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わらべうた



531


雨の日が増えた。
季節は着実に梅雨へと向かい、そのうち晴れ晴れとした夏の青い空がこの曇天を覆うことになるのだろうが、いまはそれが想像できない。
「お加減はいかがですか、近藤先生」
「うん、大分いい」
気丈な近藤はそう答えたけれど、持病である胃痛のため顔色はあまり良くなかった。
近藤を悩ませる原因は二つあった。
一つは間近に迫った三度目の長州征討だ。近藤は二度に渡って長州との交渉を試みたが失敗、ついには内戦へと向かっている。挙国一致で異国の脅威に立ち向かうべきだ、と考える近藤は端役に過ぎない立場ではあるが、そのことに心を痛めているのだ。
そしてもう一つは孝のことだ。彼女へ縁談を持ちかけて激怒させてから別宅には足を運んでいないようだ。深雪を亡くして、妹の孝と親交を得ることが心の癒しとなっていた近藤は、こっ酷く拒まれたことにショックを受けているのだ。
近藤は悩ましげにため息をついた。
「お孝はどうしているのだろう…」
「…おみねさんが仰るには、深雪さんを亡くされた時ほどではないにせよ、覇気の無いご様子だということでした」
「そうか…なあ、総司、俺が縁談を持ってきたことがそんなにお孝を怒らせるようなことだったのだろうか?」
「それは…」
正直、総司にもよくわからなかった。
縁談についてはまだ時期尚早だとは思ったけれど、孝にとって悪い話では無いはずだ。それなのに、
『ようわかりました。うちのこと邪魔やて思うてはるってこと』
と青ざめた表情で近藤に激怒していた。深雪と違って我の強い孝は自分の行く末について勝手に決められたことが癇に障ったのかもしれない、とその時は思ったが、今は違うような気がする。
(近藤先生に捨てられるって…そう思ったのかな…)
深雪を妾にした近藤について孝は前々から良い感情は持っていなかったはずだ。
考えているうちに頭が混乱してきた。
(僕はそもそも女子の気持ちはよくわからない)
「土方さんなら…わかるかもしれませんが」
「…」
近藤は渋い顔をしたが、以前は土方の名前を出すだけで不機嫌そうにしていたので幾分かマシになったようだ。
「…あの、近藤先生。そろそろ土方さんと仲直りされてはいかがですか?」
「しかし…」
「もちろん先生のお気持ちは理解しているつもりです。深雪さんの喪が明けないうちにお孝さんを妾に…だなんて極端だし、不謹慎なことかもしれません。でも土方さんは土方さんなりに、近藤先生にとってお孝さんが必要だと思ったからそう言ったんだと思います」
「必要?」
「今も、お孝さんのことをご心配になられているじゃないですか」
それが色恋の情愛ではないにせよ、深雪の妹への慈愛はあるはずだ。土方が「妾に」と言ったのは極論かもしれないが、互いを慰め合う存在として側に置いていてもいいのではないかという提案だったのだろう。
近藤は少し息を吐いて、呟いた。
「…本音を言うと、お孝にはもう少しあの家で暮らしてほしいと思っているんだ。俺が彼女とともに深雪に想いを馳せる時間が、唯一の癒しだ。悲しみを思い起こすこともあるが、楽しい思い出で前を向くことができる。…だが一方で、早く嫁に出したほうがいいとも思う。深雪はともかく、俺や新撰組のことなんて忘れて関係のない場所で幸せになってほしい。それもまた本音だ。だがら、側にいてほしいなんて思うのはそれは俺の独りよがりな我儘だろう?」
「それは…お孝さんに聞いてみないとわかりませんが」
「うん。だが、歳はたぶん俺の我儘を見抜いていたんだな。あいつは昔から女関係にことには鋭い…」
近藤は「ふっ」と口元に笑みを浮かべた。昔の幼馴染の恋愛ごとを思い出していたのだろう。
「お前の言う通りだ。こういうことは歳に相談しよう」
「そうしてください。私じゃまったく力になれませんから」
「それもそうだな!」
土方はよく、近藤と総司を似た者同士の師弟だと言っているが、全くその通りだ。
総司は久し振りに吹き出して笑ったのだった。



久し振りにくしゃみが二回出た。
「お風邪ですか?」
「いや…」
「二回連続なら誰かが噂しているということでは?」
鬼副長である土方のことを噂しているものなど数え切れないほどいるだろう。気に病むことではない。
だが、こんな軽口を聞くことができるのは試衛館食客たちと目の前の男くらいだ。
「ご苦労だったな、山崎」
今日は、元監察でありいまは医学方を勤める山崎との半年以上ぶりの再会だった。彼は一度目の廣島行きからずっと長州に潜伏し、伊東の動向を探っていた。
「やっぱり監察の方が性に合ってるような気ぃがしました。表を堂々と歩くのが気恥ずかしくて」
「俺もお前は監察方が向いていると思うが」
「分かってます、都では顔が知られすぎました。今回のような遠征でしたらお力添えできるかと思います」
「その時は頼む」
土方は試衛館食客たちとは別の意味で山崎に信を置いていた。彼が壬生浪士組時代以来の同志と言うこともあるが、彼を入隊させた時から地理に詳しく機転に富んだ彼を重宝してきた。山崎もまた責任感を持って仕事をこなしてくれている。
山崎は懐から折りたたんだ報告書を差し出した。
「全てはこれに書いてある通りです。参謀は前回の廣島行きで何らかのツテを得ていたようで、各藩と接触を図っていました」
「西国なら新撰組など門前払いになるだろう」
「そういうこともありましたが、あの美貌と雄弁な語り口やから…本気ではないにせよ耳を傾ける者もちらほらと。具体的な成果はわかりまへんが、顔を売ることには成功したのではないかと思います」
「…ゆっくり読ませてもらう」
土方は報告書を自身の懐に入れ、話を切り上げた。誰が聞き耳を立てているのかわからない屯所で伊東に関わる話題を続けるのは危険だ。
「それで、大石はどうだった?」
「至って普通でした。いや、普通ゆうのは語弊があるかもしれまへんが、淡々といつも通り」
「ふうん」
大石鍬次郎は数ヶ月前、屯所内で同志を斬りつける騒ぎを起こした。そこには弟の死がからんでいたのだが、切腹を言い渡さない代わりに近藤の提案で廣島へ同行させていたのだ。
山崎は苦笑した。
「ただ敵地に乗り込んで淡々としているというのも、肝が座っていると言うか…怖いもの無しゆうことですかね」
「…」
大石は一連の騒動を経て己の命について無頓着になっている。いつでも投げ出せると思えば敵地でも怯むことなく任務の遂行ができたのだろう。
「監察に向いていると思うか?」
「はい、それはそうかと」
「わかった」
山崎が言うのなら確かなのだろう。土方は大石を監察に残すことにした。
「そういえば松本先生にご挨拶に行きましたが、残念ながらお留守でした。なんや大坂城へしきりに足を運ばれているそうで」
「大樹公のお身体の具合が宜しくない…というのは、噂ではないようだな」
「長州征討は六月で決まりだと耳にしました」
「六月…」
それは土方の知らない情報だったので驚いた。つくづく監察として優秀な男だ。
だがそれを聞いた途端、土方のなかで何か嫌な予感が湧きたち、渦巻いた。
(悪い予感ほどよく当たる…)
誰よりもそれを知っている土方だったが、それが何に起因した不安なのかはわからない。
「何か?」
山崎が目ざとく尋ねてきたが彼の前で曖昧なことを口にするのは憚られ「いや」と短く返した。
そうしていると、障子の向こうから「土方さん」と呼ぶ声が聞こえた。土方が応えると総司が顔を出した。
「あ、山崎さん。戻られていたんですね、ご苦労様です」
「へえ、先生もお元気そうで。じゃあ俺はこれで失礼します」
山崎は軽く頭を下げると腰を浮かして部屋を出ていった。交替するように土方の前に座った総司はなんだか嬉しそうにしている。
「なんだよ。山崎に会えたのがそんなに嬉しかったのか?」
「いいえ。ご無事に戻られて良かったとは思いますが、そうじゃなくて。…土方さん、近藤先生がお話があるそうですよ」
「話?」
近藤とはしばらく距離を置いていた土方には寝耳に水だったが、総司は口角を上げっぱなしなので悪い話ではないのだろう。
「…で、どこに行けばいいんだよ」
「甘味屋です」
「またかよ…」
土方はため息混じりに立ち上がった。そして遠い昔も同じように甘味屋で仲直りをしたことを思い出した。






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解説
なし

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