて見る影もない。不気味な静けさと闇に包まれているが、若様は怖がる様子はなく物珍しい光景に興味津々なご様子だ。
「若様、こちらへ」
「うん?イチ、ここは…?」
暗い境内のなかで光が差し込むようにポッと明るい場所がある。俺は若様をそこへ案内した。
すると若様は「わぁ!」と声をあげた。
「なんと美しい…!」
そこに光が差し込むのは手入れのされていない鬱蒼とした樹々が、不思議なことに輪になっていてぽかんと空いたその穴から夜空を眺めることができるからだ。特に今夜は風が冷たく空気が澄んでいて星がはっきりと見える。
「ここは幼少の頃見つけた自分の隠れ家のようなところです。ご所望の蛍の代わりにはなりませんが…」
「屋敷で見る星とは全然違う!こんなに眩しいのははじめてだ…!」
若様は歓喜の声をあげながら夜空を見上げ、両手を伸ばす。輝く星を掴むようにつま先立ちされる姿は無邪気な子供そのものだった。
「すごいなぁ…!イチは馬道良の絵図を見たことがある?」
「ありませんが…」
「五十年以上前に書かれた天体図絵なんだ。西洋ではこの星一つ一つの配置が図絵になっていると考えられている。魚、羊、牛、蟹、女子…西洋の人馬なんてものもある。私は屋敷でそれを睨めっこしながら探したけどわからなかった。でも、こんなに美しく鮮明な今なら分かる気がする!」
この満天の星をみて同じような感想を口にする聡明な者がどこにいるだろう。若様の見識の広さには浅学の俺には理解が及ばないが、いつもわかりやすくお話ししてくださるのだ。
若様はしばらく興奮気味に星を眺めていたが、次第に落ち着かれた。
「…イチ、ありがとう。私はイチに与えてもらってばかりだ」
「若様…」
「そう呼ばれるのももうお終いになる。『徳川家茂』…それが私の名前になるらしい」
若様は他人事のようにおっしゃったが、それは無関心でも謙遜ではなく本音なのだろう。生まれながらの後継ならまだしも、誰しも自分が世を統べる将軍になるなど思っていないのだ。誰よりも若様自身が。
若様は俺の方へ体を向けられた。
「本当はイチにお別れを言いに来たんだ。短い間だったけれど本当に楽しかった」
「…」
「それから…嘘をついていたことを謝りたい」
「嘘…?」
俺には身に覚えのないことで寝耳に水だったが、若様は神妙な顔で俺を見た。
「はじめて言葉を交わした時『イチ』は死んだ犬だと伝えたけれど、そうではないんだ。本当は…私を幼少から知っている心優しい臣下だった。誰よりも忠義に厚く…いや、あまりに厚すぎて、周囲から『忠犬』というあだ名をつけられていた」
若様は少し苦笑したが、すぐに表情を落とされた。
「でも『イチ』は死んでしまった。面倒で複雑な事情があって私を邪魔だと思う者から私を守るために、身代わりで死んだ」
「…」
「『イチ』が死んだことが悲しくて寂しくて、私は篠原に頼んだ。面倒ごととは無関係で、剣が強くて絶対に死なない…『イチ』に似た者を連れて来て欲しいと。そうしたらイチが私の目の前に現れたんだ」
「…似ていましたか?」
「とても。もっと年は上だったけれど…よく似ていた。こんなにそっくりなイチを探してくるなんて篠原はとても優秀だ」
若様は俺の前で膝をついた。俺と同じ目線で語りかけた。
「だから、今度こそ私を守る『忠臣』はいらない。そんなのいくら命があっても足りないのだから。…欲しいのは『友人』なんだ」
「…そのような立場は自分には勿体ないです」
「そんなことはないよ。私たちは沢山のことを話したじゃないか」
若様は俺の右手に、両手を添えた。夜の寒さで冷えていたのに、俺よりは温かい。
「…もう会えないのかもしれないけれど…でも私はずっとイチのことを『友人』だと思っている。きっとこれから夜空を見上げるたびにイチのことを思い出すだろう」
「…っ」
俺は言葉を失った。若様の温かいお言葉に何を返せばいいのか俺には全く検討がつかなかったのだ。
生まれながらに感情に乏しかった俺は身の丈以上の喜びを得てまさに感極まった。だがその感動や感謝を伝える言葉がうまく出てこない。だから俺は若様の手を握り返した。言葉にはできないが、俺の感激が伝わるはずだ。
そして喜びの一方で、このあとにやってくる別れが経験したことがないほどの寂しさを俺に与える…そんな悲しい予感だけを感じていた。
ーーーその時だった。
ガサガサッと草の茂みが音を立てた。俺は咄嗟に若様を背にして立ち上がった。その音は動物の類が立てる音ではない。
「イチ…?」
「若様、どうかこのまま…」
俺は声をひそめると若様もうなずいて返した。その足音はゆっくりと、確かにこちらに近づいてくる。
やがて月明かりに照らされてその姿が明らかになったが視界に入った途端、俺は驚きを隠せなかった。
「…先生…!?」
それは先生だったのだ。優しく時に厳しい先生は門下生から人気を得ているが、いま俺の目の前に現れた先生はまるで別人のように険しく剣呑な様子だった。
「何故…!」
「君をつけたからに決まっているじゃないか」
「!」
「梶谷君から聞いたよ。君が紀伊の若様と懇意にしているらしいと。…本当だったようだね」
(くそ…!)
梶谷の口の軽さと自分の愚かさを呪った。だが後悔している暇はない。
先生は抜刀していて、標的はもちろん若様なのだ。
先生は一歩一歩ゆっくりと俺たちに近づいてくる。俺は自分を盾にして若様とともにじりじりと後ろに下がったが、それもいつしか限界がやってくる。
「山口君、私は言ったはずだよ」
「何を…」
「『君のその剣があれば、この世界を変えることはできる』と。いま、そこにいらっしゃる若様を殺せば、この世は良い方向に変わるんだ」
俺はあの時の先生の言葉をようやく理解した。俺の将来に期待してくれた言葉ではなく、もっと即物的に若様を殺せば世情が一変することを示唆しただけだったのだ。
俺は苛立った。
「先生は…一橋派だと…!」
「そうだね。そこの年少の若様が将軍になるよりはよっぽどお国のためになる。きっと私は罪を免れないだろうけれど、この国のために死ねるなら本望だよ」
先生のどこかイかれた表情に俺は寒気を覚えていた。道場の片隅で激論を交わす門下生たちを笑って諌めていたのに、その本心ではもっと過激な思想に囚われていた。
「イチ…」
若様の心細そうな声が聞こえる。
(必ずお守りする…!)
俺は決意を込めて刀を抜いた。先生はそんな俺を見てせせら笑った。
「私を殺せるとでも?」
腕前が自分よりも上だというのはわかっていたが、時間を稼げば若様を見守っているという篠原が駆けつけてくるかもしれない。
「若様、このまま後ろにおさがりください」
「…でも…」
「自分に何かがあった時は、どうかお逃げください」
「イチ…!」
引き止めようとした若様を振り払うように俺は先生の前に立った。
月明かりの淡い光の中、刀が鈍く光る。俺は躊躇いを捨てて先生に打ち込んで行った。
真剣の鋭利な刃が重なり、その高音が鼓膜を揺らす。俺にとってはじめての経験だったが、そんな戸惑いに手を止めている隙はない。
「ヤァァァ!」
先生は何かに取り憑かれたかのように真っ直ぐに俺の命を狙った。彼との間にあったはずの情はすっかり消え失せている。
そんな先生に対して、俺も物怖じせずいつもとは違う感覚を覚えていた。
(なんとしてもお守りしなければならない…!)
すると身体中に炎が宿ったように俺を突き動かす。
俺と先生は互角に渡り合っていた。予想していた展開とは違ったのか、次第に先生に焦りが見え始め隙が生まれる。
先生は叫んだ。
「何故わからぬのだ!」
先生は五、六歩下がり俺と間を置いた。
「この国は危機に瀕している…!それなのにこのような幼子を将軍に据えるなど、馬鹿げたことだと思わないのか!」
「…そんなことは、俺にはわからない」
「貴様はいつもいつも…!わからないで済ませるつもりか!」
先生の怒号が響く。いつも穏やかに俺を諭していた心の奥で、そんな風にして嘲笑っていたのだろうか。
だが、そんなことはどうでもいい。
「俺は…どんな事情があれ『友人』を見殺しにすることなどできない」
「…はっ『友人』、だと…?笑わせるな!」
思想に囚われ、若様をただの幼子と馬鹿にする彼に理解してもらおうなどと思ってはいない。
だが、それが紛れも無い真実だ。
俺と先生は睨み合う。
その張り詰めた緊張感の中、「何事だ!」と別の声が聞こえた。
(篠原だ…!)
先生の後ろで仄かな提灯が揺れているのが見える。
これで形勢は逆転する…と俺が油断した時、
「イチ!」
若様の声が聞こえると同時に、左肩に熱いものを感じた。
「ぐ…っ!」
篠原の姿に意識を取られその隙に左肩を斬られた。浅手だが思い通りに剣を握ることができない。
さらに先生は若様に向かって駆け出していく。
「若様…ッ!」
出遅れた俺は先生に追いつくことはできない。篠原もまだ遠い場所にいて、このままでは若様の身が危ない。
(一か八か…!)
俺は咄嗟に手にしていた刀を槍のように投げた。槍術の経験のない俺には賭けのようなものだった。失敗すれば若様を貫くことだってありえるのだ。
けれど、今はそれ以外の選択肢はない。
(どうか…!)
俺は願うように放ち、その賭けに俺は勝利した。
「ぐあぁぁ!」
俺の大刀は先生の背中側から右脇腹を突き刺し、そのまま若様の目前で突っ伏した。若様は青ざめた表情でその場に力なく尻餅をつかれた。
「若様…!」
俺は左肩を抱えながら駆け寄った。だが、先生もまだ諦めていなかった。
「ころす…ころす、殺す…!」
先生は這い蹲るように若様に躙り寄る。その狂気の沙汰としか言いようのない姿に若様は逃げることさえままならなかった。
「あ…あぁ…」
「死ね…!」
「若様ッ!」
俺は脇差を両手に持ち、先生に覆いかぶさるようにして馬乗りになると、両手を振り上げ先生の背中から心の臓へ突き刺した。
「ああぁぁあああぁ…!」
血が滝のように溢れ出る。俺自身だけではなくあたりは真っ赤に染めながら、先生は絶命した。俺がはじめて殺した屍…だがそんな感慨はない。
(若様を守れた…)
その安堵感に包まれて俺はゆっくりと息を吐き、若様を見た。
「わか…」
「…あ…」
若様は俺を見ていた。
目を見開き、唇は紫に染まっていた。
そう、まるで醜悪な怪物を見るように、恐れ、慄き…震えていた。
先生だった屍が横たわり俺は彼の血で汚れている。だが若様を恐れさせるのはそんなことではなくて。
(若様は俺が…恐ろしいのだ…)
仕方なかったとはいえ若様の方へ刀を投げ、若様の目の前で馬乗りになって先生を殺した…その光景が、若様の目に焼き付いたのだ。
「山口ッ!これは何事だ!」
ようやくやってきた篠原は凄惨な現場を見て、まず若様の前に立った。
「若様、見てはなりませぬ!」
「篠原…」
「山口、貴様、若様を危険な目に…!まさか貴様も一橋派と手を組んでいたのか?!」
「ち、違う、篠原…」
「説明しろ!」
若様は取りなそうとしてくれたが、篠原の激昂は当然だった。
身勝手な感傷でこんな人気のない場所に若様を連れ出し、危険な目に合わせてしまったのだ。自分に非があることはわかっていた。
俺は左腕を庇いながら、その場で土下座した。
「…申し訳…ございませんでした…」
「イチ…」
「全て自分の責任です。若様を襲ったのは自分の師匠で、一橋派に傾倒する者です。自分はそうではありませんが…若様にはお辛い思いをさせてしまったことは、弁明のしようもありません」
「む…」
全面的に非を認めたことで篠原の怒りは削がれたようだが、若様は未だに俺から身を隠すようにして篠原の背中で震えていた。
近づいたと思っていた距離が、遠のいていくようだ。
いや、近づくはずなどなかった。
(ああ…俺は夢を見ていたのだ)
次期将軍である若様と『友人』になれるという甘い夢を。
そして俺が若様を守れるはずだという勘違いをして。
(結局俺の中にいた、醜悪な怪物を若様の前に晒して怖がらせてしまっただけだ…)
俺はゆっくりと顔を上げた。
「…若様。ご安心ください、自分はもう二度と若様に会うことはありません」
「イチ…ちがう、私はそんなつもりは…」
「良いのです。本来の暮らしに戻るだけのこと…自分と若様はもともと『友人』などではありません」
「イチ!嫌だ…っ」
若様は必死に俺を繋ぎとめようとしてくれた。けれど若様が感じた『恐怖』は消えることなく、俺を思い出すたびに同時に湧き上がってくることだろう。
だったら俺は若様の前から消えるべきだ。恐ろしい記憶と共にもう二度とこの姿を若様にお見せしない。…それだけが、俺にできることなのだから。
俺はもう一度頭を下げた。
(だが…無かったことになどできない)
若様と過ごした時間を、日々を、もう無かったことにはできない。たしかにそこに在ったのだから。
だったら形を意味を変えるしかない。
「若様、自分は…若様に忠誠を誓います」
「…イチ…」
「どこにいても必ず…永久に、お守りします」
たとえ若様のお側にいられなくてもいい。だから、せめてそれだけは許してほしい。
『友人』ではない。せめて若様を守る『忠臣』…いや、『忠犬』で居させてほしい。
「イチ…」
若様は何も言わなかった。
そして篠原が若様を抱えるようにして去っていく。
彼らの足音が聞こえなくなった頃、俺は力が抜けたようにその場に仰向けに倒れこんだ。
若様が美しいと感嘆した星空が、俺には眩しすぎる。


それが別れとなった。







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解説
なし

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